日曜日、教会で入信の秘蹟。その後、母の三回忌なので皆で墓参り。弟が気を使って、今回は墓参だけということになったみたい。それが本当に母のためになっているのかどうかはわからないけど・・・
月曜日で、娘のデッサンの春期講習が終了。残りの春休みで少し美術館を回る。今日は東京芸大へ行ってみたいというので、上野へ行ったが西洋美術館でルーブル展をやっており、隣の恐竜展とあわせると、誰かがディズニーランドみたいと言っていたが、想像以上に混雑していた。桜も咲き始めたので、そのせいもあるのだろうか。
ちょうど公園での炊き出しがあるみたいで、3列に座って食事を待っている人たちがいた。昔のホームレスの人たちとはずいぶん違う。こざっぱりとしていて、地下鉄の構内で寝ている人もいなかったし、公園のゴミ箱を漁っている人もいない。運動会のときの保護者の参加レースのような雰囲気できれいに並んで座っていた。
あまりにも人が多いので、ほかの施設を回るのは中止し、実際、芸大美術館は休館日だったし、そのまま根津にぬけて御茶ノ水へ出た。丸善やレモンへ立ち寄ったが、こんなに狭かったかと思うくらい狭く感じられた。参考書でも買おうと思って今度は三省堂へ行き、ランチを食べ、結局何も買わず水道橋から帰宅。つくばの無意味な広さに慣れているせいか、都内はやたらとすべてが狭く感じられた。
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この本は、地元の本屋さんでたまたま見つけて買った。面白かったので、すぐに読み終わった。が、しかし、読まなければよかった、という気がしなくもない。イエズスがユダヤ人としてどのような生活をしていたのか、とか、聖書のことばの生活臭とか、ユダヤ人としての生活習慣や民俗学的考察からイエズスや弟子のことばや行動を紐解いている。
わかりやすいけれども、人間的で、ドラマ的で、どろどろとしていて、ある意味、泥水でも飲まされたような気すらする。近頃では水道水ですらそのままでは飲めなくなったわたしとしては、2000年前の生活を理解しようとしても難しい。生きたイエズスを理解しようとして、2000年前の生活を現代でそのまま実行しようとしても現実味がない。
荒野で弟子達と食べものにも不自由しながら生活するイエズスの姿をホームレスに喩えているのだけど、今日上野公園で並んでいた人たちはあまりホームレス的ではなく、服装もきれいだし、10年前なら少しはイメージできたかもしれないが、あの人たちを初めてみた娘がこの本を読んだら、まったく違ったイメージを持つのかもしれないと思った。
つまり、観念がドラマに変化しただけで、実際のところなんとなくどうでもいいような・・・ イエズスのお誕生日が冬ではなく、ユダヤ暦での12月、つまり初秋くらいだったとしても、もともとが向こうの秋と日本の秋が同じではないため、わたしにはイメージできない。一つの家屋の中に人と家畜とが一緒に暮らしているとして、雑魚寝が普通の宿だったとして、つまり、馬小屋というイメージ自体が空想の産物だったとしても、それにどういう意味があるのかわたしにはわからない。磔刑で使われた十字架が実際にはローマ式のT字型だったとしても、最後の晩餐のスタイルが過越祭のスタイルで、隣がユダとヨハネだったとしても、少しイメージが違うというだけのことで、わたしにはどうでもよいことのような気がする。
ただ、こういうことがトリガーとなって、わたしはまたあれこれ読み始めた。バルバロ聖書は、まだシラの書だけど・・・(旧約聖書、長すぎ・・)
(ヨブ記 9. 14-24)