March 11, 2006

自己憐憫は最大の癒し

聖書は、マカバイの書下を読み終わり、ヨブの書の途中。

以前、ヨブ記を読んだときには、「こっのー、サタンめ!」って思ったんだけど、今回はちょっと違う。おそらくは通読しているからだと思う。サタンの悪より、ヨブを慰めに来てくれた3人の友人の石頭に腹が立つ。

悪気はないのである。ただ、この頃の考え方としては、さまざまな不幸の原因は罪を犯したからだと断定されてしまう。彼らはヨブの変わり果てた姿から、ヨブが隠れて罪を犯していたのだと思い込む。そして、罪を改めよとヨブに勧める。

ヨブが、恵まれた生活からいきなり家族や財産を失い、名誉も失い、子どもたちも亡くし、酷い皮膚病に冒され、それが自らの罪ではないことはヨブ記の読者たちは知っている。ヨブが神に信頼を置いているのは、神の恵みによるものであり、それが失われればヨブといえども神をのろうのではないか、とサタンが神に問う。そして、サタンはヨブから命以外のすべてをとりあげ、あらゆる不幸を送る。その結果、友でさえ彼が神に罪を犯したと決め付ける。

罪のない人はいないとは言うものの、まったく理不尽なことは多い。ヨブの言うとおり、信仰心のない人たちが健康にも財産にも家族にも恵まれた一生を過ごすこともめずらしくない。それでいて、ヨブのように信仰心が篤い人たちがとても酷い目に遭うこともめずらしくない。

旧約聖書の歴史書の部分は、信仰が彼らを救う。神から離れればとても厳しい罰が神から降る。それくらいシンプル。

わたしは現代人なので、どちらかといえば不幸に遭遇したときのほうが信仰心が篤くなる。特に、自己憐憫に浸っているときなどは一層神さまが近くなる。だから、ヨブがこの不幸な境遇のときでさえ、神さまとだけお話している気持ちが何となく理解できる。だって誰に言っても無駄だもの。誰に言っても無駄だから、ヨブは神さまとだけ向かい合っていたのだな・・と思うと、信仰なんてしょせんそういうものではないかと思えてくる。

ふとわれにかえると、わたしはあまり不幸ではないみたいだけど、いつも不幸に喘いでいるかのように自己憐憫に浸ることは、もしかするとわたしにとっては最大の癒しの時間なのかも。

投稿者 Blue Wind : March 11, 2006 05:31 PM | トラックバック
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