January 31, 2005

同じ歌は詠めない

短歌が面白いのは、二度と同じ歌が詠めないというところかも。

詠み始めたばかりの頃、それが詠んでも詠んでも舞い散る言の葉のような気がした。同じようなネタで詠む。それこそわたしの単調な日常。静止した過去。海や空や風。定番の語句が並ぶ。それでいて、CGIを使うようになって気が付いたのは、同じ歌がないという不思議さ。

短歌は31音節。同じようなフレーズ。それでいて、1字違っても違う歌。そこまでせこくなくても、同じような歌ばかり詠んでいるくせに、同じ歌が詠めない。一首詠むのに、一ヶ月以上費やしている人なら別かもしれない。わたしの場合、機関銃なので、それこそ浮んだらすべて。時を過ぎれば忘れてしまう。

買い物の途中に歌が浮ぶ。でも、帰宅する頃には忘れてしまう。それくらい歌というのは気まぐれな想念であり、一度すれ違ってしまったら二度と出会えない。

歌人をしていて一番つらいのは、捻れと言われるところかもしれない。毎日生活の中で詠んでいるだけでは、歌としては弱いらしい。そこをまた作品として完成させろと言われる。

歌人には力量というものがあり、常に全力疾走を要求される。広辞苑が必需品なのかもしれないし、覚えた語句はそれだけ自分の財産なのかもしれない。うたことば一つにしてもそれを自分のものとして素直に使いこなすまでには時間が掛かるかもしれないし、文法も自分のものとしなければならない。古くはこういう歌でこういう使われ方をした語句を使って歌を詠めば、一つの語句の意味をより一層広く使える。言葉とは道具である。その道具を使いこなすには鍛錬が必要。

それでいて、言葉は時代と共に変化するものであり、どんどん新しい言葉や概念が日本語に入り込む。逆に考えると、そういう複雑な概念を表記する言語が存在しなかった時代のほうがシンプルな言葉の中にいろいろなメタファーがあり奥深かったりする。

あれにこれにとややこしいことを考えていると詠めない。詠んでいる時にはそういうことはまったく考えたことがない。

ただ、作歌を続けるうちに、続けるという行動がわたしにいろいろなことを教えてくれる。時に、虚しい気持ちに陥ることもある。これだけ詠んでも舞い散る言の葉。そうやって考えると酷く虚しい。それなら遺す歌、遺したい歌を詠みたいと思う方が普通なんだと思う。それでいて、そういう発想はダメだ。そんなことを考えていたら、せっかくの想念が消えてしまう。

そういう虚無を救ってくれるのが、CGIだ。数は正直だし、これだけ似たような歌を詠んでいるのに、同じ歌が詠めない。

投稿者 Blue Wind : 01:46 PM | コメント (0) | トラックバック

一つの側面

ここにインターネット歌人としてのわたしがいる。最初は短歌などまるで興味がないし、単なるサイトのネタのつもりで詠んでいた。なお悪いことに、「それは短歌ではない」などと言われたり・・・

それが雑誌に入選すると、誰も何も言わなくなる。

その次に、ウェブの友達と一緒に詠んでいる。ネット短歌に対する偏見。ネットで主宰している新人賞に応募。それがきっかけで結社のほうに誘われる。そうするとウェブのほうが荒れる。

あまりにもややこしいので、神父さんのサイトで一人で詠む。

一方で、新人賞に応募するとか、歌稿・歌会、その他諸々積極的な歌人としての活動を示唆される。このほかにも院へ戻るとか戻らないとか、いまだにプレッシャーがかかる。

・・・・・・・・・たまに思うんだけど、何のためにそんなにがんばらないといけないの?

例に引用して申し訳ないのだけれど、ネット歌人ということで、田口ランディさんを引き合いに出す人がいる。ネットがきっかけで作家に、といったサクセス・ストーリーなんだろう。だから、りんさんもがんばれって応援してくれる人もいた。

パタッ。


・・・・・・・・・が、しかし・・・・ここまでになるとなぁ・・・・・わたしはふつうだ。まるやむは彼女なりのフツーの生活をなさっているらしく、しばらく復活は無理か?

投稿者 Blue Wind : 12:31 AM | コメント (0) | トラックバック

January 29, 2005

サイバー上の社会

想像もつかない。去年、一体わたしは何首の歌を詠んだのだろう。自分でもわからない。CGIに記録されているだけでも4475首。これ以外にイタリアで詠んだ歌や原稿用紙やメモをあわせると、どれくらいになるのか自分でもわからない。時間があれば、CGIに打ち込めばよいのかもしれない。

さっき、CGIの投稿番号を眺めたら、8000首を超えていた。あと一週間くらいで歌歴4年になる。平均すれば年に2000首。実際には、半数以上が去年詠んだ歌。

正直なところ、インターネット歌人というとバカにされる。大昔、その理由の一つに匿名で誰が詠んだかわからないということが挙げられていた。でも、詠み人知らずの伝統があるのだから、それはそれでかまわないような気がしたんだけど、詠み始めて雑誌に投稿したらそれが通った。そうなるとバレバレ。

そうなると、Rindo=白石優子。これね、歌人はよいわけ。それが当たり前なんだから。ハンドル名を使っていても、実際にはどこかの結社で長くやっている人だったり、まったくの素人というわけでもない人たちも多い。

ところが、これがジャンキーに与えた衝撃を考えると、逆にネットの闇を打ち崩すくらいのパワーが歌壇にはある。ネットは基本的に匿名の世界だから、サイトに詳しいプロフィールを書いている人なんて稀だ。実にアクセスが簡単だし、実は相手が男か女かもわからないのに友達意識ができあがったりする。そういう匿名のつながりを破壊するくらいのパワーが、”作品”を持つ人たちには多い。そうなると逆にネットは一つのメディアであり、作品発表の場となる。

が、しかし・・・・

ガイアックスでやっていた頃、モデルさんたちのサイトがあり、わたしはそこのサイトの来訪者ではなかったけど、コミュニティというのは狭く、どういうわけかそこのサイトの来訪者がわたしのサイトにも来る。ジャンキーからすると、オンラインとオフラインを分けているから、相手が誰でも関係ないという。そりゃそうだ。
が、しかし・・・・彼女たちは仕事だからさ。オフ会といってもイベントみたいなものらしいし、サイトの来訪者というのは”ファン”なんだよね。そこから舞台をやったりラジオに出たり、そういうものの話題つくりにインターネットを利用しているだけ。サイトに自分たちのセミ・ヌードくらいなら平気で公開してしまう。
それだけならともかく、風俗嬢で詩人している人がいて、今は寿退社し、介護士の仕事をしている。現役時代、「アダルトなコンテンツは含んでいません」って、サイトの入り口に書いてあった。オフラインなら出会うこともなかったかもしれない。でも、面白いからBBSでやりとりをする。たまに、風俗関係の知り合いの来訪があり、そうなると無視するらしい。ある意味、邪魔されたくなかったのかもしれないし、結婚のことすら内緒だったらしい。
ある日、BBSに、「Rinさん、結婚することになりました〜♪」ってカキコ。そうすると、わたしは、「おめでとう〜♪」って普通に運びレス。・・・・・慌てたらしい。そんなこと言われてもなぁ・・・それがどうしてダメなのか、わたしにはいまだにわからない。

何が言いたいのかというと、ある日、ネットで知り合った友達に言われた。楽天のサイトにアダルトっぽい広告が見え、それをたまたま見ていた上司に、ほかのサーバにしろと言われたらしい。そういう広告が出るのは、サーバの責任であってサイトの管理者の問題ではない。でも、ダメなんだって。一応はお仕事サイトだから。

なんで、そんなに分けるわけ?

だからね・・・世の中というのはややこしい。

以前、ネットラジオのチャット部屋にいて、そこにお仕事している人が入ってきた。みえチャットと言うの? アルバイトで有料でラジオかビデオか知らないけど、アダルト系の番組を流している人が、よその番組へ行って自分の番組を宣伝するわけ。そうなるとね・・・そこのチャット部屋へ集まっている人たちが壊れ始める。
わたしは普通の主婦なんだから、そういう人たちの相手したくないでしょ?で、怒る。

風俗嬢も詩人です。モデルさんも詩人です。わたしも詩を書いていました。ネットは匿名。・・・・・弁解するわけではないけれども、どうしてわたしが結社へ行こうと思ったかには、そういう実際的な理由が含まれていたような気がする。

自分的には普通に詩や歌の話をしているだけなら、相手が誰でも関係ないというクールさはネットで学んだのかも。来訪者が来て、テキストを読んでいるだけなら相手が誰でも関係ない。
が、しかし・・・・・みえチャットで嫌な思いをしたのは事実だし、それでいて相手も傷つけたかもしれないよ?いや、それくらい平気な人でないとああいうスケベの相手はしていられないのかもしれないけど。コミュニケーションがなければ関係ないのよね・・・あなたはそれが平気でも、わたしは我慢できない、というのはわたしの驕りではなく、一般社会における常識なんだと思う。

詩、か。
短歌でもそうだけど、いろんなことを考えると、作品、つまりテキストとして眺めるだけなら気楽。でも、来訪者のトーンにもよるのかもしれないけど、インターネットは難しい。匿名にこだわる人たちは、そういうことを気にしているケースが多い。

いろいろなことを鬱々と考えながら、気が付いたら4000首以上を詠んでいた。

投稿者 Blue Wind : 11:52 AM | コメント (0) | トラックバック

January 28, 2005

カフェ歌人

娘のお絵かき教室の待ち時間、家に戻ってきてもすぐにまた迎えに行かなければならないので、カフェで時間つぶしをする。座るとメニューやお水と一緒に雑誌を持って来てくれる。大抵は、『フローリスト』、『花時間』、『家庭画報』、『VERY』といった系統。

この前は、『家庭画報』を持って来てくれた。自分で選ぶことも可能なんだけど、そこまでの気力はないので雑誌もお任せ。パラパラめくると、茶道の家元の記事が載っていた。

率直な感想として、歌人と言えば、こういう雰囲気が正統派なのだと思った。家を継ぐためには、書・画・歌を習得する必要があるとばかりに、すべてが茶道と禅の世界に一体化して存在している。そういう記事を眺めていると、わたしも歌でも始めようかなと思ってしまう。(オイ・・)

そこで雑誌を閉じ、うたことばやオーソドックスな系統の歌集などを眺める。大抵は最低1冊はバッグの中に入っている。そのうち不意に思いつくと、メモを取り出し書き込む。メモがない場合には、詩集の余白に書き込んだこともある。多くて5首くらいのもので、手書きだと何故か言葉を選びたくなってしまう。

それがどうしてそのままメモや本に埋もれたままかというと、その雰囲気を保ったままCGIに向かって歌を詠み込むほうが遥かに集中できるからだと思う。1首の歌が10倍に増える。

ただ、自分の場合、少し違っているのは、呼吸の合間に聖書を読み、そこから再び詠み出す。そうすると、心の中から毒が沸沸と湧いてくる。どうしてそういうことになるのか、わたしにはよくわからない。ただ、聖書を読むとなおさらに心の底からの毒が表出してしまう。憐れみを求める気持ちと、心を澄ませる感覚はまったくベクトルが逆。

選歌していただくと、オーソドックスな歌を選んでくださるような気がする。和歌の歴史や成り立ちを考えるとそれは当たり前のような気もするし、それでいてわたしにはそれがどこか本当の自分を切り捨てられたような痛みに感じられる。それが禅というものなのかもしれないし、そのために人は歌を詠むようになっていったのかもしれない。

急に話が飛んで、作家のブログは面白いよ。また仕事かよ・・って思いながら読んでいる。仕事・仕事・また仕事。印税入ってまた仕事。その間、雑誌やら取材やら小遣い稼ぎ。それでいてまだ付き合いがあるのかよ・・って思いながら読んでいる。
小説を書いて、それがミリオンセラーになる時代ではないらしい。それどころか、自分で書店を回ってるの〜?って思ってしまう。この前、こひつじ日記で編集者の苦労が書いてあったけど、先生自ら歩いているのか・・って思ってしまう。
歌人は大抵の場合、生業は生業として存在しているために、わたしが知らないだけなのかもしれないけど、あまりガツガツとした雰囲気はない。いや・・・本当はわたしが知りたくないと思っているだけなのかもしれない。

優雅にカフェで、茶道の家元の和歌を眺めていると平和でいいよ・・・救われる。カルチャーセンターと一緒にするなと言われた意味が何となく理解できる。

投稿者 Blue Wind : 11:22 PM | コメント (0) | トラックバック

「題詠マラソン2005」が始まります

今年は発表が遅いなぁ・・と思っていたら、1月21日付けの給水所(BBS)に五十嵐きよみさんから次のような発表がありました。

********************

「題詠マラソン2005」の日程

2月1日(火)〜2月28日(月)正午:参加受付
2月11日(金)〜2月20日(日):給水所でお題の募集
2月28日(月)夜:参加者リスト(最終版)、お題の発表
3月1日(火)〜10月31日(月)24時:100首の投稿
11月1日(火)〜11月30日(火):感想・反省会

********************

会場はまだ発表されていませんが、「題詠マラソン2004」から飛べるようになるのではないでしょうか。たぶん。

去年の感想としては、わたしは題詠自体がほとんど初めてみたいなものだったので、休み休み投歌しようと思っていたらいつのまにか締切日が近づき、慌てて徹夜投稿してしまいました。もう雑だからね・・・CGIにそのまま投稿。
そんなわたしでも一応は完走者として、100首のうち30首を単行本に載せてくださるそうです。ほっ。

ただし、2003年の初回の単行本の売り上げが期待した以上に伸びなかったので、2004年から参加者(単行本に歌を掲載する人)が一人3冊8掛けで買い上げることになり、具体的には6000円掛かります。イベントとしてはかなり良心的な催しのような・・・もちろん、「私は単行本への掲載なんていいわ〜」ってお断りすればタダで参加できます。

というわけで、100のお題を8ヶ月かけて詠もうという試みで、それこそ短歌を始めたばかりのビギナーからメジャーな人まで参加者もいろいろ。結社に入っている人もいれば、ネットだけでやっている人もいるし、親子で?参加していたり、なかなか楽しめます。

この際ですから、皆さまも是非・・・・沿道だけよりも参加するほうが楽しい。ただ、あのCGIへの莫大な投歌をどの程度の人たちがチェックしているのか、わたくしにはわかりません・・・

投稿者 Blue Wind : 12:44 PM | コメント (0) | トラックバック

January 27, 2005

エッセンスと力量

時改めて自分の歌を眺めると、他人の眼になっている自分に気が付く。

わたしは歌を保存するために、一行BBSを使っている。投稿数と検索機能があるので、これは非常に便利。それと、同じ投稿ができないようにセットしてあるので、間違えて同じ歌を二重投稿するといったミスが防げる。

そこで、「ハーモニカ」で検索。「過去ログファイル5」に記録されているらしい。今、過去ログは「ファイル11」まであり、それ以外に現在のファイルがある。このところ詠んだ歌を記録していないためにもう少しあるかもしれない。それと、オフラインでメモに書いた歌は面倒なのでアップしていない。


(1) ちつぽけなハーモニカ鳴る朝はトゥーツ・シールマンスの透明なジャズ

(2) 吸つて吐く過酷な楽器ハーモニカ遊びで吹くにはちとつらすぎる


2首、ヒットした。

今読むと、(1)のほうが幾分マシだ。でも、自分が本当に詠みたかったのは(2)のほうなのである。そこで(2)をフォーラムに投稿。その時のコメントが、「だから何なのさ」的なもので、そのように言われてしまうとそのコメントは正しい。

実は、たまたまうちのダンナが結核だったので、過酷な楽器というのはいわば人間の病気に犯された心肺機能そのものをメタファーで語っている。どうしてそれがハーモニカになったかといえば、その朝たまたまトゥーツ・シールマンスのハーモニカを聴いたからとしか語れない。
それを歌会に出そうと思ったのは、一昨年の大晦日のK−1でスティービー・ワンダーのハーモニカの演奏を聴いたからでもある。

詞書を入れたらよかったのかな・・・
一言、「結核の肺」とでも。

でも、そういう説明が実はわたしは嫌いなのです。

そういう点、事情を知っている人というのは、すぐにピンと来るものらしい。でも、それをパブリッシャーしようとすると、わたしの知らない誰かのために詞書が必要となってしまう。そこがつらい。

そういう詞書が必要ないくらいの歌を詠めばいいのかもしれない。例えば、野口雨情さんの「しゃぼん玉」のように。しゃぼん玉の童謡としても楽しくもあり、それが生まれてすぐに亡くなったお子さんのことだと思うと酷く悲しい。

そういう詩の両義性は洋梨のシャーベットに熱いチョコレートをかけたようなもので、氷と熱とを同時に口に含んだ時の舌のまどろみを食べたことのない人に伝えるのは酷く困難な作業にもかかわらず、それをしろと命令されているようなものである。

一体わたしはどうしたらよいのだろう?

投稿者 Blue Wind : 11:24 PM | コメント (0) | トラックバック

January 26, 2005

メタファー

というわけで、わたしはわずらわしい。名刺を配って歩くような世界には興味がない。それでは何のために家でのんびりしているのかわからない。かといってジャンキーは嫌いです。友達も、気を使わないような人だけいてくだされば十分なのです。特に関西的な軋轢にはうんざりしています。

わたしは自分を救わなければならない。悪意なのか好意なのかわたしにはいまだに理解できないことが多々ありまして、そういう時には気心の知れた人というのがとても大切になったりします。

好きにさせてくれよ。それだけ。

「あなたはあなた、わたしはわたし、理解がなければ終わるだけ。」(ジャズ親父)

これは名セリフだと思います。
こういう時には猫になり、神父さんのところで遊んでいたりします。以心伝心、少し書けば通じる。世の中がそういう人たちばかりだったらいいのに。それはネットだからではないのです。いつでも自分がウェルカムで迎えられる世界。わたしの愛する人たち。

このところ、作歌さぼっています。なんか本気になれない。お仕事モードというわけではなく、いろんな意味で、聖書と短歌というのがわたしにとっての人生課題の一つなのだと思っています。わかりやすい歌ではなく、メタファー。そういうのをぶつけることのできる人たちって貴重です。神さま、ありがとう。

ヨブ記 19. 2-5

投稿者 Blue Wind : 12:56 PM | コメント (0) | トラックバック

January 25, 2005

猪俣正宇さん

ジャンキーいやだし、まったく反応ないのもつまんないし、だったらアメブロおいで、どーせタダだし、1クリックでつくって消せると誘惑したわけではないけれども誘惑したらやってきた。

お待たせしました、短歌ブロガーの皆さま、歌人を紹介いたします。パース在住masapingさんこと猪俣正宇さんがアメブロにやってきました。って、今、ブログ見たら、詩をアップしとる(笑)。

長いよなぁ・・・・長い。それこそ短歌を詠み始めたばかり、しかもタグも知らない頃からお世話になっております。そのくせ1年くらいサイトを放置してあっても、「あ、そーだったの?」みたいな感じ。とことんマイペースに徹している人なので、存在感が薄いわりには存在感があるような不思議な人です。
おじいさんが北原白秋のお弟子さんだったそうです。そーやって言われたらそういう系統の歌を詠まれるような気がしなくもなく、それでいて、「短歌は儲からんからなー」で終わり。
パースを紹介するのでも、白ゴキブリ、黒鳥、ブッシュのめずらしい花(学名付き)、「パースってふつーの花咲いてないのー?」と訊いたら、奥さんのサイトを紹介してくださいました・・・

のんきなんだわ・・・とにかく。オージー訛りの日本語使うし・・・

のんびり海や夕陽の短歌の連作で遊んでいると、ぼぉおお〜っとしてしまいます。

わたしの場合、自分が機関銃タイプの歌人なので、なんで一首詠むのにそんなに時間かけるの?と訊きたくなる。が、しかし・・・・歌人っちゅーのはそもそもがそんなものらしい。

ぼぉおおお・・・

投稿者 Blue Wind : 11:30 AM | コメント (0) | トラックバック

January 24, 2005

ネットで遊ぶ

今、ガイアックスのほうで、オルフェさんが相聞歌で遊んでくださっているんだけど、何となく相聞歌になっていないような気がしなくもなく、その点で申し訳なく思うのであります。それでも、オーディエンスという点で、相聞歌ほど気楽なものはないとも思います。自分の場合、何となくこれだけで短歌を詠んできた気がするくらいかつては返歌のやりとりだけで終わっていた。

こういうのも相性というのがあって、相聞歌といえどもしょせんネット。何となく一人の世界に揺られながら、それでいていわばオーディエンスとして互いが存在しているのかもしれないと、不意に思った。

競作といえば、同じお題やテーマに沿って歌を出すわけで、集団化してしまうとわいわいといった雰囲気でしょうか。あの歌がよいとか、あの歌人がよいとか、それで歌を出したり読んだり忙しい。わたしみたいなビギナーは、とてもではないけれども選歌なんてする気にはなれない。それでいて、好みというのがあり、それがほかの人たちと大きく外れているとは思えない。

相聞歌に対して、以前はとても丁寧だった気がする。一人で詠むという習慣が欠如していたせいかもしれないし、流れというものがあり、返歌のラリーが次第に連作として完成されていくのを眺めているのも好きだった。そして、それをコンテンツにしていただいたり・・・たくさんの人たちの感性が集まり、自分の世界が大きく変貌していくのを結構楽しんでいたと思う。

その時のイラストが、MOON&BACKなどの海外のアーティストの絵を素材にしているところからお借りしたり、いくつか日本の素材屋さんを回ったり、わたしはマメなほうではないので、そうやって誰かが発掘したサイトへ行き、素材を仕入れてくる。

アメブロ・・・
昨日、朝からパチパチとデザインを変更して遊んでいた。その時に来訪してくださった方はページを変わるたびにデザインが変わっていたから驚かれたかも。ごめんなさい。
飽きるんですよ・・・アメブロのデザイン。自分の好みで決めているというより、どちらかといえば消去法の世界だから。とりあえず全部見てみて、嫌いなものから落としていく。せっかく選んでも文字が小さかったりするとやめてみたり・・・
今回は、AZUSAさんのサイトの素材を使うことにしたので、できれば黒背景のデザインスキンを探したんだけど、なんと一つしかない。それを使うか、シンプルなスキンにするか、それとも今のまま当たり障りのなさそうなデザインで無理やり画像を入れるか悩みながら、結局、そのうち飽きてほかのデザインにする可能性を考えると、しばらくこれで我慢することにした。

自分のところが飽きるのではなく、どこのブログへ行っても同じようなデザインだから10倍の速さで飽きてくるような気がする。

このところアメブロで遊んでいて、久しぶりに題詠マラソンのサイトへ行ったら、ネット歌人やネット短歌についてのアンケートを実施しているのを発見。それでお正月明けにうちのブログにもアクセス数があったのだと気づく。今さら・・・
わたしはネット歌人だけど、ネット短歌というのは知らない。

集団化した世界があり、その流れの中にいるより、何となくやりたいことをやっているうちに道ができるほうが自分が楽なような気がする。

素材屋さんというのは素晴らしい。わたしのように自分で絵を描いたり写真を撮ったりするのが苦手な人間からすると、それを無償で提供してくださるわけですからありがたい。検索エンジンに詩で登録して、アート系のサイトをサーフィンするのも楽しい。自分の感性にない部分を補ってくれるところはさらに楽しい。何となく共鳴共感のあるサイトも素晴らしい。

でも、ネットの場合、すぐにサイトが消えてしまう。ローカルに保存してあるので画像そのものはあるのだけれど、すでにそこの素材屋さんは閉鎖したり、お休みしたり・・・そうなると、ハイパーリンクを貼れない。大抵は、二次配布や直リンや素材屋さん同士のトラブルなどが原因なのかもしれない。著作権のことを考えると、よほど精神的にタフな人か、明らかに作者が一目瞭然なくらいメジャーなところしか残らない。

でも、いろいろなことを考えると、コミュニティにいるというのは気楽かも。季節の話題、時節の話題、世の中がスマトラ沖の地震のことで大騒ぎしている時には、いくら短歌のブログとはいえ、ネット短歌やネット歌人の話よりそちらを考えるほうがナチュラルな気がするのです。そういう世辞とは無縁だからよいと言われればそうかもしれないとも思うし、それでいてどちらかといえば、普段からぼぉ〜っとしているから、ある程度コミュニティにいるくらいでないと、ますます社会との接点が欠如していきそうな気がする。

が、しかし・・・

作歌に社会との接点なんて必要なんだろうか・・・?
よーわからん。

投稿者 Blue Wind : 04:51 AM | コメント (0) | トラックバック

January 17, 2005

まだ霧の中・・・すっきりしない作歌というもの

アメブロのデザインを変えた。理由はシンプル。gooコミュニティの調子がすこぶる悪いので、そこの日記を捨てて、代わりに『風マニア』をフレームに収めるため。左フレームがダブルになると見苦しい。
それと、猫には飽きたし・・・
文字が小さいという不満はあるものの、インスタントだから仕方がない。
完璧にはいかない。

どうして不満があるのに、インスタントを使うかといえば、コミュニティだから。
どうしてコミュニティにこだわるのかといえば、神父さんにコミュニティにいることに意義があると諭されたから。

コミュニティにはコミュニティならではのトラブルがある。
セルフ・コントロールを失ったインターネット中毒の人がいて、それをあらしと呼ぶからややこしい。
でも、そういうことに巻き込まれ、気が付けば、「神さまとだけお話せよ」の世界。

神父さんのサイトで、歌を詠んでいるだけなら、ジャンキーも荒れない。誰がリアルだとかバーチャルだとかということではなく、要するに関係性の問題だから。
神さまを隊長にしていれば、大抵のことは治まるようになっているらしい。特に人間関係などのトラブルは。

わたしの連作の間に、聖書の章が書かれているのは、一人で詠んでいると一息つくような瞬間がある。そういう時に、聖書を開く。そしてまた詠み始める。
それを日課として続けていた。
それを繰り返しているうちに、それが神さまからのメッセだと気が付いたのは、それをやり始めて数日後のことだったと思う。
不思議な符合・・・・

短歌には、そういうパワーがある?

わたしにはよくわからない。ただ、音楽や詩、舞踏や絵画を含めて、アートは元々は神事から始まったことは想像に難くない。神事というか・・・ラスコーの壁画などから推測すると、そのままずばり祈りの世界だったのかもしれない。

バリ島は今でもそういう世界。島民のすべてがアーティスト。子どもの頃から、ガムランやダンス、絵画が教えられる。そして、寺院。ケチャは観たことがないけれども、ああなると一種の交霊術のような・・・

それでいて、そういうこととも違うような気がするし、要するに単なる日課。歌を詠んで、聖書を開く。
そうやって一人で過ごす時間が大切らしい・・・
一日一時間とか、一分とか・・・

それがあまりにも長くなりすぎても、日常生活に支障があるのかもしれないけど、今のところ家族からはクレームは発生しない。

これをする前に何をしていたかというと、通販カタログを眺めたり、家の模様替えをしたり、せっせと庭仕事したり、それはそれでごく普通の日常。退屈すれば、習い事でも行ったり、どこかへ電話したり、巨大なジグソーパズルをやり始めたり、ミステリーを読んだり、テレビを観たり・・・
それでも時間が余るので、何か仕事でもしようかとか、院へ戻ろうかとか・・・

わたしはヒマだけど退屈しているわけではない。

子育ての話ばかり、公園でしていても無意味だということにも気が付いた。小学校へ娘が通うようになれば、ますます時間が余る。

↑こういう話、案外、気楽にオフラインでもする人なんです、わたしは。でも、それを世間話の一つとして気軽に話に付き合ってくれるような人は、大抵の場合、忙しい。

ネットは、勝手に記事にしておくと、反応があることもあるし、ないこともあるし、相手があるようでないような世界だから、気楽。

分けているんだろうな・・・自然と。
例えば、家族は家族。友達は友達。災害が発生したり、互いに協力して子どもの安全を確保したり、そういう地域の付き合いは付き合い。ダンナには仕事があり、子どもには学校がある。いざという時になれば、仕事先の付き合いは大切なんでしょうけど、それはわたしの仕事ではない。
それでいて一人の時間。
ネットの人間関係は生きるに必要のない関係。例えば、何かあって子どもを預かってくれるわけではない。でも、そういうほうが気楽じゃないか?

歌人も世の中にはたくさんいるんでしょうけど、上下関係あるし、ややこしいかもしれない。その点、ネットは気楽だ。そのほうが自分が詠んでいて楽しい。あえて、一人で詠む以外なら。

隊長は神さまだけで十分なのです・・・

投稿者 Blue Wind : 03:52 AM | コメント (0) | トラックバック

January 14, 2005

ぐるぐるまきの想念

生きる意味おもわぬことを健やかな心と呼びし空とぶ鳥よ

これって大昔に詠んだ歌なんだけど、何となく不意に思い出した。いつかは死ぬことを考えて生きるのは、人間だけらしい。大抵は、生まれたら死んでいくだけ。ところが、他の動物と人間との違いは、言語や歩行といったことだけではなく、死を考えることにあるらしい。

にもかかわらず、島野隆さんのサイトを眺めていたとき、「普通の人は生きる意味とか、死とか、その手のことを考えないで生きている」ということに気が付いたとき、病気から立ち直ったと書いてあった。

この歌を神父さんのコミュニティで詠んだとき、「わたしは神父なんです」というコメントがあったような気がする。十字架への栄光の世界だから仕方がない。

誰かの死に直面したときなどに、そういうことを考えることは健康的かもしれない。つまりは、日頃そういうことを考えないで生きているからだろう。


学生結婚して、学生時代はよかった。ところが、ダンナが働き出し、毎日のように夜中に呼び出されることやひっきりなしにポケベルが鳴ることには驚かなかったけど、働き出して2,3日目に重症で呼び出されて、患者さんが初めて亡くなったとき、わたしは普通の人だったので、案外、驚き、何となく玄関の前に塩を置いておいた。
ところが、それが日課なんだなーと悟ったとたんに、そういうこともしなくなった。なお酷いことに、旅行の計画を立てるときに、わたしには言わないけれども、ダンナがある計算をすることを知っている。つまり、その頃なら大丈夫だろうとか、終わってるだろう、とか。臨終の際に、さすがに主治医がいないことには・・・
大抵は、下のほうに役割が回ってくる。死亡確認。

家に帰ってくると、酒飲んでダウン。それでいてまた呼び出し。都内にいた頃は勝手にタクシーで行ってくれるから楽だった。ところが、茨城は田舎なので、夜中のタクシーは予約制。仕方がないから、生まれたばかりの娘を起こして、わたしが病院まで酔っ払いを乗せて行く。
当直の医者がいるのに、呼び出されるのは臨終か、緊急内視鏡。当時は緊急内視鏡が出来る医者がほかにいなくて、どういうわけか医者になったばかりのうちのダンナが呼び出された。

なんて言うか、娘が赤ちゃんでも家計が赤字でも親が死にそうでも神戸の家が焼けて大変な騒ぎになっていても、仕事は待ってくれない。家に帰ってくると酒。姑さんから電話があっても寝てる・・・しまいにはわたしが電話を取り次がないという邪推があったことを後に知り、とんだ濡れ衣。
うちのダンナいわく、後1時間手当てが遅れていたら死んでいた人が、よく朝ひょこひょこ歩いているのを見ると医者になってよかったと感じるらしい。この話だけなら美談なんだけど、その裏側に、わたしが毎日姑さんからの鬱攻撃にさらされていたことを考えると、わたしは被害者である。
大変なのは神戸だけではない、わが家も大変なんだと説明すればするほど鬱地獄が始まる。義姉に、ダンナはタクシーでも乗ったらいいって言われたときには、むかついた。ここは神戸ではない。しかも、片道6千円の出費。泣く。夜中にタクシーなんて走ってないの、田舎は!
よぉ〜っく考えたら、要するに、親が大変なのに、どうして息子が電話一本かけて来れないの、というお話がややこしくなっただけらしい。
いや・・・震災後、電車が走ったらダンナだけは行った。無理やりお休み取って。でも、戻って来たら仕事。わたしは娘が1歳。

それが延々と続いていた・・・

うちの母がくも膜下出血で倒れるまで、かな。壮絶。

愛に飢えたる者の世界だから、要するに、やさしい電話一本とかそういうことだったんだと思う。が、しかし、親子だからこそややこしいということもあるみたいだから、わたしは逃げる。夫婦って他人だから素晴らしいって思うこともある。


話を元に戻すと、普通は、死に直面して誰かが生きるとか死ぬとかってなったら大変なことだと感じたりすると思うの。ところが、それが日常的に与えられていると、何も感じなくなってしまう。
それでいて娘が病気になったり、マリが死んだりすると、もうダメ・・・
この世の終わりのような気分になってしまう。それくらい違う。

わたしは死にたいと思ったことはないけれども、修道院へ入ろうと思ったことが二度ある。なんだかすべてがどうでもよくなって、すべてを放り出したいような・・・
よくわからないけれども、死にたいとか自殺したとか自己破壊衝動の人たちの記述を眺めると、わたしが修道院へ逃げ込もうと思う気持ちによく似ている気がする。安らかな眠り・・・神のみもとへ。パラダイス。

でも、娘とはお別れできないとか、今の生活を捨てられないとか、わたしにはまだこの世への未練が多々あるらしいので、あきらめる。


それにしても、下手な歌だよね・・・
下手は下手なりに、言いたいことがたくさんありすぎて詠いきれない一首。
屁理屈系の歌。

震災から10年。10年一昔。

投稿者 Blue Wind : 11:33 PM | コメント (0) | トラックバック

January 13, 2005

人生まるごとモラトリアム

近頃、モラトリアム人間の本領発揮というか、今度は作歌をさぼってアメブロで遊んでいる。エリクソンの提唱した「モラトリアム」という言葉が今でも生きているのかどうかは知らないけれども、一時期は話題になった。つまりは、「自分は○○である」という社会的自我がきちんと確立される前の猶予期間のこと。

日本人の場合、「私は○○です」という○○の中に言葉を入れてください、と言うと、大抵の人はこうやって考えるらしい。「私はやさしいです」とか、「私は娘です」とか。そして、3つ目くらいまで書き、それから先を悩む人たちが多い。
これに対して、アメリカではすごくはっきりしている。「私は、A教会に所属しています」、「私はバスケットのチームのメンバーです」とか。

自分の場合は、典型的な日本人のパターンで、社会的自我がきちんと確立されていないままに年を取ってしまった。とりあえず、学生時代は学生証があればどこでも通用したために、学生には甘い日本の社会を考えると無責任な年の取り方である。しかも、学生という言葉の響きの中には、モラトリアムそのものが含まれている。

大抵の人たちは、卒業し、就職し、職業が社会的自我に直結するらしい。そして、「らしさ」の中で生きていく。

わたしは、働いたことがないのである・・・そういう意味において。アルバイトならしたことあるよ? が、しかし、アルバイトはアルバイトであり、今でこそフリーターみたいな不思議な用語がまかり通るけれども、学生証がある限りフリーターでもない。

あまりにも長い間学生をやっていると、一番つらかったのが身分証明である。20代の前半のうちは平気。大学生は世の中にたくさんいる。わたしの世代は過渡期で、4年制の大学を卒業すると就職が不利とか縁談に響くという世論が残っていた。そういう時代で何となく大学へ進学し、女子大生ブーム。

時代はバブル、就職先はいくらでもあるし、それでいてわたしは就職したくなかった。卒業期になると今度は縁談とかね・・・結婚しないならと親が見つけてきたのは大使館の仕事。外交官ならいいよ?ところが、その時、父が言ったのは、「語学の勉強のつもりで行って来なさい」。

はあ?

↑この、「はあ?」には、わたしの人生のすべてが含まれている。愚かさも傲慢さも世間知らずも。

こう・・・何と言うか、自分ではまだ何もしたことがないうちに、自分の見積もりが作成されている。自分では何もしていないうちに、勝手に自分の人生が決められるということに対しての反発は相当なものだった。就職しないなら結婚しろとか、結婚しないなら就職しろとか。よく考えたら当たり前のことなんだけど、そのどちらもしたくない・・・

憲法違反すれすれのところで、どうやってこの二者択一をかわすか?

やっぱ、大学院にでも行くしかないでしょ?留学するとか・・・

今は、就職できないから大学院への進学率が増加していると、どこかの新聞に書いてあった。それもどこかおかしな話だと思うんだけど・・・それともまた違う。

いろいろな人たちに誤解されるのは、わたしはとても不幸な出来事に遭遇し、復学への時間が引き延ばされてしまっただけなので、実は世論は同情的なのです。本気で戻ろうと思えば、チャンスはいくらでも・・・なのに、本気になれない。
どうしても働かなければならないとなれば、カウンセラーとかね・・・なっても就職先を探すのが大変らしいのだけど、そういう点ではもしかすると恵まれているかもしれない。でも、働かない。

歌人、か。

あらゆる点において、わたしは中途半端である。でも、自分ではその中途半端さが心地よい。

プロフィール、か。単行本に歌を載せてくれるといってプロフィールを書くでしょ?その時、見知らぬ誰かが、わたしのプロフィールを眺めながらわたしの歌を解析しようとするわけですよ・・・文学ってそういう世界だから。でも、そこからわたしの何がわかるというのだろう?

投稿者 Blue Wind : 01:44 AM | コメント (0) | トラックバック

January 12, 2005

鎮魂歌と釈超空

最後の論文を学会に出し終えたという気の弱いセリフにおののいて、久しぶりに恩師にお手紙を書く。昨年、癌で入院し体調は良いらしいのだけれど、さすがに大学を退官して長いし、その後も趣味で実験しては学会にだけは毎年発表していた。趣味と言っても・・・なんと言うか・・・なんなんでしょう。学会そのものが、何と言うか庭ですからね・・・池の鯉に餌をあげているような感覚なのかもしれませぬ。それが餌をあげられないほど弱っているのか?

人生そのものだからなぁ・・・いわば戦後の日本の混迷の中で、何かを築いてきた人たちにすれば、日本という国そのものが作品なんでしょうし、そういう道具を与えられて育ってきた自分の世代とはパワーが違う、などとたまに思います。

わたしの世代は、逆にどうやって与えられたものを破壊し、その中からさらに自分の世界を構築するか?ということに力点があった気がします。

ひらったく言えば、先生のところに、「こんな論文見つけたよ〜、こんな本を見つけたよ〜♪」って行くわけですよ、何となく。時代はくるくる変わるし、どんどん新しいものが入ってくるし、それこそ学際的な領域にまでなるときりないから。

博物館入りしそうな初代の計算機。あれで半日かかって簡単な統計演算をしていた時代がそう遠い昔でもなく、今はそれこそ手軽に誰でも1タッチ。プログラムですらわざわざ研究室の誰かがコツコツつくっていた時代もさほど昔でもなく、考えてみればそういう時代があったから機械音痴のわたしでもパソコンを触れるような・・・

そんなことを思い出しながら、わたしは当時の延長線上に今を生きているだけのような気がした。


*************

何となく、釈超空を思い出す。

たしか去年、釈超空の没後50年ということで著作権が切れたはず。そこでネットで検索してみたんだけど、歌がない。もっとよく探せばあるのかもしれないけど、ない。

そこで一つ見つけたのが、牧師さんの説教集の中にあった歌。

基督の 真はだかにして血の肌 見つつわらへり。  雪の中より (釈超空)

釈超空こと折口信夫さんと言えば、民俗学や国学で有名だし、彼が晩年キリスト教に傾倒していったという話はまったく知らない。ならば何を知っているのかと言われても、何も知らないことに気が付く。現代歌人のアンソロジーの中にいくつか含まれていたはずだけれど、それすらも今はほかの本に紛れて見当たらない。

手元に資料がないために、牧師・橋爪忠夫さんの説教集から短歌に関する部分を少し引用させていただきます。


『大量の非業の死を遂げた人々の、その死に何の意味があるかを問うていた時に、 私は短歌の研究者・岡野弘彦の言葉を思い出しました。それは、第二次世界大戦の以 前と以後では短歌の世界は一変した。というのは大戦により非業の死を遂げた幾百万 の人々の浮かばれぬ霊が問題となり、彼らの荒ぶる霊をどうしたら鎮めることができ るかという問題を、人々の魂の底にあるものを歌う短歌は、どうしてもテーマにせざ るを得ないからだと述べていました。何のために彼らは死んで行ったのか、これを解 決しなければ、人は安易に復讐に燃えることになるでしょう。その時に何よりも、多 くの人のために自分の命を献げたキリストの十字架が顧みられなくなります。岡野氏 は、その例として歌人・釈超空(民俗学者・折口信夫の別名)をあげ、こう述べてい ます。「戦後の超空が最も心を苦しめて追求したのは、戦による巨万の死者達の魂の 鎮めをどうするかということにあった。戦火に逢って不遇の死をとげた者の霊を、日本の民俗信仰の上では未完成霊として、その鎮めのためにそれぞれの時代の生き残っ た者は苦しんできたのだと考察していた、民俗学者、国学者折口信夫の最大の課題 は、その一点にあった」と。』(牧師・橋爪忠夫さんの説教集より引用)


これもひらったく語れば、鎮魂歌の問題。
今の風潮は、亡くなった多くの人たちの霊を慰めるということよりも、どちらかといえば、募金とか援助とか、生き残った人たちへのこれからが最優先。テレビの画面を眺めていると、家族を失った人たちの悲壮の映像が映し出される。そして、その後、「募金にご協力ください」というテロップ。

もっと酷いと、9.11テロの時には、戦争。
鎮魂歌よりも戦争。

魂の底にあるものを詠うのが短歌?
戦争で失われた巨万の死者達の魂のために、釈超空は詠じていたわけだ・・・

自分の育った時代があまりにも明るくて、もはや短歌が廃れていった理由が何となく理解できた気がする。

いや・・・そうではなくて、例えば、母は沖縄やグアムを怖がっていた。戦争の傷跡を見るのがつらかったのかもしれない。「今はもうそういう時代じゃないよ」と言いながら、わたしは育ってきたような気がする。

シンガポール、タイ、マレーシア、サイパン。
明るくて美しい海。

そして、韓流ブームか。

概念歌が終わったのではなく、今の時代に釈超空を詠える歌人がいないってことなのかも。

いや・・・いるのだろうか? わたしにはわからない。

投稿者 Blue Wind : 03:05 AM | コメント (0) | トラックバック

January 11, 2005

広辞苑とPDAの組み合わせ・・・・悩む

こういうことをネタにするからダメなのかもしれないけど、ぼっけーっとしながら勝手に手が動く。スタンゲッツの甘いサウンドがさらなる甘い誘惑。

やっぱ、そーでしょ?
知らないよね??
わたしもネットの友達に教えてもらうまで名前も知らなかった。
いや、正確には、ほとんど同時に『短歌ヴァーサス』の創刊号を買ったから存在を知ったわけで、枡野さんと言われても知らない。
それは単にわたしが短歌にはまったく興味のなかった人間だからそうなのかもしれないと思っていたけれど、ザ・結社の歌人でもそうなのだから、と何となく安心する。

ビジネス系のブログを眺め、出版業界や音楽業界の不況を伝えるニュース。そんなことは大昔からそうなるであろうということはわかっていたはず。わたしの場合は、逆にアンチ・ネット派だったから、それがいきなりどうしてインターネットにはまってしまったのか、いまだに不思議。

大体、昔から知らない人はみんな嫌い。人見知りするわけではないけれども、日頃、家族や友達に甘やかされているために、社交辞令や気を使ったり使われたりすると精神が無駄に消耗する気がして、家で好きなサウンドを聴きながら昼寝したり本を読んでいるほうが好き。

それが何となく右クリックの仕方もソースの見方も知らないうちから、あれにこれにといろいろな人たちにいろいろ教えてもらいながら自然と覚えてきた。短歌もそういうことの一つに位置する。

それでいて、わたしは自分のことをインターネット歌人と思っているけど、携帯歌人だとは思っていない。PDAなら広辞苑を内臓しているのかと何となく思った。つまりは携帯に接続して、簡単に投稿できる。
ところが、ずっと家にいることが多いのに、携帯なんて使わない。いまだにダンナの携帯の番号も覚えていない。もっともうちのダンナの場合は、自分で自分の携帯の番号を覚えていないけど・・・

以前、いきなりネット短歌について教えてくださいとメールが着て驚いた。たぶん彼が知りたかったのは、短歌のブログや携帯電話を使ってラジオ番組への投稿の仕方のことだったのかも。
あっさり語れば、そういうのをわたしに訊いても無意味だと思う。PCはともかく携帯を使ったことないもの、ほとんど・・・ラジオはカーラジオ、テレビもほとんど観ない。雑誌は、カフェか美容院で眺める程度。

携帯があれば、パチパチ写真を写して、それをそのままアップすることもできるのだなぁ・・・などと思いながら、自分のその手のセンスのなさを考えるととてもじゃないけど、無理。いや・・・悪くはないかもしれない、その場で写して詠む。いかにもネット歌人という感じ。しかもPDAを使って広辞苑・・・

そこまでやるか?>あたし・・・

いや・・・・無理だろう。だって、写真嫌いだし・・・観るのは好きだけど、自分で撮るとなるとあまりにも下手でイヤになる。

クレームね、クレーム。商業出版系の人たちがインターネットに進出しても、インターネット歌人ではないわけ。それでいて、わたしよりも前から自分でサイトをコツコツつくって歌人をしてきた人たちも、どういうわけかインターネット歌人ではないらしい。

でも、「しらいし まさこ」は基本的にインターネット歌人。不思議。なんででしょう?

実は、自分でもよくわかっていない。とりあえず結社にも入っているし、そういうことを考えると、ほかの人たちとやっていることは同じなんだけどね。作歌の場が、ずばりそのままネットだからなのかもしれないし、ネットをしていなかったら自分が歌人になるなんてことは永遠になかった気もするし、もしかするとメモを片手に歌を詠むより、PDAの画面を眺めながらのほうがいつでもどこでも歌が出るのかもしれないし、以前、しもだかげき(←漢字忘れた)さんがカセットに録音しながら小説を書いて?いるシーンを観たことがあるけど、どうも自分の場合もそれに近いものがある。
なんか、こう、リアルタイムで、しかもCGIでないと作歌に気が乗らない。

いざ、PDAに進出する?
いや・・・・そうなると主婦根性が。何となく無駄な出費のような・・・
それによく考えたら、題詠マラソンは安いと思っていたけど、今年、年賀状にちょろっと歌を添えたら、案外、好評だった。そうなるとね、自分で選歌して、編集して、イメージ画像を添えて印刷すれば立派な活字。知り合いに送るのならその程度で十分のような・・・(せこい)

要するに、箱をどうやって使うか?ということの一つに作歌がある。歌が先で、それをどうやって発表するか?ということより、道具があってそれをどうやって活用するか?の延長線上にたまたま短歌があった。だからいつまで経っても成長しないのかも・・・

いや・・・・でも、今の時代、わたしのほうが普通じゃない?
って思うのはわたしだけだろうか・・・

投稿者 Blue Wind : 02:42 AM | コメント (0) | トラックバック

January 05, 2005

気の長い話

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新年早々、神父さんのサイトから画像をパクってくる。めったにないことだけど、『Holy Spirit』と、このシスターの画像は特別。どうして特別なのかはわからない。

おそらくは、わたしをわたしだけにしてくれるパワーがあるのかもしれない。世の中にはたくさんの人たちが生きている。旧約聖書の中に、言葉が分かれたのは人間が悪いことをしないためだと書いてある。言葉が一つだと、どうして人間が悪いことをするのかいまだに理解できないけれども、言の葉が分かれ、いろいろな人たちが互いに理解できなくなることにより、巨悪が育ちにくくなるのかもしれない。

そうだなぁ・・・例えば、一つの宗教が絶対的な権限を持っていたとしたらどうだろう? 歴史的にもそういうことは多々あるわけで、それを利用し、巨悪が発生する。人々は言いたいことも言えず、服従を求められ、神を畏れるあまり・・いや、実際にはある種の人間の絶対的権力を恐れるあまり、巨悪へ走る。

何が悪かと言えば、神を畏れるのではなくある種の人たちを恐れるということが、神にとっては壮大な悪らしい。常に神は人間を超越した存在として存在している。だから、世俗を離れ、神にたちかえる瞬間は人間を自由にする。

そうやって考えると、地球上にさまざまな宗教が存在していることはあながち悪いことでもないと勝手に思っているわたしとしては、実は姿かたちや目に見えて分類できるもの、つまり露出しているものはどうでもいいと思っている。

それでいて、逆に考えれば、自分が無条件に吸引されるものには素直でありたいとも思っている。


******************

今、わたしは歌集の出版について考えている。

どうせ出すなら、「いのちのことば」社がいい。昨日までそういう出版社があることすら知らなかった。

大手や自費出版を専門に手がけているような出版社ではなく、あるいは歌集を多く手がけている出版社でもなく、キリスト教の出版物を専門に扱っているところ。

まだ何も決まっていない。

それどころか、彼女はこれから大手の書店をまわり、歌集を扱っているコーナーを歩き、しばらくするうちにわたしなどより歌集については実に詳しくなるだろう。実際に歌集を手に取り、紙質、タラントなどを眺め、どこが良心的な出版社であるとか、こだわりのある出版社であるとか、プロの目で観察をする。

わたしね・・・そういう人が好きなんです。

正直、自社よりも他社のほうが良いものがつくれそうだとなったら、そちらを勧めてくるだろう。

ある意味、自費出版というのは商売ではないし、担当の人はともかく彼女にとっては自分の仕事ではない。こちらものんき。どうしても今日明日に出版しなければならないという代物ではなく、実際に完成するのは10年後かもしれない。それまで自分が生きているという保証は何もない。

わたしが死んだ後に、娘がぽつりぽつり選歌して、絵を描いて出版するかもしれない。あまりにも気の長い話で、とても現実的な話とは思えないけれども、言葉とは一度発してしまったら独り歩きするものであり、何となく、わたしも神父さんのサイトから一枚の画像をパクってきた。

誰が写した写真かもわからない。誰をどこで写した写真かもわからない。いろいろあって、わたしは今、「しらいし まさこ」であるけれども、これは実名であって実名とも言えず、元をただせば結婚して与えられた名前である。死んだらまた違う名前を与えられる可能性もあるし、筆名をつければそちらがわたしの名前になるのかもしれない。

そうやって考えたら、わたしはわたし、だ。
そうやって考えたら、出版物というのは墓場のような気がしてきてしまう。
どうせ墓なら、「いのちのことば」。

さてさて・・・
まだ1万首以上のノルマを抱えている。
わたしは歌人だから、自分の仕事をしなければならない。

投稿者 Blue Wind : 12:39 PM | コメント (0) | トラックバック

January 03, 2005

ノン・フィクション

短歌の基本は写実。論文は記述。エッセイというのも実は評論のことであり、短歌のエッセイはどこか堅苦しい。書き方としてはいろいろあるのかもしれないけれども、わたしは基本的にはこのベースを崩していない。

歌人の加藤治郎さんの『歌人日記』を初めて読んだ時、事実の羅列だけということに驚く。今日は誰某さんと会い、何を食べたとか、子どもの運動会へ行ったとか、余分な内容がほとんど含まれない。その時に何を感じ、どんな感想を抱いたということも補足的に存在しているだけ。しかも、しっかり固有名詞を書いている。

おそらくはそういうデータベースが短歌として作品に仕上げられていくだけなのだろう。

小説とはまさにそこが違う。
どこかの記事に、大嘘つきなら小説を書けというフレーズがあった。単なる空想や妄想の世界の住人なら、それも楽しいかもしれない。ところが、わたしは意外にリアリストであり、歌人である。だから、わたしの日記も基本が写実。実際にあった出来事を書いているだけ。ただし、固有名詞は極力書かないようにしている。理由は実話だから。

これが小説なら、事細かく描写するために架空の固有名詞をつくり、実際の人たちに迷惑をかけないために脚色が入る。でも、わたしは歌人なので、そういう発想が欠如している。

例えば、片岡義男さんのブログを眺めて歌を詠む。

ひとつひとつぽつりぽつり声がする。片岡義男眺めてる朝。

これは短歌としてはつまらないかもしれないけど、要するに写実。朝起きて、家族の声がぽつりぽつり聴こえてくる。わたしはパソコンの画面で、片岡義男の朝をテーマにした詩を眺めている。そこで、わたしの朝を詠む。

遠まわり記憶の声は朝のうた告げゆく小鳥名もなき君等

群青はいづこにあると空見ればまばゆさだけが悲しい朝陽

すべて写実。
小鳥の声が聴こえてきたよ、朝陽がまぶしいよ、と詠っている。
これが短歌。
その後に、マリの歌・・・
すべて写実。

『ギャップ』という記事を書いたけど、わたしは基本が歌人なので嘘は書いていない。「トラックバックをしてくれたら読みます」と書いてあったので、トラックバックの練習に送った。その後、どうもリアクションがあるようだというのは、わたしの観察に基づくものであり、いわば考察に近い。それが事実だとは書いていない。

ネットを始めて、どうしても話の合わない人たちがいる。何となくちぐはぐしてしまう。プロフを書いても嘘だと大騒ぎしたり・・・

こういう瞬間、短歌はいいなぁ・・・と、しみじみ感じてしまう。つまり、嘘がないから。作歌の基本は写実。つまりはノン・フィクション。フィクションは値打ちがないらしい。

詩はどうなのかな・・・
詩と短歌の違い、か。
わたしには難しすぎてよくわからない。

投稿者 Blue Wind : 01:34 PM | コメント (0) | トラックバック

January 02, 2005

パラダイスは遠い

新年早々、枡野さんのブログのぼやきを眺める・・・
あー、あれなんだよなー、もー、どーっしてもあたしが我慢できなかったのは・・・
商業出版系はどーっしても、これは売れるとか売れないとか出版社がうるさい。それで主催者側はプレッシャーに喘ぐ。そのツケがシモジモにまわってくる。

もう新年を迎えて時効だからいいだろう。
ちまたではどういう風にささやかれているかわからないけれども、わたしは加藤治郎の短歌は好きだし、最初、未来に入会した時に、加藤さんから彗星集で一緒にやりましょうと声を掛けられて、うれしかった。

実際には、加藤さんの短歌のことはよく知らなかったし、どうしてわたしの短歌を有名な歌人が覚えていてくれているのか、そこのところが不思議だった。
一度だけなんだよね・・・冗談で歌葉新人賞に応募して、今見ると短歌にも誤植があり、コピペしてメールに貼り付けて送っただけだから案外てきとー。しかも650以上の応募があって、そういう中で、白石優子というだけで通じるということ自体がうれしかった。

ところが、次第にわたしは作歌そのものに熱意が失われていく自分を感じた。

インターネット歌人ということで、ほかのお弟子さん等からサイトにアップしたものはダメだとか、BBSにパスワードをつけろとか、ある種のアタックがあったのは事実だけど、その程度のことは実はどうでもいいと思っている。加藤先生いわく、顔が見えないからダメらしい。でも、それは嘘だと思っている。

要するに、金なんだよな・・・
本音を語れば、歌集を出版できないほど貧乏でもないし、ほかの歌人の歌集を買うことくらいはできる。

でもさ・・・
そこにこだわるのなら、ネットなら金はかからないでしょ?
ポンポン気ままにキーボードを打つ。すると、歌人であるとかないとかにかかわらず、いろいろな来訪者があり、わたしが誰でも関係ない。こちらも商売ではないし、気楽にしている。要するに生きるに必要な関係ではないから、のほほんとしているのよね。

毎月毎月締め切りが近づくと、原稿の催促とばかりにメールが来る。そりゃ毎月数百首を詠っているわたしとしては、その中から10首を選んで送れば何の問題もない。でも、サイトで詠んだものはダメと言われ、わざわざ原稿用紙を買って来て、それに向かって詠み、歌稿をポストに投函する。何となくいつものノリではないために、作歌がめんどーになる。
今度は何の賞の募集があり、締め切りがいつで、という世界。

そうなると、一体自分が何のために作歌を続けているのかわからなくなった。

いや・・・それはわたしが働いたことがないから、甘えているのだろうか? あれにこれにと反省してみても、そこまでになると、単なる鬱捨て場であるはずの作歌が次第に鬱の温床となっていってしまう。

ダンナに言ったら、「短歌やめても困らないでしょ?」と言われた。

たしかに・・・
詠んでも儲からないし、有名な歌人になっても短歌だけで食べてはいけないみたいだし、第一、本屋へ行ってみればわかるじゃない? あの短歌や俳句に対する扱いの冷たさ。歌集を買うつもりがつい詩集を買ってしまうあたしって・・・正直な人なんだと思う。

それと、自由にしていたかったということもある。

商業出版のことを考えて、ニューウェーブだの枡野流だの、あくまでもそれは和歌の潮流の中の一コマにすぎない。ネット歌人ということで、そこへ吸収されてというのは、筋が違う。わたしの場合、たまたまネットをしているうちに短歌を詠み始めたというだけのことであって、本流である和歌の世界から飛び出そうと企てているわけでもない。

実際問題、和歌の世界が保守的だということは覚悟している。岡井隆さんが宮中歌会始の選者になったというだけで、大騒ぎになったという。自分的には岡井さんの短歌は好きだし、素晴らしいと思っている。

でも、現実にはどうなのかな・・・シモジモにしてみたら、和歌そのものよりも、ムードというか雰囲気というか作風というか、保守であるとか革新であるとか、政治のようにそういうことが大切になるらしい。

なんか、こう・・・・そういうことに巻き込まれること自体が、そもそもの和歌の良さを損なっているような気さえする。

こういう本音をダラダラ書いて、加藤先生が怒ったとするでしょ? でも怒ること自体がヘン。そもそもが短歌とは何の関係もない話なのである。それでまた世論の風当たりがきつくなった頃には、暴風壁が現れる。でも、一人でこうやってパチパチ書きたいことを並べているわたしには、どこに風があり、暴風壁が作用しているのかまるでわからない。

題詠マラソンは楽しいよ。本当はそういう歌人のしがらみからは無縁ではないのかもしれない。それでいて、アンソロジーだからね・・・歌人の世界のオリンピックのように平和の祭典であってほしい。

神さまとだけお話せよ、か。

バチカンに亡命して和歌でも詠っていたら平和なのかもしれない。

パラダイスは遠い。

投稿者 Blue Wind : 01:50 PM | コメント (0) | トラックバック