January 28, 2005

カフェ歌人

娘のお絵かき教室の待ち時間、家に戻ってきてもすぐにまた迎えに行かなければならないので、カフェで時間つぶしをする。座るとメニューやお水と一緒に雑誌を持って来てくれる。大抵は、『フローリスト』、『花時間』、『家庭画報』、『VERY』といった系統。

この前は、『家庭画報』を持って来てくれた。自分で選ぶことも可能なんだけど、そこまでの気力はないので雑誌もお任せ。パラパラめくると、茶道の家元の記事が載っていた。

率直な感想として、歌人と言えば、こういう雰囲気が正統派なのだと思った。家を継ぐためには、書・画・歌を習得する必要があるとばかりに、すべてが茶道と禅の世界に一体化して存在している。そういう記事を眺めていると、わたしも歌でも始めようかなと思ってしまう。(オイ・・)

そこで雑誌を閉じ、うたことばやオーソドックスな系統の歌集などを眺める。大抵は最低1冊はバッグの中に入っている。そのうち不意に思いつくと、メモを取り出し書き込む。メモがない場合には、詩集の余白に書き込んだこともある。多くて5首くらいのもので、手書きだと何故か言葉を選びたくなってしまう。

それがどうしてそのままメモや本に埋もれたままかというと、その雰囲気を保ったままCGIに向かって歌を詠み込むほうが遥かに集中できるからだと思う。1首の歌が10倍に増える。

ただ、自分の場合、少し違っているのは、呼吸の合間に聖書を読み、そこから再び詠み出す。そうすると、心の中から毒が沸沸と湧いてくる。どうしてそういうことになるのか、わたしにはよくわからない。ただ、聖書を読むとなおさらに心の底からの毒が表出してしまう。憐れみを求める気持ちと、心を澄ませる感覚はまったくベクトルが逆。

選歌していただくと、オーソドックスな歌を選んでくださるような気がする。和歌の歴史や成り立ちを考えるとそれは当たり前のような気もするし、それでいてわたしにはそれがどこか本当の自分を切り捨てられたような痛みに感じられる。それが禅というものなのかもしれないし、そのために人は歌を詠むようになっていったのかもしれない。

急に話が飛んで、作家のブログは面白いよ。また仕事かよ・・って思いながら読んでいる。仕事・仕事・また仕事。印税入ってまた仕事。その間、雑誌やら取材やら小遣い稼ぎ。それでいてまだ付き合いがあるのかよ・・って思いながら読んでいる。
小説を書いて、それがミリオンセラーになる時代ではないらしい。それどころか、自分で書店を回ってるの〜?って思ってしまう。この前、こひつじ日記で編集者の苦労が書いてあったけど、先生自ら歩いているのか・・って思ってしまう。
歌人は大抵の場合、生業は生業として存在しているために、わたしが知らないだけなのかもしれないけど、あまりガツガツとした雰囲気はない。いや・・・本当はわたしが知りたくないと思っているだけなのかもしれない。

優雅にカフェで、茶道の家元の和歌を眺めていると平和でいいよ・・・救われる。カルチャーセンターと一緒にするなと言われた意味が何となく理解できる。

投稿者 Blue Wind : January 28, 2005 11:22 PM | トラックバック
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