December 18, 2003

外界

『若い人に』

 総合誌や結社誌などを見ても現代短歌は実に多様であるが、いろいろなものが混ざり合って一つの時代を象徴する、考えてみればそれは当然のことで自然な流れかと思う。
 大きく変化しつつあるのは短歌の口語化であろう。また五七五七七の韻律に思いを深く託すというような姿勢がだんだん薄れ、まるで機関銃のように産み出される短歌に、その感性にしばし驚かされつつ、これもまたいいと思うのである。誰でもが自分の言葉で表現でき、短歌というものを身近に置くことができれば素晴らしい。若い人にも言いたいことはいっぱいあるに違いない。体の中にある短歌のリズムを目覚めさせてやりたい。いい作品は残っていくであろう。しかしそれは実は容易ではない。やはり修練は必要なのである。破調はあってもいいが、文学性、品格は最後まで守りたい。毅然とありたい。
 心を澄ませ、詠う。しっかりと考えを言い行動することが、現代において重要である。

(中村節子 『歌壇』2004年1月号、現代短歌の宿題 『若い人に』より)

_______________

「機関銃のように」という表現がすごすぎる。
1首を完成させるのに1週間から1ヶ月をかけて何度も黙読や音読を繰り返すという記述を、この前サーフィン中に発見し、そういう苦労をしたことのない自分はたしかにそういう意味では機関銃と言われてしまっても無理はないかもしれない。
これではネット歌人というより、CGI歌人ではないかと自分のことを思うくらいだ。
つまりは、レスを書いたりBBSに投稿するのと同じ要領で短歌も投稿する。
それが当たり前だと思っていたので、それこそ1首1秒ではないけれども、フラッシュのように詠む。
逆に、メモ帳を片手に歩いていても、なかなか歌が浮かばない。
佐々木幸綱さんの本の中にも、題材を狩りに出かけよと書いてあった気がするけれど、そうやって題材を探すよりも、不意にインスパイアされるように過去の記憶が短歌になることもある。
きっかけだ。
何かのきっかけにより、自分の中に貯えられた記憶がフラッシュバックする。
その場その場の気持ちを文字にすることもあるけれども、それよりももっと深く自分の中へ潜り込むような刺激が与えられ、ごく自然に反応している。
自分では忘れていた光景とか、出来事とか、感情さえもフラッシュバックする。
それを言語化しないだけで、自分の中にはそういう意味では無数の記憶が眠っているだろう。

かつて、30首を自選した際につけたタイトルは『記憶の砂』。
つまりは、砂を詠んだわけではないけれども、短歌というものがすでに自分にとっては記憶の砂のようなものであり、熱帯の白い浜辺の砂の冷たさとか、さらさらとした不思議な出来事が自分の中に仕舞われているような気がするからだ。
日本の砂浜は熱い。
歩くだけで火傷しそうな気がするくらい熱いこともあるのに、旅先でそういう熱さを感じた記憶がない。
これって今不意に思いついたわけだけど、そういう具合にいろいろなことがフラッシュバックされ、歌になる。
その時には忘れているというか、不思議にも思わない出来事でも、不意に思い出すことがある。
つまりは、短歌というのは自分にとってはそういうものであり、若い頃の記憶や、場面一つにしても懐古趣味ようで、それでいてその時には何も思わなかったことが不意に記憶の奥底から甦り、自分を刺激する。
過去は静止したままであり、過去の自分と今の自分とはもしかすると感じ方も考え方も違うのかもしれないけれども、そういう懐古というものが新たに認識された瞬間、何となく自分でもその歌に愛着を感じたりする。
今を詠み、将来の自分がなつかしむこともあるし、そういう預貯金のような歌ではなく、すでにストックされた中から不意に湧き出てくる歌もある。
バーチャルという世界においては、一方通行社会、しょせん箱に向かってパチパチ打っているにすぎないわけだから、なおさらそういう過去のフラッシュバックが生じやすいのかもしれない。

基本は写実だ。
でも、写生や記述じゃない。
つまりは心象風景なのかもしれないし、こころの情景なのかもしれないし、それをどうやって表現するかということなのかもしれないし、そういう意味で多様な歌が出没していても不思議はない。
それこそ現代詩の影響もあるでしょうし、伝統にこだわらない人たちも存在するでしょうし、私というレベルにしてもそれが自我であるのか自己であるのか、レセプターとしての私なのか、生き様であるのか、人間であるのか、それこそ網膜上に生じた文字通りのフラッシュバックを表現しようとすればそれも可能なするほどに、内観というものは複雑に入り乱れて存在している。
つまりは、外界からの刺激が存在しなければ、自分という存在も意識されることはなく、単に他者を排除するから自己というのは間違っている。
世の中には他者から見た自己というものが存在し、自分が自己とか自我意識と感じるものの正体は実は他者から見た自分を自分が意識したというだけのこともある。
純粋に自分が自分として存在していることなどありえるだろうか?
常に外界が存在し、それを知覚している。
自分が立っているか座っているのかにしても、外的因子があって初めて判断が可能な場合があるほどだ。
それだけ当たり前だと思っていることが実は当たり前なことではなく、重力ですらレセプターとして存在してしまえば、垂直というものも単に感知されて存在しているにすぎない。
きっと自分がいなくても世界はある。
でも、自分は世界がなければ存在しないかもしれない。
だからこそ、肉体を持たない精神・・・つまりは、魂という概念が存在するのではないかと思うくらいだ。

短歌における修練って何だろう?
文学性や品性となるとかなり激論となりそうな気がするけれども、答えのない答えを模索するかのようでもあり、ますます混迷してしまう。
心を澄ませて、詠う。
あらゆることに混濁していない自分。

投稿者 Blue Wind : December 18, 2003 05:10 PM
コメント
コメントする









名前、アドレスを登録しますか?