December 06, 2003

空白の中の自分

ちょっとしたひらめきとか思いつき。
インスパイアとかインスピレーション。

今年も12月。
あっという間に1年は過ぎてゆく。
何か特別なことがあった年のような気がしないことが奇跡に感じられるくらいだ。

気が付けば、不幸は通過している。
通過してしまったとたんに、それはすでに過去のことだ。
月日は流れ、いろいろなことがあったような気がするけれど、それはそんなに特別なことではないような気がするのは、今年もまた終わろうとしているのを感じているからかもしれない。

それにしても、今年もまた終わろうとしている。

結局は、いくつの年を重ねていくかということだけのような気がする。
年表のように自分の人生は重ねられてゆく。
何年に生まれて、この年には何があったとか、自分史というものが刻まれていく。

最初は、ささやかな流れだ。
いつも最初はちょっとした思いつきから始まる。
何かが始まり、何かが終わる。
それは1年が繰り返されていくのと変わらない。

近頃、詩のレトリックを勉強している。
勉強というほどおおげさなことではないような気がした。
単に読書というやつをしているだけだからだ。
でも、よく思い出してみると、テキストとしてそれを眺めたならば、それはまさに1年分以上の講義を含んでおり、試験の前になるとあんちょこと呼ばれる類の代物に変化する。

今は学生ではないので試験はない。
テキストとして眺めた場合、これを短期間で習得しようとしているわけだから疲れるのだということに不意に気が付いてしまった。
自分の弱点は飽きっぽいことだ。
興味の持てないことには近寄らない。

それにしても自分はどこへ向かっているのだろう?
どこへも向かってはいないのかもしれないし、何かの知識を得たという感触があるうちは、自分はまだ学んでいる最中ということだ。

短歌なんてまるで興味がなかった。
そうなると、歌の種類も知らないし、連歌と返歌の違いすら知らない。
興味がないってすごいことだと思ってしまう。
それでも誰でも詠めると言い切った以上は、すでに3000首を超える歌を詠んでしまっている。

つまりは、迷っているんだと思う。
あまりにも簡単に詠めることに気が付いてしまったがゆえに、自分は今、知識に頼ろうとしている。
詩のレトリックや、うたことばや文法や用語などを学んでいる。
それ自体はむずかしくはない。
でも、深くは自分が詠みたいこととか、表現したいことを模索しようとしたとたんに、すべてが極めて困難なみちすじに思えてしまう。

知識に頼ろうとした瞬間、自分は自由を失う。
いや・・・たくさんの知識があるからこその自由というものもある。
つまりは一つのことにこだわらなくなるからかもしれない。
360度の方向性と柔軟性を知識は与えてくれる。

ところが知識が形成されてしまうと、また新しい形というものでがんじがらめにされてしまう。
人間というものがいかに知識に左右されながら生きていることを思えば、迷いながらも知識を得るということは、すでに守りに入っているということなのだろう。
知識は身を守る。
つまりは、どこから突かれても跳ね返す武器ともなる。
それと同時に、武器でプロテクトしてしまうことにより、自らの行動範囲を狭めてしまう。

あまりにもおおげさなんだけど、自分には感動というものが欠如したままひらめきだけが続行されているために、いつも霧の中にいるような感覚がつきまとう。
これが自らの問いや要求に対して供給されたものであれば、そういう霧中感はないのかもしれない。
でも、ちょっとしたひらめきだけで始めてしまったことに対しては、目的というものが初めから存在していないがゆえの不安定さがある。
不安定さ・・・
つまりは、自分がどこへ向かっているのかわからないから、目的も目標もない。
ゴールを定めて、そこへ駆け込めば終わるわけではない。
常にゴールなどは存在せず、ひたすら走り続けなければならない。
しかも無目的に・・・
何らかの報酬が与えられるわけでもない。
満足してしまえば、満足してしまったことに対しての不満が生じる。
これでは際限がない。

いつからそのようになってしまったのかはすでに思い出せない。
つまりは、人生というものに明確な区分が存在しないためかもしれない。
明確な区分が存在しないままに、自分は歌人であると宣言してしまっている。
つまりは、自分でそのように決めたのだからあとはその空白部分を埋めるだけだ。
知識や歌で?
埋め尽くせば埋め尽くすほど何かが消えてゆく。
つまりは、空白は空白として存在しているから詩なのかもしれないというレトリックを垣間見たとたんおそらくは自分はその空白の部分に自分を埋め込まなければならないのかもしれないとふと思う。
もしも誰の目にも触れない自分というものが存在するとすれば、自分の中の無意識に埋め尽くされた自分という人間をその空間に埋め尽くさなければならない。

文字は文字にすぎない。
文字に現れているのは、ほんの一部だ。
本当の自分は空白の中に存在している。
つまりはそのことの意味を知ったとたん、自分のいる世界をもう一度潜って探さなければならないのかもしれない。

あっさり語れば、もはや過去歌としか語れないものの中に自分を見つけ出さなければならないのかもしれない。
写実がどうたらこうたらとか、レトリックがどうたらこうたらではなく、つまりはその歌の空白の中に自分が見つけられるかどうかということが今の自分の課題なのかもしれないと不意に思った。

つまりは、これがインスパイア・・・

投稿者 Blue Wind : December 6, 2003 09:40 AM
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