September 06, 2004

ラテーノ

そして、一つわかったのは、ユダヤ人はいまだに嘆きの壁でメシアを待ち望んでいるし、ローマ人はいまだに悪いことをして叱られているときのオトくんみたいにシュンとしているということ。だって、歴史的事実だから。いわば歴史的出来事の証人として、ラテーノは存在している。いきなり磔刑にした人が神の子だとしたら・・・だからこそ大騒ぎになる。ジーザスが神の子であったかどうかが大変なことになる。いまだに怯えているのかどうかは知らない。ただ、中世までのラテーノの描くイエス・キリストは怖い。赤ちゃんの表情はいつも怒っているかのよう。「われらの罪」。それは一つの歴史的事実であり、それを否定したいのは人情だろう。そして、贖い。
気持ちはわかるのだけれど、わたしはユダヤ人でもラテーノでもないために、リアリズムに欠けるのかも。ジーザスのイメージはまるでちがう。あまりにも静かな心しか浮ばない。彼は光の中に存在し、わたしは暗い教会が苦手だ。

ローマの信徒への手紙 2. 6-15

さらに、雑感を書けというのだろうか。つらい。

投稿者 Blue Wind : September 6, 2004 11:17 AM | トラックバック
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