短歌の基本は写実。論文は記述。エッセイというのも実は評論のことであり、短歌のエッセイはどこか堅苦しい。書き方としてはいろいろあるのかもしれないけれども、わたしは基本的にはこのベースを崩していない。
歌人の加藤治郎さんの『歌人日記』を初めて読んだ時、事実の羅列だけということに驚く。今日は誰某さんと会い、何を食べたとか、子どもの運動会へ行ったとか、余分な内容がほとんど含まれない。その時に何を感じ、どんな感想を抱いたということも補足的に存在しているだけ。しかも、しっかり固有名詞を書いている。
おそらくはそういうデータベースが短歌として作品に仕上げられていくだけなのだろう。
小説とはまさにそこが違う。
どこかの記事に、大嘘つきなら小説を書けというフレーズがあった。単なる空想や妄想の世界の住人なら、それも楽しいかもしれない。ところが、わたしは意外にリアリストであり、歌人である。だから、わたしの日記も基本が写実。実際にあった出来事を書いているだけ。ただし、固有名詞は極力書かないようにしている。理由は実話だから。
これが小説なら、事細かく描写するために架空の固有名詞をつくり、実際の人たちに迷惑をかけないために脚色が入る。でも、わたしは歌人なので、そういう発想が欠如している。
例えば、片岡義男さんのブログを眺めて歌を詠む。
ひとつひとつぽつりぽつり声がする。片岡義男眺めてる朝。
これは短歌としてはつまらないかもしれないけど、要するに写実。朝起きて、家族の声がぽつりぽつり聴こえてくる。わたしはパソコンの画面で、片岡義男の朝をテーマにした詩を眺めている。そこで、わたしの朝を詠む。
遠まわり記憶の声は朝のうた告げゆく小鳥名もなき君等
群青はいづこにあると空見ればまばゆさだけが悲しい朝陽
すべて写実。
小鳥の声が聴こえてきたよ、朝陽がまぶしいよ、と詠っている。
これが短歌。
その後に、マリの歌・・・
すべて写実。
『ギャップ』という記事を書いたけど、わたしは基本が歌人なので嘘は書いていない。「トラックバックをしてくれたら読みます」と書いてあったので、トラックバックの練習に送った。その後、どうもリアクションがあるようだというのは、わたしの観察に基づくものであり、いわば考察に近い。それが事実だとは書いていない。
ネットを始めて、どうしても話の合わない人たちがいる。何となくちぐはぐしてしまう。プロフを書いても嘘だと大騒ぎしたり・・・
こういう瞬間、短歌はいいなぁ・・・と、しみじみ感じてしまう。つまり、嘘がないから。作歌の基本は写実。つまりはノン・フィクション。フィクションは値打ちがないらしい。
詩はどうなのかな・・・
詩と短歌の違い、か。
わたしには難しすぎてよくわからない。