January 31, 2004

猫のままでいたい

自分では、こういう下品なトーンが気に入っている。何をもってして下品かというと、うまく説明できないけれども、わざとくだけた調子で文章を進めていく。自分を称して、「あたし」と書いたり、男言葉を使ったり、何を言われても知らん顔して続ける。実際には来訪者がどういう風に思うかはわからないし、リアルな来訪者があっても気にしない。
つまりは、書きたいことを書くというのはストレス発散であり、そのためにサイトをつくったような気がするくらいだから。つまりは、自分のサイトくらい自分の書きたいことを自由に書きたいでしょ? 自分や自分の家族や知り合いのことなどを考えてもさほど気にしない。世の中にはそれくらいの自由というものがあってもよいような気がするからだ。

ところが、自分が大学に在学中だったら、まったなしに退学になっている可能性があるくらいきわどい。まあ、退学になることはないかもしれないけど、注意を受けても仕方がない。
というわけで、この調子で神父さんのコミュニティに投稿していたら、来訪者からお叱りを受けたことがある。神父さんは何もおっしゃらないけれども、いささか反省し、なるべく下品なトーンの投稿は控えている。内容の問題ではなく、トーンなのだと思う。自分を「あたし」と呼ぶか、「私」と呼ぶかでは文章の調子も違うし、普通に書こうと思えば書けるし、何も注意されるのがわかっていてまで自分を主張しなければならないような問題とも思えない。もちろんシモネタも避けるべきでしょうし、批判的な内容も避けるべきなのかもしれない。

未来短歌会に入会したら、加藤治郎さんからメールが届いた。驚いたけれども、ネットを通したやりとりというものに力を注いでいるのだろうということで、のらくらお返事を書く。さらに速攻で、「彗星」という加藤グループと呼べばよいのかもしれないけれども、そこに誘われた。
未来へ入ったのは、岡井さんのファンだったからで、以前から塔短歌会のほうへも入っているけれどもいまだに選者が決まらない。今度は岡井さんのところへ素直に送ろうと思ったら加藤さんからお誘いをいただく。加藤さんは岡井さんのお弟子さんなので、そういう意味では矛盾しないのかもしれない。
こういうのは大学と同じで、単に講義に出席するのであればどんな先生でもかまわない。でも、一緒に活動するとなると若干事情が異なる。
自分は極めて好き嫌いがはっきりしており、気難しいところがある。だから、どんな先生でもかまわないというわけにはいかない。大学院を受験した時も、指導教官をあらかじめ決めていずに合格したので、入ってから事情がわからず苦労した。つまり、のらくらと三人くらいの教授のところをさまよい、最終的になぜか社会心理学の先生のところで知覚・認知を研究することになってしまった。専門や研究テーマで指導教官が決まったというより、母校の恩師と一年違いの先輩・後輩ということで決まったらしく、実質二つの大学で指導を受けることになる。
どうしてそういうややこしいことになったかというと、当時はまだ自分の専攻する学科が母校の大学院の研究科になかったからであり、他大学を受験しなければならない。それでいて、合格したものの自分を指導してくれる専門の先生がいなかったので、研究テーマを変えたくなかった自分としてはのらくらとするほかなかったとしか言いようがない。だから、母校の教授の指導を受けながら、大学院でも指導教官の指導を受けなければならない。となるとね・・・最終的にはボスが二人いるわけだから、ボス同士の兼ね合いということだったんだろうな。

なんで急にそういうややこしいことを思い出したかというと、「超結社」、「インターネット」ということなのですよ。結社が違えば雰囲気も違うし、選者が違えば流れが違う。単に雑誌購読という意味合いで複数の結社に入会することを考えるとさほど悩む必要性もないような気がする。でも、この世界は意外とというか、意外ではなく、所属結社というのが大切になるのかもしれないし、歌壇や結社の事情に詳しくない自分としては迷うことしきり。
大袈裟に考えすぎなのかもしれないし、旧弊な社会というものを理解している自分としては、慎重になってしまう。しかも、自分は気難しい。軽いのに気難しい。愛想がよいのに気難しい。猫にも似た気難しさがある。

修道院でも猫ならいいのよね・・・
猫にいちいちうるさく言っても無意味だろう。
ところが人間というのはややこしくて、おミサに参加するくらいなら問題はないかもしれないけど、受洗となると死に際に誰かがやってくれないかなとかそういう風になってしまう。
人間に戻るとなると服も選ばなければならない、言葉遣いも気にしなければならない、あれにこれにと気を使わなければならない。それが人の道のような気もするけど。
娘も急に顔が細長くなってきたりして、そろそろお姉さんだもの。母がこういう調子でよいのだろうか?でも、一気に雰囲気が変わってくる。サルだけど、親が心配するほどサルではないのかもしれない。ちょっと見るとおとなしくて上品そうな顔立ちをしている。いつのまに変わったのだろう?赤ちゃんではないのだから・・・おそらくは年頃になると一気に変わるのだろう。あたしのジャケットを着せたら自分そっくり。

自分。
自分らしさって何なのだろう?
素直に現代短歌を詠みたい。それでいて、古来からのトーンも嫌いではない。派手な歌よりも、本当はささやかなる日常のほうがほんわかしていて好き。それでいてポンと出てくる概念歌。あまりにも大袈裟。大袈裟だけど、それもまた自分だ。

投稿者 Blue Wind : 02:09 AM | コメント (0)

January 27, 2004

まぼろしの小川およぐ稚魚の群れすいすいすいといづこへむかふ

鮮やかなスカーフ1枚とりゐだす気分転換おとづれる春
強烈に気分転換必要になるほど耳は脳に直結

まぼろしの小川およぐ稚魚の群れすいすいすいといづこへむかふ
せせらぎの聞こえる小川いつまでもどこまでもまた水は流るる
澄み切った青青い空駆け抜ける雲雀にも似た歌声するかな
さらさらと流るる水の清ければ稚魚多かりし育ちゆくなり

いろどりは空の茜に見えにしも夕暮るる山みどりは映えで
世の中で一番かなしむべきことは妻のわるぐちいふ夫なり

意地悪く世界を見れば今日もまた鬼が笑ふえへへと笑ふ

投稿者 Blue Wind : 11:42 PM | コメント (0)

January 25, 2004

未来へと風のゆきかふ筑波路にちょこんと座るガマのオブジェ

未来へと風のゆきかふ筑波路にちょこんと座るガマのオブジェ
道などはたくさんあるとおもうのに人はあつまる人歩く道
地下道を掘ってつくるつくば駅ターミナルには駐車場だけ

モアイ像素っ気ない顔晒してる渋谷の駅は君に似ている
自転車を軽く担いで歩道橋わたる海彼の華奢なステップ
空中にぽっかり浮かぶホームには電車待つ人眠りこみたる
動く街しづもる街の並木道並んだ車飛ばすタクシー
細長く並んだビルの夜空には赤いランプが星のかわりに

どす黒い雲の流るるスコールを走り抜ければ透きとほる海

珈琲もミルク次第とおもひつつ常温保存を選びたる吾

投稿者 Blue Wind : 08:59 AM | コメント (0)

January 24, 2004

解放されてしまった後の女の歌

「短歌とは何か?」と定義しようとするからややこしくなるわけで、「作歌とは何か?」と定義すれば案外簡単かもしれない。つまりは、作歌とは、『さりげない日常にドラマを発見する行為』。
今まで写実がどうたらこうたら、生活臭がどうたらこうたらなど、いろいろな人たちがいろいろなことを語るためにばらばらにされた断片を拾い集めるのに苦労したけれど、結局は、そういうことなのだと思った。短歌とはさりげない日常に発見するドラマのことであり、それを57577の形でつぶやく。それだけ。
これが明治天皇の場合、9万首の御歌のうち、ほとんどが国の繁栄とか国民の安全などを祈願するような御歌がほとんどだし、それを毎日何十首もお詠みになっていたわけだから、それもまたいわば仕事のような生活のような、自分とは生活が違うというだけで歌を定義してはならないのだと気づく。そのような生活がさりげないかどうかはともかく・・・

さりげない日常の中に、花も空も雲も人もある。だから、なんでもありいなんでしょうし、それでいて虚偽を嫌う。つまりは、自分史というものにこだわるのは、それが文学だからなのだそう。文学というより民俗学ではないかと思ったりするけど、生きた証を歌にのこす。時代にこだわる人たちが多いのも、そういうことらしい。

桑原武夫の『第二芸術論』がなかったら、短歌や俳句は逆にすたれてしまったかもしれない。前衛短歌という言葉もニューウェーブも今ではすっかり古臭いらしいし、そうなると万葉集はなんなんだと言いたいのだけれど、要するにセカンドアートと言われてむっかーっとした人たちに支えられて、この古めかしい世界が少しばかり変化したのも事実なのかもしれないし、それでいて未だに旧弊なイメージがあり、事実、どこか旧弊であり、短歌は文学であるという使命感により結束している人たちも多い。
文学をするのに、どうして集団とならなければならないのか、そこがまた不思議なんだけど、自分のようなにわか歌人にとっては、どうもほかの人たちとはたどる道筋の順番が異なり、しかも、自分のたどる道筋は今は決してめずらしい姿ではなく、昨日などは『青空文庫』を紐解いて、与謝野晶子の著作を眺めてみれば、日本という国はちょっと前まではたしかにこういうことを訴えなければならない国であったことを不意に思い出す。
「詩歌って男の世界だったのね〜♪」なーんてね・・・・
インターネットで中学生や高校生の恋の詩などを読んでいたりすると、こういうのはいわば女性趣味であり、女性が詩を書いたり歌を詠んだりすることは違和感もなく、女流作家などは驚くに値しない。
が、しかし・・・・・ちょっと前までこれだもの・・・・・・『「女らしさ」とは何か』
時代は与謝野晶子が予言したとおり進んでいる。女性解放運動というか、そこから始まったウェーブは自分で帰着しているような気がした。つまりは、あたしは参政権もあるし、学歴もある。でも、家でぼっけーっとしているほうが好きだ。自分の母親のように、ガツガツ仕事をしようとは思わない。歌など詠んでいても儲からない。サイトをつくっても儲からない。でも面白い。学歴があっていまだに無資格。就職したことがない。かといってフリーターと呼ばれたこともない。(わるい?)

娘の友達のお母さんなどと話すと面白い。彼女のように頭がよいと、最初から、「役人と結婚するより自分で役人になれ」と教育される。そうでなければ自己実現したことにはならないらしい。つまりは自分で何か職業を持ち、生きる。
自分などからすれば、こういうのはいわばそういう社会の流れがあり、思想や教育の一つの形でしかないと思うのだけれど、一般的に今の社会はこういう風潮が主流だろう。自分のように、最初からしなくてもすむ苦労はしない主義という環境の中で教育されると、まったく逆だから、もしかすると出身学校により人生観すら違うのだと不意に気づく。
それと、発展途上国だと、いまだに女の子は学校へは行かせてもらえないとかね・・・そういうのが普通だったりすると、どうして男の子だけにしか教育を受けさせてもらえないのかと思うと不公平な気がするけど。かといって、自分のように教育だけあっても、単に家で子育てをしているだけでは金をかけた意味はたしかに無いのかもしれない。かといって、無理に働いて、ぼこぼこにいじめられてもつまらないではないか・・・

しかも、歌壇の面白いのは、社会人と歌人とは違うらしい。短歌で食べているのであれば、それこそ職業歌人と呼ぶべきなのだろうか?
ヘンな社会。
まあ、ほとんどの人たちが職業は職業として別にあり、短歌は生活の糧を得る手段ではないために、「プロの歌人」という人たちが存在しているほうが奇異なのかもしれない。

本題だ。つまりは、ここはすごく重要なのだと思った。歌のパターンにも実は2通りある気がした。どういう歌が秀歌かどうかはほかのもっと詳しい人たちにお尋ねするとして、好みの問題として、役割を取り入れた歌とあくまでもそういう社会的な要素を排除した歌とは区分されなければならないような気がする。時事詠などはともかく、それ以外ではすごく自分というものにこだわるでしょ?短歌は。その自分の中に文学性を発見する。つまりはさりげない日常を客観視する。自分というものから離れて自分を眺めるというか、広い世界に重ねおくことにより解放される自己。でも、そういう中で、自分の担う社会的役割を歌にこめるか、それを外すかではまったく違う。ベクトルが違う。つまりは、純粋性を求めるならばあえて自分の役割・・・母、妻、その他諸々職業的バイアスなどを取り払うべきであり、それでいてそういうバイアスのある視点もヤギアイスのようで面白く、どこからどこまでが自己であるのか、その定義すら意識したこともなく、自分をアイデンティファイするものをどこにおき、おかないのかも人それぞれだから、おのずと自分を詠めなどと言われれば、その辺の意識の違いが発生する。

たとえば、女性解放などを詠いたい人からすれば、そのような視点から詠むほうが魅力的なんでしょうし、ジェンダーを訴えたいのであればさりげなくセクハラを盛り込んでしまうとか、ちょっとした日常。わずらわしい雑事から解放されたいのであれば、それこそ自然の美しさなどを詠うほうが楽しいのかもしれないし、日常といえばそれこそ家庭の話しかないというのもこれまた一つの日常だし、今さらながらに考える日常。
あたしとしては、日常などというものにはドラマなどないほうが幸せだと思うんだけど、どうなんだろう。ホーム・ドラマというジャンルもあるくらいだし・・・次第にババアになってゆくあたし・・・そんな歌のどこが面白いのかわからないけど、まあ、歌にもいろいろあるし、ドラマにもいろいろあるし、なんでもありいだから困ると思う今日この頃。果てしなき世界。

投稿者 Blue Wind : 10:56 AM | コメント (0)

January 23, 2004

デニーズでおもちゃをながむ子等のごとわが想念は追いたてられし

通販のカタログなどをめくりおり春風かほる服を探せり
春といふ中途半端な季節にはさむさこらえつ花はかほれり
パンジーの苗でも植えておけばなど後悔しせる真冬の今
精神の枯れ草のごともふ朝は霜の大地に晴天を待つ

軽いジャズうららな冬によくにあふマイナスイオン稼動に雑じり
こりもせずフレンチ話すサウンドは同じところで笑い悲しみ
ひさしぶりライナーノーツながめおり「オレマ カ・カ・カ」の意味を知る朝
あわただしいわが心には音色だけひびけばよいと言の葉を切る
アフリカ語フレンチ経由カフェの曲いつのまにやら耳慣れた音
短歌など詠んでいるけど歌詞などはすっとばしたるアフリカの曲
ほしいのはリズムだけだと気づく朝ラッパは話すドラムに乗つて

酔つぱらいまほろな夢を追いもとむ稚児にも似たり紅い頬して
デニーズでおもちゃをながむ子等のごとわが想念は追いたてられし
サラリーマンランチタイムに向いおり流るる声で上座をつくり
メモとペンガサッとほふる本の上いつもと違ふ音響きおり

投稿者 Blue Wind : 10:34 AM | コメント (0)

January 22, 2004

人間的なほうが生きていきやすい

マザー・テレサが日本を訪れたとき、日本は物質的には豊かだけど心が貧しいとのたまわっていたらしい。こんなことは当たり前の話で、精神を豊かなものにしようと思ったら、どれくらいノーギャラの関係が存在しているかにかかっているような気がするくらいだ。サービスを受けようと思ったら金を払う。お礼もお金。心や気持ちの代わりにお金を払う。つまりはお金つながりのほうが遥かに多いということに気が付いたりして・・・
娘が赤ちゃんの頃、たまには子どもを置いて一人で外出したいなどと思ったり、保育所に預けて自分が仕事をして・・などと考えることもしばしばだった。つまりは、そのほうが遥かに楽な気がしたし、育児という重圧と、それこそトイレの中にまで子どもと一緒という密室においては、子どもが日中幼稚園へ行ってくれるようになったときの解放感と寂しさは経験した人じゃないとわからないと思う。
一般的に良いお母さんという雰囲気の人は、子どもがいないと寂しいという人かな。つまり、子どもとの心のつながりがある。誰でもわが子が可愛いのは当然なんだけど、可愛いというだけではなく、子どもとの心のつながりがあるかどうかは、案外親子それぞれだったりするような気がする。親が子どもの世話をするのは当たり前のような気がするけど、今はそれすら当たり前ではない。だってお金を払えば誰かが代わりに世話をしてくれる・・・・それもまた事実だ。
子どもの世話をしたからといって、子どもが私に賃金を支払ってくれるわけではない。しかも暴君だ。それでいて可愛い。お金の代わりに愛をくれる。

このように考えると、人は愛の代わりに金を支払う生き物だということがよくわかる。極めて屁理屈なような気がするけど、風俗と恋愛の違いは、風俗嬢は愛の代わりに金を得るということだろう。
家事を労働賃金で換算するような関係はつまらない。古くはくたばれ専業主婦じゃないけれども、税金も払わないで家でぼーっとしている自分のことを考えると、どうしてこういう私のために社会は税を控除してくれたり、社会保険料を控除してくれたりするのか不思議。働いていないから? 働くということは特に金の授受があるかどうかには関係ないのに、「賃金を得ること=仕事」と考えている人たちがあまりにも多いのかも。
例えば、カウンセラーになるとしましょう。そうするとお話するだけで金になります。カウンセリングが心の風俗かどうかは知らんけど、水商売でも酒や料理を売るより、それ以外の要素に客は金を払う。単にママさんとお話したいだけの人もいるかもしれないし、綺麗な姉ちゃんにちやほやされたい人もいるかもしれない。それでもお酒や料理や席料が金銭換算される。こういう原則はほかの商売にも当てはまる。サービスはタダではないから。たまに笑顔すらタダではないんだなーと海外のホテルなどに宿泊すると思ったりする。
ガイドさんなんて面白い。あたしの荷物はチップなしでも運んでくれる。ダンナの荷物はチップが少ないと怒る。極めてはっきりしている。一応は規定というものがあるんでしょうけど、学生時代の一人旅ほど面白いものはない。つまり、金を期待されないからかもしれない。裕福そうにしていると、最初からお金を当てにされるから、相手が期待するほどに支払わなければ裏切られた気持ちになるのかもしれない。でも、さっぱり笑顔でお礼すると何かが変わる。世の中ってそういうもの。つまりは、心や気持ちやサービスはそれを金銭換算すると莫大な額になるということなのだろう。

ということは、我が家で一番リッチなのは娘かもしれない。おちびのために一生懸命何かしても儲からん。でも、愛をくれる・・・・ ダンナも愛が欠如したら、がっちりバカスカ金を使いまくってやろう。情けないけどそれも本音だなぁ・・・・ つまりは、やさしさや愛やハートが欠如した関係においてはそれくらいしか残っていないもの。とりあえず、まだ心のつながりがあるうちは我が家は安泰なのだろう。相手から愛が期待できずに妻をしているとすれば、妻の特権は金しかない。それもまた殺伐としていて寂しい。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

何となく、昔、結婚式の相談に御聖堂へ行ったときのお世話係の人を不意に思い出してしまった。あの冷たい表情が何となく印象に残っている。おそろしく裕福な人なのだと思った。質素な身なりをしていたけど。プライドの高さと傲慢さを奉仕の中に隠す。あそこまでになると、お金でもないし、ハートでもない。そのどちらも要求していないという表情。あそこまでになると、神さまのためにしか働けないのだろう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

愛だの金だの考えているうちは、まだまだ甘ちゃん。気のせいかもしれないけど、自分が酷く人間的な気がした。(ホッ)

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愛も金もない?あるいはそのどちらも支払わない?
そういう場合には、げすやろうと呼ばれて憎しみという借金を背負います。(たぶん)

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短歌のサイトなんだから、短歌の話を書けよ。
・・・・・・・すみません。

(単なる自問自答です。)

投稿者 Blue Wind : 07:25 AM | コメント (0)

January 21, 2004

やんわりと糸に縛らる手足かな餓えもなければ満腹もなし

背のうと書かれていてもわからない児童書を読む教科書のごとく
見知らない言葉はやがて死にゆくも知らないほうが無知と呼ばらる
異国より移住しせし友と遊びたる夫もまた今は遊牧民か
就職にあぶれて増える院生の寄宿暮らしの不思議なさまよ
失業のあふるイラクの暴動は人間的で素朴でもあり
やんわりと糸に縛らる手足かな餓えもなければ満腹もなし

思はざる時雨ふりだす夕暮れに吾子帰りぬと講習そぞろ
自動ドアとどろくやうに鳴りゆかばあしばやぬける風と靴音
茂吉歌論読みてつぶせし待ち時間あらば格調なきは素朴さ
子を待ちて過ごす時間の長ければやがては吾は動けぬ人に
「おかえり」というがわれの仕事なり時は短く気長になりし

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りんどさん、もうすこしやんわりとした女性らしい歌が詠めませんか?
えええ・・・・・・

(単なる自問自答です。)

投稿者 Blue Wind : 12:09 PM | コメント (0)

おとなになれないおとな

自衛官はまるでお坊ちゃまだし、せっせと国から装備を買ってもらってほかの国のお世話になっている。ロリコンオタクの台頭、子どもに甘い親。それでいて不景気だからあっちもこっちも神経がとんがらがっている。上昇ムードの時はいいのよね・・・でも、それが下降線へつながると、あんただけじゃないわよ、などと言いたくてもそれでは納得しないくらいみんなが自分のことに精一杯になる。
となると、ごく自然に発生する心理的過疎。仲間はずれにされたら大変とばかりに、せっせと何かでつながりを求める。

いやな風潮。浅い人間関係。おとなになれないおとな。これが21世紀の幕開け。

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自衛隊がイラクに到着。大袈裟なまでの重装備。取り囲む報道陣。それにあわせてホテル代の高騰。どうして自分の村が駐屯地じゃないんだと怒る人たち。どうせなら軍ではなく企業をよこせ。・・・・・・・・・・。

派兵というより、どこかお祭騒ぎを感じてしまう。つまりは、お客としての自衛隊に期待が寄せられているわけで、特に戦闘を期待されているわけではない。喜んでいいのか悲しんでいいのか、世の中しょせん金なんだろうと極めて淡白な気分になってしまう。
実際のところ、自衛隊の派兵については反対。
が、しかし・・・・
重装備、かつ金を落としに行く。
自衛隊が引き上げたら、損をするのはイラク人らしい。

そうやって考えると、不景気だから世の中が荒れるわけで、たしかに景気が上向けばつまらない騒動などは自然と治まってしまうのかもしれない。

東京都の条例案というのが凄まじい。未成年の夜遊びを親が監督する義務をうたった条例を審議するらしい。それくらい夜遊びが当たり前になってしまったのか、それとも親のほうに子どもを監視する意欲がないのか、それすらもよくわからない。自分なんかを観察していても、自分の子どもの頃だったらもっと厳しく言われたようなことでも、今は子どもには甘い。ちょっと風邪を引いただけで学校を休ませる。少しでも顔色が悪かったり、微熱があったりすると学校から電話がかかってきて迎えに行かなければならないために、そういう2度手間を考えると、親のほうもあっさり今日は休ませようと簡単に思ってしまう。うちだけかと思ったら、この前お知らせにクラス写真があって、全員が揃った日がめずらしいと娘が言っていた。ということは、どこの家でも似たようなものらしいってことなのよね。ゆとり教育がうたい文句のせいか、結構3連休も多いし、それを考えるとダンナにすると娘が遊んでばかりいるように見えても仕方がない。それでいてあたしからすれば、それが当たり前だとやつに説明するのがかったるい。
まあ、みんながやっているからそれが正しいというわけではないけれども、それでいてそれが当たり前だと説明すると納得するってことは、つまりは多数決社会だということがよお〜っくわかる。
この前も旗持ち当番をさぼったら、ダンナがうるさい、うるさい。「うちは参加できません、そんなものは必要ないと思っています」と言って来いとこうだ。いい迷惑。だったら自分で旗持ちすればいいのに。春先以外はやる必要はないのではないかという人もいれば、やはりそれでは心配だから、せめて一日おきにでもやれる人はやりましょうという人もいるし、今の時期あまりうるさくは言われない。風邪を引いている人もいるかもしれないし、都合の悪い人もいるかもしれないし、当番でなくても子どもに問題行動があれば毎朝着いて来ている母親もいるし、やたらと心配性の人もいるし、人それぞれなんだから、みんなで決めたことにはてきとーに逆らわずにできる範囲のことをすればいい。それがトラブル回避のコツだろう。
よくわからないけど、おそらくは彼は関西人なのだろう。
ということは、これが関西だったら単なる旗持ちのことでボロカスなのだろうか?
そんなおそろしいところには住めない。
当たり前が違うって疲れる。

新語の「萌え」。薄気味悪い。なんか、こう、アニメオタクというか、ロリコンかよくわからないけど、彼らが語るところの「好き」とか「可愛い」という意味らしい。小学生くらいの女の子の人形の写真を眺めて喜んでいるわけだ。どうやって考えても薄気味悪い。その雑誌がアマゾンで予約の段階で5位まで売り上げトップを記録してしまっていたらしい。一体世の中どうなっているんだか・・・
とにかくゆとり教育はいいけれど、世の中のロリコンオタクが小学生の子までナンパしているし、うかうかしていられない。それでいて都内では親に対する条例・・・・はあ?親が子どもを監督するのは当たり前の行為ではないかと思っていたけど、もしかするとそういう親は子どもから嫌われるために放置しているのだろうか?それとも、子どもが勝手に友達の家に泊まりに行くなどと嘘をついて外出しちゃっているだけなのかもしれないし、そうやって言われると自分も自信がない。今はそういう心配をする年齢ではないけれども、子どもに友達の家にみんなが集まるなどと嘘をつかれたら、あっさり許可してしまいそうな自分が怖い。
つまりはどこか心理的過疎があり、どこかそういうつながりを求める。だから、そういう風に言われてしまうと、友達同士というものを優先させてしまいそうな気がする。いやな時代だ。悪いことは悪いのだから、あんな子とは付き合ってはいけないとあっさり言うくらいがちょうどよいのではないかと思うけど、とりあえず娘がのんびり仲良くしているならそれはそれで・・などと思ってしまいそうな気がする。

自衛官はまるでお坊ちゃまだし、せっせと国から装備を買ってもらってほかの国のお世話になっている。ロリコンオタクの台頭、子どもに甘い親。それでいて不景気だからあっちもこっちも神経がとんがらがっている。上昇ムードの時はいいのよね・・・でも、それが下降線へつながると、あんただけじゃないわよ、などと言いたくてもそれでは納得しないくらいみんなが自分のことに精一杯になる。
となると、ごく自然に発生する心理的過疎。仲間はずれにされたら大変とばかりに、せっせと何かでつながりを求める。

いやな風潮。浅い人間関係。おとなになれないおとな。これが21世紀の幕開け。

投稿者 Blue Wind : 01:23 AM | コメント (0)

January 20, 2004

ぼんやりとこうしてる間にやることもあるのではないか小春日和よ

正午にて鳩時計鳴りかきまわすカップの中は熱きコーヒー
朝霜につつまれたなら白き原雑草刈を憂へることなく
ぼんやりとこうしてる間にやることもあるのではないか小春日和よ
真昼にも斜めにうつる窓の翳落ち急ぐのを止められもせず
ジャンキーの傷害事件また一つまたかとおもふわれに驚き
暗闇になれてしまつたわが眼には電子文字さえ君をうつせり

投稿者 Blue Wind : 05:16 PM | コメント (0)

醜い男

この前、細木数子の番組を観ていた。案外、テレビなどがつけっぱなしになっているわりには観ていないことが多いのだけど、何となく他人の運命などが宣告される姿が面白くて観てしまった。途中までしか観ていないけど、一番面白かったのは、「心が男」とか、「心がない」などと言われて顔面蒼白になっていたタレントの女の子。女性の場合は、仕事や金云々よりもどうしても話題が結婚とか恋愛などプライベートなことになってしまうために、なんか面白い。
そういうつまらないことがどうして印象に残っているかというと、細木氏いわく、女には心がないらしい。つまりは、「腹=心」という心の使い方をしているわけで、そういえば、腹黒いとか、裏腹とか、腹という言葉に心というニュアンスがあるのは男だ。自分を見せない。
女の世界というのは、案外、ぴーちかぱーちかうるさい割にはあっけらかんとしている。男がいないとどうしてこんなにさばさばしているのだろうと思うくらいだ。もちろん性格的に外向的だったり内向的だったり、人によって違うけど、それが地なのよね・・・つまり、嘘がない。
ところがそういう女の世界に、ぼちぼち変化が生じるのは、友達よりも彼氏といる時間が長くなったりする頃だろう。あまりにも正直。だって話すことといえば彼氏の話。服装の好みも変われば、趣味まで変わったり、中には性格も変わる人もいたりして、どういうタイプの人とお付き合いしているか変化を観察するだけで話なんか聞かなくてもわかるくらいわかりやすい。
これに対して、男というのは100%腹がある。つまりは何を考えているのかよーわからんというのが当たり前らしく、女だから男を理解できないのかと勘違いしていたけど、そうではなく、単に腹の中に何かを隠すというのが習性だから、もともとが理解できないのが当然なのだろう。ということは、男同士でも腹を割って話すというくらいだから、その人が実際にどういうやつなのかってわからないものなのね。
女はカンがいいという・・・・
それは嘘だ。
つまりは自己観察をしていれば、相手の腹などちょちょいのちょいでわかる。それはカンではない。理屈ではないからカンという言葉を使うだけのことであり、もともと腹がないから、相手からの影響などを自己観察、あるいは誰かからのフィードバックにより知る。すると、「あたしは本当はこういうタイプじゃないのに」などともどかしさを感じたりする。つまりは、自分に対して何らかの違和感を感じたならば、それは自分ではない自分の心が自分の中に憑依?しているわけで、それが自分っぽくないと感じたならば、それを捨てなければならない。それが簡単にはいかないから、あれにこれにとややこしくなるんだろうな。

野村監督。ミッチー。すごいペア。壮絶。
あれだけの名監督と言われているのだから、もっとマシな奥さんがいくらでもいるような気がするけど、奥さんはミッチー。これってね、世の中にはあまりにもよくあるパターンで、昔から不思議だったのよね。悪妻のほうがダンナは出世するとか?
ある意味、これは正しいのかもしれない。
つまりは、奥さんというのは裏であり腹なんだろう。だから、壮絶な行動パターンを実行しているのはミッチーだとしても、それをダンナに言っても無駄。つまりは、あれが彼の本音だからだ。男には腹があるから、ああやって行動したくても理性が止める(はず)。ところが、あのやりたい放題が実は野村監督の本音の部分なんだろうな。つまりは、ミッチーの心は野村監督の心ということになる。その証拠に、まったく離婚するという話はない。(したの?知らない・・)

そうやってカップルを観察すると興味深い。ダンナは一見紳士でまともなのに、奥さんのほうがわがままで幼児性が高い。これって奥さんの地なのかと思っていたら、次第に付き合っていくうちに、ダンナのほうの地だったりする。逆に、ヘンなやつだと思っていたら、奥さんが普通の人なのでほっとしたりする。どうしてほっとするのか自分でもよくわからないけど、ああ普通なんだなと思うとそれだけでほっとしてしまう。今までそういうことを深く考えたことはなかったけど、つまりは好みは嘘をつかないということなんだろう。
うちの場合はどうなんだろう・・・そういえば、結婚を機に何かが変わった気がする。あちらが社交的な性格になり、逆にあたしのほうがクールと言われるようになってしまった。これは以前は逆だったと思うんだけど、いつの間にか役割が逆転している。うちのダンナというのは酷くやさしい割には情がない。逆に情がありすぎて、そういう性格になってしまったのかもしれないし、そこのところは腹の部分だからあたしにはわからない。自分という人はもともとがエゴイスティックでわがままな性格だったから、そういう意味で、ばさっと自分を切り落とすためには、そういうタイプの人と一緒にいるほうが楽だ。
男から心をもらうとなるとね、心の汚い人だったら大変なことになる。すごいごうつくばりのババアになるかもしれないし、いぎたない女になってしまうかもしれない。どんなに表面をつくっていたとしても、その人の本音ってあるもの。しかも、本音の部分が自分のほうにやってくると思って間違いない。つまりは、ナルシズムに徹しようと思ったら、心の綺麗な男を選ばなければならない。
最終的には、人柄とかっていうけど本当なのかも。常に自己嫌悪に陥るとすれば、それは付き合っている男が醜い男なのだろう。女とは哀れな生き物だわ・・・ほっほっほ。

投稿者 Blue Wind : 01:39 AM | コメント (0)

January 19, 2004

窓の外一羽の鳥が横切つた雲雀のやうな雀のやうな

雨の朝ごみを捨てゆき並びては差し出す傘も迷惑なるかな
一刻をあらそうやうな朝支度回覧文書はポストにゐらぬ
しんと降る雪は白きに青ざめて瞳の中に儚くも消ゆ

◇ご返歌
オリオン座ゆるり冬空めぐりゆくみるも宿題新学期かな
おかしらの食べれなかつた子ども頃包丁持つも成長ゆえか
落つることおもはなければ空もなほ光かがやく夢のひらける
窓の外一羽の鳥が横切つた雲雀のやうな雀のやうな
ひらりひらり落つる白ゆき寂しげに今がまふゆとこごえではなす
年末の挨拶もなく轟音は夏の週末うなりゆきすぐ
白波の飛沫を雨とまちがふも赤旗は舞ひ波に惹かるる
なにもかも空騒ぎたるざわめきに音色しみゐるアコースティック
時を超へふと気がつけばあの人も紀元前におなじこといふ
地球にはそれが罪だと気づくほど洗練された猿の住まへる

投稿者 Blue Wind : 10:10 AM | コメント (0)

January 18, 2004

ヤギアイスをバーボンに入れるべきか、うだうだ悩むという人の歌は・・・

直情型の歌人というのは意外に少ないことに気が付く。それこそ石川啄木ではないけれども、個人の内声をそのまま歌にしてしまうというような歌人は少ない。

この前からあたしが考えているのは、歌はヤギアイスくらいがちょうどよいのではないかということで、いきなり「ヤギアイスをバーボンに入れると美味しいぞ」などと言われて、それを実行しようかどうか迷っている。つまりは、自分はヤギアイスは好きだけれども、ヤギアイスをバーボンに落としたことはないわけで、それを実行しないということは自分が単にうだうだしているということであり、自分がやってみよーと思ったら速攻で実行するだろうけど、果たしてそこまでの好奇心を自分がヤギアイス入りのバーボンに持っているかというと極めて懐疑的。

これがもし我が家の人たちだったらどうだろう?彼らならあっさり実行に移してしまっているだろう。ちょっと前にボーリングを始めたと思ったら、もう会員になってマイボールをつくっている人たちだ。その中で、そこまでの興味はないからと放置しているあたし・・・
ヤギアイスを食べるためには水戸まで行かなければならない。高速道路を使って約1時間くらいのところに怪獣公園と呼ばれる公園がある。怪獣のオブジェが子どもの遊び場となっており、山全体がそのようなオブジェで構成されている。
その中にオブジェとは無関係に山の傾斜を利用した天然の滑り台というか、夏のプールの滑り台のようにひたすら長いスロープを子どもたちがダンボールを下敷きにしながら滑っている場所がある。実は、それがうちの娘のお気に入りで、幼稚園の頃に無理やり親が乗りたいからという理由でディズニーランドでスペースマウンテンのような激しい乗り物に乗せてしまったために、娘はすっかり遊園地が嫌いになってしまった。その代わりというわけではないけれども、地元の子がダンボールで手作りした下敷きで滑るのを見て、家で娘がせっせとダンボールに描いて滑るためだけに行く。幼稚園の頃には毎週のように行っていることもあった。
そこのレストハウスにヤギアイスが売っている。ヤギ小屋があって、そこで絞ったお乳でアイスやチーズをつくって販売している。アイスといってもソフトクリームで、普通のバニラアイスとどこが違うのかと言われれば、微かにクセがあるとしか語れない。何も言われなければ、それがヤギの乳で出来ているとは気が付かないのではないかと思うくらいの軽いクセだ。それが何となく1度食べるとクセになる。普通のソフトクリームも好きだけど、それに独特のクセが加わり面白い。毎日食べたいような代物とは思えないけど、真夏の暑い日などに不意に食べたくなるような味。
その話をしたら、今度はそれをバーボンに入れろという・・・ 確かに合いそうな気がする。普通のアイスではなく、微かにクセのあるアイスを香りのきつい甘めのバーボンに落とす。考えただけで美味しそう。問題は、今、あたしはお酒をまったく飲まなくなってしまったということと、水戸のレストハウスで駐車場に車に停めヤギアイス入りのバーボンをちびりちびりとやっていたら、どう考えてもヘンなやつのような気がしてしまう。うちのダンナなら平気でやりそうな気がするけど、平凡な主婦であるあたしには、どうもそこまでのことをのん兵衛のダンナに説明し、彼にシラフで運転させ、なおかつ一人で飲むというのはいささかかったるさを覚えてしまう。それに娘も大きくなったので、今ではめったに怪獣公園には行かなくなってしまっている。

そういう自分のうだうだしたところを跳ね返すように、直情型の歌はすっきりしていていいなあと思ってしまう。福島久男さんの歌などはそんな感じ。

秀才といはれし友が暗がりの酒場でわれの名刺裂きゆく
我は誰の生まれ変りぞ大陸の荒野さまよふ夢にうなさる
革命も維新も起きぬ世となりて消費税を我も払へり
わが祖父を焼きたる炎ぶすぶすと遠き湾岸で今燃えてゐる
空襲にて死にたる祖父のからつぽの墓にからから骨の音鳴る
(福島久男さんの歌)

直情型であり、かつロマンチストらしい。言い換えれば、直情型はロマンチストなのかもしれないけど。

人生は無いものねだりはいけないと思いつつ、ひねもすをぼっけーっとうだうだつまらないことを考え、それが飽和した瞬間不意に言葉になるには、どうも直情型とは別のベクトルが作用しているような気がしてしまう。

投稿者 Blue Wind : 06:54 AM | コメント (0)

January 17, 2004

冷えた手を肩をもみつつあたためる便利なわがみ雪ふる日には

悲しみはふんわりとした雪のうえゆきかふ人の足跡のやう
粉雪のぱらぱら落つる歩道には帽子とダウンの自転車がすぎ
誰と誰が不倫してると言ったって彼はわたしの夫じゃないの
現実に飽きたらそこは映画館おにさんこちら手の鳴るほうへ
降りたると気づかぬほどの粉雪は風に舞い立ち落つる花びら
しんしんと指先だけが冷えてゆく寒さ感じるあたたかき皮膚
冷えた手を肩をもみつつあたためる便利なわがみ雪ふる日には

投稿者 Blue Wind : 02:45 PM | コメント (0)

巨大なジグソーパズル

魂の入った文章を文字に表すことは難しい。単なる記述であれば規則による言語の羅列があり、例えば、機械語はそれこそ記号が1つ抜けただけですべてが動かなくなるという恐ろしさがある代わりに正確に羅列すればその通りに実行してくれる。画像を貼るにはこれ、ハイパーリンクを貼るにはこれ、という具合に極めて余分な要素はなく、換言することなどほとんど不可能だ。HTMLで書かないでスタイルシートを使うくらいの言い換えだろうか。実際のところ機械と話すには言葉を知らなさすぎるために多くの会話は望めない。

それに比べて、短歌を英訳するとか、ユゴーを和訳するとなるとそれこそ地獄の苦しみだ。それでも、ジグソーパズルを解くようで面白い。言いたいことはわかる。でも、それをどうやって日本語で、というよりも自分の少ないボキャブラリーで表現してよいのかわからない。短歌でも、口語訳ってなると、どうしてあんなにも言葉がたくさん必要になってしまうのだろうと思うくらいだ。つまりは、少ない言葉の中にたくさんの意味や情景や余韻が含まれているために、そのニュアンスを伝えようとすると、あまりにもたくさんの言葉が必要となり、それでいて何かを伝えきれていないもどかしさを感じることが多い。
ユゴーと遊んでいるうちに、あるいは、それを翻訳したハップグッドと遊んでいるのかもしれないし、微妙な言い回しが浮かばない。しかも案外手抜きのところは手抜きのために、誤訳も多い。1つの単語の中にいろいろな意味があるのだもの・・・日本語にすると。それを適切に著者の言いたいことを表現するというのは極めて困難。元々の言語や発想、語源などが共通していれば違うのかもしれないけど、とにかく共通性というものが少ないためにそれにふさわしい文字を探すのが大変。
というわけで、単なる序文なのに3日も費やしてしまった。
しかも・・・・
単なる目次を訳すのに、英和辞典2冊、仏和辞典、広辞苑。20年以上前に買ってお蔵入りしていた英和辞典が今頃少し役に立つとは。英和辞典は、センスだからね・・・言葉選びのセンス。だから、使う辞書によってまったく違った訳文が完成してしまう。自分との相性が大切なんでしょうし、『レ・ミゼラブル』の英訳だと、英語、フランス語、ラテン語を調べなければならなくなる。気のきいた言い回しとしてちょこっとラテン語が入っているだけでもこちらは七転八倒。インスピレーションが大切なのではないかと思ってしまう。

なんで突然こんなことを始めてしまったのかというと、まさにこれも流れの中の1つとしか語れない。短歌を詠み始めて、神父さんのサイトへ行き着いて、さらにあらし騒動にも巻き込まれ、気が付いたら今度は『レ・ミゼラブル』だという・・・
短歌にも機械にも興味がなく、神父さんの授業も忍者のように抜け出していた学生時代を振り返ると、21世紀になって以来どうも自分はヘンだという気がしてしまう。単に自分がババアになったのかもしれないし、それでいて『レ・ミゼラブル』は巨大なジグソーパズルのようで、これがまた面白い。小さなピースがピタっと巨大な絵の一部に納まったときの快感は説明の仕様がない。2,000ピースや4,000ピースではすでに物足りないからすっかりやめてしまっていた。ラッセンの青一面の世界なら楽しめそうだと思ったけど、思っていたほど難しくもなく、2枚くらい仕上げてやめてしまった。カラフルな魚の部分があまりにも簡単すぎたのかもしれない。

短歌もね・・・・なんでもありい、なんだよね。
つまりは、なんでもありいだからこそ大変なのだということに気が付いてしまったとたん、逆になんでもありいの部分を捨てたくなってしまう。かといって、今さら精神世界がどうたらこうたらとか、こころがどうたらこうたらなんて飽き飽きだ。そんなものは数字で並べて切って落としちまえとすら思ってしまう。数字で並べて切って落とせる部分はどんどん落とす。そして、残ったところがきっと魂。みんなが、こころこころと騒ぐこころは単なる物体だ。数値化して、故障したら薬で治す。でも、雰囲気とか気配とか、人格とか知性とか、つまりは数値化できそうでできない部分が魂。知性と知能はまったく違う。そういうすべてをトータルして人は人として存在しているんでしょうけど、精神は幻ではない。

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Les Miserables

『レ・ミゼラブル』

VOLUME I.

FANTINE.

第一巻 ファンティーヌ

PREFACE

序文


So long as there shall exist, by virtue of law and custom, decrees of
damnation pronounced by society, artificially creating hells amid

神さまのお定めになった人の運命を多少加味したとしても、
法や慣習によって、社会が誰かに言い渡す地獄へ落ちろという今畜生判決、
すなわち地球の文明の真っただ中に人工的に創り出される地獄があるかぎり、

the civilization of earth, and adding the element of human fate to
divine destiny; so long as the three great problems of the century--
the degradation of man through pauperism, the corruption of woman

あるいは貧困による男性の品位(品性)の低下、飢餓による女性の汚職(売春)、
希望の光の欠如による子どもの無力化(非行)といった
3つの世紀の大問題があるかぎり、

through hunger, the crippling of children through lack of light--
are unsolved; so long as social asphyxia is possible in any part

さらには世界のどこかで窒息しそうな社会が存在する可能性があるかぎり、

of the world;--in other words, and with a still wider significance,

少し意味を広げて言い換えれば、

so long as ignorance and poverty exist on earth, books of the nature
of Les Miserables cannot fail to be of use.

地球上に無知と貧困があるかぎり、
『レ・ミゼラブル』の著書の本質が役に立たなくなるということは決してないだろう。

HAUTEVILLE HOUSE, 1862.

オート村の家にて、1862年。

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今畜生判決という言葉を捜すのに3日もかかってしまった。
こう・・・・罵るような言い回しを探したんだけど、それに相当する言葉が日本語には見つからない。一語に含まれたニュアンスって意味はわかっても伝えるのが難しい。
それにしても、人によって訳すと全然違った文章に見えるから不思議。オリジナルの文章は同じなのに、訳す人次第でこんなにも違うのかと思ってしまいました。(余談)

投稿者 Blue Wind : 12:43 AM | コメント (0)

January 16, 2004

敷島をほっぷすてっぷじゃんぷして大西洋を行つたり来たり

ひとつひとつジグソーパズル解くようにユゴーと遊ぶおもしろきかな
シンプルな言葉の羅列鮮烈にメタファーのなかゆきつもどりつ
敷島をほっぷすてっぷじゃんぷして大西洋を行つたり来たり

投稿者 Blue Wind : 02:46 AM | コメント (0)

January 15, 2004

凧揚げに行きたいからと風の子はピザ一枚で店を飛び出し

凧揚げに行きたいからと風の子はピザ一枚で店を飛び出し

無理やりに歌など詠んでみたものの気分は虚ろはるうららかな
善きことはだまつてやるがうるわしくそうぞうしきは歯医者の音
60点漢字テストを隠したる吾子の罪かな親の罰かな
吾子叱る夫を叱つてけふもまたヒステリーなど理屈でにごす

まほちゃんはのんびり育てすくすくと可愛いままで愛を育み
父さんは勉強ばかりしてたから勉強しないと案ずる親に
母さんは勉強してると怒られた遊ぶときには真剣なれと

もう一人男の子などいたならば期待はそちら視線はそつち
一人つ子甘やかしては親のそば離れぬことをほくそえむ吾

朝焼けの黄金に燃やすカーテンを見やる間もなき寝坊した日は

◇ご返歌
夢みるは自恃あるだけ人の渦もとむるものの違いやいかに
空手には何の興味もないけれどマス大山は励ましとなり
大山はひたすら強くなりたかつた敗戦の中一撃となる

投稿者 Blue Wind : 04:22 AM | コメント (0)

やる気のなくなる関係性

チャリティやボランティアというのは酷く難しい。教会や行政が主催しているような場合は別かもしれないけど、こういうのは個人の意志に基づくものだから、参加する意志がないのならその場にいるべきではない。何故かというと、やる気がなくなるから。一人やりたくないという人や、嫌々ながら付き合いでという人がいるとそういう気持ちが伝わってしまう。

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というわけで、みんなで名作をウェブへあげようという計画はボツ。確かにゲームでもしているほうがマシかもしれない、あの酷い機械翻訳では。あんなに解読できないものとは知らなかった。しかも、せっかくCGIを使ってシャカシャカアップしたのはよいのだけれど、今度はそれを機械で翻訳できない。HTML式で書かれたものじゃないからダメなんだろうか・・・でも、先日はうまく行ったのに。どういうカラクリでそういうことになるのかまったくわからないし調べるのも面倒。第一、ほかのページを使って機械翻訳を使ってみたんだけど、日本語の解読ができない。これではさらに時間が掛かる。

それより以前に、どうしてこれはOKで、これがNGなのか、通じないのかも何となくわかった。奉仕の精神というのがそもそも理解困難だからなのかも。こういうのは不特定多数の人たちのためにするから奉仕なのであり、個人的な友好関係や付き合いによって生じる関係とは違うと思う。
短歌をウェブにあげるのでも、ランダムに不特定多数の人たちが集まる中にぽつんと存在している場合はOK。個人的な友好関係があり、互いのサイトにアップしている分にもOK。だけど、歌人リストをつくったり、活動を仲間やグループという形にする場合にはお断りする。奉仕の精神に反するからだと思う。
つまりは、助け合いをするような仲間をつくりたいのであれば、最初にそういう風に謳うべきであり、あれをしてやったからこれをしろという関係はかなり迷惑だと思う。

そもそもCGIにしたって覚えたくて覚えたわけではない。どういうわけか無理やりにアップの仕方を教えてくれたので、その後何となくやってみたら案外簡単だということに気が付いただけ。かといって自分でプログラムを書こうという気もないけど。他人の書いたプログラムを適当にアレンジして使う。著作権表示していれば大抵の場合はOK。2次配布を禁止しているくらいのものだろう。
でも、後になってから「りんちゃんはみんなのために何もしない」と言われて、その時の「みんな」って誰のことだかわからない。「あんたのためってことじゃないの?」などとは恐ろしく訊けない。つまりは、「これだけしてやったんだからこれをしろ」などと言われる筋合いはないし、つまりはそこでいう「みんな」というのは、「仲間」という意味だということに気が付く。気持ち悪い。つまりは、自分にはそういう仲間はいない。友達ならいるけど、「仲間」という関係性には興味がない。仲間になるのなら、それこそメンバーを選ばなければならない。それこそグループの性質や目的、小さくは公園仲間とか、あれこれあるけれど、そういう小さい世界ですら年中すったもんだするのが当たり前なんだから、うっかり仲間になど入ってはいけない。それなら個人的に仲の良い人とだけお付き合いしているほうが気楽だもの。

それとは別に、奉仕となるとそういう個人のお付き合いとはまったく関係ない。公益というのかなあ・・・つまりはそれこそ見知らぬ誰かのためにするのがボランティアでありチャリティであり、自分の家の前の空き缶を拾ってもボランティアにはならないけれど、たまたま通った道の空き缶を拾ったらボランティアだと思う。知り合いの家の前の空き缶を拾ったら、これは厚意か親切だと思う。
だからね、最初に『レ・ミゼラブル』をみんなでウェブにあげようという企画まではいいのよ。でも、その後が失敗してしまう。結局、誰かに頼むとかね・・・・そうなってしまう。それではボランティアにはならない。Project Gutenbergが素晴らしいのは、それこそ自分のようなまったく無関係な人でも簡単にDLできる。DLしたからといって、ボランティアを手伝えなどとおばかなことは言われない。つまりは、そうやって良いものをウェブに残そうということでやっているわけだし、伝え合うことに意味がある。だから、単なる活動なのよね。
だから、自分でも少し真似をしてみたいと思っただけ。そういう活動に参加していなくても、コツコツとマイペースならやれることもある。誰のためにやるわけでもない。もちろんやることにより、自分のサイトのコンテンツにもなるし、タダで読めるわけだし、英語の勉強にもなるだろう。そういう意味では、意義があるかもしれない。だから、自分のやりたいことの延長線上に、それがまた見知らぬ誰かの役に立つ、ということがボランティアなような気がするけど。

やっても金にならんとか、いきなりゲームをしているほうがいい、などというカキコを見て、やる気がなくなってしまった。それで、時空をボツにして、一人でやることにする。誰かと一緒にやってやる気がなくなるのなら、一人でコツコツやったほうがさっぱりする。無理にやろうと言っているわけではない。そこでなければどうしてもできないということでもない。単に自分でやりたいと思っただけだから。
一人でやると言ったらそれはそれで反感になるくらいなら、今度はそんな人たちとは一緒に何かをやりたくなくなるでしょ? だって、自分のためなら金を払って本を買えばいいのよ。何も苦労することはない。たまたま本屋で見つからなかったからちょっとやってみよーかなと思っただけのことだし、何も一生懸命やるほどの義理はない。それに、自分のサイトなどを読んで、少しはお手伝いしたいと心の中で思ってくれた人があれを見たらどう思うだろう? 裏切られた気持ちになるのではないかと思う。心の中で思ってくれたら充分なんだよね。直接お手伝いはしてくれなくても、その人がまたどこかで違うことをする。Project Gutenbergの来訪者もそうだと思うけど・・・つまりはお手伝いできない、あるいは参加できなくても違う形でその人たちがまた似たようなことをできる範囲でしようかな、という気持ちになる。つまりは、気持ちが伝わるんだよね、電子文字社会だとしても。電子文字社会だからこそなおさらかもしれない。

というわけで、新年早々やる気を阻害されながら、すでに原文はアップし終わったので、これをサイト用に改行タグなどを外していこうとは思っているけど、やる必要もないような気がするし迷う。手書きとは違う便利さがあるから逆に迷うのかもしれないけど。まあ、仕事じゃないし、締め切りがあるわけでもないし、原文のコピペだけなら2日くらいで完成するし、コツコツやるしかないわ。

投稿者 Blue Wind : 02:29 AM | コメント (0)

January 13, 2004

『レ・ミゼラブル』の翻訳企画

著作権というのは、どうしてこんなにややこしいのだろう。仮に著作権切れした作品であっても、それをリライトすればリライトした人にまた著作権が発生してしまうし、国によっても法律が違うために、例えば、アメリカのサイトからeBookを落とそうとするとそこのサイトの帰属する国の法律に従わなければならない。しかも、アメリカでは法改正が何度かあり、書かれた年代によっても権利の長さが違うらしいし、最長95年は著作権が存続する?これに加えて、ディズニーがどうして著作権切れしないのかというと、毎年誰かが作品を描き直ししているからであり、そうするとさらにそれに著作権が発生するために未来永劫著作権は保護されるという仕組みらしいけど。

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まあ、そこまで莫大な手間ひまをかけて著作権を存続させるためにはそれなりに莫大な費用がかかるわけであり、一般のユーザにはあまり関係ないような気がするけど、それでいてウェブというのは基本が無償提供の世界だから、これが積み重なると大変なことになるとばかりに、いつの間にかこの世界にも使いたいなら金を払えという風潮が蔓延してしまった。
かつてはどこのサイトにもうるさいくらいMIDIが鳴っていたものだけれど、今は昔に比べるとかなり減った。それでも使いたい人はライセンスを登録したり、すでに著作権切れした曲を自分でアレンジしてMIDIをつくっている人もいるし、オリジナルを無償配布したり、つまりは著作者が無償提供すると言えばそれで終わる。だから、著作権料を支払っている人、あるいは作者から許可を得た人がさらにそれをリライト(サイトへのアップも含めて)すると、著作権が新しくその人に発生するために、誰かが無償配布します、あるいは著作権を放棄しますと宣言すれば誰でも自由に使えるようになるらしい。

そこでまた始まってしまった。今度は皆で『レ・ミゼラブル』を翻訳してウェブへあげようという試みらしい。
作品自体はすでに19世紀のものだからとっくに著作権切れしているけれども、それを翻訳すればした人に著作権があり、さらにそれをウェブにリライトすればした人に著作権がある。このため、無償提供しているサイトは作者から著作権を買うか許可を得て、あるいはボランティアによりリライトしたり、法的な手続きを経てサイトを運営している。
このため、いざ自分がサイトで使いたい、印刷したいと思っても、同じ作品なのに、どこから提供されたかがとても重要になってしまう。まったくバカげているとは思うんだけど、そういうサイトをつくるには仮に大学であっても莫大な費用をかけているわけで、従ってウェブといえどもサイトごとに規定がある。そんなに厳しいわけではないけれど、いちいち許可を得るとなると時間がかかる。というわけで、あちこちを探す。
探せばある。「ロイヤーに追いかけられても、これを見せればOK」などと書いてある。というわけで、もっと使いやすいサイトはあったのだけれどそこは諦め、Project GutenbergでファイルをDLすることにした。日本で言えば『青空文庫』みたいなものなんでしょうけど、著作権切れした本からせっせと誰かが入力するという作業は結構面倒くさい。これって作者にしてみれば、死後数十年を経てなおかつ誰かが自分の作品を読んでいる、あるいは聴いているわけで、作者冥利に尽きるような気がするし、死者は何も言わない。
が、しかし・・・・結局は、出版業界の問題なのかもしれないし、サーバも結構うるさい。うっかり、「これはわたしの好きな詩です」と言わんばかりにサイトにアップすると誰かが真似をする。すると、たかが1つや2つと思っていても、検索するとおっそろしいほど出てくるからね、ネットは。というわけで、引用先が明示してあり、評論や感想などに引用する分には著作権法には引っかからないらしいので、常にリライトするくらいの心がけがないとうっかり転載もできないということになる。

一番気楽なのはオリジナル。自分で書いて、それをアップしている分には何も言われない。詩でも短歌でも駄文でも自分で書いちゃう。ブログを使っていたりすると、RSSで誰でも簡単に落として読めるらしい。詳しいことはわからないけど、この前、そういうサイトのURLからの来訪者があって、初めてそういうBlogのRSSを検索できるサイトまであることを知った。確かに小説などは長いから、オンラインで読んでいる人たちなんていないよね。今は常時接続が当たり前になったからオンラインでも大丈夫だけど、オフラインで読むことを前提としてサイトを構築するくらいじゃないと本当はダメなのかも。

それとは別に、名作などをウェブへあげる。これは完全にボランティア。だって自分で読みたかったら本屋で買って読めばいいし、それでいて案外売ってなかったりするわけさ。この前も『レ・ミゼラブル』を探したけど無かった。児童書の中に1冊あっただけ。自分としては完全本のほうを読みたかったんだけど。ならば・・というわけではないけど、とりあえず英語だったら読めそうな気がするのでこれを落とす。ついでにサイトのコンテンツにしてしまう。だって、やってもいいし、それを奨励するってサイトに書いてあったから。
つまりは莫大な費用と手間ひまかけてどうしてeBookを無償提供しているのかというと、皆に読んでほしいからなんだって。(そりゃそうだ)
多くの人たちに伝えたい何かがあるからそうやって名作は伝えられて行くのだろう。というわけで、翻訳も自分のためのオリジナルで勝手に書く。エキサイト翻訳で訳すより幾分マシならそれでよしとせねば。タダなんだから。学生時代を振り返れば、おっそろしいほど英文を訳せと言われたような気がする。そういうテキストの1つにもなるのかもしれないし、原文をアップするのにも意義があるのかも。

良いものはね・・・・皆で伝えていかないとダメなんだよ。なんか、こんな駄文にも著作権があることが申し訳ないような気になる今日この頃・・・・

投稿者 Blue Wind : 12:47 AM | コメント (0)

January 10, 2004

パソコンを裏からながむ不思議さよ枝豆の皿と並び置かれり

パソコンを裏からながむ不思議さよ枝豆の皿と並び置かれり
サイバーで誹謗・中傷阻止するはモラルなどよりタグが頼りか
箱などは閉せばおはるかおはらぬか相手次第という人のあり
通信の機器と期待しパソコンは世界へ拓くややこしき箱
ネットには翻訳ソフト必要と言はれてた頃夢などありき
アップルの可愛い箱の並びたる実験室のなつかしきかな

投稿者 Blue Wind : 11:11 PM | コメント (0)

ぐちぐちぐちぐち・・・・・・・・・

うちの来訪者には何の関係もないと思いつつ、それでもグチを書く。誰も読まなくても書く。どうしてそれがグチなのかというと、もうインターネット・ジャンキーにはうんざりしているからである。

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先日、不意に電脳短歌イエローページに立ち寄り、リンクを頼んだ。これは一つには見知ったサイトが並んでいたからでもあるし、特に深い意味があったとは思えない。・・・・・・・・・・でも、問題が一つあった。そこの管理人さんが、あたしが『時空短歌』の管理人であると勘違いしていたからである。まあ、同人系の場合、複数の管理人がいることはめずらしくないし、あるBBSにはそういう風に(管理人が複数いますと)書いてあるし、ほかの来訪者のカキコにレスを書くこともあるし、そういう意味で誤解されても仕方がないのかもしれない。でも、交流系のウェブの場合、横レスというのは特にめずらしくもないし、それが当たり前というサイトも多い。だから、あまり深く考える必要はないのかもしれない。でも、真の問題はそういうことではなく、『時空短歌』がジャンキーの巣窟であるということ。(ジャンキーがどういうものかについては、別サイトを参照してほしい。心理系のウェブの管理人もしているので・・・)

一般的に短歌のサイトとは、実名、あるいはペンネーム、あるいはハンドル名だけの人もいるけど、基本的に自分の歌をアップしてあるものを指す。意外に、交流系のウェブは少ない。そういう中で、時空では結構たくさんの歌人の歌を集めてページを作製していたので、それなりに話題性があったのかも。ガイアックスのシステムを使っていたので、実際にはレスは同時に複数のサイトに反映されるために、公開メールと言われているし、自分のサイトにレスを書くと、自動的にカキコしてくれた人のサイトにも反映されるためにいちいち来訪してカキコする必要性がない。というわけで、その頃うちのサイトはカキコがたまっていて、一日中というわけではないけれど、それこそヒマさえあればレス書きに追われていたために、その中にたまたま短歌の交流というものがあり、短歌を自分のサイトの日記などに貼っていた。それにより、自分としては短歌のサイトの管理人をしているという自覚はなかったにもかかわらず、自動的に短歌のサイトと勘違いして来訪する人などもいたのかも、と、今では思っている。
でも、時空の真の狙いは、ウェブページを作製すること。つまりは、短歌である必要性がない。でも、交流という点で楽だから短歌だったのかもしれないし、そこのところはよくわからないけど、ガイアでサイトをつくっている人たちはタグのことも知らない人も多いので、そういう意味では高度なテクニックのあるページをつくってくれたら値打ちがあった。少なくても、何もないガイアックスのサイトの中で、それを貼ると立派なコンテンツにはなるし・・・それ以上に希薄なウェブの人間関係をリンクするものとして、存在意義があったのかも。

こうさ・・・・何かどこかが違う。人間関係を求めるならそれこそ習い事やボランティアへ行くとか、歌会へ参加してみるとか何かあるでしょ?近くで歌会が主催されていなければ、ウェブサイトを利用する。それはあまりにも自然なことであり、自分の場合は、まったくのにわか歌人で、最初は誰でもビギなんだから、自分のサイトでちょこちょこっと歌を詠んでいるとか、ハンドル名だけで投稿してみるとか、ごく自然なことだと思うの。で、そのうちにそれでは物足りなくなるから、お勉強のためにはどうしたらいいかな、という。
だから、カミングアウトというわけではないけれど、ウェブで詠んでいて、それが雑誌で入選して、そこから自分が特定される。そんなことを特に気にしたことはない。それよりも、「白石です」って言うと、「Rindoさんですね」というニュアンスのほうが、最初は酷く戸惑いがあったけれど、歌壇というのはそういう世界なのだと知るに連れて、さほど驚かなくなる。
つまりは、サイトに実名が掲載されていなくても歌を見れば誰かわかるし、結社誌などには名前や住所が掲載されているし、特に匿名というわけではない。実際、そういうことはあまり関係ないのかもしれないし、大騒ぎするほどのことでもない。だけど、ネットというのは特殊なところで、自分がどこの誰かを知られたくない、知られたら困るという人たちが案外たくさん存在している。そういう特殊なつながりご縁というものをこれまたネットを知らない人に語るのは難しい。
ネットでは相手がどんな人かわからない、何かを実証するのは困難、ネカマやネナベ、年齢や性別すら不明、親しいような気がするだけで実際にはどんな人なのかもわからないというケースもあるし、それを考えるとたしかに気持ち悪い。ちょっと親しくしているだけで、不倫だとか騒ぐバカもいるし、そういう点でジャンキーというのは始末に終えない。そういうわずらわしさを考えたら、たしかにプロフなどは伏せて、匿名に徹しているほうが簡単コミュニケーション。そういう風潮を否定するわけではないけれど、いざ自分が歌人として活動しようとする時、これが意外な落とし穴だったりして。
つまり、自分は自分であることを知っているために、自分とあの人はまったくの別人だと知っている。ところが、一人で複数のネット人格を構成している人も多いし、サイトの性質上便宜上まったく違うハンドル名などを使ってサイトを使い分けている人たちも多い。だから、後になって、あれは実は自分のサイトでしたというのは簡単なんだけど、あれは自分とはまったく関係のないサイトなんですと語るほうが遥かに大変だということに気が付いてしまった。これは由々しき問題かもしれない。なんせ、なりすましまで出現したわけだし、自分の知らないところで故意か否かは別として同じハンドル名を使っている人などもいる。プロフをアップすれば、それを嘘だという人もいるし、ジャンキーの磁場というのはどうにもならんほど屈折している。

まあ、他人がどのように自分のサイトを管理しようと自分には関係ないけれども、真似はしたくない。できればコミュニケーションもごく常識的なものであってほしいし、それでいてジャンキーの世界はいつもリアルだとかバーチャルだとかうるさい。でも、今まで女性の管理人だと思っていたら実は男性だったとか、その逆とか、パーソナリティも嘘っぱちだとすると、かなり裏切られた気持ちにはなる。だったら最初からサイバー上でコミュニケーションを形成しなければいいでしょ?
でも、まあ、人それぞれですし、あくまでも自分のグチなんでしょうね。ぐちぐちぐちぐち・・・・・・・

投稿者 Blue Wind : 12:13 PM | コメント (0)

きらりと

先日初めて題詠というものにチャレンジしてみたんだけど、これは自分の想像していた以上に難しかった。歌を詠むことはさほど難しいとは思わない。でも、その歌の中に、自分の着想やアイデアなどを試されているような気がして、何か面白い題材はないものかと思ってあれこれ考えたんだけど、「東」という言葉は、中東、東京、広東、東空など、単に地名や方角しか思い浮かばない。そして、その中に1首ですべてを説明しなければならないし、もっと時間をかけて、などと思っても自分の場合は気が短いのでその場で詠んでしまう。
ありふれたお題なら、あるいは自分が好んで使う言葉なら、過去歌を検索すればいくらでも出てくる。でも、歌としてなじみの無い言葉だったりすると、これがなかなか浮かばない。その場で浮かばないことが後になって浮かぶほど自分には時間があるわけでもなく、自分がいるわけでもないような気がするし、人間さばさばと諦めよく、潔く、さっぱりと投歌してしまいました。

きっと、こういうことが大切なのだと思ったけど・・・
同じお題でも、人によって歌がまったく違う。自分が悩んだ分、ほかの人の発想に感心したりして。自由に詠んだ歌を眺めるのも楽しいものだけれど、一つのテーマに統一されていると、さらにその歌人の歌の違いがわかっておもしろい。今まで、歌だけ眺めて、どうしてその歌がよいのかピンと来ない歌もある。でも、題詠だと発想の世界なのだという気がする。だから、何気ない風景を詠んだ歌でも、その人なりの発想や着想というものが自分との対比により浮かび上がる。自分と誰かを対比するという習慣はあまりないために、より自分を客観的に眺めるという点では、題詠は興味深い。

それとは別に歌枕。
どこかの土地について詠む。
というか、地名を入れて詠む。
これにもチャレンジしているのだけれど、これもどうなんだろう。自分の家の小さな庭を詠むことは比較的簡単だけど、地名を入れるとなると自分には平凡なイメージしか思い浮かばないような気がする。例えば、つくばならつくば、筑波山なら筑波山というように、その土地の風光明媚さを詠いたいものだけど、つくばといえば並木やロケット、研究所が真っ先に思い浮かんでしまうし、この無機質な街の体質をどうやって語ったらよいのかわからない。それでいて、古来より山は山だし、昔ながらの山も健在だし、自分は筑波山のことを「ふたこぶらくだ」と呼んでいるのだけど、果たしてふたこぶらくだが筑波山のことだと1首の中で説明するべきかどうかも迷う。もしかすると郷土愛が足りないのかも。

個性、個性と簡単に言うけれど、おそらくは個性というのが簡単ではないから、多くの人たちとの交流が大切なのかも。きらりと自分の詠いたい歌が自分でわかるようになると、後は芋づる式に自分が飛び出してくるかもしれない。鈴木重子でさえ、小野リサを意識したアルバムより、彼女らしさをアピールしたアルバムのほうがずっと素敵。でも、そこにたどり着くまでが大変。

よい歌の定義?
決まった。
より自分らしさのある歌。

投稿者 Blue Wind : 02:26 AM | コメント (0)

終焉にちかづくほどに坂道は大いなる月樹樹に隠せり

青き光の立ちのぼらむマリアさまとおき世界へみちびかれゆく

江戸のみち粋に歌詠む人のあり言問だんごは今も変はらず
団子坂自転車泣かせの上り坂江戸はつづきぬ下町の道
谷中墓地階段に立ち見晴らすはうすい青空灰色の雲

日光の東照宮の猿山はみざるいわざるきかざる家康
猿山におやつを持って入りなば持っていくのが悪いといふ
猿山の紅葉たるや美しき気にしていては見過ごすばかり
いろは坂難所も名所今の世はヘアピンカーブちりぬるは瞬間(とき)
猿山でのんびり秋を楽しみし人こそ晴れて戦国終はる

人情を追い求めたくば北へ行き振り払いたくば南へすすむ
南風吹くや熱帯の椰子陰に銀の光はたゆたいとどむ

淡々とひとりの世界すすめよとささやく風は道をあゆまぬ
咲く花の澪つくしなどさがせども姿形の園にうつるる
終焉にちかづくほどに坂道は大いなる月樹樹に隠せり
(娘をお絵かき教室へお迎えに行く時に見た黄色い満月は大きかった。)

投稿者 Blue Wind : 01:20 AM | コメント (0)

January 08, 2004

夜明け前いつもと同じ朝だけど学校といふ緊張はじまる

経済の動向などは予算と呼ぶつくばの街は学問の神の鎮座する山
科学都市未来へ向けて淡々と緑の中にロケットの立つ
人類の未来が走るわが街は今も昔もみどりうるはし
ちはやぶる神代の園から筑波嶺はしばし揺れつも活断層なし
懐に興味なくても経済をおしえる人のあまた住みたる
オレンジの輸入自由化嫌がらせ電話のつづく研究室か
筑波嶺の山はしづかにたたずみぬ歌に謳わる姿のこしつ
大きくも高くもない筑波山ふたこぶらくだのひつそり寝をる
山並みは津々浦々につづけども筑波の山は筑波の山なり
山里の延々つづくを眺むるが関東平野はあまりに広く
筑波嶺の低き山より眺むれば街はつづきぬ富士の裾野へ
ススキの穂富士より高くそびえをり微かに上がる花火見おろす


ドライヤー朝からあてる熱風に凍つた髪はぼうぼうとなる
あさ6じ早起きむすめ餅をはむあと30分寝かせて 寒い
夜明け前いつもと同じ朝だけど学校といふ緊張はじまる
夜明けとはこんなにおそいものかなと時計をにらむ始業式の日
わがために買つた児童書『レ・ミゼラブル』朝の娘のひまつぶしかな
『ああ無情』といふ本はなき今は『レ・ミゼラブル』といふ『ああ無情』
ゆつくりと朝のはじまる気配するキッチンの窓あおく透けゆき
寝転んで本を読むクセ母ゆずりつまらぬことほど伝えゆくなり

投稿者 Blue Wind : 07:05 AM | コメント (0)

ICHI

皆が口を揃えて言う、「そういう歌があってもいいんだよ」と。
たしかにそのとおりなんだけど、何か大切なものを見失ってしまっているような漠然とした不安がある。今自分が当たり前だと思っていることは当たり前ではなく、当たり前と皆が認めてくれるところが逆に怖い。本当にこれでいいのか、と。

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◇  神戸しあわせの村・・・!

今日は、神戸しあわせの村へ孫と一緒に出掛けてました。
http://www.shiawasenomura.org/
ここです。
日が良かったのか知らないけれど、ここの中にある日本庭園では、歌会が行われてました。
長閑な冬の温かい日になさってたのでさぞかし楽しいお仲間だと見てました。
一方、神戸文化ホールでは、阪神・淡路大震災9周年記念事業として
神戸フィルハーモニィ楽団による特別記念行事も行われます。
神戸フィルのホームページは、
http://www.kobephil.com/
なのですが、あの朝比奈隆さんよかりの朝比奈千足さんが指揮なさって1月14日(土)に神戸文化大ホールで行われます。
http://www.kobe-bunka.jo
これが、神戸文化会館のホームページなのですが、9年を経過した現在でも尚復興事業が行われています。
全国の心ある方々によって神戸ルミナルエも昨年暮れに行われました。
やはり人は夫々の温かい心で結ばれているんだなぁと言うことを実感しました。
短歌・詩歌もしかりだと思っています。
皆さんの本当の心が出て来て始めて良い物が出来るのじゃないでしょうか?
私は、そのように思っていますが・・・。

九里仙人 --2004年01月07日(水) 16:56 --URL [333]


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しろねこ >> 偶然、偶然、たしか神戸フィルには主人の後輩の奥さんがいるはずです。ご主人はこちらにいるんですけど、お仕事していると大変ですよね。父が晩年、家を建て替えるなら、平屋の日本庭園のある家ってずっと言っていて、母とあたしが反対して、今にして思うと、少しずつそういう気持ちがわかるようになってきました。ケンゾーも若い頃パリに渡ったけれど、今はパリに日本家屋を建てて住んでいらっしゃるらしい。和のよさってありますよね。--2004年01月07日(水) 17:57 [334]
しろねこ >> 千葉一雄さんという亡くなったデザイナーがいて、いつもいち先生って呼んでいたんですけど、この先生があたしのことをとても可愛がってくださったんです。父が亡くなった後も、結婚式のドレスのデザインから式のことまで取り仕切られてしまったような・・・うちの娘が生まれたときにもどういうわけかパパイアをたくさんもって遊びに来てくれました。彼がまだ若い頃、文化学院でデッサンを教えた中に若き日のケンゾーもいたそうです。でね、いち先生は売れっ子で映画の仕事などをしていたからパリへいけなかったの。その代わりにパリへ行ったのがケンゾーさんらしいです。--2004年01月07日(水) 18:06 [335]
しろねこ >> この先生すごく変わり者で、東北大を出てからデザイナーになりたくて上京して、最初の頃はなまりが酷いから森鴎外の娘さんの森まりさんが当時おばあさんでお話の先生だったそうです。だから、ちょっとおかま言葉かなって思うようなところがあって、それを指摘すると森まりさんの伝授だからっておっしゃっていました。若き日の三島由紀夫さんとかね・・・・まるでタイムスリップしたかのようにたくさんの人たちのお話をしてくださった。--2004年01月07日(水) 18:11 [336]
しろねこ >> お子さんがいらっしゃらなかったから、父親代わりってご本人はおっしゃっていたんだけど、うちの父はもっとハンサムだったから・・・・って言ったら甥を呼んでね、パーティに、本当はこういうのが自分の家の血筋の顔だって・・・・・やれやれ・・・・・・おもしろかった。--2004年01月07日(水) 18:14 [337]
しろねこ >> 江川卓さんの奥さんのウェディングドレスをつくった時の二倍のレースを仕入れてきて、あたしのは儲けなし、その予算であと2,3つ。とにかく、あたしの服やドレスをデザインするのが何より楽しみだったらしい。    ←こういうのは自慢話(笑)。美人は得だ。(ほんとか?)--2004年01月07日(水) 18:22 [338]
しろねこ >> いち先生死んじゃったから、服も買う気になれない・・・・--2004年01月07日(水) 18:27 [339]
しろねこ >> なんでいい人は長生きしないんだろう・・・・・--2004年01月07日(水) 18:29 [340]
しろねこ >> 一生ジーニストでええわ。1年中ジーンズ。--2004年01月07日(水) 18:32 [341]
しろねこ >> 気難しい白猫。うちの庭の住ねこ。--2004年01月07日(水) 18:35 [342]
しろねこ >> ルドビーの共同体でひっそり生きるか・・・・--2004年01月07日(水) 18:39 [343]
しろねこ >> ・・・・・・・・・・・・・いや、九里さんみたいにしたたかに孫の手を引いてお散歩するまでは生き延びなくては・・・・・--2004年01月07日(水) 18:41 [344]
しろねこ >> いち先生の服にはハートがあるのよね。戦後の混乱期にぱあっと美しい女性が着飾ってそういう美しい世界に憧れて親の反対を押し切って上京してしまった。ぱあっと華やかで明るい人で、それでいてこと服のことになると厳しくて。あたしなんて、美容院にまでいち先生が着たから、美容師さんがいやがって、怒っていた。美容師さんには美容師さんの世界があって、イメージがある。そのくせ、髪型が目立つと服が台無しになるから、シンプルなものにせよ、という具合にうるさい、うるさい。あたしはぼっけーっとしているだけだった。とにかく小物の果てまで指定して、これがあたしに似合いそうだと思うと、ほかのお客さんには見せないようにして生地を隠す。ほんで、バーゲンの頃になると、おもむろに当たり前のようにデザインを見せられて・・・あたしは学生だからお金ない。ほんでも、親もそういう次第だからこころよくカードを使わせてくれた。どんな服でも着る人があってのデザインだから、デザインをイメージどおりに体現してくれるというのが値打ちだったらしい。作品は完成して引き渡してしまったら、その後のことまではわからない。客の好みでデザインするのは当たり前なんだけど、そうではなくあたしなんてまったくのお仕着せだった。先生が期待する以上になにかいちの世界を掴んでいたんだろうな・・・ そういう出会いは運命のいたずら。望んで得られるものではなく、たかが服、されど服。ハートなのよね・・・ あの世界をどうやったらあたしは表現できるのだろう。もういち先生はいない。シンプルで上品で、うまく表現できない。シンプルで上品な服はたくさんあるけど、それでいて華やかで、ほかの服とほんの少しだけ何かが違う。同じようなデザインの服はたくさんあるというのに・・・ 何かどこかが違うということを説明できない。哀しい。--2004年01月08日(木) 00:11 [345]
しろねこ >> 一番寂しいのはね・・・今はもう皆さんプレタが当たり前で、かなり上質の服でもプレタで買えるけど、いち先生は生涯プレタには手を出さなかった。東急デパートとかあちこちからタイアップの声が掛かっても、お客さんが反対するからすべてお断りしたそう。世の中にはまだまだクチュールの服しか着ないという頑固な女性が多かったからかもしれないし、自分の世代から見たら、あまりにもバカバカしいことだらけだった。--2004年01月08日(木) 00:45 [346]
しろねこ >> お弟子さんもいたけれど、結局、クチュールでは食べていけないという。そりゃそうなのよね・・・こういう時代だもの、いくらでも服は売っているし、これは素晴らしいと思ってもわざわざクチュールに高いお金を出さなくてもプレタにも上質なものはたくさんある。   なんか、今の歌壇と似たような雰囲気を感じてしまうあたし。--2004年01月08日(木) 00:59 [347]
しろねこ >> 誰でも簡単短歌というけれど、実はそれほど簡単ではなく、それでいてあまりにも簡単だ。ほらほら短歌なんて簡単と言いたいだけで、3000首以上詠んできてしまったけれど、果たしてそのうちどれほどの短歌が自分の作品であると声を大にして語れるか自信がない。--2004年01月08日(木) 01:09 [348]
しろねこ >> 皆が口を揃えて言う、「そういう歌があってもいいんだよ」と。--2004年01月08日(木) 01:11 [349]
しろねこ >> たしかにそのとおりなんだけど、何か大切なものを見失ってしまっているような漠然とした不安がある。今自分が当たり前だと思っていることは当たり前ではなく、当たり前と皆が認めてくれるところが逆に怖い。本当にこれでいいのか、と。--2004年01月08日(木) 01:17 [350]
しろねこ >> たかが服、されど服。それに生涯をかけた人がいて、自分の親などはまだ昔気質なところがあったから、うちの父などはあたしがいち先生の服を着ていると上機嫌だった。ほかにもいろいろあるんだけど、言わなくてもわかるらしい。ある意味、そこがすごいと思った。こう、無言のやりとりってあるのよね。今はなかなかそういう粋な人たちっていないね。まあ、それも時代なのかも。--2004年01月08日(木) 01:26 [351]
しろねこ >> 「銀河・時空通信」ではなく、すっかりしろねこのぼやきになってしまいました。あしからず。--2004年01月08日(木) 01:28 [352]

投稿者 Blue Wind : 01:52 AM | コメント (0)

January 07, 2004

おひさまの届かぬつちのくらやみは温もりだけがすべて 水仙

冬枯れに花の咲かない窓辺にも朝焼け映し葉は輝けり
ひとひらの風の運びし言の葉の枯葉のやうに舞う小道かな

ゆきだるま蹴飛ばしたいなあたたかき冬の陽だまりのんびりおもゆ

鳥の声丹頂鶴の懐かしき北の大地は雪ごもりかな
シベリアへ飛び立つ日まで雪景色鶴の避寒地北の大地よ
パリの地で幻の鳥夢見てたロートレアモン鶴を描きし
東洋の神秘のやみは鶴の夢蛍の幻影ゆくり流れゆ
ランボーの語りし海は一枚の絵の中にある空白の色

花の時期しづかに待つや冬の陽に春の気配は土の中より
おひさまの届かぬつちのくらやみは温もりだけがすべて 水仙
雪どけは土の中からはじまつて泥にまみれて春はおとづれ

ぽつかりと頭上に浮かぶ満月をふりきりキーを差し込むわたし

投稿者 Blue Wind : 02:12 AM | コメント (0)

January 06, 2004

アカシアの葉陰にゆらる東陽は冬窓撃ちて吾で止まれり

与はれた愛をことほぎ伝えゆく一人の人から一人の人へと

街をゆくしたたかなるや冬風よゴミの蓋だけ谷にころがし
街路樹のライトも消えるお正月学生街は枯れ葉とともに
元旦の学生街はひっそりと枯れ葉揺らして風は吹きゆく

申年はみざるいわざるきかざると猿に出遭った心得を得る

ココナツの匂いを不意に思い出す光の中のまばゆき碧
言葉など風に吹かれて飛んでゆく潮風のなか無邪気に歩き

東には陽の射すことの少なかれ低き大地はビル翳となる
マレーシア空港あるく黒ベール眼の遭ひてはしづかに逸らす
黒ベールの母は無邪気にはしゃぎをり中東の子ら潮風吹かれ
アカシアの葉陰にゆらる東陽は冬窓撃ちて吾で止まれり

投稿者 Blue Wind : 10:11 AM | コメント (0)

January 05, 2004

インターネット恋歌事情

それにしても恋歌が多い。ネットだとどうしてこんなに恋愛の詩や短歌、あるいは日記などが多いのだろう。不思議な気がするくらい連日してそういうのばかり眺めているうちに、まるで感性が麻痺してきてしまう自分が怖い。これではポルノ雑誌の記者がグラビアを眺めても単に人形の写真くらいにしか思わない(ほんと?)のに似ているような気がするくらいだ。一般的に、自分が来訪するようなサイトはアダルトやヘンな類のサイトは禁止しているところが多いし、りんど危うきに近寄らずではないけれども、とりあえず、安全地帯を徘徊している。(つもり) だから、ごく普通のそれこそ『サラダ記念日』系の歌を眺めていても、その数の多さに精神の麻痺を覚えてしまうのかもしれない。

雑誌や結社誌などを読んでいると、たまに、「実際には歌壇には恋歌は少ない」とか、「インターネット歌人は詠みすぎ」とか、「与謝野晶子は終わった」など、かなり辛らつなことを書いている記事も目立つ。恋愛でも不倫でもそういうネタで詠んでいたりすると、「そんなのはあんただけじゃないわよ」と思うらしい。
最初ね・・・それって少しオーバーじゃないかと思ったんだけど、このところあちこちを徘徊するうちに、次から次へと竹の子のように、詩や短歌のサイトというのは恋愛関係の戯言が多いことに気が付く。一つ二つ、あるいは自己イズムに浸って、ひたすら自分の世界へ埋没するためにサイトを構築するというスタンスに徹すれば他人のことなど気にはならないのかもしれないけれども、一般的に”動向”とか”傾向”というスタンスで全体を見渡すと、限りなく恋愛の匂いだけが充満してしまう。
恋歌は嫌いではない。そういうのにゆらゆらしているのは楽しい。
が、しかし・・・・・
ずっとそればかりとなると話は別。
たまに、空だの海だの花だのその他諸々うまく説明できないけど、もっとストレートな形ではなく、ほんわかしたような抽象概念世界へ埋没するような精神世界へたどりつくとホッとする。

もっとも10代や20代、はたまた今なお恋人を求めて徘徊している人たち、恋に悩んでいる人たちにとってはそういうせつない気持ちの共有というのはそれなりに楽しく、自分だってそういうはしかのような年頃を経てこのようなババアになってきたわけだからわからなくもない。でも、なんというか・・・・・飽きる。
そそ。飽きる。

恋愛ゲップ症候群ではないけれども、よく彼氏と付き合っているうちに倦怠期ではないけれども、何となく鮮度が落ちてしまったような感覚ってあるでしょ? それに近いような感覚をウェブに感じてしまっている。
鮮度の落ちない関係もあれば、たちまち色あせてしまう関係もあるし、どこにその違いがあるのだろうと思ったら、この濃厚さにあるような気がするくらいだ。
濃厚なら濃厚で、生きるの死ぬの、愛だの憎しみだの激しくやってほしいものだけど、どうもそこへ行き着く前にエネルギー切れしてしまうのか、それともそういう修羅場が人間の精神をずたぼろにしてしまい、せっかくうまくいっていた関係がすっかりダメになってしまうとか、どうもかったるさを感じてしまう。
他人の恋にかったるさを感じても自分は痛くも痒くもない。従って、ゲップ感が残る。
本人たちにしてみたら大変なことなのかもしれないけど、古今東西、繰り返されてきた縮図がそこに存在するわけで、そういうものを通過し、20年くらい同じ人間と付き合ってきている自分としては、飽きているような気がする。
もっと透き通るような恋愛ができないのかな・・・って。

自分とも長く付き合ってきているために、自分の心の形はそれなりに理解しているつもり。こういうことには怒るし、こういうことはうれしいし、こういうことはいや、とか、すごくカラーがはっきりしている。好きなタイプ、嫌いなタイプ、逃げ出したいシチュエーション、苦手な人、あ、まずい、と思った時の対処法などなど、ある意味、いびつな部分を含めて、自分という人間は存在しているために、案外、あっけらかんと諦めに近いものがある。
人間関係がうまく行かないであろう時の対処法とか、態度とか、判断基準とか、気配、雰囲気諸々自分の行動パターンがある程度決まっているために、深く悩まない。
相手に対しても、特に何を期待しようとしなければトラブルは発生しない。特に、うちのダンナのようなおとなしい人だとなおさらかも。愛情すら疑ったことがないという・・・まさに考えようによっては奇跡に近いかも。
考えてみたら、出会った頃から多くを説明する必要のない人だった。それが愛だとか恋だとか思わないうちから、多くを説明する必要がない。そういう関係だから、考えてみたらノラクラと今まで続いているのかもしれない。一緒にいてもまるで空気のような人で、あまり存在感のない人なんだけど、いないと寂しい。そういう人。一緒にいると安心感がある。
娘が父さんの歌も詠んであげろというのだけれど、それにしても存在感が薄い。ワイルドターキーだけあれば生きていけるのではないかと疑っているけど。七面鳥の絵柄の酒を何年にも渡って眺めてきたから、考えてみたらそれくらいしか思い浮かばないぞ? やれやれ・・・・・困った。
あまりにも素直なんだよね・・・いまだに平気でおちびには「父さんと母さんはらぶらぶ」とか言っている。(ほんまかえ?) こうね・・・・なんかね、シンプルな人だから、勝手に言わせとこ、みたいな気になってしまう。そのようにまるめこまれて気が付いたらずっと一緒にいる。

そういう我が家の事情はともかく、自分の世代の濃厚さはえぐいから・・・・すでに。愛憎に金まで絡み、たまに離婚へ向けて弁護士へ相談しに行った記録などをサイトへアップしていたり、壮絶だもの。濃厚さに加えて、なんといったらよいのだろう・・・すでにきれいごとの存在しないえぐさ。そういうのに比較すれば、ほんわか恋歌でも詠んでいるほうが平和なのかもしれないけれど、それすらゲップ状態にまでなってしまったら、ヒーリングではないけれどもそれこそ山や海や大自然しか待っていないのかも。
良い意味で、おとなの歌が詠みたい。難しい。

投稿者 Blue Wind : 06:28 AM | コメント (0)

January 04, 2004

すみわたる冬の月夜は隔絶にツルゲーネフの『乞食』の似合ふ

こころねのあしきものにも春は来るのどけきひかりみえにしあらば
純さんの年初のぼやき始まりぬ国のため死すを悪と言はれては

朝焼けにはらりとかかる前髪を鏡に向かい少しだけ切る

すみわたる冬の月夜は隔絶にツルゲーネフの『乞食』の似合ふ
貧困といふのは嘘だ虚無なればげにあらずやと愛に飢えたる
父母に届けるために列ならぶアフガンの子の笑顔明るき

投稿者 Blue Wind : 06:26 AM | コメント (0)

年賀状

岡井隆さんが、雑誌の中で虚無について語っていたけれども、そういう意味では年賀状ほど虚無なものはないような気がするくらいだ。仕事関係、プライベート、親戚、その他諸々印刷された書状。
それに比べると、娘の友達のものはスタンプだったり、手書きだったり、いろいろな工夫がなされていておもしろい。彼女たちは葉書をつくることに意義がある。「誰々ちゃんにはこれ」という具合で、おちびもこれはステンシルだとか、スタンプだとか、あれこれやってみたいと思うらしい。それでよせばいいのに、あたしの古いスタンプの入った箱を取り出してきて、今年の彼女の年賀状には暑中見舞い用の貝の絵柄のスタンプが押してある。子どもの世界のことだから、あたしも何も言わない。
ダンナのつくる年賀状にも何も言わない。気が付いたらあたしの分までつくってくれるので、それをそのまま去年は出した。気のせいかもしれないけど、すこぶる評判が悪いような・・・
ネットを始める前までは、書くことが好きだったので、あれこれ手紙を書いたり、季節の書状でも全部手書き・・・ 絵が苦手なので、文章を書く。それが楽しみでもあった。
でも、気が付いたら、そういうパワーは今ではサイトの更新に費やされてしまっているような気がする。それで、愛想の悪いダンナのつくった年賀状を出す。だったら出さないほうがマシだったかもしれないと思うくらいだ。「冷たい」という感じがするんだろうな・・・ というか・・・・ それが世間というものなので、それが普通なのではないかという気すらするのだけれどどうなんだろう。

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ダンナにとって、今、あたしというのはとても「愛想の悪い人」なのだと思う。その大きな原因は、友達を別々にしたがるという主婦根性があるからだと思う。
学生時代から付き合っているために、当時のことを考えると、実にあたしは愛想のよい彼女であったと思う。ダンナの友達はほとんど知っているし、その中の多くは飲み仲間であった。彼らに彼女ができたら一緒に遊んだり。でも、大抵の場合、飲み仲間として一緒に活動する彼女はレアであった。というのは、そういうケースは、グループとなると女性は女性同士だけで会話していたり、カップルとなるとカップルなのだから当然境界がある。となるとね、そういうグループに参加するより、自分の気の合う友達と一緒にいるほうが楽だから、自然と集まらなくなる。
そういう中で、何となくダンナの飲み仲間の中に入って遊んでいたのだから、考えようによっては不思議な存在だったのかもしれない。

結婚してすでに10年以上家庭の中にいる。年賀状などを見ると、当然ダンナの枚数が一番多い。自分宛の年賀状は、どちらかといえば年賀状を出さなくてもこのまま老後になり、家族に見放されても生きていればノラクラと一緒に遊んでいるだろうというような友達のものばかり。それに比べると、ダンナのものは年々そういう区別が難しくなっていくようなものばかりだ。当然といえば当然なんだろうけど、それは最早かつての気楽な時代とは違うような気がする。

岡井隆さんが、雑誌の中で虚無について語っていたけれども、そういう意味では年賀状ほど虚無なものはないような気がするくらいだ。仕事関係、プライベート、親戚、その他諸々印刷された書状。
それに比べると、娘の友達のものはスタンプだったり、手書きだったり、いろいろな工夫がなされていておもしろい。彼女たちは葉書をつくることに意義がある。「誰々ちゃんにはこれ」という具合で、おちびもこれはステンシルだとか、スタンプだとか、あれこれやってみたいと思うらしい。それでよせばいいのに、あたしの古いスタンプの入った箱を取り出してきて、今年の彼女の年賀状には暑中見舞い用の貝の絵柄のスタンプが押してある。子どもの世界のことだから、あたしも何も言わない。
ダンナのつくる年賀状にも何も言わない。気が付いたらあたしの分までつくってくれるので、それをそのまま去年は出した。気のせいかもしれないけど、すこぶる評判が悪いような・・・
ネットを始める前までは、書くことが好きだったので、あれこれ手紙を書いたり、季節の書状でも全部手書き・・・ 絵が苦手なので、文章を書く。それが楽しみでもあった。
でも、気が付いたら、そういうパワーは今ではサイトの更新に費やされてしまっているような気がする。それで、愛想の悪いダンナのつくった年賀状を出す。だったら出さないほうがマシだったかもしれないと思うくらいだ。「冷たい」という感じがするんだろうな・・・ というか・・・・ それが世間というものなので、それが普通なのではないかという気すらするのだけれどどうなんだろう。
というわけで、あれこれ説明する必要のない友達というのはありがたい。虚無に費やされるより、ぽつりぽつりと残っていくそういう友達のほうがありがたい。ところがこういう自分の姿勢はダンナの苛立ちを募らせるらしい。だからといって、すでに自分には気力がない。かつてのようにラフに振舞うにはいささか世の中は面倒であり、それならばいっそ友達は分けてしまったほうが気楽なような気がして、あたしは愛想の悪い奥さんなのかもしれない。
なんか、こう・・・・・万が一、自分が一人になってしまった場合、結局はダンナの付き合いしか残っていなかったというのがいやなのよね。それこそ虚無以外の何物でもない。義父や父のことを考えても、あの華やかさは一体何だったのだろうと思うくらいだ。特に冷たいというわけではなく、うまく説明できないけれども、虚無、だ。
うちのダンナはやさしい。だから、昔から親以外から誰かに悪口を言われているのを聞いたことがない。愛想もいいし、人から好かれる。それでいて常に虚無がある。おそらくは、そういう虚無を埋め合わせるために娘や家族が必要なんだろうけど、それでいて娘もやがては大きくなる。そうなると、今度は犬だろうか・・・
父は動物が好きだった。小さな子どもも好きだった。ガラスや綺麗なものが好きだった。家族はいつも着飾っているのが好きだった。華やかさを好んだ。
そして、自分は華やかであり、虚無を好んだ。
虚無の中で、自由奔放に育てられ、世間ではそれを「甘やかされた」と呼ぶ。でも、もうどうでもいいような気がする。甘やかされて中途半端な人間でも、それなりに生きている。ダンナが娘にうるさい、「勉強しろ」と。あたしにももっと娘に厳しくしてほしいらしい。(うるさい・・) 自分が甘やかされて育ってしまったがゆえに、今さら娘をどうやって厳しく躾けてよいのかわからない。それよりも自由に、気ままな年賀状を書いている娘が好きだ。あまりにも自由すぎるところがあたしに似ている。おそらくは、あたしよりももっとダンナのほうがちびを甘やかしているとすら思う。そのくせ、たまにそういう自分がいやになるのかも。

でも、ネットなんかをしていると、世の中は本当に自由なのだと思う。世の中の多くの人たちは自分よりも遥かに自由ではないかと思ったりもするけれど、娘は厳しく育てたいのだろうか。自由であり、保守であり、虚無であり、おきらくであり、普通の年賀状を出したら冷たいと思われてしまうあたし。

投稿者 Blue Wind : 12:36 AM | コメント (0)

January 03, 2004

いつついろかぞへてみつつわれはなほいろをのこせり生きる狭間に

道標のつづきぬ路を走らせる問題は今われのいる位置
しあわせかと問わるるならばしあわせとこたえるしかないつくばの春よ

波音のしぐれゆくまま夕暮るる海はしづかに大地をつなぐ

芍薬のえがかれしわが振袖は12歳のころのわれの身丈よ
くつきりと記憶のなかに咲きし花名を知るべし想ひ悲しき
いつついろかぞへてみつつわれはなほいろをのこせり生きる狭間に

投稿者 Blue Wind : 01:23 AM | コメント (0)

January 02, 2004

傍らに夢見るやうな吾のいる知らない吾のひとりごちても

断片を拾い集めて言の葉のゆらりゆられて小町の里へ
新治は筑波の裾野つづくみち山並みうらら花降る里へと
魂の抜け殻となり骸骨になりて詠える悲しき人よ
君が恋つらかりしこと多ければ花は愛でらる野はひろらけり
初夏の風そよ吹く頃は薔薇園に花咲き乱れわれを誘ふ
青き山かげを落としつたたずみし静かな森のしんしん続く
平安の都のかげのうつろいし時は幻変わらぬものかな
今ここに生きたるわれのともしびは古人の憂いをうくし
悲しみはまた寂しけれ夕暮るる山沈みゆく目隠しのごとく

傍らに夢見るやうな吾のいる知らない吾のひとりごちても

Blue sky, you leave me the sky you are...so われは昇りし儚き虹を

投稿者 Blue Wind : 03:08 AM | コメント (0)

January 01, 2004

小野小町と平安朝

レンタルショップの払い下げCDを大量でゲットしたせいか、日頃あまり聴かないジャポップを聴くようになってしまっている。元日に平井堅を聴きながらサイトを更新していると、本当に今がお正月なのか悩む。新春スペシャルに(ほんとか?)、百人一首でもと思って歌を眺めていても気が乗らない。元来、自分が和歌や日本の古典があまり好きではないと本能のように感じるルーツがこの辺にあるような気がするくらい気が乗らない。
陽成院の「筑波嶺の峰より落つるみなの川恋ぞつもりて淵となりぬる」という歌は嫌いではない。でも、エピソードがすごいもの・・・動物をたくさん飼い、蛇に蛙を、猫に鼠を、最後には人まで・・・となって退位させられてしまったとある。お正月早々に、こういうのをカルタとして遊んでいるわけですね・・・わが国は。そういうことを鬱々しながら考えると、自分がどうして和歌が嫌いなのか説明するまでもないような気がするくらいだ。なのに、どうして短歌を詠んでいるのか、これまた人生のあやとしか考えられない。

大晦日をどうして格闘技で迎えないとダメなのかよくわからないけれども、今朝ダンナがスポーツ紙を買ってきていた。テレビを観ていたはずなのにまるで覚えていないらしい。(あほ!) まあ、酔っ払って眠いのをヘロヘロになりながら我慢しながら観ていたわけだから、それも仕方がないのかも。
それにしても、K1。あっけなく曙は負けた。
あの負けっぷりの気持ちよさは曙の現役時代からだから、さほど気にならない。でも、不意に思ったのは、「明日の取り組みはないんだな」ということ。大相撲なら15日間続くので、今日負けても明日がある。横綱が負けたら負けたで、それこそ金星だから勝ったほうはうれしそうにしている。だから、負けても爽快感すらある。でも、ボクシングやほかの格闘技には明日がない。トーナメントや団体戦なら別なのかもしれないけど、大相撲というのは個人技の世界でありながら団体の世界なのだということを改めて感じてしまったのです。

短歌と詩の違いにも似ていると、ちょっと思った。
歌人は一人の世界だと思ってきたのだけど、実はそれは大相撲のようなもので、土俵の上は一人だけど、序二段あたりの体育館相撲の閑散とした様子から始まり、それこそ幕内くらいにならないと一般的にイメージするような相撲の形態にはならないような階層化された集団社会なのかもしれないと思った。相撲も和歌も団体競技ではないけれども、決して一人の世界ではないというところがとても日本的?
詩は、どちらかというとボクシングやほかの格闘技に近いのかもしれない。明日がない。一人なら一人の世界であり、横綱でさえ全勝優勝というのはめずらしいのだからという甘えがゆるされない。
甘えだろうか?
相撲は厳しい世界であるには違いないけれども、それでいてどこか負けに対するキャパがある。うちのダンナでさえ、「曙は次にはやってくれる」などと、あの惨敗ぶりを見てもそういう調子だもの。まあ、現役を離れて、復帰2ヶ月でまるで違う競技への挑戦だし、相手がボブ・サップ。考えてみたら無謀だったのかもしれない。それでも、あの負けっぷりは観ていて逆にさっぱりしてしまった。

自分の場合、詩は遅筆だ。めったに書かない。歌は機関銃だ。本当に短歌なのかどうかわからないような歌まで雑じっているけど。
それで、さっきまで百人一首から始まり、小野小町の歌を調べていたのだけれど、おっそろしいほど数が少ない。実際にはおっそろしいほど詠んでいたと思うのに、伝えられているのはわずか。
小野小町伝説なども読みながら、時代が遡るほどに、勝手にあれこれ言われていたのだということがわかる。歌を見たら、それが出鱈目だということがわかるような気がするけど、もう本人はいないのだから返す言葉はないのかもしれない。でも、世の中というのは酷い。
小野小町の歌のよいのは、あの鬱々とした雰囲気なのかも。在原業平に追い掛け回されたとか、あれこれいろいろなエピソードもあるけれど、姉ちゃんとみれば恋文などをせっせと書くようなタイプが単に嫌いだったのかもしれないし、平安朝の自由恋愛とは言うけれど、なんで天皇に10人以上奥さんがいるわけ? 考えてみたらどこにも自由などないではないか。そういう中で人目を偲ぶような歌が多く交わされたというだけなんでしょうし、中にはそういうのが流行していたからという理由で詠まれた歌も多いでしょうし、それでいて、小野小町の歌は好きだ。
一説によると、小野小町というくらいだから、小野さん家のお嬢さんで、更衣だったという噂。つまりは、ぎりぎりのラインで天皇の奥さんだった? 何をもってしてぎりぎりかというと、奥さんの半数くらいは有力な家からの縁組だから、そういう中で末端として縁組がなされる。それでいて、平安朝・・・・天皇は怖いけど、隠れてせっせとラブレター。精神が腐ってしまっても不思議はない。
そういうのが当たり前だと思うには、彼女は田舎育ちだったのかもしれないし、最初からそれしかないと思えば我慢もできたかもしれないけれど、なまじかほかの世界を知っているだけに耐えられないだろうな。
というわけで、都を逃げ出し、田舎へ。そして、そこで純愛。ところが、深草少将との悲恋。99本の芍薬。その時、99首の歌を詠んだというのだけれど、それはどこにあるのだろう・・・


◇小野小町の歌
花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせし間に
色見えでうつろふものは世の中の人の心の花にぞありける
今はとて我が身時雨に降りぬれば事のはさへにうつろひにけり
秋風に逢ふたのみこそ悲しけれ我が身空しくなりぬと思へば
みるめなき我が身をうらと知らねばやかれなて海人の足たゆく来る

人に逢わむ月のなきには思ひおきて胸走り火に心焼きけり
わびぬれば身をうき草の根をたえてさそふ水あらばいなんとぞ思ふ
おろかなる涙ぞ袖に玉はなす我はせきあへずたぎつせなれば
岩の上に旅寝をすればいと寒し苔の衣を我に貸さなむ
九重の花の都に住まわせではかなや我は三重にかくるゝ

◇小野小町の夢六首
思いつつ寝ればや人の見えつらん夢と知りせば醒めざらましを
うたた寝に恋しき人を見てしより夢てふものは頼みそめてき
いとせめて恋しき時はむばたまの夜の衣を返してぞ着る
うつつにはさもこそあらめ夢にさへ人目をよくと見るがわびしさ
限りなき思ひのままに夜もこむ夢路をさへに人はとがめじ
夢路には足もやすめず通へどもうつつに一目見しごとはあらず


要するに、小野小町は鬱だったということが何となくわかるでしょ?
そりゃ壮絶な生活の中で、歌を詠うことでしか何も語れなかったのかもしれないし、男嫌いというか・・・要するに、ハートのない歌とか、うわっつらだけの人とか、悲恋とか、鬱々しないほうがどうかしているかもしれない、平安朝は。

投稿者 Blue Wind : 11:08 PM | コメント (0)

Happy New Year 2004

sky127.jpg
(C)Nature

陽は昇り陽はめぐりゆく天空を翔ける月日の今年も明くる
 
打ち上げの花火の音の鳴り響く空見上げても月光るだけ
フィオナの声の向こう側新年祝す花火は鳴る鳴る
連発の花火の音に誘われて西の彼方に月はまばゆく

除夜の鐘きこえぬ年に下弦月しづかに光り誘われる吾

不意打ちの戦闘となる可能性石油とともに眠るイラクか
世界中紛争地帯は多けれどいまの暮らしは石油にたより

わが歌の生まれいづるもCGIペンではなぜに詠えないのか
書初めに筆をなぞらす感覚をわが手覚えているだらうか
書くことは猛スピードで速くなる読むことは遅くなりぬる
正月をCGIに向かひては歌を詠むなりニュースは横目
のんびりと墨摺るやうに過ごす暇いつしか過ぎる言葉あらわる
硯中消えてしまつた言の葉も今は現るパソコンの中
内言につつましやかに死に絶へた言葉も今はリアルタイムで

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透明にうつる板よりかすれても雰囲気だけを大切にする
ボツ短歌並べてうれし気まぐれなそんな板もあつてよいかな
背景とマッチしない色あわせ正月早々更新しせり

投稿者 Blue Wind : 04:31 AM | コメント (0)