January 24, 2004

解放されてしまった後の女の歌

「短歌とは何か?」と定義しようとするからややこしくなるわけで、「作歌とは何か?」と定義すれば案外簡単かもしれない。つまりは、作歌とは、『さりげない日常にドラマを発見する行為』。
今まで写実がどうたらこうたら、生活臭がどうたらこうたらなど、いろいろな人たちがいろいろなことを語るためにばらばらにされた断片を拾い集めるのに苦労したけれど、結局は、そういうことなのだと思った。短歌とはさりげない日常に発見するドラマのことであり、それを57577の形でつぶやく。それだけ。
これが明治天皇の場合、9万首の御歌のうち、ほとんどが国の繁栄とか国民の安全などを祈願するような御歌がほとんどだし、それを毎日何十首もお詠みになっていたわけだから、それもまたいわば仕事のような生活のような、自分とは生活が違うというだけで歌を定義してはならないのだと気づく。そのような生活がさりげないかどうかはともかく・・・

さりげない日常の中に、花も空も雲も人もある。だから、なんでもありいなんでしょうし、それでいて虚偽を嫌う。つまりは、自分史というものにこだわるのは、それが文学だからなのだそう。文学というより民俗学ではないかと思ったりするけど、生きた証を歌にのこす。時代にこだわる人たちが多いのも、そういうことらしい。

桑原武夫の『第二芸術論』がなかったら、短歌や俳句は逆にすたれてしまったかもしれない。前衛短歌という言葉もニューウェーブも今ではすっかり古臭いらしいし、そうなると万葉集はなんなんだと言いたいのだけれど、要するにセカンドアートと言われてむっかーっとした人たちに支えられて、この古めかしい世界が少しばかり変化したのも事実なのかもしれないし、それでいて未だに旧弊なイメージがあり、事実、どこか旧弊であり、短歌は文学であるという使命感により結束している人たちも多い。
文学をするのに、どうして集団とならなければならないのか、そこがまた不思議なんだけど、自分のようなにわか歌人にとっては、どうもほかの人たちとはたどる道筋の順番が異なり、しかも、自分のたどる道筋は今は決してめずらしい姿ではなく、昨日などは『青空文庫』を紐解いて、与謝野晶子の著作を眺めてみれば、日本という国はちょっと前まではたしかにこういうことを訴えなければならない国であったことを不意に思い出す。
「詩歌って男の世界だったのね〜♪」なーんてね・・・・
インターネットで中学生や高校生の恋の詩などを読んでいたりすると、こういうのはいわば女性趣味であり、女性が詩を書いたり歌を詠んだりすることは違和感もなく、女流作家などは驚くに値しない。
が、しかし・・・・・ちょっと前までこれだもの・・・・・・『「女らしさ」とは何か』
時代は与謝野晶子が予言したとおり進んでいる。女性解放運動というか、そこから始まったウェーブは自分で帰着しているような気がした。つまりは、あたしは参政権もあるし、学歴もある。でも、家でぼっけーっとしているほうが好きだ。自分の母親のように、ガツガツ仕事をしようとは思わない。歌など詠んでいても儲からない。サイトをつくっても儲からない。でも面白い。学歴があっていまだに無資格。就職したことがない。かといってフリーターと呼ばれたこともない。(わるい?)

娘の友達のお母さんなどと話すと面白い。彼女のように頭がよいと、最初から、「役人と結婚するより自分で役人になれ」と教育される。そうでなければ自己実現したことにはならないらしい。つまりは自分で何か職業を持ち、生きる。
自分などからすれば、こういうのはいわばそういう社会の流れがあり、思想や教育の一つの形でしかないと思うのだけれど、一般的に今の社会はこういう風潮が主流だろう。自分のように、最初からしなくてもすむ苦労はしない主義という環境の中で教育されると、まったく逆だから、もしかすると出身学校により人生観すら違うのだと不意に気づく。
それと、発展途上国だと、いまだに女の子は学校へは行かせてもらえないとかね・・・そういうのが普通だったりすると、どうして男の子だけにしか教育を受けさせてもらえないのかと思うと不公平な気がするけど。かといって、自分のように教育だけあっても、単に家で子育てをしているだけでは金をかけた意味はたしかに無いのかもしれない。かといって、無理に働いて、ぼこぼこにいじめられてもつまらないではないか・・・

しかも、歌壇の面白いのは、社会人と歌人とは違うらしい。短歌で食べているのであれば、それこそ職業歌人と呼ぶべきなのだろうか?
ヘンな社会。
まあ、ほとんどの人たちが職業は職業として別にあり、短歌は生活の糧を得る手段ではないために、「プロの歌人」という人たちが存在しているほうが奇異なのかもしれない。

本題だ。つまりは、ここはすごく重要なのだと思った。歌のパターンにも実は2通りある気がした。どういう歌が秀歌かどうかはほかのもっと詳しい人たちにお尋ねするとして、好みの問題として、役割を取り入れた歌とあくまでもそういう社会的な要素を排除した歌とは区分されなければならないような気がする。時事詠などはともかく、それ以外ではすごく自分というものにこだわるでしょ?短歌は。その自分の中に文学性を発見する。つまりはさりげない日常を客観視する。自分というものから離れて自分を眺めるというか、広い世界に重ねおくことにより解放される自己。でも、そういう中で、自分の担う社会的役割を歌にこめるか、それを外すかではまったく違う。ベクトルが違う。つまりは、純粋性を求めるならばあえて自分の役割・・・母、妻、その他諸々職業的バイアスなどを取り払うべきであり、それでいてそういうバイアスのある視点もヤギアイスのようで面白く、どこからどこまでが自己であるのか、その定義すら意識したこともなく、自分をアイデンティファイするものをどこにおき、おかないのかも人それぞれだから、おのずと自分を詠めなどと言われれば、その辺の意識の違いが発生する。

たとえば、女性解放などを詠いたい人からすれば、そのような視点から詠むほうが魅力的なんでしょうし、ジェンダーを訴えたいのであればさりげなくセクハラを盛り込んでしまうとか、ちょっとした日常。わずらわしい雑事から解放されたいのであれば、それこそ自然の美しさなどを詠うほうが楽しいのかもしれないし、日常といえばそれこそ家庭の話しかないというのもこれまた一つの日常だし、今さらながらに考える日常。
あたしとしては、日常などというものにはドラマなどないほうが幸せだと思うんだけど、どうなんだろう。ホーム・ドラマというジャンルもあるくらいだし・・・次第にババアになってゆくあたし・・・そんな歌のどこが面白いのかわからないけど、まあ、歌にもいろいろあるし、ドラマにもいろいろあるし、なんでもありいだから困ると思う今日この頃。果てしなき世界。

投稿者 Blue Wind : January 24, 2004 10:56 AM
コメント
コメントする









名前、アドレスを登録しますか?