December 10, 2003

記述の描写

久しぶりにタトゥーのCDを聴きながら、この前のコンサートは開演が遅れた上に50分で終了、しかもお客は半分くらいの入りというニュースを思い出す。
コンサートの前日には、「80%オフとか90%オフでタトゥーの講演チケットを買いませんか」というメルマガまで届いていた。
テレビ番組の出演をすっぽかして以来、すっかり評判が悪くなったのが原因なのかもしれないけれど、彼女たちは要するに”ロシア人”なんだなという気がしただけ。
共産圏には旅行したことはないけれど、その評判の悪さには驚くもの。
客のことを考える習慣など、あの国には存在しないのではないかと思ってしまう。

これと対照的なのが、石原プロかも。
公開撮影中に事故があり、そうなると社長や社員が総出でお見舞い、賠償、記者会見、常にファンを大切にするという姿勢。
ファンがあってのタレントということがひしひし画面から伝わってくる。
それが本音か嘘かはわからない。
彼らは役者だ。
だけど、どうすればよいのか熟知している。

孤独なマイケル・ジャクソン。
おっそろしいほど借金を噂されながらも、遊園地をつくり、そこで恵まれない子どもたちと遊んで、結局、訴えられる。
疑惑は疑惑だけど、児童虐待の基準がすでに感性として日本とは違うために、一方的に報道を鵜呑みにはできないけれども、彼の考えていることはあたしのような凡人には理解できない。

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最初にガイアにサイトをつくった頃、自分は「人間なんていつの時代も変わらない」ということが言いたかっただけのような気がする。
古今東西、人間なんていつの時代も変わらない。
常に同じことで苦しみ、悩み、そして生きる。
文学が永遠と言われるのは、誰かの気持ちがそれを読んだ人の中で生き続けるから。

だから、駄文を書いたり、短歌を詠んだりしていても、あまり深く考えたことはなかった。
要するに、誰かの言いたいことはほかの誰かの言いたいことだったりするわけだから素直に書けばよい。
それだけのはずだった。

ところが、あらし騒動。
これは、すごい。
一人の言いたいことはその人だけが言いたいことだったりするわけで、水と油が混じらないことを思い出してしまった。
一方の立場に立てば他方を敵にし、もう一方の立場に立つと逆転する。
大抵のことは日本人的にノラクラしているうちに過ぎ行くはずなのに、いつまで経っても終わらない。

結局は、完全に分離するしかない。

共鳴・共感というものがまるで存在しない精神というものがこの世の中に存在するとは・・・

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《不必要部分》

タトゥーはロシア人だ。
そうなると、あの愛想の悪さや、若くして大金と自由を手に入れてしまったゆえの自由奔放さと、そんなこんなと背景などを考えると、考えてみれば彼女たちは一生働かなくても生きていけるのかもしれないし、しょせん他人事だ。

石原軍団は、日本人の心情なんだろうな・・・
あれくらいやるのが当然だと思ってしまいながらも、それがどこでも通用するとは限らない。
つまりは、相手に期待してはいけないという意味で。
でも、何となく見ていて息苦しさを感じた。

マイケルの場合は、彼なりの生き方があるのだろうし、最初から到底彼の気持ちなど理解できないような気がしてしまう。
おそらくは、差別や偏見という社会の申し子なのかもしれないし、彼がどうして白い肌をあそこまで憧れるのか理解しろと言われても無理だ。
悲壮感すら漂うけれど、その悲壮感が彼の人気を支えてきたような気がするくらいだ。
黒い肌で白人フェース・・・
白人と黒人のよいところを合わせたような不思議なマイケルを初めて見たときには、すごくインパクトがあった。

黒人のエリート。
すごさってあるもの・・・とても真似できないような感性が。
音楽が彼らをエリートにした。

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何となく理解しているようで、実は理解しろと言われても無理なことが世の中には多すぎる。
個々に理解するのが無理だから、そこに共鳴・共感が必要になるような気がするくらいだ。

短歌はすっきりしている。
主観に徹することにより、それが客観へ変わる。
つまり、誰かが言いたいことはほかの誰かの言いたいことだったりするから。
作者の感想すら必要ないらしい。
つまりは、見たままを詠むことにこだわるのはそういうことなのだろう。
主観を突き詰めていくと、自然と客観へ行き着いてしまう。

タトゥーも石原プロもマイケル・ジャクソンも存在や行動だけ。
彼らにどうしてそういう行動をするのか尋ねても無理だろう。
見た人が勝手にどう思うかというだけのことなんだろうし、それを見たあたしはこう思ったというだけのことであり、そうするとこれは単なる感想文なのだろうか?
いや・・・
ごく普通に客観的に書こうとすれば、それこそニュースの世界だ。
自分の駄文は記述ではない。
つまりは、自分の目から眺めた世界を自分なりに描写しているだけ。

この瞬間、どうして自分が短歌なのか、少しだけ理解できたような気がした。
要するに、誰がどういう風に思おうが関係ないってことなんだろうな・・・
つまりは、少なくても短歌には、この駄文の「タトゥーはロシア人だ。・・・・・・音楽が彼らをエリートにした。」という部分は要らない。

投稿者 Blue Wind : December 10, 2003 03:57 AM
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