January 15, 2004

やる気のなくなる関係性

チャリティやボランティアというのは酷く難しい。教会や行政が主催しているような場合は別かもしれないけど、こういうのは個人の意志に基づくものだから、参加する意志がないのならその場にいるべきではない。何故かというと、やる気がなくなるから。一人やりたくないという人や、嫌々ながら付き合いでという人がいるとそういう気持ちが伝わってしまう。

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というわけで、みんなで名作をウェブへあげようという計画はボツ。確かにゲームでもしているほうがマシかもしれない、あの酷い機械翻訳では。あんなに解読できないものとは知らなかった。しかも、せっかくCGIを使ってシャカシャカアップしたのはよいのだけれど、今度はそれを機械で翻訳できない。HTML式で書かれたものじゃないからダメなんだろうか・・・でも、先日はうまく行ったのに。どういうカラクリでそういうことになるのかまったくわからないし調べるのも面倒。第一、ほかのページを使って機械翻訳を使ってみたんだけど、日本語の解読ができない。これではさらに時間が掛かる。

それより以前に、どうしてこれはOKで、これがNGなのか、通じないのかも何となくわかった。奉仕の精神というのがそもそも理解困難だからなのかも。こういうのは不特定多数の人たちのためにするから奉仕なのであり、個人的な友好関係や付き合いによって生じる関係とは違うと思う。
短歌をウェブにあげるのでも、ランダムに不特定多数の人たちが集まる中にぽつんと存在している場合はOK。個人的な友好関係があり、互いのサイトにアップしている分にもOK。だけど、歌人リストをつくったり、活動を仲間やグループという形にする場合にはお断りする。奉仕の精神に反するからだと思う。
つまりは、助け合いをするような仲間をつくりたいのであれば、最初にそういう風に謳うべきであり、あれをしてやったからこれをしろという関係はかなり迷惑だと思う。

そもそもCGIにしたって覚えたくて覚えたわけではない。どういうわけか無理やりにアップの仕方を教えてくれたので、その後何となくやってみたら案外簡単だということに気が付いただけ。かといって自分でプログラムを書こうという気もないけど。他人の書いたプログラムを適当にアレンジして使う。著作権表示していれば大抵の場合はOK。2次配布を禁止しているくらいのものだろう。
でも、後になってから「りんちゃんはみんなのために何もしない」と言われて、その時の「みんな」って誰のことだかわからない。「あんたのためってことじゃないの?」などとは恐ろしく訊けない。つまりは、「これだけしてやったんだからこれをしろ」などと言われる筋合いはないし、つまりはそこでいう「みんな」というのは、「仲間」という意味だということに気が付く。気持ち悪い。つまりは、自分にはそういう仲間はいない。友達ならいるけど、「仲間」という関係性には興味がない。仲間になるのなら、それこそメンバーを選ばなければならない。それこそグループの性質や目的、小さくは公園仲間とか、あれこれあるけれど、そういう小さい世界ですら年中すったもんだするのが当たり前なんだから、うっかり仲間になど入ってはいけない。それなら個人的に仲の良い人とだけお付き合いしているほうが気楽だもの。

それとは別に、奉仕となるとそういう個人のお付き合いとはまったく関係ない。公益というのかなあ・・・つまりはそれこそ見知らぬ誰かのためにするのがボランティアでありチャリティであり、自分の家の前の空き缶を拾ってもボランティアにはならないけれど、たまたま通った道の空き缶を拾ったらボランティアだと思う。知り合いの家の前の空き缶を拾ったら、これは厚意か親切だと思う。
だからね、最初に『レ・ミゼラブル』をみんなでウェブにあげようという企画まではいいのよ。でも、その後が失敗してしまう。結局、誰かに頼むとかね・・・・そうなってしまう。それではボランティアにはならない。Project Gutenbergが素晴らしいのは、それこそ自分のようなまったく無関係な人でも簡単にDLできる。DLしたからといって、ボランティアを手伝えなどとおばかなことは言われない。つまりは、そうやって良いものをウェブに残そうということでやっているわけだし、伝え合うことに意味がある。だから、単なる活動なのよね。
だから、自分でも少し真似をしてみたいと思っただけ。そういう活動に参加していなくても、コツコツとマイペースならやれることもある。誰のためにやるわけでもない。もちろんやることにより、自分のサイトのコンテンツにもなるし、タダで読めるわけだし、英語の勉強にもなるだろう。そういう意味では、意義があるかもしれない。だから、自分のやりたいことの延長線上に、それがまた見知らぬ誰かの役に立つ、ということがボランティアなような気がするけど。

やっても金にならんとか、いきなりゲームをしているほうがいい、などというカキコを見て、やる気がなくなってしまった。それで、時空をボツにして、一人でやることにする。誰かと一緒にやってやる気がなくなるのなら、一人でコツコツやったほうがさっぱりする。無理にやろうと言っているわけではない。そこでなければどうしてもできないということでもない。単に自分でやりたいと思っただけだから。
一人でやると言ったらそれはそれで反感になるくらいなら、今度はそんな人たちとは一緒に何かをやりたくなくなるでしょ? だって、自分のためなら金を払って本を買えばいいのよ。何も苦労することはない。たまたま本屋で見つからなかったからちょっとやってみよーかなと思っただけのことだし、何も一生懸命やるほどの義理はない。それに、自分のサイトなどを読んで、少しはお手伝いしたいと心の中で思ってくれた人があれを見たらどう思うだろう? 裏切られた気持ちになるのではないかと思う。心の中で思ってくれたら充分なんだよね。直接お手伝いはしてくれなくても、その人がまたどこかで違うことをする。Project Gutenbergの来訪者もそうだと思うけど・・・つまりはお手伝いできない、あるいは参加できなくても違う形でその人たちがまた似たようなことをできる範囲でしようかな、という気持ちになる。つまりは、気持ちが伝わるんだよね、電子文字社会だとしても。電子文字社会だからこそなおさらかもしれない。

というわけで、新年早々やる気を阻害されながら、すでに原文はアップし終わったので、これをサイト用に改行タグなどを外していこうとは思っているけど、やる必要もないような気がするし迷う。手書きとは違う便利さがあるから逆に迷うのかもしれないけど。まあ、仕事じゃないし、締め切りがあるわけでもないし、原文のコピペだけなら2日くらいで完成するし、コツコツやるしかないわ。

投稿者 Blue Wind : January 15, 2004 02:29 AM
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