March 03, 2006

広くてわからない

朝から具合が悪い。
でも、エズラの書はとても大切だ。
それでいて、まだ読み終えていない。

バビロンの捕囚の70年後、再びエルサレムへ帰ることを許される。
そのことが大切なのではなく、ペルシャの王の寛大さと、エジプト王を通しての主のご意思。これが神。

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少し楽になったので続きを・・・(こんな書き方をしても、大した病ではないです・・・)

今回、聖書の通読を始めて、いつも気になっているのが偶像崇拝のこと。歴史の教科書では、像を造るとか造らないとかその程度の違いの認識があるだけだ。でも、そのことの真意とは?

正直、多神教の国に育つと、ほかの宗教に対しても寛大。こういう傾向はペルシャの王にもあったらしい。天の神をイスラエルの神やエジプトの神と同一視しているのか、あるいは多神教であるがゆえに寛大なのかわからないが、バビロンへの捕囚後、ヘブライ人たちに対して寛大であったのは不思議だし、ましてやイザヤの預言どおり70年後にエルサレムの神殿の再建へ向けてのバックアップをしたというのだから驚く。

もちろん政治的配慮もあっただろうし、宗教で寛大であるがゆえに王国は安定する。エルサレムの神殿だけではなく、エジプトの神殿の再建も行っている。

旧約聖書というのは、イスラエルの歴史。従って、イスラエルの歴史に基づき、彼らの歴史的解釈を加えて彼らの立場から書かれている。

イスラエル人が禁じられていたのは偶像崇拝。この偶像崇拝というのがなんとも過激で、自分の子どもをいけにえにしたり、神殿の男娼や私娼。とてもじゃないが、邪悪としか思えない。その昔、宗教観というものが今ほど明らかではない時代、そういう邪教や魔術などが宗教として行われ、それらの像を神と崇めていた。

すべからく、神はこの邪教と民を滅ぼすべくイスラエルの民を導く。ところが、この民はすぐに堕落する。この繰り返し。そして、とうとうバビロンの捕囚。国は滅ぶ。そして、ペルシャの庇護の下、神殿を再建し、律法学者が登場。もう、ずいぶんと時代が経過するうちに、律法までが、あるいは神殿までが封鎖されていたくらいだし、すでにそういうものがあったのだということも知らない時代が来ていた。

エズラの書になると、それまでの書き物とは雰囲気が異なる。

***

マザー・テレサ曰く、神さまはみんなを愛している。

ただ、こう、広すぎてわからない。
時系列的な事象を眺めて、それは一つの歴史なのだけれど、そういった歴史的世界を知らないわたしからすれば、聖書の中の出来事はまるで寓話のようでもある。出来事すべてがまるで何かの喩えのようでもあり、おそらはく今の時代も大きな流れの中の一つにすぎない、という気分になる。

投稿者 Blue Wind : March 3, 2006 06:28 AM | トラックバック
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