February 28, 2006

【トラバ返歌】 雲に訊こう

知ることは 行の始めの たとえあり 知らんが為に我信ず
とんこつラーメン@爺の時事ブログ

伸縮の時代のなかにぽっかりと雲のゆくえを追い求めたり(しらいし)

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シーア派のほうが多いの??

その昔、わたしが高校生のとき、たしかイスラム教はスンニー派が多数派でシーア派は少数派だと習った記憶がある。教科書っていい加減・・・

イラクで選挙をやったらシーア派が勝った。つまり、多くの国民はシーア派。それを少数のスンニー派が支配していたため、フセイン政権が倒れたら一気に流れが変わる。フセインに弾圧されていたイラクのシーア派の人たちはイランに亡命していた。イランといえばホメイニ。

シーア派の人たちは弾圧されてきたため貧しい。豊富な資源の恩恵もなし。
それが一気に逆転すると、資源が豊富なのはシーア派の人たちとクルド人たちの住む地域。スンニー派の人たちの生活は苦しくなる。ましてやイラクが分裂したら終わり。

イラクのシーア派を見て、周辺の国々のシーア派の人たちが立ち上がる。

すごいな・・・
戦争というより、一種の宗教革命みたいになってきた。追い込まれたスンニー派の人たちが武力でシーア派を弾圧している。モスクまで破壊。無差別テロ。

イランを始めシーア派の人たちの反米感情は知っているけど、そのことを脇に置いて眺めれば、心情的にはシーア派の味方をしてしまう。信仰心が篤く、貧しい人たちが武力で虐げられて、信仰心のない人たちが聖戦を呼びかけている、というのはどうも・・・何かものすごい誤解があったような気分で、近頃のイラクのニュースを眺めている。

投稿者 Blue Wind : 02:57 AM | コメント (0) | トラックバック

【今日の短歌】 春の日は眠気ばかりがやってきて目の開くごとにこいぬは育つ

白石と呼ばれているかわが娘男の子詰める後ろの座席
長ジャケツ、ランドセル負い背の足りず遊び足りない放課後の道
穴あきの缶捨てられし道端は子ら多きゆえ悪意を感ず

春の日は眠気ばかりがやってきて目の開くごとにこいぬは育つ

たまに会う子らは育ちぬ面影をさがしてみても波間の光
あの道もこの道もまたなつかしく感じるような季節の終わり

投稿者 Blue Wind : 12:19 AM | コメント (0) | トラックバック

February 27, 2006

ドラマは複雑に

聖書はようやく列王の書上を読み終わり、下に入ったところ。

ソロモンの栄華。
かなり数字の誇張はあるにしろ、神殿が完成し、王宮が建てられる。遊牧民の生活では幕屋暮らしが普通なので、かなりそれまでとは生活が異なる。ソロモンの第一王妃がエジプトのファラオの王女というのがミソかも。

ファラオの王女のみならず、ソロモンには500人の王妃と300人のそばめがいたと書いてある。あるいは、1000人の妻とかね。かなりおおげさな気もするが、ソロモンの妻はいわゆる他国人が多い。このためソロモンはイスラエルの神から離れ、それぞれの妻たちのために別の神のための祭壇を築く。

ソロモンの死後、王国はイスラエルとユダに分裂し、戦争が始まる。ソロモンの子孫はユダ王国、それ以外の10部族でイスラエル王国。ユダの首都はエルサレム。最初のうちイスラエルの人々もエルサレムに巡礼をしていたが、それを禁じるためイスラエルの王は例の如く神のかたどりとして牛の像を2つ造り、それを祭る。しかも、レビ人に限らず希望者を祭司にし、祭りの日も勝手に決める。これにより、次第に王に対する厳しい預言が下る。

政教分離というか・・・なんというか・・・要するに、歴代の王たちが本来の神から離れることにより、厳しい預言が下り、その結果、王による預言者への迫害が始まる。しかも、偶像崇拝というのは後の悪魔崇拝にも似て、バアルというのが悪魔の王の語源なんだろうか・・・それくらい激しい対立が生じる。厳しい預言者は排除され、バアルの預言者集団まで出没する。

そして、預言者エリアの時代へ。

***

列王の書で初めて人間に悪さをする霊の話が出て来る。サタン。
人間が神を離れて悪いことをするのを懲らしめるためにやってきた。

モーゼの時代とエリアの時代はまるで異なる。シンプルなのはダビデの時代までで、それ以後、王と預言者との対立が深まっていく。

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【今日の短歌】 まったりと春の気配のたちこめる暗い朝には焦げたトースト

ソロモンの時代のようなオリンピア金のほかには値打ちなき色
マジックでいたずら書きをするようなお遊びなのか議員のあくび
皇室は要らないというわが夫にはいくつもの墓のしかかりたる
墓の数吾子にまわすかひとりっこ。無理だよなぁと洗礼を思う。

あざらしの顔からすこし犬の顔。おおあくびするこいぬの昼寝
まったりと春の気配のたちこめる暗い朝には焦げたトースト
父よりも母よりも顔あざらしに似てる気がするこいぬのテンは

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February 26, 2006

臨場感のある話

聖書はちょうどソロモンの時代に入ったところで停まっている。寝不足と外出が重なると仕方がない。いつも挫折してしまうのだけど、今回は通読が目標。なんとか桜の花が咲くまでに読み終えたい。

ソロモンの時代に入ると、いわゆる外交が活発になり、戦争や略奪よりも互いに平和に暮らしていたほうが国が栄えるということがわかる。今では当たり前のことのような気がするけど、当時としては画期的だったのだろう。

***

それにしても、残酷な時代だと思いながら聖書を読んでいたが、たまたま今日、敗戦後の満州の様子を聞いてきて、あまりにもリアルで泣ける。そのおばあさんはよく太って元気な人で、今ではまるで当時の面影はないけれども、当時の話となるとウルウルと泣き出し、語っていた。

敗戦後、満州に取り残され、いきなり匪賊が襲ってきて略奪されたこと、父親が連れ去られて血まみれで帰ってきたこと。当時は男性はそうやって誘拐されて縄で縛られ殺されてしまった。たまたま中央のほうで縛られていたため、傷が浅く、そのお父さんは助かった。

そういう状況で司令部から配られたのは青酸カリ。ある晩、母親といっしょに駆けつけて行ったら一家心中があり、子どもの分は2人で1カプセルだったために死にきれずに苦しんでいた16歳の女の子。たまらず、母親が自分の分を半分削り、その子に飲ませてしまい、終生そのことで苦しんでいたこと。

引き揚げに子どもは足手まといになるという理由で、子どもが殺されていたこと。実際、生まれたばかりの弟に飲ませる乳がないので、父親がある晩青酸カリをすっていたこと、それを兄が止めたこと。16歳の姉が麻袋で誘拐されたこと、結局、その姉を置いて日本に引き揚げて来なければならなかったこと。後日その姉の消息がわかり、子どもが2人いたが何度も脱走しようとして失敗し、精神に異常をきたして22歳で亡くなっていたこと。

7年目に馬車に乗り日本に引き揚げることになったが、途中で馬を休ませているとき、荷物ごとその馬車が走り去ってしまい、幼い弟を背負って240キロを歩かねばならなかったこと。

・・・・・・・・そういう世にも悲惨な話を、今ではのーてんきなくらい明るいおばあさんが泣きながら話していることの不可思議さ。彼女には当時の情景が見えており、記憶をたどりながら自分の目で見たことをわたしたちに話している。しかも、当時彼女はまだ子どもだった。

なんか、こう、幸せっていいよね。悲惨な過去を清算してくれる。

投稿者 Blue Wind : 01:59 AM | コメント (0) | トラックバック

久々のフォーラム

今日は友達に誘われて平和フォーラムへ。形式ばったものではなく、女性だけの集会。すごく楽しかった。

おおげさなものではないのがいいよね・・・ボランティアで活躍する人、JICAの人、普通の主婦の人もいれば、満州からの引揚者で当時のこととなると泣きながら話しているおばあさんもいたし、人権擁護委員。

そろそろ春だし、道で会ってご挨拶したり、そういえばあのときにお会いしましたねー、という関係が増えるのは楽しい。

つくばに来たばかりの頃ご近所に住んでいた人に何年かぶりで再会。どこかで見た顔だと思ったけど互いに思い出せない。当時は娘がまだ小さくて、どちらかといえば子どもを通したご近所付き合いで、子どもがいっしょだったら互いにピンときたと思うけど、ひとりで歩いているとわからない。わたしも引っ越してしまったし、彼女もすでに市内の別のところに引っ越していて、久しぶりにアドレスの交換をした。

そういえば、みんなどうしているのだろう。
当時一番お世話になった人はすでに千葉のほうに引越してしまい、今は韓国に転勤になってしまった。上のお子さんがもう高校生になっていて驚く。つくばは転勤族が多いので、1,2年もすると散り散りになってしまう。知り合って数ヶ月でエチオピアに転勤になってしまった人はどうしているだろう。いきなりベビーカーをくれたので驚いたが、かく言うわたしも洗濯機を買い換えたら、まだ使えるとばかりに中古の洗濯機は友達を経由して知らない人のところへ渡っていった。

もう顔も名前も思い出せない人たちも多いけど、おそらくはどこかで誰かがつながっているのだろう。何となく懐かしかった。

投稿者 Blue Wind : 12:08 AM | コメント (0) | トラックバック

February 25, 2006

イジメ過敏症候群

そろそろフィギュアのエキシビションが始まる。もう一日が終わってしまったのか・・・という気分。このところ、さすがに寝不足で、フィギュアを観るために夜中に起き出していたため、いつが一日の始まりなのかわからなくなっている。

それでも、荒川静香選手の演技が始まる頃はすでに朝で、娘と一緒に観ていた。なんか、観ながら緊張していたのが自分でもわかる。選手が緊張するのは当たり前なんだけど、荒川選手の金が決まったとき、一気にホッとしたというか、脱力感と眠気に襲われた。

***

その前日、めずらしく娘から迎えに来てほしいと電話があり、学校へ行ったら友達といっしょに校庭で教頭先生と話している。どうもイジメだか喧嘩があったので、教頭が子どもに事情を訊いて説教していたらしい。

わたしはまるで事情がわからないので、クルマの中で子どもたちに事情を訊く。そのまま発進しようかと思ったら、教頭先生が来て、ドアを開けて話の続きをするので、聞いていた。担任は、別件?でイジメがありどこかの公園へ行っているらしい。教頭に、あと2人いた子たちは親が迎えに来たので先に帰ったと言われ、ドキッとしてしまう。一体、何事かと・・・

子どもたちの話はまとまりがなくてわかりにくい。どうも担任の先生に言われたことがトリガーになっているらしいが、それも言うことがバラバラでわからない。被害者?は娘だけではなく、もう1人仲の良い子がその日たまたま欠席しており、その子ももしかするとイジメが原因で欠席しているのではないかと教頭先生が疑っているのがわかる。

・・・・・・・ようやく翌日改めて事情を訊く、ということで教頭先生が解放してくれたので、そのままクルマの中で子どもたちの話が聞けた。

***

話を整理すると、この6年間、娘のクラスではずっとイジメがあり、低学年のうちは悪さをする男の子はどこでもいるということで終わっていたのが、高学年になると逆転し、イジメっ子のほうが集団で無視されたり、女の子たちにきついことを言われたり、すっかり虐められる側になってしまっている。そこで、担任が2時間くらいかけて、「このままこの問題を中学まで持ち越していいのか?」と説教したのがそもそもの始まりらしい。

イジメというか・・・
ちょっと前までは、その男の子に何かされてもひたすら無視しろ、という伝令が先生から下っていたのはわたしも知っている。さらに、その男の子が、自分で自分の首を絞めようとしたり、被害妄想で暴れ出したり、ガラスを割って大怪我したり、そういう異常行動がエスカレートしているのもわたしは知っている。ところが、案外、先生というのはそういう事情を把握していない。「首を絞めたと言っても、本気ではないから」と先生が言うので、あっけに取られる。本気かどうかよりも、異常であるには違いない。

クラスの中には相当緊張感と嫌悪感が蔓延しており、そのはけぐちとしてイジメも生じる。それも面と向かったものではなく、ベランダに「死ね」といたずら書きがあったり・・・それで、さらにそういういたずら書きをした者を追求することになり、先生曰く、「そういう卑怯なことをするな、言いたいことがあるなら面と向かって言え」という説教につながったらしい。

ここで、先生の名誉のために言うと、そういうクラスの状態を放っているわけでもないし、世の中は不審者情報や交通事故など、もっと教師の仕事が増える状況にあり、登下校のときには交通事故のあった交差点に先生が立っていたり、不審者対策のための強化、クラスで何かあったときには速やかな対応など、傍から見ていても大変だなあ、と思う。

子どもたちの名誉のために言うと、むしろ真面目で、実際には虐めているというより、それに耐えている時間のほうが長いだろう。そこで、何か不満があったり、言いたいことがあったときには書いてその中に入れるという箱が設置された。すると、出るわ出るわ大変なクレームラッシュ。

わたしから見れば、要するにボーダー系の男の子がいて、そのテンションの高さに周囲が耐え切れない、というのが実情に近い。それは子どもの責任ではないと思う。適切な治療なりカウンセリングを受けて・・・と以前から思ってはいるが、そういうプライベートなことは公にはされないがゆえに、どうなっているのかまるでわからない。

でも、教育現場というのは、むしろ教師の責任とか、家庭の責任とか、さらに子どもたちの指導という立場で考えるために、「それはそうじゃないんだよ」と誰かが言ってあげないと治まらない。このままこの問題がエスカレートして中学まで持ち越されたらそれこそ学校の責任問題になりかねないため、新しく赴任してきた教頭先生が陣頭指揮を執って、この問題に取り組んでいるらしい。・・・・・・・・が、このため、生徒からは評判が悪い。教頭先生は何も知らないのに・・・ということになる。

その流れがあって、「私達は○○君と同じ中学へ行かなければならないのに」という不満が爆発し、たまたま同じグループ内の子の中で喧嘩みたいになった、というのが今回の事件の概要らしい。まあ、うちの娘は私立へ行くことになったので、そういう点で何かきついことを言われて泣いてしまい、そこに事情を知らない教頭が来て、大勢で1人の子をバッシングしている、という風に捉えてしまった。

***

今日はどうなるのか心配していたが、昨夜テレビを観ながらケラケラ娘が笑っているときに友達から電話があり、結局、○○君と教頭先生の無理解でおおげさなことになってしまった、ということで決着したそう。

こっちまで神経がピリピリしてしまう。世の中がおおげさすぎて、ついていけない。

投稿者 Blue Wind : 03:17 AM | コメント (0) | トラックバック

【トラバ返歌】 ややこしいことは忘れる

■ラッパをぷぅ〜
“楽しみに”期待集めた論舌はラッパをぷぅ〜と吹いただけ
(とんこつラーメン@くまさま)

■こいぬはいいなぁ・・・と思って
歩こうと頑張っているこいぬには愛らしき目の世界やさしき
(しらいし)

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February 23, 2006

【今日の短歌】 自爆テロ、癒しなのかとジーザスに訊いてみたいが、屁理屈やまぬ。

政治にも対処療法あるのだとゆとりは休み、不等号なり
少子化でゆとりは増えて生き甲斐の減りつ老後は鬱が襲いぬ
自爆テロ、癒しなのかとジーザスに訊いてみたいが、屁理屈やまぬ。
死にたいと死を待つ人ら多ければ死さえむなしき、こころ冷えゆく。

床のうえこいぬを置けば歩こうと踏ん張っている。オシッコまみれ。
乳咥え寝息にかわるこいぬにはわたしの鼻もおっぱいのうち

(エゼキエル書38)

投稿者 Blue Wind : 10:35 AM | コメント (0) | トラックバック

旧約聖書雑感(〜サムエルの書まで)

ここまでに印象に残っているのは、これは人間が望んだことだったのだな・・ということかも。

たとえば、エジプトで奴隷になっているのがいやで神に救いを求める。その結果、戦争と略奪の世の中になる。

その次に、自分たちの平和な暮らしを守りたい。そのために強い王を望む。その結果、封建的で争いの絶えない世の中になる。

その次には、自由で平等な社会を望む。・・・・その結果?
その結果はどうなんでしょうね。
この社会は決して悪い社会だとは思っていないけど、ただ弱点がある。高齢者の3人に1人が自殺を考えたことがあり、介護者の4人に1人が鬱だそう。高齢者だけではなく、若い人たちのリストカットにもすでに驚かなくなってしまったし、NEETも増加する一方だし(関係ないか・・)、過度の競争により勝ちだの負けだのリストラだの拝金主義者だのその他諸々ストレスの高い社会でもある。

その次?

その次はわからない。
わからないというより、仮に望むことがあったとしても、何を神に望んだらよいのか、それすらわからなくなってしまった。

自分を虐げていやなヤツがいるのなら、弱い者を憐れんでほしいと願えばいい。お金がないなら、食べ物がないなら、それを願えばいい。病気や災害のない世の中?失業者のいない世の中?政治家が不正をしない世の中?子どもの成長?戦争のない世の中?

その次がわからない。

投稿者 Blue Wind : 04:06 AM | コメント (0) | トラックバック

February 22, 2006

女王加点

オリンピックの独特の雰囲気というのは、一つの国家規模のイベントだからかもしれない。でも、今の日本の選手たちにそういう自衛隊のような忠実なモードを求めても無理。

それを痛感したのは、安藤美姫のショート・プログラムの衣装。
なんで、イタリアの国旗をつけているの?
と思ったのはわたしだけだろうか・・・

試合を観ていたら、NHKのアナウンサーがボロカスに言うのが不思議だった。安藤美姫の躍動感が活かされていないらしい。まあ、これまでの女王然とした雰囲気から同世代の子たちが好みそうな衣装と髪型に変え、ひたすら笑顔で滑ろうとか楽しもうということをアピールしている。

・・・・ということは、もう笑顔で滑るのはつらいとか、滑っていても楽しくない、というのが本音なんだろうな。
それでも笑顔をつくって滑っている。それでいてあの暗い衣装・・・そして、胸元にはイタリアの国旗のカラーが光っている。

これとは逆に、荒川静香は赤と白の衣装で颯爽と女王然として登場。悠々とショパンの曲に乗せて舞う。

そうなんだよね・・・オリンピックは荒川静香でないといかん。
日の丸をつけて、颯爽とイタリア民謡に乗せて舞うとか、さ。(今だったら、冬のソナタ?)

アメリカのコーエン選手が滑っているとき、ロシア民謡。娘がロシアの選手なのかと訊いた。
子どもって素直だから・・・
わたしが、アメリカの選手だと言ったら、ふ〜んと言いながら観ていた。
平和の祭典だから、アメリカの選手がロシア民謡でいいんだよね。

伊藤みどり曰く、出来のほうは荒川静香より村主章枝の上らしい。
それではどうして4点以上の差が出たわけ?
つまりは、会場の雰囲気などが加算されているそう。会場の雰囲気って何なのかわからないけれども、審査員をも味方につけてしまうような雰囲気のことだろうか。伊藤みどり風に表現すれば、金を狙っていく攻撃的な姿勢らしい。

・・・・・・というか、女子フィギュアというのはいわば冬季五輪の花形、女王戦。雰囲気加点というのがあるとすれば、プライド加点かもしれない。颯爽と、堂々と、この際だから日の丸を背負って平和と笑みをアピールしてほしい。本人には関係ないのかもしれないが、女王加点というのが大きいことを知る。

投稿者 Blue Wind : 11:48 PM | コメント (0) | トラックバック

【今日の短歌】 高校生くちもとは笑みまなこうつろ軽やかにして銀盤を舞う

少しだけ期待しながら朝ぼらけ今度こそはと思ったメダル
ガセネタのそのまた裏のメール中午後の三時の決闘を知る
高校生くちもとの笑みまなこうつろ軽やかにして銀盤を舞う
イタリアのらくがき全部消えたなら銀盤のうえ温床の海

投稿者 Blue Wind : 08:41 AM | コメント (0) | トラックバック

世代間ギャップ

違うんだよね・・・
そう、違う。
大体、宗教というか、道徳や倫理を含めて、その手の類が広まるというのは、自分の住んでいるところがそういう風になったら素晴らしいだろうなー、という思い込みがある。そこの国、あるいは社会が素晴らしいと思うからこそ学ぼうという気が起きる。

今は、なんというか、平和ボケしているせいか、あんな国になったらいやだなー、というものを他国に感じることが多い。ヴァカンスで海外に行くのは楽しい。そういうところにずっと住みたいと思う。それでいて、大抵の駐在員というか、そこで働く人たちはボロカスだったり・・・やけに愛国心のある人たちが多い。

そういうものなのかも。

テロ、か。
もともと日本には何の関係もない。
アラブ人とかユダヤ人とか、キリスト教とかイスラム教とか、そうやって言葉の中に閉じ込めてしまえばそれで終わることだと大多数の人たちは考えている(と思う)。
要するに、血なまぐささがある。だから、嫌い、とかね。

あっさり語ると、まず、カルトはうざいでしょ?
それでは伝統的にカトリックやプロテスタント?

わたしね・・・
娘にはっきりカトリックは嫌いと言われてしまって、それですごく考えているわけです。昔はお嬢さん学校が多くて、女の子ならミッション系、というノリがあったのに、今、皆してそんな学校へ行っても仕方がないと言う。

それも一つの世論なら仕方ないのでは・・・
こんな時代だし・・・
テロが悪いんだろうか?

国立の医学部でさえ、競争率が1倍を下回っているので、女の子でも医者にしたほうがいいんでしょうかね。そっちのほうが今風・・・

まあ、いいや。娘の勝手。
なんか、男の子が頼りないんだろうな。わからんが・・・それなら娘が働いたほうがマシかも。
母はヒマだから、ひとりで聖書。

投稿者 Blue Wind : 03:04 AM | コメント (0) | トラックバック

ダビデの時代

サムエルの書上下を読み終える。

昨日のサウルのポカの話のつづきから。
ヘルム(日本語で言う皆殺しと放火だろうな・・)が素晴らしいとは思えないが、それまではヘルムといえば仮に高価なものがあったとしても略奪せずにすべて焼き払っていた。ところが、サウルは民に強いことは言えず、神に背いて略奪を容認してしまう。その結果、神はサウルを王にしたことを後悔するようになっていく。

軍事力アップのために王を立てたいと言い出したのは人間のほうであり、その結果として、国は強くなっても王は民の財産を奪い、民を奴隷とするだろう、という預言がどこかに書いてあったが、まさしくそういう世の中に向かって前進していく。

そして、サウルを王にしたことを後悔した神は、新しい王としてダビド(ダビデ)を選ぶ。

ダビデがサウルに仕えるようになったという逸話は2種類あるが、おそらくは戦いで手柄を立てたというほうがその後の文脈に合っている。ペリシテ人の大男との一騎打ちの際、まだ兵にも出ない年頃のダビデがイスラエル人の代表となり、石礫を相手の額に命中させ勝利を得る。そして、サウルに気に入られて家来になる。

それから先が大変。
ダビデが油を注がれた者であることを知り、サウルをしのぐ人気を得るにつれ、サウルの乱心が始まる。なんでもないときには普通の王なんだろうけど、突如としてダビデを殺そうとして暴れる。

その後、ダビデはペリシテへ逃げ、サウルと王子のヨナタンは敵の手にかかって死ぬ。さらに、イスラエルとユダの対立は深まる。

ダビデの罪。これにより、ダビデの息子の反逆。
ダビデは、サウルもヨナタンももちろん息子のアブサロムも愛していたから、深い悲しみに襲われる。愛する者たちによって命を狙われる運命だったのだろうか。

どこの国にも似たような話があるのでは・・・
封建的な社会というのは、軍事国家の宿命なんだろうな・・・

投稿者 Blue Wind : 01:57 AM | コメント (0) | トラックバック

February 21, 2006

【今日の短歌】 日向にはこいぬの寝顔置いてあり、夕暮れは吾子黄の傘まわす。

やわらかき雨の中にはさまざまな春の光がにじみ落ちゆく
日向にはこいぬの寝顔置いてあり、夕暮れは吾子黄の傘まわす。

戦争に勝つためにだに王と武将飾っていたか、誰動かさん。
そうやってあったものだからもうすでに気づかないまま空はひろがる

投稿者 Blue Wind : 03:01 AM | コメント (0) | トラックバック

変わりゆくもの

サウルがポカをしたところでちょっと休憩。
判事の書→ルトの書→サムエルの書上と進んでいる。

判事の書も後半になってくると、サムソンという英雄まで出没する。彼はどちらかというとギリシャ神話の中のヒーローのようで、女性で躓くあたりが人間くさい。

当時のイスラエルはペリシテ人と年中戦争していたらしく、サムソンの時代には征服されている。互いに侵略したりされたり、どうしても落とせないところはそのまま町が残っているし、サムソンのペリシテ人の妻の話や、サムソンの弱点を密告する女性や、あるいは人間離れした怪力の持ち主サムソンに弱点があること自体がギリシャ風。髪の毛を剃られると普通の人間の力に戻ってしまうという・・・

エフテの娘の話は悲劇。(いかんよ、そういう誓いをしては・・)

ルトの書は、めずらしく戦争の話ではない。ダビデやイエス・キリストに異国人の血が混じっているということを初めて知る。異国人といっても隣の国だし、もともとのルーツは一緒なんだろうけど、ヘブライ人ではない。

その昔、飢饉があり、モアブに移住したエリメレクと妻のノエミ。ノエミには息子が2人いたが、夫と息子に先立たれる。そして遺った異国人の嫁たち。その嫁の1人がルトで、彼女は実家に戻らず、ノエミと一緒にベツレヘムで暮らす。そして、エリメレクの親戚の男と結婚し、法律上のエリメレクの子孫を残した。

おそらくは、ずっと戦争をしていたので、そういうケースが多々あったのかもしれない。

祭司エリの息子たちは、祭司の職権乱用で評判が悪い。結局、戦争の際、神の櫃をペリシテ人に奪われ、その息子たちは死んでしまった。世襲制だとどうにもならないもの・・・クビにできない。
神の厳しい罰が彼らに下ったという話。

律法というより、道徳かな。逸話の中に道徳がある。

さらに時代が進むと、イスラエル人たちは王が欲しいと言い出す。部族があって、かしらがいて、長老たちがいて、有事の際には預言者がいて各部族が一致して戦う。・・・・はずだったのに、この頃になると他の部族の干渉を嫌うベンヤミン族のようなケースがあると、いわば内戦状態になり、身内で殺し合いをしているようなものとなってしまう。懲らしめたいがいざ12部族のうちに欠けが生じるのもつらいという矛盾。

戦争だとその時代の周辺の強大な王国のように、多くの民がいるほうが強いに決まっている。が、しかし、神の守護があれば、人数なんて関係ない。実際、川が氾濫したり、いなごの大軍が押し寄せたり、敵にペストが蔓延したり?

が、実際には、イスラエル人は王を求める。その初代の王がサウル。
サウルは・・・・どこか頼りない。
この頃になるとどことなく民主的で、王が誓いを立て、誓いを破ったものは殺すと言ったら、その誓いを知らずに罪を犯したのは息子のヨナタンだった。しかも、彼はその時の戦争の英雄。

判事の書の時代、エフテは自分の誓いどおり、娘をいけにえにしてしまった。その悲劇。ところが、サウルの場合には、民がヨナタンに味方し、彼の代わりに牛が屠られた。戦争でへとへとになっている兵士たちに断食を命じるほうが悪いと言ったヨナタンを民が支持したのも当たり前。そういう誓いをしたサウルが悪いそう。

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February 20, 2006

嵐の時代

ヨシュアの書を読み終わり、今度は判事の書に入ったのだが、同じ内容の繰り返しなので、読むのがつらい。聖書というより、何か軍記を読んでいるようで、書かれている内容も残酷。

この頃になると、宗教や信仰の問題よりもむしろ律法を守ることにより、戦争に勝つ、という目的意識が目立ち、民族の歴史書なのだから仕方がないと思いながら読んでいる。そういう時代がどういう時代だったか、何十年か昔の日本を考えればわかりやすい。

恐ろしい神とか、厳しい神という印象が、絶え間なく広がる。
嵐の日の海を見れば、誰だって海は怖いだろう・・・

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【今日の短歌】 一日が終わりゆくのがはやすぎる。時は不平等、時計は平等。

新聞の購読決めて古雑誌燃えるゴミの日まとめて捨てる
資源なき国だというがこんなにも重たいゴミを日々捨てに行く
自動車でゴミを捨てゆきなんとなく冷たい視線浴びるここちす
夜のみち犬連れあるく人影に不意打ちのごと射すくめられる
もうすでに飽きてしまったオリンピア。「ワールドカップ」と新聞屋言う。

聖書とは毒矢のようにわが舌をきつくもしたりあな不思議かな
ふつふつと泡立ちゆかば空のいろ朝な夕なとうつろいつ、雲

一日が終わりゆくのがはやすぎる。時は不平等、時計は平等。

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議会政治の恥さらし

それにしても、このところの国会の誹謗中傷合戦にはいささかうんざりしている。ペーパーを棒読みしているだけというのもそれなりに退屈だが、与党と野党とが互いに誹謗中傷するために審議を中断するような姿勢はやめてもらいたい。

災害対策やら医療制度改革やら、それこそ年金のこと増税のことその他諸々もっとわかりやすいように国民に政策を説明できるような事柄に時間を割くべき。わからんもの。国の赤字がどれくらいで、国の資産がどれくらいで、これを長期的にどうやって解決するのか、どの程度危機に面しているのか。増税するなら、イラクなどへの派兵をやめろという意見も相当数ある。

なんか、こう、幼稚なんだよね。
ガセネタ騒ぎだって、ネタ元をはっきりさせてほしい。これまでの議員の失脚の場合、大抵は銀座のホステスや神楽町の芸者が刺客となっていたけど、今回はどこなのかそれを知りたいわ。それこそが永田町の闇のイメージ。政治家なんて裏で何をしているのかわからん、というのが下馬評。

あーやだやだ。

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February 19, 2006

国税を安く、地方税で地域格差

Think Japan: 【第1回】増税政策、納得できますか?

長期スタンスで考えると、国税を最高20%までにして、地方税で地域格差をつけるべき。
どこに住んでも同じ税率なんて損をしている気がする。

それよりも、税金が安いところに住みたいのが人情だから、まちおこし、むらおこし、などで国費をあてにするより、地方税を安くして、儲かっている、あるいは儲かるであろう企業を誘致すべし。そうすれば、おのずと都市集中型の住環境の悪さも緩和されるだろうし、地方も活性化するし、官官接待も減るし、政治が身近に感じられるようになるかも。

老後は福祉がよく、地方税の安いところ・・・・
が、しかし、そういうところは土地の値段が高そう。
うまくいかないな・・・

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ガセネタ国会?

それにしてもあの永田さんという議員は何を考えているのかわからない。本当に政治家なんだろうか?
ホリエモンが武部さんの次男に3000万円を振り込むようにメールで指示したという話は、どうやって考えてもガセネタとしか思えない。

根拠は、仮にそういうメールがあったとしても、そういう裏金をわざわざ証拠が残るような形で銀行送金するバカがいるだろうか?

国立系に限らず、公務員というのは本当に大変で、近頃さらに厳しくなり、友達とお茶することもできないし、官官接待の禁止からお弁当も500円のみ支給されるだけとかね・・・美術館のタダ券でさえ、接待に相当するかどうか気にしたり、業者のネーム入りのペンやティッシュですら、いったんごみ箱に捨ててからそれを拾うというせこい話まであるくらい厳しい。

小泉さんに至っては、バレンタインのチョコでさえ送り返すという・・・

その昔には、駅のホームに捨てられていた1億円入りのバッグを拾った人がいて、とうとう持ち主が見つからなかったという事件があった。あれこそがまさしく何かの裏金だろうとささやかれたが、いくらホリエモンでも相手が武部さんならそんなことをしたら逆に注意を促されているはず。ライブドアからの取材の依頼に対する仕事の報酬というのなら正当なものだろうし、政治道徳的な側面での問題はあっても違法性はない。

水かけ論になるくらいなら、国会の外でやってほしい。あれこそが税金泥棒という気がしてしまう。これまでにも国会での証人喚問やら何やらあったので、それが普通の感覚になってしまっていることに気づく。が、しかし、よぉ〜っく考えたら、そういうことこそ法廷でやってくれ・・・

今までだったら自民党をバッシングするほうがノーマルだったんだけど、なんか今、民主党がうざくて仕方がない。なんでだろう・・・わたしが間違っているのかな。

投稿者 Blue Wind : 03:52 AM | コメント (0) | トラックバック

【今日の短歌】 こうやって平和な時に生まれたが軸のずれゆく地球はまわる

読めなけりゃすどおりするか情報は。地球は狭く、メールは速い。
日本が生まれる前のお話が終わらぬうちに、シリアが怒る。
聖人も派閥のようだなげかわし何れの世にも人々はおり
そうやって違うところをさがしては、重箱の隅つついているか。
目がふたつ耳もふたつで鼻ひとつ、右と左の区別もつくが。
ガセネタの飛び交いゆかば電子にもスパムの花粉飛び立てば春
北朝鮮テレビのなかの人らにはまじめな花も外の花粉か
こうやって平和な時に生まれたが軸のずれゆく地球はまわる

投稿者 Blue Wind : 02:51 AM | コメント (0) | トラックバック

やっとヨシュア・・・

やっとヨシュアの書。この辺になってくると、ようやく意味が見えてくる。大雑把な言い方をすれば、当時のカナン人のカルト的信仰を考えると、神の国というのがどういう意味なのかおぼろげに。

まずは、酷いよ〜!!
町の城壁を造るのに人柱・・・子どもをいけにえにする。神殿には娼婦や男娼がいて、報酬を得ている。呪術や魔法?によって祈祷や占いに頼る。そういうカルト的宗教というのはカナンに限ったことではなく、古代の宗教にはそういう不気味な感覚がつきまとう。

そこで、何度も繰り返されているように、ヘブライ人たちをエジプトから救い、偶像崇拝(カルト)を破壊し、まことの神の国をつくるというのがイスラエル建国のコンセプトだった。

何度も何度も偶像崇拝を禁じて、厳しい罰が与えられる。
聖戦というのがどういうものなのかわからないけれども、ぎょえっとなるような狂信に対する神の戦いみたいなものなのだろうか。そこで徹底的に偶像(カルト)が破壊されていく。

***

神が先頭に立ち、戦いを勝利に導く、という感覚は日本にもずっと昔からある。
それこそ元寇のときがそうだし、あのときの神風というのは台風だったと言われている。近い時代では、日清・日露。こんなアジアの小国が清やロシアを破ったのだから、今でも日本がどこにあるのか知らない人たちですらその戦争のことを知っていたりする。

武士道というか・・・そういうプライドの高さは日本人の特徴でもある。

***

ヨシュアの書になると、おぼろげながら新約の中の話を彷彿する部分が現れる。
たとえば、神殿での呪術的な意味での娼婦や男娼を非難する一方で、ヨシュアの送った偵察者の命を助けたのがエリコの娼婦。これにより、彼女や彼女の家族はヘレムを逃れる。

ヘレムというのがハーレムの語源というのだけれど、これまたイメージが難しい。戦いがあると男たちは殺され、女性と子どもだけが捕虜として生活していたというのもヘレムらしいし、それこそ人から家財道具からすべて火をつけて燃やしてしまったというのがヘレムだともいうし、エリコの戦いではユダ族の3人が裏切り、本来ならヘレムにして燃やしてしまわなければならないのにちゃっかり金銀やがいとうをくすねてしまい、神の怒りを買う。

歴史は繰り返すというけれど、ヨシュアとメシア、娼婦とマグダラのマリア、ユダ族の男たちとユダ。そして、ヘブライ人の12部族を象徴するように12使徒。

投稿者 Blue Wind : 01:06 AM | コメント (0) | トラックバック

February 18, 2006

何千年も昔のこととは思えない・・・

ようやく、第二法の書にたどりついた。簡潔に今までの話をまとめてあるので、少し読みやすくなった。
申命記というところだろうか・・・
ということは、荒野の書は民数記なのだろう。

***

避難の町って、最初、意味がわからなかった。不注意で殺人を犯してしまった人たちのための町。わざとではないけれども、うっかりぶつかってしまったら相手が転落して死んでしまったとか、石を捨てたら下を歩いている人にぶつかったとか、その手の類の罪。

刑務所?

いや、それとも違うようだ。つまり、リンチから守るためにこのような町が造られた。
律法では敵討ちは認められている。つまり、家族を殺されたら仇討ちができる。仇討ちは殺人には相当しない。でも、殺意がなかったのに相手が死んでしまった場合、リンチが拡大することを懸念して、いわば治安の維持のためにこういう町が必要だった。昔から刑務所ほど安全なところはないというが・・・

***

娘の相続。
要するに、息子がいない場合、娘が相続する。ただし、父親と同じ部族の者と結婚しなければならない。土地は神からそれぞれの部族が与えられたものだから、ほかの部族の人が所有してはいけない。つまり、領地だからね・・・たとえば沖縄をまるまる娘が相続してその娘が外国人と結婚したら沖縄は外国の所有地となるという理屈。無血の侵略なのだろう。
ちなみにバリ島は外国人が土地を所有できなかったはず。

***

第二法の書は、イスラエルが分裂していた時代に書かれたものらしい。国が分裂すれば、宗教も変わるのかもしれない。そこで再びモーゼが登場する。

ちなみに城壁のあるところが都市で、その周辺のサテライトの町のことを娘たちと呼んでいる。

こうやって旧約聖書を読んでいくと、宗教と国と法律とが密接に関連し、侵略と領土と民族とかしらと、そして指導者。そういうものなんだろうな。こういう形態は昔からあって今も続いている。だから何なのさと言われればそれまでだが。

投稿者 Blue Wind : 04:08 AM | コメント (0) | トラックバック

【今日の短歌】 のんびりとやりすごす日にすやすやといねむりこいぬ落下傘かな

にごり目でじっとこちらを見つめてるつきのわぐまのこいぬのようだ
たちあがり、へちゃとつぶれ、ハイハイで、タオルの海を泳ぐこいぬよ
手のうえで飛行機になり、床のうえこおろぎになり、なきごえはねこ

のんびりとやりすごす日にすやすやといねむりこいぬ落下傘かな

千年の歴史の文字はつらつらとまた千年の歴史の文字に
ベツレヘムにぎやかなのか今世紀、いや昔からうるさいのかも
荒野には草もなくなりベドウィンがサラリーマンになる砂漠かな
テロリスト規模拡大す伝統はおおげさなまま地球はまるく

投稿者 Blue Wind : 03:07 AM | コメント (0) | トラックバック

February 17, 2006

ポンポンうるさい

テンちゃんの胸に、ちょうど白い三日月のような部分がある。誰に似たのだろう・・・オトやマリには無い。そのうち成長すると消えてしまうのだろうか。

今日でまる2週間。体重も500グラム以上あり、というか、10日目で薄目を開き、体重も500グラムを超え、生まれたときが200グラムくらいだったので、順調に育っている。が、ちょっと大きいなぁ・・・ミニピンにしては大きい。それとも普通なんだろうか。わからない。

***

ブログのテーマを増やすと、大変。特に、「今日の」と入れると毎日更新することを目標としているため、やたらと更新頻度が高くなっていく。でも、そうでもなかったら聖書を通読するなんて不可能かも。(わたしの場合)

前回、オリンピックをほとんど観られなかったので、今回は・・・と思って観ているけど、毎晩になるとしんどい。昨日はショートトラックか何かの競技だったのかな・・・NHKのアナウンサーがやたらと「ニッポン」と叫びまくっているので、苦しくなって消した。

カウントしちゃうんだよね・・・
「ニッポン」というのが正しい日本語なんだろうと思いつつ、何度も繰り返されると、やたらとポンポン言ってるだけに聴こえてしまい、1つのレース中に何回アナウンサーがポンポン言うかをカウントしてしまいそうになり、そうなると競技どころではない。ひたすら耳障りな雑音にしか聴こえなくなる。困った。

こういう感覚はラジオにもあり、普通はカーラジオで音楽を聴いているだけだから気にもならないが、トークが中心のラジオで、笑い声などだけが静かな夜更けに響いているような時間帯、その瞬間、自分の集中が途切れるために腹が立ってくる。(だったら聴くな、って? そそ。だから聴かない)

テレビがうるさい、という感覚。まじにうるさい。食事をつくっているときに本を読んでいたら、ダンナが堰かす。これもうるさい。おもむろに娘にテレビを消させ、鍋の音を聴かせる。何が言いたいのかというと、「鍋が作ってるでしょ?」ということ。わたしが鍋の前に立っていようが離れていようが、ほとんど変わらない。静かなら、鍋の音を聴いていれば鍋の様子がわかる。鍋の音が聴こえない人たちに何を語っても無意味。

というわけで、わたしはサウンドを聴きながら何かをしていることが多い。気になっちゃうんだよね・・・そうしないと集中できない。

投稿者 Blue Wind : 03:43 PM | コメント (0) | トラックバック

【今日の短歌】 あゝ今日が雨だと知ったレンガ色 空の白さも忘れつつあり

あゝ今日が雨だと知ったレンガ色 空の白さも忘れつつあり
あたたかく、次の日さむく、芝草も野はらの色もうつろわぬ春

君が代を忘れちまったオリンピック。いまあの子らは歌えるだろか。
アナウンス「にっぽん」と言うNHK 正しいにほんごぽんぽん聞こえ

投稿者 Blue Wind : 01:10 AM | コメント (0) | トラックバック

February 16, 2006

メリバの水

旧約聖書の世界に興味をもったのはこの数年のことで、今さらながらに考えると、イタリア・ルネッサンスの奔放さの影響かもしれないし、あの!読みようによっては退屈極まりない世界がビビッドに表現されていることに、聖書を読むことにより思い知ったからかもしれない。ほこりの被った魂を洗濯するというか・・・

メリバの水って何なんだ・・・どうしてこの事件がきっかけで、アロンが死ぬことになったのかわからない。アロンの罪とは何か、モーゼの罪とは何か・・・わからない。ただ、メリバというのが罵ることで、相当酷い罵り合いがあったのだろうし、聖書にはイスラエルの民がモーゼに口論をしかけたと書いてあるだけ。

荒野で飲み水もなく、ただ死を待つ。
その時に何があったのか?

預言者って悲惨。アロンは預言者ではないけれども、モーゼの兄で、兄と一緒なら・・・ということでモーゼと共に行動する。その結果、アロンは2人の息子を失う。香を炊いていたときに酔っていたのだろうか・・・

ミリアムはモーゼとアロンの姉妹だが、彼女はモーゼの妻のことで不服を述べたところ、らい病に罹ってしまった。そして、死ぬ。豊かな土地どころか、飲み水もないところで前途の希望は断たれ、大切な家族を失い、こういう状況で何があったのか、もやは想像するしかない。

モーゼが山にいる間、クレーム係はアロン。並のクレームじゃないですからね・・・怒りと不満の爆発。そういう中で、家族を失い、メリバの水のところで決して口にしてはいけないことを言ったのかもしれない。十戒には人を殺すなと書かれているけれども、モーゼはエジプトで人を殺している。そのことは皆知っているはず。それでエジプトから逃げていたのだから。

なんか、こう、精神的に限界というか、ぐったりとした雰囲気が淡々と綴られており、その結果、アロンはホルの山で死ぬ。息子のエレアザルと一緒に登り、アロンの服をモーゼが脱がせ、それを息子に着せる。アロンの服というのは、司祭の服であり、それにより、アロンは先祖に加わり、エレアザルが後継者となった。

メリバの水というのは、人々が罵り合っている土地で、モーゼが杖で岩を二度叩いたら水が湧き出てきたところからそう呼ばれるようになった。

心安らかな人たち、つまり信仰心のある人たちにとっては、つまり神が何とかしてくださるだろうと信じている人たちには少しも苦労のある旅ではないけれども、信仰心のない人たちには地獄の行程。それが、淡々と綴られている。

***

アロンが亡くなったのは123歳で、40年間荒野をさまよった後と書いてある・・・天寿まっとう。一つわかっているのは、メリバでの事件がきっかけでモーゼもアロンも約束の地では暮らせない、ということか。話が前後するからよく読まないとわからんわ。

投稿者 Blue Wind : 11:37 PM | コメント (0) | トラックバック

【トラバ短歌】 エデン

彷徨える心導く魂の漂流先はエデンの園か(くまさま)

夕暮れのポプラ並木の向こうにはエデンがありき。今はみちあり。(しらいし)
象徴に憧れてみたジェームズ・ディーン。笑むともなき笑み浮べ、死す。(しらいし)

投稿者 Blue Wind : 10:34 PM | コメント (0) | トラックバック

謀反と花

この前お正月だと思っていたら、もうバレンタイン・デイが終わっているし、今年は美味しいチョコを堪能し、ついでにスーパーで半額になった高価なチョコも買ってしまい、しばし余韻が続いている。いつの間にか義理チョコが感謝チョコと呼び方が変わり、ついでに景気がよくなってきたらしく、日本の景気を占うのがチョコの売れ行きというのはなんとも日本的。おそらくは財布を握っているのが女性なので、そういう言われ方をするのだろう・・・

そういうつまらないことを考えながら、聖書はいまだに荒野をさまよっている。アロンの枝に花が咲いたところまで読んで、急に眠気に襲われてそのままダウン。おおなみこなみ・・・

最初に2年間遠回りしてカナンへ・・・
そこで、めでたしめでたし、だったらよかったのに、さらに38年間も荒野をさまようことになる。

理由は・・・謀反。
モーゼへの謀反なんだろう。不満だらけの人たちを連れてエジプトを出て以来、ようやくカナンの境界まで来たところで部族のかしらたちが偵察へ行く。すると、臆病風に吹かれてそのままエジプトへ戻りたくなってしまった。それと、預言者の哀しさで、神と話すのはいつもモーゼ、と祭司。どうしてモーゼの言うことを聞いてこんな苦労をしなければならないのか・・・

モーゼやアロンというのは、やわらかい人たちなんだよね・・・
この対比がおもしろい。

部族のかしらたちが250人でモーゼのところに不満を言いに来る。すると、モーゼとアロンは地にひれ伏し、もの申す。

そこで、250人の人たちがそれぞれに神に捧げる香を炊く。
結果は、謀反を起こした人たちは家族も含めて大地の中に落ちて行った。250人の香を炊いた人たちも火に巻かれて死んでしまった。そして、さらに38年間臆病風に吹かれた人たちは死ぬまでカナンへ入ることがゆるされない。気が堰いてカナンへ入って行った人たちも敵に追われてしまった。

そこで、こういうことが起こらないように神さまに訊いてみよう、ということになる。そして、部族のかしらの名前を書いた枝をもちよる。翌朝、アロンの枝に花が咲き、実が生っていたのを見て、皆は納得した。

モーゼやアロンというのは、いつも神さまに、そんな酷いことをなさらないでくださいと祈っている。
この世の不幸は神さまの仕業なんだろうか・・・

投稿者 Blue Wind : 05:28 AM | コメント (0) | トラックバック

【今日の短歌】 謀反から花咲く枝に終わりゆく、いや終わらない旅まだつづく

うた用の聖書のうえにデンとある注釈付きの聖書は重く
新約にいつになったらたどりつく漂流の日の荒野の果てに
謀反から花咲く枝に終わりゆく、いや終わらない旅まだつづく
ほんのすこし離れただけの別世界花咲く丘と荒野の山と

投稿者 Blue Wind : 04:39 AM | コメント (0) | トラックバック

February 15, 2006

形骸化

レビの書を通過し、荒野の書に入ったところ。
とっつきにくい。
最初からいけにえの話。

この、「いけにえ」という感性がむずかしい。
罪償のいけにえ。
それが後にイエス・キリストの磔刑へ。

ただ、人が集まるところすったもんだするのは当たり前で、それを裁く権利があるのが神だけだとすると、何かあるたびにモーゼのところに人々が相談しに行っていたのは想像に難くない。荒野の書によるとレビ人を除いて60万人以上。実数とは違うかもしれないけど、その人たちがいちいち祭司のところへ行っていた? (文字通りに解釈すれば、小さな村や町の人口が4万人前後だとすると、12町村あった計算になる。)

遊牧民が家畜を屠ることはめったにないらしい。
そこのところを念頭に置いて読んでいくと何となく理解できるようになった。なんせ、エジプトをはじめとして、雄牛というのが信仰の対象であり、財産であり、繁殖と繁栄という言葉が象徴するように、雄牛を屠るというのは大変なことなのである。

罪を償うために、雄牛を屠る・・・屠るのは祭司。逆に語れば、屠ることができたのが祭司だけ。それくらい大変なことだった。そこから罪の重さや財力に応じて屠る家畜が変わるけど、それにしても大変なことには変わりはない。

だから、家畜を屠るということはとても重い罰であり、それまでの労苦と生活の糧が失われてしまう。

もう、がっかりしたと思うよ・・・もう、なんであんなことをしてしまったのだろう・・・なんてね。これをしないと追い出される。荒野で追い出されたら死を意味しているくらい過酷なことだった。文字通り、血をもって贖わなければならない。

諍いを治めるためには、血をもって契約を交わす。

だから、トラブルが発生すると、罪を償うために、いけにえを屠ってもらう。いけにえというのは、いわば自分の身代わりみたいなものなのかも。そして、その謝礼として一部を祭司が食べ、燔祭として、皆に振舞われる。

まあ、なんと言いますか、そこが遊牧民というか・・・
何かあれば、すぐに殺し合いが始まりかねないし、部族間抗争とか?
そこをいさめるために、罪を犯した人はその罪を償うために祭司のところへ行く。そして、いけにえを捧げる。血の贖い。その血をもって罪が償われる。そして、再び一致団結を促すために、皆で集まって食事をする。大盤振る舞い。それにより、水に流す・・・

それが形骸化するとどうなるか?
たとえば、初子を捧げるとするでしょ? 捧げた人がそれを利子をつけて買い戻す。初子というのは人間も家畜も一緒で、初子というのは神のものだから、それを買い戻すためには祭司に銀を支払う。だったら最初から祝い金のようなものを包み、それを持って行ったほうが合理的な気がするのだけど・・・一応、形式的にいけにえを携えて祭司のところへ行く。

なんか・・・・お金があればなんでもゆるされるみたいで、いやだなぁ。それが時代というものなのかも。

投稿者 Blue Wind : 02:54 PM | コメント (0) | トラックバック

【トラバ返歌】 オリンピック

ジャンプする機体は軽く期待落ち、意識の薄さ原田の腹だ。(くまさま)
厳密なルールで飛んだ雪の丘そろそろ人も飛行機になり(しらいし)

華やかに銀盤の舞目を見張る。トリプルループ投げたらアカン!(くまさま)
音楽の途切れた時間ゆくすえのつむぐ糸さえ乙女つなぎし(しらいし)

銀盤を制す者らの傷跡のキラキラと舞い聖火ともりぬ(しらいし)

投稿者 Blue Wind : 01:50 AM | コメント (0) | トラックバック

February 14, 2006

【今日の短歌】 今やっとバルバロ聖書レビの書にしおりはさみつ、「清水は通過」

徹夜して波乱万丈眺めつつトリノ五輪のライブはつづく
今やっとバルバロ聖書レビの書にしおりはさみつ、「清水は通過」
古に逸る気持ちは似合わぬもコンマのタイム競い合う夜

トルコ産シロップ漬けのまる杏レンガ色した器に沈む

十日経ちテンは二倍に育ちゆきグラムを量るおさなきいのち
一日は永くも在るが測量はちいさなめもり、バランスの春

投稿者 Blue Wind : 01:41 AM | コメント (0) | トラックバック

February 13, 2006

今も昔も

連日、眠い目をこすりながらオリンピックを観て、カーラジオから流れてきた札幌オリンピックの歌を口ずさみ、選手たちの悔しそうなインタビューを見ながら、聖書を読んでいる。

テレビでは、時折、アルプスの生活が紹介され、家の中の家畜の様子や家畜を飼っていた場所がレストランになっているのを眺めると、活字からイメージするのとはずいぶん違うことに驚く。厳しいアルプスの寒さをしのぐために、人も家畜も一緒に暮らしている。昔ながらのイタリアの町を歩いていると、通りに面して足下に明り取り用の窓が並んでいるが、多くは地下室の窓。地下室といっても窓があり、明るい。石で造られた部屋。今でもそのまま使われている。

わたしは実物を見る機会には恵まれなかったが、ローマのサン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ教会にミケランジェロ作の角の生えたモーゼ像がある。わたしは最初、ミケランジェロ流のジョークの一つだと思ったけど、聖書の注釈を読んでいるうちに、あながちウソでもないんだなぁ・・というの率直な印象。

聖書というのは作者がおり、ヘブライ語をギリシャ語に翻訳したり、時代とともに編纂されていくうちに、どうも意味不明な部分や理解不可能な部分、あるいは複数の書き物が一緒になったせいか重複する部分も多い。モーゼの角も彼が怒り狂って生えてきたわけではなく、ヘブライ語の「カラン」(光り輝く)という動詞が、「ケレン」(角)に語源があるために「頭に角が出ていた」と誤訳されたのが起源らしい。

モーゼが海を渡ったという話も、実際には海なのか湖なのかわからない。ただ、葦が生えていたということから紅海ではなく、その当時には、湖とスエズ湾がつながっており、潮の満ち干きの影響があったことから、どこかその辺だろうと言われている。ヘブライ人の歩く道が晴れて乾いており、エジプト軍が波や嵐に襲われたというのもおそらくは事実なのだろう。

タイの海のスコールに遭遇すると、一瞬にして島すら深い霧と雲に覆われ、しかも少し進めばカラッとした真夏の海。天変地異を想像すれば、天にまつわる話は想像に難くない。

シナイ山での出来事も、考えてみればエジプトから出発したヘブライ人たちは430年もエジプトで暮らしており、モーゼの姿が見えないときに、アロンがエジプト風の牛の像を造って拝んでいたからといって決して悪気ではないのである。彼らにとってはそれが当たり前の感覚なのだから・・・当時の風習として、神の姿をかたちどったものが必要だったのだろう。

が、しかし・・・・
モーゼは激しく怒った。神が書いたという石板すら投げて破壊してしまうほど。

肥沃な土地へ行くどころか、飲み水や食糧にも不自由するような荒野へ行くことになったのだから、そりゃ大変だった。エジプトを出たヘブライ人たちが後悔したのも無理はない。奴隷とは言っても、食糧に不足するわけではなく、案外大切にされていたのだろうから。自由はないけれども、生活には困らない。

神に感謝して生きるというのは難しい。ヘブライ人たちが荒野で得たマンナというのも果実だと言われている。エジプトでの災いもいわば天変地異。

聖書を読んで学ぶのは、いつの時代もこんなものなんだろうな・・・ということかも。(こらっ)

投稿者 Blue Wind : 02:51 PM | コメント (0) | トラックバック

『題詠100首blog』に参加します(風マリア)

今年は、屋号(ブログ名)で参加させていただきます。
まとめ詠みすると、ブログの記事が吹っ飛んでしまうのだなぁ・・という弱点?はあるものの、死んでいるブログを呼び起こし、専用にすると忘れてしまいそうで。

ちなみに昨年の後半は、娘の受験のラストスパートで短歌どころか、ブログのほうもそちらのネタばかりになってしまいました。今年はゆったりとした気分で作歌を楽しみたい。

⇒ 「題詠100首blog」イベント会場 (10月30日まで受付中)

投稿者 Blue Wind : 02:07 AM | コメント (0) | トラックバック

【トラバ短歌】 チョコみかん

>>>>☆ 風と水、日の光さえさらさらと資源とかわる。風の吹く日は
>>>○ 陽の光風のざわめきそよぐ水 食べずに捨ててた野菜の皮よ
>>☆ 葦舟にアスファルト塗る死海にはヘドロはなきか今も昔も
>○ 地の底の眠りを覚まし遠つ国でゴミに変わりて海底(うなぞこ)へ眠らん
☆ その昔海はナチュラル汚水処理ゴミはまぼろしかたちある謎
>○ 捨てていた野菜の皮をTVみて 食べてみたもの3日で飽きた
☆ TVみてみかんの皮で風船を割れるものかな汁のなき冬

○ masaping  ☆ Rin

***

待ち惚け、風の香りに振り向けば、はにかみながらチョコを差し出す。(くまさま)
スーパーを楽しみ歩くバレンタイン遠慮しふたつ。ひとつ吾がため。(しらいし)

今日ちょっと更新の数が多いので、まとめさせていただきます。

投稿者 Blue Wind : 01:16 AM | コメント (0) | トラックバック

February 12, 2006

【トラバ短歌】 水こそが資源

☆ 風と水、日の光さえさらさらと資源とかわる。風の吹く日は
○ 陽の光風のざわめきそよぐ水 食べずに捨ててた野菜の皮よ
☆ 葦舟にアスファルト塗る死海にはヘドロはなきか今も昔も

○masapingさん  ☆Rin

ガソリンより水のほうが高い国もあるのだから・・・
それに火力発電なんて昭和に入ってからでしょ?(違う?)

投稿者 Blue Wind : 10:04 PM | コメント (0) | トラックバック

【今日の短歌】 風と水、日の光さえさらさらと資源とかわる。風の吹く日は

風の日のうなり声さえ届かないこいぬの眠りまぼろしの乳
カラカラと音を立てるは風力の電気のマシン風の吹くまに
風と水、日の光さえさらさらと資源とかわる。風の吹く日は

ベテランの200グラムに泣く丘は空の降らせぬ雪積もる冬

投稿者 Blue Wind : 04:40 PM | コメント (0) | トラックバック

ロボット教材?

PI-BO
ロボット?
週末の学校の宿題。
どこで買ったのだろうといぶかしがっていたら、学校で貰ったそう。

PI-GO(ピーゴ)という6年用の理科の教材らしい。
電流の働きPI-GO

校庭には風力発電機があるしね・・・
四葉のクローバーを集めながら、風力発電用のプロペラ?がまわっているというのもそれなりに風情があるやもしれませぬ。

投稿者 Blue Wind : 04:05 PM | コメント (0) | トラックバック

【トラバ返歌】 幻の牛乳瓶

湯上がりに牛乳瓶を頬に付け冬の夕べにふぅっと息を吐く (くまさま

軽やかなペットボトルの容器には冷たい息が吹き込んでゆく (しらいし)

牛乳瓶というのをほとんど見かけなくなりました。
湯上りの牛乳というのもノスタルジック。

投稿者 Blue Wind : 03:19 PM | コメント (0) | トラックバック

February 11, 2006

採寸

その昔、わたしが子どもの頃にも、「今の子は・・」と言われたものだが、近頃わたしが言う方になっている。

だってね・・・娘がしきりにもっと背が高くなりたいと言う。小学生で155センチくらいならさほど小さいとは思えない。ところがクラスでは真ん中くらい。塾では小さい方。

先日、娘と一緒にジーンズを買いに行った。すでにレディースの売り場で買うために、ジャケットなどもついでに買う。すると肩にあわせて買うと11号なのだもの。いえ、ぜんぜん太ってないです。(細くもないが・・)

今日は、制服の採寸。
最初に靴のサイズ。おそらくは、23.5cmでよいのではないかと思ってそのように記入していたら、実際に履いてみると24cmで大丈夫と言われてしまった。顔が小さいんだよね・・・だから、特に大柄な印象はないし、常に真ん中くらい。わたしの世代で24cmと言えば、サイズがないと泣いていたっけ。

知り合いのお嬢さんが、中3で、身長170cmくらいあり、靴のサイズが26cmと聞いたときにはぶったまげ、そんな大女だったらすぐにわかるのではないかと思って学校見学へ行ったときに探したけど、まるきりわからなかったことを思い出す。

その次にジャージ。
これは男女兼用なので、女子は大きめのものを買う。にしても、170cm用というのは大きすぎるのではないかと思ったけど、ズボンの丈も袖の丈も驚くほど大きいという印象はない。洗って縮むことを考えるとこれくらいの大きさでよいのではないかと売り場の人に言われた。

制服のジャケットやブラウスはMでちょうどいい。だから、Lを購入。今より小さくはならないから。

最後にスカート。親の感覚では、ジーンズが67cmくらいなのでスカートもそれくらいでよいのではないかと思っていた。ところが、75cmを最初に履かされた。というのは、72cmのものは両隣の子たちが試着しているため順番待ちをしていたからで、その両脇の子たちが太っているか、背が高いかと言われたら決してそんなこともない。ウエスト自体はホックが3cmくらい移動するためゆるくてもかまわないそう。

でも、試着させたら、微妙にスカートの丈やひだの具合が、サイズが大きくないと綺麗に出ない。ミニスカートが流行っているとはいえ、学校ですからね・・・

要するに何が言いたいかというと、全体的に手足が大きく長く、顔が小さく肩幅が広く寸胴の子たちが多いということかも。昔のイメージで制服がつくられているせいで、どうもサイズが数字とミスマッチ。今まで、子ども服で160cmというのを買っていたため、それをレディースサイズに直されるとひたすら戸惑ってしまう。

それにしても、偏差値が謎めいていてついていけない。偏差値28〜84のレンジにはついていけそうにない。平均が50なんだから大抵は40〜70の間におさまるのが普通ではないかと思うんだけど、ゆとり教育の影響で中間層が減っているため昔とはずいぶん違うらしい。

子どものサイズも大きい子から小さい子まであまりにも差があるため、というか、極端に存在しているのではなく、全体的にばらけているため、もはや大雑把なサイズ表では対応できないような気がする。娘が少なくても165cmくらいにはなりたいと言う気持ちが少し理解できた。

投稿者 Blue Wind : 10:06 PM | コメント (0) | トラックバック

【今日の短歌】 吾子の目があまりに近く驚きつちかごろふたりペアで歩きぬ

復刻堂フルーツ牛乳買ってきて吾子がほとんど飲み干している
三日ばかり生きればマリは母の顔子のはべりたるケージに座り
テン生まれペットショップの閉店の報せの葉書舞い込んで、春。

吾子の目があまりに近く驚きつちかごろふたりペアで歩きぬ

投稿者 Blue Wind : 02:18 AM | コメント (0) | トラックバック

質的変化の時代

あと3時間で、トリノ五輪が始まるのか・・・
この前アテネが終わったと思ったら、もうトリノ。オリンピックが2年ごとに開催されるようになってから、どうも落ち着かない。アテネの時にはイタリアにいたため、日本人選手が金メダルを取ったことすら知らなかった。毎晩テレビを観ていても、映し出されるのはイタリアの選手ばかり。それも1,2時間ダイジェストを放映するだけで、日本みたいに1日中トピックとして楽しめるというムードはない。

冬季オリンピックでの日本の金メダルの数は意外と少ない。日本人に不利になるようにルールが改正されるのを見ると、どうしてあんなルールを素直に受け入れるのかわからん。もっと抗議すればいいのに、と思う一方で、ルール改正後も淡々と練習をし、フォームを替えたり、さまざまにチャレンジしていく姿もそれなりに、”いとをかし”という気分。

***

オリンピックということもあり、夕食後テレビを観ていたら、バラエティ番組でクラシック音楽特集をやっていた。かしこまったものではなく、皆がよく知っているメロディばかり。今、クラシックがブームというが、ブームの基準がCDの売り上げと音楽会の観客動員数・・・

いいんだけどね・・・わかりやすいし・・・
モーツアルトとベートーベンの比較や、教会音楽であるという点をひとまず忘れてバッハを聴くとかね・・・

いいんだけどね・・・聖書を知らなくても名画の鑑賞はできるというのと同じ理屈なんだろう。
音楽や絵画を鑑賞するために、知識として聖書を読む、ということにどういう意義があるのかわからないけれども、まるで3Dのようにクリアになるものがあればそれはそれでかまわないのかもしれない。いわば、感情移入の世界であり、あるストーリーに感情移入するということにより、その感情をさらに高めるためにそのような立体的世界が必要となってくるのかもしれないし、いわばそういうどちらが背景なのかわからないままに、気がつけばクラシックは子どもの頃から聴きなれたサウンドになってしまっている。

このところの自分を考えると、わたしも同じようなことを求めているわけで、だからこそ聖書を読んで面白いと感じてしまう。

オリンピックも昔と違って、ショーを楽しむという傾向が選手にも観客にも強い。形は同じでも、存在意義が違う。質が変容していく。

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February 10, 2006

とても長い1行

この辺になると楽しんで読んでいる、としか語れない。
脱出の書のモーゼとアロン(モーゼの兄)とがファラオに会いに行くくだり。

中でも強烈なのは、魔術との対決だろうか・・・

神がエジプトでのヘブライ人のつらい生活を知り、彼らを約束の地に連れて行こうとする。そこでモーゼの前に現れる。でも、モーゼはエジプトで人を殺したためにエジプトには戻れないと思っているし、さらにファラオがヘブライ人の出国を許可するわけはないし、ヘブライ人を説得する自信もないし、口下手だし、・・・と理由を述べて神の申し出をお断りする。そこで、神は雄弁な兄のアロンと一緒に行くことを示唆。

最初は、ヘブライ人たちはエジプトでの奴隷生活から解放されることを知り喜んだ。ところが、ファラオは逆により厳しい労働をヘブライ人に課す。

ファラオというのは、いわば最高の神官でもあり、モーゼが不思議なわざを行ったところで負けてはいない。モーゼに言われてアロンが杖をへびに変えれば、ファラオに言われてエジプトの魔術師も同じようにする。アロンが川の水を血に変えれば、魔術師も同じわざを。その後、次から次へとエジプトに災いが起こるが、モーゼが神に祈り、その災いが去ると、ファラオはますます頑なになり、ヘブライ人の出国を許可しない。

神話の世界。
日本でも、神々の対決があり、岩をちぎっては投げ、ちぎっては投げ・・・という話があったような気がする。島根県の海岸線の岩場の岩がその時の岩ですと言われても信憑性が薄いが、エジプトの場合、もっとミステリアスだもの。ピラミッドの謎とか?

ヘブライ人たちがモーゼの指導のもとにエジプトを脱出したのは歴史的事実だとしても、年表のわずか1行を説明するために書かれている話はとても長く、面白い。

投稿者 Blue Wind : 04:49 AM | コメント (0) | トラックバック

February 09, 2006

【今日の短歌】 からみあう糸のようだと糸車。水車がまわる小町の里は。

雨もなく雪もなくただ寒い夜は霜降りだけが朝の訪れ
似合わない気分のままに北欧のサウンドの夜賑やかすぎる
歴史って遠い昔の今なのか、いつも変わらぬ言の葉の海。
民族の歴史のような旧約を読んで思うは敷島のこと
からみあう糸のようだと糸車。水車がまわる小町の里は。

投稿者 Blue Wind : 11:41 PM | コメント (0) | トラックバック

『コンニチハ世界の子どもたち』 田沼 武能著


田沼 武能
コンニチハ世界の子どもたち

***

この本は写真集。たぶんこの本だったと思う、としか言えない。ずいぶん前に買って、すでに誰かに差し上げてしまったので、手元にはない。

子どもって何ナノかな・・・と思う。
子どもというと、あるイメージがあって想像しているけど、世界の子どもたちはあっさりそのイメージを破壊してくれる。それこそ宝石で飾られた中東の女の子もいれば、谷中の商店街でゲームをしている日本の小学生もいるし、裸でジャングルの川遊びをするパプア・ニューギニアの子どもたち、南米のストリート・チルドレン、あるいはちびのくせしておとなの持つような立派な剣を腰につけた目つきの鋭いベドウィンの男の子。

その昔、子どもという概念はなく、小さなおとなとして子どもが扱われていたことを考えると、子どもとはまさしく次世代に生きるおとなとしか思えない。

***

先日読んだ『日本人とユダヤ人』の中で、しきりに遊牧民の生活が書かれており、日本が世界の別荘のように平和でのんきな国なのは遊牧民と接触がなかったかららしい。つまり、安全と水はタダだと思っていたし、城壁のない都市というのがめずらしい? 城壁どころか、鍵もないとかね・・・その昔は蚊帳の中で窓を開けたまま寝ていたとか?

行ったこともない国を偏見で見てしまいそうだから、真に受けたくない話だが、遊牧民というのは略奪も生活の手段らしい。農家が刈り入れを済ませると次に彼らの略奪が始まる。農家を襲って殺し、収穫物や家畜を奪う。

聖書の中にも奴隷の話はたくさん出てくるけど、この奴隷という概念も遊牧民を理解していないと理解できないらしい。つまり、ヒト家畜。家畜が生活の糧。そのためヒトの売買も成立する。

伝統や文化というけれど、それが民族であり、国家であるというのはどうも。アベルとカインの話から始まり、すべての民族のルーツは一つと語る一方で兄弟は他人の始まりどころか諍いの始まり?

***

旧約から新約へ。
福音か。

宗教が原因で戦争が起きると勘違いしている人たちは、聖書を旧約から新約まで読むべき。わたしも今日に至るまでいろいろなことを勘違いしていたらしい。生活が違うから、理解できないところがたくさんある。

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February 08, 2006

【今日の短歌】 てのなかをくるりぬけゆくこいぬには袖のなかさえ進みゆくみち

ただ寒き風の向こうに打たれたる枯れ芝のうえ飛び乗ってみる
さむぞらに頬染め歩く霧雨の傘の下にぞあどけなき頃
雨の中閉め忘れてた扉にはキーの音だけかわらまわりする
四角くてまるい顔してくしゃみするこいぬにはまだ冷たい季節
てのなかをくるりぬけゆくこいぬには袖のなかさえ進みゆくみち

投稿者 Blue Wind : 03:21 AM | コメント (0) | トラックバック

【トラバ短歌】 ちどりあし

>>○ にっこりと丼ほどの大きさの コーヒーカップを小粋に掲げ
>☆ けだるくもジョッキ小の大きさの重いカップは冷えたるままに
○ アンニュイな眠気を覚ます珈琲丼 たった一杯で夜まで眠れず
☆ スーパーのプラスティックのカツ丼がなつかしくなるうすぺらなグアム
(あんなまずいカツ丼が世の中にあるとはゆるせない・・・・まあ、いっか)

>>○ いっぱいの珈琲飲んで腹膨れ 千鳥足とる眠気は覚めたが
>☆ 氷など要らない冬の珈琲をプルメリア咲く器に半分
○ 半分に割ったスイカを食べようと やってみたらお腹壊した
☆ つる割れたりんごを一つ置きざりにぽつりぽつりと茶がまじりゆく

○ まさぴんさん  ☆ Rin

投稿者 Blue Wind : 02:19 AM | コメント (0) | トラックバック

アブラハムと紀子さまご懐妊の夕べ

聖書を、文学として、歴史書として、読んだことがなかった。

なんで不意にそういうことを考えたかというと、バルバロ神父さまの聖書を読んでいるうちに、少し読んで、注釈を読み、ひといきつき、背中でニュースを聴き、その壁の向こうにはバッテリーが上がってしまったためエンジンをかけっぱなしの車が停まっており、これでは買い物にも行けないと思いながら夕方になってしまったからである。

つまり、うたを詠むためのモードではなく、日常のあわただしさに紛れながら面白いから続きが読みたくなってしまう本を読むモードで、聖書を読んでいることに気がついたから。

面白いんだよね・・・
聖書を読み始める前にイスラエルの歴史から始まり、それを読んでから創世記へ。そうすると、これは民族の歴史書であり、今もなお生きている人たちの歴史だということに気づく。それは、古事記や日本書紀みたいなもので、混沌としていながらもその当時の人たちの生活の様子が見えてくる。

そんなことをしているうちに、ちょうどアブラハムのところを読んでいると、テレビから紀子さまのご懐妊のニュースが聴こえてくる。例の法案はどうなるのだろう?・・・と思ったとたんに国会のシーン。まあ、法案は出されても、決議されるにはまだ早すぎる。それどころか、憲法改正の話すらなしくずしになる可能性もある?

いや・・・・法案自体は提出されるだろう・・・・・・小泉首相だもの。紀子さまのご懐妊と法案の提出とは別問題と言われてしまうと困る。まあ、それはそれで正しいのかもしれない。それでいて、ことなかれ主義でなしくずしになっていくほうが日本的という気がしてしまう。

なんか、後継者争いみたいじゃない?
それをあからさまに国民に問うという姿勢には慣れていない。

万世一系と国政か。
鎌倉時代に始まった政教分離。明治でとんでもないことになり、昭和。そして、平成。

聖書と枕草子をかわるがわる読んでいます・・・

投稿者 Blue Wind : 01:11 AM | コメント (0) | トラックバック

February 07, 2006

ひねもすはゆく

知り合いの柔道一家。お父さんもお母さんも子ども3人で柔道をやっている。
女の子が1人いて、その子が一番強いらしい。で、どぉ〜っしても柔道の名門校へ入りたいというので、都内まで1時間半かけて通うそう。柔道というか、スポーツに力を入れている学校。
茨城の自宅から通うため、さすがに帰りが心配だから、母親が帰り一緒に帰って来られるように今の勤め先を辞めて、都内に探している。

毎日、駅や学校まで送迎するだけでも大変なのに、帰り一緒に帰って来るというところがすごい。

わたしには無理。
ヒマだから毎日送迎しろと言われてもさすがに・・・そこまではできない。

今、ようやく塾の送迎がなくなったので、夕飯もゆっくりしていられるようになった。昨日は昨日でいきなり母の息が止まったと病院から連絡があるし・・・驚いて行ったら、そのときにはもう普通に戻っており、要するに痰がこのところ硬くなり、それが喉につかえたらしい。軽い気管支炎だから2,3日でよくなるそう。

テンちゃんが生まれて、マリが母なのだからと思っても、マリはおっぱいをあげるのが下手で、誰かが抱っこしてあげないとミルクを飲ませられない。日中ひとりのときなど、マリとテンを抱っこしているとオトがひがむため、どういうわけか3匹まとめて抱っこしている。

他愛なくやることが多い。

***

国立大学の競争率が発表された。なんなんだ、あの低倍率は。あれなら誰でも入れそうな気がする。事実、少子化の影響で誰でも入れるのかも。

それにひきかえ、私立中学の受験生は増えている。わが家のほうだけだろうか。TXが開通したし・・・
私立ははっきりしているし・・・受験案内などを見ながら、スポーツの名門校というのが本当にあるのだということを知る。年齢制限はあるものの、オリンピックやインターハイという文字が並んでいるのを見ると、やる気のある子ならどんなに遠くても通いたくなる気持ちもわかるような気がする。

が、しかし・・・・スクールバスで通いたいという娘はそれなりに親孝行でもあり、かったるいから指定校推薦でどこか適当に大学まで行ってくれたらありがたい。そうやってだるだるな親子が多いから、国立は人気がないのだろうか?

***

今すごくほっとしていて、あれこれ本を買い込んでいる。少し古典を読んでみたくなったのと、聖書を買い足したのもヒマがなせるわざか?

家でぼぉ〜っとしていると、それなりにやりたいことが次々と発生してしまい、このところはまっているエチオピア産のコーヒーなどを飲みながら、どういうわけかイスラエルの歴史のところを読み始めてストップしてしまった。

文系の学生のくせに、古典も歴史も苦手意識が強い。だって受かったらまるで必要なかったし・・・もっと統計と物理を勉強しておけばよかったと思ったくらい何かどこかが違ったせい。

それでも、今まで興味のなかったことに没頭できるというのも長生きしているからで、40歳を過ぎたら、あとは余生だから好きなことをさせてもらおうというのは甘いかな。ひねもすはゆく。

投稿者 Blue Wind : 03:19 AM | コメント (0) | トラックバック

February 06, 2006

【詩篇を詠う】 神とだにしづもりゆかば魂はゆりかごのなかすくわれしごと

昨日の続き、詩編62. 1-2 より

神とだにしづもりゆかば魂はゆりかごのなかすくわれしごと
岩のなかすくわれしごと神のみ手ゆるやかにしてわが砦なり

投稿者 Blue Wind : 11:39 PM | コメント (0) | トラックバック

【今日の短歌】 ぼんやりと枕草子の喧騒を映画のように色ながめゆく

ちくちくとちいさな爪をひっかけてぱしぱし母の腹打つこいぬ
春の弓冬へひきこみ大空へ矢を放つ日はどんより曇り
息止まる。痰がつまって息止まる。それだけなのにおおげさすぎる。
じっとして春夏を待ち秋を愛で冬が過ぎれば春がくる国
ぼんやりと枕草子の喧騒を映画のように色ながめゆく
文字の国息をしている人たちがものもうしたりいとをかしらし

テンちゃんはうっかりするとすぐ落ちる。ベッドのうえから椅子のうえから。
三日ばかり生きればほふく前進でくるり回転山登りたる
テンちゃんは8グラムずつ育ちゆき月の終わりは2倍の体

投稿者 Blue Wind : 03:18 PM | コメント (0) | トラックバック

4つの詩編62

今日、3冊の聖書が届いた。


Holy Bible: Contemporary English Version


バイリンガル聖書


フェデリコ・バルバロ
聖書―旧約・新約

それで、何気なく開いたら、詩編62。

***

『バイリンガル聖書』によると、詩編62. 1-2は以下の通り。

My soul finds rest in God alone;
  my salvation comes from him.
He alone is my rock and my salvation;
  he is my fortress, I will never be shaken.

『Holy Bible: Contemporary English Version』によると、次のようになる?

Only God can save me,
  and I calmly wait for him.
God alone is the mighty rock
  that keeps me safe
and the fortress
  where I am secure.

***

なんかショック受けちゃって。
日本語訳で違いがあることは、それこそ文語もあれば口語もあるため、これほどまでのダメージをわたしに与えない。だけど、外国語というのはあまりにも正直すぎてつらい。意味は同じでも、これほどまでに違う、ということから逃げられない。

ちなみに、日本語で比較すると次の通り。

***

いつも使っている日本聖書協会の新共同訳。

  わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。
  神にわたしの救いはある。
  神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。
  わたしは決して動揺しない。

『バイリンガル聖書』の訳文。

  私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。
  私の救いは神から来る。
  神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。
  私は決して、ゆるがされない。

バルバロ神父の訳。講談社の聖書。

  神においてのみ、私の魂はいこう、
  神から私の救いは下る。
  そうだ、神は私の岩、救い、
  砦だ、わたしはゆらぐまい。

***

ほかにもあるが、とりあえず・・・
本屋で見たのなら、おそらくは自分の好みとして講談社の聖書を買ったと思う。

投稿者 Blue Wind : 06:49 AM | コメント (0) | トラックバック

【トラバ短歌】 目分量

○ にっこりと丼ほどの大きさの コーヒーカップを小粋に掲げ
☆ けだるくもジョッキ小の大きさの重いカップは冷えたるままに

○ ガラス越し陽射しさしたる夏の午後 珈琲いっぱい眠気の覚める
☆ ひねもすをカップ半分満たしてはモカシダモとは何処の国か

○ いっぱいの珈琲飲んで腹膨れ 千鳥足とる眠気は覚めたが
☆ 氷など要らない冬の珈琲をプルメリア咲く器に半分


○ まさぴんさん  ☆ Rin

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『日本人とユダヤ人』 イザヤ・ベンダサン著


イザヤ・ベンダサン, Isaiah Ben-Dasan
日本人とユダヤ人

***

この本のおかげで、どうして娘が算数1だったのか理解できた。

小学生ってとても不思議なことがある。計算は合っているのに、式を平気で間違えたり・・・
計算はできるのに、式を書けないとか。娘の場合、かけ算はできるけど、九九ができなかった。このことが致命的で、たちまち算数嫌いになってしまった。(かけ算はできるが、九九が言えない、九九を覚えていない。)

ベンダサンの説明によると、日本人の頭の中にはソロバンがあり、ソロバンがあるから、アラビア数字を使う以前から計算ができたのだと言う。つまり、普通は数式を書いたり、筆算を使わないとできないような計算でもソロバンを使えば簡単にできてしまう。名人級になると、頭の中にソロバンがあり、暗算で計算ができる。

ユダヤ人にとっての律法というのは、頭の中のソロバンのようなもので、目の前に存在しないけれども頭の中に”実存”し、無意識のうちにそれに従って行ってしまうものらしい。意識する以前の問題だと言われるとそうかもしれない。神は目の前に存在しないけれども、実存している、というのはそういうことだと説明されると何となくわかったようなわからないような・・・

それでは、日本人にはそういう律法に相当するものはないのだろうか?

それが、ベンダサンによると、人間教らしい。
それは人間的ではないとか、人間なら当たり前、とか、大抵の日本人なら、そうやって言われると納得してしまう。法律とか律法という前に、人間的という意味での黙契があり、無意識のうちにそれに従ってみんなが行動してしまう。だからといって、「人間的ってどういうこと?」という問いに対し、これといった定義があるわけでもない。情の問題というか・・・

まあ、なんと言うか、そういう風に言われると困ってしまう。
もともと文字もなかった国だし、文字ができたとたんに自由奔放にそれを使いこなす。しかも、明確なルール(数式のようなきちんとしたルール)がないにもかかわらず、何となく読めてしまうというか、意味が通じてしまうというのも変なのだそう。(主語がないとか・・)

そうやって説明されると、ロゴスというのが言葉であり数式であり、だからこそ言葉はまるで数式のようであり、明確なルールによって構成されている、という大前提が欧米語やヘブライ語にはあることが理解できるようになる。だから、最初に数式があって答えが導き出されるように、最初に言葉があって答えが導き出される。だから、議論や対話が発展してきたらしい。

ところが、日本の場合、ソロバン文化だから、最初に数式があるわけではなく、だらだらと書いているうちにそれが文章として完成してしまう。主語が欠如していても意味が通じるというのはそういうことらしい。パッと思いついたからと言って、それがどうやって導き出されたものであるのかを説明するのは非常に困難であることを考えると、便利なような不便のような・・・

というわけで、ベンダサンに言わせると、日本のクリスチャンというのは正確には日本教徒キリスト派なのだそう。日本の古典などにも強く、ユダヤ教徒キリスト派について説明されると、そういうものなのかもしれないという諦めすら感じてしまう。

たとえば、「ユダヤ人とはユダヤ教徒のことだとも言われているが、ユダヤ人の中にはキリスト教徒もいるからユダヤ教徒がユダヤ人だとは必ずしも言えない」という文章をどうやって翻訳するのだろう?

ユダヤ人という言葉をギリシャ語になおすとユーダイオスであり、ユダヤ教徒という意味。だから、「ユーダイオスとはユーダイオスのことだと言われているが、ユーダイオスの中にはクレスティアノス(キリスト教徒)もいるからユーダイオスがユーダイオスだとは必ずしも言えない」という意味不明の文章になってしまう?

一つわかったのは、ユダヤ人と議論しても勝ち目はないということかもしれない。
でも、面白かった。

投稿者 Blue Wind : 12:15 AM | コメント (0) | トラックバック

February 04, 2006

【今日の短歌】 あしひきの山の尾根さえマンションの蔭に沈みぬ空さえ沈みぬ

風よ、今、何処へ進む風のみち、砂か花粉か何を載せゆく
あしひきの山の尾根さえマンションの蔭に沈みぬ空さえ沈みぬ
少しずつマリアの顔が母親の笑みをふふみてふかまりゆくや

文字さえももたない頃の生き様は国のないまま笑み浮べたり
書いた文字消えないままにのこりゆく世界の果てが国の成り立ち
一つずつ増えて削られまとめられことばあそびは電子の世界

鎌倉の頃に生まれたふたつ屋根よわまりゆかば葺き替えられて
春の日が突然やってきたような厳しさのない春こそが春
ひなあられ山と積まれた節分に季節の色を垣間見る店

文字のない国だからこそ文字だけが自由におどる世界もありき
みかづきが白く浮べば冬の空ざくろの皮の風に吹かれり
少しずつ何かが変わってゆくような地球も今もこいぬの笑みも

投稿者 Blue Wind : 11:32 AM | コメント (0) | トラックバック

『これで古典がよくわかる』 橋本治著


橋本 治
これで古典がよくわかる

***

一気に通読。
古典がわかるようになるというより、日本語の変遷の歴史がメンタリスティックに理解できるようになる。

ひらがなやカタカナが使われる以前から始まり、ひらがなとカタカナの利用のされ方の違いなど、そういう意味では古典(文学史)がわかったような気になってしまう。つまり、明らかに漢文というのは男性が使うもので、今でも漢字とカタカナで書かれた活字といえば古い法律関係の本などを思い浮かべてしまうことを考えれば、いかに堅苦しい世界か理解できる。

じゃ、なんで、男がひらがなを使ったか?
要するに、女性は漢文などまるで理解できないものであり、理解できないことが女性のたしなみであった時代、女性のために何かを書こうと思えば、ひらがなを使うしかなかった、ということがよぉ〜っくわかった。

書き言葉と話し言葉の違いの伝統も、どうして長い間、漢字とひらがなとが同時に使われた書き物がなかったのかも、よぉ〜っく理解できた気がする。

漢文。
あれって昔から胡散臭いと思っていたら、やっぱそうだったのかという気分。
漢字と記号とカタカナ。
なんか胡散臭いでしょ?

要するに、どーやって読むのかわからなくなるから、カンニングのつもりで書き込んだのが最初。

ひらがなの文学。
あれはどちらかといえば、話し言葉の世界。とてもくだけたもの。お話するような調子で、気楽に書く。法律に関する書類がいい加減だったら大変だから、これはいい加減なものではない、という意味で漢文、あるいは漢字+カタカナが用いられるのとは逆。

問題は・・・・ひらがな文学の場合には、とてもコムズカシイことを子どもが語ろうとするととてもわかりにくくなってしまうのと同じような感性で読まなければならないということかも。

和歌も(随筆も)、それがいかにくだけた人間的な書き物であるか理解できた気がする。

文字を使って自分の気持ちを表現するってとても人間的なことなんだろうし、それを技巧と言ってしまうのは少し寂しい。素朴な感情、複雑な感情、心境、心境の変化、それを詠みこむ。そして気持ちが伝わってきたとき、初めて感嘆する。

古典嫌いが歌を詠むようになり、そういうアンビバレントなところが少し解消できた気がする。
いや・・・逆に、どうしてわたしが古典が嫌いになったのか、そういうシンプルな疑問が解決したような気がする。コムズカシイ注釈やわかりにくい文章。ストレートに読むのではなく、いつも他人の注釈を気にしながら読まなければならない古典なんて面白いわけないじゃん。

投稿者 Blue Wind : 05:00 AM | コメント (0) | トラックバック

February 03, 2006

コオト

今日はさすがに頭が朦朧としている。夕方まで寝ていたせいかも。娘も学校から戻るなり熟睡していた。

昨日の夜、7時半頃にマリがいきなり2階に駆け上がって行った。ちょうど食事中だったので誰も動かない。わたしがもしかすると破水したかもしれないと言ったけど、それまでまるで気配がなかったため、ダンナが本気にしてくれない。

マリを下に連れてきたが、2階でないと落ち着かないようなので、ベッドの上を明け渡す。

もうどーとでもなれ、という気分で、タオルを何枚も用意して、マリと一緒に寝ているうちに、娘は本当に眠ってしまい、マリは陣痛が始まるとベッドの端のほうに移動して布団の中で悲鳴をあげる。そのたびにわたしは起き上がり眠れない。ダンナはどういうわけか、下のソファで寝ていた。

先日、獣医へ行ったら、オスは子どもを噛むから離しておいてくれと言われたため、オトを部屋の外へ追い出したらずっとドアをカリカリしながら吠えている。そのたびにマリの陣痛が弱くなるため、オトを下の部屋へ連れて行き閉じ込めたがドアをカリカリして吠えている。仕方がないので、マリが入るはずだったケージの中にオトを閉じ込める。が、しかし・・・・ずっと吠えている。

6時間くらいそうしていただろうか。最初のうちは破水したら1時間くらいで生まれると思っていた。いつまで経っても生まれないので慌て出す。慌てて獣医に電話したけど通じない。そのため電話帳を片っ端からかけてみたけど、どこも留守電。仕方がないので、ネットで検索してみたり、ペットショップに電話したがどうにもならない。しかも、破水後、お腹の軽くなったマリはやたらと元気に飛び回っているので、実はどこかに生まれているのではないかと不安になり、家中捜したが子犬はいない。(当たり前か・・)

破水から4時間も経過してしまうと、あとは次第に諦めて、明日の朝、獣医へ連れて行こうと思った。で、寝ようとするとマリが悲鳴をあげる。もしやと思い、マリのお尻を見たら、子犬が下がってきている。どうにか脚だと判別できたので、ダンナを起こし、いや勝手に起きてきたので、そのまま交代して、わたしは休憩することにした。

・・・・・あとは、ブログを書きながらタオルを絞り、記事をアップしたとたんに、「生まれたよ」と2階からダンナの声がしたので駆け上がる。あっという間に臍の緒の処理を済まし、古いタオルごと汚物を捨て、子犬を拭いてあげたら、ダンナはまた寝てしまった。娘も起き出して、そのまま明け方まで一緒に起きていた。興奮して眠れない。

子犬がオトの遠吠えに反応して、キューキュー鳴いている。そこでオトを閉じ込めたままだったのを思い出し、ケージから出したとたんに2階に駆け上る。マリは難産に疲れ果て、ぐったりしているだけ。ミルクも与えない。オトが代わりに子犬を舐めている。噛んだらどうしよう・・・と思って見ていたが、ぜんぜん平気だった。オトを疑って申しわけないと思った。他人の言うことを信用したわたしがバカだった。

名前を付けねば・・・
娘は、キューキュー鳴くからキューちゃんと呼んでいるし、ダンナはオトの子だからコオトと呼んでいるし、わたしはマリの子が女の子だったらコマリと呼ぶつもりだったのがオスだったのでコタロウと呼んでいる。オトはオットー、イタリア語の8。つまり日本名ハチと呼ぶべきか。じゃあ、ハチの子はキュー? いっそのことテンちゃんにしようか、など考慮中。

投稿者 Blue Wind : 11:44 PM | コメント (0) | トラックバック

【今日の短歌】 力ないこいぬの爪はかざり窓こねこのような声で鳴きたる

子が泣けばオトが最初に飛んでゆく。飼い主似だと吾子に言われる。
7時間。疲れ果ててかマリと吾脱力の夜朝を待ちたる。
力ないこいぬの爪はかざり窓こねこのような声で鳴きたる
こいぬにはここが最初の世界だと見渡してみて今はまだ夜
母の傍子を移しては心配になるとは人の群れにいる犬
里親になった気がするわたくしはしばしの間孫の世話かな

投稿者 Blue Wind : 06:20 AM | コメント (0) | トラックバック

生まれた

ひといきついているうちに、生まれた。
みるみるうちにピカピカになり、動きはじめる。
こねこのような声。

マリも元気。
よかった。

投稿者 Blue Wind : 03:28 AM | コメント (0) | トラックバック

ピンチ

ちょっと休憩。
午後7時半くらいに破水し、いつ生まれるだろうかと待っているのだが・・・なかなか生まれない。かれこれ6時間以上経った。電話帳を見ながらあちこちの獣医に電話しまくったが、全部、留守番電話。オトも落ち着かない。

今、ようやく少し脚が出てきたところ。で、ストップしている。最初はケージの中で産ませて、と思っていたけどそれどころじゃない。陣痛がきた時点で走り回ったり、布団の中にもぐりこんだり、落ち着いたかと思えば陣痛が来なくなり、再び陣痛がくるとすぐに休憩。

もう死んだのではないかと思うが、マリの悲鳴により生きていることがわかる。その繰り返し。疲れた。朝までには生まれるだろうか・・・獣医は9時にならないと開かない。

ピンチ。

投稿者 Blue Wind : 02:24 AM | コメント (0) | トラックバック

February 02, 2006

ひとりで聖書とにらめっこ

よく考えなくては・・・
日本だとクリスチャンは100人に1人と言われているが、キリスト教にもいろいろあって、・・・悩む。

この前、友達から電話があり、受洗のことで相談したら、彼女のところは結婚と同時にカトリックに改宗したご主人が今度はハリトリス教会へ改宗し、ハリトリスと言われてもわたしにはよくわからない。くま先生はプロテスタントらしく、土浦にセント・ポール系の教会があり、そこの信者さんらしい。ピンポ〜ン、とやってくるのは、新興宗教系のクリスチャン。

一口に教会と言っても、いろいろありすぎて悩む。

学校でもそうでしょ? カトリックもあればプロテスタントもあるし、まるで校風が異なる。一口にクリスチャンと言うのは簡単だけど、カトリックの友達もいれば、プロテスタントの友達もいる。

全然、違う。

どこが違うか、おおざっぱな言い方をすれば、雰囲気・・・

イタリアへ行っても、同じようなことを感じた。おおざっぱにカトリックで括っても、一つの町の中にいくつもの教会があり、半島のあちらとこちらに違う教会が建っている。

それで結局、ノラクラしながらひとりで聖書を読んでいる。この習慣は、おそらくは祖母の影響かもしれない。仏教にもいろいろあり、祖母は禅宗に馴染めず、実家の日蓮宗への愛着が強く、ひとりで巡礼に行ってしまう。それで、ひとりであれこれ本を読んでいた。家の中に仏壇がふたつあるのは・・・よくない?
仏壇というのは、先祖のためだけにあるのではないことを祖母から学ぶ。

大抵は、先祖の供養のために仏壇がある。日本だとそれがノーマルな感性ではないかと。

ややこしいからね。ややこしいから、ひとりで聖書を読んでいるくらいがちょうどいい。そういう感覚は、家の中に仏壇があり、毎週神社や寺へ集まるという習慣のない日本人的感性に近い。

で、仏教にもいろいろあって、どこが違うのか訊くと、「教え」らしい。昔、母に訊いたら、祖母が言うには、日蓮宗というのは、法華経という最高のお経。つまり、組織や派閥的仏教ではなく、経に立ち帰れ、ということらしい。仏陀や阿弥陀や観音や、いろいろ宗派によって違う。でも、日蓮宗というのは仏教のプロテスタントのようなもの、とわたしは理解している。

元は一つ。

いくつもの流れがあり、最後には海にたどり着けばいい、という気分。

聖書もたくさんあり、また何冊か注文した。ヘブライ語もギリシャ語もわからないし・・・
聖書にも著作権があることを知り、それならばいくつか読んで、自分の言葉をみつけよう、というか、訳した人の雰囲気で、聖書でもまるで雰囲気が違うことに気がついたから。

まあ、いいや。
外へ向かうとややこしいから、次第に内向していってしまう。ことなかれ主義というか、喧嘩しても損だから自分のことだけやっていたらいい、というのもどこか日本人的なんだろうな。

投稿者 Blue Wind : 05:39 PM | コメント (0) | トラックバック

【今日の短歌】 氷点の上で降るのか冬の雨。氷点の下の雪より過酷。

どしゃぶりに牛が鳴いているようなワイパーを聴く。ゆきどけの冬。
卒業にカウントダウンが始まった学校までのみちのり遠く
ひとつだけ自慢のできることがある。校庭の隅の四葉の多さ。
どしゃぶりにたたずむ教師信号の色によく似た傘を広げて

氷点の上で降るのか冬の雨。氷点の下の雪より過酷。
生存の確認されたあらくさが濃いみどりでこちらみつめる
春の日はいつも突然やってきて雪か雨かととまどう薄日

投稿者 Blue Wind : 02:02 AM | コメント (0) | トラックバック

February 01, 2006

ルカによる福音書 6. 27-36

敵を愛しなさい

「・・・・・・しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。」

***

すごくインパクトのある表現で、インパクトがあるがゆえに戸惑うほうが普通だ。

「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。」
「え・・・・」
「わるぐちを言う者に祝福を祈り、ぶじょくする者のために祈りなさい。」
「え・・・・・・憐れむくらいなら」
「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬も向けなさい。」
「・・・・・・・打たれたら自然とそういう格好に」
「上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。」
「持ってけ、ドロボー!」
「求める者には、だれにでも与えなさい。」
「要らないものなら・・・」
「あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。」
「そんなことをしたら、もっと酷い目にあいそう」
「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。」
「特に、何も・・・」
「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。」

大抵は、屁理屈をこねまわしながら、聖書を読んでいるということがバレてしまう。

投稿者 Blue Wind : 11:59 PM | コメント (0) | トラックバック

ゆとりのあった一日

久しぶりに娘とスーパーへ行く。
このところずっと学校から塾への直行便だったために、何となく学校帰りの娘を連れて買い物へ行くというのも懐かしい。それだけでどこか解放感が広がる。その後にのんびり100円ショップへ行き、毛糸や小物を仕入れた。

娘がマフラーをしている。文字通り、”手編み”。本当に手だけで編んだ・・・

その毛糸をどこで買ったのか訊いたら、100均(100円ショップの略)で買ったと言うので、ついでに生まれる子犬のためにおくるみでも編もうと思って買いに行った。

糸が太い。
驚く・・・
100均で売っている毛糸は驚くほど糸が太い。専用の編み棒まで売っている。

迷った末、娘が適当に選んだ毛糸で編み始めた。あっという間に1玉が消える。1玉でこれしかないのか・・・と思うくらい寂しい。気がつけば5玉を消費している。糸が太いので、おくるみというよりも玄関マットに近い雰囲気。しかも、かぎ針のほうを使ったため、さらに分厚い。いっそのことおざぶにしてしまおうかと思うくらいだ。

しかも、細いあみ針とは違い、やたらと太いので案外力が要る。たこができそう。それでもあっという間に完成しそう・・・にもかかわらず、問題は買い占めてきたのはいいが、全部で13玉しかないため、どの程度の大きさまで対応できるか今の時点ではわからないし、糸がなくなったら終わり。困った。編みながら考えるしかない。ハラハラドキドキ。中央パーツを完成し、今、側面に取り掛かったところ。

***

ゆとり教育。

何となく反対だったのだけど、徒競走などの競技が消え、運動会は面白味も薄くなり、その代わり、なわとびを一生懸命に練習している子たちのことを想うと、それはそれでよいことのような気がしてくる。

なわとびは競技ではないけれども、自己ベストの世界。ようやく2重飛びが6回続けてできた、とかね・・・娘のレベルはその程度なんだけど、個人差があるせいか、おおげさな言い方をすれば、自己記録更新の世界。みんなで競争するというより、励ましあって、たかがなわとび、されどなわとび。

***

教師。

6年になって知ったのだが、娘の担任の先生は元マラソン・ランナー。折りしも塾の先生はサッカー選手。

担任の先生は、それまで音楽の先生だとばかり思っていた。イメージが狂う。塾の先生は声だけ聞いているときには、おとなしい、なよなよした先生なのかと思っていた。ところが面談で出かけて行ったら、いきなり坊主頭なので「ぎょえっ」となった。イメージが違う。娘に訊いたら、昔、ブラジルにサッカー留学していたらしく、今でも趣味でサッカーをしているから、らしい。ダンナが言うには、ブラジル人の選手には坊主が多いそう。

年齢が前後しても、わたしと年の頃は同じくらいだろう。そういうバブリーな時代に教師になるというのは、そういう人たちなのかもしれないと何となく納得した。好きなことできたからねー、あの頃は。フリーターというのもその頃に出没した言葉だし、一生フリーターでも困らないと誰しも信じていた。

で、教師になったり、塾に勤めたり・・・
子ども相手の仕事のほうが夢があって楽しいのだろう。(と勝手に思った)

投稿者 Blue Wind : 02:54 AM | コメント (0) | トラックバック