September 30, 2004

曖昧なラジオ放送流れては待っても空はうるわしく晴れ

高天原だから
わからないのだと思う、よくもわるくも。シオニズムも中東戦争もイスラエルもユダヤ教もユダヤ人も。なんで喧嘩しているのかまるでピンと来ない。どうしてイスラム教徒とキリスト教徒が戦争するのかも。歴史の教科書に出て来るくらいの認識しかない。

その昔高天原に神住まう深々とした霧立つ山々
天の鳥高天原に降り立てば深山の原に雲海の森
われの祖は神の国から来たものと探せど天は見守るばかり
神々の住まえる国は伝説とかわりし今もみおやをさがす

なんせ建国も新しいし、文字もないし、すべてが伝説。少なくてもユダヤ人とはまったく逆の生きかたをしてきた国だから、メシアと言われてもそれすらよくわからないのだと思う。使徒たちの苦労と言われてもわからない。律法というのがそもそも嫌いなんだろうし・・・敷島は。なんでこんなに理屈っぽい国になっちゃったんでしょうね・・・

窓の外台風なのかとワイパーをゆるめて雨をながめて走る
気まぐれにぱらりぱらり打ちつける雨のもように窓を開けたり
風の息風の音さえクルマには木陰を走る雨の小道か

曇り空びっしり埋める電線のうえにとまった小鳥の抗議
山や森夕暮れ時は飛び去れと小鳥の抗議つづく風の日
帰る山失いたれば電線が宿木だよと文句はつづく
一斉に飛び立つ鳥はいずこへと群れなしゆくか騒音となり

言の葉の舞い散るみちはかなしけれ現実というメシアのありき
言の葉をもたない国はこころなかこころこころとそうぞうしけれ
虫の音の聞こえぬ庭は雨の音くりかえしつつ風の音待つ

歌詠みのこころのひとつ歌心魂のきくいにしえのうた
今ひとつ添いてうたえばみそらにはきくもののあり雨の降る音

エゼキエル書 46. 4-10

君主は、おそらくは今も昔もこんな感じなのかも。決まっていることは変えられない。神事ってそういうものなのよね・・・ささげものから参拝の仕方や位置まで決まっている。ってことは、ユダヤ人のことを言えない。神の座る場所まで決まっている。どこから入ってどこから・・・、だって見えないから。見えないから言われたとおりにするしかない。

落雷が怒ってみても夜は更けぬ畏れる人のなかりし秋は
荘厳な儀式をながむテレビかなみおやの神も一緒にながむ
落雷の怒っているか笑ってか風は敷島歩いてわたる

ヨハネによる福音書 20. 1-10 復活する

本当に台風だ。

福島は夜から朝へとつづく距離激しき雨は今現れり
落雷はおまけじゃないかと雨音はいつものような夕立のごと
ラジオから流れるニュースぼんやりと受け流しては気まぐれな雨

やっぱ、聖書なのかも。聖書に書かれてあることは真実。
読んでもわからんほうが多いような気がする今日この頃・・・
聖書と敷島ねぇ・・・・・遠いよ。

しづしづと鳴き出す声に雨の音消え去りしこと信じるもがな
虫の音に雨は去ったと家の中雨にも濡れず音だけを知る
曖昧なラジオ放送流れては待っても空はうるわしく晴れ
虫の音に耳を澄ませば今の空知らせてくれる敷島の秋

列王記上 1. 22-40

深い・・・・
ラジオ放送と虫の音か。
ダビデ、ソロモン、イエス・キリスト。

投稿者 Blue Wind : 04:49 AM | コメント (0) | トラックバック

マタイによる福音書 10. 40-42 受け入れる人の報い

  「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」

投稿者 Blue Wind : 01:25 AM | コメント (0) | トラックバック

エゼキエル書 27. 1-36

  主の言葉がわたしに臨んだ。「人の子よ、あなたがティルスのために、嘆きの歌をうたいなさい。海の出入り口を支配し、多くの島々を巡り、諸国の民と取り引きを行うティルスに向かって言いなさい。
  主なる神はこう言われる。
  ティルスよ、お前は言う。
  『わたしの姿は美しさの極み』と。
  お前の国境は海の真ん中にある。
  お前を築いた者は、お前の美しさを完全にした。
  彼らはセニルの檜でお前の外板を造り
  レバノンの杉で、帆柱を立てた。
  バシャンの樫の木で、櫂を造り
  キティムの島々の糸杉に象牙をはめこみ
  甲板を造った。
  美しく織ったエジプトの麻が
  お前の帆となり、旗となり
  エリシャの海岸から得た紫と赤紫の毛織物が
  甲板の日よけとなった。
  シドンとアルワドの住民が漕ぎ手となり
  ティルスよ、熟練した者が
  乗り込んで水夫となり
  ゲバルの老練な者が乗り込んで
  水漏れを繕う者となった。
  海のすべての船と船乗りたちは
  お前のもとに来て、物品を引き渡した。
  ペルシア、リディア、プトの人々は
  お前の部隊に入って戦士となり
  盾と兜をお前の中に掛け
  お前を美しく飾り立てた。
  アルワドとキリキアの人々は城壁の上をくまなく囲んで立ち、ガマディムの人々は塔を固めていた。彼らは小盾を城壁の周りにくまなく掛け、それはお前の美しさを完成した。タルシシュはお前の豊かな富のゆえに商いに来て、銀、鉄、錫、鉛をお前の商品と交換した。ヤワン、トバル、メシェクの人々は取り引きを行い、彼らは奴隷と青銅の製品をお前の物品と交換した。彼らはベト・トガルマから、馬、軍馬、らばを仕入れて、お前の商品と交換した。ロドス島の人々はお前と取り引きを行い、多くの島々はお前の下で商いをし、彼らは象牙と黒檀を貢ぎ物として献上した。アラムはお前の豊かな産物のゆえに商いに来て、トルコ石、赤紫の毛織物、美しく織った布地、上質の亜麻織物、さんご、赤めのうをお前の商品と交換した。ユダとイスラエルの国もまた、お前と取り引きを行い、ミニトの小麦、きび、蜜、油、乳香を、お前の物品と交換した。ダマスコはお前の多くの産物と豊かな富のゆえに商いをし、ヘルボンのぶどう酒とツァハルの羊毛を運んで来た。ウザル地方のウェダンとヤワンは、お前の商品と交換し、銑鉄、桂皮、香水萱をお前の物品と取り替えた。デダンは乗馬用の粗い布地で、お前と取り引きを行った。アラブの人々とケダルの首長たちもまた、お前の下で商いをし、小羊、雄羊、山羊を商った。シェバとラマの商人たちは、お前と取り引きを行い、極上のあらゆる香料、あらゆる宝石、黄金をお前の商品と交換した。ハラン、カンネ、エデンとシェバの商人たち、アシュルとキルマドは、お前と取り引きを行った。彼らはお前と取り引きを行い、豪華な衣服、紫の衣、美しく織った布地、多彩な敷物、堅く丈夫によった綱で、お前と取り引きを行った。
  タルシシュの船はお前の物品を運び回った。
  お前は荷を重く積み
  海の真ん中を進んだ。
  漕ぎ手がお前を大海原に漕ぎ出したが
  東風がお前を打ち砕いた
  海の真ん中で。
  お前の富、商品、物品、船乗り、水夫、水漏れを繕う者、物品を交換する者、船上のすべての戦士、すべての乗組員たちは、お前が滅びる日に海の真ん中に沈む。
  水夫たちの叫び声で、町を取りまく地は震える。
  櫂を漕ぐ者は皆、その船から降り
  船乗りと水夫たちは皆、陸に立ち
  お前のために声をあげて、いたく泣き叫ぶ。
  彼らは頭に塵をかぶり、灰の中で転げ回る。
  彼らはお前のために頭をそり
  粗布を身にまとい
  お前のために心を痛めて泣き
  痛ましい悲しみの声をあげる。
  また嘆きの声をあげて、哀歌をうたい
  お前のために挽歌をうたう。
  誰が海の真ん中で
  ティルスと同じようになっただろうか。
  お前は海を越えて商品を輸出し
  多くの国々の民を飽き足らせ
  豊かな富と産物で、地上の王たちを富ませた。
  今、お前は海で難破し、水中深く沈んだ。
  お前の積み荷とすべての乗組員は沈んだ。
  海沿いの国々の住民は皆、お前のことで驚き
  王たちは恐れおののき、顔はゆがんでいた。
  諸国の民の商人は
  口笛を吹いて、お前を嘲る。
  お前は人々に恐怖を引き起こし
  とこしえに消えうせる。」

投稿者 Blue Wind : 01:19 AM | コメント (0) | トラックバック

September 29, 2004

虫の音のいつまで続く秋の夜は車の音の走り出すまで

聖書の中の神という言葉は、おそらくは正確には天。少なくても、敷島(日本)にとっては、天というほうが分かりやすい。天だから・・・

日本語の神という言葉は、いろいろなものや人をすぐに神という言葉にしてしまうくらい多様な使い方をする言葉の一つなのだと思う。いろいろな宗教が入って来て、大抵の人たちはそれを一つの教えとして受け入れる。そして、混乱すると、天。

最後には天にゆだねるという感覚は、うまく説明できない。神々の上に天があって、天を仰ぐ。

ポルチウンクラに入った瞬間の感覚は、言葉にはできない。それを自分の言葉で説明しようとすれば、座禅とか、無我とか、すとんと落ちる感覚に近いのだと思う。それがどうしてたやすく訓練もなくそういうふうになれるのか分からない。でも、それを自分の言葉で表現しようとしたら、瞑想とか、禅、とか、無我とか、そういう言葉になってしまう。

日本人の宗教観を海外の人たちに説明するのは極めて困難。誰かが日本教と呼んでいるらしい。それくらい説明するのが難しい。が、しかし、ラテーノには、こう言えばよい。天を指差し、「フランチェースコ」。足りなければ、十字を切る。大抵の人たちは深く興味を持つわけではないから、これで十分なのかもしれない。

というわけで、いたって平均的な日本人としての私は、カルチェリの庵へ行った印象は、まるで出雲大社みたい、というとんちんかんな印象なのである。一つには森林がそのような雰囲気をかもし出していたのかもしれないし、苔のむした岩を見てそのように感じたのかもしれないし、実は、あれは山なのである・・・どちらも。聖なる山。何もない時代から、聖地だったらしい。そこに後から社がつくられた。

結局、建物などは後からつくられたもの。それぞれの文化や様式があり、一つの表現にすぎない。

私には私という媒体があり、言語がある。だから、その自分を通して語ろうとすれば、私の枠組みとして語るしかない。民俗学の人たちが語れば、もっと違うように語れるのかもしれないし、大抵は社がつくられる前から聖地というものは存在し、今でもそれはあちこちにあるらしい。私には分からない。

どうやら、私たちは互いに理解しあえないように分かれているらしい。それがひとつになるためには、混沌とした世界が必要なのかもしれない。何もかもが曖昧になり、何も分からなくなる。

一つ分かっているのは、キリスト教が伝わった時点で、誰かが神という言葉を使ったということかも。この言葉は、位で言えば、天より低い感じがある。そこが敷島なのであり、極めて慎重で受容的。神という言葉で語れば、素直に受け入れてしまう。何とか教の神さまとか、そういう言い方をする。が、しかし・・・天となるともっと神聖な雰囲気がある。

あんなに宗教熱心なユダヤ人に無神論者が多くて、こんなに宗教が嫌いな人たちが多い日本人が天という言葉には反応する。う〜ん・・・・こんなに立派な聖書があり、人類の発生の歴史まで克明に記されているし、事細かな律法。何もない敷島・・・何もないから黙契というものの中で動く。和と呼ぶらしいけど。すべてを超越した神のことを天と呼ぶらしい、私たちは。

エゼキエル書 27. 1-36

ティルス・・・うぅ・・・・・
たしかにティルス状態なんだろう・・・・・・なんかね。日本といえば、スズキやホンダらしい。敷島よ〜、さらば〜って感じ。秋刀魚にまで逃げられて、ロシアから戻ってこないというし・・・日本の秋も変わった。

身の丈のみじかきすすき枯れ野原あらくさ刈りの秋を待たずに
しょぼくれたすすきの野にも秋の月煌々として空に輝き
花の歌詠めないなどと言われても花屋の花を花と呼ぶかな
敷島よさらば敷島意味不明歌有らばこそ少し使えり
敷島よ人工衛星浮かべては天は死んだと遊んでいるか
わが眼には月の虹色美しく輪となり映るレンズの不思議
世にもまだめずらしきかな月の虹ながめてうれし雨あがる秋
虫の音のいつまで続く秋の夜は車の音の走り出すまで
松茸の産地を見れば彼方より送られたまま秋を迎えし
秋刀魚さえロシアか岩手悩んでは泳ぐ魚の気まぐれなるか
嘆き歌開口一番秋刀魚とはすすきの穂さえお気持ちていど
夏休みもすこし長くしてほしい秋はなかなか来ることもなく
秋の月うさぎの季節迎えても過ぎゆく夏はなごりをとどめ

たしかに月も見えない、花は花屋となったら、花の歌なんて詠めないよね・・・台風も来ない秋。喜ぶべきか、悩むべきか。

和の心求めて秋は新幹線模倣の都われらが京都
京都すら異国情緒に溢れてはわが敷島はいずこに消えゆ

マタイによる福音書 10. 40-42 受け入れる人の報い

もう敷島は死んだんだろうか?

敷島よわれらの天は死んだのか天を仰げど寂しくもあり
滅びゆく天にも似たりわが町はロケットを見て天を語れり

もう無理なのかもしれないな・・・・諦めるか。もう無理なのかもしれない。太古に戻って考えても、ティルス。

アフガンの長老会議みるような神有月にこたえをたくす

たしかにユダヤ人と比較されても負けないね・・・敷島は。

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September 28, 2004

ルカによる福音書 6. 27-36 敵を愛しなさい

  「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬を向けなさい。上着を奪い取る者には、下着を拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者になりなさい。」

投稿者 Blue Wind : 11:03 PM | コメント (0) | トラックバック

ダニエル書 2. 47

王はダニエルに言った。
 「あなたがこの秘密を明かすことができたからには、あなたたちの神はまことに神々の神、すべての王の主、秘密を明かす方にちがいない。」

投稿者 Blue Wind : 10:58 PM | コメント (0) | トラックバック

ルカによる福音書 19. 45-48 神殿から商人を追い出す

  それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出し始めて、彼らに言われた。「こう書いてある。
  『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』
  ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」
  毎日、イエスは境内で教えておられた。祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀ったが、どうすることもできなかった。民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである。

投稿者 Blue Wind : 10:55 PM | コメント (0) | トラックバック

敷島は天を仰ぐと人の言うみそらの色に浮ぶ月虹

「もういいだろ?」
もういいよね・・・
甘えているわけではない。

月の虹秋の夜空の雨上がりまんまるい輪で顔を覗かせ
ユダヤ人、検索してはシナゴーグ、賛美の世界なにが不足か
エジプトの栄光もまたおなじ神くらくらくらり喧嘩は尽きぬ
のらくらと天を仰ぎてゆく空は青青として月輝けり
ジーザスの何を語るかユダヤ人未知なる世界知るよしもなく
神の愛ひとりひとりの愛し方いくえにながむ天はまるがお
海の中覗いてごらんとりどりに泳ぐ魚はだれに似ている?
敷島は天を仰ぐと人の言うみそらの色に浮ぶ月虹
敷島は天と話すというのなら宇宙センターある地に住めり
レーダーは観測してる空のうえ空から月は虹を描きぬ
あの月をあなたは何と呼ぶのかとラテーノは問う巻き舌英語
おなじ星おなじ地球に住んでいてあなたの神はなんていうのか
おなじ星おなじ地球に住んでいてあなたの天はなんていうのか
ほととぎす言葉を持たぬあなたならわたしの代わり答えておくれ
砂浜にひとり座った物売りはこころがあると敷島をいう
愛のない国だとマザー何をみて語っていたのか知りたくもあり
わがこころ無にしてくれる無の世界ポルチウンクラ釈迦の愛かな
聖霊に満たされてゆく無の世界小さな庵のイタリアにあり
滑稽に滑稽にしてシンクロは山河を越えて時代を超えて
隆盛は文化とともに興り来るわすれがたみの衣とともに

民族の律法壊してまた律法宗教会議のむなしきさまよ
ただよえば敷島の人暮らしたる住みなれた町住みなれた時
戦いでもたらされゆく宗教は戦いの日に神をもとめぬ
敷島よさまよいゆかば天仰ぐ向かいて空は青青とあり

伝え合うものがないんだよなぁ・・・

ルカによる福音書 19. 45-48 神殿から商人を追い出す

必要なものは売っている、今も昔も。
買えるものは要らないってことなのかも。よーわからん。聖書も買ったんだけど。よーわからん。
フランチェスコは、本当に聖書全部読んでいたんだろうか?驚くほど遺品のない人だから、これもわからない。

フランチェスコ方式だと、世の中から教会は要らないってことになる。

世の中がすすきいっぽんなりてやも月の光の白く照らせり
もうすべて風遠くあり吹きゆかば月の虹さえ雲のまにまに

ダニエル書 2. 47

真実は悲しい空の名月のうさぎの季節待つここちかな
今日もまた贖いのうた詠みつづく月夜の晩は雨も降りやみ
広き空一つつづきぬ空の果て空を隔てし月と落陽
一日の終わりと初め日の出さえ地の裏側は落ち日を待つか
殺生を禁じるまでのみちのりにささげるひつじ幾年かさね
この国はあの国はなど遠巻きに過ぎさる日日の地球をまわる
文明は地球をまわり地の果てのすすきの穂さえ売り物にする
ヨン様を追いかけている同世代いつもなんにも考えてない
ジョン・レノン撃たれて死んだ真実は衝撃となりイマジンとなる
イエスさま愛してひさしパパさまはガラス箱入りドールとなりき
宗教はまっぴらだよとわたしたち声高にして叫んでみても
海風はいつか一つにあの雲を吹き飛ばしてはかたちをかえる
知識より愛をくれよと叫んでも悲しき空は美しく燃え
魂は生きて死んでは生きつづく消えればこころどこにさまよい
骨一つすすきの穂だに揺れている野原に立てばうたよみの里
敷島よわれを育てた土ならば土はいつから島となりにき

ルカによる福音書 6. 27-36 敵を愛しなさい

テポドン、近頃、飛んでこないみたい・・・

投稿者 Blue Wind : 03:20 AM | コメント (0) | トラックバック

September 27, 2004

ペトロの手紙 一 1. 3-9

  わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐものとしてくださいました。あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。

投稿者 Blue Wind : 01:44 PM | コメント (0) | トラックバック

使徒言行録 7. 17-22

  神がアブラハムになさった約束の実現する時が近づくにつれ、民は増え、エジプト中に広がりました。それは、ヨセフのことを知らない別の王が、エジプトの支配者になるまでのことでした。この王は、わたしたちの同胞を欺き、先祖を虐待して乳飲み子を捨てさせ、生かしておかないようにしました。このときに、モーセが生まれたのです。神の目に適った美しい子で、三か月の間、父の家で育てられ、その後、捨てられたのをファラオの王女が拾い上げ、自分の子として育てたのです。そして、モーセはエジプト人のあらゆる教育を受け、すばらしい話や行いをする者になりました。

投稿者 Blue Wind : 01:37 PM | コメント (0) | トラックバック

くさむらの風に打たれてゆれる葉のおしえてくれる静止した今

勲章は、おじいさんがたくさんもらってくれたから、もういいです。うちは一人娘だから、それすら娘のところに行くのだと思います。遺された家族にとってはそれすら負担なのかもしれないです。

そんなことより、ゼルダの伝説とか、アンジェリコの受胎告知のほうがたのしい。イタリアで一番好きになった絵は、アンジェリコの受胎告知なのだそうです。どうして、それが一番好きなのか、わたしにはわからないけれども、娘がそうやって言っているのを聞いているのがたのしい。いつか彼女なりの受胎告知を描いてくれる日が来るかもしれない。たのしい。わたしは絵が描けないからなおさらうれしい。

まじめに考えると憂鬱になることだらけ。ぼぉ。

金でなければ名誉なのかなってうがった自分が言う。

どこまでも歪んだあたしいつまでも過去の人たち今の人たち
憂鬱は忘れた頃にやってくる静かな秋のさびしい庭に
うた詠みはうすらぼんやりひねもすを時間つぶしに今を詠みぬく
祈ること願うことすらむなしけれ怒ることすら笑うことすら
退廃に暮れゆく空は茜色いまもむかしも黄金の稲穂
くさむらの風に打たれてゆれる葉のおしえてくれる静止した今
こおろぎのしつこく鳴くよな秋の夜は明るい月をいずこに隠す
プラモデル遊んでいるよな鳩ポッポ静寂などと君は呼ぶのか

使徒言行録 7. 17-22

エジプトで我慢しながら2万首を詠めと言われりゃ詠み人知らず
バカバカしある日突然バカバカし愚かなわれはいいわけもせず
ひとごころ考えるからバカバカし文句を言うなら神さまに言う
よくもまあこれだけ文句言えるわね文句のほうがわかりやすいさ
美しく典雅の舞は尽くされてのこされたるはミケランジェロか

ペトロの手紙 一 1. 3-9

関係ないよなぁ・・・・・

フランチェスコは詠みにくい。映画のイメージが強すぎて。

紺碧の空に浮んだ聖人。

ポルチウンクラも詠めない。無、になるから。

紺碧の空に浮んだ聖人。無。

使徒言行録 10. 44-46

異言って何さ・・・

投稿者 Blue Wind : 02:54 AM | コメント (0) | トラックバック

September 26, 2004

ハバクク書 3. 17-18

  いちじくの木に花は咲かず
  ぶどうの枝は実をつけず
  オリーブは収穫の期待を裏切り
  田畑は食物を生ぜず
  羊はおりから断たれ
  牛舎には牛がいなくなる。
  しかし、わたしは主によって喜び
  わが救いの神のゆえに踊る。

投稿者 Blue Wind : 11:52 PM | コメント (0) | トラックバック

エレミヤ書 5. 4-6

  わたしは思った。
  「これは身分の低い人々で、彼らは無知なのだ。
  主の道、神の掟を知らない。
  身分の高い人々を訪れて語り合ってみよう。
  彼らなら
  主の道、神の掟を知っているはずだ」と。
  だが、彼らも同様に軛を折り
  綱を断ち切っていた。
  それゆえ、森の獅子が彼らを襲い
  荒地の狼が彼らを荒らし尽くす。
  豹が町々をねらい
  出て来る者を皆、餌食とする。
  彼らは背きを重ね
  その背信が甚だしいからだ。

投稿者 Blue Wind : 11:49 PM | コメント (0) | トラックバック

マルコによる福音書 9. 20-24

人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」

投稿者 Blue Wind : 11:44 PM | コメント (0) | トラックバック

遠かりし日日過ぎゆかば秋の日は時間の消えた曇り空かな

日本人なら一日一首。しゃきっ。

うつらうつら退屈な雨降りやまぬ蒸しさむき日は秋というなり
温泉をプールにしても曇り空つくばの山の青青とあり
レトロだなぁレトロな歌を詠んでいる退屈な日も今日という日か
六年生隣家に住んで受験生同じクラスで会話もひさし
曇り空のどかな子らの向こうには飽和したよな未来が待つよ
甲子園飽きてしまったドラフトはリストラかけて選手働く
運動会のんびりながむあの人はオリンピックのメダリストかな
遠かりし日日過ぎゆかば秋の日は時間の消えた曇り空かな

マルコによる福音書 9. 20-24

子の未来夢があるよなないような描き模様のかすれるままに
めざすものゆくゆく春はめぐりくる花咲くまではそしてゆく春
淡々と子らの減りゆく世界にはめぐる季節もめまぐるしけれ
2万首を詠み込むまではなんとなく時間つぶしといいわけしつつ
CGIうすらぼんやり眺めてはタイムラップを気にするように
老いゆかば褒められるよなひねもすを何故にめざすかかすみたる日日

エレミヤ書 5. 4-6

そうなんだよなぁ・・・・あれは嘘だ。おとなになればおとなになるというのは。加齢したからといって何も変わらない。なお悪い。

エゴイズム眺めてひさしババイズム加齢はすすみ近くなる年
じわじわと世代交代近づけばわがまま言うもお互いさまか
子どもならなだめすかして叱っても明日はけろりと忘れてるのに
子は素直明日咲く花のあるように今は蕾のここちするかな

なんで年寄りってあんなにわがままなんざんしょ。昔はそれほどでもなかった人までわがままになる。わからん・・・ふたりにひとりが年寄りの世の中になりますからね・・・ゆるされないのです。あきらめよう。

死んだってお互いさまと葬式は失礼するも儀礼となりし
病なりわたしもなのよと年寄りはひとり通いぬバス乗りてゆく
またひとり来なくなったとコーラスは死んだとおもいつどいあう場所
子の無事を確認しては孫の服競い合っては買いもとめたり

ハバクク書 3. 17-18

年寄りの値打ちか。

投稿者 Blue Wind : 05:47 PM | コメント (0) | トラックバック

ネヘミヤ記 2. 16-20

  役人たちは、わたしがどこに行き、何をしたか知らなかった。それまでわたしは、ユダの人々にも、祭司にも、貴族にも、役人にも、工事に携わる他の人々にも、何も知らせてはいなかった。やがてわたしは彼らに言った。「御覧のとおり、わたしたちは不幸の中であえいでいる。エルサレムは荒廃し、城門は焼け落ちたままだ。エルサレムの城壁を建て直そうではないか。そうすれば、もう恥ずかしいことはない。」神の御手が恵み深くわたしを守り、王がわたしに言ってくれた言葉を彼らに告げると、彼らは「早速、建築に取りかかろう」と応じ、この良い企てに奮い立った。
  ところが、ホロニ人サンバラト、アンモン人の僕トビヤ、アラブ人ゲシェムは、それを聞いてわたしたちを嘲笑い、さげすみ、こう言った。「お前たちは何をしようとしているのか。王に反逆しようとしているのか。」そこでわたしは反論した。「天にいます神御自ら、わたしたちにこの工事を成功させてくださる。その僕であるわたしたちは立ち上がって町を再建する。あなたたちには、エルサレムの中に領分もなければ、それに対する権利も記録もない。」

投稿者 Blue Wind : 12:16 AM | コメント (0) | トラックバック

フィリピの信徒への手紙 2. 1-11 キリストを模範とせよ

  そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、”霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

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September 25, 2004

エゼキエル書 37. 4-5

  そこで、主はわたしに言われた。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。」

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眠りゆけ、目覚めよ、空よ、釈放だ。いのち羽ばたけ、旋回する鳩。

眠りゆけ、目覚めよ、空よ、釈放だ。いのち羽ばたけ、旋回する鳩。
そこの鳩、ジプシーの手に集まれば、見えない糸が張り巡らされ。
教会と飛んでる鳩を見てごらん。あらゆる景色おしえてくれる。
アコルディオン鳴りだす車内演奏は次の駅まで続いてゆくよ。
シノワーズ?仕事探しと親切にドリンク売りはおしえてくれる。
アリルヤを歌えるだけでお仲間さ。ほんとの信者、シノワーズかもよ?
物売りをするかしないか買う人か、サムソナイトを持って歩けば。
ニューヨーカー、おどけてみせて列の順、同盟国に頼みたいだけ。
婿さんに声かけられて馬車停まる。窓から馬車へ家内連絡。
運転手、道ゆく人と窓話。いつになったら馬車から車。
えんえんとおまわり呼ぶぞと店の前アイス袋の喧嘩はつづく
喧騒に慣れてしまえば他人事いつものことさと透明人間
ちゃーおちゃーお、ちゃーお、ダニエラ。ボンジョルノ。ブナセーラだよ、おひるすぎだよ。
アイス買い隣に座ったおじいさん、(わたしのジーパンいつものことで・・)

エゼキエル書 37. 4-5

デブ鳩とすずめの餌の争奪戦を見ているだけで飽きない・・・ほんと、どんくさいやついるし・・・わざわざ取りやすいところに蒔いても、ほかの鳩に取られる。どこに目をつけているんざんしょ、あの鳩は。そのくせ、餌を蒔き始めるとどこからともなく集まるってことはおっそろしいほど目がいいのかも。

死にたくないよなぁ・・・・死にたくないって生きているほうが普通だ。ペーパーテストの紙の愛にもうんざりだし、かたちばかりの礼拝にもうんざりだし、校歌歌うとくすくす笑い出すやつ。そのくせ、とても感じのよい人たち。最悪。なかみないから。

パターンがあって、そのなかにおさまるようにつくられてしまったわたし。わたしは死んでいる。おおげさに神さま、神さまとさわぐ人間が嫌いになってしまった。あまりにもおおげさすぎる。静かに祈れよ・・・・・誰もいないところで。礼拝なんて行くな。教会なんて行くな。ええっと、あちらの教会のほうがアクティブになさってますよ、信者じゃないなら倫理もあるし・・・どーでもええねん。

キリスト教のなんたらかんたらについて知りたいだけなら本屋に行け。図書館に行け。大学へ行け。なんたらかんたらなんてあたしが知るわけないじゃないですか、いまだに聖書もろくすぽ読んでいないのに。エホバよ、うざいから来るな。それがまた、近頃は上品なおばさんなのですよ・・・近所の人とか。でも、来るな。自転車に乗ったモルモン教の兄ちゃんたちのほうがましだ。

あなたは神を信じますか?はいはい、勝手に信じてくださいませ。信じたらどーなるのさ?おせーてくれ。
悔い改めよ。はいはい、ざんげざんげ、あたしゃどーせわるものだ。ほっといてくれ。きえろ。
いやしを求めないでくれ。

フィリピの信徒への手紙 2. 1-11 キリストを模範とせよ

キリスト教からキリスト教へ改宗するのも改宗するというのですから、イタリア人が中国人と日本人を間違えるのも無理はないと思うのです。わたしには区別つきますけどね、相手が日本語話してりゃ。が、しかし、日本語を話す中国人となると無理です。海外ではなおさら無理だ。

なんか、おおいなる勘違いがあるような・・・・

餌、なんだよな・・・・ぱらぱらっと餌を蒔くと鳩がどこからともなく集まる。

もーね、うざいから一つにしてほしいわけ。次から次へとあれにこれにとめんどくさい。となって、人類滅亡論が復活するのかも。

ネヘミヤ記 2. 16-20

エルサレム、か。
あれが、象徴なのか・・・
冗談であの街があんなふうになっているわけでないのか。あれがわたしたちの住む地球。

って、行ったことない。

神の国遠くにありて思うもの平和の便り島国で待つ

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September 24, 2004

箴言 17. 9-10

  愛を求める人は罪を覆う。
  前言を翻す者は友情を裂く。
  理解力ある人を一度叱責する方が
  愚か者を百度打つよりも効き目がある。

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使徒言行録 14. 8-20 リストラで

  リストラに、足の不自由な男が座っていた。生まれつき足が悪く、まだ一度も歩いたことがなかった。この人が、パウロの話すのを聞いていた。パウロは彼を見つめ、いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め、「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と大声で言った。すると、その人は踊り上がって歩きだした。群衆はパウロの行ったことを見て声を張り上げ、リカオニアの方言で、「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになった」と言った。そして、バルナバを「ゼウス」と呼び、またおもに話す者であることから、パウロを「ヘルメス」と呼んだ。町の外にあったゼウス神殿の祭司が、家の門の所まで雄牛数頭と花輪を運んで来て、群集と一緒になって二人にいけにえを献げようとした。使徒たち、すなわちバルナバとパウロはこのことを聞くと、服を裂いて群集の中へ飛び込んで行き、叫んで言った。「皆さん、なぜ、こんなことをするのですか。わたしたちも、あなたがたと同じ人間にすぎません。あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです。この神こそ、天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方です。神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました。しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです。」こう言って、二人は、群集が自分たちにいけにえを献げようとするのを、やっとやめさせることができた。
  ところが、ユダヤ人たちがアンティオキアとイコニオンからやって来て、群衆を抱き込み、パウロに石を投げつけ、死んでしまったものと思って、町の外へ引きずり出した。しかし、弟子たちが周りを取り囲むと、パウロは起き上がって町に入って行った。そして翌日、バルナバと一緒にデルベへ向かった。

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フィリピの信徒への手紙 2. 12-18 共に喜ぶ

  だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄でなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。

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単調な日常のなか落雷は庭のもようを描きかえてゆく

回心前のフランシスコ・・・・・・・・
大学ってところは新入生が入ると、相変わらず神の愛がどーたらこーたらから始まっているんだろうな。飽きずに懲りずに神の愛。墓に入る頃になってからあれこれ心配するよかいいか。

しょぼくれたわれの未来をおもうより吾子の未来の楽しい秋よ
彼方より呼び声ひさし秋風は空を真白に落雷の音
歌詠みは楽しいものかと吾子は訊く。「別に」と答え淡々と詠む。
ラジオから横浜球場夕立と流れる声と真白き空と
落雷に向かって走る窓の外並木まじりの外灯怖し
稲光白き空には雲さえもくっきり浮ぶ夜空を走る
夕暮れの空にも似たり落雷に浮んだ夜の雲を見つめる
魂の死なないうちに歌詠みは沈んだ歌を空に浮かべり

めんどーだと思っても詠んでいる。雨が降っても雷鳴ってもネタにする。同じ庭、同じ景色、単調な日常。

フィリピの信徒への手紙 2. 12-18 共に喜ぶ

慣れた庭慣れた夜空の雷鳴は蒼き世界を白夜に変える
これでもかこれでもかって青空は違った雲を空に浮かべる
闇夜には見えぬ雲さえくっきりと生きているよと稲光みる
くりかえしくりかえしつつ空の雲笑っているのか泣いているのか
単調な庭先の花くりかえし生きているよと微かに笑い
単調な日常のなか落雷は庭のもようを描きかえてゆく

似たような学生がまた教室に退屈そうに座っているかな
まじめな子眠っている子逃げ出す子枝毛を切るのかノート取るのか
直前にノート回して神の愛紙の愛かとありがたがって

使徒言行録 14. 8-20 リストラで

同じ人間なんだよなぁ・・・・
もう、自分たちとは違うと思うだけでうれしい。安心する。

フランチェスコにはフランチェスコの愛し方があるし、マザーテレサにはマザーテレサの愛し方がある。

愛し方が違うんだよなぁ・・・

むずかしい。

凡人は、神の愛ではなくて、神への愛を観察している。神の愛がどういうものかより、神への愛を観察しているほうが興味深い。愛の深さ。通りすがりにも、ん?って思うほどの愛の深さ。すとんって落とされてしまう。

箴言 17. 9-10

もう、これでもか、これでもか、と神さまを愛しているんだけど、かたちなき愛の世界だから、こころしかない。
なのに、みんな、神、を描こうとする。
神を知ろうと努力する人たちは多いけど、むりなんだな・・・

紺碧の空に浮んだ聖人。

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いたれりつくせりの少子化社会

それにしても、親が買ったものではないらしいものが家にはごちゃごちゃある。アクセサリー、インスタント地球儀、おもちゃ、手帳、バッグ、ヘアピン、etc. 娘に訊いたら、『ちゃお』(少女マンガ)の付録らしい。そのほか、塾へ通わせる代わりにやっていた通信教育の教材のおまけや、塾でもらってきた本やらおまけやら、とにかくコーラを買っても付いてくるし、マックへ行ってもおもちゃが付いてくるし、わんわんらんどのドッグレースの景品やら、あれにこれにとつまらないものがたくさんある。
姑さんが娘の服を買いに行ったら、ちょうど娘のサイズだけが品不足で、これかわいいと思ったら予約が入っているとか、驚いていた。サイズが小さくなると結構あるらしいのだけれど、ちょうど娘の着るようなサイズだけが品切れが多いという話。
うちは娘とはさすがにサイズが違うけど、母親が小柄な人は、娘にお気に入りのジャケットを勝手に着ていかれたとか、バッグを取られたとか、ぼやいていた。わたしも、おちびに昔使っていた財布を取られた。取られたというのとは違うけど、ほしいと言われたら使っていないわけだし、どぞどぞ、となる。
ちなみに、ヴィトンの財布。
カードやら小銭を入れたら、すぐにいっぱいになり、もはやわたしには不要。古いし・・・
そうやって考えると、若い頃に使っていたものがたくさんある。すでに屋根裏部屋に置いてあるものも多い。こちらは、娘が生まれたらマザーバッグとかね・・・ライフ・スタイルに合わせて、ニーズが変化したために使っていない。しかも、それすら今は使わなくなったため、どういうわけかリュックとして娘が使っている・・・リサイクルは順調?
わたしはわたしで、いちいちヘアゴムを買いに行くのがめんどーなので、おちびのマンガの付録を使っている。だって、たくさんあるのだもの・・・驚くくらい。
なんか、こうね・・・自分が若い頃には、まだ高校生がブランドバッグなんて、とかそれらしいことを言う人たちがいた気がするんだけど、これが小学生となると逆に抵抗がない。不思議。
自分のものを買うときに、娘の分も買ってあげようかと思ったりするんだけど、娘に訊くと要らないと言う。なんて偉い子なんだろうと思ったら、違う。要するに、わたしのものはどうせ自分のものになると勝手に思っているために、わざわざ自分のものを買う必要はないらしい。逆に、もったいないとか、安いやつにしろ、とか言う。スーパーで買い物するときでも、娘に訊くと安いほうを選ぶ。イタリアの宿選びでも、結局、娘が言うには安いほうにしろと言うので、ほとんど娘が選んだ気がする。ちなみに二人でおそろいで使っているバッグは、ワイルドターキーのプレゼント。当たったわけではない。王冠を集めて送ると全員にくれる。なんで小学生がお酒の銘柄がプリントされたバッグを持っているのかわからないけれども、案外、便利。買ったら高そう。

一人娘なんてこんなものなのかもしれない。生まれてからおとなになるまで、あるいはおとなになっても競合相手がいないために、極めてのんき。そのくせ、オトくんには非常にやきもちをやく。人間が犬にやきもちをやいてどーするんだろうとたまに思ったりするけど、親の愛を独占して育ってきたために、オトくんのほうをかわいがると怒る。なんなんだ・・・

しみじみ思うわけですよ・・・ああ、今の時代は、本当に子どもの数が少ないんだなって。つくば市の小学校なんて、どこも1クラスくらいしかない。中学になると、3つくらいの小学校から来るというので、難しい年頃でもあるし、ケアのよい私立の中学が人気。今までは、私立の中学は2つくらいしかなかったのに、いきなり4つに増えた。茨城だから、そんなに入試が大変というわけでもなく、それでいて進学率が高いために人気なのかもしれない。予備校だの塾だの通うのなら、学校でやってくれるところのほうが学費が安いという説明もあるらしい。中には、スクールバスで通学し、1時間目が終わった後に、ゆったりティータイムがある学校もある。授業のカリキュラムが違うために可能なのかも。
塾へ入れただけでもいたれりつくせりだもの。こんなにしていただいてよいのだろうかと思ってしまう。中には、送迎バスがある塾もある。そうすると、子どもが乗るまで延々と待っているのを見かける。
小学校の運動会が今年から車の乗り入れが禁止になり、内心不満に思っていたら、どこかの市営バスのようなバスを2台借りて、結構、巡回の本数が多いので便利だった。時間が遅いと、ほとんど人が乗っていなかったり・・・快適。児童数が少ないし、帰りは子どもと一緒に乗ってきたり・・・
しかも、運動会の後に連休があるためにのんびりしている。その代わり、平日は運動会の練習が遅くまであるために親が小学校まで送迎したりする。この後、今度は合唱コンクールの練習が始まるために、また遅くなるらしいけど。その後に、塾だの習い事だのあるけど、文句言わないもの。理由は家にうだうだいるより、楽しいかららしい。その代わり、休日は一日中遊んでいる。

が、しかし・・・・この、いたれりつくせりの小学時代を経て大学へ行き、就職がない?わたしが年金をもらう年頃になったら、世の中の二人に一人が年寄りといううわさもある。
学生は就職難で、中高年のリストラ、自殺の時代に、子どもはいたれりつくせり。

・・・・・・・子育てしている幸せを感じる。

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September 23, 2004

ペトロの手紙 一 4. 7-11

  万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。不平を言わずにもてなし合いなさい。あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。栄光と力が世々限りなく神にありますように、アーメン。

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エゼキエル書 37. 1-6

  主の手がわたしの上に臨んだ。わたしは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨でいっぱいであった。主はわたしに、その周囲を行き巡らせた。見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた。そのとき、主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか。」わたしは答えた。「主なる神よ、あなたのみがご存じです。」そこで、主はわたしに言われた。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そしてお前たちはわたしが主であることを知るようになる。」

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マタイによる福音書 27. 62-66 番兵、墓を見張る

  明くる日、すなわち、準備の日の翌日、祭司長たちとファリサイ派の人々は、ピラトのところに集まって、こう言った。「閣下、人を惑わすあの者がまだ生きていたとき、『自分は三日後に復活する』と言っていたのを、わたしたちは思い出しました。ですから、三日目まで墓を見張るように命令してください。そうでないと、弟子たちが来て死体を盗み出し、『イエスは死者の中から復活した』など民衆に言いふらすかもしれません。そうなると、人々は前よりもひどく惑わされることになります。」ピラトは言った。「あなたたちには、番兵がいるはずだ。行って、しっかりと見張らせるがよい。」そこで、彼らは行って墓の石に封印をし、番兵をおいた。

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固有名詞のない世界

独り言というのは難しい。またつまらない独り言をさしはさむから誤解か?読む人が読めばピンと来る。それでいて、知らない人には何のことかまったくわからない。そういうつまらない独り言を何故書くかといえば、そこに私の本音があるからである。
1年以上前に、「荒らしはやめてください」という内容のコメントをどこかのBBSに書いたらしい。「らしい」というのは、書いた本人はまるで忘れているからであり、IPアドレスを見ると、私のものらしいので、やはり私が書いたのだろう。
そこまではどうでもいい。大した内容でもない。それでいて、私は心の底からうんざりしている。そういうカキコを勝手に特定個人を攻撃する誹謗・中傷サイトに引用されているということに、いささか苛立ちの原因があるのであり、そのコメントを自分が特定の誰かに対して発したものであるならば、それはその時の自分の心境であり、それが終われば普通は自然と忘れてしまう。それでいて、それは今でも続いているらしい。
もはや自分とは何の関係もない出来事ではないだろうか?

つまりは、そういうグチが歌になり、それと同時にそれは今でも根が残っている。そういうものをどうして残しているのか知らないけれども、勝手に転載してアップしている。検索すれば出てくるだろう。そういうものを隠すために、あれこれハンドル名を変えたり、アドを残さないようにしたり、あれこれしたりする人は多い。が、しかし、すぐにわかる。通りすがり的に眺めればわからないのかもしれないけど、こちらはずいぶんとそのことで苦しめられたために、すぐにわかる。あ、あの人だ、くらいのものですけど、わかると言っても。
ああなると悪霊みたいなものだから・・・怨念、因縁、憎しみ。たかがネットなんだけどね・・・それでいて長くもなると、悪い見本。
悪霊を退治するには、エクソシストか成仏か。はたまた昼間の光に当てるか。
何でもいいから消えてほしい。それだけ。
やっている側は、これだけやられれば誰でもこうなると言いたいのかもしれない。たしかにその通りかもしれないとは思うけど、それを誰かにわかってもらおうとしすぎるからややこしくなるのであり、速攻で逃げ出した人たちにすればそれは理解不可能だ。
ちなみに、そこのサイトへたどりついたのは、ガイアックスのサイトだからだ。自分のサイトに来訪があればログが残る。そこから、訪問サイトへ行く。行ったら、そういうサイトだった、というだけのこと。

宗教というのを人間を通して観察すると、結局、何も変わらない気がした。言葉を通して何かを理解しようとすると、すごくややこしくなるけれど、人間や人間の精神、魂、行動、気持ち、その他諸々、結局、上位概念の行き着く先は同じなんだな、という気がした。
つまりは、言葉が難しい。言葉で理解しようとすれば迷路に入る。言葉がなけりゃみな同じ。

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September 22, 2004

どしゃぶりの雨は降る降る秋の空地面の色の変わりゆく昼

どんぐりを拾って歩く森のみち歩いてゆけよと子らにさしだし
あれこれとめんどうなんだと人の道たどりてゆかばストレスの渦
飛行機でゼルダの伝説やってたよ。それはあのこの描いた絵なのさ
楽しいな。小さな夢をありがとう。森の中にはどんぐりありき。

マタイによる福音書 27. 62-66 番兵、墓を見張る

一生懸命に美術館連れて行って・・・つかれた。何しに行ったんだろう。くま先生のお弟子さん、就職なくて、子どものぬりえの図を描いていて・・・それを持って任天堂に行って、2年後の作品がゼルダの伝説。
ああいうの、いいな。すくわれた。
本人はすごく苦労したんだと思うんだけど、なんかいやされるな。

こちらは何も知らないから、親子でせっせとゲームしてました・・・アリタリア航空の飛行機の中で。
くま先生は体が悪くて飛行機乗れないから、そのお話をうれしそうに聞いてくださいました。

夢もとめ飛び立つ空の高ければ手元にありき小さな夢が

エゼキエル書 37. 1-6

もう、ババアはいいよなぁ・・・ひらめかないもん。

雨は降る。わたしのために大粒の雨は降る降る、ますますひまじん。

ヨハネの福音書の後半を読む。実は、新約聖書通読のそれが正しい続き。つまりは、毎日ランダムに開いているけど、実際には飛ばし読みをしているのと変わりない。ピラトって、イエスの磔刑には反対していたのね、知らなかった。
事実だけを書こうとしても、これだけ違う。

落雷に驚きながら花たちはやむのを待つか降るのを待つか
どしゃぶりの雨は降る降る秋の空地面の色の変わりゆく昼
雨は降る。見慣れた景色変えながら塗り替えられてしずくの光る。
通り雨陽はさしもどり水の中遠のく音の消えゆくままに
おなじ庭さっきと違う水もよう光もようを与えられては

ペトロの手紙 一 4. 7-11

同じところばかり読んでいる気がするんですけど・・・
聖書に文句言ってるあたし・・・
かといって読めない。こんなにたくさん、最初から終わりまでなんて。

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ゼカリヤ書 11. 4-17 悪い羊飼い

  わが神なる主はこう言われた。屠るための羊を飼え。それを買い取る者は、罪を帰せられずにそれを屠り、売るときは、「主はほめたたえられよ。わたしは金持ちになった」と言うが、羊飼いたちはそれを憐れまない。わたしはこの地の住民を再び憐れみはしない、と主は言われる。見よ、わたしはどの人もその隣人の手とその王の手に任せる。彼らがこの地方を打とうとしても、わたしは彼らの手から救いはしない。
  わたしは屠るための羊を、羊の商人のために飼った。わたしは二本の杖を手にして、ひとつを「好意」と名付け、もうひとつを「一致」と名付けて羊を飼った。わたしは一月のうちに三人の羊飼いを退けた。わたしは彼らに我慢できなくなり、彼らもわたしを嫌った。そして、わたしは言った。「わたしはお前たちを飼わない。死ぬべき者は死ね。消え去るべき者は消え去れ。残った者は互いに肉を食い合うがよい。」
  わたしは「好意」というわたしの杖を取って折り、諸国の民すべてと結んだわが契約を無効にした。その日に、それは無効にされた。わたしを見守ってきた羊の商人たちは、それが主の言葉であることを知った。わたしは彼らに言った。「もし、お前たちの目に良しとするなら、わたしに賃金を支払え。そうでなければ、支払わなくてもよい。」彼らは銀三十シェケルを量り、わたしに賃金としてくれた。主はわたしに言われた。「それを鋳物師に投げ与えよ。わたしが彼らによって値をつけられた見事な金額を。」わたしはその銀三十シェケルを取って、主の神殿で鋳物師に投げ与えた。わたしは「一致」というわたしのもうひとつの杖を折り、ユダとイスラエルの兄弟の契りを無効にした。
  主は更にわたしに言われた。「愚かな羊飼いの道具を取れ。見よ、わたしはこの地に羊飼いを起こす。彼は見失われたものを尋ねず、若いものを追い求めず、傷ついたものをいやさず、立っているものを支えもせず、肥えたものの肉を食べ、そのひづめを砕く。
  災いだ、羊を見捨てる羊飼いたちは。
  剣が、その腕と右の目に差し向けられる。
  その腕は力を失い、右の目はかすむ。」

投稿者 Blue Wind : 09:44 AM | コメント (0) | トラックバック

詩編 79. 8-11

  どうか、わたしたちの昔の悪に御心を留めず
  御憐れみを速やかに差し向けてください。
  わたしたちは弱り果てました。
  わたしたちの救いの神よ、わたしたちを助けて
      あなたの御名の栄光を輝かせてください。
  御名のために、わたしたちを救い出し
      わたしたちの罪をお赦しください。
  どうして異国の民に言わせてよいでしょうか
  「彼らの神はどこにいる」と。
  あなたの僕らの注ぎ出された血に対する報復を
  異国の民の中で、わたしたちが
      目の前に見ることができますように。
  捕らわれ人の嘆きが御前に届きますように。
  御腕の力にふさわしく
  死に定められている人々を
      生き長らえさせてください。

投稿者 Blue Wind : 09:31 AM | コメント (0) | トラックバック

マルコによる福音書 5. 1-10

  一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、大声で叫んだ。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。そこで、イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」と言った。そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願った。

投稿者 Blue Wind : 09:25 AM | コメント (0) | トラックバック

詩編 22. 17-19

  犬どもがわたしを取り囲み
  さいなむ者が群がってわたしを囲み
      獅子のようにわたしの手足を砕く。
  骨が数えられる程になったわたしのからだを
      彼らはさらしものにして眺め
  わたしの着物を分け
  衣を取ろうとしてくじを引く。

投稿者 Blue Wind : 09:19 AM | コメント (0) | トラックバック

ダニエル書 11. 9-10

北の王は南の王国に向かって行くが、自分の国に引き揚げる。その子らは奮い立って進軍し、洪水のような一進一退の後、敵の城塞に攻め寄せる。

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September 21, 2004

わが海をすべての海とおもわなば海はひとつの水のかたまり

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『私の感覚では、
神こそすべてのすべてであり、その他になにもない。
「われ」もないので、「わがすべて」というレトリックもない。

これは仏教的感覚に近いかもしれません。』(庄内さん)

_______________

こんなにむずかしいコメントまでいただいてしまって、これはレトリックの問題なのかもしれないとは思いつつ、気になって気になって仕方がない。(以下、つまらないつぶやきは上述のコメントとは何の関係もございません。)

ダニエル書 11. 9-10

戦いに明け暮れたるや神もとむ味方と敵と空の下には
わが神はすべての神と思わなばわれらの神とかわりゆけども
吾からか空からかゆえ広がるは果てしなき空無にかわりても
白地図を塗りこむように世界地図他人のように鉛筆を持つ
うんざりだ。あらしのようにしつこくもあらしのような黒雲の来る。
終わらない憎しみの果ていつまでも追われるまでは逃げ出すまでは
あの人の苛立ちはまたわたくしを苛立つ波の前に立たせり

はよ、終わってくれよ・・・・しつこい。はあ、しつこい。のっちがしつこいんだか・・・・しつこい。

詩編 22. 17-19

関係ないや・・・・あほくさ。くそったれ。おもいだすのもいやだ、みんな、きらい。

あのひともこのひともみなきえされとすがすがしき風こおろぎの鳴く
地中海制覇したなら大西洋こえれば波はいづこへつづく
わが海をすべての海とおもわなば海はひとつの水のかたまり
わが空をすべての空とおもわなば無限の空はわれをこえゆく

マルコによる福音書 5. 1-10

成仏してくれるのなら、なんでもええわ・・・
レトリックなんだよね・・・・My Lord, My All. は、無。無我。なんて矛盾に満ちた言葉・・・・

われ無くしてぞ君はありける。

のらくらと逃げ出しゆかば晴れ晴れと満ち欠ける月ながむるような
ゆるやかにいのちの坂はくだりゆく地球のうえへまたのぼりゆけ

が、しかし・・・・あたくしが時空へ顔出し?すると、クリさんがまたいじめられるのよ。いたちごっこだね。どーにもならん。解散したんだから、いいだろ?よーわからん。嫌気さしてうんざりするまで続けるつもりなのかも。十分うんざりしているのだけど。

詩編 79. 8-11

アングラ・・・・光は遠い。
復活しても悪魔の集団じゃあね・・・それもまた事実かもしれん。

そらぞらし言葉の海はセロハンで覆われている大学ノート
うんざりだ。あいつもこいつもおばかだとねむりこけてる昼間のカラス
いじめられ仲間なかまと喜んで囃したてるかそこのおばはん
権力にしがみついては捨てられてしっぽふりふり吠えまくる犬
悪魔には悪魔の歌がよく似合う子守歌など歌って聴かせ

詠めと言われりゃ、そりゃいくらでも。

ゼカリヤ書 11. 4-17 悪い羊飼い

こういうつまらん歌を詠むから真似するのかも。あーやだやだ。
真似しないでよ、ボツ歌なんだから・・・
歌くらい好きに詠みたい。嫌な世の中。

まともに詠むと高尚すぎるって、おやじ、成仏してくれ・・・

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イザヤ書 30. 18-33 救いのとき、アッシリアに対する審判

  それゆえ、主は恵みを与えようとして
      あなたたちを待ち
  それゆえ、主は憐れみを与えようとして
      立ち上がられる。
  まことに、主は正義の神。
  なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人は。
  まことに、シオンの民、エルサレムに住む者よ
  もはや泣くことはない。
  主はあなたの呼ぶ声に答えて
  必ず恵みを与えられる。
  主がそれを聞いて、直ちに答えてくださる。
  わが主はあなたたちに
  災いのパンと苦しみの水を与えられた。
  あなたを導かれる方は
      もはや隠れておられることなく
  あなたの目は常に
      あなたを導かれる方を見る。
  あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。
  「これが行くべき道だ、ここを歩け
  右に行け、左に行け」と。
  そのとき、あなたは銀で覆った像と
  金をはり付けた像を汚し
  それを汚れたもののようにまき散らし
  「消えうせよ」と言う。
  主は、あなたが地に蒔く種に雨を与えられる。
  地の産み出す穀物は豊かに実る。
  その日には
  あなたの家畜は広い牧場で草をはみ
  地を耕す牛やろばは
  ふるいや箕でえり分け
  発酵させた飼葉を食べる。
  大いなる殺戮の日、塔の倒れるとき
  そびえ立つすべての山、高い丘の上に
  水路が造られて、水を運ぶ。
  主が民の傷を包み
  重い打ち傷をいやされる日
  月の光は太陽の光になり
  太陽の光は七倍になり
  七つの日の光となる。

  見よ、主の御名は遠くから来る
  怒りに燃え、立ち昇る濃い煙を伴って。
  その唇は憤りに満ち
  舌は焼き尽くす火のようだ。
  主の霊は、首にまで達する水が
  涸れ谷にみなぎり溢れるように臨む。
  主は国々を欺きのふるいでふるい
  迷わす手綱を諸国民の顎にかけられる。
  あなたたちは祭りを祝う夜のように歌い
  笛に合わせて進む者のように心楽しみ
  主の山に来て
  イスラエルの岩なる神にまみえる。
  主は威厳ある声を聞かせ
  荒れ狂う怒り、焼き尽くす火の炎
  打ちつける雨と石のような雹と共に
  御腕を振り下ろし、それを示される。
  主がその鞭をもって打たれるとき
  アッシリアは主の声のゆえにおののく。
  主が彼に下そうと定められた
  杭の一打ちごとに
  太鼓と竪琴が鳴らされ
  主は御腕を振るって彼らと戦われる。
  焼き場は既に用意され
  王のために深く広く造られ
  燃やすための木が積まれ
  多くの薪が置かれ
  主の息が焼き尽くす硫黄の流れのように
      そこに臨む。

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ダニエル書 5. 16-17

「お前はいろいろと解釈をしたり難問を解いたりする力を持つと聞いた。もしこの文字を読み、その意味を説明してくれたなら、お前に紫の衣を着せ、金の鎖を首にかけて、王国を治める者のうち第三の位を与えよう。」
  ダニエルは王に答えた。「贈り物など不要でございます。報酬はだれか他の者にお与えください。しかし、王様のためにその文字を読み、解釈をいたしましょう。」

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September 19, 2004

アシジ

・サン・ダミアーノ
光射すオリーブの道下りゆかば光の丘の木陰に休み

・カルチェリの庵
ぐらぐらと積まれた石の揺れる道乾いて一つ足もとにあり

・ホテル・イル・パラッツォ
部屋の奥ローマ時代の洞穴がひっそりありきアシジの宿屋

・部屋の窓からサンフランチェスコ大通りを眺める
暗がりに道ゆく人を眺むれば朝な夕なと影細き道

・アシジの空
現実は抑圧まみれのみこまれ逃げ出しゆかば天は広がり
希望へとすすむ夜空はひろびろとアシジの月は気まぐれなるか
ウンブリア低き山並み空ささえ夕陽の光白き月出づ

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September 18, 2004

マイク持ち観光バスの先頭は両手を広げわが前過ぎる

>「わが神、わがすべてよ!!」と言って祈っていました。 ルドビーより

道ゆかばフランシスカン闊歩する布の色さえいろいろあると
夕暮れをアシジの兵の通過する大通りには人波まばら
マイク持ち観光バスの先頭は両手を広げわが前過ぎる
中学生無骨なままに育ちゆけカルチェリの庵放課後の庭

そこのけそこのけ神父がとおる。・・・・・・・・

あの無骨な雰囲気・・・

夏のアシジなんてものは、授業が終わったばかりの教室や駅前広場にたむろする学生を想像するほうがわかりやすいかも。

めずらしくレスが入りました・・・

投稿者 Blue Wind : 04:58 AM | コメント (0) | トラックバック

September 17, 2004

光射すオリーブの道下りゆかば光の丘の木陰に休み

My Lord, My All.

良い言葉。
訳せない。主こそわがすべて。
完璧なる精神の自由。信仰の自由。ウンブリア、アシジの山。

完璧なる信仰の自由。
空と星と、天だけがどこまでもつづく。真理は空さえも自由にする。遮るもののない空。

象徴として自分が見たものは、屋根の上の鳩、むせかえるような人の多いアシジ、コジモのささやかな自由空間、愛するフィレンツェ、広場の鳩、ドォーモの入り口のボディ・チェックをする警官、教会で世間話に明け暮れる女性、閉鎖されたベネディクト派の教会、臭いピザの別世界、アシジの空。

人間と教会。そして、最後には空だけが残った。

私は、精神の自由としてアシジを語るとき、空と星とポルチウンクラ、と結論付けようとした。そのとたん、サン・ダミアーノが浮んだ。狭い窓から見た、狼と戯れるサン・フランチェスコ。

あっけにとられるくらいの自由がある。自由という言葉でしか表現できない自分が悲しい。

象徴は、原風景として私の記憶の中にある。

ダニエル書 5. 16-17

光射すオリーブの道下りゆかば光の丘の木陰に休み
ぐらぐらと積まれた石の揺れる道乾いて一つ足もとにあり
屈強にお城の道は大男歩いて揺れぬ坂の多かり
部屋の奥ローマ時代の洞穴がひっそりありきアシジの宿屋
壁の向こう岩が続きぬ石の家閉したる窓に風は吹き込み
暗がりに道ゆく人を眺むれば朝な夕なと影細き道

イザヤ書 30. 18-33 救いのとき、アッシリアに対する審判

イザヤの見たもの、見た景色。

なんで、呪縛がポルチウンクラだと外れるのだろう。

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September 16, 2004

コリントの信徒への手紙 一 2. 6-8

  しかし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。

投稿者 Blue Wind : 04:35 AM | コメント (0) | トラックバック

イザヤ書 48. 12-16

  ヤコブよ、わたしに耳を傾けよ。
  わたしが呼び出したイスラエル。
  わたしは神、初めであり終わりであるもの。
  わたしの手は地の基を据え
  わたしの右の手は天を延べた。
  わたしが彼らに呼びかけると、共に立ち上がる。
  皆、集まって聞くがよい。
  彼らのうちに、これを告げた者があろうか。
  主の愛される者が、主の御旨をバビロンに行い
  主の御腕となる人が、カルデア人に行うことを。
  わたしが宣言し、わたしが彼を呼んだ。
  彼を連れて来て、その道を成し遂げさせる。
  わたしのもとに近づいて、聞くがよい。
  わたしは初めから、ひそかに語ったことはない。
  事の起こるとき、わたしは常にそこにいる。
  今、主である神はわたしを遣わし
  その霊を与えてくださった。

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ホセア書 7. 8-12

  エフライムは諸国民の中に交ぜ合わされ
  エフライムは裏返さずに焼かれた菓子となった。
  他国の人々が彼の力を食い尽くしても
      彼はそれに気づかない。
  白髪が多くなっても
      彼はそれに気づかない。
  イスラエルを罪に落とすのは自らの高慢である。
  彼らは神なる主に帰らず
  これらすべてのことがあっても
      主を尋ね求めようとしない。
  エフライムは鳩のようだ。
  愚かで、悟りがない。
  エジプトに助けを求め
  あるいは、アッシリアに頼って行く。
  彼らが出て行こうとするとき
  わたしはその上に網を張り
  網にかかった音を聞くと
  空の鳥のように、引き落として捕らえる。

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マタイによる福音書 20. 20-28 ヤコブとヨハネの母の願い

  そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」

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September 15, 2004

傷だらけ小さな梨の姿には生きた証しのいびつさを見し

みことばのあいだに歌のありけると言われて気づくつづいている今
すこしずつ倦んでくさってきえさってみことばだけがつづきぬ砂よ
さらさらと風に吹かれて飛んでゆけ波に流されいづこへとゆけ
われというちっぽけなわれ風吹けば遠くの雲は流されてゆく
柵の中走りまわれるオトくんは笑みを浮かべてくるりんといる
駆け出せば隣の庭を見つめては猛スピードで芝駆けるオト
ちっぽけな自由の庭でオトくんは猛スピードで駆け抜け走る
収穫の季節を知らぬ梨の実は朽ちかけながら生きる証しか
スーパーの梨と比べてわびしけれ実のなる季節小ぶりな実つけ

マタイによる福音書 20. 20-28 ヤコブとヨハネの母の願い

古今東西、母親ってそういうものなのかも。

初梨の花の咲けるをよろこべば実の小さきに収穫わすれ
今は秋それとも夏か初梨は青空の中腐りかけてる
たくさんの実をつけ梨は五つかなあじわいもせずテーブルに乗る
小さき実無事を祝って座ってる梨の小枝にぶらさがりつつ

梨って自然に育つものじゃないんですね・・・売り物は。

傷だらけ小さな梨の姿には生きた証しのいびつさを見し

ホセア書 7. 8-12

人間にへりくだれば神さまは高慢と云う片面焼きか
みことばを尋ねてゆかば高慢と指さされしを若き日に思う
台風も来ない秋には秋刀魚さえロシアの海を泳ぎ戻らぬ
秋刀魚さえ冬の魚になりそうな市場の箱を眺めて歩く

マーケットなんて、いいかげん。

テロのこと知っていたのか大統領値の張るほうへ石油と武器か
テロリスト撲滅という戦争をあなたは知るかしかける猿か
子らの前すわり語るぞ惨劇を真実はまた闇へと消える
葬式を浮世の義理と気がついて法衣むなしく人を送りぬ
天国はいずこにあると尋ねても風はむなしく空はつくりぬ

悪魔のお葬式でもパパさまはやるんだろうか?
悪魔と並んで記念撮影・・・・なんかね・・・・世の中というのはそういうものらしい。

イザヤ書 48. 12-16

イスラエルへの親書。バチカンとの友好。悪いことじゃないんだろうけど、なんか釈然としない。楽園と平和とは違うのかも。

夕景色アシジの空の広ければいろいろあるさと夕餉はつづく
今日の空明日の空かと眺めれば雨のない夏雨のない秋
蝉の声夜長につづく秋の日は朽ちた梨の実あつめて数え
秋刀魚さえ戻らぬ秋は温かい海の中かと水仙のよう
売られたら買うしかないさとマーケット日本の海の狭さを感ず

コリントの信徒への手紙 一 2. 6-8

十字架のイエス。未来永劫、十字架のイエス。

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エレミヤ書 31. 33-37

しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。

  主はこう言われる。
  太陽を置いて昼の光とし
  月と星の軌道を定めて夜の光とし
  海をかき立て、波を騒がせる方
  その御名は万軍の主。
  これらの定めが
      わたしの前から退くことがあろうともと
  主は言われる。
  イスラエルの子孫は
  永遠に絶えることなく、わたしの民である。
  主はこう言われる。
  もし、上においては、天が測られ
  下においては、地の基が究められるなら
  わたしがイスラエルのすべての子孫を
  彼らのあらゆる行いのゆえに
  拒むこともありえようと
  主は言われる。

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September 14, 2004

高いガードが必要だった理由

弟にまでメールはダメだと言われてしまった。誤解や行き違いが多いかららしい。単に要件だけを書いてくる分にはかまわないのかもしれないけど、それ以上の突っ込んだ話となるとダメらしい。
まあ、母親のお葬式のことやら今後のことやら、そこに嫁さんの意見などが入る。そうなると、とたんにややこしくなる。敵、というのとは違うのかもしれないけど、他人だから仕方がない。育った環境も違えば価値観も違うし、夫婦でも相違があるのに、そこに他人である私が口出しすればもっとややこしいことになる。で、間に入った弟が苦労する。

昨日、テレビを観ていて、なんで農家や商家だと大家族で生きていけるのか何となくわかった。利害関係が一致しているから。親の仕事を子どもが引き継ぐ。そうなると、家庭というのは職場でもあり、職場なら先輩からあれこれ仕事を教えてもらいながら仕事を覚える。従って、暗黙のうちに上下関係が成立し、さらには利害関係が一致しているため、特別なことがないかぎり平和。
家庭=職場だと、どうやって考えても姑さんは職場の先輩でもあり、自然と序列が完成する。子ども以外のすべての家族が生計を担っている。みんなの協力で得た糧で食べているから、何かあればみんなで相談する。家を建て替えるとか、子どもの教育をどうするか、など。
まあ、これの弱点は、嫁さんというのはいつも新入り。いつまで経っても下。何十年経っても世代交代するまで続く。

そういうところで、私がうまくやっていけるだろうか?
どうなんだろう・・・今頃になって考えてみる。
私という人は案外のらくらした人なので、そういう点で姑さんと喧嘩したことはない。経営戦略というか、マネージメントはいわば生活必需品的知識だし、そういうノウハウは子どもの頃から親から学んだ。実際のところ働いたことがないので、それがどの程度通用するのかまではわからない。逆に、そういう道に進むのが嫌だから、のらくら研究していたのかもしれない。
商売のつらいところは、人付き合いが仕事に直結するところかも。このため、常に広く浅く、利害関係が伴う関係を潜り抜ける。

大学の半ばくらいまで、順調だったのよね。順調というのはヘンな言い方だけど、私はとても社交的でチケットを売りさばくのも得意だったし、コンパなどの主催も年中頼まれたりするほうで、とても愛想のよい華やかな人だったのだと思う。
それがいつからだろう。そういう自分が急に嫌になってしまった。当時は若いから、いきなりの自己嫌悪。ちやほやされればされるほどそういう自分が嫌になる。なんか急に、自分には本当の友だちがいるのだろうか、などと悩んでみたり。そうなると、昔からの腐れ縁で続いている友達とも疎遠になる。急に、だ。
傍から見ると、やれ大学のお友達やら、クラブの友達やら、年中誰かから電話がかかってくるような生活で、普通の大学生だったのだと思う。そういう友達が増えれば増えるほど不適応感を感じる。そのうちそういう自分というものを誰かにわかってもらいたいとばかりに友達にも相談したりしたけど、理解されない。話せば話すほど自分の弱点をさらすみたいで、次第に嫌気がさす。で、結局、いつも同じメンバーで同じ場所に集まり、酒を飲む。
酒と研究に溺れた楽しい青春時代だった。

表層的な自分と、発散するための場所。いわば自己破壊衝動のようなもので、世間体を破壊しない程度の破壊が続いていたのだと思う。そうしないと息が詰まってどうにもならない。ますます自己嫌悪に陥る。
そういう抑圧が、親だったり友達だったり、もっと語ればカトリックだったり世間だったり、いささかそういうものにどうして自分が抑圧されないとダメなのか理解に苦しんだけれども、歯向かっても無駄なのである。それくらい自分は弱かった。

今はどうなんだろう。
果たして、家は天国だと思う。お金のことは考えないし、嫌な人とは付き合わなくてもいいし、毎日好きなことをやって生きている。大変だと思うのは、娘の送迎くらいのもので、事故に遭わないようにしようとか、それくらい。
外の人と話すと疲れる。たまに情報収集にお出かけしたりするけど、誰に訊いてもそれぞれに意見が違うために、余計に混乱するだけだと思う。子どもの教育のこととか。結局、わが家にはわが家の教育方針というものがあるらしい。日頃は意識したことはないけれども、他人と話すとそうやって感じる。

不景気がどうたらこうたら、生活がどうたらこうたら、何となくすべてがどうでもいい。将来のこととか、不安とか、生きていたら考える。その時、自分が生きているかどうかもわからないのに、何を今から考えろと言うのだろう。つまりは、いささか、そういう要らない種を拾うのも人付き合いだ。
働いていたらまた違うのかも。ネットでまで感謝知らずと言われてしまった。仕事ならね・・・わかるんだけど、ウェブを作製するのも歌を詠むのも仕事ではない。会社組織のように仕事を分担するがごとく何やら忙しくなったとしたら本末転倒。
要するに、縦社会を支えているのは職場なんだと思う。歌人として歌集を出したり、仕事をしたり、ウェブで仕事をしたり収入を得たりするのであれば、おのずと要求されるような感謝の縦社会は存在する。
が、しかし・・・
ちっとも儲からない。趣味なんだから、それが普通なんだと思う。

弟の嫁さんと喧嘩になるのも、姑さんや義理のお姉さんたちと話すと疲れるのも、金が絡むからなんだろうな。自分という人はあまり金のことを考えないで物を言うために喧嘩になるらしい。話すポイントがずれている。よくよく話せば理解にまで至るらしい。
なんかかったるい。よくよく話すほど付き合いたくない。なんてことを正直に書けば、そりゃ誰でも喧嘩になるのだろう。

というわけで、弟が言うには、メールはダメらしい。弟はましなのである。もう何十年も私と付き合っているために、ある程度の下地がある。だから、私が言うことから何かを差し引けばある程度理解できるらしい。その代わり、私に話しても無駄だということは言わない。そうやって考えると、私は頑固なのだろうか?
ぜんぜん。
のらくらしているだけ。
この、のらくらを掻い潜るためには、メールではダメなのだろう。あーいえばこーいわれる、そのためには・・などと考えて文章を書くような人間ではないために、そのときの思いつきで語るほうがましなのだろう、彼は。

おそらくは、高いガードをつくるために、私には知識が必要だったのである。今はどうなんだろう・・・わからない。お金のことしか考えない人を、うちのダンナは学のない人と語っている。きっつ〜い。ああ、そういうふうに彼は私のことを理解していたのだと、今頃になって気づく。
それはまた違う。
学はなくても聖書は読める。聖書は読まなくても学はある。壮絶な違い。
カラー。

エレミヤ書 31. 33-37

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September 13, 2004

エレミヤ書 17. 9-12 人間の心を知り尽くす神

  人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。
  誰がそれを知りえようか。
  心を探り、そのはらわたを究めるのは
  主なるわたしである。
  それぞれの道、業の結ぶ実に従って報いる。
  しゃこが自分の産まなかった卵を集めるように
  不正に富をなす者がいる。
  人生の半ばで、富は彼を見捨て
  ついには、神を失った者となる。

  栄光の御座、いにしえよりの天
  我らの聖所、イスラエルの希望である主よ。
  あなたを捨てる者は皆、辱めを受ける。
  あなたを離れ去る者は
  地下に行く者として記される。
  生ける水の源である主を捨てたからだ。

投稿者 Blue Wind : 11:57 PM | コメント (0) | トラックバック

マタイによる福音書 10. 1-4 十二人を選ぶ

  イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。十二使徒の名は次のとおりである。あずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。

投稿者 Blue Wind : 11:52 PM | コメント (0) | トラックバック

風はゆくつむぎゆく日の蒲公英の根のはる秋にひっそりと咲く

「まほちゃんは、神さまに愛されているからね。いいこいいこ。」
これだけ。
私も母に言われて育ってきた。
娘に言わせると、神さまの中でマリアさまが一番好きなんだそう。
ちらっとややこしいことが頭の中を過ぎったけど、そういうややこしいことは子どもには関係ない。私にも関係ない。子どもは素直でいいなとおもう。

娘に言わせると、みんな神さまらしい。マリアさまもフランチェスコも。そうやって言われてしまうと、なんて便利な言葉なんだろうと思ってしまう。神さまに愛されていると言われて、神さまの中ではマリアさまが一番好きと娘が答える。

ほんじゃ、あたしのときの神さまって誰だったのだろう?
わからない。
マリアさまに愛されているからね、と言われたわけではない。私も娘にそうやって言ったわけでもない。教会に祭壇があれば、私はジーザスに、娘はマリアさまに。よくわからないけど、そういうものらしい。
本当はダメなのかもしれないけど、こころのちかさというものがあって、そこを好きか嫌いかで言われると否定しようがない。

アバウトなんだよなぁ・・・
それこそババアになると、ぐるんぐるんとややこしいことが頭を過ぎる。そこに実際的な冠婚葬祭が追加されるともーダメ。ぽいっと捨てる。

マタイによる福音書 10. 1-4 十二人を選ぶ

こちらに選ぶ権利はない・・・

母は、疎開前に通っていた幼稚園の神父さんがルーツだろう。ながい。イタリアの神父さん。戦争が終わったら帰国なさったそう。すごい昔の話。母が、初めて大学の御聖堂に入ったとき、あまりにも懐かしくて泣きながらお礼のお祈りをした後に話してくれた、当時のことを。母もすっかりおとなになって忘れていたのだと思う。
あのときの、母の驚愕した顔を覚えている。

すぎゆかば記憶の人になってゆく母からわれかわれから人か
風はゆくつむぎゆく日の蒲公英の根のはる秋にひっそりと咲く
蒲公英の宿根草だと知らされる秋の庭にはブルーサルビア
刈られても芝の中から新芽かな春を待たずに花を咲かせり
台風よわれのいぬまにありがとう枯れることなく花は広がり
雨のない土のない道花は咲くそぞろ歩きぬ手には水持ち

エレミヤ書 17. 9-12 人間の心を知り尽くす神

水・・か。
母は、何にあんなに驚いたのだろう・・・撃たれたように驚いていた。アシジのおばあさん風に言うと、まりーあ。

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September 12, 2004

詩編 76. 5-7

  あなたが、餌食の山々から
  光を放って力強く立たれるとき
  勇敢な者も狂気のうちに眠り
  戦士も手の力を振るいえなくなる。
  ヤコブの神よ、あなたが叱咤されると
  戦車も馬も深い眠りに陥る。

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コロサイの信徒への手紙 3. 1-4

  さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。

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ルカによる福音書 18. 24-30

  イエスは、議員が非常に悲しむのを見て、言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」これを聞いた人々が、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言うと、イエスは、「人間にはできないことも、神にはできる」と言われた。するとペトロが、「このとおり、わたしたちは自分の物を捨ててあなたに従って参りました」と言った。イエスは言われた。「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、この世ではその何倍の報いを受け、後の世では永遠の命を受ける。」

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捨てられた教会を見し崖の上理の勝つような野良猫の道

ルドビーさん、いったいどうしたらよいのでしょう? 義理の兄(義姉の婿)はキリスト教の学校にお勤めしていて、もう何十年も受洗したいと言っているらしいのですが、一族で反対してすったもんだしているそうです。こちらの話は私には直接関係のない話なのですけど、主人の姉たちは皆カトリックの教育を受けているので家庭の中は平和です。ところが、親の墓を捨てるのかとか、親はともかくそのまた先祖の墓とか。自分には関係のない話だと思っていたんですけど(だって他人だもの)、その余波で姑さんが本気で心配しているのです。最初から永代供養にして、とか。たまたま神戸市のお墓の移転の話があるので、一人で悩んでいるという。主人は素直な性格なので、そのままつくば市のほうへ移すつもりでいます。父親が生きていたらよいのですけど、すでに亡くなっているし、私の母は戒名まで一緒に受けているので父と同じお墓に入る。弟がいるからいいんですけど、今回、イタリアへ行くだけでも母のことがあったので、世間体がわるいとばかりに弟の嫁さんと喧嘩です。お葬式の時に親族がいないというのは大変なことなんですね。ぼぉ。
ヘンなファミリーなんですよ。結婚式は教会。平和。でも、お葬式となると仏事。平均的日本人家庭なのかもしれないんですけど、お墓や法事が絡むとややこしくて。誰も受洗していないのに、主人の従姉は国際結婚してしまったし、ほかの従兄たちは亡くなったりで、誰も墓を引き継ぐ人がいない。うちは一人娘。義父のお葬式は、毎日礼拝に出ている人がお数珠持って、子どもたちはお坊さん見て吹き出すし、困った。

毎日、歌詠んで、聖書開いているだけなら、一人のことなんですけど、さあ、いざ、ということになるともう何十年もすったもんだしています。

ルカによる福音書 18. 24-30

神父さんに尋ねるほうが愚かな質問だった・・・
親、墓、相続、親戚、世間体、付き合い。しがらみ、しきたり、浮世の義理。

鈴虫の気長に鳴く夜はこおろぎの伴奏となる蒸し暑き庭
台風の上陸せしも知らぬ夏夜半はふけゆく秋を迎えり
ゆくゆくは・・・くりかえすだにゆくゆくは。忘れて遠き記憶の過ぎる。
今はまだ荷物の持てるわがみだと吾子を頼らぬわれを思いし
墓の中入ってしまえば極楽かみかげいしさえ捨てられおりし
世間体なじられたとていまさらにおばかな姉はあきらめ候
少しずつうつろいゆかば吾手にはうすまりゆくか過ぎた月日よ
圧力も軋轢もまた握力もスポンジのごと命に変わる

捨てられた教会を見し崖の上理の勝つような野良猫の道

コロサイの信徒への手紙 3. 1-4

あれはあれでいいのかも。捨てられたのではなく、閉めただけなのかも。

学校、就職、チャリティ、ボランティア、結婚式、くらいまでは平気なのに、改宗、お墓のこととなると猛烈に反発。どこが違うんだろう。

詩編 76. 5-7

死後の世界が違う。

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エフェソの信徒への手紙 4. 25-32 新しい生き方

  だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔にすきを与えてはなりません。盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったほうに、赦し合いなさい。

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ヨナ書 3. 7-9

王と大臣たちの名によって布告を出し、ニネベに断食を命じた。
  「人も家畜も、牛、羊に至るまで、何一つ食物を口にしてはならない。食べることも、水を飲むことも禁ずる。人も家畜も粗布をまとい、ひたすら神に祈願せよ。おのおのの悪の道を離れ、その手から不法を捨てよ。そうすれば神が思い直されて激しい怒りを静め、我々は滅びを免れるかもしれない。」

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September 10, 2004

石畳いくつの足をささえたかかぞえもむなし歩く歩けと

一律に定められし定めなど一律にしてとほく消え去る
天高くそびえゆくものかたければ天蓋にして星と証する
ユダヤ人だれそ敵だとさだめたか人にして思ふ謎多き時
おおすぎるねがいむなしきみことばは無尽の空にかたりかけ飛ぶ
石畳いくつの足をささえたかかぞえもむなし歩く歩けと

ヨナ書 3. 7-9

もう、いいだろう。ホテルにポープの絵皿、飾ってあった。議会になれば、パパさま。悪いことしないようにいつもいる。先の者が後になり、後の者が先になる。だから、本来ならユダヤ人が一番最初に喜びを迎えるのが筋なのに、後になっただけだ。そして、ロマーノ。直接的暴行。迫害。
なんか、もう終わった気がする。聖書に書かれていることの歴史的証人なんだと思う。
決して民族主義に走って言うわけではないけれど、いきなりクリスチャンになったからといってユダヤ人やイスラム教徒が敵に思えるわけでもないし、実際のところ日本人の敵であったこともなく、実感ない。

大きな虹や大きな月の出を信じたい。青とんぼやななしの花。だから何なのさと言われてしまえばそれまでだけど、そちらのほうが自分にとっては神の奇跡に近い。近い、というのは、信じていないせいなのかも。メッセを信じよう。

自分がお願いするより、素直にメッセを聞く。レセプター。そうしないと空はみんなの願いで充満してしまう。フィルター。

飛べなくても、神さまのほうから来てくれるなら、黙って天を見つめていればいい。天は山より高いから、行けないよ。

エフェソの信徒への手紙 4. 25-32 新しい生き方

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ゼカリヤ書 9. 9

  娘シオンよ、大いに踊れ。
  娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。
  見よ、あなたの王が来る。
  彼は神に従い、勝利を与えられた者
  高ぶることなく、ろばに乗って来る
  雌ろばの子であるろばに乗って。

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ナホム書 3. 19

  お前の傷を和らげるものはなく
  打たれた傷は重い。
  お前のうわさを聞く者は皆
  お前に向かって手をたたく。
  お前の悪にだれもが
  常に悩まされてきたからだ。

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September 09, 2004

こんにちは

どんどん見慣れたサイトが@gooにお引越ししているようで、今度はgooがサーバ・ダウンするのではないかと心配しています。毎日300以上の新規加入があるのですから。
全然関係ないのですけど、昨日、不意に弟から連絡があり、母がなぜか快復しているのだそうです。白血球が普通になり、この分だと転院できる状態まで快復するかもしれません。まだ点滴だけの状態なので、胃ろうで栄養摂取ができるようになると移送も可能。主人も不思議がっていました。正直、旅行中に亡くなったとしても不思議ではない状態だったので、それでも旅行に行ってしまうというわがままさ。「亡くなったら亡くなったで、教会からお祈りするから私はいいわ」と言い残して出発しました。弟は怒っていたと思います。実際、途方に暮れながら過ごしていたのでしょう。
無事に旅行から戻り、母は快復している。ありえないことが起こる。

やっと、あの空を信じる気になれました。最初に、シスター・ムーン、ブラザー・サン。あー、アシジの空なんだなーと思っているところに、月の出。一日でどうしてあんなに月の出の時間が狂うのか?ヨーロッパでは普通なんでしょうか?それとも自分の勘違いなのでしょうか?(いや、違います)
そして、音のない落雷。西の方角。落陽の場所より南。

ゼカリヤ書 9. 9

空は・・・信じられなかった。わかるだろうか?その意味が・・・

_________

とても重要だと思ったので、そのまま転載する。

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やたらと広い空、わがままな月

8月26日(木)続き。 なるべく早い時間にピザを発ったので3時前にはアシジに到着。同じような路線だけど、フィレンツェからならヴィアレッジョへ行くより、ピザまで行く方が速くて景色も綺麗。何より、臨時に増発便も出るので便利。座れないということのないイタリアの電車。
フィレンツェやアシジに到着すると、娘が「懐かしい」を連発していた。わかるようなわからないような、短くも長い夏。旅。
宿は、アシジの城壁から1キロくらい離れたところ。景色が素晴らしい。プールもある。夜には父さんが到着する予定。トリプル・ルームをリクエストしておいたら、なんと2間続き。期待していなかった分、うれしかった。夜中に猫と一緒に父さんを待つ。

8月27日(金) イタリア滞在中、雨が降ったのは、セストリ・レバンテにいる一日だけだった。しかも、パラリと降るとすぐに止んでしまう。雨のない夏。それでも風の強い日が続いていたけれども、この日は暑いばかり。
バス停の場所を教えてもらったけど、歩いてポルタ・ヌォーバまで。途中、スーパーで水とサンダルを買う。この頃になると、ハワイで買ったサンダルは底が見事に割れている。それでも歩く。つらい。もう一足は車の運転用にゴムのサンダル。うっかり空港で履き替えるつもりがそのままかばんに詰めて預けてしまったので後日大変な目に。つまり、その靴の入ったかばんが紛失してしまったため、私の足はゴム・サンダルのせいでまるで寝たきりの患者のように腫れ上がってしまった。買えばいいとばかりにフィレンツェで買ったサンダルはスリッパのようで歩きにくい。足が腫れていて、何となくそうなってしまっただけなのかも。結局、かばんが届き、その華奢なサンダルのおかげで歩けた次第。が、しかし、石畳の多いイタリアの道を歩くのなら、皆が履いているようなサンダルでないとつらいということを知る。
3人で、サンタ・キアーラ教会、コムネ広場、Tシャツ屋、石鹸屋、聖フランチェスコ大聖堂。3度目にしてフランチェスコのお墓にたどり着く。ロウソクがライトから本物に変わった。
広場からバスに乗り、サンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会へ。
ホテルのレストランのテラスから落陽を眺める。昨日、娘と二人でカメラを持っていたのにフィルムが切れていたのを悔いる。昨日の空は、右に落陽、左に白い月、空が中央から二つに分かれているかのようだった。この日は、雲が多く、中途半端な空。

8月28日(土) サン・ダミアーノ。思ったよりも近かった。ただし帰りは泣く。入り口付近に、頭巾をかぶった像があり、何となくあれを思い出した。

8月29日(日) この頃になると、私はひたすらダウン。ダンナとおちびだけ城内へ。あれは絶対に人間であると言っていたら、この日はいたらしい。『サン・フランチェスコ像』。案の定、娘がコインを渡そうとしたら、手に持っていた鈴を鳴らし始めたらしい。すると、周囲の人たちが一斉にお財布を取り出したので、要らないと言って逃げ出したそう。やっぱり・・・
もっと書けば、おそらくはサンタ・キアーラのミュージカルがやっていたので、その役者さんだろう。その像がいない時、物乞いをして座っている男の人がいた。思うに、彼がその像である。なんでそう思ったかというと、イタリアには物乞いの人たちがたくさんいる。彼らはいつも決まった場所、決まった時間に出勤している。職がないとか、障害があるとか、すこぶるサバサバしている。道を尋ねている人がチップを渡すようにコインを渡していたのを見て、何となくそう感じた。が、しかし、アシジの物乞いはいたりいなかったりで、本物ではない。
毎晩、眠れない。1キロ以上離れているはずなのに、夜中の2時ごろまでバンドの音が聴こえる。窓を閉めたら暑くて眠れない。窓を開ければバンドの音。窓を開けたり閉めたり、空を見る日が続く。
が、しかし、空がおかしい。
食事を終え、玄関からジンミ(犬)に挨拶して部屋に戻ろうとして空を見上げた時、常夜灯のようなものが見えた。なんと、月の出。山陰から明るい満月が顔を覗かせる。あまりにも明るい月だったので、そのまま昇って行くのを見ていた。でも、おかしい。9時ごろ。いつもだったら、食事をしていると見える。念のため部屋に戻って見てみたけど、部屋からは見えない。ということはいつもより遅い月。
静か。

8月30日(月) 観光の嫌いな父さんは、結局、ローマへもフィレンツェにもほかの町にも行かず、日課としてひまつぶしに城内へ向かい、午後はプールで泳いでいる。プールと言っても、おとなから子どもまで水泳キャップを被って泳いでいる。
この日は最後の日だったので、ヌオーバ教会へ行き、タクシーでカルチェリの庵。ヌオーバ教会は近すぎてどこにあるのか気づかなかった。カルチェリの庵は4キロという。サン・ダミアーノのことがあったのでタクシーでしょう、さすがに。正解。
カルチェリの庵は、聖なる山、と言ったほうがよい。教会の建物を抜けて、山道を歩く。突き当たりで、ドイツの巡礼者の一行がミサ。左側にドイツ人、右側にイタリア人。後ろのほうに座っていたら、途中の十字架のところに登って記念写真を撮っていた親子連れが来たので、ミサを途中で抜ける。これは言葉では説明できない。
ミサは明るく、ギター伴奏の賛美歌。
ゲートに戻る前に、崖のほうへ。もしかすると映画で見た場所だったのかもしれない。神聖な場所なのだろう。穴の横に座っていたら神父さんとシスターの三人連れ。一人のシスターは微笑み、一人のシスターは怪訝な顔。
さらに、下の穴。苔。パワー。山のパワー。手がほてる。額に手を当てる。
予定の時間より早くゲートへ戻り、ほかのファミリーと一緒にタクシー。
夏のアシジは、「サックリフィス、シー」。
サンタ・キアーラの前の舞台が少しずつ仕舞われているのを見て、あのバンドの音源はここだと確信。
夜、食事をしている時、稲妻。音が聴こえない。光だけ。一体どこで光っているのだろう。雨が降り出すかと警戒したけど、音も聴こえない。空が広いことを知る。音のない落雷というものを初めて見た。
満月はわがままで、突然月の出の時間が変わる。アシジ・・・ウンブリア。低い山、広い空。

8月31日(火) 昼間のペルージャ空港は、さらにローカルだった。夜中の道を空港から出るよりも、空港へ向かう道はまるで空き地の中へ向かうかのよう。それでいて、バルセロナ行きの飛行機。国際空港。ヨーロッパ。

9月1日(水) ミラノからはゲームをしているうちに成田。空港で知人に遭遇。寝不足ぼさぼさ。あーつらい。
途中、機内で、何気なく娘が開けた窓から真横に月が見えた。雲の上。
帰りにオトくんを迎えに動物病院。オトくん、興奮。次回は連れて行ってやりたい。
戻る早々学校から電話。サイトは消えていた・・・日常。

ナホム書 3. 19

見事にダウン。
「サックリフィス、シー」。
観光と巡礼の違い?
コムネ広場のTシャツ屋でいきなり子どもが泣いて飛び出して来た。親が怒って、イタリア語で、「xxxxx、フランチェスコ」と捨てゼリフ。まだ3つくらいの子どもだった。いたずらしたのね。
サンタ・キアーラのミュージカルはうるさかったし、タクシーは、ジャッポーネ優先だし、働く人は不機嫌。イタリアの老人の旗持ちツアー。観光バスの先頭に乗る大きい神父さん。修学旅行生のような若者。でね、いっつも誰かがマイクを持って、「サックリフィス、シー」。疲れた。

空は、シスター・ムーン、ブラザー・サン、見事に二つ同時に存在していた。巨大な月の誕生。音のない稲妻。静かな空とうるさい城内。倒された私。

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September 08, 2004

サンダルの二つに割れた底を見るゆきかふ人を石はささえり

追悼のガラスの中にしたためるうた詠みゐてはつきひははやく

・ ご返歌
校庭の赤く燃えいづサルビアはつよきものかとますぐに立てり
まぶしげに広がる光ひねもすの広がりゆくを朝陽にぞ思う
黒黒と抜け毛の季節迎えたか無尽にまつげつけているかと
あらくさに根の残りたる蒲公英をためらいながら眺めてる秋
酒という古き香りのたつものとアルノ河とを比べてかなし
車なき生活はまた冷蔵庫なき生活か テレビは映る
サンダルの二つに割れた底を見るゆきかふ人を石はささえり
わるさする本音の中に飼い主の理性の欠片うちくずれたる
トップレス胸の脂肪の広がるを黙ってみつめ風呂屋をおもう
レストランそろりそろりと白猫はお散歩みちだと言わんばかりに
貯金箱缶切り持って開けたくも缶代を思うせこき吾かな

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ローマの信徒への手紙 2. 6-15

神はおのおのの行いに従ってお報いになります。すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります。すべての悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和を与えられます。神は人を分け隔てなさいません。律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。立法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくても、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に示されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。

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September 06, 2004

ラテーノ

そして、一つわかったのは、ユダヤ人はいまだに嘆きの壁でメシアを待ち望んでいるし、ローマ人はいまだに悪いことをして叱られているときのオトくんみたいにシュンとしているということ。だって、歴史的事実だから。いわば歴史的出来事の証人として、ラテーノは存在している。いきなり磔刑にした人が神の子だとしたら・・・だからこそ大騒ぎになる。ジーザスが神の子であったかどうかが大変なことになる。いまだに怯えているのかどうかは知らない。ただ、中世までのラテーノの描くイエス・キリストは怖い。赤ちゃんの表情はいつも怒っているかのよう。「われらの罪」。それは一つの歴史的事実であり、それを否定したいのは人情だろう。そして、贖い。
気持ちはわかるのだけれど、わたしはユダヤ人でもラテーノでもないために、リアリズムに欠けるのかも。ジーザスのイメージはまるでちがう。あまりにも静かな心しか浮ばない。彼は光の中に存在し、わたしは暗い教会が苦手だ。

ローマの信徒への手紙 2. 6-15

さらに、雑感を書けというのだろうか。つらい。

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マタイによる福音書 19. 16-22

  さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何が欠けているでしょうか。」イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。

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ちぐはぐとしたいつもの自分

8月18日(水)続き。急ぐ旅ではなかったけれども、ESスターに乗ってみたかったので、フィレンツェからミラノまで乗ってみた。満席。しかもチケットの座席番号が順番ではなくややこしい。ようやく自分の席らしきところにたどり着いたら誰かが座っている。生後6ヶ月の赤ちゃんを連れたご夫婦。幸い一人旅の人がいたので席を移ってくれたけど、こちらも娘が嫌がるので替われない。ご主人が私の席に座っていただけ。
それにしても、あちらはカップルは向かい合って座るらしい。こちらは隣り合って座るものだと思っている。よく考えたんだけど、電車の中で寝る習慣がないからなのだろう。こちらは日本人なので、娘はしっかり寝てしまう。
それにしても、ずっとミラノに着くまで携帯電話が鳴りっ放し。赤ちゃんを連れての初めての帰省だったのだろうか。何となくぎくしゃくとした雰囲気のままミラノに到着した。
ミラノ・チェントラーレ。駅。大きい。地下鉄の乗り放題チケットを買い、ドォーモへ。いきなり地下鉄の階段を上がったとたんにジプシー。鳩おじさんたち。餌をポケットに入れて持ち歩いている。ドォーモは修復中で見えない。入り口には警官。

8月19日(木) ブレラ絵画館。この頃になると娘は美術館には飽きてしまい、十字架のイエス・キリストの絵を見ては、「どうしてあんな怖い絵ばかりあるんだ」とか、聖母子像を見ては、「赤ちゃんの顔が怖い」。不満たらたら。「だって、ラテンだもの」としか答えられない。

8月20日(金) おばあちゃんからプラダの”リュック”を頼まれていたので、とりあえずドォーモ周辺やモンテ・ナポリオーネ通りなどを歩く。本店で買い物するような代物ではない。そこで、アウトレットへ行ってみようと思い、トラムに乗る。なんで、ドォーモに行ってしまうのだろう? 夏のミラノは休みの店ばかりで、チャイナタウンを抜けてようやくたどり着いたら結局休み。くねくねとトラムは曲がる。そのうち面倒になり、来たトラムに適当に乗り込み、好きなところで降りる。迷ったら地下鉄マークの見えるところで降り、地下鉄でチェントラーレに戻る。

8月21日(土) 後一つだけ。ドォーモ近くの美術館に入る。何気なく階段の踊り場にミケランジェロのピエタが置いてあった。というわけで、ローマへ行く理由も無くなった。

8月22日(日) セストリ・レバンテへ。ミラノからお昼にインターシティが出ている。こちらはESスターより快適。宿までは地図によると駅から歩いて行けそうだったけど、道を尋ねたら駅に戻ってタクシーに乗れと言われた。納得。半島の町。私たちが泊まったのは東側の湾。西側は大きなビーチだけど、東側は小さい。砂浜が狭いので、湾をせき止めて、そこにヨットやペダル・ボートが浮んでいる。まるでプールみたい。
陽に誘われて、サンセット。一直線の光。動いても着いてくる。8時を過ぎないと日没にならないために、子どもが兄弟でカステーロを作っていた。つまり、砂の城。二重に城塞があり、お堀があって本格的。本物を知っている。娘が作ると山を作ってから形を取ろうとする。ところがイタリアの子どもたちはまずはスコップで堀を掘り、その砂で城塞を作り始める。

8月23日(月) 朝から娘は海の中。ビーチ・フロントの部屋なので、バルコニー(というよりもベランダ)から呼ぶと、海の中にいる娘が返事をする。ちゃんと会話もできるところがすごい。ずっと遊びっ放しで午後発熱。軽い日射病。アイスクリームを買いに一人で教会へ。うそうそ。
セストリ・レバンテの教会は、白く美しい。それでいて、入り口にカーテンがあるほど中は暗い。地元の人らしきおばさんたちが四人と、旅行者らしい女の人が一人離れて座っている。教会の中で世間話。マリアさまだけが舞台装置のように浮かび上がっていた。
その脇を抜けて坂を上がる。とたんに人通りは途絶え、途中に猫の溜まり場。上りきるともう一つ教会。裏に車が停まっていたので誰かいるのかと思ったけど、閉鎖してある教会なので、誰かが勝手に駐車しているみたい。入り口は閉まり、窓には鉄条網が張られている。よく見ると一箇所破られていた。誰かが手で埃を拭いたようで、そこから中を見たら、何となく明るく整然としており、使われていないような雰囲気ではないのだけれど、それでいて鉄条網は錆びているし、埃で中の様子も見えないほどには使われていない。破れた鉄条網の窓の桟に、下の教会から持ってきたと思うロウソクのアルミカップが置いてあった。枯れ葉やゴミに雑じって。
下へ降り、ジェラートを二つ買って、大急ぎで部屋に戻る。

8月24日(火) すっかり元気になった娘は、ビニール袋とパンを持ち、海へ。黒い小魚がたくさんいる。水は透明。意外。ほかの子たちがやっていたのを真似している。大きな魚を捕まえたのにすぐに逃げられたらしい。悔しがっていた。
セストリ・レバンテは田舎。ビーチの椅子も予約制らしい。同じ席を予約すると同じ人たちが座っている。レストランも一度行くと私たちの席がすでにあるらしい。
隣の部屋の人と洗濯物をベランダに干しながら挨拶しているうちに、世間話をするようになる。ほとんどがミラノ辺りから来ている人たちなので、おそらくはこうやって毎年同じ時期に同じ人たちがやってきては同じ席に座り、夏が過ぎてゆくのだということが何となくわかる。
私たちは、フランチェスコ(レストランのマネージャー)に出くわさないようにそそくさとホテルを脱走し、通りのレストランで食べていたら私服のウエイターが通りかかる。目が合う。そのうち彼は携帯で話しながら再び私たちの前を通り過ぎ、行ったと思ったら再び来た。一体彼は何をしていたのだろう?

8月25日(水) ピザへ。チェックアウトしてタクシーを呼んでもらおうと思ったら、ホテルの車で駅まで。そのまま駅の構内まで荷物を運んでくれた上に、ホームまで連れて来てくれたのはよいけれど、季節運行のために来た電車は反対方向。キアーバリで慌てて降りる。これにより、延々と普通電車でピザまで向かうことになる。車なら1時間だというのに、5時間もかかってしまった。
こういう不運にもかかわらず、ピザが斜塔以外見るべきものがなく、川は臭く、長居したくない街だったのでありがたかったかも。ちなみに、ピザの斜塔は本当に斜塔だった。塀の内側は別世界。ただし、ヴィトンの偽物がたくさん売られている。中には、ヴィトン模様の上に桜がプリントされたものまで売っていた。なんなんだ。

8月26日(木) フィレンツェ経由でアッシジへ。セストリ・レバンテについて書き足すとすれば、窓からサンタ・キアーラ教会。湾を取り囲むように右にも左にも教会がある。なんか、女性に囲まれてしまったようでバツの悪い夏の海。

マタイによる福音書 19. 16-22

たしかに、「金持ちの青年」のような町だった・・・

投稿者 Blue Wind : 04:34 AM | コメント (0) | トラックバック

イザヤ書 30. 27

  見よ、主の御名は遠くから来る
  怒りに燃え、立ち昇る濃い煙を伴って。
  その唇は憤りに満ち
  舌は焼き尽くす火のようだ。

投稿者 Blue Wind : 02:29 AM | コメント (0) | トラックバック

草を食む味の広がる不可思議さ爪の味かと素手とあらくさ

ゆっくりと過ごしてみたいひねもすは寝ているうちに鈴虫の声
草を食む味の広がる不可思議さ爪の味かと素手とあらくさ
時差ぼけと呼んでくれるか日常は時差ぼけたままいつものわたし
あれもこれも欲張っている短き日呑みこまれるか鈴虫は鳴く
台風の被害も知らぬ夏の日が過ぎてしまった秋の声かな
イタリアのビーチバレーの強さだけ記憶にのこるオリンピックか

イザヤ書 30. 27

やはり、続きを書かないと始まらないらしい。

投稿者 Blue Wind : 02:27 AM | コメント (0) | トラックバック

作歌環境

作歌環境というものについて考えてみる。

イタリアで歌を詠まなかったか?と言えば、詠んでいたのである。ただし、日課のように詠んでいたのではなく、まるで気まぐれに、窓辺にスイカとチーズとビールとノートを置いて、気分よく詠みまくったり、美術館の長い待ち時間に、不意に思い立って書き殴ってみたり。不意に歌が詠みたくなったとしても、ノートを取り出して書くような状態ではなかったりすると、自然とよぎった歌は消えてしまう。
ああ、これなんだなーと思った。そうやって詠んだ歌をサイトにアップしようと思っても、めんどーでめんどーで・・・だから、「発表」という意識がなければ、サイバーにはアップする気にはなれないのだと気づく。

日課なのである。つまりは、歌を詠むこともサイトを更新することもいわば日常生活の一部であり、ご飯を食べたり掃除したりするのと変わらない。だから、旅行に行くと、まったく自分のサイトも見ないし、歌も気まぐれに詠むだけのことであり、そんなことをしている余裕はないのである。だって、24時間娘と一緒だから忙しい。
私は普通の主婦なので、家にいる。そうすると案外一人でいる時間が長い。だからこそ一人でサイトを更新したり、歌を詠んだりするヒマがあるわけで、どちらも一人の時間にすることだから、一人旅ならともかく、子どもと一緒では難しい。

今回、出発前に、真中朋久さんから歌集をいただき、礼状を出そうと思っているうちにそのままになってしまった。
あえて弁解として書かせていただくのであれば、ひたすら忙しかったということ、歌集を読んでから礼状を出そうと思ったこと、メールで書いてもよいのか葉書を出そうか迷ったこと、長い間ペンを使わない生活だったために、何となくそういうつまらないことに戸惑いがあった。

私には遠慮があるのである。何に対して遠慮しているのかと言えば、よく考えてみたらどちらも知らない人たちなのかもしれないし、それでいて知っている人たちである人たちに対しての遠慮である。
真中さんとは面識もなければ、何らかのやりとりがあったわけでもなく、それは不意に届いた。塔の歌人ということで、たまに結社誌で拝見することがあるだけで、自分にとってはテキストの世界の住人である。しかも、自分は塔にはいまだに投歌したこともない。(はてはて・・・・?)

それと、自分は密かに決めていたことがある。つまり、歌評は書くのはやめよう、というか、歌を知らない自分がほかの人の歌について何が書けるというのだろう?
結社では当たり前のことなのだと思う・・・歌評を書くのは。解説のような歌評もあれば、随筆のような歌評もあるんだなーと、うすらぼんやり感じただけで、実はそのどちらのターゲットにもなりたくない自分は、ますます結社とはうすくなりつつある。
それと同時に、歌集は買うものなのだろうか?それともいただくものなのだろうか??師匠に言われて読むものなのだろうか?つきあいで買うものなのだろうか??それとも誰かに贈る代物なのだろうか??
ちんぷんかんぷん・・・

うだうだうだうだ考えているうちに出発となり、聖書と共に『エウラキロン』を持って行くことにした。実際には、フィレンツェからヴィアレッジョへ行った帰りの電車の中で前半を読んだままストップしている。が、しかし、これがなかなか味わいがある。
日頃は乱読、飛ばし読み、など、未読本が積まれているような生活なので、じっくり味わうという習慣がない。それが、旅先で疲れた体で、眠いのを我慢しながら車窓と共に短歌。うたって良いものだなーと思った。歌集の世界自体がどこか異国の世界のできごとであり、縦書きに並んだ文字を眺めながらわたくしは日本人であるとばかりに短歌。たのしかった。

わたくしは、日本人、であって、ジャッポーネではない。

暗黙のうちに、誰も読めない文字の本を読んでいる自分を黙って見ている人たちがいることに気が付く。ジャッポーネである私は少しもめずらしい存在ではないのだけれども、日本の本がとてもめずらしいのだろう。
ウフィッツイの前でも、ノートを広げて歌を詠み出した時、同じような気配を感じた。彼らにとっては、ジャッポーネはめずらしい存在ではないけれども、さらさらと縦書きにわけのわからない文字を書き殴る日本人はめずらしいのだろう。いや、文字そのものがめずらしいのだと思う。しかも、プリントされたものではなく、筆記。
が、しかし・・・ジャッポーネではなく、正確には、ジャポネーゼではないか?なのに聴こえるジャッポーネ・・・

こうやって書くと、国粋主義者のようでしょ?
ちゃう、ちゃう。
言葉は違っても、いっしょいっしょ、というか、うまく説明できないけれども、言葉は違っても一緒だから。

こう、歌壇というのは、自分にとっては対岸の火事であってほしい場所である。結社がどうたらこうたらとか、発表がどーたらこーたらとか、誰のうたがいいのわるいのどーでもいい。あっさり語ると、どーでもいい。
よーするに、何のためにうたを詠んでいるかの違いなのかもしれないし、よく他人の歌を読まないという記事があったりすると思うわけ。歌人は詠むだけでいいんじゃないかなーって。興味があれば読めばいい。好きな歌人の歌を読めばいい。って。読者がほしいのなら、結社への発表を発表とするべきではない、とか。つまりは、外へ出すべきであり、結社は歌壇は内だから。
狭い。

脈絡もなく考えれば、あれこれ書いても書ききれない。
評価をするのは、確かに人間なんだろうけど、歌を詠ませてくれるのは神なんだと思うことがある、たまに。

作歌環境をどのように整えるか?

さてさて、どういたしませう・・・

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September 04, 2004

否定のシステム

われながらなんてヒマなんだろうと思いながら、gaiax.comのアバターの宣伝を覗いてみる。自分がさっさとgooに引越しサイトをつくってしまったせいか、ほかの人たちの動向も気になる。すると、半日くらいの間に100人くらいの人たちがgooにサイトをつくっている。いくらインスタントとはいえ、多いと思う。
要するに、全廃を宣言されたため、サイトを続行する人たちは基本的に二者択一を迫られた形になる。もちろんほかのサーバへ移転する人もいれば、あっさり捨ててしまう人もいる。が、しかし・・・

それにしても、金銭徴収の仕方がどこかマニアック。8月のイタリアは70%オフが普通で、5ユーロで夏の衣類が買える。せいぜい700円くらい?それを考えると、私の勘違いでなければ、アバターの服が2ユーロ近くするというのはどうも納得がいかない。自分でさらさらイラストが描ける人ならばバカらしくてやってられないだろうと思いながら、gooのサイトのやけにデカイ広告バナーを眺める。

単に広告バナーのクリック数を増やしたいのであれば、広告バナーを選択性にしてしまえばよい。つまりは、自分のサイトにつけるバナーを自分で選ぶようにすれば、嫌でも見なければならない。大抵は目立たないタイプか、サイトに合ったものか、デザインが気に入ったものとか、あるいは自分のサイトのイメージを損なわないものを選ぶ気がするけど、とにかく目立てばよいとばかりに業者が向かう方向はポップアップとか、ますますクリックしたくなくなるバナーが多い。つまりは何が言いたいのかというと、もっと能動的な行動を喚起するような方略を取った方がアバターの服代より合理的な気がするということかも。

それと、ガイアックスのアバターというのは、発信する側のことしか考えていない。自分でイメージをつくって、それを誰かに押し付けるわけでしょ?何となくそれを押し付けられたほうはかなり迷惑という気がする。ジャンキーの場合は、むしろ受信中毒が多い気がするけど。つまりは、勝手に相手のイメージをつくってしまう。そして、自分の中のイメージとコミュニケートしているわけで、相手から情報を与えられすぎるとむしろそういう受信的イメージが破壊されてしまう。つまりは、それは一種の干渉刺激であり、妨害電子であり、これではよっぽどヘンな人しかそういうサイトをつくりたがらないような気がするけど、どうなんだろう。

が、しかし・・・
ガイアは退屈しない。もう飽きちゃったと思う頃に、突然ヘンなことをする。特に意識するわけでもなく、ガイアックス・ユーザは直リンが多いとか、マナーが悪いとか、ボロカスに言われているらしいけど、会員は会員で文句ばかり言っている。なんか、波があって、おもしろい。
今しばらくの間、ガイアックスがどーなるのっかなーなどと観察しているだけでも退屈しない。ガイアックスがどうなるのか、というよりも、皆がどーするのかを観察しているのが面白いのかも。

投稿者 Blue Wind : 12:39 PM | コメント (0) | トラックバック

発散

旅行から戻って来たら、サイトが消えていた。有料だけではなく、無料も。浦島花子のような気分。
調べてみたら、有料サーバのほうの更新手続きにミスがあり、アカウントが停止状態になっている。従って、そちらでアップした壁紙やらコンテンツやらを置いているガイアックスのサイトが放置状態になってしまった。
さらに・・・何となく様子がおかしい。ガイアックス・ログがgooばかり。ヘンだ。そこでいくつかサイトを回った結果、わかったのはガイアックスの無料サーバがなくなるということ。いきなり・・・
今はまだ使えるみたい。とりあえず、日記を保存しておこうと思ったら、8月分の日記がない。つまりは、2ヶ月くらい更新していなかったのであり、短歌のほうは短歌のサイトにアップしていただけだから、もうそれすら気が付かない。以前なら、毎日のように更新していた日記を更新していない、という事実すら自覚がない、ということに気が付いた。

旅行期間中はともかく、それ以前からだもの。まったく自覚のないままに放置サイトになっていたわけで、それでいて、サイトも見ないうちにサイトが消えている可能性が・・・
無料サーバだと、トップページとコンテンツがあれば、更新しなくてもサイト自体が消えるということはめずらしい。そういうめずらしいことが起こるのがガイアックスであり、すでに慣れてはいるとはいえ、いきなり・・・

すでに、移転している人たちが多いのだという事実にも気づく。
アバターのサイトの管理人をするつもりはない。今は、ブログの提供もおそろしいほど増えているために、そういう意味ではガイアックスは使い勝手がわるい。日記なら日記だけを更新していくブログのほうが気楽だ。それでいて、アバターへ切り替えるガイアックス。すこぶる明確。これまでのガイアックス特有のトラブルを考えると、最初からアバター派を集中豪雨化させたほうが言い訳がしやすい?

こーね・・・自分という人は、何か考えているようで実は何も考えていない。サイトとして再び来訪したくなるようなサイトをつくろうとか、アクセス数を増やそうとか、そういう意気込みもない。とりあえず、テキストサイトらしいので、テキストがあればよいのかもしれない。短歌や駄文を勝手に書いているだけ。

誰かが、ガイアックスは時代遅れのシステムだと語っていたので、それが世論になるまでにたくさんの必要がないのがウェブであり、たった3週間ネットに接続しなかっただけで浦島花子・・・

で、何か困ったかというと、特に何も困らなかった。
何も困らないにもかかわらず、サイトが復活したら懐かしい。うれしい。ほっとする。
電子の世界はあっという間に失われる世界だということに気づく。

それにしても、これだけは残しておいてほしいというログがどれくらいあるだろう?うちのサイトに・・・
よく考えたんだけど、ないような気がする。
以前なら、せめて短歌のログくらいは・・・という気持ちもあったのだけれども、近頃はそれすら失せている。

すべてがどうでもいいと思ってしまったら、消えてなくなるものは消えてなくなるわけで、それすらどうでもよいことのような気がしてしまう。問題は自分に蓄積されたものであり、何かを残すよりも、自分がその中から得たもののほうが大きい。無為に思える月日の中で、自分が得たものの大きさに気づく。
つまりは、つまらない自分を発散させることにより、見えない自分が戻ってくる。

投稿者 Blue Wind : 01:16 AM | コメント (3) | トラックバック

使徒言行録 9. 26-31 サウロ、エルサレムで使徒たちと会う

  サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。しかしバルナバは、サウロを連れて使徒たちのところへ案内し、サウロが旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって大胆に宣教した次第を説明した。それで、サウロはエルサレムで使徒たちと自由に行き来し、主の名によって恐れずに教えるようになった。また、ギリシア語を話すユダヤ人と語り、議論もしたが、彼らはサウロを殺そうとねらっていた。それを知った兄弟たちは、サウロを連れてカイサリアに下り、そこからタルソスへ出発させた。
  こうして、教会はユダヤ、ガラリヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。

投稿者 Blue Wind : 12:07 AM | コメント (0) | トラックバック

詩編 74. 1

      マスキュール・アサフの詩
  神よ、なぜあなたは
  養っておられた羊の群れに怒りの煙をはき
  永遠に突き放してしまわれたのですか。

投稿者 Blue Wind : 12:00 AM | コメント (0) | トラックバック

September 03, 2004

牢獄の天窓

詩編 74. 1

8月14日(土)続き。 午後、フィレンツェに到着。部屋の窓からサンタ・マリア・ノベッラ教会とドォーモの屋根が見える。つまり駅前。朝、鐘の音で目覚める。9時15分前になると馬車が数台窓の下を通過する。フィレンツェは下町のような雰囲気の街。
早速、ドォーモを目指して歩く。ところが、離れていると見えるのに近づくにつれて見えなくなる丸屋根。間違えて、サン・ロレンツォ教会のほうへ進んでしまったらしい。何かの入り口を見つけたので入ってみたら、メディチ家の礼拝堂だった。ロケットのような重圧感。写真で見るより美しかった。それでいて修復中。それでいて、組んである足場まで豪華。
外へ出て、ちょっとしたスペースがあったので一休みする。それがアカデミア美術館の横だと気がついたのは翌日だった。フィレンツェは狭い。ドォーモも暗い街並みに目が慣れているせいか、明るく綺麗だった。でも、中は暗い。

8月15日(日) 地図を見ながらアカデミア美術館へ。隣にサン・マルコ美術館、とある。入り口を間違えて、サン・マルコ教会のほうへ入ってしまった。いぶかしがっているヒマもなく、アカデミアで歩き疲れて、椅子に座ったとたんにミサが始まってしまった。とても外へ出られる雰囲気ではなかったので、そのままミサに参加。アリルヤ、アリルゥゥヤ。XXXXX(わからない)、アーメン。周りはイタリア語。私は日本語。おなじ、おなじ。アーメン。説教はわからないけれども、前の席の女の人がうるうるしながら握手を求めて来たので、何となくわかった。同じように、後ろの席を振り返り、皆と握手して来た。おちびも真似をしている。
サン・マルコ広場は、こじんまりとしていて、鳩がたくさんいるので、娘にどこへ行きたいかと尋ねれば、そこらしい。
翌日が月曜日なので、疲れていたけど、娘を馬車に乗せてご機嫌を取り、むりやりウフィッツィ美術館の列に並ぶ。素晴らしかった。でも、川が汚いことに気づく。手荷物検査があり、バッグの中にカメラが入っていたのをそのままにしたために、フィルムがボツ(になっているはず)。

8月16日(月) ほとんどの美術館がお休み。娘が、サン・マルコ広場へ行きたいというので再び向かう。カフェのアイスクリームでご機嫌を取り、今度こそサン・マルコ美術館へ。なんと、ガイドブックには書いていなかったけど、修道院がそのまま美術館になっていた。小さな部屋がいくつも並び、それぞれの部屋の壁に描かれているアンジェリコの絵を見てまわる。小さな部屋、小さな窓、中には廊下にしか窓のない部屋もあり、ルドビーさんのお部屋の写真とはずいぶん違う。一番最後に入ったコジモ・ディ・メディチの部屋が何となく記憶に残る。修道院の中に、彼の部屋があること自体が不可思議であり、フィレンツェであり、ほかの部屋と唯一違っていたのは、部屋の奥に部屋があり、その牢屋のような部屋には窓のほかにめずらしく天窓らしきものがある。修道院の片隅で、さらに一歩下がり、それでいて窓が二つある。癒しの牢獄。フィレンツェに疲れたら、座っていたい場所かも。
いや、馬車に乗ったのは、この日かもしれない。同じところを何度も通っているために忘れた。

8月17日(火) アリタリア航空からようやく紛失していたバッグが届いたので、ヴィアレッジョへ。海。カラフルなパラソルが並ぶ広いビーチ。海は汚いし、フィレンツェから往復5時間を費やす値打ちがあったとは思えない。でも、関東の夏の海を考えれば・・・

8月18日(水) ミラノへ。イタリアで、全席指定の電車には2度と乗りたくない。

使徒言行録 9. 26-31 サウロ、エルサレムで使徒たちと会う

投稿者 Blue Wind : 01:50 AM | コメント (0) | トラックバック

September 02, 2004

フィリピの信徒への手紙 4. 21-23 結びの言葉

  キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たちに、よろしく伝えてください。わたしと一緒にいる兄弟たちも、あなたがたによろしくと言っています。すべての聖なる者たちから、特に皇帝の家の人たちからよろしくとのことです。主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように。

投稿者 Blue Wind : 12:07 PM | コメント (0) | トラックバック

地球は狭く、空は広かった

サンダル2足、イタリアに捨てて来た。

8月11日(水) 成田空港、第一ターミナル。ローカルなので、時間が余る。ミラノ・マルペンサ空港。さらにローカルなので、ローカルな国内線のロビーで再びひまをもてあます。そして、さらにローカルなペルージャ空港。私たちが最後の客で、追い出されるように空港は閉められた。
アッシージィ。大聖堂の前を通って宿屋へ。あまりにも明るいので、それが大聖堂だと気がついたのは翌日だった。
大通りに面した部屋。真夜中だというのに、子どもや犬の声が通過する。

8月12日(木) 朝の鐘で目が覚める。通りには掃除する人たち。朝食室へ行っても無人。窓から向かいの家の屋根を眺めていると鳩の群れ。壁の中に消えた。よく見ると、壁に小さな穴が開いている。
娘の目が腫れているのに気づき、アシジで一番最初に行ったのが、薬屋。(途中、『聖フランチェスコ像』が通りに立っていた。)ひとまず宿に戻り、大聖堂へ。入り口を入り、階段を下り、作品を観ながら中庭を一周し、さらに階段を下り、順路に従い外へ出る。さらに広場を抜けて下ってしまい、そこから宿へ戻ろうとして迷子になる。壁の石に穴が開いていて、そこにも鳩。
12時にはコムネ広場。(途中、『聖フランチェスコ像』は消えていた。)派手な鐘の音。反対方向へ歩く。サン・ルフィーノ。そこから地図を見て、ロッカ・マジョーレ。近道と書いてあったので階段を上がる。悲しい。さらに坂。やっとたどり着いたら修復中。でも、階段を上がる。真っ暗な、人がようやくすれ違えるくらいの石の中を歩き、さらに階段。360度のパノラマは疲れて座る人たちで埋め尽くされ、しかも狭い階段を下りなければならないために何となく座りっぱなしの人も多い。

8月13日(金) 鉄道の切符を買いに駅へ。マテオーリ広場からバスに乗る。サンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会へ行くつもりでさらにバスに乗ったらアシジに戻ってしまった。仕方がないので、そのままアシジを一周して駅を通過し、次に皆が降りるところで降りた。
しばらく歩くと教会。明るく静かな世界だった。お昼。ポルチウンクラは陽を受けて、闇の中にも光。光の下に座りたかったけど、床の上には数人の人たちと、椅子には寝ているかのようにうつぶせた人たちが座っていた。何やら立ち去りがたいものを感じたので、娘を座らせ、私も反対側の席に座る。気が付けば、皆が祈っていた。しばらくそうしているうちに、私の隣にひざまずいて祈る人が不意に現れたので驚いて眺めると、狭い部屋の中は祈る人たちで埋め尽くされていた。
娘を起こし、(というのはポーズは祈り人であったけれども、彼女が言うにはとても眠たくて寝ていたのだそう。)教会の出口へ向かう。何か後ろ髪を引かれる気がして戻る。強烈な光がポルチウンクラの横。私はその中に入りに戻った。
午後、サンタ・キアーラ。皆の後を着いて、階段を下りた。何気なく小窓を覗いたとたん、静止した世界の中に横たわるシスターが眠っているのが見えた。
夕方、サン・フランチェスコ大聖堂の購買へ向かい、日本語の小冊子と小物を娘のために買う。
ちなみに、サンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会のすぐ横にバス停があることに気がついたのは、帰りのバスに乗ってからだった。

8月14日(土) アシジ駅。ベンチの隣に座ったおばあさんはラテン。言葉は通じないのだけれど、言葉が通じてしまう。3人で、サンタ・マリア・デリ・アンジェリを眺めながら、「ポルツィウンクラ」。急に静かになったと思ったら、一枚のカードを眺めている。「パッパ、マンマ」。おそらくは、聖フランチェスコと聖キアーラの絵。家族の写真を持ち歩くようにいつも持ち歩いているのがわかる。それくらい古い。ミラノから一人で巡礼。

プロローグ。
空は狭く、遠い。

フィリピの信徒への手紙 4. 21-23 結びの言葉

そだそだ・・・パラッツォから行け、だった。

投稿者 Blue Wind : 11:42 AM | コメント (0) | トラックバック