どこの教会にもいるのかなぁ・・・ バッハはプロテスタントだからという理由で、ミサでは歌わない人。
長崎かどこか、九州の出身の方で、初代エルサレム教会の義人ヤコボ(イエスの弟)を彷彿させる。うちの教会にも何人か九州出身の信者さんがいるけど、大抵は、真面目で信仰心が篤く、皆から信頼されております。
でも、話を聞くと、たまに驚かされる。
例えば、女性がベールを被っていないと未信者と思われるとか、神父様にタメ口きくなど想像できないとか、自分の怖い父親が恐れていたのは神父様だったとか、いまだにバッハは歌わないとか?
は〜〜〜〜〜、想像を絶するほどのがちがちぶり。
だから、初代エルサレム教会がどういう感じだったか、ものすごくわかりやすいような気がしてしまう。
そこに、へなちょこサウル。サウルというのはパウロのキリスト者になる前の名前で、彼はギリシャに生まれ、ローマの市民権までもつエリート家庭に育ち、もしかすると甘やかされてへなちょこだったから、エルサレムまで勉強に行かされたのではないかと思うくらい素直で真面目な人かも。素直で真面目だから、何の疑いもなく、律法に逆らうキリスト者たちが嫌いだった?
そんなサウルが急にパウロになったらどうなるか?
バカです。家族も捨て、友人も捨て、何もかも裏切り、キリスト者に。しかも、エルサレム教会はヤコボとケファ爺さんが牽引しているような教会で、あたまがちがち、ふるすぎ。そこにギリシャかぶれしたへなちょこ青年が何か言っても、無意味だったような・・・
でも、サウルは真面目で礼儀正しい人だったので、目上を立て、エルサレムの長老たちも義人ですから表だって喧嘩するわけにはいかない。そこで、パウロは外へ出ることを決意し、布教の旅へ出かけた。
ところが、パウロの行った先々で、エルサレム教会からの使いがパウロを訂正しに回る。これは悪意でやってるというよりも善意によるご奉仕のようなもので、パウロと面と向かって喧嘩するつもりがなかったけど、嘘はいかんという長老的な気遣いにより、なされたことではないかと思うわけです。少なくても、うちの教会のヤコボさんたちならそういう感じです。ただ真面目で忠実なだけなの。バッハが嫌いというわけではないと思うよ。
そういう四面楚歌な孤独な状況で、人間がどのようになってしまうか・・・
おそらくは、今ならうつ病とか?
パウロのとげとか、つのとか呼ばれている病は、もしかすると心臓を針で突かれるような痛み。パニック発作とか?
パウロみたいに鞭で打たれても死なず、嵐にあっても生き延び、そういうタフな人が少々のけがや病気で自分のことを弱いとは言わないと思うのです。なのに、突き刺さるようなとげに苦しんでいたという・・・
弱いときに強いというのはどういうことか?
タフな人が弱いと感じるのは、自分の心の弱さ。こんなにも自分が神さまからの恵みをいただいているのにもかかわらず、自分の不幸な境遇を悲しんでしまう。人間なら当たり前ですよね。ましてやパウロはエリート家庭に育った好青年でしたから、それを捨ててまで自分は何をやっているのだろうか、とかね。そうやって考えるほうが普通。
でも、そういう弱さを自己否定したいから、神さまに完全な人にしてほしいと願うけど、神さまは弱いときこそ強いのだから、と言う。弱いときこそ強い・・・
弱いからこそ、強い。そして、自分が思い上がらないように、神さまが弱さを与えてくださった。
パウロ、悲しくて。
でも、そのパウロのおかげで、神さまの恵みにあずかっております。
ありがとう、パウロ。
(ヨハネ 7. 45-52)