December 22, 2003

「汽笛」や「石」

それは、ひとりひとりが生きてきたみちすじが違うのですから、ひとりひとりが違っていて当たり前であり、どうして自分の中の原風景というものがそこに存在し、その事物の中に何を言いたいのか、何を感じたのかもあくまでも主観の世界であり、つまりは、そういう主観を表現する手段のひとつとして、詩だの短歌だのがあってもよい、ということなのでしょう。

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◇  詩について

      詩について (短歌) として

短歌とはなんぞやという論議はちょっと、脇に置いておいて、
つぎの詩歌における視点(コンセプト、捉え方)については、どのように響くでしょうか

芸術とは、自己の創造性による作品を通して、(客観である自己を含めて)他に働きかけるものです。その際二つの視点があります。

日常のなかの非日常性 としての捉え方(詩歌における取り上げ方)
また、それならば、逆に、非日常の中の日常性 という考え方も理論的には出てくるわけです。

一般詩については、非日常性というのは、詩の持つ本来性のような取り上げ方がなされています。

日常の当たり前の事象のなかに、非日常の精神のきらめきとか発見、そういうこころの新たな視点やものの見つめ方が普遍性を帯びていて、人にきらめきを与え、支持される。
ことばのもつ美しさとか、響きが新たな視点を与えるという場合もありましょうし、事象の捉え方や心象風景が、鮮やかに描かれて、読者にも同じ視覚(体験)がすでにあったり、また、新たに、疑似体験(共感)を与える。
演劇論と同じく、それが支持を受ける場合と、また、絵画のように、いままで見たこともない
視覚という心象風景を、詩歌は言葉で再現する場合もありましょう。

基本的には、芸術性としては、全般的には作者の個性が展開され、それが特異性を帯びているということに、それぞれの芸術の優位を占めることとなるのだと思いますが、さてそうすると、
短歌においても、基本的には同じことが言えるのでしょう。 共感を得る他者と同じ、目線ということも大切な要素でもあるのですが、他とは異なる、特異性、独自性というものもまた、いかに発揮しようかと、詠み手は工夫するものでしょう。

俳壇・歌壇といった中で、先人の指導を得て、的確にそれら詩歌の表現の指導ということは日常において行なわれるのですが、特異性、独自性という視点からは、詩人は自らに努力する以外ないものかもしれません。

ある分野の芸術の篩(ふるい)にかけられるとすれば、大成するということは、他に秀でるということでありますし、独自の世界(精神世界や、表現手法)の構築を・・ということになりましょう。

もう一度、目標とするならば、芸性のもつその基本的目的理論値から、自らの表現のためのとりくみ(学習・基礎段階含む)といったものを常に、そのための練磨と意識していく必要はあるのでしょう。

そういう意味で、私達はいまどこを目指してどの辺りを走っているのでしょう。 
それが分かれば苦労はしないよという内なる声が聴こえてくる気がします。

銀まり --2003年12月22日(月) 06:26 [154]

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◇  Re: 詩について

詩も詩歌も絵画も音楽それ以外も、自己表出、自己表現の世界であり、「自分を語れ」としか語れない。技法を凌駕する部分があるとすれば、それは感性であり、感性というものはその人個人の中に内在するものであり、その発露が何かの手段を経て表出されるに過ぎない。
つまりは、あらゆるものが手段であり、そういう意味では手段はどうでもいい。
自分のようにはっきり絵が苦手であるとわかりきっていれば、それ以外の手段に頼るというのはごく自然なことであり、何が一番すっきりするか、道具として使いこなせるかというだけのことのような気がする。
お話が苦手な人は絵を描いたり、言語以外の表現ツールを使って自己の言いたいことを表現する。
花の好きな人は花を通じて花に語らせているのかもしれないし、風景以外にも人物画や人物写真。
つまりは、言いたい何かがあって、それを何によって表現するかの違いであり、自分のこころを表現したい、という意味でさまざまなツールが存在しているだけに過ぎない気がすることがある。
何気ない風景画一つにも、どうしてその風景なのかはその人でなければわからないのかもしれないし、海の絵一つにしてもラッセンの描く世界は彼自身のものであり、学校にも行かないで毎日サーフィンと絵を描いていた彼の少年時代を考えると、彼が理解されにくい彼の世界を絵によって表現しようとした。
つまりは、アートというのはそれだけのことなんでしょうね。

だからといって、それは簡単なことではなく、自分の表現したい世界を表現できるというのは意外に大変なこと。「自分を語れ」とはよく言うけれども、自分を語れないからこそ何かの表出手段が必要なのかもしれないし、それはその人自身が個々に発見する以外にないのかもしれません。

◇  主観的判断によると

>そういう意味で、私達はいまどこを目指してどの辺りを走っているのでしょう。 
>それが分かれば苦労はしないよという内なる声が聴こえてくる気がします。

自分の主観的判断によると、現在は、短歌を詠んでばかりいて落第してしまった中学生の頃の中原中也くらいではないかと思っています。彼の投稿歌は新聞などにも掲載され、それなりに上手なのかもしれないけれども、まだまだ本来の中也の味が出ていない。それでいて、暗中模索の中、彼が何かを探しているような気配がひしひしと感じられる。
その後、小林秀雄との出逢いや、ランボーの翻訳などを通して、彼本来の彼らしい作風というものが生まれ始める。

あまり詳しくもないし、あえて一生懸命に調べようとは思わないので、この辺で。
やっぱ、作品がすべてなのではないかなぁ・・・

ただ、その後の詩の中にも投影されているけれども、汽笛の音とかいのちのない石のこととか、もう初期の頃の短歌にも現れていたわけで、逆に考えればこの頃に培われた彼の感性がその後に磨かれていっただけのような気がすることもある。つまりは、自己表現の発露へ向けての修練は、そのために存在するわけであり、汽笛や石がどういう意味があり、そこに彼が何を見つけたのかをどうやって表現していくのだろうという点で、そこはやはり修練なのでしょう。

岡井隆さんによると、彼は生涯に渡って斉藤茂吉を追いかけてきたというのだけれど、つまりはそういうことなのだと思うのです。これは気のせいなのかもしれないけれど、岡井隆の名前で、それまでの結社だとかネットだとか古典とか歌葉とかそういうややこしさが一つに収まるということはすごいことなのだと思った。つまりは一人の人の中にそのすべてがあるからなのかもしれないし、源流という点で源流へつなぐ何かが存在したせいなのかもしれないし、そこのところはわからないけれども、よく結社誌でも、気になる歌人を見つけろと書いてあるのです。ライバルでも先人でもかまなわないけれども、それだけで読みが違ってくるかららしい。
でも、そういうことではなくて、本能というのはあって、自分の子ども時代に初めて出会った翻訳詩がランボーだったのは偶然なのかもしれないし、どうして数ある詩集の中からランボーだったのかは今でもわからない。その後、どうして中也なのかもわからない。ランボーと小林秀雄と中也のつながりなんて自分は知るはずもなく、つまりは直観やひらめきだけでそこへ吸引されてしまう世界がある。マン・レイ、ピカソ、中也、ランボー。直観だけ。ピカソの青の時代についてはどうかと思うけれども、自分が言いたいのはすべてをひっくるめたピカソの中の一部なのかもしれないし、もしかすると、そういうところを翻って調べてみたら自分が見つかるのかも・・・逆に。アートは自分探しをするところでもある。

◇  短歌とは何か?については・・・

http://homepage1.nifty.com/harayutaka/tanka-note.htm

原裕さんのメモのようです。
いろいろな歌人のお言葉があり、これくらいに焦点がしぼられていると清々しいかもしれません。

文学やアートについて語りだすと、それこそ自分史の世界ですから。
書いていたらキリが無くなる。

というわけで、自分の好きな作品や作者には、それなりに共鳴・共感というのがあるのだと思うのです。
それは、ひとりひとりが生きてきたみちすじが違うのですから、ひとりひとりが違っていて当たり前であり、どうして自分の中の原風景というものがそこに存在し、その事物の中に何を言いたいのか、何を感じたのかもあくまでも主観の世界であり、つまりは、そういう主観を表現する手段のひとつとして、詩だの短歌だのがあってもよい、ということなのでしょう。
それだけが言いたいだけなのに、長くなってしまいました。

◇   まとめ

★ 「短歌とは何か?」といった一般論については、先人の歌についてのありようなどはとても参考になると思います。従って、好きな歌人、気になる歌人の歌を追いかけてみるということは大切であり、それは短歌に限らず、詩や絵画や音楽についても、「アートは自分探しの世界」というくらいですから、他者の中に自分を探すというもくろみも悪くないかもしれませんし、基本中の基本なのかもしれません。

★ 河野裕子さんの言葉の中に、「事実につきすぎると事実からずれてしまう」というのがあります。つまりは、写実とは事実を述べ伝えることではなく、どうして客観的事象を通して何かを語りたがるのかは、原風景ということなのだと思います。つまりは、汽笛や石にどういう意味があり、何を感じ、何を表現したかったのかということを如何に表現していくか?ということを修練と呼ぶのだと思うのです。

★ ラサさんが以前語っていましたが、「自分にはほかの人たちの言いたいこと(短歌)をウェブで適切に表現しているかどうかの自信をなくした」という意味合いのことを。これに関しては、以前まったく違う角度からの感想を読んだことがあります。つまり、「自分の短歌がほかの人から見るとこういうイメージになるのかと思うと、それが楽しい」と。

★ 修練という意味では、個々人でコツコツ努力していくしかないかもしれないですね。具体案はないです。ただ、こう、なんと言うか、例えばCGIのアップの方法を学んで、単にコピーではなく、そこからまた自分で自分のつくりたいようにつくるとなると、アップの仕方と、自分流ということとは根本が違う。だから、修練という意味にも二通りあって、一つは技術を学ぶマニュアル的学習、もう一つはあくまでもそれをどう使っていくか?という意味での創意工夫。
まあ、よりよい交流というか、関係性の構築という点で語れば、それぞれの人たちが自分のやりたいことを素直に発見でき、かつ、それをごく自然にポジに受け止めて流していくという相互作用のある関係性が好ましいのかもしれないです。

しろねこ --2003年12月22日(月) 16:58 --URL [160]

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投稿者 Blue Wind : December 22, 2003 05:54 PM
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