February 15, 2006

形骸化

レビの書を通過し、荒野の書に入ったところ。
とっつきにくい。
最初からいけにえの話。

この、「いけにえ」という感性がむずかしい。
罪償のいけにえ。
それが後にイエス・キリストの磔刑へ。

ただ、人が集まるところすったもんだするのは当たり前で、それを裁く権利があるのが神だけだとすると、何かあるたびにモーゼのところに人々が相談しに行っていたのは想像に難くない。荒野の書によるとレビ人を除いて60万人以上。実数とは違うかもしれないけど、その人たちがいちいち祭司のところへ行っていた? (文字通りに解釈すれば、小さな村や町の人口が4万人前後だとすると、12町村あった計算になる。)

遊牧民が家畜を屠ることはめったにないらしい。
そこのところを念頭に置いて読んでいくと何となく理解できるようになった。なんせ、エジプトをはじめとして、雄牛というのが信仰の対象であり、財産であり、繁殖と繁栄という言葉が象徴するように、雄牛を屠るというのは大変なことなのである。

罪を償うために、雄牛を屠る・・・屠るのは祭司。逆に語れば、屠ることができたのが祭司だけ。それくらい大変なことだった。そこから罪の重さや財力に応じて屠る家畜が変わるけど、それにしても大変なことには変わりはない。

だから、家畜を屠るということはとても重い罰であり、それまでの労苦と生活の糧が失われてしまう。

もう、がっかりしたと思うよ・・・もう、なんであんなことをしてしまったのだろう・・・なんてね。これをしないと追い出される。荒野で追い出されたら死を意味しているくらい過酷なことだった。文字通り、血をもって贖わなければならない。

諍いを治めるためには、血をもって契約を交わす。

だから、トラブルが発生すると、罪を償うために、いけにえを屠ってもらう。いけにえというのは、いわば自分の身代わりみたいなものなのかも。そして、その謝礼として一部を祭司が食べ、燔祭として、皆に振舞われる。

まあ、なんと言いますか、そこが遊牧民というか・・・
何かあれば、すぐに殺し合いが始まりかねないし、部族間抗争とか?
そこをいさめるために、罪を犯した人はその罪を償うために祭司のところへ行く。そして、いけにえを捧げる。血の贖い。その血をもって罪が償われる。そして、再び一致団結を促すために、皆で集まって食事をする。大盤振る舞い。それにより、水に流す・・・

それが形骸化するとどうなるか?
たとえば、初子を捧げるとするでしょ? 捧げた人がそれを利子をつけて買い戻す。初子というのは人間も家畜も一緒で、初子というのは神のものだから、それを買い戻すためには祭司に銀を支払う。だったら最初から祝い金のようなものを包み、それを持って行ったほうが合理的な気がするのだけど・・・一応、形式的にいけにえを携えて祭司のところへ行く。

なんか・・・・お金があればなんでもゆるされるみたいで、いやだなぁ。それが時代というものなのかも。

投稿者 Blue Wind : February 15, 2006 02:54 PM | トラックバック
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