December 31, 2003

大相撲取り組みあまたあることをK1に知る明日は正月

年越しをそば食みながら格闘技あっけなくも曙倒れ
ながながと準備したため当日のみじかきゴングあつまりし人
大相撲取り組みあまたあることをK1に知る明日は正月

投稿者 Blue Wind : 11:11 PM | コメント (0)

青い薔薇

空はばら青い薔薇だと君のいふ青いばらいろ空の色かな

ほらそこに巨大な虹が広がるよ
君が見たのはビルかい?虹かい?

青いバラ夢幻のものと言うのなら
ほら見てごらんこれがバラだよ

青い実のピンクの花びら名無しだよ
ほしかったのは名無しの花かい?

青とんぼ夢の世界に飛んでいる?
ほら見てごらんおちびと一緒に


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写実なんです。

9.11テロのあった日、お絵かき教室の帰り道、信号待ちしていた時に、台風の去った空に巨大な虹が立ち上がるのを見ました。あまりにも美しく、あんなに大きな虹を見たのは生まれて初めてだった。娘が、「お父さんにも見せたい」と何気なくつぶやいたのが印象的です。
その夜、実は世の中が大騒ぎしているということをテレビを見るまで気が付かないでいた。それくらい虹は美しかった。虹の話をしようと思ったら、主人にテロのことを言われて初めて大変なことになっているのを知った。

青い薔薇・・・・サイトの壁紙に使っていたことがあるんです、別のサイトですけど。でも、いつの間にか現実になってしまっていたようで、花屋をしているお友達が初めてセリで落としたというので写真をいただきました。

今年の秋、子ども会の引率で梨狩りへ行きました。そのときに子どもたちが騒いでいて、名前を訊かれたんですけど、生まれて初めて見る花で、土地の人なら知っているかと思ったのですが、梨園の人たちも知らないらしく、「学者じゃねえから知らねえ」と言われたらしい。

青とんぼは、今年の梅雨に初めて見ました。赤とんぼのようなとんぼで、背中だけがトルコブルーのように輝いていました。もしかすると筑波山のほうに生息しているのかもしれないと思ったのですが、何気なく外出しようとしたら、玄関のドアに止まっていて、鍵をかけなくちゃと思ったら空高くあっという間に消えてしまいました。
めずらしい蝶などもたまに飛んでいることもあるので、もしかすると地元の人なら知っているかと思ったのですが、今のところ青とんぼを見たのはそれっきりです。

青は自分にとっては特別な色なんです。

投稿者 Blue Wind : 05:06 PM | コメント (0)

幸せなことに

不幸という名の海原へ

さあ 行こう

悲しみという名の海原へ

鳥のように羽ばたく?

それとも黙って眺めているだけ?

流した涙の海原は

果てしないほど広い

闇はその広さを隠す

光溢れた輝く世界

それが不幸の海原

幸せなことに

泣いても泣いても涙は水滴

不幸の海原は広い

自分の涙で満たすことはできない

幸せなことに


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2001年に書いた古い詩。
詩だとどうして大袈裟になってしまうのだろう。
というか、この頃は短歌も大袈裟だったかもしれない。

最後の『幸せなことに』というフレーズは要らない気がするのだけれど、なければないで何となく言い足りない。
57577の、575が大半で、77の部分が『幸せなことに』という結語だけになってしまっているような・・・

投稿者 Blue Wind : 02:57 PM | コメント (0)

赤い花には毒がある?ないない・・・

内在化した自分の発露として、歌があるのかもしれない。
それを誰かに見せるという行為がすでに赤い花であるらしい。
大きなお世話だ。
つまりは、寂しいからたくさんの人に見てもらいたいらしい。
だったらいっそのことロートレアモン的毒素を含んだ歌のほうがマシかもしれないとも思う。

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人間、自分のことに精一杯だと気が付かないことが多いけれども、微笑みながら、「そんなことはあなただけじゃないわよ」と言われたとたん「なるほど」と思ってしまったことがある。

誰でもいいから自分のグチを聞いてほしい。
それだけ。
それだけのことに必死。
でも、考えてみたら、たしかに自分だけが大変なわけではなかった。

同情してほしいはずが、同情しなければならない立場になるほどやりきれないことはないかもしれない。すっきりしないという意味で。世の中は、どうして不幸な人だらけなのだろうと思いながらも、案外、世の中は平和であり、考えてみたら不思議な気がする。

軽やかに、「そんなのはあなただけじゃないわよ」と言い放った人は何も語らなかった。
今にして思うと、それがよかったのかもしれない。何となくそれで吹っ切れたという気もするし、自分が大変だと思うのは単に気分の問題なのかもしれない。

でも、いささか、飽きた。
何に飽きたかというと、不幸自慢に飽きてしまった。
他人の不幸自慢に付き合っているうちに、何となくすべてがどうでもいいような気になってしまう。
ゆきおんなと言われたこともある。理解してくれないとばかりに、自分のことに必死な人を相手にしているうちに、自然とそうなってしまった。他人をうんざりさせたいのであれば、一生懸命に不幸自慢をすればよいということも学んだ。

どうして自分が短歌を詠み始めたのかは何度も書いてきたけれども、どうして短歌なのかと問われると悩む。
詩でもいい。
どちらかというと、詩のほうが好きだ。
にもかかわらず、短歌を詠んでいる。

不思議。

言いすぎないというところが好きなのかもしれない。
舞い散る言の葉の世界で、来る日も来る日も誰かの不幸自慢に付き合っているうちに、会話というものが非常に面倒になってきてしまったのかもしれない。

それと、もともとが理屈っぽい。
理屈が飽和したとたんに、ポロッと何かがこぼれてくる。
何かボソッと言いたいだけ。
それが重なって、いつの間にか歌になっていっただけのような気がする。

慌しくも自分のことに必死な人の会話に付き合うよりも、何となく空でも眺めていたほうが幸せな気分になるというのと似ているかもしれない。喧嘩した後、ヘンに冷静になり、陽の光のせいで部屋の中が黄色っぽいとか、ヘンなことに気が付いたりする。

赤い花だと言われてしまった。
大きなお世話。

寂しいから歌を詠むらしい。
つまりは、寂しくなければ、ローカルにでもおいておけばよいし、一生懸命に自分の歌を他人に見せる必要はないらしい。
そうやって言われるとそうかもしれない。
でも、短歌って詩とはそこが違うような気がする。
一生懸命に自分を説明しようとするには、あまりにも言葉が少なすぎる。
それならば、自由詩のほうが書きやすいかもしれない。

結局、歌というのは、身近な人たちで交わされる文(ふみ)だったということがわかる。
要するに、たくさんを語る必要がない。見知らぬ人に対してはたくさんの言葉が必要となることでも、知っている人なら多くを語る必要がない。単に独り言なのかもしれないし、身近な人への独り言なのかもしれないし、たくさんを語りたくない時に存在している内在化した声。

内在化した自分の発露として、歌があるのかもしれない。
それを誰かに見せるという行為がすでに赤い花であるらしい。
大きなお世話だ。
つまりは、寂しいからたくさんの人に見てもらいたいらしい。
だったらいっそのことロートレアモン的毒素を含んだ歌のほうがマシかもしれないとも思う。
つまりは、そういう傾向が近頃の歌にはあるような気がする。
毒の歌を詠んだほうがリアクションがあるからかもしれない。
それでいて、何となくそういうものにも飽きた。
ニューウェーブや前衛短歌という毒素にもパワーが欠如してきてしまったのかもしれないし、世の中全体が毒にまみれてきてしまうと、そういったものがものめずらしさを失い、いささかうんざりしてくるものなのかもしれない。

一つ二つの毒ならば大したことはないかもしれないけれども、このところ読みを続けているために、あまりにも毒があるものを読み続けると、なんか何も感じなくなってきてしまう自分がおそろしい。それよりもたしかに何気ない日常の歌に、自分とは違った世界を発見すると、何となくホッとする。
ああこういう生活もあるのだな・・と。

でも、それもゆきすぎると川柳になってしまいそうだ。

ほんとに、どうして短歌なんでしょうね・・・
わからない。
自分でも。

投稿者 Blue Wind : 03:28 AM | コメント (0)

December 30, 2003

かすれゆく鈴木重子の声をきく月夜はひとりボリュームをあげ

留守番をだれかに頼んで出かけたい冬の晴れ間の透きとほる日は
白猫のあしばや過ぎる窓のそと薄紫の雪の光れり
プランター置き去りされた雪帽子冬の夜の月冴えわたるかな
極月のあわただしきも休息にしづもるつくば帰省の季節
年末のCDショップの混み具合水曜日かと間違えにけり
店先のまばゆき光うつすらと空を覆へり月だけの夜
かすれゆく鈴木重子の声をきく月夜はひとりボリュームをあげ

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ボツにしろよ・・・

そんなこと忘れちゃつたと言い放つわたしたち今とても仲よし

投稿者 Blue Wind : 01:44 AM | コメント (2)

December 29, 2003

風の中の白猫

それは首に鈴をつけられてしまった猫状態というか、修道院の猫を自称する私だけれど、特にクリスチャンというわけではないと思う、つまり洗礼を受けていないという意味で。クリスチャンという自覚の欠如したままに、自分という潜在意識の中、つまりは行動体系や価値観というものの中にはそれとなくカトリシズムのようなリズムがあるような気がすることがある。どうしてそう思うかというと、逃げても逃げてもそこへたどりついてしまうからであり、自分の魂というものの逃げ場なのかもしれない。

それとは別に、我が家の庭へやって来る気まぐれな猫がたまたま真っ白な猫であるために、近頃、「しろねこ」というハンドル名を使うようになっている。どうして「しろねこ」かというと、もともと自分は猫など好きではないにもかかわらず、何となく彼女?の姿を見ていると自分に似ているような気がするからだ。

裏の奥さんが飼っているというのだけれど、彼女は非常に気まぐれであり、不意に現れたかと思うとしばらく姿が見えない。すでに死んだかもしれないと思ったら突然現れる。残り物を出しておいても食べない。「キャットフードしか食べない」と裏の奥さんが語っていたために、実際、そうやってどこかで飼われていたのかもしれないし、今でもほかの家でも飼われているのかもしれない。わざわざその猫のために、鯵を出したりしても一切食べないらしい。
なんて贅沢な猫だろう。

たまに、庭のドアをカリカリしながら家の中に入りたがる猫がいる中で、彼女は決して家の中には入ろうとはしない。人の気配がすれば逃げる。どこかで飼われているはずなのに、いつまで経っても野良猫。
ちなみに裏の家でも、家の中では飼わない。
それでいて、彼女は自由だ。
裏の奥さんがたまにグチをこぼす。うちの庭のほうが日当たりがよいから、うちの庭で寝ているらしい。飼い主のところにもあまりいない。
それでいて、彼女が汚れている姿を見たことがない。

いずれにせよ、ウッドデッキで寝ているだけだし、追い出しても勝手にやって来るし、野良なのにいつの間にか裏の家で飼われていることになっているし、家の中にまで入って来るわけでもないし、餌を出しておいても食べないし、「勝手にしろ」と思ってしまうところが何となく自分に似ている気がする。

考えてみたら、それこそ最初の頃は犬だの猫だのあれこれやって来たけど、今では彼女がたまにやって来るだけ。それもまた不思議かもしれない。猫の世界のことはわからないけど、何かそういうテリトリーでもあるのではないかとすら思ったりもする。でも、姿が見えない時のほうがずっと多いのだから、考えてみたら不思議な猫。すでに、6年くらい我が家の庭へやって来ているわけだから、それなりに長生きもしているのだろう。もしかするとオスかもしれないけど、それすらもよくわからない。でも、メスという気がする。

ネット歌人を自称する自分だけれど、とうとう「塔」のサイトにもリンクされてしまった。
(小林信也さん、ありがとうございます。)
おもむろに、本当によいのかと思ってしまう。まだ、結社誌にも投稿したことがないし、帰属意識も乏しい。歌もまだまだ下手。なんか、申し訳ないような・・・
まあ、しもじもはあまり深く考えなくてもよいから、気楽といえば気楽。
でも、末端なりに看板ってあるからな。

九里さん騒動というのがあって、知らないうちに時空短歌が解散し、気が付いたら誰もいなくなってしまっていた。
自分は時空に対して、メンバーシップをもって活動していたことは一度もない。
逆に、それがかったるいから一人にしてくれとは何度も繰り返してきた。
だから、未だにそういう個人主義的な印象があるらしい。

そのようにして考えると、自分はいつから歌人になってしまったのか不明だ。
おそらくは初詠みの歌が存在するわけだから、もしかするとその時点で歌人になったのかもしれないし、当時はネット歌人ではなく「にわか詩人」とか「にわか歌人」と自分のことを称していたために、そのうちやめるだろうと思っていた。
サイトにイラストを使いたいというだけで詠み始め、気が付いたら「それは短歌ではない」などと言われて、「短歌なんて誰でも詠める」と言いたいだけで続けてきた気がする。「偉い先生に選ばれるより云々」と言われれば、天邪鬼だから雑誌に投稿してみたり。あっさり入選。気まぐれで天邪鬼。
「ちょっとやってみよっかなー」という発作。

挑発に乗るからさ・・・ややこしいのさ。
誰かと誰かが喧嘩して、「あの人がいるから私はイヤだわ」ってなる。
それも道理。
そこで相手を追い出そうとするか、自分が逃げ出すかはまさしく性格の問題なんだと思う。
自分は、あっさり語れば逃げるタイプ。
相手を追い出すということは、自分がそこに繋がれてしまうことを意味する。
こんな愚かなことはない。
つまりは、自由がない。
となれば、逃げたほうがマシだ。
逃げた側は戻れるけど、追い出した側はどこにも行けない。
そして誰もいなくなる。

そんなこんなを考えながら、すべては流れとしか語れない。

結社の場合は、とりあえず入会申し込みをして会費を納入しているということは、つまりは帰属の意志というものがあるからであり、それでいて、何もしなければずっとそのまま。行動すればリアクションがある。それに対する自分の責任というものも生ずる。ネットとはそこが違う。

こう・・・逃げるのは簡単なのよね。
やっぱり、ネットでぴーちかぱーちかりんほととぎすをしているほうが気楽だし・・・
それでいて、つまらない九里さん騒動もピタッと治まってしまった。
なんせ去年の10月から1年以上だもの・・・
その間自分の知らないところで勝手にあれこれ疑心暗鬼で言われていたみたいだし、そういうものも払拭したい。
つまりは、自分の言葉というものを実証するために行動している。

それでも詩や短歌に明け暮れる毎日だ。
あれにこれにと勉強しようと思うだけで日が暮れる。
今の課題は、読みに慣れることかもしれない。
今の二倍のスピードで読めなければ追いつかない。
瞬読というか、一瞬にして読めなければ間に合わない。
自分の歌を詠むスピードで歌が読めないと。

風だから・・・

投稿者 Blue Wind : 04:31 AM | コメント (0)

December 28, 2003

中也と昼夜と宇宙 --- 愛こそすべて ---

愛こそすべてなすがままに
時を自由に刻みしは全知全能の神なれど
そは不可能と知りつつも
誰しも戸惑う夕暮れに虹はそよぎて風となり
風は今日も叫ばん 

誰がための愛なのか
汝多くを語るまじ
汝多くを語るまじ

愛こそすべてなるがままに
我が身燃ゆるぞ苦しみに永久の怒りに身を委ね
遥か通いし遠き道
誰しも嘆く悲しみに戦いは遥かなり
風は今日も忘られん

誰がための愛なのか
風は叫びて木霊する
風は叫びて我を呼ぶ

風の叫びに応えてか聖心なるまま風はなぎ
共にそよぎて虹となり
光で闇を包むため
愛はやがて慰めとなり夕暮れの中
落ち日は輝き夜は暮れ
星は遥か傍にあらん

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これは、『愛はすべてを征服する』というラテン語にインスパイアされて、発作的に書いてしまった詩です。

投稿者 Blue Wind : 03:50 PM | コメント (0)

December 27, 2003

天国で父に出逢つたときのやう温もりのなかむかへられしわれ

天国で父に出逢つたときのやう温もりのなかむかへられしわれ
炎中くべられる薪あかあかと燃ゆる火種の起こしがたきよ
ヤギ・アイスちょっとクセのあるやうななさそうな味くせになるやも
一滴のバニラ・エッセンス入れるだけほんわりかほる時間の過ぎる
ルナティック呼ぶが悲しき雪解けの庭かげ白き三日月の夜

投稿者 Blue Wind : 11:52 PM | コメント (0)

座談会風---『ネット歌人あれにこれに』

『まずはメディアというか、活字としての情報伝達というものを考えてほしいのです。養老毅さんもおっしゃっていましたが、人間は移ろうものだけれども、文字は情報として残る。つまりは、変わらず伝えられるものは「文字」なのです。そういう意味で、素晴らしい先人がやってきてくださるというのは、文字を通してやってきてくださるわけだから、リアルタイムなお付き合いではなくても伝えあうものがある。つまりは、古来の文献などもそうやって文字にすることにより記録されてきたわけで、今はさらにインターネット、電子文字の時代。それを活用することは素晴らしい試みだと思います。』


『しろねこの**「銀河・時空」通信**は、今のところ例の如く発作でカテゴライズしてしまったばかりだけど、ネット歌人としては、これからのメディアとしてのインターネット活用とか、詩や短歌に対する皆さまのアプローチの仕方とか、同じような立場にある人たちの共通の悩みなどを掲載していこうと思っています。やはり、箱を自分で使ってみないとわからないことってたくさんあるし、これからはどんどんそういう人たちが増えるし、少しでもお役に立てるとうれしいですよね。広く世界に向けて、コツコツ地味にやっていこう・・・・  というわけで、九里仙人のグチ・・・つまり、そういう第一線で活躍している人たちが銀河にやってきてくださるかどうかは、ハイパーリンク次第なのでしょうし、そういう人たちだけではなくネットや歌を始めたばかりの人たちやそれ以外の人たちでも等しく楽しく交流できるサイトの構築が現在の皆が共通して抱える問題なのかもしれません。山は険しき。』


『原裕さんのサイトでも、相聞歌は憧れって書いてあったからなあ。どこか潜在的にそういうものを求める風潮はあるのかもしれないですね。自分の傾向と対策としては、そういうのは架空の人たちとやりとりするより、堂々と自分のサイトに掲載したいものだけど。それか密かに詠むとか(笑)。でも、今の銀河みたいな一行詩のような感覚で短歌を投稿している同盟の板などにはよく遊びに行っています。単にしりとり短歌の世界なんだけどね。楽しいよ。
結局、「バーチャルという架空の世界の人形を偶像化して相聞歌というのがやりとりされている = 一杯飲み屋BBS」ではないかなと思ったりしたので、恋にゆらゆらしている想いなどをなんとなく落としどころとして皆で歌にしているというか、そういう想いの共有ということと偶像崇拝が一緒くたになるから困るわけで、やっぱ、こう、「場所柄」なんだと思いますね。どこの誰かわからない、だけど、つぶやきだけが重なるというほうが自分的には気楽という意味で、同盟を利用したりしているんですけど。』


『来年からは、どんどん結社誌のほうにも発表していこうと思っているし、今年はようやくランキングや検索・ウェブリングからの来訪が増えてサイトが軌道に乗ってきたばかり。ネットから結社へ行ってしまうと、サイトは放置してしまう人も多いし・・・
ブログは過酷だから・・・いつまで更新を続けられるものやら・・・

結社のほうが人間味があって(当たり前か・・)、人間があたたかい。
自分は軽いから、ネットも続けるだろうけど・・・ネット一本でがんばっちゃう人もいるだろうし、かといって、「結社の歌とは雰囲気が違うけど、新しい風としてどんどん投稿してください。そうすればそれに影響を受けて云々」という世界だから・・・・なんか平和であたたかい。』

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『銀河交流新聞BBS』への投稿の抜粋

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◇継続は力なり

古来より中国の漢詩にもあるように、「継続は力なり」「石の上にも三年」・・・。
ここに来て銀河もその方向性を探ってるのかも分らないのだが、余りにもその矛先が変っている。
銀河交流新聞には、時空がそうしてたように、早く銀河に集う皆さんのサイトをリンクすべきだ。
ここに来て、銀河もその行くべき処を見失った感がある。
早く一日も早くその路線をしっかりと敷くべきだ。
長年培って来たノウハウをどうしてここに来て断ち切ってしまうのだろうか。
銀河の行く先を案じて止みません。

九里仙人 --2003年12月24日(水) 05:49 --URL [161]


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九里仙人 >> 時空精神とは、どういうことであったのか。今一度考え直して見たいものだ。--2003年12月24日(水) 05:51 [162]
しろねこ >> というかさ・・・・銀河の場合、どこをリンクしたらよいのかわからないでしょ?ちょっと隠れ家的に使っているから、どうでもいいんだけどね。--2003年12月24日(水) 11:17 [163]
しろねこ >> 銀河・時空以外で、銀河のページをリンクしてあるサイトってあるの? 時空はメンバーシップ的にはすでにお蔵入りでしょ? 時空から階段を下りてくるような雰囲気なのよね。*「時空・銀河」通信*というカテゴリーはつくったんだけど、時空以外にはハイバーリンクは貼ってないし。特に意味はないんだけど、今、検索・サーチ・ウェブリングからの来訪者がメインだから。BBS投稿による来訪者集めというのは投稿する場所にもよるから慎重に考えています。--2003年12月24日(水) 11:34 [164]
九里仙人 >> 銀河をリンクしてるサイトなんて他にはないんだよ。今旧時空の皆さんも思い思いのことをやってるし。一体どのように収拾が着くのかが心配なのよ。--2003年12月24日(水) 11:51 [165]
九里仙人 >> しろねこさんが、やってた時の時空の時の方が余程魅力があったよねぇ。--2003年12月24日(水) 11:52 [166]
九里仙人 >> 今世の中は、光に移行しようとしてる。地上デジタル放送だってしかり。色んなブロードバンドを光では、無料提供してる。かっての映画だって無料で見られるのだから。今後銀河の何処に魅力を発揮出来るのかは疑問符だよ。--2003年12月24日(水) 11:56 [167]
九里仙人 >> ラサちゃんだって、銀河をどう考えてるか分らないし。ラサちゃんは、今ゲームに凝ってるけど。一度分散してしまったメンバーが果たして銀河の何処に魅力を感じて戻って来てくれるかが分らないよ。--2003年12月24日(水) 11:58 [168]
九里仙人 >> これからは、やはり自分の気があった人同士がネットを通じて交流を深めて行くしか道は無いのじゃないかなぁ。そんな気がするよ。--2003年12月24日(水) 12:00 [169]
九里仙人 >> 私もラサちゃんも一時は、時空におさらばをしようと真剣に考えたことがあるんだよ。--2003年12月24日(水) 12:01 [170]
九里仙人 >> やはりrocky路線と今のまりちゃんが目指してる銀河の方向が違うような気がするよ。--2003年12月24日(水) 12:03 [171]
九里仙人 >> 短歌・詩歌にしても、日本古来からすばらしい方が見えるし、そのような方達は大よそ銀河には寄り付かないだろうし。--2003年12月24日(水) 12:05 [172]
九里仙人 >> 一体銀河の将来方向は?と聞かれると今明快な答えが出ないだろうよ。--2003年12月24日(水) 12:06 [173]
九里仙人 >> 私も、今それで頭を悩ませているところなんだ。--2003年12月24日(水) 12:06 [174]
しろねこ >> メディアとしてのネットというか、「インターネットを通した歌人同士の交流」というのが次世代の歌壇の課題らしいですから、ネットから結社へ、結社からネットへ、というふうにどんどん世の中が変化しているようで、たまたまそういう時流の中に自分が存在しているわけで、そういう中で、時空や銀河がどういう役割を担っていくかはこれからが楽しみですが、現段階だとあまたある同人系のサイトの一つという位置づけとして、自分のサイトでは扱っています。--2003年12月24日(水) 12:14 [175]
しろねこ >> ラサ時空は、どちらかというとガイアックスのシステムを利用したウェブの交流だったと思うんです。佐々木幸綱さんの言葉を借りると、「カラオケ歌壇」というか、『サラダ記念日』の影響からか短歌へのアプローチが変わってきたために、短歌の大衆化というか、それこそ誰でも簡単短歌の世界ですから、最初にガイアのBBSを閉鎖した時、ラサちゃんに言ったんですよ・・・「一杯飲み屋BBSはかんべんしてくれ」って。それで、自分としては細々と気の合う人とだけしか実際には時空の中でも短歌の交流なんてなかったし、自分の短歌BBSに投稿する人も時空の人とは限らないし、実際にはガイアックス系やポエムリングからの来訪者の投稿が多かったのではないかな。--2003年12月24日(水) 12:25 [176]
しろねこ >> 初期時空はよかったのよ。そういういろいろな人の歌をまとめてアップして喜んでいたでしょ? ところがそのうちに、個別にコンテンツをつくりだしてからややこしくなりはじめた気がするのです。歌人リストをつくったり・・・だから、大衆路線なら大衆路線で、みんなの短歌を宇宙に上げようということで、気楽な投稿というほうが気楽かもしれないよ。投稿する側もつくる側も。--2003年12月24日(水) 12:30 [177]
しろねこ >> 歌会って近くでやってないからまだ行ったことないけど、厳しいわ。それこそ一字についてあれこれでディスカスする世界だから。その分、勉強にはなるでしょうけど、ある程度、実力のある人じゃないとつらいかもしれない。その点、もっと広くやさしく誰にでもという具合にブルーノート(わかるかな・・)みたいなほうがウェブには合っている気がする。--2003年12月24日(水) 12:38 [178]
しろねこ >> 歌として読んでいておもしろいのはやっぱり一首にかける意気込みのある人の歌だし、そういう交流も楽しい。・・・・・・・・・だからね、交流という点で自分が慎重になってしまっているというのは、そういう真剣勝負のできるお友達は短歌には限らないし、たくさんの恵みを与えてくれる。でも、そういう交流とサイトとはまた違うらしいし・・・--2003年12月24日(水) 12:45 [179]
しろねこ >> 結社誌を読んでいてね、80歳になって何十年も短歌を詠んでいらっしゃった人が図書館へ行って、歌集を写本しているという話があった。旧い歌人の歌集はもう絶版だし、それでいて丹念に書き写しているらしい。そうやってまた自分で歌を勉強していらっしゃるらしい。脱帽。--2003年12月24日(水) 12:52 [180]
しろねこ >> カラオケ歌壇もそれなりに楽しかったけれども、自分としては今は少し真面目に勉強したいという気持ちが強くなった。何十年かかけてコツコツ歌を詠んでいったり、時間があれば好きな詩人や歌人の歌をアップしていくこともできるかもしれない。すでに斉藤茂吉も釈超空の歌も著作権切れしたからこれからどんどんそういう歌がネットにも出てくる可能性がある。今は、コツコツ中原中也の詩を気分で詩歌集にアップしています。--2003年12月24日(水) 13:07 [181]
しろねこ >> 日本古来からの素晴らしい人たちは、あちらからはやってきてはくださらないかもしれないけれども、こちらから近づくことにより時空の彼方から銀河へ来てくださる。これからの人たちはカラオケ歌壇でも機関銃歌人でもよいから、それもまた今の時代なのかもしれないし、良質のものを提供していけば以前よりももっと活性化されたサイトへ移行する可能性は高いと思います。ハートよハート。--2003年12月24日(水) 13:15 [182]
九里仙人 >> つまりは、日本の漢詩にしてもしかりなのよ。奈良・平安・鎌倉・室町・徳川・明治・大正・昭和・平成と受け継がれてるけど、それぞれの時代でその時代を反映したすばらしいものがあるのよ。--2003年12月24日(水) 14:05 [183]
九里仙人 >> 今私が俳句でお付き合いさせてもらってる人は別として、今ネットでそれだけの技量を持った人が気安くこちらのWEBにお付き合いをしてくれるかどうか疑問なのよ。苦労してようやっと来てもらってもこちらが対応出来ないかも分からないし。--2003年12月24日(水) 14:07 [184]
九里仙人 >> 今風に言うと、ドクター・中松さんがそうだと思うんだ。中松さんの講演を聞いたことがあるけど、フローッピィデスクの考案者だと言うけど、東京都知事選でのあの惨敗ぶりから見ても一般市民にはあまり関心が無いのよ。--2003年12月24日(水) 14:11 [185]
九里仙人 >> だから、これからは、如何に自分をネットの中で上手く売り出すことが出来るかどうかに掛かってると思うんだ。--2003年12月24日(水) 14:12 [186]
九里仙人 >> さも無くば、自分の気の合った人達と密かにお付き合いするのが得策かも。大きく銀河と言う風呂敷を拡げて見ても果たして何人の人が賛同してくれるかが、問題なのよ。--2003年12月24日(水) 14:14 [187]
しろねこ >> 話を整理しますね。まずはメディアというか、活字としての情報伝達というものを考えてほしいのです。養老毅さんもおっしゃっていましたが、人間は移ろうものだけれども、文字は情報として残る。つまりは、変わらず伝えられるものは「文字」なのです。そういう意味で、素晴らしい先人がやってきてくださるというのは、文字を通してやってきてくださるわけだから、リアルタイムなお付き合いではなくても伝えあうものがある。つまりは、古来の文献などもそうやって文字にすることにより記録されてきたわけで、今はさらにインターネット、電子文字の時代。それを活用することは素晴らしい試みだと思います。--2003年12月24日(水) 14:34 [188]
しろねこ >> 具体的にお付き合いを望むのならば、ネットではなく結社へ行くべきです。大学の講義へ出席するとか、お話のためにアポをとるとか。--2003年12月24日(水) 14:37 [189]
しろねこ >> それこそ懇親会や歌会なども盛んに主催されていますから、結社へ入ったほうが簡単だと思うよ。特に、日本社会においては。--2003年12月24日(水) 14:41 [190]
しろねこ >> はっきり言うけど・・・・・・自分としては、例えばBBSなどを通して日常を共有するような疑似付き合いとか、気楽なやりとりというものにはうんざりしているので、銀河がもしもそういう形になるのであれば(まず無いとは思うんだけど)、距離を開けたいという気持ちが強いです。俵万智さんが帯文の中で、佐々木さんの本を紹介していましたけど、大学の講義の中で歌人としての彼女が誕生した。そのエッセンスが書籍の中にあるから買うわけで、ネットに求めるものが違うんだろうな・・・それぞれに。だからこそ、まりさんにもはっきりしてほしいんだけど・・・・・どうなんだろう?--2003年12月24日(水) 14:49 [191]
しろねこ >> 自分としては、九里さんがおっしゃるような個人的な交流については、ガイアックスのサイトを利用するとか各人で活動するべきであって、ここって出会い系(広義での)のサイトではないでしょ? それよりも、せっかくワザがあるのだから、サイバー上には良質のものを提供していくべきだと思うけど。それに賛同する人が少数であってもそれはそれで・・・仕方が無い。--2003年12月24日(水) 15:04 [192]
しろねこ >> わたくしなどは、タグの一つも知らない頃からお世話になっているわけでして、募金バナーの普及とか、これはよいと思ったら勝手に真似するし、これは気が乗らないと思ったらお断りするし、習ってしまった以上はコツコツと自分でやろうと思うことを続けていくしかないわけで・・・・(はっきりしろ!>銀まり)--2003年12月24日(水) 15:08 [193]
九里仙人 >> うん!そうなんだよ。私も学生時代京都にあって、お茶会とか講演会に参加したことがあるけど、実際人と人とのお付き合いとネット上では違うんだよねぇ。千宗室さんにもお会いしたけど、夫々のところで自分のところしかないカラーがあるんだよねぇ。宗室さんは、有名な言葉”一期一会”を言われてるけど、今銀河にはそういったうたい文句が無いのよ。--2003年12月24日(水) 15:23 [194]
しろねこ >> 結論: 一杯飲み屋BBSの世界だったらかんにんね。にげるしろねこ。  →ラサちゃんと九里さんとその他の人たちでがんばる。--2003年12月24日(水) 15:25 [195]
九里仙人 >> 今OCNでもCAFEと言うのがあって、気心のあった人達が楽しくやってますよ。--2003年12月24日(水) 15:31 [196]

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◇運命共同体

世の中やはり技術が支配する。
インターネットの世界では、富士通と住友電工が夫々の持ち味を生かして運命共同体を構築する。
何百億円と言うこの世界!
しかし、これを使いこなすのは、やはり人間なんだ。
光と言えども人間が考え出した世界なのだ。
これからは、技術研鑽に邁進して、世の中に少しでもお役に立つ情報を提供するのが、銀河の役目だと思っています。
これが、時空精神でもある。
短歌・詩歌はしかり、世の中に今存在しないようなものを見出すのが、銀河の使命と考えています。
恋物語でも良い!
ここに集まる皆さんが、夫々に楽しく・仲良く自分の感性を発揮してくだされば光栄だと考えています。

九里仙人 --2003年12月25日(木) 08:27 --URL [197]


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九里仙人 >> 年明け早々からは、こういう路線に沿って運営して行きたいと思っています。--2003年12月25日(木) 08:29 [198]
しろねこ >> 朗報>> メリー・クリスマス〜☆  小林信也さんとniftyの短歌のフォーラムに個人のページとしてしろねこのページがリンクされました。これでようやく自分も歌人の端くれとして世の中に認められたような気がしてうれしかった。来年の2月で歌を詠み始めてまる3年になります。心を新たに今まで以上によい歌を追求していきたいと思います。--2003年12月25日(木) 10:48 [199]
しろねこ >> 来年は、そういう歌人同士の交流を目指して、ほかのサイトにもアプローチしてみようと思っています。いい加減に結社誌のほうにも投稿して、掲載される歌とされない歌との違いを自分で考えるというのが投稿する意義の一つでもあるらしいので、腰をすえてがんばらないと。今年はそれどころではなかったし、なんせ作歌歴10年、20年、50年、それ以上、万葉集から1300年、結社ができて100年の世界だから、半年間結社誌を拝読するだけで過ぎてしまった。サイトもつくりたいと思っていたし・・・つくった以上は更新しないと。コンテンツがないとね・・・  一年なんてあっという間だけど、来年は飛躍の年になるといいね。元気だしてがんばろお!--2003年12月25日(木) 11:19 [200]
しろねこ >> しろねこの**「銀河・時空」通信**は、今のところ例の如く発作でカテゴライズしてしまったばかりだけど、ネット歌人としては、これからのメディアとしてのインターネット活用とか、詩や短歌に対する皆さまのアプローチの仕方とか、同じような立場にある人たちの共通の悩みなどを掲載していこうと思っています。やはり、箱を自分で使ってみないとわからないことってたくさんあるし、これからはどんどんそういう人たちが増えるし、少しでもお役に立てるとうれしいですよね。広く世界に向けて、コツコツ地味にやっていこう・・・・  というわけで、九里仙人のグチ・・・つまり、そういう第一線で活躍している人たちが銀河にやってきてくださるかどうかは、ハイパーリンク次第なのでしょうし、そういう人たちだけではなくネットや歌を始めたばかりの人たちやそれ以外の人たちでも等しく楽しく交流できるサイトの構築が現在の皆が共通して抱える問題なのかもしれません。山は険しき。--2003年12月25日(木) 11:53 [201]
しろねこ >> 蛇足>> 原裕さんのサイトでも、相聞歌は憧れって書いてあったからなあ。どこか潜在的にそういうものを求める風潮はあるのかもしれないですね。自分の傾向と対策としては、そういうのは架空の人たちとやりとりするより、堂々と自分のサイトに掲載したいものだけど。それか密かに詠むとか(笑)。でも、今の銀河みたいな一行詩のような感覚で短歌を投稿している同盟の板などにはよく遊びに行っています。単にしりとり短歌の世界なんだけどね。楽しいよ。--2003年12月25日(木) 12:26 [202]
しろねこ >> 結局、「バーチャルという架空の世界の人形を偶像化して相聞歌というのがやりとりされている = 一杯飲み屋BBS」ではないかなと思ったりしたので、恋にゆらゆらしている想いなどをなんとなく落としどころとして皆で歌にしているというか、そういう想いの共有ということと偶像崇拝が一緒くたになるから困るわけで、やっぱ、こう、「場所柄」なんだと思いますね。どこの誰かわからない、だけど、つぶやきだけが重なるというほうが自分的には気楽という意味で、同盟を利用したりしているんですけど。--2003年12月25日(木) 12:39 [203]
九里仙人 >> うん!それは良いことなんだ!私も創作短編小説・長編小説・短歌クラブに入っています。--2003年12月25日(木) 13:23 [204]
九里仙人 >> 短歌の方は、50首詠んで始めてメンバーに入れてもらえるのですが、未だ50首まで行っていません。今朝も督促のメールが入っていましたが・・・。色んなジャンルにチャレンジして良いところを銀河にお誘いしようと思っています。--2003年12月25日(木) 13:25 [205]
しろねこ >> あれ? 九里仙人さんは、もっとたくさんの歌があるような気がするんですけど、単にご自分のサイトにはアップしていないというだけのことでは?--2003年12月25日(木) 22:10 [206]
しろねこ >> 57577は中学生のサイトが結構あったりして(笑)。可愛く恋の歌などをアップしてあったりすると、微笑んでしまう。それでね、失恋の歌などをさりげなく投稿してみたくなったりするんですよね(笑)。そうとわからずに、さりげなく・・・・--2003年12月25日(木) 22:49 [207]
しろねこ >> それで、日常のホットな歌を投稿すると、その後に不倫の歌などが連続して投稿してあったりして。結社誌だとそういうのはボロカスに言う人たちが多いかも。恋歌ばかりだと、「そんなのはアンタだけじゃないわよ」とか言いたくなるらしい。だから、ネット歌人は詠みすぎとか言われてしまう。真中朋久さんの、「森のうへにほかりと白い雲があるあなたを支配してはならない」くらいがちょうどいいかも。--2003年12月25日(木) 22:59 [208]
九里仙人 >> うん!あることは、あるんだけど いま歌集の皆さんがどういった歌が好みなのか探っているのよ。だから、小出しにしてるんだ。--2003年12月26日(金) 05:24 [209]
九里仙人 >> ガイアで付き合ってる人で、そのお子さんが高校生の人がいるんだけど、恋についての話が出て来ないのは寂しいと言ってるのよ。それも親の欲かも分らないけど、多分大学に行かせようとなさってる矢先に恋など出て来たら大変だと思われているのかも分りません。--2003年12月26日(金) 05:27 [210]
九里仙人 >> ガイアとかジオでも結構すばらしい方がお見えで30万〜50万ヒットされてる人達はどこか違うんだよね。--2003年12月26日(金) 05:29 [211]
九里仙人 >> 短歌部門では、ラサちゃんもリンクしてる”短歌ウエブリング”ってあるんだよね。ここに若い人達がいっぱいリンクしてて中々すばらしい短歌を詠んでるよ。それを見るだけでも楽しいよ。--2003年12月26日(金) 05:45 [212]
九里仙人 >> 今も短歌ウエブリングに行って来たけど。短歌を本格的にやるのだったらここが一番だよ。NHK歌壇にも優勝した人がいるよ。しろねこさんもここでやって見たら?--2003年12月26日(金) 06:30 [213]
しろねこ >> うちのサイトのナビバー(笑)>> http://bluewind.oops.jp/links/1.htm--2003年12月26日(金) 10:04 [215]
しろねこ >> でもね、同じようなサイトが並んでいるよ、結局、どこのウェブリングも。それで、いくつか同盟を探しているんだけど、これも好き好きがあるから。九里さんはのどかでええのう・・・・--2003年12月26日(金) 10:06 [216]
しろねこ >> 一つわかったのは、歌人はたくさんいるけれども、5%未満、ご自分のサイトをつくっていらっしゃるのは。それよりもライトタッチで57577を楽しんでいる人が多いから、詩や短歌は中学生や高校生が多いんだと思うよ。親はサイトには来訪してはダメらしい。--2003年12月26日(金) 10:14 [217]
しろねこ >> だからね、母さんはかっこよくないと。娘や娘の友達からみて、母さん(あたし)みたいになりたいって言われている。それだけのために老体にむちうって生きているような気がするくらい。--2003年12月26日(金) 10:26 [218]
しろねこ >> 「アンタが恋なんて100年早いわよ」って思春期の娘に言える母でありたい(笑)。角つけあって母子って〜、似たもの同士とちびが言い。(実際には喧嘩なんてしたことないけどね、ほとんど。電気がぱちぱちっと飛ぶからでせうか・・・)--2003年12月26日(金) 11:00 [219]
九里仙人 >> やはりねぇ。親子の縁は深いもの。自分が教えないこともちゃんと会得してる。--2003年12月26日(金) 11:14 [220]
九里仙人 >> でも、所詮ネットではそこまで分かり合える人は少ない。--2003年12月26日(金) 11:15 [221]
九里仙人 >> 宮城県に住んでおられる方は、日本福祉教会のお仕事の傍ら俳句をなさってますが、実にすばらしい方です。クリスチャンでもあるのですが。やはりクリスチャンには良い方が多いように思います。娘もカトリックで結婚式をしましたが、日本に帰化した神父さんだった。あまり流暢な日本語では無かったけど皆の嬉涙を誘うような言葉が端々に伺われた。--2003年12月26日(金) 11:21 [222]
九里仙人 >> 来年のことを言えば鬼が笑うと言うが、今朝もNHKテレビで今日本で活躍なさってる若い女性三人のインタービューがあったが、三人が三人とも自分を如何に充実させるかがこれからの生きて行く道だと言っていた。--2003年12月26日(金) 11:24 [224]
九里仙人 >> 芹さんだって、いみじくも言ってらっしゃる。「自分の中にある自分に如何にして勝つことが出来るか」と。人間は欲が深い動物なのです。欲をつっぱってばかりいたら道理が引っ込むと言われているでしょう。だから、如何に中庸の心を保つかということなのですよ。--2003年12月26日(金) 11:27 [225]
しろねこ >> せりさんって、いっつもあんなに難しいことを言っているのかしら?ネットだから?そこが知りたいんだけど・・・--2003年12月26日(金) 11:40 [229]
しろねこ >> ネットで人付き合いを敬遠するようになったのは、ぜんぜん実際の人とは違うようなネクラっぽいタイプの人が多いから。面と向かっては言えないから箱に向かっているらしいよ、そういう性格の人たちは。銀河って、陰だよね。--2003年12月26日(金) 11:45 [230]
九里仙人 >> ちゃうちゃう!芹さんは、エッチな人とも付き合うんだよ。--2003年12月26日(金) 12:15 [231]
九里仙人 >> 芹さんは、ネアカな方で何にでも興味を示される人なんだ。私とは源氏物語・平家物語で考察のやりあいをやるんだよ。とても良い方なのよ。--2003年12月26日(金) 12:18 [232]
九里仙人 >> ネットで付き合っていても方の凝らない方なんだよ。芹さんは・・・!--2003年12月26日(金) 12:18 [233]
しろねこ >> サイトって一体なんなんでせう・・・?--2003年12月26日(金) 15:12 [235]

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◇新年の抱負!

今日本の世情が随分昔と変って来た。
終身雇用制度が廃止されて個人の能力主義に変って来ている。
各人の持ってる力がこれからは大いに試される時代なのだ。
やはり自分の能力を最大限に発揮しなければならない時代なんだ。
これは、漢詩・短歌・詩歌の部門についても同じことが言える。
如何に自分を他人にアピール出来るかによってその人の価値が変ってくる。
従ってお互いの足りないところは補いあい、自分が優れてると思うことは、他人に容赦なく与えると言う姿勢が大事な世の中になって来ている。
そういった面からも、私は最大限努力して行きたいと思っていますので、よろしくお願いします。

九里仙人 --2003年12月26日(金) 09:17 --URL [214]


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しろねこ >> なんか、勉強や仕事に明け暮れてきてしまった人生が偲ばれますなあ。勝手につくる九里語録「恋愛なんて60歳を過ぎてから考えたらいいのさ」--2003年12月26日(金) 11:21 [223]
九里仙人 >> 私は何時も「夢とロマンを大切に!」をモットーに生きているのですよ。--2003年12月26日(金) 11:29 [226]
しろねこ >> 以前、うちのサイトの常連さんにもいたぞ、一切世間話というものをしたことがない人。ほんで、研究室ひっきーで、「お天気とか、シューマイの話とか何かないの?」って訊いても、「ありません。」(終)--2003年12月26日(金) 11:31 [227]
しろねこ >> かと思ったら、また別の人は、「世間話だったらリアルでしますよ」って言っていた。--2003年12月26日(金) 11:33 [228]
九里仙人 >> うん!色んな人がネットにはいるからねえ。でも結構楽しいものなのよ。--2003年12月26日(金) 12:20 [234]
しろねこ >> ネットには・・・・・ではなく世の中には・・・・・・ってことなんだと思う。世の中にはいろんな人たちがいるから。この歌、好きなのよ。「集まると見れば離るる大空の雲にも似たるひとごころかな(明治天皇)」。明治天皇9万首、与謝野晶子2万首、しろねこ現在3197首。機関銃仲間。--2003年12月26日(金) 15:20 [236]
しろねこ >> 雲をお題に詠った歌っておっそろしいほどあるけど、きりないね。何がきりないのかうまく説明できないけど。やっぱ、個性が違うから歌は面白いのかも。--2003年12月26日(金) 15:45 [237]
しろねこ >> 人間の数だけ歌があるような気がするなあ。--2003年12月26日(金) 15:49 [238]

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◇のらくら迷うしろねこ

これは、以前、まりさんにも質問したんだけど、明確な答えが戻ってこないんですけど、帰属の問題というのがあると思うんです。まりさんの回答だと、「結社へ行くのを阻止するような拘束力はない」ということなんだけど、九里さんの感覚だと、「時空短歌でやっています」というのが当たり前のようで、そこが不可思議なのであります。

たとえば、結社誌。
ごく少数の人たちがインターネットでもがんばっているということで、労をねぎらっている。題詠マラソンが主催され参加者がいる。するとね、「うちからも何人か参加してる」と言って、喜んでいらっしゃる。生歌人とか、インターネット歌人とか、そういう分類もあるらしくて、一体歌壇はどうなっているのだか、そこは風の世界なんだろうと勝手に思ったり。

どこかへ発表した作品は、通常、賞などには応募できない決まりなんだけど、ネットに発表した作品はこの限りでないらしい。

自分の立場は微妙で、ネット歌人として結社にも帰属しているために、おそらくは昔で言うところのカルチャーセンターから短歌を始めて結社へという流れも流行ったらしいので、ネットというのもそういう位置づけに考えられているのかも。

来年からは、どんどん結社誌のほうにも発表していこうと思っているし、今年はようやくランキングや検索・ウェブリングからの来訪が増えてサイトが軌道に乗ってきたばかり。ネットから結社へ行ってしまうと、サイトは放置してしまう人も多いし・・・
ブログは過酷だから・・・いつまで更新を続けられるものやら・・・

結社のほうが人間味があって(当たり前か・・)、人間があたたかい。
自分は軽いから、ネットも続けるだろうけど・・・ネット一本でがんばっちゃう人もいるだろうし、かといって、「結社の歌とは雰囲気が違うけど、新しい風としてどんどん投稿してください。そうすればそれに影響を受けて云々」という世界だから・・・・なんか平和であたたかい。

しろねこ --2003年12月27日(土) 12:26 --URL [239]


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しろねこ >> つまり・・・・その・・・・・・結社の中の1%くらいの若い人たちが、題詠マラソンでもようがんばっとる、とか、そういう感覚。作歌歴の浅いあたしは若者なのでせうか・・・・・道はつづきぬ。--2003年12月27日(土) 12:43 [240]
九里仙人 >> 時空は既に記念館として保存されてるのだから、時空で詠じた短歌は夫々の方に帰属するものだと思いますよ。銀河はこれから新しくのスタートだから銀河は銀河の取り決めをしていかないといけないと思いますよ。私はフリーな立場であっちこちで詩っていますが・・・。--2003年12月27日(土) 12:52 [241]
九里仙人 >> その行った先で楽しくやれれば良いと思っています。いま創作短編小説・長編小説にも参加してるのですが、そこで自分のハンドルネームが残れば良いくらいに考えてますが。世の中廻りまわってまた自分の作品に出くわすことが多々ありますから。--2003年12月27日(土) 12:56 [242]
しろねこ >> 天国で父に出逢つたときのやう温もりのなかむかへられしわれ--2003年12月27日(土) 13:01 [243]
しろねこ >> いや・・・・・なんか・・・・・・・皆さん、あれこれご自分のことに精一杯だった頃に、一生懸命に説明したんですけど、なかなか理解していただけなくて。知らないうちに時空が解散ということになって、知らないうちにあたしが時空を目の敵にしているとか検討違いのことを言われて、結社のほうへ入ったらいきなり結社の人から自分のハンドル名の入ったメールをいただいて(実名で申し込んだのに)、すごく雰囲気よくて。一生懸命にそれを説明するのだけれど、なんとなくますます誤解されそうで。いろいろあったけれども、そういうことすら流れの中の一つに思えるくらいです。それが言いたかっただけなんだけど。--2003年12月27日(土) 13:16 [244]
しろねこ >> 九里さんのカキコの中にもありましたけど、「しろねこさんが時空でやっていた頃」という表現・・・・ ヘンなんだ、すごくヘン。あたしは時空短歌でやっていたという自覚はまったくないんです。主催がたまたまラサちゃんだったからだと思うんですけど。きっかけは時空というかその前身の宇宙時計短歌なんですけど。イラストをサイトで使えると勝手に勘違いしたところからそれは始まった・・・だけ。昔からそそっかしいから。--2003年12月27日(土) 13:39 [245]
九里仙人 >> うん!しろねこさんは、立派な詠み手なのだから、新生銀河で仲良くされたら良いと思いますよ。詩歌なら玉ちゃんがいるし、ラサちゃんだって健在なのだから。芹さんもすばらしいのを詠まれるし。--2003年12月27日(土) 13:40 [246]
九里仙人 >> ましてや銀河は、自分のWEBを作ってくれるのだから。私のは爺ちゃんに作ってもらったんだけど。--2003年12月27日(土) 13:41 [247]
九里仙人 >> 銀河からでも、NHK歌壇に出て行く人が出て来るかも分らないよ。--2003年12月27日(土) 13:43 [248]
しろねこ >> いつから、ネットで名前を売ってとか、そういうくだらない世界になっちゃったんだろうね・・・ なんとなくわいわいがやがやしていただけなのに。ネットだけじゃなく、うちにも来て一緒にやりましょう、というほうが正しいニュアンス。というのは、いろいろ大変だからなんだろうな・・・ 人が集まらないことには活性化しないからなのかも、なんにせよ、どんなことでも。--2003年12月27日(土) 13:59 [249]
しろねこ >> じいちゃんいないから、これからは九里さんが世話役なのかな、銀河は。--2003年12月27日(土) 14:03 [250]
しろねこ >> あたしはWEBを作製したり、それを配って歩いたりということは頼まれてもどうも苦手で・・・ 自分のことをこつこつしているほうがしょうにあっているから。でも、そういうことも大切なんでしょうし、忙しいとなかなかそこまではできないし・・・ まあ、誰かがおっしゃっていたけれども、九里さんは人を見る眼があるそうなので、「この人!」と思う人がいたらまた教えてくださいませ。声をかけてもご迷惑そうだったらかけないけど・・・ 相性ってあるもんね。--2003年12月27日(土) 14:17 [251]
しろねこ >> 来年はこう・・・・・ネット歌人のおきらくさがどの程度歌壇に通用するか・・・・・・おそるおそるあぷろーちしてみたいと思います。--2003年12月27日(土) 14:31 [252]

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『銀河交流新聞BBS』への投稿より ----- しろねこが私です。

投稿者 Blue Wind : 05:18 PM | コメント (0)

そしてまた山下達郎流れゆく去年もおぼろおなじこともふ

キャロルスを聴いて楽しきクリスマス浮かれ気分はサウンド次第
棚の中ひさしぶりにみるクリスマス 「こんなCD、あったのね」、なんて
そしてまた山下達郎流れゆく去年もおぼろおなじこともふ
持ってるの絶対絶対あるはずのサルサのキャロル出てきてまほし
クリームの固まりすぎたケーキかな吾子の手作り重き苺よ


もおそこは青空といふ世界ゆえ銀の翼がわれを乗せ去り
円窓の暗がりの中浮かぶまま宙はあおいろ空はつづきぬ
白雲のつみかさなつた黙々とそびえる中も小鳥のやうに
なだらかな空の上にはまっすぐな線などなくも飛行機の雲
雲のなかどうしてだらう明るくも光は映えでゆふぐれも赤


◇ご返歌
なごやみて冬空遠く見上げれば透きとほるよう光冴えるる
スーパーに並ぶさかなの遠くからやってきたなり雨の降る日は
円窓に青い空色うつろえば風は気流に機体をゆらし
窓ごしに睨み遭うなりしろねこの頬の形の体に似合わず
一年の速さに驚く師走かな新年といふ気は遠くなり
ひねもすをぼおっとしてるそれだけでわれを通過すフラッシュの時
つながりの立ち消えゆくも砂のうえかへすがへす波はおとづれ
『声とギター』ジョアンの声の流るるも過ぎた日々へのレクイエムかな
幻とおもえた中に作品のかたちとなるは形見なるやも
勝つたとて憎しみだけがつのりてはとどまることなく人をのみこみ

投稿者 Blue Wind : 01:21 AM | コメント (0)

December 24, 2003

「フィンランドの空から」と書かれた手紙暖炉なか吾子見つけおり無邪気に読みし

戦争は本気でいやとおもう冬クリスマスにも宗教いわれ
点滅をくりかえすだにモミの木のクリスマス・イブこころあてなく
茫洋の果てしなき空つづきやも天使の羽を路上にさがす
「フィンランドの空から」と書かれた手紙暖炉なか吾子見つけおり無邪気に読みし
イラク派兵朝な夕なにくりかへすワイド・ショーなりタレント議員
テロリストやつてきたとてお茶出してもてなしそうないなかの空気

投稿者 Blue Wind : 09:23 PM | コメント (0)

December 23, 2003

沈黙の鳥は黄金に飛びをりし湖水のいろの蒼きまにまに

沈黙の鳥は黄金に飛びをりし湖水のいろの蒼きまにまに
足のない鳥はいつしか飛びおりぬ湖水のなかは幻想といふ
結晶のちりばめたるや描き絵にほのかほるらし生きし匂ひの
ふりおりし風の重なる夢の中虚空の想ひ鳥のゑのとぶ
いのちない石をたずさえ登る山険しき崖のピピ島おもひ
夢の中いつも一緒に遊んだね君はやさしき絵を描きをりし
浮遊する世界の果ては夢のなか見果てぬみちのどこへつづきぬ

◇ご返歌
てふてふの飛びし世界の花園のいずこに揺るるうつそみの人
てふてふのおもひわびしく泣きぬればかそけき声の水面ゆらせり
JapaneseあにたやすけれわれらごとWe Japaneseと断言せしは

わが歌を眺めてほっとすることもある銀河といふ宇宙の果ては

投稿者 Blue Wind : 10:27 PM | コメント (0)

December 22, 2003

くもりぞらふるならふるといつてくれだまつているのはなほつらいから

ことばなど役に立たぬと口しいの恋にも似たる過ぎゆく海彼
堕天使になるつていつた君のことふんわりながむ雲の上から
父といふ無邪気な人を失つてつきあひといふ世間のありき
くもりぞらふるならふるといつてくれだまつているのはなほつらいから
妻といふ目立たぬわれは今朝もあに夫をけとばせどだれもみやらぬ

投稿者 Blue Wind : 10:58 PM | コメント (0)

「汽笛」や「石」

それは、ひとりひとりが生きてきたみちすじが違うのですから、ひとりひとりが違っていて当たり前であり、どうして自分の中の原風景というものがそこに存在し、その事物の中に何を言いたいのか、何を感じたのかもあくまでも主観の世界であり、つまりは、そういう主観を表現する手段のひとつとして、詩だの短歌だのがあってもよい、ということなのでしょう。

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◇  詩について

      詩について (短歌) として

短歌とはなんぞやという論議はちょっと、脇に置いておいて、
つぎの詩歌における視点(コンセプト、捉え方)については、どのように響くでしょうか

芸術とは、自己の創造性による作品を通して、(客観である自己を含めて)他に働きかけるものです。その際二つの視点があります。

日常のなかの非日常性 としての捉え方(詩歌における取り上げ方)
また、それならば、逆に、非日常の中の日常性 という考え方も理論的には出てくるわけです。

一般詩については、非日常性というのは、詩の持つ本来性のような取り上げ方がなされています。

日常の当たり前の事象のなかに、非日常の精神のきらめきとか発見、そういうこころの新たな視点やものの見つめ方が普遍性を帯びていて、人にきらめきを与え、支持される。
ことばのもつ美しさとか、響きが新たな視点を与えるという場合もありましょうし、事象の捉え方や心象風景が、鮮やかに描かれて、読者にも同じ視覚(体験)がすでにあったり、また、新たに、疑似体験(共感)を与える。
演劇論と同じく、それが支持を受ける場合と、また、絵画のように、いままで見たこともない
視覚という心象風景を、詩歌は言葉で再現する場合もありましょう。

基本的には、芸術性としては、全般的には作者の個性が展開され、それが特異性を帯びているということに、それぞれの芸術の優位を占めることとなるのだと思いますが、さてそうすると、
短歌においても、基本的には同じことが言えるのでしょう。 共感を得る他者と同じ、目線ということも大切な要素でもあるのですが、他とは異なる、特異性、独自性というものもまた、いかに発揮しようかと、詠み手は工夫するものでしょう。

俳壇・歌壇といった中で、先人の指導を得て、的確にそれら詩歌の表現の指導ということは日常において行なわれるのですが、特異性、独自性という視点からは、詩人は自らに努力する以外ないものかもしれません。

ある分野の芸術の篩(ふるい)にかけられるとすれば、大成するということは、他に秀でるということでありますし、独自の世界(精神世界や、表現手法)の構築を・・ということになりましょう。

もう一度、目標とするならば、芸性のもつその基本的目的理論値から、自らの表現のためのとりくみ(学習・基礎段階含む)といったものを常に、そのための練磨と意識していく必要はあるのでしょう。

そういう意味で、私達はいまどこを目指してどの辺りを走っているのでしょう。 
それが分かれば苦労はしないよという内なる声が聴こえてくる気がします。

銀まり --2003年12月22日(月) 06:26 [154]

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◇  Re: 詩について

詩も詩歌も絵画も音楽それ以外も、自己表出、自己表現の世界であり、「自分を語れ」としか語れない。技法を凌駕する部分があるとすれば、それは感性であり、感性というものはその人個人の中に内在するものであり、その発露が何かの手段を経て表出されるに過ぎない。
つまりは、あらゆるものが手段であり、そういう意味では手段はどうでもいい。
自分のようにはっきり絵が苦手であるとわかりきっていれば、それ以外の手段に頼るというのはごく自然なことであり、何が一番すっきりするか、道具として使いこなせるかというだけのことのような気がする。
お話が苦手な人は絵を描いたり、言語以外の表現ツールを使って自己の言いたいことを表現する。
花の好きな人は花を通じて花に語らせているのかもしれないし、風景以外にも人物画や人物写真。
つまりは、言いたい何かがあって、それを何によって表現するかの違いであり、自分のこころを表現したい、という意味でさまざまなツールが存在しているだけに過ぎない気がすることがある。
何気ない風景画一つにも、どうしてその風景なのかはその人でなければわからないのかもしれないし、海の絵一つにしてもラッセンの描く世界は彼自身のものであり、学校にも行かないで毎日サーフィンと絵を描いていた彼の少年時代を考えると、彼が理解されにくい彼の世界を絵によって表現しようとした。
つまりは、アートというのはそれだけのことなんでしょうね。

だからといって、それは簡単なことではなく、自分の表現したい世界を表現できるというのは意外に大変なこと。「自分を語れ」とはよく言うけれども、自分を語れないからこそ何かの表出手段が必要なのかもしれないし、それはその人自身が個々に発見する以外にないのかもしれません。

◇  主観的判断によると

>そういう意味で、私達はいまどこを目指してどの辺りを走っているのでしょう。 
>それが分かれば苦労はしないよという内なる声が聴こえてくる気がします。

自分の主観的判断によると、現在は、短歌を詠んでばかりいて落第してしまった中学生の頃の中原中也くらいではないかと思っています。彼の投稿歌は新聞などにも掲載され、それなりに上手なのかもしれないけれども、まだまだ本来の中也の味が出ていない。それでいて、暗中模索の中、彼が何かを探しているような気配がひしひしと感じられる。
その後、小林秀雄との出逢いや、ランボーの翻訳などを通して、彼本来の彼らしい作風というものが生まれ始める。

あまり詳しくもないし、あえて一生懸命に調べようとは思わないので、この辺で。
やっぱ、作品がすべてなのではないかなぁ・・・

ただ、その後の詩の中にも投影されているけれども、汽笛の音とかいのちのない石のこととか、もう初期の頃の短歌にも現れていたわけで、逆に考えればこの頃に培われた彼の感性がその後に磨かれていっただけのような気がすることもある。つまりは、自己表現の発露へ向けての修練は、そのために存在するわけであり、汽笛や石がどういう意味があり、そこに彼が何を見つけたのかをどうやって表現していくのだろうという点で、そこはやはり修練なのでしょう。

岡井隆さんによると、彼は生涯に渡って斉藤茂吉を追いかけてきたというのだけれど、つまりはそういうことなのだと思うのです。これは気のせいなのかもしれないけれど、岡井隆の名前で、それまでの結社だとかネットだとか古典とか歌葉とかそういうややこしさが一つに収まるということはすごいことなのだと思った。つまりは一人の人の中にそのすべてがあるからなのかもしれないし、源流という点で源流へつなぐ何かが存在したせいなのかもしれないし、そこのところはわからないけれども、よく結社誌でも、気になる歌人を見つけろと書いてあるのです。ライバルでも先人でもかまなわないけれども、それだけで読みが違ってくるかららしい。
でも、そういうことではなくて、本能というのはあって、自分の子ども時代に初めて出会った翻訳詩がランボーだったのは偶然なのかもしれないし、どうして数ある詩集の中からランボーだったのかは今でもわからない。その後、どうして中也なのかもわからない。ランボーと小林秀雄と中也のつながりなんて自分は知るはずもなく、つまりは直観やひらめきだけでそこへ吸引されてしまう世界がある。マン・レイ、ピカソ、中也、ランボー。直観だけ。ピカソの青の時代についてはどうかと思うけれども、自分が言いたいのはすべてをひっくるめたピカソの中の一部なのかもしれないし、もしかすると、そういうところを翻って調べてみたら自分が見つかるのかも・・・逆に。アートは自分探しをするところでもある。

◇  短歌とは何か?については・・・

http://homepage1.nifty.com/harayutaka/tanka-note.htm

原裕さんのメモのようです。
いろいろな歌人のお言葉があり、これくらいに焦点がしぼられていると清々しいかもしれません。

文学やアートについて語りだすと、それこそ自分史の世界ですから。
書いていたらキリが無くなる。

というわけで、自分の好きな作品や作者には、それなりに共鳴・共感というのがあるのだと思うのです。
それは、ひとりひとりが生きてきたみちすじが違うのですから、ひとりひとりが違っていて当たり前であり、どうして自分の中の原風景というものがそこに存在し、その事物の中に何を言いたいのか、何を感じたのかもあくまでも主観の世界であり、つまりは、そういう主観を表現する手段のひとつとして、詩だの短歌だのがあってもよい、ということなのでしょう。
それだけが言いたいだけなのに、長くなってしまいました。

◇   まとめ

★ 「短歌とは何か?」といった一般論については、先人の歌についてのありようなどはとても参考になると思います。従って、好きな歌人、気になる歌人の歌を追いかけてみるということは大切であり、それは短歌に限らず、詩や絵画や音楽についても、「アートは自分探しの世界」というくらいですから、他者の中に自分を探すというもくろみも悪くないかもしれませんし、基本中の基本なのかもしれません。

★ 河野裕子さんの言葉の中に、「事実につきすぎると事実からずれてしまう」というのがあります。つまりは、写実とは事実を述べ伝えることではなく、どうして客観的事象を通して何かを語りたがるのかは、原風景ということなのだと思います。つまりは、汽笛や石にどういう意味があり、何を感じ、何を表現したかったのかということを如何に表現していくか?ということを修練と呼ぶのだと思うのです。

★ ラサさんが以前語っていましたが、「自分にはほかの人たちの言いたいこと(短歌)をウェブで適切に表現しているかどうかの自信をなくした」という意味合いのことを。これに関しては、以前まったく違う角度からの感想を読んだことがあります。つまり、「自分の短歌がほかの人から見るとこういうイメージになるのかと思うと、それが楽しい」と。

★ 修練という意味では、個々人でコツコツ努力していくしかないかもしれないですね。具体案はないです。ただ、こう、なんと言うか、例えばCGIのアップの方法を学んで、単にコピーではなく、そこからまた自分で自分のつくりたいようにつくるとなると、アップの仕方と、自分流ということとは根本が違う。だから、修練という意味にも二通りあって、一つは技術を学ぶマニュアル的学習、もう一つはあくまでもそれをどう使っていくか?という意味での創意工夫。
まあ、よりよい交流というか、関係性の構築という点で語れば、それぞれの人たちが自分のやりたいことを素直に発見でき、かつ、それをごく自然にポジに受け止めて流していくという相互作用のある関係性が好ましいのかもしれないです。

しろねこ --2003年12月22日(月) 16:58 --URL [160]

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『銀河交流BBS』への投稿-----しろねこが私です。

投稿者 Blue Wind : 05:54 PM | コメント (0)

December 21, 2003

お地球見

心の苦しみというのは、誰にも言えないから苦しみであって、誰かに言ってしまえたらそれは最早苦しみとしての価値を持たない。
このところ文学系のテキストを拝読しているせいか、果たしてこんなにも主観でバッサリと言ってしまってよいのだろうかと、評論を眺めながらしみじみと感じてしまう。
とてもアートであり、文学であり、幻想であり主観であり、「この作者」はとか「この詩人は」などと今は亡き作者個人の体験などから類推し、テキストに出没する作者の気持ちや心というものをバッサリ語ってしまっているのを読むと、「本当にそれでいいの?」とおそるおそる訊きたくなる。

自分は文学部の学生ではあったけれども専攻が心理学だったためにあまりにも主観で心や精神に語ったりすると叱られた。
つまりは、文学や哲学ではダメなのだそう。
常に実験実証主義というものの中で、つまらないことでも実験のネタにする。
そういうことの積み重ねがデータとなり、速くもあり遅くもあるスピードで研究は進められていくものらしい。

常に、風があり、その風に翻弄されているような気がすることもある。
残念ながら自分が最先端というわけではないのであれば、黙って追実験を繰り返すしかないのかもしれないし、それでいてそれが如何に退屈な代物であるかはうまく言えない。
あの世界で自分が学んだことと言えば、まさに「データは自分のもの」ということくらいなのかもしれない。
学部の学生がやろうと、教授がやろうと、きちんとした手続きを経て得られた客観的なデータというものは個人のものらしい。
それ以外は、きっと他人のものなのかもしれない。

テキストに表現された眼に見えぬ何かというものを、そんなに簡単に他人が語ってしまってもよいのだろうか?
逆に短歌などは、余韻の多く含まれた歌を秀歌とするらしい。
つまりは、読む人が深読みするような歌がよい歌であり、それを引き出すような歌となるとたしかにアートなのかもしれないと思う。

結局、「自分を語れ」というのはそういうことなのかもしれず、自分を語れないから小説などを書く人を純文学の人と呼ぶのかもしれないし、書き手と読み手のそういう行間を読むようなやりとりが繰り返されるからこそ文学というものは文学として存在するのかもしれない。

自分には断言するという習慣がない。
というのは、常に反論を予測しているせいかもしれないし、客観的に証明することのできないことに対しては、なるべく断言しないほうがよいというのは、ある意味自分を救う。
一生懸命に理解不可能なことを理解するより、あるいは伝える努力をするより、それこそデータは正直だ。
数字にしちまえば簡単。
精神というものを数字で語る。
つまりは、データとして並べてしまえば、比較も可能であり、類推も簡単であり、一生懸命に説明する必要がない。
つまりは、一生懸命に説明するという不毛な諍いを避けるためにデータが存在するのではないかと思うほどに、すっきりしたものはすっきりしたままそこに存在する。

ところが、臨床・・・・
ま〜ったく逆だ。
一生懸命に誰かが理解を求めて大袈裟にもがく。
大声であっけらかんと話してしまえば、誰もなんとも思わないようなことでも、一生懸命に隠す。
隠しているから本人は苦しい。
それでいて誰かにわかってほしいから、一生懸命に行動する。
その行動が本意か不本意かもわからない。
本人じゃないから。
声なき声を声にするような世界なのかもしれないし、それでいてちょっとしたことで傷つく。
そして、傷つけられたことを大袈裟に訴える。
せっかくできた瘡蓋を自分で一生懸命に剥がして傷を深くするような行為にも似ている。

ある意味、そういう陰湿な行為なのかもしれないな・・・書くということは。
つまりは、誰にも言えないから書くのだろうし、言いたいから書くのだろうし、それでいて自分を隠しておきたいのだろうし、それでいて書けないらしい。
だから、常に裏表のある哀しい世界。
表から裏を眺めるというのはヘンだ。
月の裏側を知らない。
知らなくても何も困らない。
でも、丸いのだから裏も存在しているということはわかるし、地球から見るからそれは裏側として認識されているだけであり、あちらから見れば地球もまたそういうものなのかもしれないという関係性を考えると、月のうさぎがのんびりお地球見をしていたとしてもかまわないような気さえしてしまう。
地球から月を眺めるより、月から地球を眺めたほうが遥かに美しい気がするけれども、地球に住んでいたら地球は見られない。
まるで鏡のよう。
自分の顔や背中は自分では見れない。
自分のものであって自分では見ることができないということは、酷く矛盾しているようでいて、自分の背中は何を語っているのか自分ではもっとわかるはずもない。

そんなこんなを考えると、月から見た地球とか、他人から見た自分というものも厳然とした事実として存在しているわけで、そういう意味ではあっさり他人のことを語っても罪ではないのかもしれないな。
自分のデータがあり、それを誰かがお地球見する。
それが評論なのかもしれない。

まあ、地球が月うさぎから見ても青だったらいいかな、ということを書き添えておこう。
月には行ったことがないのだから、それくらいは許されるだろう。

投稿者 Blue Wind : 04:08 PM | コメント (0)

白昼夢ゴジラ歩きの針葉樹身を震わせり戦慄く風に

繁華街歩いているよなネットかな純文学への敷居はたかく
ダダイズム考へるより公文式つづけさせよか迷ふ冬寒
白昼夢ゴジラ歩きの針葉樹身を震わせり戦慄く風に
ミュンヘンの市場の写真ながめおり胸のうずきをかすかにおぼゆ
心海苦労と不幸は違ふというオセロのやうに黒を白とな
わが十代「愛している」と手紙なか百回書かせた記憶のありき
風うなるうなる冬声高らかにかさこそと鳴る窓の外の木
ふうわりと積みかさなる月日とは海より湧き出づ白雲に似て

投稿者 Blue Wind : 12:55 PM | コメント (0)

December 20, 2003

芸性をセカンドアートにことほぎぬ凡庸なわれ空白にあり

曇天の雲の切れ間のあさひよりCDショップのあかりまばゆき
わざわひのふりてやまぬや雪の日をおもひて泣くや小春日和に

◇数年前の冬
当たり屋にやられて師走警察へ駆け込み逃げる酔っ払いかな
3分後家から遠い通り端夫呼び出すフィリピン妻
カタコトの日本語さえもとつぜんに通じないらし警官の前
恐喝と免許停止とえらび泣く夫にあきれども送迎の冬


小野リサとジョアン・ジルベルトを比べてはブルーノートの調べつづきぬ
『声とギター』かそけき調べボサノバは甘きラッパかフレンチジャズへか
『声とギター』アコースティックに響くボッサ、半世紀前のジョアンに逢はむ


気まぐれに融合するは人といふレセプター中とほす幻影
芸性をセカンドアートにことほぎぬ凡庸なわれ空白にあり


平和だと言える朝には霧の中カラスの声の高らか笑う
過酷だと言える夜にはセールスのトークが続く食べ頃の鍋

喉の奥耳までつづくメンソール頭の中へチョコミント味
悲しみにつぶれちまつた悲しみの方程式は化学記号か

はやも来ぬピラカンサにもクリスマス隣家の庭にあかりのともり
街路樹のライトアップの季節かな薄闇の中聖夜もちかし
音もなくしづかにライト瞬けば飾りすくなにリボンの増えゆ

ゆきくれて紛争イラクどうなるや世の乱れたる海外派兵

ずっと前から知っている或る朝は銀の蓋さえ重く閉ざされ
プラズマの走るがごとく中也の詩空中散歩に吾を誘ひ

投稿者 Blue Wind : 01:51 PM | コメント (0)

December 19, 2003

吸つて吐く過酷な楽器ハーモニカ遊びで吹くにはちとつらすぎる

うつらうつらサイトと雑誌をサーフする。メディアといふネットはわがまま

ちつぽけなハーモニカ鳴る朝はトゥーツ・シールマンスの透明なジャズ
吸つて吐く過酷な楽器ハーモニカ遊びで吹くにはちとつらすぎる

曇天の雲の切れ間のあさひよりCDショップのあかりまばゆき


◇ご返歌
ぽぽーぽぽー電池切れかな鳩時計かそけき「ぽっ」は<2>の字で消える

投稿者 Blue Wind : 12:56 PM | コメント (0)

December 18, 2003

外界

『若い人に』

 総合誌や結社誌などを見ても現代短歌は実に多様であるが、いろいろなものが混ざり合って一つの時代を象徴する、考えてみればそれは当然のことで自然な流れかと思う。
 大きく変化しつつあるのは短歌の口語化であろう。また五七五七七の韻律に思いを深く託すというような姿勢がだんだん薄れ、まるで機関銃のように産み出される短歌に、その感性にしばし驚かされつつ、これもまたいいと思うのである。誰でもが自分の言葉で表現でき、短歌というものを身近に置くことができれば素晴らしい。若い人にも言いたいことはいっぱいあるに違いない。体の中にある短歌のリズムを目覚めさせてやりたい。いい作品は残っていくであろう。しかしそれは実は容易ではない。やはり修練は必要なのである。破調はあってもいいが、文学性、品格は最後まで守りたい。毅然とありたい。
 心を澄ませ、詠う。しっかりと考えを言い行動することが、現代において重要である。

(中村節子 『歌壇』2004年1月号、現代短歌の宿題 『若い人に』より)

_______________

「機関銃のように」という表現がすごすぎる。
1首を完成させるのに1週間から1ヶ月をかけて何度も黙読や音読を繰り返すという記述を、この前サーフィン中に発見し、そういう苦労をしたことのない自分はたしかにそういう意味では機関銃と言われてしまっても無理はないかもしれない。
これではネット歌人というより、CGI歌人ではないかと自分のことを思うくらいだ。
つまりは、レスを書いたりBBSに投稿するのと同じ要領で短歌も投稿する。
それが当たり前だと思っていたので、それこそ1首1秒ではないけれども、フラッシュのように詠む。
逆に、メモ帳を片手に歩いていても、なかなか歌が浮かばない。
佐々木幸綱さんの本の中にも、題材を狩りに出かけよと書いてあった気がするけれど、そうやって題材を探すよりも、不意にインスパイアされるように過去の記憶が短歌になることもある。
きっかけだ。
何かのきっかけにより、自分の中に貯えられた記憶がフラッシュバックする。
その場その場の気持ちを文字にすることもあるけれども、それよりももっと深く自分の中へ潜り込むような刺激が与えられ、ごく自然に反応している。
自分では忘れていた光景とか、出来事とか、感情さえもフラッシュバックする。
それを言語化しないだけで、自分の中にはそういう意味では無数の記憶が眠っているだろう。

かつて、30首を自選した際につけたタイトルは『記憶の砂』。
つまりは、砂を詠んだわけではないけれども、短歌というものがすでに自分にとっては記憶の砂のようなものであり、熱帯の白い浜辺の砂の冷たさとか、さらさらとした不思議な出来事が自分の中に仕舞われているような気がするからだ。
日本の砂浜は熱い。
歩くだけで火傷しそうな気がするくらい熱いこともあるのに、旅先でそういう熱さを感じた記憶がない。
これって今不意に思いついたわけだけど、そういう具合にいろいろなことがフラッシュバックされ、歌になる。
その時には忘れているというか、不思議にも思わない出来事でも、不意に思い出すことがある。
つまりは、短歌というのは自分にとってはそういうものであり、若い頃の記憶や、場面一つにしても懐古趣味ようで、それでいてその時には何も思わなかったことが不意に記憶の奥底から甦り、自分を刺激する。
過去は静止したままであり、過去の自分と今の自分とはもしかすると感じ方も考え方も違うのかもしれないけれども、そういう懐古というものが新たに認識された瞬間、何となく自分でもその歌に愛着を感じたりする。
今を詠み、将来の自分がなつかしむこともあるし、そういう預貯金のような歌ではなく、すでにストックされた中から不意に湧き出てくる歌もある。
バーチャルという世界においては、一方通行社会、しょせん箱に向かってパチパチ打っているにすぎないわけだから、なおさらそういう過去のフラッシュバックが生じやすいのかもしれない。

基本は写実だ。
でも、写生や記述じゃない。
つまりは心象風景なのかもしれないし、こころの情景なのかもしれないし、それをどうやって表現するかということなのかもしれないし、そういう意味で多様な歌が出没していても不思議はない。
それこそ現代詩の影響もあるでしょうし、伝統にこだわらない人たちも存在するでしょうし、私というレベルにしてもそれが自我であるのか自己であるのか、レセプターとしての私なのか、生き様であるのか、人間であるのか、それこそ網膜上に生じた文字通りのフラッシュバックを表現しようとすればそれも可能なするほどに、内観というものは複雑に入り乱れて存在している。
つまりは、外界からの刺激が存在しなければ、自分という存在も意識されることはなく、単に他者を排除するから自己というのは間違っている。
世の中には他者から見た自己というものが存在し、自分が自己とか自我意識と感じるものの正体は実は他者から見た自分を自分が意識したというだけのこともある。
純粋に自分が自分として存在していることなどありえるだろうか?
常に外界が存在し、それを知覚している。
自分が立っているか座っているのかにしても、外的因子があって初めて判断が可能な場合があるほどだ。
それだけ当たり前だと思っていることが実は当たり前なことではなく、重力ですらレセプターとして存在してしまえば、垂直というものも単に感知されて存在しているにすぎない。
きっと自分がいなくても世界はある。
でも、自分は世界がなければ存在しないかもしれない。
だからこそ、肉体を持たない精神・・・つまりは、魂という概念が存在するのではないかと思うくらいだ。

短歌における修練って何だろう?
文学性や品性となるとかなり激論となりそうな気がするけれども、答えのない答えを模索するかのようでもあり、ますます混迷してしまう。
心を澄ませて、詠う。
あらゆることに混濁していない自分。

投稿者 Blue Wind : 05:10 PM | コメント (0)

December 17, 2003

スキャングラスな歌人

『現代詩としての詩歌 ---- 詩は魂の美食』

 現代詩と短歌。そのどちらも好きな僕は短歌の嫌いな詩人に会うと困ってしまう。現代詩を知らない歌人に会うと、またまた困ってしまい「残念だなあ」と思う。テロリズム以後の短歌の話など話題にしながら、ぼくの〈困惑〉について、話したいのだが、好き嫌いの話だから、難しいだろうね結論は。(岡井 隆)

http://www.longtail.co.jp/~shoshi-y/j0204.html

_____________

”宮中歌会始の選者”と、肩書きにある。
岡井さんが選者をすることになって、すったもんだしたことは書いていない。
スキャングラスな事件とまで書いてある記事を発見。

http://www.mitene.or.jp/~nishio/okairon.html

天皇制を踏み絵にして、右翼とか左翼とかかったるいイデオロギー的対立は誰かほかの人に譲るとして、どうしても短歌というとそういうニュアンスから逃れられない運命なのかもしれない。
それでいて、詩って元来そういうものなのかもしれないと思う。

聖書の中の詩篇。
間違えて世界の天気予報を検索したら、どこか中東の国のサイトへ突き当たったことがある。
詩のページまであった・・・君主を讃える・・・

まあ、純然たるアートは文化財というコトバがあるように、国の財産なのかもしれない。
個人のものであって、みんなの財産という概念がね・・・アートにはつきまとうのだろう。

そういうわずらわしさを嫌う人たちも多いし、1300年の歴史、100年の歴史。
短歌は1300年、結社は100年、よく続いてきたものだと思ってしまう。

精神の迎合というのはあるかもしれない。
綺麗に語れば、精神の融合というか、古来の言の葉の世界へ惹かれることもあるだろうし、素直に現代詩を楽しむ。
好きな詩人や歌人。
そういうものは、つまりはごく自然なことであり、人間同士の組織化したつながりではなく、つまりはごく自然な私<わたくし>という個の中に発生してしまうことであり、それらがいかなる思想に位置づけられるのかは社会が決めることなのかもしれない。

組織を嫌い、個を優先させるという風潮だって、そのような人たちが増えれば、つまりは一つの社会現象として括られてしまうだけのことだ。
個を重んじるという姿勢までがそのような始末だから、詩歌の扱いと社会や社会思想や宗教やその他諸々とが互いにどういう具合に組み込まれるものなのかは知らない。

果たして、自分は自由なのだろうか?

生きている以上は何らかの制約の中におり、それは自分が決めたことではない。
それでもそれに特に不満があるというわけでもなく、互いに理解できなければ知らん顔して行き過ぎるというのが世の習いではないだろうか?
激しく対立するよりも、自分のことだけしているほうがマシだ。
一生懸命に自分を説明するよりも、一人のことをしているほうが遥かに気楽に思える。

つまりは、組織だって誰かに理解してもらおうなどとつまらぬことを考えなければ世の中は平和であり、自由主義という発想すら誰かに押し付けようとすれば戦争になるわけで、まったくもってして個人の自由などどこにあるのだろうと思ってしまう。

それで、短歌の雑誌などをめくりながら、歌人の交流の場としての結社とか、インターネットとか、つまりはメディアとしてのネット論が書かれていることが多い。
つまりは、選者がいるような世界ではなく、他人の歌を読まない風潮が歌人同士にあるために、従来のような形で結社や雑誌投稿というものが要らなくなるのではないかという危惧があるのだろう。

なのに、どうしてネットから結社へ入ろうとする人たちが多いのか、これまた不思議らしい。
実際のところ、結社へ入っている人たちは高齢者が多い。
つまりは、作品発表の場としてそういう一時代の流れがあり、それに同調した人たちに支えられてきた世界だからなのかもしれないし、廃刊になる雑誌もあれば、結社も多いかもしれない。

伝統の世界の哀しさで、常に後継者のことが気になるだけなのかも・・・
つまりは、結社誌や雑誌に投稿しなくても、自分で勝手に自分の歌をサイトにアップしてあれば誰かが見に来てくれるし、歌人同士の交流を求めようと思えば交流系のサイトへ投稿するとか、ウェブリングとか、さまざまな活用の仕方もある。

ネットの問題はさ・・・メディアの問題であって、それだけの問題ではなく、どうして「セクハラ短歌」なのか?ということなのよね・・・
雑誌に恋歌が掲載されていても、単なる”作品”。
だから、いちいち、「これはアンタのことを詠んだわけじゃないわよ」と断る必要性はない。
ところが、ネット・・・
相聞歌じゃないけど、BBSでやりとりしたり、そこの管理人さんへそういうのを平気で投稿する人がいる。
本当にそういう関係ならかまわないのかもしれないけれど、そこの管理人さんがネカマだったり、架空の存在だったりしたらどうなんだろう?

本当に恋人などに贈った歌とか、そういう気持ちを詠んだ歌を”掲載”という意味でアップしてあるなら誰もなんとも思わないんだろうけど、あれが自分のサイトのCGIに陳列してあったらそれこそセクハラではないだろうか?としか思えない自分としては、なんともはや・・・

ジャンキー事件は、ある意味、スキャングラス(スキャンダラスという意味だろう)な事件なんだろうし、それはいわば単なる妄想に基づく世界観の違いでもあり、それでいて箱を通じた世界は常に一方通行であり、相手のことなどわからないケースが多い。

酷いと、あるBBSでは、「リアルでちゃんと恋人がいます」などと書かれてあった。
・・・・・・・・絶句。
自分などは最初からふつーの主婦だと語っている以上、夫がいる。
まさか、BBSに、「リアルでちゃんと夫がいます」などとは書かない。
ヘンだ。
バーチャルだからバカにされているのだろうか?
いい加減なプロフも多いし、既婚か独身か、はたまたそういうプライベートなことは一切書いていないサイトもあるし、年齢も性別も、ネットでは実証できないなどと信じているような人たちまでいる世界においては、サイバー上に現れる世界は単なる幻想なのだろうか?

つまりは、自分のサイトは自分の作品を掲載しておく場であり、交流系のサイトはさまざまな人たちの作品を掲載しておく場であることに徹していれば何も問題は発生しないのだろう。
でも、仲間としての関係性の構築とか、こころのつながりとか、そういうことになるといささかネットはややこしくもあり、きちんと自分をアイデンティファイできるものとして、結社を利用しようと考えただけなのだろうか?自分の場合は・・・

まあ、どうでもいいや。
なんにせよ、どんなことにもきっかけがあるというだけのことなのだろう。

投稿者 Blue Wind : 01:09 AM | コメント (0)

December 16, 2003

バッカスに好かれちまつたすくなひこなバーボンを飲む夜な夜な眠る

しあわせだ、自分は実にしあわせだ とおもふ舟の下には翠水

暴動の鎮圧のため派兵する。イラクの民のなほ怒るらむ

なほ闇はわれを堰かして不埒なる朝焼けを待つ石榴の枝に
煌々と明かりの点るスーパーを出づ車さえ出口塞がる

バッカスに好かれちまつたすくなひこなバーボンを飲む夜な夜な眠る

たまにはね「よいね」と言われてみたいけどボロカス、アート、最後の時間
シンプルにしたつもりなの複合体うごめく記号朝びらきする

偶像をつかふ遣わぬそれだけで別れていつた東へ西へ

投稿者 Blue Wind : 09:33 PM | コメント (0)

December 15, 2003

ぽつかりと浮かんだやうに宇宙から地球をながむ無といふ世界

マッチ棒火薬の匂ひなつかしむ折れた先にも炎ひとひら

われの身にあわずもがなとおもへども災ひの渦人生を変へ
平凡に暮らせる日々をいとおしむ生傷のあと瘡蓋のこし
マンションの瓦礫の下に埋もるるは吾子とわれなり運命の罠

筑波嶺はなほあたたかく日が射せば冬には暖炉の火は燈もされず

ぽつかりと浮かんだやうに宇宙から地球をながむ無といふ世界
枯れ萩の地面にむかひしだれをり吾垂直に地球に立てり
月と日をのんびりながむ古代歴軌道のなかにときはうつろふ

ふるさとを持たないわれといふ人はおさなき街は夢の想ひ出

あのみちはもうひろがつてくるまだけ走るのをみゆ山のまにまに

復興の最初にゐでた話題には新図書館の建設なりき
街並みのつぎつぎかはる六甲のもとにかへらで日は過ぎるらし
腹立ちと苛立ちつのる復興の話の中でうららにあそぶ
家よりも公共施設大切と置忘れたる仮設住宅
復興といふがかなしき行政かなにをもちゐで復興といふ
観光の街のかなしき運命かな来る人を待ち去る企業かな
経済の復興するを復興と呼ぶがかなしきはろばろの街

無法地区治めてかなし自衛隊出立するを止められもせず
経済のほろぶるなかれ軍送る復興といふ嘘みえかくれ

無人駅六甲ライナー乗りてやも背なに聞こえし立ち退きのこゑ
場所による立ち退きゆかむ人の利を三田の仮設住む人もなく
陽だまりを孫連れあるく義父のあと会釈しかへす見知らぬひとへ
想い出はみちゆくひとにあるやもと記憶のなかにしみゐるいのち
苦渋なる決断もまた孫のためはろばろ生きよ明るく生きよ
いのち火をつたえそだてし大地かな宇宙の果てへ夢はつづきぬ

いつの日かつちにかへりしわれの身もしだれるやうなやはらな萩葉
散髪をすませたばかり寒椿冬の風吹く通りにこごめり


◇ご返歌
みじかき日夕まぐれ待つ寒椿落つる紅やけにあかるゐ
明け空にやけにかなしき霧の立つまぶしき光輝く日ほど
灰色の空の下には紺碧の暗い荒波島影をのみ
ちつぽけな点滅ライト星の中夜間飛行のどこへ向かふか
ねこなのよ自分といふ人犬などは眼中に無くさかなもはまぬ
平日をのんびりすごす月曜日ハンカチ渡し吾子時計かな
立ち読みでJJひろつてみるけれど見慣れた顔の消えゆ もどしぬ
『イパネラの娘』聴く午後われさえも生まれる前の歌にときめき
キーボードなにをえがくか吾といふ人形のごと君はおもへり
隠れ家のフセインのさまぬばたまの闇のやすらぎ光憂くらむ

___________

明石とは外のことだと今知るや内なるこゑの聞こえざらまし
神戸よりわずかにゆられ走る先何ごともなく街はたたずみ
寄付金を並んでもなほ10万円家の焼けたる庭の水がに

投稿者 Blue Wind : 03:50 PM | コメント (0)

December 13, 2003

ほこり舞ふさなかの街も海はただキラキラひかる。船はゆきかひ。

きらめきに落つる虹色プリズムをかざす窓かな空は時雨るる
砂時計めずらしきかな吾子ながむひょろりと並ぶ水時計なり
ひろやかに薔薇の垣根の冬の道うららな影のしづかに咲けり

ほこり舞ふさなかの街も海はただキラキラひかる。船はゆきかひ。
降り立てばポートアイランド土の上高速道路の倒れたる道
窓の外見知らぬ街の流れたる電車は走る山はつづきぬ
マキシンの帽子も遥か想い出の箪笥の中にひっそり眠る
震災の街をや出たる溜め息の安堵の中にドアは閉じられ
貨物船広きデッキで見おろせば六甲山のみどりまほろに
頑なに孫をいだきて昼寝する義父の向こうに泣き声響き
新天地ひらけてゆくや街並みのかはるはやさの神戸に負けぬ
ケ・セラ・セラなるようになるセラヴィーとラテンのリズムで日はまた昇る
飛び立とうやがては春の野の花の風に運ばれ咲き乱るる園
もうあれは終わったこととピリオドを一つ落として空白の声

投稿者 Blue Wind : 04:48 PM | コメント (0)

土曜日の自分に贈る今日の歌

代名詞の迷宮を抜け右耳にひとつ増やせるピアス・ホール
勝野かおり

コメント「あなたは「君」でも「あなた」でも名前で呼ばれる存在でもない。あなたはあなたなんだよ。」

★歌葉より
http://www.bookpark.ne.jp/utanoha/


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代名詞にしろ、固有名詞にしろ、あの人の呼ぶあたしって一体誰のことだろうと思ってしまう。
とりあえず、呼びかけというものがあり、それが自分だと思えば応答はするけれども、呼びかけではなく、イメージというか、他人のイメージするあたしって一体どういう人であるのかわからなくなる。

短歌を詠み始めたばかりの頃、どうして短歌なのか不思議になるらしくよく質問された。
一つには自分のイメージとは合わなかったからだろうし、どうして合わないと思われたかというと、短歌というものに固有のイメージが存在するせいではないかと逆に疑っている。
たくさんのことを言いたい時に、定型詩というのは意外と気楽だったりする。
つまりは字数制限があるから、ダラダラと駄文を書いているよりもすっきりする気がしたせいでもあるし、どうして自由詩ではないかと言われれば、自由詩というのは長いのよね・・・長いから一気に書き上げるというのはそれなりにすごい集中力の持続が必要なことに気がついてしまったのかもしれない。

それがどこから始まりどこで終わるのかは気分次第だ。
何となく浮かんできたままに詩を詠む。
それが途絶えれば終わり。
それでいて締めがなければ終わらない。
そういうもどかしさが詩にはあり、その点、定型詩というのは短歌を含めてその中に収めなければならないのだから迷っている余裕がない。
浮かんだらそれがすべて。
たまに、最後の句がどうしても浮かばないことがある。
すっきりしない。
途中まではさらさらと。
それでいて、最後の句が浮かばない。
そのもどかしさ・・・

めったにそういうことはないのだけれど、きっと自分の言いたいことが決まっている場合ほどそういう風に言葉が自然に浮かんで来なくなるようで、それなら瞬時に詠みきるほうが遥かにすっきりしている。

とても不思議なことを書かれてしまった。
「結社へ入るのを阻止するような拘束力はない」というフレーズ。
当たり前だろう。
そもそもネットで気まぐれに詠み始めただけであり、しかもほとんどが素人というか、短歌がたまたま流行っているから何となく恋の歌などを自分のサイトにアップしているとか、そういう軽いノリの人のほうが多いもの。
まじめに歌を勉強して、というノリではない。
何となく詠んでいるというそういう人たちのほうが多いような気がする。
それがどうして短歌なのかと問えば、おそらくは明確な理由など持たない人たちのほうが多いような気がする。

一行詩のラブレター。
携帯でさらりとメールを送る。
定型を楽しんでいるだけ?
そういうさらりとした世界。

いわば、自分が特殊だ。
さらりとした世界から、どうして歌壇へと行こうとするのか不思議。
それはいわば、流れ、だ。

これは短歌ではないとか、ああでもない、こうでもない、とつまらないことを言われることにいささかうんざりしてしまったからでもあるし、本当に歌のことを熟知している人たちの場合、常に新しい風を求めて徘徊している気がするくらいだ。
自分の場合は、単に無知だから逆に今から古典でもちょっと勉強しようかな、などとは思うものの、自分で詠んでいるほうが遥かに面白い。
歌とはこういうものであるという決めがあるほうが不思議なのかもしれない。
とりあえず、定型である以上基本は57577だ。
それ以上でもそれ以下でもない。
写実であるとかないとかも、歌の流れの中で誰かが始めたことであり、それもまた流れの一つに過ぎない。
多くの人たちがそれを好むのであれば、それはそれで歌の醍醐味の一つなのだろうし、そういう意味ではすっきりしている。

短い言葉で、ポンと相手に訴えるには、きっと極めて効率のよい方法なのだろう。
たくさんのことを言えないから。
つまりは、ワザだ。
テクニックなのかもしれない。

・・・・・・・・・娘のピアノがうるさいから、ここで終わろう。

投稿者 Blue Wind : 04:37 PM | コメント (0)

December 10, 2003

記述の描写

久しぶりにタトゥーのCDを聴きながら、この前のコンサートは開演が遅れた上に50分で終了、しかもお客は半分くらいの入りというニュースを思い出す。
コンサートの前日には、「80%オフとか90%オフでタトゥーの講演チケットを買いませんか」というメルマガまで届いていた。
テレビ番組の出演をすっぽかして以来、すっかり評判が悪くなったのが原因なのかもしれないけれど、彼女たちは要するに”ロシア人”なんだなという気がしただけ。
共産圏には旅行したことはないけれど、その評判の悪さには驚くもの。
客のことを考える習慣など、あの国には存在しないのではないかと思ってしまう。

これと対照的なのが、石原プロかも。
公開撮影中に事故があり、そうなると社長や社員が総出でお見舞い、賠償、記者会見、常にファンを大切にするという姿勢。
ファンがあってのタレントということがひしひし画面から伝わってくる。
それが本音か嘘かはわからない。
彼らは役者だ。
だけど、どうすればよいのか熟知している。

孤独なマイケル・ジャクソン。
おっそろしいほど借金を噂されながらも、遊園地をつくり、そこで恵まれない子どもたちと遊んで、結局、訴えられる。
疑惑は疑惑だけど、児童虐待の基準がすでに感性として日本とは違うために、一方的に報道を鵜呑みにはできないけれども、彼の考えていることはあたしのような凡人には理解できない。

______________

最初にガイアにサイトをつくった頃、自分は「人間なんていつの時代も変わらない」ということが言いたかっただけのような気がする。
古今東西、人間なんていつの時代も変わらない。
常に同じことで苦しみ、悩み、そして生きる。
文学が永遠と言われるのは、誰かの気持ちがそれを読んだ人の中で生き続けるから。

だから、駄文を書いたり、短歌を詠んだりしていても、あまり深く考えたことはなかった。
要するに、誰かの言いたいことはほかの誰かの言いたいことだったりするわけだから素直に書けばよい。
それだけのはずだった。

ところが、あらし騒動。
これは、すごい。
一人の言いたいことはその人だけが言いたいことだったりするわけで、水と油が混じらないことを思い出してしまった。
一方の立場に立てば他方を敵にし、もう一方の立場に立つと逆転する。
大抵のことは日本人的にノラクラしているうちに過ぎ行くはずなのに、いつまで経っても終わらない。

結局は、完全に分離するしかない。

共鳴・共感というものがまるで存在しない精神というものがこの世の中に存在するとは・・・

_________________

《不必要部分》

タトゥーはロシア人だ。
そうなると、あの愛想の悪さや、若くして大金と自由を手に入れてしまったゆえの自由奔放さと、そんなこんなと背景などを考えると、考えてみれば彼女たちは一生働かなくても生きていけるのかもしれないし、しょせん他人事だ。

石原軍団は、日本人の心情なんだろうな・・・
あれくらいやるのが当然だと思ってしまいながらも、それがどこでも通用するとは限らない。
つまりは、相手に期待してはいけないという意味で。
でも、何となく見ていて息苦しさを感じた。

マイケルの場合は、彼なりの生き方があるのだろうし、最初から到底彼の気持ちなど理解できないような気がしてしまう。
おそらくは、差別や偏見という社会の申し子なのかもしれないし、彼がどうして白い肌をあそこまで憧れるのか理解しろと言われても無理だ。
悲壮感すら漂うけれど、その悲壮感が彼の人気を支えてきたような気がするくらいだ。
黒い肌で白人フェース・・・
白人と黒人のよいところを合わせたような不思議なマイケルを初めて見たときには、すごくインパクトがあった。

黒人のエリート。
すごさってあるもの・・・とても真似できないような感性が。
音楽が彼らをエリートにした。

_________________

何となく理解しているようで、実は理解しろと言われても無理なことが世の中には多すぎる。
個々に理解するのが無理だから、そこに共鳴・共感が必要になるような気がするくらいだ。

短歌はすっきりしている。
主観に徹することにより、それが客観へ変わる。
つまり、誰かが言いたいことはほかの誰かの言いたいことだったりするから。
作者の感想すら必要ないらしい。
つまりは、見たままを詠むことにこだわるのはそういうことなのだろう。
主観を突き詰めていくと、自然と客観へ行き着いてしまう。

タトゥーも石原プロもマイケル・ジャクソンも存在や行動だけ。
彼らにどうしてそういう行動をするのか尋ねても無理だろう。
見た人が勝手にどう思うかというだけのことなんだろうし、それを見たあたしはこう思ったというだけのことであり、そうするとこれは単なる感想文なのだろうか?
いや・・・
ごく普通に客観的に書こうとすれば、それこそニュースの世界だ。
自分の駄文は記述ではない。
つまりは、自分の目から眺めた世界を自分なりに描写しているだけ。

この瞬間、どうして自分が短歌なのか、少しだけ理解できたような気がした。
要するに、誰がどういう風に思おうが関係ないってことなんだろうな・・・
つまりは、少なくても短歌には、この駄文の「タトゥーはロシア人だ。・・・・・・音楽が彼らをエリートにした。」という部分は要らない。

投稿者 Blue Wind : 03:57 AM | コメント (0)

しおれたる冬の薔薇三つ揺られたるかそけき枝に蕾の凍る

ひねもすのやること多きなんとなく過ぎゆく師走木馬の揺れる
影法師どこまでのびる冬の道花咲きおはる薔薇の木高き
しおれたる冬の薔薇三つ揺られたるかそけき枝に蕾の凍る
リースみゆ 街も風さえクリスマス・・・愛さえ燃えゆ蝋燭の火に
真夜中のくもりガラスのむこうには赤いランプのしづかに走る

投稿者 Blue Wind : 02:24 AM | コメント (0)

December 08, 2003

白熱のなお狂いたる風の吹く雨季の砂波われは濡れをり

餅つまみパクッとほおばる吾子の顔おたふく風邪のあどけなきごと
草枕旅の想ひを詠えども羽枕抱く寝返りの宿
休みの日きちんとおなかのすく朝にあわてて起こしすたすたもどる

白熱のなお狂いたる風の吹く雨季の砂波われは濡れをり


◇ご返歌
君は言う「こころが大事」軽やかに・・・飾りはやめて痛みゐる夜
波の中歩く砂浜透明のかなしいくらい空をうつせり
冬の夜のすみゆくたかき空遠く点滅しせり飛行機を追う
ちつぽけな勝利の意味の儚さを苦しみのなかあえぎ知り立つ
休みの日うつらうつらとまちがうは目覚まし時計の音のせいかな
したたかな野花のやうに生きる意味花の咲きたる冬に問ふても
石段を落ちないようにすべらずにのぼりきれたら苔は祝える

投稿者 Blue Wind : 12:58 PM | コメント (0)

December 06, 2003

空白の中の自分

ちょっとしたひらめきとか思いつき。
インスパイアとかインスピレーション。

今年も12月。
あっという間に1年は過ぎてゆく。
何か特別なことがあった年のような気がしないことが奇跡に感じられるくらいだ。

気が付けば、不幸は通過している。
通過してしまったとたんに、それはすでに過去のことだ。
月日は流れ、いろいろなことがあったような気がするけれど、それはそんなに特別なことではないような気がするのは、今年もまた終わろうとしているのを感じているからかもしれない。

それにしても、今年もまた終わろうとしている。

結局は、いくつの年を重ねていくかということだけのような気がする。
年表のように自分の人生は重ねられてゆく。
何年に生まれて、この年には何があったとか、自分史というものが刻まれていく。

最初は、ささやかな流れだ。
いつも最初はちょっとした思いつきから始まる。
何かが始まり、何かが終わる。
それは1年が繰り返されていくのと変わらない。

近頃、詩のレトリックを勉強している。
勉強というほどおおげさなことではないような気がした。
単に読書というやつをしているだけだからだ。
でも、よく思い出してみると、テキストとしてそれを眺めたならば、それはまさに1年分以上の講義を含んでおり、試験の前になるとあんちょこと呼ばれる類の代物に変化する。

今は学生ではないので試験はない。
テキストとして眺めた場合、これを短期間で習得しようとしているわけだから疲れるのだということに不意に気が付いてしまった。
自分の弱点は飽きっぽいことだ。
興味の持てないことには近寄らない。

それにしても自分はどこへ向かっているのだろう?
どこへも向かってはいないのかもしれないし、何かの知識を得たという感触があるうちは、自分はまだ学んでいる最中ということだ。

短歌なんてまるで興味がなかった。
そうなると、歌の種類も知らないし、連歌と返歌の違いすら知らない。
興味がないってすごいことだと思ってしまう。
それでも誰でも詠めると言い切った以上は、すでに3000首を超える歌を詠んでしまっている。

つまりは、迷っているんだと思う。
あまりにも簡単に詠めることに気が付いてしまったがゆえに、自分は今、知識に頼ろうとしている。
詩のレトリックや、うたことばや文法や用語などを学んでいる。
それ自体はむずかしくはない。
でも、深くは自分が詠みたいこととか、表現したいことを模索しようとしたとたんに、すべてが極めて困難なみちすじに思えてしまう。

知識に頼ろうとした瞬間、自分は自由を失う。
いや・・・たくさんの知識があるからこその自由というものもある。
つまりは一つのことにこだわらなくなるからかもしれない。
360度の方向性と柔軟性を知識は与えてくれる。

ところが知識が形成されてしまうと、また新しい形というものでがんじがらめにされてしまう。
人間というものがいかに知識に左右されながら生きていることを思えば、迷いながらも知識を得るということは、すでに守りに入っているということなのだろう。
知識は身を守る。
つまりは、どこから突かれても跳ね返す武器ともなる。
それと同時に、武器でプロテクトしてしまうことにより、自らの行動範囲を狭めてしまう。

あまりにもおおげさなんだけど、自分には感動というものが欠如したままひらめきだけが続行されているために、いつも霧の中にいるような感覚がつきまとう。
これが自らの問いや要求に対して供給されたものであれば、そういう霧中感はないのかもしれない。
でも、ちょっとしたひらめきだけで始めてしまったことに対しては、目的というものが初めから存在していないがゆえの不安定さがある。
不安定さ・・・
つまりは、自分がどこへ向かっているのかわからないから、目的も目標もない。
ゴールを定めて、そこへ駆け込めば終わるわけではない。
常にゴールなどは存在せず、ひたすら走り続けなければならない。
しかも無目的に・・・
何らかの報酬が与えられるわけでもない。
満足してしまえば、満足してしまったことに対しての不満が生じる。
これでは際限がない。

いつからそのようになってしまったのかはすでに思い出せない。
つまりは、人生というものに明確な区分が存在しないためかもしれない。
明確な区分が存在しないままに、自分は歌人であると宣言してしまっている。
つまりは、自分でそのように決めたのだからあとはその空白部分を埋めるだけだ。
知識や歌で?
埋め尽くせば埋め尽くすほど何かが消えてゆく。
つまりは、空白は空白として存在しているから詩なのかもしれないというレトリックを垣間見たとたんおそらくは自分はその空白の部分に自分を埋め込まなければならないのかもしれないとふと思う。
もしも誰の目にも触れない自分というものが存在するとすれば、自分の中の無意識に埋め尽くされた自分という人間をその空間に埋め尽くさなければならない。

文字は文字にすぎない。
文字に現れているのは、ほんの一部だ。
本当の自分は空白の中に存在している。
つまりはそのことの意味を知ったとたん、自分のいる世界をもう一度潜って探さなければならないのかもしれない。

あっさり語れば、もはや過去歌としか語れないものの中に自分を見つけ出さなければならないのかもしれない。
写実がどうたらこうたらとか、レトリックがどうたらこうたらではなく、つまりはその歌の空白の中に自分が見つけられるかどうかということが今の自分の課題なのかもしれないと不意に思った。

つまりは、これがインスパイア・・・

投稿者 Blue Wind : 09:40 AM | コメント (0)

December 05, 2003

ささやかなる違反

自分の日常は、ささやかなる違反の上に立脚している。
ささやかなる違反というのがどういうことなのかはよくわからないけれども、たとえば、この文章を入力している途中で自分はいったん席を外し、フロアモップで部屋を一周し、廊下と1階部分を大雑把に掃除してきた。
椅子に座ると、この時間(この文章の入力時における時間)にはまだダンナがのんびり前に座って朝のワイドショーなどを眺めている。
娘は1時間も前に家を出ているし、ゴミなどを出しに行った帰りに雑草の掃除やら、落ち葉の掃除などをしなければならないかと思いながらも、自分はきっと今日も何もしないだろう。
やろうと思えば、今、こうしている時間にもできるはずなのだけれども、外は雨交じりでもあるし、刈り込み鋏が壊れてしまっているのでこの前からどうしようか迷っている。
迷っているなら、さっさと新しい鋏を買いに行けばいいのに、まだ小さな鎌があるからそれで間に合わそうとか、適当なことを考えながら何もしないでいる。
つまりは、日常というものは、忙しくしようと思えばいくらでもやることはあるのであり、ヒマにしていようと思えばこのようにヒマなまま時間は勝手に過ぎて行く。

こうしているうちにダンナの出勤時間となり、「いってらっしゃい」、「いってきますね」という言葉とともに玄関の鍵が閉められる音を聴く。
何もしていなければ玄関の鍵くらいは自分が掛けるのだけれど、ちらっとこちらの様子を眺めたダンナが気を利かせて、自分で閉めて行ってくれた。
自分にとってはどうしても書かなければならない日記ではない。
でも、あちらからみると、駄文を打っているのだからと気を利かせてくれる。
この瞬間、考える。
こういう自分のわがままがどうして通るのだろう?
そして、もしも今日何かがあってダンナが怪我や事故ということになった場合、自分は後悔するのではないか?
が、しかし、そういう淡い不安は昼寝の時間を想像することによりすぐに消えてしまう。
考えてみれば、この昼寝という習慣ももしかすると違反ではないだろうか?
夜更かしする習慣があまりにも長いために、というのは、受験勉強の頃からを含めて、学生結婚の時代を含めるとあまりにも長い間夜更かしする習慣が当たり前だったがゆえに、結婚してからも何も言われない。

夜中にサウンドを聴いていても何も言われない。
台風の時に窓を少し開けておいたくらいでは家の中はびくともしない。
学生街の特権かもしれないし、夜中の買い物もめずらしくない。
思いつきで何か違うサウンドが聴きたいと思えば、レンタルCD屋は24時間、あたしを待っていてくれる。
本屋も10時まで、スーパーも12時まで、レストランは2時まで、そのほかに24時間営業の店もある。
それでいて、うちの周辺は静かだ。
CDを聴きながら、小鳥のさえずりが聴こえる。

考えてもみてくれ。
今から夕刻までは自分のフリータイム。
特別に何かに拘束されているわけではない。
ぼっけーっとおそろしいほどの本を眺めながら、詩について考えているのももしかするとささやかなる違反なのかもしれないと思う。

詩を詠むということも実は日常的な言語に対するささやかなる違反の試みだ。
このトーンのまま短歌を詠んでいたら、これは短歌ではないと言われてしまったけれども、逆に前衛短歌という言葉にウキウキしてしまう。
すでに旧い言葉なのかもしれないけれど、定型という音韻律の中にささやかなる違反を見つける。
これこそわが日常という気がするくらいだ。

外から見ると、決まった時間に食事し、決まった時間に外出する家族がいて、そういう中でありきたりの日常というものが過ぎて行くだけだ。
そういうありきたりの中に、自分という勝手気ままな人間が存在している。
勝手気ままでありながら、そこには日常のルールという定型が存在し、それでいてその枠の中の自分は気ままだ。
家族のニーズがあり、娘のノートのページが足りなくなりそうだとなれば、夜中でも買いに行ってあげるし、今日は何とかが食べたいと言われればそれをつくるだけのことだし、さらりと時間は流れる。
つまりはささやかなる日常の補助という形に徹してしまえば、それ以外の時間は自由。

以前、一日中ネットをしていたら、普通のダンナだったら大変だとという話をされて、「ほえ?」と思ったのはあたし。
いっつも思うんだけど、なんであたしはいつも何も言われないのだろう?
ネットだけではなく、こんなに怠惰な生活をしていても誰も何も言わない。
それがいつも不思議だ。

投稿者 Blue Wind : 09:13 AM | コメント (0)

ラブソング静かに流れる晩秋に歌を失くしたこおろぎをみゆ

窓ガラス雨あとのこる夕暮れにワイパーの音で発進しせり
暑いとか寒いとかなど忘らるる今の季節の汗ばむ部屋よ
真夜中に姑からの長電話めずらしきこともあるとおもへり
「3日おき髪を染めたりしてるの」とそれが元気な合図にきこゆ

真夜中にぽっかり浮かんだ空間は白き花さえシュールにかえる
淡々と夜中に響くメロディはやさしき声をリズムにかえる
夫の荷物ほとんど捨てたわがいえのしまわれたるは過去のわたしか
あんな歌こんな歌など詠むうちに藻屑と消えるわたしといふひと

気分屋の気分次第で歌を詠むジャポップさえ今があるから

ラブソングあたしと一緒に変わろうよそのために今聴いているから
ラブソング聴いたことすらない人に何を語るも無駄と知るなり
ラブソングいつも流るる人の海どぶねずみ色の人の心にも

恋人は素知らぬ顔で聴いている奏でる音はその日のふたり

「あの景色、覚えているか」と君のいふ透明な海いくつあるやも
「あの曲を、覚えているか」と君のいふ80年代のMTVかな
あの頃はふたりでいつも聴いていたクリスマスにはラパパンパン

いつの間にボジョレヌーボー冷蔵庫ことしも秋の終わりを告げる

ラブソング静かに流れる晩秋に歌を失くしたこおろぎをみゆ
部屋の中しづしづ歩くこおろぎのどこから来たか不思議なドアか

しろねこの逆襲といふ秋風の吹くにまかせて夜は更けゆく
脅迫をかきならべたる掲示板みゆ人ありき風はひろまり
みる人のこころの中までのぞけぬはそれぞれおもふ風はふきぬけ
きらふとは徹底的にきらふこときらふきもちの文字にあらはれ
いまもなほ徹底的にきらふわれおまえなどなどじごくへおつる
紛争は暗き闇夜によくにあふゆくこともない星へ飛ばせと
文人の筆もちたたかふ魂の綴れ織なりクロスといふもの

歌詠みは悲しいのですあはれですせつないのです愛なき歌は
歩くみち花は咲けども枯れ果てる冬はおとづれ枯れ葉舞い散る
ビオロンの弾きこなせずは神経のさかなでる音両刃のつるぎ
自由とはなにを気にするわけでなくそこにはだれもわれさえもなく

せつなさはしづかに流るる曲のやう音だけあるよこの世界には
何もない流るる音の真実をいつかどこかで耳にするやも
ざわめきのひろがる店のかたすみで曲は聴こえる霧の中の音
草の音風の音かな晴れ渡る吹き渡るみち明日もあるらし
雑音の気になるやうではわれはまだ真実の音とおざかりける

すきとほる世界の果てはそらたかくすみわたるやうすみわたるやう
神さまとおはなしせよと言はれては八木重吉の詩のひとひら
ひとひらの言葉の中にひとひらのかけらのたましいわれを誘ふ
地獄まで堕ちてしまつたたましひは人の愛ではすくえないらし

恋人のゆきかふ街の明るさよ冬のさむさも人を寄せあふ
ひとひらの真実の愛ふりおつる街はかがやきひとはゆきかふ

しあわせはいつもいっしょにいてくれるやさしさのなかほのかほるらし
若き日の孤独のなかもふたりだけいまはうつそみいのちをそだて
好きなものあつめて暮らすたのしみをさわさわそよぐ翠の風にも

突然に難聴なるほどはたらきつ何が悲しや夫といふひと
結核のかげのあるのに気がつきつもらいいのちと今をことほぐ
明日のことどうなることもわからぬやいまひとときをつぶやきとかへ
すくすくと育つむすめのうれしさよいつまで汝といられるものかと
しあわせの蜃気楼ゆれかげろふもいまがすべてとしあわせを噛む
晴れた日も曇りの日にも雨の日もゆらゆらゆれる常緑樹かな
生きるつていろんなことがあるんですわたくしだけではないらしいです
そんなことわかつているといふひとの不幸な話 聞きたくないの
悲しみにくれて生きるよりかろやかに微笑んでいる吾が好きといふ
明日のことわからぬのなら好きなもの好きなことだけ好きな人たち

洗濯機われのかはりにありがとう君がいるからわれは詠へり
真夜中にしづかにうなるドラム式サウンド甘く今宵も流るる
ささやかなしあわせのなかちつぽけなよろこびのある一度の人生
ちつぽけなうねりのなかで洗わるる洗濯物の眩暈の渦よ

すなもじの波にさらはれ消えゆかむ白き泡さえ蜃気楼かな
気まぐれに風に吹かれし砂浜のタオルは飛ばず向かい風なり
あれこれとむづかしいこと飽きたならささやかなわれ浜辺に座る
シルエット描きて座る砂浜につどふ人等の飽くことなきか
落ち日さす夕暮れの浜見知らない人たちのなかわれも座れり

いくつもの駅をみおくり汽車はゆくそういふ旅をしてみたいけど
りんさんになりたいなどとジョークだと怒つていたら本気がかなし
ずたぼろに捨ててしまえとかんたんに切って落とすこころといふもの
あいことばかわし「死んでもいいんだよ」ほうっておくのがくすりといふ

揺らぎみる月の光よおぼろなる闇夜をしろく沁みゐらせたる
儚くも消えゆくほむらたやすけれコンロの火にも未来はありき
やさしさもなさけとならば底なしの沼におぼれる睡蓮のごと
年ゆきた人と話すは過去のこと今はなにをぞするとおもひし

風吹きぬ冬の小道に揺れている葉のさやさやと息吹をうたふ

おさなき日夢見たおもひああこれがうつつとかはりシナプスとなる
われはゆくおさなき頃のわれの夢うつらうつらとうつつの中で
あの詩人 この詩人たち 3D うつらうつらと夢から現
どつぷりと記憶の中に咲く花のわれをしづかにすいよするなり
無条件に惹かれる花の咲くみちのたちどまりたるみつばちのごと

光なかしづけさのなか聴こえてるフィオナの歌のやはらかき声
ひねもすを優雅に詠うよろこびをバーチャルによりまなびて候
しあわせの青い小鳥をもとめては空よりいづる日々にうづもる

純粋にハートのなかをのぞいてもエースが一枚ひらりと落つる
ありそうでなにもなさそなこころもようえがいてきえる雪の舞みゆ
てのひらに刻んできえる一片のしろき雪さえふりつもるみち
あたたかい冬のすぎゆくひねもすをゆきあそびする電子文字かな
キーボード叩いてえがく電子文字やはらきにもおににも見えゆ
やはらかく生きるもよしと邪魔をするそれが知識といふものらしい
いくつものうつろひの中みうしなう虹の色さえみるにまかせり
画面上マップをおいて示したいわれといふひとなにをやかたらむ
しあわせを定義するならひねもすを好きなことだに費やせること
日本語のかたきリズムをやはらかき響きにかへるシャンソンかな
ささやかなおはなしのなかかはりゆく流るる息のゆるりときこゆ

あなたとはおはなししたくないのよと伝えることもおはなしといふ
憎しみに汚染されてあの人もこころないままゆくあてどなく
憎しみのオーム返しの感情をオートリピート画面に浮かぶ
やさしさをそっとみまもる人もいるピアニッシモに耳をかたむけ

はや師走やはらかき日のすぎゆけば冬が春にもおもふまどろみ

うねる波荒波の浜岩礁の潮の流れに寄る人のなく
掲示板いくつつぶして変はらずは人のこころの闇まで消えぬ
初期化して過去は消えれど消え去らぬ脳の初期化はいかなるものぞ
早鐘にサイレンの音鳴り響く未来永劫記憶に残り
吐き気する想いをつづるには電子文字のこの掲示板がいい

こうやつて一人の世界が守られる自分の世界はピュアにのこして
世の中に素敵な人のあまたいるなぜにいないの電子の世界
教え子のタレントになり自慢されたしかにかわいい男の子かな

10代の恋に恋して憧れてそういう時代をなつかしむなり
ほんわかと娘と恋の絵本読むちゃちゃの入るおこちゃまかな
言葉のない最後のページ意味違ふよおく読んでと一人で読ます
母さまは綺麗じゃないと叱られる夫よりうるさい一人娘よ

BBSうちのサイトに来ないでと次第に消えるハイパーリンク
ハンドル名勝手につかわれ気に障る名さえ捨てるかインターネット
空想の世界で遊ぶ人形の描くこころの一方通行
恋歌をうたはれることセクハラといふが本音の女流歌人ら
万葉の時代をしのぶ恋文はもはやセクハラ真実なきは
名をつかふあたかもたれかいるやうに虚空のなかはがらんどうなり

平井堅歌いすぎない溜め息の流るるやうなリズムのなかへ
避けていたジャポップの音ことばの海のひろがりをみゆ
スコールよ雨は冷たいものなのと訊いても空は黒雲ながれ
ユーミンのむかし歌つた曲だつた冷たい雨をさがせど逢えず
冷たさはプールサイドのシャワーかな陽のない水の情け知らずよ
未来へとつづく道さえとおまわりすれちがふさま未来のわれよ
おわらない世界の果ての未来かな明日はどこへとつづくものかな
アメジストみやげものやで光つてる紫の色にあふひとなき

ウィルスをつくるものあり集めては喜ぶもののかなしきさまかな
パラノイアの逆恨みらしジャンキーの荒れ狂うさま電子に浮かび
人形を捨ててしまえばおわりかなのこる妄想あの世へもちゆけ
粗大ゴミ誰が捨てるかネットかな環境破壊も電子へ寄する

対岸の火事にも似てし怒鳴り声いづこの岸へつづくものかな
機械文字書き捨てごめんどうでもとあしらうことをおぼえてしまひ
微笑みは好きな人にだけ浮かぶものドライな風を背に受け流し

掲示板ななめに読んでふきだしてひまな昼どき退屈しのぎ
モーリヤック読もうかどうか迷ひつつつまらぬ歌でときはすぎゆく

投稿者 Blue Wind : 01:31 AM | コメント (0)