December 17, 2003

スキャングラスな歌人

『現代詩としての詩歌 ---- 詩は魂の美食』

 現代詩と短歌。そのどちらも好きな僕は短歌の嫌いな詩人に会うと困ってしまう。現代詩を知らない歌人に会うと、またまた困ってしまい「残念だなあ」と思う。テロリズム以後の短歌の話など話題にしながら、ぼくの〈困惑〉について、話したいのだが、好き嫌いの話だから、難しいだろうね結論は。(岡井 隆)

http://www.longtail.co.jp/~shoshi-y/j0204.html

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”宮中歌会始の選者”と、肩書きにある。
岡井さんが選者をすることになって、すったもんだしたことは書いていない。
スキャングラスな事件とまで書いてある記事を発見。

http://www.mitene.or.jp/~nishio/okairon.html

天皇制を踏み絵にして、右翼とか左翼とかかったるいイデオロギー的対立は誰かほかの人に譲るとして、どうしても短歌というとそういうニュアンスから逃れられない運命なのかもしれない。
それでいて、詩って元来そういうものなのかもしれないと思う。

聖書の中の詩篇。
間違えて世界の天気予報を検索したら、どこか中東の国のサイトへ突き当たったことがある。
詩のページまであった・・・君主を讃える・・・

まあ、純然たるアートは文化財というコトバがあるように、国の財産なのかもしれない。
個人のものであって、みんなの財産という概念がね・・・アートにはつきまとうのだろう。

そういうわずらわしさを嫌う人たちも多いし、1300年の歴史、100年の歴史。
短歌は1300年、結社は100年、よく続いてきたものだと思ってしまう。

精神の迎合というのはあるかもしれない。
綺麗に語れば、精神の融合というか、古来の言の葉の世界へ惹かれることもあるだろうし、素直に現代詩を楽しむ。
好きな詩人や歌人。
そういうものは、つまりはごく自然なことであり、人間同士の組織化したつながりではなく、つまりはごく自然な私<わたくし>という個の中に発生してしまうことであり、それらがいかなる思想に位置づけられるのかは社会が決めることなのかもしれない。

組織を嫌い、個を優先させるという風潮だって、そのような人たちが増えれば、つまりは一つの社会現象として括られてしまうだけのことだ。
個を重んじるという姿勢までがそのような始末だから、詩歌の扱いと社会や社会思想や宗教やその他諸々とが互いにどういう具合に組み込まれるものなのかは知らない。

果たして、自分は自由なのだろうか?

生きている以上は何らかの制約の中におり、それは自分が決めたことではない。
それでもそれに特に不満があるというわけでもなく、互いに理解できなければ知らん顔して行き過ぎるというのが世の習いではないだろうか?
激しく対立するよりも、自分のことだけしているほうがマシだ。
一生懸命に自分を説明するよりも、一人のことをしているほうが遥かに気楽に思える。

つまりは、組織だって誰かに理解してもらおうなどとつまらぬことを考えなければ世の中は平和であり、自由主義という発想すら誰かに押し付けようとすれば戦争になるわけで、まったくもってして個人の自由などどこにあるのだろうと思ってしまう。

それで、短歌の雑誌などをめくりながら、歌人の交流の場としての結社とか、インターネットとか、つまりはメディアとしてのネット論が書かれていることが多い。
つまりは、選者がいるような世界ではなく、他人の歌を読まない風潮が歌人同士にあるために、従来のような形で結社や雑誌投稿というものが要らなくなるのではないかという危惧があるのだろう。

なのに、どうしてネットから結社へ入ろうとする人たちが多いのか、これまた不思議らしい。
実際のところ、結社へ入っている人たちは高齢者が多い。
つまりは、作品発表の場としてそういう一時代の流れがあり、それに同調した人たちに支えられてきた世界だからなのかもしれないし、廃刊になる雑誌もあれば、結社も多いかもしれない。

伝統の世界の哀しさで、常に後継者のことが気になるだけなのかも・・・
つまりは、結社誌や雑誌に投稿しなくても、自分で勝手に自分の歌をサイトにアップしてあれば誰かが見に来てくれるし、歌人同士の交流を求めようと思えば交流系のサイトへ投稿するとか、ウェブリングとか、さまざまな活用の仕方もある。

ネットの問題はさ・・・メディアの問題であって、それだけの問題ではなく、どうして「セクハラ短歌」なのか?ということなのよね・・・
雑誌に恋歌が掲載されていても、単なる”作品”。
だから、いちいち、「これはアンタのことを詠んだわけじゃないわよ」と断る必要性はない。
ところが、ネット・・・
相聞歌じゃないけど、BBSでやりとりしたり、そこの管理人さんへそういうのを平気で投稿する人がいる。
本当にそういう関係ならかまわないのかもしれないけれど、そこの管理人さんがネカマだったり、架空の存在だったりしたらどうなんだろう?

本当に恋人などに贈った歌とか、そういう気持ちを詠んだ歌を”掲載”という意味でアップしてあるなら誰もなんとも思わないんだろうけど、あれが自分のサイトのCGIに陳列してあったらそれこそセクハラではないだろうか?としか思えない自分としては、なんともはや・・・

ジャンキー事件は、ある意味、スキャングラス(スキャンダラスという意味だろう)な事件なんだろうし、それはいわば単なる妄想に基づく世界観の違いでもあり、それでいて箱を通じた世界は常に一方通行であり、相手のことなどわからないケースが多い。

酷いと、あるBBSでは、「リアルでちゃんと恋人がいます」などと書かれてあった。
・・・・・・・・絶句。
自分などは最初からふつーの主婦だと語っている以上、夫がいる。
まさか、BBSに、「リアルでちゃんと夫がいます」などとは書かない。
ヘンだ。
バーチャルだからバカにされているのだろうか?
いい加減なプロフも多いし、既婚か独身か、はたまたそういうプライベートなことは一切書いていないサイトもあるし、年齢も性別も、ネットでは実証できないなどと信じているような人たちまでいる世界においては、サイバー上に現れる世界は単なる幻想なのだろうか?

つまりは、自分のサイトは自分の作品を掲載しておく場であり、交流系のサイトはさまざまな人たちの作品を掲載しておく場であることに徹していれば何も問題は発生しないのだろう。
でも、仲間としての関係性の構築とか、こころのつながりとか、そういうことになるといささかネットはややこしくもあり、きちんと自分をアイデンティファイできるものとして、結社を利用しようと考えただけなのだろうか?自分の場合は・・・

まあ、どうでもいいや。
なんにせよ、どんなことにもきっかけがあるというだけのことなのだろう。

投稿者 Blue Wind : December 17, 2003 01:09 AM
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