January 31, 2005

同じ歌は詠めない

短歌が面白いのは、二度と同じ歌が詠めないというところかも。

詠み始めたばかりの頃、それが詠んでも詠んでも舞い散る言の葉のような気がした。同じようなネタで詠む。それこそわたしの単調な日常。静止した過去。海や空や風。定番の語句が並ぶ。それでいて、CGIを使うようになって気が付いたのは、同じ歌がないという不思議さ。

短歌は31音節。同じようなフレーズ。それでいて、1字違っても違う歌。そこまでせこくなくても、同じような歌ばかり詠んでいるくせに、同じ歌が詠めない。一首詠むのに、一ヶ月以上費やしている人なら別かもしれない。わたしの場合、機関銃なので、それこそ浮んだらすべて。時を過ぎれば忘れてしまう。

買い物の途中に歌が浮ぶ。でも、帰宅する頃には忘れてしまう。それくらい歌というのは気まぐれな想念であり、一度すれ違ってしまったら二度と出会えない。

歌人をしていて一番つらいのは、捻れと言われるところかもしれない。毎日生活の中で詠んでいるだけでは、歌としては弱いらしい。そこをまた作品として完成させろと言われる。

歌人には力量というものがあり、常に全力疾走を要求される。広辞苑が必需品なのかもしれないし、覚えた語句はそれだけ自分の財産なのかもしれない。うたことば一つにしてもそれを自分のものとして素直に使いこなすまでには時間が掛かるかもしれないし、文法も自分のものとしなければならない。古くはこういう歌でこういう使われ方をした語句を使って歌を詠めば、一つの語句の意味をより一層広く使える。言葉とは道具である。その道具を使いこなすには鍛錬が必要。

それでいて、言葉は時代と共に変化するものであり、どんどん新しい言葉や概念が日本語に入り込む。逆に考えると、そういう複雑な概念を表記する言語が存在しなかった時代のほうがシンプルな言葉の中にいろいろなメタファーがあり奥深かったりする。

あれにこれにとややこしいことを考えていると詠めない。詠んでいる時にはそういうことはまったく考えたことがない。

ただ、作歌を続けるうちに、続けるという行動がわたしにいろいろなことを教えてくれる。時に、虚しい気持ちに陥ることもある。これだけ詠んでも舞い散る言の葉。そうやって考えると酷く虚しい。それなら遺す歌、遺したい歌を詠みたいと思う方が普通なんだと思う。それでいて、そういう発想はダメだ。そんなことを考えていたら、せっかくの想念が消えてしまう。

そういう虚無を救ってくれるのが、CGIだ。数は正直だし、これだけ似たような歌を詠んでいるのに、同じ歌が詠めない。

投稿者 Blue Wind : January 31, 2005 01:46 PM | トラックバック
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