January 17, 2005

まだ霧の中・・・すっきりしない作歌というもの

アメブロのデザインを変えた。理由はシンプル。gooコミュニティの調子がすこぶる悪いので、そこの日記を捨てて、代わりに『風マニア』をフレームに収めるため。左フレームがダブルになると見苦しい。
それと、猫には飽きたし・・・
文字が小さいという不満はあるものの、インスタントだから仕方がない。
完璧にはいかない。

どうして不満があるのに、インスタントを使うかといえば、コミュニティだから。
どうしてコミュニティにこだわるのかといえば、神父さんにコミュニティにいることに意義があると諭されたから。

コミュニティにはコミュニティならではのトラブルがある。
セルフ・コントロールを失ったインターネット中毒の人がいて、それをあらしと呼ぶからややこしい。
でも、そういうことに巻き込まれ、気が付けば、「神さまとだけお話せよ」の世界。

神父さんのサイトで、歌を詠んでいるだけなら、ジャンキーも荒れない。誰がリアルだとかバーチャルだとかということではなく、要するに関係性の問題だから。
神さまを隊長にしていれば、大抵のことは治まるようになっているらしい。特に人間関係などのトラブルは。

わたしの連作の間に、聖書の章が書かれているのは、一人で詠んでいると一息つくような瞬間がある。そういう時に、聖書を開く。そしてまた詠み始める。
それを日課として続けていた。
それを繰り返しているうちに、それが神さまからのメッセだと気が付いたのは、それをやり始めて数日後のことだったと思う。
不思議な符合・・・・

短歌には、そういうパワーがある?

わたしにはよくわからない。ただ、音楽や詩、舞踏や絵画を含めて、アートは元々は神事から始まったことは想像に難くない。神事というか・・・ラスコーの壁画などから推測すると、そのままずばり祈りの世界だったのかもしれない。

バリ島は今でもそういう世界。島民のすべてがアーティスト。子どもの頃から、ガムランやダンス、絵画が教えられる。そして、寺院。ケチャは観たことがないけれども、ああなると一種の交霊術のような・・・

それでいて、そういうこととも違うような気がするし、要するに単なる日課。歌を詠んで、聖書を開く。
そうやって一人で過ごす時間が大切らしい・・・
一日一時間とか、一分とか・・・

それがあまりにも長くなりすぎても、日常生活に支障があるのかもしれないけど、今のところ家族からはクレームは発生しない。

これをする前に何をしていたかというと、通販カタログを眺めたり、家の模様替えをしたり、せっせと庭仕事したり、それはそれでごく普通の日常。退屈すれば、習い事でも行ったり、どこかへ電話したり、巨大なジグソーパズルをやり始めたり、ミステリーを読んだり、テレビを観たり・・・
それでも時間が余るので、何か仕事でもしようかとか、院へ戻ろうかとか・・・

わたしはヒマだけど退屈しているわけではない。

子育ての話ばかり、公園でしていても無意味だということにも気が付いた。小学校へ娘が通うようになれば、ますます時間が余る。

↑こういう話、案外、気楽にオフラインでもする人なんです、わたしは。でも、それを世間話の一つとして気軽に話に付き合ってくれるような人は、大抵の場合、忙しい。

ネットは、勝手に記事にしておくと、反応があることもあるし、ないこともあるし、相手があるようでないような世界だから、気楽。

分けているんだろうな・・・自然と。
例えば、家族は家族。友達は友達。災害が発生したり、互いに協力して子どもの安全を確保したり、そういう地域の付き合いは付き合い。ダンナには仕事があり、子どもには学校がある。いざという時になれば、仕事先の付き合いは大切なんでしょうけど、それはわたしの仕事ではない。
それでいて一人の時間。
ネットの人間関係は生きるに必要のない関係。例えば、何かあって子どもを預かってくれるわけではない。でも、そういうほうが気楽じゃないか?

歌人も世の中にはたくさんいるんでしょうけど、上下関係あるし、ややこしいかもしれない。その点、ネットは気楽だ。そのほうが自分が詠んでいて楽しい。あえて、一人で詠む以外なら。

隊長は神さまだけで十分なのです・・・

投稿者 Blue Wind : January 17, 2005 03:52 AM | トラックバック
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