December 21, 2003

お地球見

心の苦しみというのは、誰にも言えないから苦しみであって、誰かに言ってしまえたらそれは最早苦しみとしての価値を持たない。
このところ文学系のテキストを拝読しているせいか、果たしてこんなにも主観でバッサリと言ってしまってよいのだろうかと、評論を眺めながらしみじみと感じてしまう。
とてもアートであり、文学であり、幻想であり主観であり、「この作者」はとか「この詩人は」などと今は亡き作者個人の体験などから類推し、テキストに出没する作者の気持ちや心というものをバッサリ語ってしまっているのを読むと、「本当にそれでいいの?」とおそるおそる訊きたくなる。

自分は文学部の学生ではあったけれども専攻が心理学だったためにあまりにも主観で心や精神に語ったりすると叱られた。
つまりは、文学や哲学ではダメなのだそう。
常に実験実証主義というものの中で、つまらないことでも実験のネタにする。
そういうことの積み重ねがデータとなり、速くもあり遅くもあるスピードで研究は進められていくものらしい。

常に、風があり、その風に翻弄されているような気がすることもある。
残念ながら自分が最先端というわけではないのであれば、黙って追実験を繰り返すしかないのかもしれないし、それでいてそれが如何に退屈な代物であるかはうまく言えない。
あの世界で自分が学んだことと言えば、まさに「データは自分のもの」ということくらいなのかもしれない。
学部の学生がやろうと、教授がやろうと、きちんとした手続きを経て得られた客観的なデータというものは個人のものらしい。
それ以外は、きっと他人のものなのかもしれない。

テキストに表現された眼に見えぬ何かというものを、そんなに簡単に他人が語ってしまってもよいのだろうか?
逆に短歌などは、余韻の多く含まれた歌を秀歌とするらしい。
つまりは、読む人が深読みするような歌がよい歌であり、それを引き出すような歌となるとたしかにアートなのかもしれないと思う。

結局、「自分を語れ」というのはそういうことなのかもしれず、自分を語れないから小説などを書く人を純文学の人と呼ぶのかもしれないし、書き手と読み手のそういう行間を読むようなやりとりが繰り返されるからこそ文学というものは文学として存在するのかもしれない。

自分には断言するという習慣がない。
というのは、常に反論を予測しているせいかもしれないし、客観的に証明することのできないことに対しては、なるべく断言しないほうがよいというのは、ある意味自分を救う。
一生懸命に理解不可能なことを理解するより、あるいは伝える努力をするより、それこそデータは正直だ。
数字にしちまえば簡単。
精神というものを数字で語る。
つまりは、データとして並べてしまえば、比較も可能であり、類推も簡単であり、一生懸命に説明する必要がない。
つまりは、一生懸命に説明するという不毛な諍いを避けるためにデータが存在するのではないかと思うほどに、すっきりしたものはすっきりしたままそこに存在する。

ところが、臨床・・・・
ま〜ったく逆だ。
一生懸命に誰かが理解を求めて大袈裟にもがく。
大声であっけらかんと話してしまえば、誰もなんとも思わないようなことでも、一生懸命に隠す。
隠しているから本人は苦しい。
それでいて誰かにわかってほしいから、一生懸命に行動する。
その行動が本意か不本意かもわからない。
本人じゃないから。
声なき声を声にするような世界なのかもしれないし、それでいてちょっとしたことで傷つく。
そして、傷つけられたことを大袈裟に訴える。
せっかくできた瘡蓋を自分で一生懸命に剥がして傷を深くするような行為にも似ている。

ある意味、そういう陰湿な行為なのかもしれないな・・・書くということは。
つまりは、誰にも言えないから書くのだろうし、言いたいから書くのだろうし、それでいて自分を隠しておきたいのだろうし、それでいて書けないらしい。
だから、常に裏表のある哀しい世界。
表から裏を眺めるというのはヘンだ。
月の裏側を知らない。
知らなくても何も困らない。
でも、丸いのだから裏も存在しているということはわかるし、地球から見るからそれは裏側として認識されているだけであり、あちらから見れば地球もまたそういうものなのかもしれないという関係性を考えると、月のうさぎがのんびりお地球見をしていたとしてもかまわないような気さえしてしまう。
地球から月を眺めるより、月から地球を眺めたほうが遥かに美しい気がするけれども、地球に住んでいたら地球は見られない。
まるで鏡のよう。
自分の顔や背中は自分では見れない。
自分のものであって自分では見ることができないということは、酷く矛盾しているようでいて、自分の背中は何を語っているのか自分ではもっとわかるはずもない。

そんなこんなを考えると、月から見た地球とか、他人から見た自分というものも厳然とした事実として存在しているわけで、そういう意味ではあっさり他人のことを語っても罪ではないのかもしれないな。
自分のデータがあり、それを誰かがお地球見する。
それが評論なのかもしれない。

まあ、地球が月うさぎから見ても青だったらいいかな、ということを書き添えておこう。
月には行ったことがないのだから、それくらいは許されるだろう。

投稿者 Blue Wind : December 21, 2003 04:08 PM
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