September 17, 2004

光射すオリーブの道下りゆかば光の丘の木陰に休み

My Lord, My All.

良い言葉。
訳せない。主こそわがすべて。
完璧なる精神の自由。信仰の自由。ウンブリア、アシジの山。

完璧なる信仰の自由。
空と星と、天だけがどこまでもつづく。真理は空さえも自由にする。遮るもののない空。

象徴として自分が見たものは、屋根の上の鳩、むせかえるような人の多いアシジ、コジモのささやかな自由空間、愛するフィレンツェ、広場の鳩、ドォーモの入り口のボディ・チェックをする警官、教会で世間話に明け暮れる女性、閉鎖されたベネディクト派の教会、臭いピザの別世界、アシジの空。

人間と教会。そして、最後には空だけが残った。

私は、精神の自由としてアシジを語るとき、空と星とポルチウンクラ、と結論付けようとした。そのとたん、サン・ダミアーノが浮んだ。狭い窓から見た、狼と戯れるサン・フランチェスコ。

あっけにとられるくらいの自由がある。自由という言葉でしか表現できない自分が悲しい。

象徴は、原風景として私の記憶の中にある。

ダニエル書 5. 16-17

光射すオリーブの道下りゆかば光の丘の木陰に休み
ぐらぐらと積まれた石の揺れる道乾いて一つ足もとにあり
屈強にお城の道は大男歩いて揺れぬ坂の多かり
部屋の奥ローマ時代の洞穴がひっそりありきアシジの宿屋
壁の向こう岩が続きぬ石の家閉したる窓に風は吹き込み
暗がりに道ゆく人を眺むれば朝な夕なと影細き道

イザヤ書 30. 18-33 救いのとき、アッシリアに対する審判

イザヤの見たもの、見た景色。

なんで、呪縛がポルチウンクラだと外れるのだろう。

投稿者 Blue Wind : September 17, 2004 12:10 PM | トラックバック
コメント

> 主こそわがすべて。

私の感覚では、
神こそすべてのすべてであり、その他になにもない。
「われ」もないので、「わがすべて」というレトリックもない。

これは仏教的感覚に近いかもしれません。

Posted by: tak-shonai : September 19, 2004 12:33 AM

生贄のこひつじ。
アダムの罪を贖ったのがイエス・キリスト。
だから、神に自分を献げるという意識がどこかにあるのだと思います。
一般論として。
概念としての神はいつも誰のものでもなく無の中に存在し、すべてなのかもしれないけど、人として存在していたところが違うのかも。

むずかしい・・・

Posted by: Rin@管理人 : September 19, 2004 03:30 PM
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