旅立ちてゆくや野々山吹く風の便りの声の木霊のゆくえ
みこころに尋ねてみるや雲の中稲光せし夕暮るるみち
遥かなる神の国など思いても信号機だに色を変えたり
(シラ 11. 10-28)
<季節外れの紫陽花>
雲ゆかば透きとおる空見あげても雨したたるは花のうえにか
うっそうと葉のしげりたる地の下に明日咲かせるは雨の紫陽花
花ひらく気配のなかでひっそりと口つぐみたる楽そえた風
明日のこと思うとて晴れるひざしには傘となる花いろどりを消す
むらさきは透明ないろ光にぞ消えゆかんとすまぶしき空に
いのちたる地と葉のもとであめ落つる紫陽花の空みあげん隙間
(ローマ 1. 6)
もー、今の修道会、あまりにも世俗的すぎて、私の理解をこえている。シスターと神父ができてるとか?
そーいうのも珍しくないのかもしれないですね。
ほとんどはまともだと信じたいけど、なまじか性欲を抑えているせいか、性的なことしか考えないがゆえに、性欲を恋愛と勘違いしていたり?
はたからみると、バカバカしくって話になりません。性交渉がないだけで、頭の中、そのこと一色かも。
それで、私たちには厳しいような気がする。
主の道を行くってどういうことなんでしょう。
神さまも見ていないと思っているのでしょうか。
全部知ってるけど、黙っているだけだと思うよ。
だから、どんどん司祭の数は減少するばかり。
そのうち潰れるかも。
いーびるの天下。
正義なんてどこにもないかも。
神さま、何とかしてください。
頭が変になりそう。(なってるかも・・・)
(使徒 18. 1-4)
暑い日も台風の日もお出かけが一日伸びる夏休み
雨の音軽やかに撥ね窓の外薄明りさし唸るエンジン
あわただしい雨の音には幾重にもドア閉める音通りの車
エアコンが肌寒くても止められないハープの弦の弱さ思えば
ゆきませう平和のうちにガリラヤは地図の世界の小さなドット
さわさわと葉の騒ぐ音買い物がめんどうになる台風の雨
神さまに今望むのは午後の雨あがってほしい仕事待つ朝
(ルカ 4. 42-43)
アクティブ、アクティブ・・・
ためいき。
<幼き野原の夢>
てのひらに冷たき香り野の夢の幼き頃の夕暮るるまで
通学路夢の世界が広がればいざゆかん時忘るるまで
日没にカラスが鳴けば今日もまた寄り道したと帰宅を急ぐ
野原には夢の世界が広がりつ夕焼けのみち家路につづく
家路にぞ二本の道をみつけては秘密の気配冒険の時
(列王記 8. 1)
今って、イエスさまの時代と変わらない気がする。
権威主義的で誰も何も言えず、司祭が牛にひかれていて。
ほんで、信徒には十字架を担げと言いながら、司祭は担がない。
人間なんていつの時代も変わらない。(←座右の銘なの。そしたら、ルドさんに旧約を読めと言われた(ような気がした)。まあ、旧約の時代よりも今のほうがましなんでしょうけど)
やっぱ、修道院になんて入らなくて正解だったかも。それに、なんか、言いたくないけど(いや言ってはいけないかもしれないけど)、世俗的だよね。
決まりだけ守っていてもダメってことだと思うけど。
よいこの良子は函館のトラピスト(男子)はすがすがしいけど、女子は世俗的だと言っていた。(友人の姉がお暮らしですけど)
だからといって、なんであたしがいろいろ言われないとあかんのか。
今は、しらいしはおじょーさまだからで終わってるらしい。なんかね・・・そんなものかも。
(詩編73. 7-20)
せっかくの休日だというのに(暑いからお出かけがつらいのだけど)、教会のためにご奉仕して、あれこれ言われて・・・
H神父様には個人的には何もないような気がするのだけど、やっぱり自分はフィリピーナといちゃいちゃしているくせに、
私がYさんと密談をしているくらいで、何を慌ててるの?
でしょ?
私の強みは、親から甘やかされたせいか(深くは語りたくない)、恋愛感情というものがなかなか持てない。
その素直な目でみると、大いに変なことだらけ。
だいたい、どーやって考えても、W神父様がきてからなのですわ。
信徒の常識からすると、神父様はそういう対象にはならないし、世の中にはいくらでも素敵な方がいるので、
なんでわざわざ?
ってことは、素直に考えて、修道系はドロドロしてるってことなのね・・・
いい加減にしてほしい。
シスターYは笑いのツボが似ていたため、というか、最初は用心深そうな目をしていたけど、ははんと思いましが、無視。
教会ですよ?
教会。
私たちの聖地。
アットホーム・・・
怪しい。
狭いから、そーなのかもしれないが。
そんなところにいたら、頭が変になりそうだ。
変なシスターいたし・・・(気のせいかもしれないけど)
なんかね・・・大いに変だ。
神さま、ありがとう。
そーいう世界から救ってくれて。
あなたはわたしの神。
という気がしました。
(ヨシュア 15. 55)
休みの日明日の仕事をおもったら明日のほうがまだましかも
今日もまた熱射病になりそうな運転席とアツいハンドル
ガソリン代書かれたシート窓の外記憶するだけ街路樹は立つ
流れゆく風さえ燃えて閉じた窓いつになれば閑散な道
ひんやりと日傘のしたにもぐりこむ空間だけがわたしの時間
飛行機のとぶ音すれば昼下がり犬の足音テーブルの下
(マルコ14. 27-28)
ミニチュアにレモンの香りエーゲ海・・・サントリーニに、コープが来ます
よつ葉こそ今度はつづけ汗だくのあなたの熱意にハンコ押す
ボーナスの計算せねば銀行は3時までだよ 忘れちゃいます
看護師の退職金を数えつつ浮かぬ顔みて給与計算
太陽よ雲のかげに隠れてよ日傘たたむのめんどくさいから
使徒 10. 23-26
無為という時間のなかに凍えては椿のうえに雪は降るらむ
積もりては雪なるや悲し寒椿陽のかげる日の愛というもの
栄光は父と子と聖霊に、椿の花に雪は積もらむ
復活を信じてや待つここちする今宵には椿はなぜに冬落つるやも
雪化粧むなしくや花びら消えゆ春くればまた葉の色変わりぬ
(使徒 14. 8-11)
近頃、実験的な試みとして、画像を使って詠んでいます。短歌は写実が基本と言いながら、私は案外忙しいので、そんなことをしたら仕事の話とか、犬のことくらいしか詠めないですね・・・
というわけで、昨年、うちの教会を司牧していただいた神父様のところ から、画像をお借りして、詠むことが増えました。でも、神父様からお借りしているので、毒々しい歌は控えたほうがよいのではないかと思うのですが、根がどくどくしいので、たまにワープしてイメージがふわふわどこかへ飛んで行ってしまいます。普段ならそれでも構わない気がするのですが、写真から、となるとダメかも。
以前は、短歌が先で、後から気ままに好きなイラストなどを貼ることはあったのですが、テレビのバラエティ番組で、俳句の先生が写真を見せて俳句をつくるというのがあって、俳句の場合、練習のためにそういうこともありなのかと思って、参考にさせていただいています。
ただ、弱点があって、画像から詠むと、画像がないと意味不明の歌になってしまうことも多く、短歌としての表現力が弱まる気がします。概念歌みたいなものなら構わないのでしょうけど。
概念歌ということであれば、聖書がベースになってしまうのは、お借りしている先が先なので、仕方がないですよね。
そういった意味で、制約はあるものの、著作権のことやリンクのことやバナーのことなどを考えなくても良いという長所もあるので、ありがたいです。いくら美しい画像でも、そういうことを考えながらではさすがのずうずうしい私でも無理かも、です。
(ヨハネ 5. 13-16)
↑こういうのは本当は書かないほうがよいかも・・・?
お休みがなくなると困りますね。
今、司祭不足で大変な時代なので・・・カトリックは。
優雅に詠んでいるようでいて、あくせくあくせく。平安朝がなつかしい?
どうして時間が経過するに従って、いろいろ制約が出てくるのでせう・・・
いつの時代も変わらないかもしれないですね。
(歴代誌下 31. 1)
ハルマゲドンきてもしぶとく生き残る不安をかかえ路上をながむ
潰すなら潰せと思うがのんびりと自転車は過ぐ車を避けて
群れなせば背丈も伸びしすみれかな水乾きてはつちを仰ぎ見
へび草の根のつよさにも憧るるすみれの花のいずこ風吹く
よわいのかつよいのかただ思いてはみこころのままみちのうえにか
エズラ(ラテン) 13. 20-24
<アッシジの街>
ウンブリア光と闇を背負いては月駆けのぼる夕暮れの山
明るさは鳥となり人怒鳴り合う荒々しさに透きとおる空
シスタームーン ブラザーサン 夕暮るる空ふふみつつ鳥
丘のうえ石の街あるく頭上には陽だに輝き教会の鐘
混沌と聖なる丘は鳩飛ばし座る人とて宙に浮かびし
(ヨハネ 19. 31-32)
フェベって誰?
って訊かれても、知らないと答える人がほとんどではないかしら・・・クリスチャンでも。
ローマの信徒への手紙の中で、パウロが個人的な挨拶する際に、一番最初に名前が出てくる女性です。
彼女について知られているのは、ケンクレアイ教会のお世話をしていた女性で、ローマまでパウロの手紙を届けた人です。パウロの手紙から察すると、彼女はギリシャのケンクレアイから旅立ち、戻らないつもりでローマへ行ったような気がします。
ケンクレアイはコリントの近くの港町で、教会も海岸線の海に面したところにあり、船で移動する拠点です。「多くの人の援助者、特にわたしの援助者」とパウロが言っているとおり、パウロにとっては大切な人だったのでしょう。
パウロはコリントが好きで、結構、長く滞在しています。そして、3回目の伝道ツアーでも立ち寄っています。そして、最後はローマへ。
なんかね・・・
聖書の解説はいつも大げさな気がする。
ケンクレアイの教会は人目につかないような海辺にあるけど、暮らすには適さない。そして、女性が一人で外出することなど当時としては考えられないし、とすれば、どうしてそう思うのかわからないけど、フェベは猫好きの未亡人か何かで、一人で出かけるとすれば、猫にエサをやりに出かけていたのかも・・・
イタリアの海辺の町で、夕方一人の女性が歩いてくると、どこからともなく猫が集まってきて、彼女にとてもなついていたのを思い出す。猫は用心深いところもあるから、フェベにはなついていても、他の人が一緒だと出てこないとか?
とすると、一人で外出して不自然に思われない最高の息抜きだったのかも・・・
用心深い猫たちも、パウロにはなついていたとか?
というより、普段なら見知らぬ人がいれば逃げてしまう猫たちが、最初からパウロに集まったとしたら、フェベにとっては不思議な出来事だったかも。だから、パウロに話しかけたとか?
教会のお世話ができるような女性で、しかもローマへも行けて、というと一人で水汲みに行くようなタイプではないし・・・ しかも、猫にエサをやるのが唯一の楽しみという孤独な女性とパウロの出会い。
地震がきたので、書くのは控えよう。
パウロの姉妹フェベ。
彼女はよい人です。
パウロの手紙を持って、海を渡った人。
エズラ(ラテン) 13. 57-58
陽だまりや枯葉の音をとめるとは天使の羽に目を凝らす吾
透きとおる風のむこうの陽だまりに知らずてか鳥いるなら歌え
木洩れ日よ教えておくれ雲あらば暗き道なれ空みえぬ吾に
(マタイ 13. 24-30)
<毒麦ですか・・・途中から熱帯のジャングルへワープしました>
潮騒に遠のけば陽の落ちるまでさわさわと風とまりしや今
熱帯のこみちをゆくや水の色いざなうや青まぶしきは砂
冷たきは砂触れぬも砂燃ゆる陽の頭上にありて波だによする
どこの教会にもいるのかなぁ・・・ バッハはプロテスタントだからという理由で、ミサでは歌わない人。
長崎かどこか、九州の出身の方で、初代エルサレム教会の義人ヤコボ(イエスの弟)を彷彿させる。うちの教会にも何人か九州出身の信者さんがいるけど、大抵は、真面目で信仰心が篤く、皆から信頼されております。
でも、話を聞くと、たまに驚かされる。
例えば、女性がベールを被っていないと未信者と思われるとか、神父様にタメ口きくなど想像できないとか、自分の怖い父親が恐れていたのは神父様だったとか、いまだにバッハは歌わないとか?
は〜〜〜〜〜、想像を絶するほどのがちがちぶり。
だから、初代エルサレム教会がどういう感じだったか、ものすごくわかりやすいような気がしてしまう。
そこに、へなちょこサウル。サウルというのはパウロのキリスト者になる前の名前で、彼はギリシャに生まれ、ローマの市民権までもつエリート家庭に育ち、もしかすると甘やかされてへなちょこだったから、エルサレムまで勉強に行かされたのではないかと思うくらい素直で真面目な人かも。素直で真面目だから、何の疑いもなく、律法に逆らうキリスト者たちが嫌いだった?
そんなサウルが急にパウロになったらどうなるか?
バカです。家族も捨て、友人も捨て、何もかも裏切り、キリスト者に。しかも、エルサレム教会はヤコボとケファ爺さんが牽引しているような教会で、あたまがちがち、ふるすぎ。そこにギリシャかぶれしたへなちょこ青年が何か言っても、無意味だったような・・・
でも、サウルは真面目で礼儀正しい人だったので、目上を立て、エルサレムの長老たちも義人ですから表だって喧嘩するわけにはいかない。そこで、パウロは外へ出ることを決意し、布教の旅へ出かけた。
ところが、パウロの行った先々で、エルサレム教会からの使いがパウロを訂正しに回る。これは悪意でやってるというよりも善意によるご奉仕のようなもので、パウロと面と向かって喧嘩するつもりがなかったけど、嘘はいかんという長老的な気遣いにより、なされたことではないかと思うわけです。少なくても、うちの教会のヤコボさんたちならそういう感じです。ただ真面目で忠実なだけなの。バッハが嫌いというわけではないと思うよ。
そういう四面楚歌な孤独な状況で、人間がどのようになってしまうか・・・
おそらくは、今ならうつ病とか?
パウロのとげとか、つのとか呼ばれている病は、もしかすると心臓を針で突かれるような痛み。パニック発作とか?
パウロみたいに鞭で打たれても死なず、嵐にあっても生き延び、そういうタフな人が少々のけがや病気で自分のことを弱いとは言わないと思うのです。なのに、突き刺さるようなとげに苦しんでいたという・・・
弱いときに強いというのはどういうことか?
タフな人が弱いと感じるのは、自分の心の弱さ。こんなにも自分が神さまからの恵みをいただいているのにもかかわらず、自分の不幸な境遇を悲しんでしまう。人間なら当たり前ですよね。ましてやパウロはエリート家庭に育った好青年でしたから、それを捨ててまで自分は何をやっているのだろうか、とかね。そうやって考えるほうが普通。
でも、そういう弱さを自己否定したいから、神さまに完全な人にしてほしいと願うけど、神さまは弱いときこそ強いのだから、と言う。弱いときこそ強い・・・
弱いからこそ、強い。そして、自分が思い上がらないように、神さまが弱さを与えてくださった。
パウロ、悲しくて。
でも、そのパウロのおかげで、神さまの恵みにあずかっております。
ありがとう、パウロ。
(ヨハネ 7. 45-52)
野にひとつパウロのとげの刺さりてはながるる時のすぎゆくままに
弱きとてつよきとてまた弱きとてまにまに天は薄日のさしぬ
天国にうつむきのぼる楽の音の仰ぎみんとてうつろな空を
イエズスよパウロのとげを抜きたもう刺したもう月くらやみ照らす
よわきものもとめるがゆえ天の声耳澄ましては消えゆかんとす
暗闇ぞ光りたもうぞみこころの天使の梯子かけのぼる音
(マルコ 6. 51)
さて、ブログ仲間のぐるぐるさん の家の生垣に八重咲のどくだみが発見されました。
なんかね・・・神さまに説教されているような。
どーせ、私が悪いんでしょうね。へび草・・・
もっと上品に詠まないと。
それにしてもどくだみは可愛いと思って放っておくと大繁殖して、いざ抜こうとすると蛇のような根っこがたくさん。
抜いても抜いても生えてくるので大変です。
へび草の根ののびゆくはどくだみの白き花さえ蠱惑となれば
↑実は、教会の草刈りを詠んだ短歌なのですけど、なぜか暗い。
実際には賑やかに楽しくご奉仕しているのですけど、近頃、どくどくしい。
どくだみの草取りには苦しめられたので、つい本音が歌に出てしまいます。
どちらがよいのでしょうね・・・
いずれにせよ、どくだみ=へび草、というイメージ。
あー、正直者の自分がつらい。
少し反省しないとダメかも。
(ヨハネ 20. 3-8)
やっぱりわが子だなぁ・・と思ってしまう。
親って、子どもの良いところを見たときより、悪いところを見つけたほうが、何となく自分に似ているような気がするから不思議・・・
そうやって、何かをなぐさめているのかもしれない。
突然、電話がかかってきて、
--- お母さん、実習先、まだ決まってない。
--- いつまで?
--- あさって。
はあ?
今からあたっても、書類を送ってもらう時間もないではないか。普通は4月になる頃には動き出し、6月になっても決まってないということはありえない。娘の説明だと、大学の説明会自体が5月だったし、美術の専門の先生を置いている学校が少ないため、なかなか見つからないそう。
なんかね・・・
今まで何のために教職をとっていたのか。しかも、来年は4年なので、4年で見つけても大学院へ行くか、5年生までやるか、しかない。
--- 大学院へ行こうと思うんだけど。4年じゃ足りない。先生が刷りが上手だから院へ行きなさいと言っていて・・・
別に驚かない。逆に、
--- そーでしょう? 院に行かないと自分のやりたいことやらせてもらえないし。
私は、自分が30歳くらいまで院生を続けていたので、娘が大学院へ行くと言って驚くに値しない。でも、せっかく今、就職が回復していて働きやすい時期なのに、わざわざ高い学費をかけるだろうか?
でもね、私なんてバブルの絶頂期だったから、そういう意味ではどーでもいい。
しかも、娘の専攻は木版画。
就職のことを考えて、版画科なんかに行くだろうか?
私はシルクスクリーンが好きなので、娘に大学ではやらせてもらえないのか尋ねたが、学部では難しいそう。おそらくは装置などの関係で、順番が回ってこないのだろう、学部では。
将来のことを考えないのかと思うけど、私自身、長生きの家系ではないために、そういうややこしいことを考えるのは苦手で、その時々にやりたいことをやってきただけなので、今さら娘に言うことは何もない。
それに、将来のことを一生懸命に考えたって、自分の希望するようになることなんてほとんどないし・・・
それにしても、計画性、なさすぎでしょう。
さすが、わが子。
(歴代誌上 21. 1-3)
<草刈り>
へび草の根ののびゆくはどくだみの白き花さえ蠱惑となれば
紫外線さえぎるもののなき庭の刈り取る草のこかげに座る
薔薇の木の誰が植えたかと物干しに雑巾並ぶご奉仕の春
子ら遊ぶ庭にせんとて草刈は小石の姿置き去りにして
大声で叫ぶがごとし草端の会議のネタは葬式のこと
優雅とはほど遠き庭じりじりともゆる陽落とす赤き野の花
(列王記下 23. 21)
神父様へ
とにかく書かせてください。書いてはいけないかと思うけど、書かずにはいられない。
私、あいつ、大嫌いです。ヘビみたい。
私たちを不正な富を持つものと勝手に決めつけて、自分は売春婦とべたべたべたべた。
私たちから取り上げたものをあの人たちに渡してよいひとぶってる。
ミサは手抜き。朗読箇所も勝手にはしょる。
その他諸々。
あんな人から名前もらうから変になったのではないかと思うくらい、あいつが嫌い。
私が教会内である人と話をしていたら、たまたま二人きりだったので、あいつが慌てたように飛び込んできた。
でも、私たち、お墓の話をしていただけですよ?
そのご夫婦と同じ場所にお墓を買おうかと思って、相談していたんです。
ばかばかしい。
地震がこわくてみんながたいへんなのをわかっていて司祭館を建てるといいだし、さっさと自分はフィリピンへ。
自分のことしか考えない。
フィリピンへの支援のときにも、こどもたちに神さまへの感謝の手紙を書かせていた。
ものすごい違和感。
お金を出している人たちには感謝せず、神さまに感謝しろってか?
あほらしい。
お金はお金です。
神さまはお金は要りません。
どーでもいいけど、むかっぱらぱら。
私、心の底から、あいつ、軽蔑してるのかも。
さいあく。
罪深い信徒より
(ヨハネ 5. 31-32)
男の子っておもしろいな、と思ってしまう。
家の近所にカフェバーがあり、たまに家族で利用する。そこは徒歩圏内なので、唯一私がアルコールが飲める店。車を利用するような場所だと運転のことがあるので、私は飲めない。(夫はのんべーだから夕方以降は運転してくれません。)
今は娘も下宿中で、普段は家にいないし、夫と二人で行くことが増えた。マスターの飼っているトイプードルが看板犬で、犬を連れて入れる店なのだけど、うちの犬は躾が悪いので、家でお留守番。
マスターの他に、近所の大学の学生が何人かアルバイトしていて、そのうちの一人の男の子が友達を連れて合コンに来ていた。ただし、学生なので、店の外のテーブル。
私はカウンターに座っていたので、最初は気づかなかったが、その中の一人が店内に入ってきて、キャッチャーポーズで座り込んでいる。目当ては犬。何とか手なずけようと頑張っているが、犬のほうは逃げてしまう。そのうちおやつを取り出して、エサで釣ろうとするが、エサだけもらったら逃げる。
野球部なんだよね。そーいえば。
打率悪すぎでしょう。1ヒットも狙えない。
わんころを中心に、次第に店が盛り上がってきて、犬が逃げ回る。合コンの男の子たちは店の中と外を出たり入ったりしているが、女の子たちはテーブルに座ったまま固まっている。犬があちこち移動するので、その後を追いかけまわして、男の子も移動する。
そのうち犬がヒョイっと夫の隣に座っている色っぽい女性の膝に乗ると、追いかけてる男の子も彼女と戯れ、私のところに来たら来たでくっついてくる。
中にはイケメンで、バイト中の男の子もいるから、当然、顔見知りですし、わたくしとも仲良くお話したりします。
で、気が付いたのだけど、外の席に座っている女の子たちの視線が冷たい。
結構、可愛らしいお嬢さんたちで、ミニスカートをはき、気合いが入っているのがみえみえ。たぶん、そのせいで興奮してるんだろーな。普段、野球部で女っ気がないものだから、じっとしていられないのか?
そっちと話せよ、と思うのだけど、やたらと店内に来る。
バイトの子は、礼儀正しい。いや、礼儀正しすぎるところが怪しい。
決まり悪そうに私のほうを見る。
実は、その子、娘が一緒だとガチガチになってしまい、親の直感ではそういうのは気が付かないフリをすることにしている。
(まあ、娘もいないし、今日は合コンだし、楽しくやってください。)
(いえいえ、僕は友達に誘われただけですから。)
(いえいえ、うちの娘は関係ありません。)
↑別に声に出して話したわけではない。
でも、何となく伝わるってことあるでしょう?
そういう雰囲気を察してか、なぜか外から女性の冷たい視線を感じる。
私、何もしてないのに・・・
でもね、せっかくの合コンなんだから、犬を追いかけまわしたり、おばさんたちとお話したりせず、きちんと女性の目を見てお話しましょう。
アドバイスしたかったけど、ダメだね、きっと。
(ローマ 1. 7)