December 15, 2008

祈りのことば----解釈

みそらの父よ

み名が聖とされ

みくにが来ますように

みそらのみこころが

地にもなされますように

生きる糧を今日もお与えください

そしてわたくしたちの罪をもおゆるしください

わたくしたちも罪をゆるします

わたくしたちをこころみにあわせず

悪からお救いください

アーメン

投稿者 Blue Wind : 04:32 AM | コメント (0) | トラックバック

May 29, 2007

その逆

お昼休みに家に戻ると、足元に表紙の剥がされた本が落ちている。拾ってみると、聖書だった・・・
犯犬はテンだろう。
椅子の上どころか、椅子を使ってテーブルにも上り、それではまだ足りずに横の書棚にまで・・・
あの場所なら安全だ、
と思っていたのに、
それはまったくの思い込みに過ぎなかった。
それでも、中身は無事だったので、またぼろぼろになった表紙をノリで貼りなおした。見たときにはすぐに新しい聖書を買おうかと思ったが、かといって古い聖書をどうやって処分する???

そんなことをしているうちに、ずっと棚の上におきっぱなしだった聖書を久しぶりに手に取った。
表紙が剥がれないように用心深く持つ。
いびつであるがゆえに、わたしの手にあわせて存在しているかのよう。

そうしてわたしはエレミヤ書の麻の帯とぶどう酒のかめのところを読んだ。
久しぶりに神さまとお話したような気がした。
神さまとのお話はいつも楽しいとは限らない。むしろ、その逆。

(詩篇39)

投稿者 Blue Wind : 12:49 AM | コメント (0) | トラックバック

July 28, 2006

ホセア書1.4

相変わらず、何のことかさっぱりわからない。
ストーリーがわかったからといって、そのことと自分に何の関係があるのか?

投稿者 Blue Wind : 05:02 AM | コメント (0) | トラックバック

July 27, 2006

『プリムは運命の祭り』

久しぶりに聖書を開く。
開いたページは、『プリムは運命の祭り』。
どうして、フセインが銃殺を望んでいるのか、少し理解できた。

投稿者 Blue Wind : 03:00 AM | コメント (0) | トラックバック

April 08, 2006

Good Fridayに『パッション』?

偶然というものを信じない人に何を語っても無意味だと思える瞬間がある。それでもそれがわたしの潜在意識の中に存在する何かにより突き動かされたものであるならば、それはそれで喜ぼう。

メル・ギブソンの『パッション』を観始めたとき、まさか・・・と思ったら、そのまさかだった。つまり、まさにイエズスの受難のシーンから復活までの短い出来事を映画にしている。かなり前から観ようと思いつつ、お子さまは禁止の映画のため、わたしは避けていた。

あるのは、暴力。聖書に忠実に磔刑のシーンを再現すると、ああいう残酷な画面が広がるのかと思うと、それなりに避けたい気分になっても無理はないのでは・・・

夜に観たので、娘は途中で眠ってしまった。最初のうちはいろいろ質問していたのだけれど、最後に、「三日後に復活するんでしょ?」と言い、わたしが「どうして知っているの?」と問うと、図書室で調べたと言っていた。そういえば、国語の教科書の中に、マザー・テレサのお話やアンネ・フランクの薔薇のお話が載っており、クリスマスにはお祝いをする国なので、キリスト教について知りたければ図書室には資料があるのだろう。

わたしは家で聖書を読んではいるが、特にそれを娘に強要するつもりはない。というのは、子どもの感性のほうがわたしの錆び付いた感性よりもずっとマシだからとしか言えない。たとえば、子どもに何かを伝えようとするなら、『パッション』よりも『チャーリーとチョコレート工場』のほうがいい。映画には5人の子どもたちが登場し、ファンタジーの中にメッセージがある。夢があり、家族の愛があり、とても貧しいチャーリーの家族がハッピーになるお話。

神の奇蹟、か。

そう・・・すべてはそれに尽きる。

投稿者 Blue Wind : 03:15 AM | コメント (0) | トラックバック

March 25, 2006

エラヒ、エラヒ、ラマ、サバクタニ

エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。
エラヒ、エラヒ、ラマ、サバクタニ。

私の神よ、私の神よ、なぜ私を見捨てられたのか。
神よ、神よ、どうしてわたしを見捨てるの?
神よ、神よ、どうして見捨てるの?

十字架のイエスの言葉。
詩篇22の最初の言葉。
この歌をずっと歌っていた。
それでわかった。
この歌を口ずさみ、そして最後の絶叫。

賛美歌。

正しい者の苦しみと希望。
この歌をずっと口ずさんでいた。

投稿者 Blue Wind : 02:25 AM | コメント (0) | トラックバック

March 20, 2006

南極は厳しい

聖書は詩篇に入り、一息ついた観がある。ダビデの詩を読んでいるうちに、詩篇しか読まなければ恐らくは賛美の世界しか存在しないも同然だということに気が付いた。それでも彼の時代は今よりももっと悪い。戦争と略奪と、権力と悪と、弱いものが虐げられ、近東の荒野。雨が降らなければ水にも不足し、飢饉に襲われる。

そういう時代の美しさ。
詩篇というのは、現実があまりにも過酷だからこそ美しい調を持つ。

そういう中、外は春。暖かい陽射しと強い風。夜にはものすごい音がする。
強い風のせいで、トレリスが倒れ、オトがマリが脱走したのに気が付かなかった。まあ、呼べば戻ってくるだけマシか。

それでもどうなんだろう・・・数十年ぶりに『南極物語』を観て、基地生まれのタロとジロは基地から離れることができず、それが結局彼らを生存させた。前半は観なかったので、昔のうろ覚えでしかないけれども、南極に15匹の犬が置き去りにされ、厳しい自然の中で生きる犬たち。

想い出の場所で息絶える犬、仲間を庇ってシャチと格闘する犬、あざらしに海に引きずりこまれた犬、氷の中に埋もれてしまった犬、野生に戻り果敢に生きる犬、・・・・・の姿を眺めながら、うちのオトではすぐにフリーズしてしまいそうだと思いつつ、もしかすると気が付かないだけで、道路に飛び出してトラックにはねられてしまった犬の姿を思い出す。

テンちゃんは生後1ヶ月だとは思えないほど元気がいい。高いところからも平気で飛び降りるし、ベッドの上にもよじ登る。階段から鳴き声がするのでまさかと思ったら、テンが階段を登っていた。2階に寝かせていたら、勝手に階段を降り、途中で転がったので慌てて受け止める。まるで生後3ヶ月くらいの犬に見える。実際、体格でもマリが3ヶ月で1キロあるかないかくらいだったのに、テンは1ヶ月で1.1キロを超えていた。

ペットショップだと、ミニチュア・ピンシャは尻尾が切られているけど、テンは切らなかった。狩りをする際に邪魔になるのが尻尾切りの起源だと言われているが、あざらしに首の鎖をかみつかれてそのまま海にひきずりこまれた犬の姿を見て、尻尾が危険という意味を知る。それでも尻尾のないオトやマリと違って、尻尾でテンの言いたいことや機嫌がわかる。うれしいと扇風機のようなすばやさで尻尾をまわす。

過酷な自然の中で置き去りにされた犬たち。
詩篇の美しさは、過酷な自然の美しさにも似ている。
が、しかし・・・
今さら、うちの犬たちをあんな過酷な世界に置き去りにするわけにはいかない。

投稿者 Blue Wind : 11:00 AM | コメント (0) | トラックバック

March 11, 2006

自己憐憫は最大の癒し

聖書は、マカバイの書下を読み終わり、ヨブの書の途中。

以前、ヨブ記を読んだときには、「こっのー、サタンめ!」って思ったんだけど、今回はちょっと違う。おそらくは通読しているからだと思う。サタンの悪より、ヨブを慰めに来てくれた3人の友人の石頭に腹が立つ。

悪気はないのである。ただ、この頃の考え方としては、さまざまな不幸の原因は罪を犯したからだと断定されてしまう。彼らはヨブの変わり果てた姿から、ヨブが隠れて罪を犯していたのだと思い込む。そして、罪を改めよとヨブに勧める。

ヨブが、恵まれた生活からいきなり家族や財産を失い、名誉も失い、子どもたちも亡くし、酷い皮膚病に冒され、それが自らの罪ではないことはヨブ記の読者たちは知っている。ヨブが神に信頼を置いているのは、神の恵みによるものであり、それが失われればヨブといえども神をのろうのではないか、とサタンが神に問う。そして、サタンはヨブから命以外のすべてをとりあげ、あらゆる不幸を送る。その結果、友でさえ彼が神に罪を犯したと決め付ける。

罪のない人はいないとは言うものの、まったく理不尽なことは多い。ヨブの言うとおり、信仰心のない人たちが健康にも財産にも家族にも恵まれた一生を過ごすこともめずらしくない。それでいて、ヨブのように信仰心が篤い人たちがとても酷い目に遭うこともめずらしくない。

旧約聖書の歴史書の部分は、信仰が彼らを救う。神から離れればとても厳しい罰が神から降る。それくらいシンプル。

わたしは現代人なので、どちらかといえば不幸に遭遇したときのほうが信仰心が篤くなる。特に、自己憐憫に浸っているときなどは一層神さまが近くなる。だから、ヨブがこの不幸な境遇のときでさえ、神さまとだけお話している気持ちが何となく理解できる。だって誰に言っても無駄だもの。誰に言っても無駄だから、ヨブは神さまとだけ向かい合っていたのだな・・と思うと、信仰なんてしょせんそういうものではないかと思えてくる。

ふとわれにかえると、わたしはあまり不幸ではないみたいだけど、いつも不幸に喘いでいるかのように自己憐憫に浸ることは、もしかするとわたしにとっては最大の癒しの時間なのかも。

投稿者 Blue Wind : 05:31 PM | コメント (0) | トラックバック

March 10, 2006

母と7人の兄弟

マカバイの書下の途中。
殉教した7人の兄弟と母の話。
・・・・・・書き方とか読み方にもよるのかもしれないけど、わたしにはどうもこの話の狂信性にはついていけない。

多くのユダヤ人が迫害され、殺されていた時代。この親子たちが死んだ理由は、律法で禁じられている不浄な食べ物(豚肉)を食べろという王の命令に従わなかったこと。それにより、王の目の前で、母の目の前で、ひとりひとり拷問に合い、残忍な殺され方をする。

6人の息子たちが次々と殺され、最後の末の息子の番が来た時、王が母に、豚肉さえ食べれば息子の命を助けて、王の友人として厚く遇すると約束するから息子を説得するように言う。その時母は王にはやってみると言いながら、実際には王のわからない言葉(アラマイ語やヘブライ語?)で息子に神を信じて死ぬように語る。

その後、イエス・キリストの出現により、多くの人たちは豚肉を食べないからという理由で殺害されることはなくなった。

それでいて、後世になっても殉教の話は多い。
日本でも踏み絵とか?
屁理屈で語ってしまえば、もともと偶像崇拝は禁じられているわけで、踏み絵は物理的には単なる絵にすぎない。ソロモンの神殿ですら人間の造ったものにすぎないと語る神にとって絵に描いた神を神とすればそちらのほうが罪ではないかと。

それでも神の権威以外の権威を認めない姿勢は、結局、多くの敵をつくり、多くの兄弟をつくり、それが今日まで続いているのだろう。

***

香田証生さんを殺害した犯人が捕まった。
あの残酷な犯人たちの言い分は、「たくさんのイラクの人たちが外国人によってあのように殺されているのに、ニュースになるのは外国人が殺されたときだけだ」ということ。

もう、そういうニュースは聞きたくない。
ひとりも犠牲を出さず、自衛隊が無事に帰国することを祈る。

(エゼキエル書 7.25-27)

投稿者 Blue Wind : 11:42 AM | コメント (0) | トラックバック

March 07, 2006

今は昔?

エステルの書は、ペルシアで暮らすユダヤ人の話。

エステルは早くに父親を亡くし、父の伯父に育てられた。そして、ユダヤ人であることを隠して、エステルはペルシアの王妃となる。ところが、育ての親でもある父の伯父が、王の高官にひれ伏して挨拶をしなかったという理由でユダヤ人全員が殺されるという陰謀にはまってしまう。

そこが不思議なんだけどね・・・その人が気に食わないというだけの理由で、どうしてユダヤ人すべてが迫害されてしまうのか。

いずれにせよ、エステルのおかげでユダヤ人はその難から逃れる。

***

その次の話は、マカバイの書。これは途中。しかも、共同新訳の聖書には出てこない。この話は、さすがにどこも初めて読む。

まだ、さわりだけしか読んでいないけど、アレキサンドロ大王時代から始まり、その後、アンティオコ4世(エピファネ)の時代には徹底的にユダヤ人が迫害され、ヘレニズムを受け入れないユダヤ人たちは死刑にされた。このため、急進派というか、追っ手を逃れて集まったユダヤ人たちが大軍を相手に仇討ちをしてまわる。その頃には徹底的に神殿は破壊しつくされ、エルサレムの神殿ではゼウスが祭られていたらしい。

マカバイたちの軍団はまるでテロリストのようでもあり、宗教的危機に対しての徹底的な抗戦。聖戦のルーツをここに見る感じ。

改宗するなら死んだほうがまし、という理由で殉教者が相次ぐ。今から2200年くらい昔の話だが、9.11テロやイラク戦争を連想してしまう。実際にはもっと過酷だったのかもしれない。

なんか、こう・・・今に始まったことではないんだな、と中近東の人たちの気質を感じた。

投稿者 Blue Wind : 11:28 PM | コメント (0) | トラックバック

March 06, 2006

ユディト(ユダヤの女)は強い

トビトの書とユディトの書を読みました。

トビトの書はとても文学的で、天使が人間を助けてくれるというストーリー。

心の正しいトビトが盲目になったとき、人々は嘲る。つまり、信仰心が篤く、律法を守り、貧しい人たちにも施しをし、尊敬を受けていたトビトが盲目になったとき、神は何もしてくれないではないかと。そして、トビトは絶望し、神に死を願う。

同じ頃、サラという若い女が神に死を願う。
彼女は7度結婚したが、7人の婿は悪魔に殺されてしまった。そして、彼女も人々の嘲りの的となる。こんなことなら死んだほうがましだという気分になったとしても無理はない。悪魔に愛されているとは・・・

そして、彼らの祈りを聞いていた天使ラファエルが、神さまの命令で彼らを救う。天使は人間の姿になり、トビトの息子のトビアと一緒に旅に出て、トビアとサラを結婚させ、トビトの目を治す。

ユディトの書は、女性の話。ユディトというのはユダヤの女という意味らしい。まるで映画の中の話みたい。このユディトをイメージするとき、エリザベス・テーラーとオードリー・ヘップバーンとどちらのほうが似合うだろう・・・

町が敵に包囲され、水源を奪われてしまう。そして、水が底をついてきた頃、人々は諦め始める。そのとき、若き未亡人(やもめ)のユディトが美しく着飾り、颯爽と敵の陣へ向かう。敵の軍は大軍で、これが男性だったらあっけなく殺されてしまっただろう。降参。

ところが彼女は見事に敵を欺き、敵の大将の首を持ち帰る。
美しく聡明で信仰心に篤く、それでいて勇敢。
ユダヤの女。

一人の女性がユダヤの危機を救った。

このどちらの話にも預言者は出てこない。
特に、ユディトの書では、あのような危機的状況だとこれまでなら、大抵、王が預言者の話を聞いたりするものだけど、この話にはユディトの祈りがあるだけで、彼女の行動はすべて彼女の信仰心によるものである。

トビトの書では、はっきりと天使と悪魔が登場する。

預言者たちを通して語られる神のことばはいつも厳しさに満ちている。それとは逆に沈黙の神は憐れみ深い。

なんで?

それと、ユディトは終生やもめだった。子どももいない。
聖書には書かれていないけど、これだけ戦争続きの世の中だもの・・・夫を亡くした女性は多かったはず。その女性たちの模範的な生き方だと書かれている。やもめのユディトに求婚する男性も多かったけど彼女は断り、亡くなる間際、下女を自由人にし、夫の遺した財産は夫と自分の親戚に半分ずつ分けたそう。

それまでは、子どものいない女はもっとも不幸と言われていたのに・・・

聖書にも世相というのがあるのね・・・おそらく。国が衰退し、武力ではほかの国にはかなわないとなると、強い女性が求められるのだろうか。なんかね・・・もしかすると、今の日本がこういう状況なのはそういうことが原因なのかもしれないと、ちょっと思った。

投稿者 Blue Wind : 04:55 AM | コメント (0) | トラックバック

March 04, 2006

70年は長いのよね・・・人間にとっては

エズラの書からネヘミヤの書まで読みました。
正直申し上げて、ネヘミヤの時代の神殿の再建、宗教改革の話にはどこか日本の明治時代の王政復古を思い出さずにはいられなかった。幕末の混乱、そして尊皇攘夷・・・
坂本竜馬はかっこいいと思うけれども・・・・すでにわたしにとっては歴史の人。

ネヘミヤが知事をやっている間は律法を守って暮らしていたはずが、廃墟のエルサレムですもの・・・彼がたった25年間留守にしただけで、元の木阿弥。だから国が滅んだのだと言われても、バビロンの捕囚の時代は70年も続いたわけで、その間すでに異国人同士の結婚は当たり前だったし、それがソロモンの過ちだったと言われても戸惑う世代が多かったのでは・・・

う〜ん・・・・
戦前あるいは戦時中なら大変なことになるかもしれないけど、正直、クリスチャンでなくてもすでに現人神(あらびとがみ)という発想にはついていけないのでは。

偶像崇拝という意味ではないけれども、わたしはもはや雛人形を女の子の理想像としては描けない。それは皇太子殿下がジャージを着て皇居を走っているからではなく、今の女性の生き様にマッチしていないと漠然と思っているくせに、親としてはほかの子たちがお祝いしているのに無視するわけにもいかない、という義理のようなものでわたし自身が飾ってきたからかもしれない。

義理とは何ぞや?

う〜ん・・・・
わからない。

今の時代にはマッチしないとは言うものの・・・やはり義理のようなものを感じざるを得ない。
雛人形だけではなく、わたしが生まれた頃はまだ年寄りが健在だったので、祖母の姉妹という人が初孫の祝いということではいはい人形を贈ってくださったり、母の友人が博多人形を贈ってくださったり、女の子の祝い事には人形というのがめずらしくなかった。
まあ、こんなわたくしでも当時は祝ってくださった方がいた、ということが義理なのかもしれないし、父が買ってくれたセルロイドの人形は髪の毛までぐっちゃぐちゃになっていたが、そういう日本人形の類はガラスケースに入れて縁起物として飾られていた。
つまり・・・
それが日本の伝統であり文化だと言われると弱い。

滅亡した国で、宗教だけが復活するというのはまさしく奇蹟なのかも。律法書が読み上げられると、そのときのイスラエル人たちは皆ウルウルしていたという・・・そして、すでに廃れていた幕屋のまつりなどをやって皆で感動する。

それが、あっというまに忘れ去られるというのが、なんともはや・・・
なんとなく親近感を抱いてしまった。

投稿者 Blue Wind : 04:19 PM | コメント (0) | トラックバック

March 03, 2006

広くてわからない

朝から具合が悪い。
でも、エズラの書はとても大切だ。
それでいて、まだ読み終えていない。

バビロンの捕囚の70年後、再びエルサレムへ帰ることを許される。
そのことが大切なのではなく、ペルシャの王の寛大さと、エジプト王を通しての主のご意思。これが神。

***

少し楽になったので続きを・・・(こんな書き方をしても、大した病ではないです・・・)

今回、聖書の通読を始めて、いつも気になっているのが偶像崇拝のこと。歴史の教科書では、像を造るとか造らないとかその程度の違いの認識があるだけだ。でも、そのことの真意とは?

正直、多神教の国に育つと、ほかの宗教に対しても寛大。こういう傾向はペルシャの王にもあったらしい。天の神をイスラエルの神やエジプトの神と同一視しているのか、あるいは多神教であるがゆえに寛大なのかわからないが、バビロンへの捕囚後、ヘブライ人たちに対して寛大であったのは不思議だし、ましてやイザヤの預言どおり70年後にエルサレムの神殿の再建へ向けてのバックアップをしたというのだから驚く。

もちろん政治的配慮もあっただろうし、宗教で寛大であるがゆえに王国は安定する。エルサレムの神殿だけではなく、エジプトの神殿の再建も行っている。

旧約聖書というのは、イスラエルの歴史。従って、イスラエルの歴史に基づき、彼らの歴史的解釈を加えて彼らの立場から書かれている。

イスラエル人が禁じられていたのは偶像崇拝。この偶像崇拝というのがなんとも過激で、自分の子どもをいけにえにしたり、神殿の男娼や私娼。とてもじゃないが、邪悪としか思えない。その昔、宗教観というものが今ほど明らかではない時代、そういう邪教や魔術などが宗教として行われ、それらの像を神と崇めていた。

すべからく、神はこの邪教と民を滅ぼすべくイスラエルの民を導く。ところが、この民はすぐに堕落する。この繰り返し。そして、とうとうバビロンの捕囚。国は滅ぶ。そして、ペルシャの庇護の下、神殿を再建し、律法学者が登場。もう、ずいぶんと時代が経過するうちに、律法までが、あるいは神殿までが封鎖されていたくらいだし、すでにそういうものがあったのだということも知らない時代が来ていた。

エズラの書になると、それまでの書き物とは雰囲気が異なる。

***

マザー・テレサ曰く、神さまはみんなを愛している。

ただ、こう、広すぎてわからない。
時系列的な事象を眺めて、それは一つの歴史なのだけれど、そういった歴史的世界を知らないわたしからすれば、聖書の中の出来事はまるで寓話のようでもある。出来事すべてがまるで何かの喩えのようでもあり、おそらはく今の時代も大きな流れの中の一つにすぎない、という気分になる。

投稿者 Blue Wind : 06:28 AM | コメント (0) | トラックバック

March 02, 2006

滅亡を知らぬ国

聖書は、列王の書下から一気に歴代の書上を駆け抜け下に入ったところ。

列王の書下は、バビロンの捕囚までが書かれている。正直、国家が滅亡するという感覚がないため、イスラエルとユダの衰退する様子に面食らっている。国が衰退するにつれ、略奪を回避するためにアッシリアに貢ぎ物を届けたり、異教をそのまま取り入れたり・・・

とにかく壮絶すぎて。70人の王子を殺して敵国に寝返るとか、王が自分の息子や娘をいけにえにしたり、火の中を歩かせたり、飢饉から食人の話まで出て来る。

歴代の書になると、話が整理され、都合の悪い部分はカットされ、記述的内容が主になる。サムエルの書から通読すると、ほとんど同じ内容の反復なのでそのまま一気に読んでしまう。たまに、おや?という部分があるけど、深く考えないことにした。ただ、作者も書かれた年代も違うから、と思うだけで・・・

ただ、イザヤ・ベンダサンが日本を世界の別荘と呼ぶ意味や、アインシュタインが来日したときに、ごく日常的な光景のスナップを撮っていたことを、何となく思い出した。

よくもわるくも、侵略という意味では日本はあまり値打ちがない気がする。せいぜいアメリカくらい? 要するに、資源があるわけでもないし、国土の7割は山だし、地震や台風はやってくるし、夏は暑く冬は寒くこんなに不経済な国はない。秋葉原を略奪しても、機械は壊れたら終わり。雨に濡れたら故障する。まだ使えるような自動車やパソコンも捨てられてしまうし、食文化も違うし、日本人だから日本に住んでいられるような気がするほど手間ひまのかかる国。

それがいいのかもしれないな・・・

投稿者 Blue Wind : 01:00 AM | コメント (0) | トラックバック

February 27, 2006

ドラマは複雑に

聖書はようやく列王の書上を読み終わり、下に入ったところ。

ソロモンの栄華。
かなり数字の誇張はあるにしろ、神殿が完成し、王宮が建てられる。遊牧民の生活では幕屋暮らしが普通なので、かなりそれまでとは生活が異なる。ソロモンの第一王妃がエジプトのファラオの王女というのがミソかも。

ファラオの王女のみならず、ソロモンには500人の王妃と300人のそばめがいたと書いてある。あるいは、1000人の妻とかね。かなりおおげさな気もするが、ソロモンの妻はいわゆる他国人が多い。このためソロモンはイスラエルの神から離れ、それぞれの妻たちのために別の神のための祭壇を築く。

ソロモンの死後、王国はイスラエルとユダに分裂し、戦争が始まる。ソロモンの子孫はユダ王国、それ以外の10部族でイスラエル王国。ユダの首都はエルサレム。最初のうちイスラエルの人々もエルサレムに巡礼をしていたが、それを禁じるためイスラエルの王は例の如く神のかたどりとして牛の像を2つ造り、それを祭る。しかも、レビ人に限らず希望者を祭司にし、祭りの日も勝手に決める。これにより、次第に王に対する厳しい預言が下る。

政教分離というか・・・なんというか・・・要するに、歴代の王たちが本来の神から離れることにより、厳しい預言が下り、その結果、王による預言者への迫害が始まる。しかも、偶像崇拝というのは後の悪魔崇拝にも似て、バアルというのが悪魔の王の語源なんだろうか・・・それくらい激しい対立が生じる。厳しい預言者は排除され、バアルの預言者集団まで出没する。

そして、預言者エリアの時代へ。

***

列王の書で初めて人間に悪さをする霊の話が出て来る。サタン。
人間が神を離れて悪いことをするのを懲らしめるためにやってきた。

モーゼの時代とエリアの時代はまるで異なる。シンプルなのはダビデの時代までで、それ以後、王と預言者との対立が深まっていく。

投稿者 Blue Wind : 12:12 PM | コメント (0) | トラックバック

February 26, 2006

臨場感のある話

聖書はちょうどソロモンの時代に入ったところで停まっている。寝不足と外出が重なると仕方がない。いつも挫折してしまうのだけど、今回は通読が目標。なんとか桜の花が咲くまでに読み終えたい。

ソロモンの時代に入ると、いわゆる外交が活発になり、戦争や略奪よりも互いに平和に暮らしていたほうが国が栄えるということがわかる。今では当たり前のことのような気がするけど、当時としては画期的だったのだろう。

***

それにしても、残酷な時代だと思いながら聖書を読んでいたが、たまたま今日、敗戦後の満州の様子を聞いてきて、あまりにもリアルで泣ける。そのおばあさんはよく太って元気な人で、今ではまるで当時の面影はないけれども、当時の話となるとウルウルと泣き出し、語っていた。

敗戦後、満州に取り残され、いきなり匪賊が襲ってきて略奪されたこと、父親が連れ去られて血まみれで帰ってきたこと。当時は男性はそうやって誘拐されて縄で縛られ殺されてしまった。たまたま中央のほうで縛られていたため、傷が浅く、そのお父さんは助かった。

そういう状況で司令部から配られたのは青酸カリ。ある晩、母親といっしょに駆けつけて行ったら一家心中があり、子どもの分は2人で1カプセルだったために死にきれずに苦しんでいた16歳の女の子。たまらず、母親が自分の分を半分削り、その子に飲ませてしまい、終生そのことで苦しんでいたこと。

引き揚げに子どもは足手まといになるという理由で、子どもが殺されていたこと。実際、生まれたばかりの弟に飲ませる乳がないので、父親がある晩青酸カリをすっていたこと、それを兄が止めたこと。16歳の姉が麻袋で誘拐されたこと、結局、その姉を置いて日本に引き揚げて来なければならなかったこと。後日その姉の消息がわかり、子どもが2人いたが何度も脱走しようとして失敗し、精神に異常をきたして22歳で亡くなっていたこと。

7年目に馬車に乗り日本に引き揚げることになったが、途中で馬を休ませているとき、荷物ごとその馬車が走り去ってしまい、幼い弟を背負って240キロを歩かねばならなかったこと。

・・・・・・・・そういう世にも悲惨な話を、今ではのーてんきなくらい明るいおばあさんが泣きながら話していることの不可思議さ。彼女には当時の情景が見えており、記憶をたどりながら自分の目で見たことをわたしたちに話している。しかも、当時彼女はまだ子どもだった。

なんか、こう、幸せっていいよね。悲惨な過去を清算してくれる。

投稿者 Blue Wind : 01:59 AM | コメント (0) | トラックバック

February 23, 2006

旧約聖書雑感(〜サムエルの書まで)

ここまでに印象に残っているのは、これは人間が望んだことだったのだな・・ということかも。

たとえば、エジプトで奴隷になっているのがいやで神に救いを求める。その結果、戦争と略奪の世の中になる。

その次に、自分たちの平和な暮らしを守りたい。そのために強い王を望む。その結果、封建的で争いの絶えない世の中になる。

その次には、自由で平等な社会を望む。・・・・その結果?
その結果はどうなんでしょうね。
この社会は決して悪い社会だとは思っていないけど、ただ弱点がある。高齢者の3人に1人が自殺を考えたことがあり、介護者の4人に1人が鬱だそう。高齢者だけではなく、若い人たちのリストカットにもすでに驚かなくなってしまったし、NEETも増加する一方だし(関係ないか・・)、過度の競争により勝ちだの負けだのリストラだの拝金主義者だのその他諸々ストレスの高い社会でもある。

その次?

その次はわからない。
わからないというより、仮に望むことがあったとしても、何を神に望んだらよいのか、それすらわからなくなってしまった。

自分を虐げていやなヤツがいるのなら、弱い者を憐れんでほしいと願えばいい。お金がないなら、食べ物がないなら、それを願えばいい。病気や災害のない世の中?失業者のいない世の中?政治家が不正をしない世の中?子どもの成長?戦争のない世の中?

その次がわからない。

投稿者 Blue Wind : 04:06 AM | コメント (0) | トラックバック

February 22, 2006

ダビデの時代

サムエルの書上下を読み終える。

昨日のサウルのポカの話のつづきから。
ヘルム(日本語で言う皆殺しと放火だろうな・・)が素晴らしいとは思えないが、それまではヘルムといえば仮に高価なものがあったとしても略奪せずにすべて焼き払っていた。ところが、サウルは民に強いことは言えず、神に背いて略奪を容認してしまう。その結果、神はサウルを王にしたことを後悔するようになっていく。

軍事力アップのために王を立てたいと言い出したのは人間のほうであり、その結果として、国は強くなっても王は民の財産を奪い、民を奴隷とするだろう、という預言がどこかに書いてあったが、まさしくそういう世の中に向かって前進していく。

そして、サウルを王にしたことを後悔した神は、新しい王としてダビド(ダビデ)を選ぶ。

ダビデがサウルに仕えるようになったという逸話は2種類あるが、おそらくは戦いで手柄を立てたというほうがその後の文脈に合っている。ペリシテ人の大男との一騎打ちの際、まだ兵にも出ない年頃のダビデがイスラエル人の代表となり、石礫を相手の額に命中させ勝利を得る。そして、サウルに気に入られて家来になる。

それから先が大変。
ダビデが油を注がれた者であることを知り、サウルをしのぐ人気を得るにつれ、サウルの乱心が始まる。なんでもないときには普通の王なんだろうけど、突如としてダビデを殺そうとして暴れる。

その後、ダビデはペリシテへ逃げ、サウルと王子のヨナタンは敵の手にかかって死ぬ。さらに、イスラエルとユダの対立は深まる。

ダビデの罪。これにより、ダビデの息子の反逆。
ダビデは、サウルもヨナタンももちろん息子のアブサロムも愛していたから、深い悲しみに襲われる。愛する者たちによって命を狙われる運命だったのだろうか。

どこの国にも似たような話があるのでは・・・
封建的な社会というのは、軍事国家の宿命なんだろうな・・・

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February 21, 2006

変わりゆくもの

サウルがポカをしたところでちょっと休憩。
判事の書→ルトの書→サムエルの書上と進んでいる。

判事の書も後半になってくると、サムソンという英雄まで出没する。彼はどちらかというとギリシャ神話の中のヒーローのようで、女性で躓くあたりが人間くさい。

当時のイスラエルはペリシテ人と年中戦争していたらしく、サムソンの時代には征服されている。互いに侵略したりされたり、どうしても落とせないところはそのまま町が残っているし、サムソンのペリシテ人の妻の話や、サムソンの弱点を密告する女性や、あるいは人間離れした怪力の持ち主サムソンに弱点があること自体がギリシャ風。髪の毛を剃られると普通の人間の力に戻ってしまうという・・・

エフテの娘の話は悲劇。(いかんよ、そういう誓いをしては・・)

ルトの書は、めずらしく戦争の話ではない。ダビデやイエス・キリストに異国人の血が混じっているということを初めて知る。異国人といっても隣の国だし、もともとのルーツは一緒なんだろうけど、ヘブライ人ではない。

その昔、飢饉があり、モアブに移住したエリメレクと妻のノエミ。ノエミには息子が2人いたが、夫と息子に先立たれる。そして遺った異国人の嫁たち。その嫁の1人がルトで、彼女は実家に戻らず、ノエミと一緒にベツレヘムで暮らす。そして、エリメレクの親戚の男と結婚し、法律上のエリメレクの子孫を残した。

おそらくは、ずっと戦争をしていたので、そういうケースが多々あったのかもしれない。

祭司エリの息子たちは、祭司の職権乱用で評判が悪い。結局、戦争の際、神の櫃をペリシテ人に奪われ、その息子たちは死んでしまった。世襲制だとどうにもならないもの・・・クビにできない。
神の厳しい罰が彼らに下ったという話。

律法というより、道徳かな。逸話の中に道徳がある。

さらに時代が進むと、イスラエル人たちは王が欲しいと言い出す。部族があって、かしらがいて、長老たちがいて、有事の際には預言者がいて各部族が一致して戦う。・・・・はずだったのに、この頃になると他の部族の干渉を嫌うベンヤミン族のようなケースがあると、いわば内戦状態になり、身内で殺し合いをしているようなものとなってしまう。懲らしめたいがいざ12部族のうちに欠けが生じるのもつらいという矛盾。

戦争だとその時代の周辺の強大な王国のように、多くの民がいるほうが強いに決まっている。が、しかし、神の守護があれば、人数なんて関係ない。実際、川が氾濫したり、いなごの大軍が押し寄せたり、敵にペストが蔓延したり?

が、実際には、イスラエル人は王を求める。その初代の王がサウル。
サウルは・・・・どこか頼りない。
この頃になるとどことなく民主的で、王が誓いを立て、誓いを破ったものは殺すと言ったら、その誓いを知らずに罪を犯したのは息子のヨナタンだった。しかも、彼はその時の戦争の英雄。

判事の書の時代、エフテは自分の誓いどおり、娘をいけにえにしてしまった。その悲劇。ところが、サウルの場合には、民がヨナタンに味方し、彼の代わりに牛が屠られた。戦争でへとへとになっている兵士たちに断食を命じるほうが悪いと言ったヨナタンを民が支持したのも当たり前。そういう誓いをしたサウルが悪いそう。

投稿者 Blue Wind : 01:48 AM | コメント (0) | トラックバック

February 20, 2006

嵐の時代

ヨシュアの書を読み終わり、今度は判事の書に入ったのだが、同じ内容の繰り返しなので、読むのがつらい。聖書というより、何か軍記を読んでいるようで、書かれている内容も残酷。

この頃になると、宗教や信仰の問題よりもむしろ律法を守ることにより、戦争に勝つ、という目的意識が目立ち、民族の歴史書なのだから仕方がないと思いながら読んでいる。そういう時代がどういう時代だったか、何十年か昔の日本を考えればわかりやすい。

恐ろしい神とか、厳しい神という印象が、絶え間なく広がる。
嵐の日の海を見れば、誰だって海は怖いだろう・・・

投稿者 Blue Wind : 02:08 AM | コメント (0) | トラックバック

February 19, 2006

やっとヨシュア・・・

やっとヨシュアの書。この辺になってくると、ようやく意味が見えてくる。大雑把な言い方をすれば、当時のカナン人のカルト的信仰を考えると、神の国というのがどういう意味なのかおぼろげに。

まずは、酷いよ〜!!
町の城壁を造るのに人柱・・・子どもをいけにえにする。神殿には娼婦や男娼がいて、報酬を得ている。呪術や魔法?によって祈祷や占いに頼る。そういうカルト的宗教というのはカナンに限ったことではなく、古代の宗教にはそういう不気味な感覚がつきまとう。

そこで、何度も繰り返されているように、ヘブライ人たちをエジプトから救い、偶像崇拝(カルト)を破壊し、まことの神の国をつくるというのがイスラエル建国のコンセプトだった。

何度も何度も偶像崇拝を禁じて、厳しい罰が与えられる。
聖戦というのがどういうものなのかわからないけれども、ぎょえっとなるような狂信に対する神の戦いみたいなものなのだろうか。そこで徹底的に偶像(カルト)が破壊されていく。

***

神が先頭に立ち、戦いを勝利に導く、という感覚は日本にもずっと昔からある。
それこそ元寇のときがそうだし、あのときの神風というのは台風だったと言われている。近い時代では、日清・日露。こんなアジアの小国が清やロシアを破ったのだから、今でも日本がどこにあるのか知らない人たちですらその戦争のことを知っていたりする。

武士道というか・・・そういうプライドの高さは日本人の特徴でもある。

***

ヨシュアの書になると、おぼろげながら新約の中の話を彷彿する部分が現れる。
たとえば、神殿での呪術的な意味での娼婦や男娼を非難する一方で、ヨシュアの送った偵察者の命を助けたのがエリコの娼婦。これにより、彼女や彼女の家族はヘレムを逃れる。

ヘレムというのがハーレムの語源というのだけれど、これまたイメージが難しい。戦いがあると男たちは殺され、女性と子どもだけが捕虜として生活していたというのもヘレムらしいし、それこそ人から家財道具からすべて火をつけて燃やしてしまったというのがヘレムだともいうし、エリコの戦いではユダ族の3人が裏切り、本来ならヘレムにして燃やしてしまわなければならないのにちゃっかり金銀やがいとうをくすねてしまい、神の怒りを買う。

歴史は繰り返すというけれど、ヨシュアとメシア、娼婦とマグダラのマリア、ユダ族の男たちとユダ。そして、ヘブライ人の12部族を象徴するように12使徒。

投稿者 Blue Wind : 01:06 AM | コメント (0) | トラックバック

February 18, 2006

何千年も昔のこととは思えない・・・

ようやく、第二法の書にたどりついた。簡潔に今までの話をまとめてあるので、少し読みやすくなった。
申命記というところだろうか・・・
ということは、荒野の書は民数記なのだろう。

***

避難の町って、最初、意味がわからなかった。不注意で殺人を犯してしまった人たちのための町。わざとではないけれども、うっかりぶつかってしまったら相手が転落して死んでしまったとか、石を捨てたら下を歩いている人にぶつかったとか、その手の類の罪。

刑務所?

いや、それとも違うようだ。つまり、リンチから守るためにこのような町が造られた。
律法では敵討ちは認められている。つまり、家族を殺されたら仇討ちができる。仇討ちは殺人には相当しない。でも、殺意がなかったのに相手が死んでしまった場合、リンチが拡大することを懸念して、いわば治安の維持のためにこういう町が必要だった。昔から刑務所ほど安全なところはないというが・・・

***

娘の相続。
要するに、息子がいない場合、娘が相続する。ただし、父親と同じ部族の者と結婚しなければならない。土地は神からそれぞれの部族が与えられたものだから、ほかの部族の人が所有してはいけない。つまり、領地だからね・・・たとえば沖縄をまるまる娘が相続してその娘が外国人と結婚したら沖縄は外国の所有地となるという理屈。無血の侵略なのだろう。
ちなみにバリ島は外国人が土地を所有できなかったはず。

***

第二法の書は、イスラエルが分裂していた時代に書かれたものらしい。国が分裂すれば、宗教も変わるのかもしれない。そこで再びモーゼが登場する。

ちなみに城壁のあるところが都市で、その周辺のサテライトの町のことを娘たちと呼んでいる。

こうやって旧約聖書を読んでいくと、宗教と国と法律とが密接に関連し、侵略と領土と民族とかしらと、そして指導者。そういうものなんだろうな。こういう形態は昔からあって今も続いている。だから何なのさと言われればそれまでだが。

投稿者 Blue Wind : 04:08 AM | コメント (0) | トラックバック

February 16, 2006

メリバの水

旧約聖書の世界に興味をもったのはこの数年のことで、今さらながらに考えると、イタリア・ルネッサンスの奔放さの影響かもしれないし、あの!読みようによっては退屈極まりない世界がビビッドに表現されていることに、聖書を読むことにより思い知ったからかもしれない。ほこりの被った魂を洗濯するというか・・・

メリバの水って何なんだ・・・どうしてこの事件がきっかけで、アロンが死ぬことになったのかわからない。アロンの罪とは何か、モーゼの罪とは何か・・・わからない。ただ、メリバというのが罵ることで、相当酷い罵り合いがあったのだろうし、聖書にはイスラエルの民がモーゼに口論をしかけたと書いてあるだけ。

荒野で飲み水もなく、ただ死を待つ。
その時に何があったのか?

預言者って悲惨。アロンは預言者ではないけれども、モーゼの兄で、兄と一緒なら・・・ということでモーゼと共に行動する。その結果、アロンは2人の息子を失う。香を炊いていたときに酔っていたのだろうか・・・

ミリアムはモーゼとアロンの姉妹だが、彼女はモーゼの妻のことで不服を述べたところ、らい病に罹ってしまった。そして、死ぬ。豊かな土地どころか、飲み水もないところで前途の希望は断たれ、大切な家族を失い、こういう状況で何があったのか、もやは想像するしかない。

モーゼが山にいる間、クレーム係はアロン。並のクレームじゃないですからね・・・怒りと不満の爆発。そういう中で、家族を失い、メリバの水のところで決して口にしてはいけないことを言ったのかもしれない。十戒には人を殺すなと書かれているけれども、モーゼはエジプトで人を殺している。そのことは皆知っているはず。それでエジプトから逃げていたのだから。

なんか、こう、精神的に限界というか、ぐったりとした雰囲気が淡々と綴られており、その結果、アロンはホルの山で死ぬ。息子のエレアザルと一緒に登り、アロンの服をモーゼが脱がせ、それを息子に着せる。アロンの服というのは、司祭の服であり、それにより、アロンは先祖に加わり、エレアザルが後継者となった。

メリバの水というのは、人々が罵り合っている土地で、モーゼが杖で岩を二度叩いたら水が湧き出てきたところからそう呼ばれるようになった。

心安らかな人たち、つまり信仰心のある人たちにとっては、つまり神が何とかしてくださるだろうと信じている人たちには少しも苦労のある旅ではないけれども、信仰心のない人たちには地獄の行程。それが、淡々と綴られている。

***

アロンが亡くなったのは123歳で、40年間荒野をさまよった後と書いてある・・・天寿まっとう。一つわかっているのは、メリバでの事件がきっかけでモーゼもアロンも約束の地では暮らせない、ということか。話が前後するからよく読まないとわからんわ。

投稿者 Blue Wind : 11:37 PM | コメント (0) | トラックバック

謀反と花

この前お正月だと思っていたら、もうバレンタイン・デイが終わっているし、今年は美味しいチョコを堪能し、ついでにスーパーで半額になった高価なチョコも買ってしまい、しばし余韻が続いている。いつの間にか義理チョコが感謝チョコと呼び方が変わり、ついでに景気がよくなってきたらしく、日本の景気を占うのがチョコの売れ行きというのはなんとも日本的。おそらくは財布を握っているのが女性なので、そういう言われ方をするのだろう・・・

そういうつまらないことを考えながら、聖書はいまだに荒野をさまよっている。アロンの枝に花が咲いたところまで読んで、急に眠気に襲われてそのままダウン。おおなみこなみ・・・

最初に2年間遠回りしてカナンへ・・・
そこで、めでたしめでたし、だったらよかったのに、さらに38年間も荒野をさまようことになる。

理由は・・・謀反。
モーゼへの謀反なんだろう。不満だらけの人たちを連れてエジプトを出て以来、ようやくカナンの境界まで来たところで部族のかしらたちが偵察へ行く。すると、臆病風に吹かれてそのままエジプトへ戻りたくなってしまった。それと、預言者の哀しさで、神と話すのはいつもモーゼ、と祭司。どうしてモーゼの言うことを聞いてこんな苦労をしなければならないのか・・・

モーゼやアロンというのは、やわらかい人たちなんだよね・・・
この対比がおもしろい。

部族のかしらたちが250人でモーゼのところに不満を言いに来る。すると、モーゼとアロンは地にひれ伏し、もの申す。

そこで、250人の人たちがそれぞれに神に捧げる香を炊く。
結果は、謀反を起こした人たちは家族も含めて大地の中に落ちて行った。250人の香を炊いた人たちも火に巻かれて死んでしまった。そして、さらに38年間臆病風に吹かれた人たちは死ぬまでカナンへ入ることがゆるされない。気が堰いてカナンへ入って行った人たちも敵に追われてしまった。

そこで、こういうことが起こらないように神さまに訊いてみよう、ということになる。そして、部族のかしらの名前を書いた枝をもちよる。翌朝、アロンの枝に花が咲き、実が生っていたのを見て、皆は納得した。

モーゼやアロンというのは、いつも神さまに、そんな酷いことをなさらないでくださいと祈っている。
この世の不幸は神さまの仕業なんだろうか・・・

投稿者 Blue Wind : 05:28 AM | コメント (0) | トラックバック

February 15, 2006

形骸化

レビの書を通過し、荒野の書に入ったところ。
とっつきにくい。
最初からいけにえの話。

この、「いけにえ」という感性がむずかしい。
罪償のいけにえ。
それが後にイエス・キリストの磔刑へ。

ただ、人が集まるところすったもんだするのは当たり前で、それを裁く権利があるのが神だけだとすると、何かあるたびにモーゼのところに人々が相談しに行っていたのは想像に難くない。荒野の書によるとレビ人を除いて60万人以上。実数とは違うかもしれないけど、その人たちがいちいち祭司のところへ行っていた? (文字通りに解釈すれば、小さな村や町の人口が4万人前後だとすると、12町村あった計算になる。)

遊牧民が家畜を屠ることはめったにないらしい。
そこのところを念頭に置いて読んでいくと何となく理解できるようになった。なんせ、エジプトをはじめとして、雄牛というのが信仰の対象であり、財産であり、繁殖と繁栄という言葉が象徴するように、雄牛を屠るというのは大変なことなのである。

罪を償うために、雄牛を屠る・・・屠るのは祭司。逆に語れば、屠ることができたのが祭司だけ。それくらい大変なことだった。そこから罪の重さや財力に応じて屠る家畜が変わるけど、それにしても大変なことには変わりはない。

だから、家畜を屠るということはとても重い罰であり、それまでの労苦と生活の糧が失われてしまう。

もう、がっかりしたと思うよ・・・もう、なんであんなことをしてしまったのだろう・・・なんてね。これをしないと追い出される。荒野で追い出されたら死を意味しているくらい過酷なことだった。文字通り、血をもって贖わなければならない。

諍いを治めるためには、血をもって契約を交わす。

だから、トラブルが発生すると、罪を償うために、いけにえを屠ってもらう。いけにえというのは、いわば自分の身代わりみたいなものなのかも。そして、その謝礼として一部を祭司が食べ、燔祭として、皆に振舞われる。

まあ、なんと言いますか、そこが遊牧民というか・・・
何かあれば、すぐに殺し合いが始まりかねないし、部族間抗争とか?
そこをいさめるために、罪を犯した人はその罪を償うために祭司のところへ行く。そして、いけにえを捧げる。血の贖い。その血をもって罪が償われる。そして、再び一致団結を促すために、皆で集まって食事をする。大盤振る舞い。それにより、水に流す・・・

それが形骸化するとどうなるか?
たとえば、初子を捧げるとするでしょ? 捧げた人がそれを利子をつけて買い戻す。初子というのは人間も家畜も一緒で、初子というのは神のものだから、それを買い戻すためには祭司に銀を支払う。だったら最初から祝い金のようなものを包み、それを持って行ったほうが合理的な気がするのだけど・・・一応、形式的にいけにえを携えて祭司のところへ行く。

なんか・・・・お金があればなんでもゆるされるみたいで、いやだなぁ。それが時代というものなのかも。

投稿者 Blue Wind : 02:54 PM | コメント (0) | トラックバック

February 13, 2006

今も昔も

連日、眠い目をこすりながらオリンピックを観て、カーラジオから流れてきた札幌オリンピックの歌を口ずさみ、選手たちの悔しそうなインタビューを見ながら、聖書を読んでいる。

テレビでは、時折、アルプスの生活が紹介され、家の中の家畜の様子や家畜を飼っていた場所がレストランになっているのを眺めると、活字からイメージするのとはずいぶん違うことに驚く。厳しいアルプスの寒さをしのぐために、人も家畜も一緒に暮らしている。昔ながらのイタリアの町を歩いていると、通りに面して足下に明り取り用の窓が並んでいるが、多くは地下室の窓。地下室といっても窓があり、明るい。石で造られた部屋。今でもそのまま使われている。

わたしは実物を見る機会には恵まれなかったが、ローマのサン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ教会にミケランジェロ作の角の生えたモーゼ像がある。わたしは最初、ミケランジェロ流のジョークの一つだと思ったけど、聖書の注釈を読んでいるうちに、あながちウソでもないんだなぁ・・というの率直な印象。

聖書というのは作者がおり、ヘブライ語をギリシャ語に翻訳したり、時代とともに編纂されていくうちに、どうも意味不明な部分や理解不可能な部分、あるいは複数の書き物が一緒になったせいか重複する部分も多い。モーゼの角も彼が怒り狂って生えてきたわけではなく、ヘブライ語の「カラン」(光り輝く)という動詞が、「ケレン」(角)に語源があるために「頭に角が出ていた」と誤訳されたのが起源らしい。

モーゼが海を渡ったという話も、実際には海なのか湖なのかわからない。ただ、葦が生えていたということから紅海ではなく、その当時には、湖とスエズ湾がつながっており、潮の満ち干きの影響があったことから、どこかその辺だろうと言われている。ヘブライ人の歩く道が晴れて乾いており、エジプト軍が波や嵐に襲われたというのもおそらくは事実なのだろう。

タイの海のスコールに遭遇すると、一瞬にして島すら深い霧と雲に覆われ、しかも少し進めばカラッとした真夏の海。天変地異を想像すれば、天にまつわる話は想像に難くない。

シナイ山での出来事も、考えてみればエジプトから出発したヘブライ人たちは430年もエジプトで暮らしており、モーゼの姿が見えないときに、アロンがエジプト風の牛の像を造って拝んでいたからといって決して悪気ではないのである。彼らにとってはそれが当たり前の感覚なのだから・・・当時の風習として、神の姿をかたちどったものが必要だったのだろう。

が、しかし・・・・
モーゼは激しく怒った。神が書いたという石板すら投げて破壊してしまうほど。

肥沃な土地へ行くどころか、飲み水や食糧にも不自由するような荒野へ行くことになったのだから、そりゃ大変だった。エジプトを出たヘブライ人たちが後悔したのも無理はない。奴隷とは言っても、食糧に不足するわけではなく、案外大切にされていたのだろうから。自由はないけれども、生活には困らない。

神に感謝して生きるというのは難しい。ヘブライ人たちが荒野で得たマンナというのも果実だと言われている。エジプトでの災いもいわば天変地異。

聖書を読んで学ぶのは、いつの時代もこんなものなんだろうな・・・ということかも。(こらっ)

投稿者 Blue Wind : 02:51 PM | コメント (0) | トラックバック

February 10, 2006

とても長い1行

この辺になると楽しんで読んでいる、としか語れない。
脱出の書のモーゼとアロン(モーゼの兄)とがファラオに会いに行くくだり。

中でも強烈なのは、魔術との対決だろうか・・・

神がエジプトでのヘブライ人のつらい生活を知り、彼らを約束の地に連れて行こうとする。そこでモーゼの前に現れる。でも、モーゼはエジプトで人を殺したためにエジプトには戻れないと思っているし、さらにファラオがヘブライ人の出国を許可するわけはないし、ヘブライ人を説得する自信もないし、口下手だし、・・・と理由を述べて神の申し出をお断りする。そこで、神は雄弁な兄のアロンと一緒に行くことを示唆。

最初は、ヘブライ人たちはエジプトでの奴隷生活から解放されることを知り喜んだ。ところが、ファラオは逆により厳しい労働をヘブライ人に課す。

ファラオというのは、いわば最高の神官でもあり、モーゼが不思議なわざを行ったところで負けてはいない。モーゼに言われてアロンが杖をへびに変えれば、ファラオに言われてエジプトの魔術師も同じようにする。アロンが川の水を血に変えれば、魔術師も同じわざを。その後、次から次へとエジプトに災いが起こるが、モーゼが神に祈り、その災いが去ると、ファラオはますます頑なになり、ヘブライ人の出国を許可しない。

神話の世界。
日本でも、神々の対決があり、岩をちぎっては投げ、ちぎっては投げ・・・という話があったような気がする。島根県の海岸線の岩場の岩がその時の岩ですと言われても信憑性が薄いが、エジプトの場合、もっとミステリアスだもの。ピラミッドの謎とか?

ヘブライ人たちがモーゼの指導のもとにエジプトを脱出したのは歴史的事実だとしても、年表のわずか1行を説明するために書かれている話はとても長く、面白い。

投稿者 Blue Wind : 04:49 AM | コメント (0) | トラックバック

February 06, 2006

4つの詩編62

今日、3冊の聖書が届いた。


Holy Bible: Contemporary English Version


バイリンガル聖書


フェデリコ・バルバロ
聖書―旧約・新約

それで、何気なく開いたら、詩編62。

***

『バイリンガル聖書』によると、詩編62. 1-2は以下の通り。

My soul finds rest in God alone;
  my salvation comes from him.
He alone is my rock and my salvation;
  he is my fortress, I will never be shaken.

『Holy Bible: Contemporary English Version』によると、次のようになる?

Only God can save me,
  and I calmly wait for him.
God alone is the mighty rock
  that keeps me safe
and the fortress
  where I am secure.

***

なんかショック受けちゃって。
日本語訳で違いがあることは、それこそ文語もあれば口語もあるため、これほどまでのダメージをわたしに与えない。だけど、外国語というのはあまりにも正直すぎてつらい。意味は同じでも、これほどまでに違う、ということから逃げられない。

ちなみに、日本語で比較すると次の通り。

***

いつも使っている日本聖書協会の新共同訳。

  わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。
  神にわたしの救いはある。
  神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。
  わたしは決して動揺しない。

『バイリンガル聖書』の訳文。

  私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。
  私の救いは神から来る。
  神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。
  私は決して、ゆるがされない。

バルバロ神父の訳。講談社の聖書。

  神においてのみ、私の魂はいこう、
  神から私の救いは下る。
  そうだ、神は私の岩、救い、
  砦だ、わたしはゆらぐまい。

***

ほかにもあるが、とりあえず・・・
本屋で見たのなら、おそらくは自分の好みとして講談社の聖書を買ったと思う。

投稿者 Blue Wind : 06:49 AM | コメント (0) | トラックバック

February 02, 2006

ひとりで聖書とにらめっこ

よく考えなくては・・・
日本だとクリスチャンは100人に1人と言われているが、キリスト教にもいろいろあって、・・・悩む。

この前、友達から電話があり、受洗のことで相談したら、彼女のところは結婚と同時にカトリックに改宗したご主人が今度はハリトリス教会へ改宗し、ハリトリスと言われてもわたしにはよくわからない。くま先生はプロテスタントらしく、土浦にセント・ポール系の教会があり、そこの信者さんらしい。ピンポ〜ン、とやってくるのは、新興宗教系のクリスチャン。

一口に教会と言っても、いろいろありすぎて悩む。

学校でもそうでしょ? カトリックもあればプロテスタントもあるし、まるで校風が異なる。一口にクリスチャンと言うのは簡単だけど、カトリックの友達もいれば、プロテスタントの友達もいる。

全然、違う。

どこが違うか、おおざっぱな言い方をすれば、雰囲気・・・

イタリアへ行っても、同じようなことを感じた。おおざっぱにカトリックで括っても、一つの町の中にいくつもの教会があり、半島のあちらとこちらに違う教会が建っている。

それで結局、ノラクラしながらひとりで聖書を読んでいる。この習慣は、おそらくは祖母の影響かもしれない。仏教にもいろいろあり、祖母は禅宗に馴染めず、実家の日蓮宗への愛着が強く、ひとりで巡礼に行ってしまう。それで、ひとりであれこれ本を読んでいた。家の中に仏壇がふたつあるのは・・・よくない?
仏壇というのは、先祖のためだけにあるのではないことを祖母から学ぶ。

大抵は、先祖の供養のために仏壇がある。日本だとそれがノーマルな感性ではないかと。

ややこしいからね。ややこしいから、ひとりで聖書を読んでいるくらいがちょうどいい。そういう感覚は、家の中に仏壇があり、毎週神社や寺へ集まるという習慣のない日本人的感性に近い。

で、仏教にもいろいろあって、どこが違うのか訊くと、「教え」らしい。昔、母に訊いたら、祖母が言うには、日蓮宗というのは、法華経という最高のお経。つまり、組織や派閥的仏教ではなく、経に立ち帰れ、ということらしい。仏陀や阿弥陀や観音や、いろいろ宗派によって違う。でも、日蓮宗というのは仏教のプロテスタントのようなもの、とわたしは理解している。

元は一つ。

いくつもの流れがあり、最後には海にたどり着けばいい、という気分。

聖書もたくさんあり、また何冊か注文した。ヘブライ語もギリシャ語もわからないし・・・
聖書にも著作権があることを知り、それならばいくつか読んで、自分の言葉をみつけよう、というか、訳した人の雰囲気で、聖書でもまるで雰囲気が違うことに気がついたから。

まあ、いいや。
外へ向かうとややこしいから、次第に内向していってしまう。ことなかれ主義というか、喧嘩しても損だから自分のことだけやっていたらいい、というのもどこか日本人的なんだろうな。

投稿者 Blue Wind : 05:39 PM | コメント (0) | トラックバック

February 01, 2006

ルカによる福音書 6. 27-36

敵を愛しなさい

「・・・・・・しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。」

***

すごくインパクトのある表現で、インパクトがあるがゆえに戸惑うほうが普通だ。

「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。」
「え・・・・」
「わるぐちを言う者に祝福を祈り、ぶじょくする者のために祈りなさい。」
「え・・・・・・憐れむくらいなら」
「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬も向けなさい。」
「・・・・・・・打たれたら自然とそういう格好に」
「上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。」
「持ってけ、ドロボー!」
「求める者には、だれにでも与えなさい。」
「要らないものなら・・・」
「あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。」
「そんなことをしたら、もっと酷い目にあいそう」
「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。」
「特に、何も・・・」
「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。」

大抵は、屁理屈をこねまわしながら、聖書を読んでいるということがバレてしまう。

投稿者 Blue Wind : 11:59 PM | コメント (0) | トラックバック

January 31, 2006

ヨハネによる福音書 6. 26-27

イエスは命のパン

「・・・・・・あなたたちがわたしをさがしているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」

***

いきなり目の前で5000人の人たちが満腹になるほどパンが出現したら、誰だって彼を追いかけてしまう。捜しているのはイエスではなくパン・・・

それが現実だよなぁ・・・
でも、飢えていなかったら?
イエスのことなんてどうでもいい、というのが本音。
それでいて、飢えた人たちがいつまでも彼を追いかけるとなると話は別?

なんかね・・・

大切なのはその先のこと。

投稿者 Blue Wind : 11:33 AM | コメント (0) | トラックバック