September 06, 2004

作歌環境

作歌環境というものについて考えてみる。

イタリアで歌を詠まなかったか?と言えば、詠んでいたのである。ただし、日課のように詠んでいたのではなく、まるで気まぐれに、窓辺にスイカとチーズとビールとノートを置いて、気分よく詠みまくったり、美術館の長い待ち時間に、不意に思い立って書き殴ってみたり。不意に歌が詠みたくなったとしても、ノートを取り出して書くような状態ではなかったりすると、自然とよぎった歌は消えてしまう。
ああ、これなんだなーと思った。そうやって詠んだ歌をサイトにアップしようと思っても、めんどーでめんどーで・・・だから、「発表」という意識がなければ、サイバーにはアップする気にはなれないのだと気づく。

日課なのである。つまりは、歌を詠むこともサイトを更新することもいわば日常生活の一部であり、ご飯を食べたり掃除したりするのと変わらない。だから、旅行に行くと、まったく自分のサイトも見ないし、歌も気まぐれに詠むだけのことであり、そんなことをしている余裕はないのである。だって、24時間娘と一緒だから忙しい。
私は普通の主婦なので、家にいる。そうすると案外一人でいる時間が長い。だからこそ一人でサイトを更新したり、歌を詠んだりするヒマがあるわけで、どちらも一人の時間にすることだから、一人旅ならともかく、子どもと一緒では難しい。

今回、出発前に、真中朋久さんから歌集をいただき、礼状を出そうと思っているうちにそのままになってしまった。
あえて弁解として書かせていただくのであれば、ひたすら忙しかったということ、歌集を読んでから礼状を出そうと思ったこと、メールで書いてもよいのか葉書を出そうか迷ったこと、長い間ペンを使わない生活だったために、何となくそういうつまらないことに戸惑いがあった。

私には遠慮があるのである。何に対して遠慮しているのかと言えば、よく考えてみたらどちらも知らない人たちなのかもしれないし、それでいて知っている人たちである人たちに対しての遠慮である。
真中さんとは面識もなければ、何らかのやりとりがあったわけでもなく、それは不意に届いた。塔の歌人ということで、たまに結社誌で拝見することがあるだけで、自分にとってはテキストの世界の住人である。しかも、自分は塔にはいまだに投歌したこともない。(はてはて・・・・?)

それと、自分は密かに決めていたことがある。つまり、歌評は書くのはやめよう、というか、歌を知らない自分がほかの人の歌について何が書けるというのだろう?
結社では当たり前のことなのだと思う・・・歌評を書くのは。解説のような歌評もあれば、随筆のような歌評もあるんだなーと、うすらぼんやり感じただけで、実はそのどちらのターゲットにもなりたくない自分は、ますます結社とはうすくなりつつある。
それと同時に、歌集は買うものなのだろうか?それともいただくものなのだろうか??師匠に言われて読むものなのだろうか?つきあいで買うものなのだろうか??それとも誰かに贈る代物なのだろうか??
ちんぷんかんぷん・・・

うだうだうだうだ考えているうちに出発となり、聖書と共に『エウラキロン』を持って行くことにした。実際には、フィレンツェからヴィアレッジョへ行った帰りの電車の中で前半を読んだままストップしている。が、しかし、これがなかなか味わいがある。
日頃は乱読、飛ばし読み、など、未読本が積まれているような生活なので、じっくり味わうという習慣がない。それが、旅先で疲れた体で、眠いのを我慢しながら車窓と共に短歌。うたって良いものだなーと思った。歌集の世界自体がどこか異国の世界のできごとであり、縦書きに並んだ文字を眺めながらわたくしは日本人であるとばかりに短歌。たのしかった。

わたくしは、日本人、であって、ジャッポーネではない。

暗黙のうちに、誰も読めない文字の本を読んでいる自分を黙って見ている人たちがいることに気が付く。ジャッポーネである私は少しもめずらしい存在ではないのだけれども、日本の本がとてもめずらしいのだろう。
ウフィッツイの前でも、ノートを広げて歌を詠み出した時、同じような気配を感じた。彼らにとっては、ジャッポーネはめずらしい存在ではないけれども、さらさらと縦書きにわけのわからない文字を書き殴る日本人はめずらしいのだろう。いや、文字そのものがめずらしいのだと思う。しかも、プリントされたものではなく、筆記。
が、しかし・・・ジャッポーネではなく、正確には、ジャポネーゼではないか?なのに聴こえるジャッポーネ・・・

こうやって書くと、国粋主義者のようでしょ?
ちゃう、ちゃう。
言葉は違っても、いっしょいっしょ、というか、うまく説明できないけれども、言葉は違っても一緒だから。

こう、歌壇というのは、自分にとっては対岸の火事であってほしい場所である。結社がどうたらこうたらとか、発表がどーたらこーたらとか、誰のうたがいいのわるいのどーでもいい。あっさり語ると、どーでもいい。
よーするに、何のためにうたを詠んでいるかの違いなのかもしれないし、よく他人の歌を読まないという記事があったりすると思うわけ。歌人は詠むだけでいいんじゃないかなーって。興味があれば読めばいい。好きな歌人の歌を読めばいい。って。読者がほしいのなら、結社への発表を発表とするべきではない、とか。つまりは、外へ出すべきであり、結社は歌壇は内だから。
狭い。

脈絡もなく考えれば、あれこれ書いても書ききれない。
評価をするのは、確かに人間なんだろうけど、歌を詠ませてくれるのは神なんだと思うことがある、たまに。

作歌環境をどのように整えるか?

さてさて、どういたしませう・・・

投稿者 Blue Wind : September 6, 2004 01:04 AM | トラックバック
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