January 04, 2004

年賀状

岡井隆さんが、雑誌の中で虚無について語っていたけれども、そういう意味では年賀状ほど虚無なものはないような気がするくらいだ。仕事関係、プライベート、親戚、その他諸々印刷された書状。
それに比べると、娘の友達のものはスタンプだったり、手書きだったり、いろいろな工夫がなされていておもしろい。彼女たちは葉書をつくることに意義がある。「誰々ちゃんにはこれ」という具合で、おちびもこれはステンシルだとか、スタンプだとか、あれこれやってみたいと思うらしい。それでよせばいいのに、あたしの古いスタンプの入った箱を取り出してきて、今年の彼女の年賀状には暑中見舞い用の貝の絵柄のスタンプが押してある。子どもの世界のことだから、あたしも何も言わない。
ダンナのつくる年賀状にも何も言わない。気が付いたらあたしの分までつくってくれるので、それをそのまま去年は出した。気のせいかもしれないけど、すこぶる評判が悪いような・・・
ネットを始める前までは、書くことが好きだったので、あれこれ手紙を書いたり、季節の書状でも全部手書き・・・ 絵が苦手なので、文章を書く。それが楽しみでもあった。
でも、気が付いたら、そういうパワーは今ではサイトの更新に費やされてしまっているような気がする。それで、愛想の悪いダンナのつくった年賀状を出す。だったら出さないほうがマシだったかもしれないと思うくらいだ。「冷たい」という感じがするんだろうな・・・ というか・・・・ それが世間というものなので、それが普通なのではないかという気すらするのだけれどどうなんだろう。

___________________________________

ダンナにとって、今、あたしというのはとても「愛想の悪い人」なのだと思う。その大きな原因は、友達を別々にしたがるという主婦根性があるからだと思う。
学生時代から付き合っているために、当時のことを考えると、実にあたしは愛想のよい彼女であったと思う。ダンナの友達はほとんど知っているし、その中の多くは飲み仲間であった。彼らに彼女ができたら一緒に遊んだり。でも、大抵の場合、飲み仲間として一緒に活動する彼女はレアであった。というのは、そういうケースは、グループとなると女性は女性同士だけで会話していたり、カップルとなるとカップルなのだから当然境界がある。となるとね、そういうグループに参加するより、自分の気の合う友達と一緒にいるほうが楽だから、自然と集まらなくなる。
そういう中で、何となくダンナの飲み仲間の中に入って遊んでいたのだから、考えようによっては不思議な存在だったのかもしれない。

結婚してすでに10年以上家庭の中にいる。年賀状などを見ると、当然ダンナの枚数が一番多い。自分宛の年賀状は、どちらかといえば年賀状を出さなくてもこのまま老後になり、家族に見放されても生きていればノラクラと一緒に遊んでいるだろうというような友達のものばかり。それに比べると、ダンナのものは年々そういう区別が難しくなっていくようなものばかりだ。当然といえば当然なんだろうけど、それは最早かつての気楽な時代とは違うような気がする。

岡井隆さんが、雑誌の中で虚無について語っていたけれども、そういう意味では年賀状ほど虚無なものはないような気がするくらいだ。仕事関係、プライベート、親戚、その他諸々印刷された書状。
それに比べると、娘の友達のものはスタンプだったり、手書きだったり、いろいろな工夫がなされていておもしろい。彼女たちは葉書をつくることに意義がある。「誰々ちゃんにはこれ」という具合で、おちびもこれはステンシルだとか、スタンプだとか、あれこれやってみたいと思うらしい。それでよせばいいのに、あたしの古いスタンプの入った箱を取り出してきて、今年の彼女の年賀状には暑中見舞い用の貝の絵柄のスタンプが押してある。子どもの世界のことだから、あたしも何も言わない。
ダンナのつくる年賀状にも何も言わない。気が付いたらあたしの分までつくってくれるので、それをそのまま去年は出した。気のせいかもしれないけど、すこぶる評判が悪いような・・・
ネットを始める前までは、書くことが好きだったので、あれこれ手紙を書いたり、季節の書状でも全部手書き・・・ 絵が苦手なので、文章を書く。それが楽しみでもあった。
でも、気が付いたら、そういうパワーは今ではサイトの更新に費やされてしまっているような気がする。それで、愛想の悪いダンナのつくった年賀状を出す。だったら出さないほうがマシだったかもしれないと思うくらいだ。「冷たい」という感じがするんだろうな・・・ というか・・・・ それが世間というものなので、それが普通なのではないかという気すらするのだけれどどうなんだろう。
というわけで、あれこれ説明する必要のない友達というのはありがたい。虚無に費やされるより、ぽつりぽつりと残っていくそういう友達のほうがありがたい。ところがこういう自分の姿勢はダンナの苛立ちを募らせるらしい。だからといって、すでに自分には気力がない。かつてのようにラフに振舞うにはいささか世の中は面倒であり、それならばいっそ友達は分けてしまったほうが気楽なような気がして、あたしは愛想の悪い奥さんなのかもしれない。
なんか、こう・・・・・万が一、自分が一人になってしまった場合、結局はダンナの付き合いしか残っていなかったというのがいやなのよね。それこそ虚無以外の何物でもない。義父や父のことを考えても、あの華やかさは一体何だったのだろうと思うくらいだ。特に冷たいというわけではなく、うまく説明できないけれども、虚無、だ。
うちのダンナはやさしい。だから、昔から親以外から誰かに悪口を言われているのを聞いたことがない。愛想もいいし、人から好かれる。それでいて常に虚無がある。おそらくは、そういう虚無を埋め合わせるために娘や家族が必要なんだろうけど、それでいて娘もやがては大きくなる。そうなると、今度は犬だろうか・・・
父は動物が好きだった。小さな子どもも好きだった。ガラスや綺麗なものが好きだった。家族はいつも着飾っているのが好きだった。華やかさを好んだ。
そして、自分は華やかであり、虚無を好んだ。
虚無の中で、自由奔放に育てられ、世間ではそれを「甘やかされた」と呼ぶ。でも、もうどうでもいいような気がする。甘やかされて中途半端な人間でも、それなりに生きている。ダンナが娘にうるさい、「勉強しろ」と。あたしにももっと娘に厳しくしてほしいらしい。(うるさい・・) 自分が甘やかされて育ってしまったがゆえに、今さら娘をどうやって厳しく躾けてよいのかわからない。それよりも自由に、気ままな年賀状を書いている娘が好きだ。あまりにも自由すぎるところがあたしに似ている。おそらくは、あたしよりももっとダンナのほうがちびを甘やかしているとすら思う。そのくせ、たまにそういう自分がいやになるのかも。

でも、ネットなんかをしていると、世の中は本当に自由なのだと思う。世の中の多くの人たちは自分よりも遥かに自由ではないかと思ったりもするけれど、娘は厳しく育てたいのだろうか。自由であり、保守であり、虚無であり、おきらくであり、普通の年賀状を出したら冷たいと思われてしまうあたし。

投稿者 Blue Wind : January 4, 2004 12:36 AM
コメント
コメントする









名前、アドレスを登録しますか?