December 29, 2003

風の中の白猫

それは首に鈴をつけられてしまった猫状態というか、修道院の猫を自称する私だけれど、特にクリスチャンというわけではないと思う、つまり洗礼を受けていないという意味で。クリスチャンという自覚の欠如したままに、自分という潜在意識の中、つまりは行動体系や価値観というものの中にはそれとなくカトリシズムのようなリズムがあるような気がすることがある。どうしてそう思うかというと、逃げても逃げてもそこへたどりついてしまうからであり、自分の魂というものの逃げ場なのかもしれない。

それとは別に、我が家の庭へやって来る気まぐれな猫がたまたま真っ白な猫であるために、近頃、「しろねこ」というハンドル名を使うようになっている。どうして「しろねこ」かというと、もともと自分は猫など好きではないにもかかわらず、何となく彼女?の姿を見ていると自分に似ているような気がするからだ。

裏の奥さんが飼っているというのだけれど、彼女は非常に気まぐれであり、不意に現れたかと思うとしばらく姿が見えない。すでに死んだかもしれないと思ったら突然現れる。残り物を出しておいても食べない。「キャットフードしか食べない」と裏の奥さんが語っていたために、実際、そうやってどこかで飼われていたのかもしれないし、今でもほかの家でも飼われているのかもしれない。わざわざその猫のために、鯵を出したりしても一切食べないらしい。
なんて贅沢な猫だろう。

たまに、庭のドアをカリカリしながら家の中に入りたがる猫がいる中で、彼女は決して家の中には入ろうとはしない。人の気配がすれば逃げる。どこかで飼われているはずなのに、いつまで経っても野良猫。
ちなみに裏の家でも、家の中では飼わない。
それでいて、彼女は自由だ。
裏の奥さんがたまにグチをこぼす。うちの庭のほうが日当たりがよいから、うちの庭で寝ているらしい。飼い主のところにもあまりいない。
それでいて、彼女が汚れている姿を見たことがない。

いずれにせよ、ウッドデッキで寝ているだけだし、追い出しても勝手にやって来るし、野良なのにいつの間にか裏の家で飼われていることになっているし、家の中にまで入って来るわけでもないし、餌を出しておいても食べないし、「勝手にしろ」と思ってしまうところが何となく自分に似ている気がする。

考えてみたら、それこそ最初の頃は犬だの猫だのあれこれやって来たけど、今では彼女がたまにやって来るだけ。それもまた不思議かもしれない。猫の世界のことはわからないけど、何かそういうテリトリーでもあるのではないかとすら思ったりもする。でも、姿が見えない時のほうがずっと多いのだから、考えてみたら不思議な猫。すでに、6年くらい我が家の庭へやって来ているわけだから、それなりに長生きもしているのだろう。もしかするとオスかもしれないけど、それすらもよくわからない。でも、メスという気がする。

ネット歌人を自称する自分だけれど、とうとう「塔」のサイトにもリンクされてしまった。
(小林信也さん、ありがとうございます。)
おもむろに、本当によいのかと思ってしまう。まだ、結社誌にも投稿したことがないし、帰属意識も乏しい。歌もまだまだ下手。なんか、申し訳ないような・・・
まあ、しもじもはあまり深く考えなくてもよいから、気楽といえば気楽。
でも、末端なりに看板ってあるからな。

九里さん騒動というのがあって、知らないうちに時空短歌が解散し、気が付いたら誰もいなくなってしまっていた。
自分は時空に対して、メンバーシップをもって活動していたことは一度もない。
逆に、それがかったるいから一人にしてくれとは何度も繰り返してきた。
だから、未だにそういう個人主義的な印象があるらしい。

そのようにして考えると、自分はいつから歌人になってしまったのか不明だ。
おそらくは初詠みの歌が存在するわけだから、もしかするとその時点で歌人になったのかもしれないし、当時はネット歌人ではなく「にわか詩人」とか「にわか歌人」と自分のことを称していたために、そのうちやめるだろうと思っていた。
サイトにイラストを使いたいというだけで詠み始め、気が付いたら「それは短歌ではない」などと言われて、「短歌なんて誰でも詠める」と言いたいだけで続けてきた気がする。「偉い先生に選ばれるより云々」と言われれば、天邪鬼だから雑誌に投稿してみたり。あっさり入選。気まぐれで天邪鬼。
「ちょっとやってみよっかなー」という発作。

挑発に乗るからさ・・・ややこしいのさ。
誰かと誰かが喧嘩して、「あの人がいるから私はイヤだわ」ってなる。
それも道理。
そこで相手を追い出そうとするか、自分が逃げ出すかはまさしく性格の問題なんだと思う。
自分は、あっさり語れば逃げるタイプ。
相手を追い出すということは、自分がそこに繋がれてしまうことを意味する。
こんな愚かなことはない。
つまりは、自由がない。
となれば、逃げたほうがマシだ。
逃げた側は戻れるけど、追い出した側はどこにも行けない。
そして誰もいなくなる。

そんなこんなを考えながら、すべては流れとしか語れない。

結社の場合は、とりあえず入会申し込みをして会費を納入しているということは、つまりは帰属の意志というものがあるからであり、それでいて、何もしなければずっとそのまま。行動すればリアクションがある。それに対する自分の責任というものも生ずる。ネットとはそこが違う。

こう・・・逃げるのは簡単なのよね。
やっぱり、ネットでぴーちかぱーちかりんほととぎすをしているほうが気楽だし・・・
それでいて、つまらない九里さん騒動もピタッと治まってしまった。
なんせ去年の10月から1年以上だもの・・・
その間自分の知らないところで勝手にあれこれ疑心暗鬼で言われていたみたいだし、そういうものも払拭したい。
つまりは、自分の言葉というものを実証するために行動している。

それでも詩や短歌に明け暮れる毎日だ。
あれにこれにと勉強しようと思うだけで日が暮れる。
今の課題は、読みに慣れることかもしれない。
今の二倍のスピードで読めなければ追いつかない。
瞬読というか、一瞬にして読めなければ間に合わない。
自分の歌を詠むスピードで歌が読めないと。

風だから・・・

投稿者 Blue Wind : December 29, 2003 04:31 AM
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