May 11, 2009

満月とウェハース

ちょうど読書に夢中になっているときのように、聖書を読んでいる。ようやく新約へ入り、マタイを読み終わったあたりで娘を迎えに外へ出たら、綺麗な満月だった。

黄色い満月を眺めながらドライブをしていると、何となく月が御聖体に見えてくる。御ミサでいただく御聖体は、どうやっても味のないウェハース。物質はどうやっても物質にすぎず、いまだにわたしには聖体拝領の意味がわからない。月を見ながら、そんなことを考えていた。

イタリアで月の出を見て以来、わたしは月を見ると神さまを思い出す。飛行機で窓を開けたときに見えた大きな白い満月。普通は空の上にあるのに、すぐ窓の外に見えたのが不思議だった。同じ空に浮かぶ太陽と月。右手に日没、左手には夜の月。言葉のない会話。

他愛もないことだけれども、神秘、という言葉があるのなら、神秘的な想い、というのはそういうときに感じるのではないかと思う。よくわからないけれども、神さまがとても近くにいるような感覚。空の月を食べたとき、実際には何も食べていないのに、何かを食べたような気がした。ウェハースが喉を通る感覚を思い出す。

***

預言書の解説を丹念に読みながら、新約聖書へ入ると、終わりの日というのはかのエルサレムの滅亡の日のことだったのか、という疑問が湧いてくる。わたしはこれから来るのだとずっと思っていたので、あんなに恐ろしいことが実際に遭ったのかと思うと、御聖体を飲み込んだときのような複雑な気分に襲われる。過去と現在が重複しているような感覚。まさしくドライなウェハースを飲み込むような感覚。

イエズスはエルサレムを見て泣いていたというけれども、そのときを見ていたのだろうか。過去は沈み、聖ことばは残り、沈殿物をかきまわさないように静かに水をすくう?

わたしは深く考えるのはやめた。

実際のところ、律法でいけにえを捧げるように書かれてあったとしても、わたしには無理だ。仮にわたしが当時の人だったとして、ユダヤ教に改宗したとする、でも、無理なものは無理。ということは改宗はありえない。

敷地いっぱいに車を詰め込んで、日曜日の御ミサのときは大変だ。早く行けばほかの人が帰るまで車を出せないし、遅れれば停める場所もないかもしれない。それでもテレビで観た電車の光景よりもましかも。電車の中だけではなく、上にも脇にも人がいっぱい。落ちたらどうするのだろう。それともお祭りだから、そういうものなのか。どこの国の光景だろう。忘れた。

人が集うって疲れる。

***

聖書を読んでいるうちに、イエズスの厳しいことばが少しも厳しく感じられなくなってくるから不思議。弟子たちも、イエズスのことばを聞いて、奇跡を見て、・・・・・一番不思議だったのは、最後の晩餐で裏切ることを告げられながらまるで何事もなかったかのような晩餐。その空気が不思議だ。ユダでなくても誰かがやらなければならなかったのだとすると、一番の貧乏くじはユダだ。預言書というシナリオはとても漠然としていて、誰もが理解していなかった。ミッション。

ミッション。

・・・・・眠くなる前に、つづきを読もう。

(ヨハネ 20. 7-10)

投稿者 Blue Wind : May 11, 2009 12:50 AM | トラックバック
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