December 05, 2003

ささやかなる違反

自分の日常は、ささやかなる違反の上に立脚している。
ささやかなる違反というのがどういうことなのかはよくわからないけれども、たとえば、この文章を入力している途中で自分はいったん席を外し、フロアモップで部屋を一周し、廊下と1階部分を大雑把に掃除してきた。
椅子に座ると、この時間(この文章の入力時における時間)にはまだダンナがのんびり前に座って朝のワイドショーなどを眺めている。
娘は1時間も前に家を出ているし、ゴミなどを出しに行った帰りに雑草の掃除やら、落ち葉の掃除などをしなければならないかと思いながらも、自分はきっと今日も何もしないだろう。
やろうと思えば、今、こうしている時間にもできるはずなのだけれども、外は雨交じりでもあるし、刈り込み鋏が壊れてしまっているのでこの前からどうしようか迷っている。
迷っているなら、さっさと新しい鋏を買いに行けばいいのに、まだ小さな鎌があるからそれで間に合わそうとか、適当なことを考えながら何もしないでいる。
つまりは、日常というものは、忙しくしようと思えばいくらでもやることはあるのであり、ヒマにしていようと思えばこのようにヒマなまま時間は勝手に過ぎて行く。

こうしているうちにダンナの出勤時間となり、「いってらっしゃい」、「いってきますね」という言葉とともに玄関の鍵が閉められる音を聴く。
何もしていなければ玄関の鍵くらいは自分が掛けるのだけれど、ちらっとこちらの様子を眺めたダンナが気を利かせて、自分で閉めて行ってくれた。
自分にとってはどうしても書かなければならない日記ではない。
でも、あちらからみると、駄文を打っているのだからと気を利かせてくれる。
この瞬間、考える。
こういう自分のわがままがどうして通るのだろう?
そして、もしも今日何かがあってダンナが怪我や事故ということになった場合、自分は後悔するのではないか?
が、しかし、そういう淡い不安は昼寝の時間を想像することによりすぐに消えてしまう。
考えてみれば、この昼寝という習慣ももしかすると違反ではないだろうか?
夜更かしする習慣があまりにも長いために、というのは、受験勉強の頃からを含めて、学生結婚の時代を含めるとあまりにも長い間夜更かしする習慣が当たり前だったがゆえに、結婚してからも何も言われない。

夜中にサウンドを聴いていても何も言われない。
台風の時に窓を少し開けておいたくらいでは家の中はびくともしない。
学生街の特権かもしれないし、夜中の買い物もめずらしくない。
思いつきで何か違うサウンドが聴きたいと思えば、レンタルCD屋は24時間、あたしを待っていてくれる。
本屋も10時まで、スーパーも12時まで、レストランは2時まで、そのほかに24時間営業の店もある。
それでいて、うちの周辺は静かだ。
CDを聴きながら、小鳥のさえずりが聴こえる。

考えてもみてくれ。
今から夕刻までは自分のフリータイム。
特別に何かに拘束されているわけではない。
ぼっけーっとおそろしいほどの本を眺めながら、詩について考えているのももしかするとささやかなる違反なのかもしれないと思う。

詩を詠むということも実は日常的な言語に対するささやかなる違反の試みだ。
このトーンのまま短歌を詠んでいたら、これは短歌ではないと言われてしまったけれども、逆に前衛短歌という言葉にウキウキしてしまう。
すでに旧い言葉なのかもしれないけれど、定型という音韻律の中にささやかなる違反を見つける。
これこそわが日常という気がするくらいだ。

外から見ると、決まった時間に食事し、決まった時間に外出する家族がいて、そういう中でありきたりの日常というものが過ぎて行くだけだ。
そういうありきたりの中に、自分という勝手気ままな人間が存在している。
勝手気ままでありながら、そこには日常のルールという定型が存在し、それでいてその枠の中の自分は気ままだ。
家族のニーズがあり、娘のノートのページが足りなくなりそうだとなれば、夜中でも買いに行ってあげるし、今日は何とかが食べたいと言われればそれをつくるだけのことだし、さらりと時間は流れる。
つまりはささやかなる日常の補助という形に徹してしまえば、それ以外の時間は自由。

以前、一日中ネットをしていたら、普通のダンナだったら大変だとという話をされて、「ほえ?」と思ったのはあたし。
いっつも思うんだけど、なんであたしはいつも何も言われないのだろう?
ネットだけではなく、こんなに怠惰な生活をしていても誰も何も言わない。
それがいつも不思議だ。

投稿者 Blue Wind : December 5, 2003 09:13 AM
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