March 31, 2004

Solitude with God

おそらくは、ドッグ・イヤーのネットにおいて、ようやく時効を迎えたのだろう。ジャンキー葬というか、実際に亡くなったわけでもないのに葬式をやる。果たしてこんなことが赦されるのだろうか?というわけで、わたしは酷く怒っていたのだけれど、ようやく赦しが出たらしい。自分などにはそういうことをする理由がいまひとつ理解できないのだけれど、何か個人的には深いものがあったのかもしれない。それと同時に、いかに憐れみというものがない人たちが多いということにも、殺伐とした中で、うすら寒いものを感じていた。
最後のハゲに対するトドメはあたしが刺したのかもしれない。実際のところ、付き合いないから具体的にどういうことになっているのかはよく知らない。まあ、この世界・・・つまり、ネット社会においては、実体の欠如した人たちや噂はよくある話で、誰の言うことが本当なのかわからないとなれば、大抵は妄想が働いており、そうなると、常に一方通行社会だということを念頭においておかないと、妄想に巻き込まれてしまう。精神系のウェブなどを徘徊していると特にそういうことになる。精神系のウェブじゃなくても、多いから・・・ネットは、ジャンキーが。ネット・ジャンキーというのは病気だからね。逆に、病気だから、ジャンキー化するということも大いにありえる。

というわけで、たしかにさっぱりしてしまいましたね。
ネットというのは、基本が匿名の世界だから、あたしなんて、最初は実在の人間だと思われていなかったのではないかというか・・・つまりは、ネット人格とかね、その手の類の人間だと思われていたらしい。それこそネット演劇論ではないけれど、男なのに女になりきってしまうとか、複数の人格を演じていたり、どうもその手の類の人間もいる。理解に苦しむけど、その人格になっているのが癒しなのかもしれないし、それとも単に手頃なコミュニケーション・ツールにしているだけなのかもしれないし、臨床系は特に多い。
孤独と絶望の世界の住人だから、そうなると諦めるしかない。でも、歌人などは、そういう孤独と絶望を備えているくらいのほうがよい歌が詠めるような気がするけど、もしかするとそれは錯覚なのだろうか。これまたよくわからない。でも、寂しいから歌を詠む人が多いと、これまた昔誰かが言っていた。

『時空短歌』の前身は、たしか『宇宙時計短歌』と言っていたような気がする。どうしてそういうことになったのか、何度か説明してもらったけど、今でもよくわかっていないかもしれない。登場人物がいささかややこしいからでもある。いずれにせよ、誰がやっていたにせよ、短歌を宇宙(ウェブ)にあげようというシンプルな試み。それと同時に、ハンガーサイトなどのクリック募金サイトをアピールする。
これはね、よいことだと思ったわけ。クリックするだけで寄付になる。それだけで、飢餓の子どもたちが助かるなら素晴らしい。たまには国連もまともな提案をすると思ってしまう。つまりは、インターネットの普及に伴い、世の中が動き出したということなのかも。
『宇宙時計』は、9.11テロより前からやっていたから、テロの影響をモロに被ってしまった。あたしのささやかなサイトでさえ、結構、嫌がらせがあった。テロが発生してね、もうそれだけで、募金サイトを見るのがいやになってしまうらしい。気分の問題なんだろうな。TBSなどで地雷撤去のキャンペーンなどをしていて、それにより少し状況が変わったと思う。坂本龍一さんの活動もそれを支えていたのでしょうし、いざとなるとアートの世界の住人はパワーがある。
というわけで、テロとは何の関係もないままに、「みんなで戦争を無くそう、飢餓の子どもたちを助けてあげよう、愛と平和」。それがどうして恋の短歌になってしまうのかそこがまたよくわからないけど、要するに誰でもいいわけさ、素人でも歌人でない人でも、みんなで歌を詠んで、それをコンテンツにする。そこにクリック募金のバナーを貼ってお配りするだけ、という活動は続いていた。ほとんどが自分でサイトのつくりかたも知らない人たちが多かったから、それだけでも自分のサイトのコンテンツになるし、どんな歌でもそれが綺麗なイラストと共にアップしてあると、それなりに見えるからうれしい。
それがどうして『時空短歌』になってしまったのかも、実はいまいちよくわかっていないけど、一つにはテロが発生したために、そういう活動そのものに対して圧力があったこと、クリック募金というシステムが単なる広告であるために、広告収入に依存している無料サーバの場合、利害関係の不一致があるということ、それに対しての嫌がらせが発生していたこと、ジャンキーが暴れていたこと、その他・・・いろいろあらーな、という理由があって、名称が変化したのかもしれない。(もしかすると違うかもしれないけど)
あたしが有料サーバを借りるきっかけになったのも、実はクリック募金の問題がきっかけ。だって、いきなり違反行為と言われてサイトが見えなくなったり・・・有料サーバを借りる金で募金をするほうが合理的かもしれないけど、ウェブには普及効果があるし、それと意地かな。

まあ、このようにして考えると、実は短歌でなくてもよかったのかもしれない。でも、矛盾はなかった。短歌というのは実は誰にでも詠めるものであり、いわば千羽鶴のようなものだ。みんなの願いを乗せて飛ぶ。上手な人もいれば、あたしみたいに初めて歌を詠む人もいる。それを、宇宙にあげる。平素は恋の歌でも何でもいい。でも、いざテロだの戦争だのとなると、ダ〜ッとそういう歌が多くなる。がんがんに連歌ではないけれど、それこそみんなの歌が集まる。個々人の間でもそういう歌が詠み交わされる。

それがいつしか変化した。その理由も、実はあたしにはよくわからない。歌人リストをつくるようになってしまったかもしれないし、匿名ながらも本格的に歌を詠んでいる人の投稿なども雑じってきていたのかもしれないし、自分のように歌壇や結社のことをまるで知らないと裏事情にも詳しくない。ただ、あれこれあって、うちのサイトにもどこかの結社の人から嫌がらせがあり、しかも『時空短歌』からの流れの人だと知る。実際問題、『時空短歌』にどのような歌人がいたのかよく知らない。その中でごく少数の人たちとお付き合いしていただけだからだ。だから、もともとが歌人ではないし、知らない人ともお友達と思われてしまうことが苦痛だったために、歌人リストからは外してもらった。結社みたいに最初から組織化されている世界だという認識があれば違うのかもしれないけど、そういう帰属意識は持っていなかったし、単なるサイトのコンテンツくらいにしか考えていなかったから。ちょこんと交じっている分にはかまわないんだけど、リスト化された中は困る。
こう、あらし騒動が勃発して、次々と膿が出る。自分が結社へ行こうと思ったのは、そういう騒動がめんどーだったのが一つと、匿名ということにうんざりしていたのと、選者さんのところに歌を送ってみたかったのと、歌の数が増えたから少しは本格的な歌を詠んでみたいと思っている頃だったのと、単なる流れ。が、しかし、実際に『時空短歌』の膿は、そういう結社関係のしきたりみたいなところから出ていたような気がする。なんせ、歌を発表するという意識がメインになってしまうと、名前を売るとかさ、インターネットがメディアとして話題になっているとかさ、「はあ?」という・・・・
あっさり語れば、活動のテーマや本質が変化してしまっているという事実に、主催者側の人間ではなかったあたしには理解できなかった次第。付き合いは長いのだけど、そういうふうに主催に回るのは好きではないために、逃げモードだからね。そんなの知ったこっちゃねーという。無責任。だから言われるわけですよ・・・何もしないって。だって関係ないから。
もちろん、派手なコンテンツをつくるより、テキスト系の歌のサイトのほうが自分の好みには合っていたし、短歌だけ詠んでいるほうが気楽だから、というのが大きな理由。ところが、主催者に言わせると、短歌は、単なる「短歌部門」らしい。「はあ?」これにも悩んだ。つまり、根底に、最初の理念というものが失われ、歌人に活動をのっとられるのがいやだったのかも。
どうしてそういう流れになるのか理解に苦しんでいるところに、いきなり主催者が亡くなる。「はあ?」(なんで、「はあ?」なのかはともかく・・・・)

とりあえず、神父さんのサイトへ行ったら、短歌関係は、2001年のコンテンツだけリンクしてあるので、つまりは2002年以降の活動は無視してもかまわないのかもしれない。神父さんの場合は、常に隊長は神さまなので、2001年はよく、それ以降はダメということになる。2002年以降に、実際にどういう裏事情があったのかあたしは知らない。いいよ、シンプルで。他人のことをまるで考えないというのは。目標は、Solitude with Godなのだろう。一人にならないと神さまは見えないらしい。だから、一日一時間でも一人で歌を詠んで神さまとお話する。

投稿者 Blue Wind : 07:00 AM | コメント (0)

March 28, 2004

マイペースを維持するのもたいへん

久しぶりにシャーデーなどを聴きながら、のんびりした午後。おちびが春休みに入ってしまったために、パタパタしている。そのくせ、朝早く起きなくてもよくなったせいか、どうしても生活のリズムが狂ってしまう。もともとヘンと言われるとそれまでなんだけど。
夜、家族が寝てから歌を詠む。このところ皆まとめて夜更かしなものだから、だんだん時間が遅くなる。どうも午後を過ぎないと起きているという気がしないくらいぼーっとしているかもしれない。それでもぼーっとしているくらいのほうが歌を詠もうという気にもなれるために、そちらのほうがよいかもしれないし、それでいて、案外詠んでいるときにはぼーっとしていないのかもしれないし、歌を詠んだ後に聖書を開き、それをアップする頃には半分寝ている。半分寝ていながらも、パチパチ打てるというのも慣れなのかもしれない。もう4年もキーボードに向かっているわけだから、それもまた一つの生活なのかも。
たしかに、キーボードに慣れていなかったら、キーボードで歌を詠むのは難しいかもしれない。これって習慣なんだろうな。手書きに慣れていたら、それこそ手に馴染んだペンではないと何となく書く気になれないとか、その手の習慣に近いかもしれない。学生時代にもそういうことってあったし・・・どうしても手に馴染んだペンでないと書けないというか・・・こういう感覚は誰にでもあるような気がするんだけど、どうなんだろう。手書き用に、それを持てば歌を詠みたくなるというようなペンや紙など、あれこれ工夫すれば手書きでも大丈夫になるかもしれない。気分屋って、どこかそういう気分に左右されてしまう。

どんなことでも自然体のほうがいい。
ある日突然、インスパイアされて気がつけば歌人になってしまったということを誰かに理解してもらおうとしても無理だ。無理は無理なりにそういう誰かに理解してもらおうというのを諦めている部分というものをためしにサイトに書いておくと、世の中には自分と同じような人がいるらしい。忘れた頃に、記事にコメントが入っている。Blue Windさんと呼ばれて、そういえば、投稿者の欄がめんどーだからそのままサイト名になっていることを思い出す。投稿者を設定することにより解決するはずなんだけど、一人でサイトを管理しているわけだから、あえてそういうのもめんどーなような・・・というわけで、いきなり検索で記事に飛んで、という来訪者の人にとっては、あたしはBlue Windさんなんだろう。CGIとはいえ、記事ごとに検索に引っかかることもあるために、Blogは便利なのかも。たしかにネットはトップページから来訪してくれる人なんて稀だし、とりあえずHOMEというものをつくってはいるのに、実際にはTanka Blogがメイン。検索ロボットくんにどうしてなのか教えてほしいけど。
今、かなり自由だ。毎日、歌を詠んで、聖書をひらく。それだけ。そうすると、聖書のひらいたページがまるで神さまからのお手紙のような気がしてしまう。ああ、これが神さまとだけお話せよという感覚なのだということを知る。おそらくは、自分のようにウダウダをキーボードに乗せるわけでもなかったら、神父さまなどは一人でそういうことをお続けになっていらっしゃるのだろう。何気なくひらいたページに、メッセを感じるという感覚。おそらくは、こういうのは本当に一人でやることなのでしょうし、あたしのように正々堂々とサイトのコンテンツにしているというのはどうかと思うんだけど、それはそれで今の生活になってしまっているし、あっさり語れば、自分が単なる歌詠みだからそれでもかまわないような気がする。
何かのレスがほしいだけなら、考えてみたら聖書とお話しているほうが気楽なのかも。一生懸命に理解を求めて何かを書く必要もない。訴える必要性もない。議論すらない。淡々と一人のペースで続く。特に、人生や宗教や世界のことなどは、そういうものなのかもしれない。一人で考えても行動しても無駄なことならなおさら。淡々と聖書とお話しているほうがいい。

歌もね、ようやく結社アレルギーというものが薄くなってきたかも。どうしても徒弟社会というのは疲れる。どっぷりと浸かってしまうか、逆にほどほどに距離を置くかのどちらかしかない。歌を送るのは強制ではないし、基本的に無償の世界だから、それこそ個人契約の社会なのかもしれない。特に何かの見返りを期待しないかぎり、誰も何も言わないだろう。まあ、力社会だから、上の先生の引きがあって初めて何かができるということもあるのかもしれないし、歌人として有名になりたいとか、上のほうに上りたいなどを期待すればそういう関係性も当たり前なのかもしれない。賞を取るときにも、それなりにあるんだなーなどと眺めてみたりもする。自分のやりたいことと完璧なる方向性の一致があればそれはとても有効な関係性のような気もするし、それでいてあくまでも自分のペースを守りたいと思えばストレスとなる。
どちらかというと、隅っこのほうにちょこんといるほうがショウにあっている。こう、がんがんに行きそうでしょ?ぜんぜん。マイペース。何となくノラクラノラクラしながら、ちょこんといるほうが気楽で気楽で。そういう自分のペースをいかにして守ろうかということの戦いな気がする。一度、どっぷり浸かってしまったら、なかなかそこから外へ出るのは気を使いそうだし、かといって今さら無責任に選者欄を浮遊することは可能なのだろうか?悩む。人間関係が想像以上にややこしそうで、それでいてちんぷんかんぷんだし、『未来』の場合、会則としては会員が自由に選者欄を選べることにはなっている。自由に選べと言われても、知らんのよ。もともと歌の世界の人ではないというか、あまり興味もなかったのに、いきなり歌人になってしまったがゆえに何も知らない。困った。
考えるのやめよう。そのうちまた気まぐれに何かを思いつくかもしれないし・・・何もなかったら、ミーハー的に岡井先生のところに歌を送っていただけなんだろうな。そういうスタンスに戻しますと言われても、本当にそれでかまわないのだろうか?
思いつく理由としては、「すみませ〜ん、やっぱり手書きでは歌が浮かばないんです。だから、サイトにアップしてあるとかしてないとかまるで関係のない選者さんのところのほうが気楽なんです」とかね・・・(本音) でも、加藤先生自身はあまり言わないんだけど、どうしても兼ね合いというものがあるから難しい。だって、自分で歌集出したり、賞を取ったり、あれこれ活動している人たちからすれば、どうでもいいような話なんだと思うよ。実際、自分がほかの人たちに対してどう思うかに対しては、単に、個人の勝手だろうとしか思えない。だったら、何か言われても無視したらいいでしょ?あっさり無視するのは簡単なんだけど、あまりにも簡単に無視するほどの確執もないわけで、自分という人はあっさり怒るとまさにそれを実行する。が、しかし・・・そこまで強硬な姿勢を貫くほどの理由が浮かばない。明々白々に、あんたなんか嫌いよ、ということになれば話は早い。でもさ・・・実際には、ほとんど知らない人なわけで、だからこそ余計に悩む。もっとズバズバやって、ライバル意識むきだしにがんばるとか?ハア・・・・無意味。そういう余裕があるなら、もっと違うことにそのエネルギーを費やしたほうが生産的かもしれない。
それでもアレルギーは緩和しつつある。そういう世界を横目でちらりと眺めながら、淡々とマイペース。あーなんかあたしっぽい。
まあ、まだ作歌も浅いし、勉強しようと思ったら山のようだし、いまだに聖書を読破していない。もう少し、今の生活に慣れて、自分の歌が詠えるようになったら次には歌評とか?歌評を書くのは、ある程度慣れてからかな。今はまだ距離感がつかめない。ほかの誰が何を言っても、「これ!」というか、そういうワガママさも必要なのかもしれないけど、あっさり語れば、あたしがいいなーって思う歌は誰が読んでもいい歌らしい。ということは、あえて一生懸命にはなれない。酷評というものがあり、それに対していちゃもんをつけるというのは得意な気がするけど、今のところ酷評というものには出会えない。言われることはあっても言うものではないせいからかもしれないけど。そうなんだよね・・・いや、もしかするとあるのかもしれないけど、それに対してはいささか無責任でもあり、他人に何か言われても淡々と一人のことをしている分には何も困らないし・・・今はまだ、個人のことで精一杯なんだろう。歌、浅いから。歌壇のこともよく知らない。単なるミーハーですな。最初の1年は、そんなものなんじゃないの?知らん。

投稿者 Blue Wind : 05:47 PM | コメント (0)

March 26, 2004

21世紀の霧の中

今月はすでに400首近く詠んでいる。これが多いのか少ないのか、実は皆目検討もつかない。ただ、昔の歌人のことを考えれば勢いとしては多いほうなのかもしれない。でも、1日で100首くらい詠んでしまう人たちもいるのだから、それを考えると決して多いほうではないのかもしれない。詠むネタがないと思ったら、時事短歌でもなんでもありいなんだから気楽。
想念というのは不思議なもので、18年前のパリの歌から始まり、毎日聖書を詠んでいるうちにどうしても旧約聖書の世界が理解できない。その世界をどうにかして理解しようと思っているうちに時事短歌へ走る。これはごく自然な行動であり、毎日詠んでいればそういう時もある。かなり本人にとってはおおまじなのよ。報道などからイメージして、イラクの歌でも詠むわけでしょ?そうなると実際にイラクには行ったこともないのに詠む。アフガンにしても然り。歌壇では新聞に投稿するような歌は嫌われるのかもしれないけど、実際に投稿はしないまでもある程度歌にして自分の意見を発信していくことはそれなりに意義があると思う。つまりは、長々とした解説文などを詠むよりストレートだからかも。歌のインパクトを練習する上ではなかなかの効果があるような気がするけどどうだろう。できればパッと見てなかなか意味が理解できない歌よりも、一瞬のうちにこころに引っかかるような歌のほうが面白い気がするのは、あたしが歌のことをよく知らないせいかもしれない。
でも、難解な歌なら歌なりにどこか存在感があったりして、佐藤春夫さんの言葉を借りると、語感というものなのだろう。つまりは、現代詩を難解にしているのは、詩を語意で捉えようとしているのが原因だという。詩人は語意ではなく語感を大切にする。だから、読者が、語感ではなく、語意でその意味を理解しようとしても理解できないのが当たり前らしい。まあ、詩人は実用書を書くわけではないから、その語意に深く留意する必要もないわけで、それよりも語感を大切にするという気持ちは歌も一緒。だから、新聞などに投稿する歌はどちらかといえば語感よりも語意が大切であり、内容重視型なんだろう。だから、詩ではないかもしれない。だから、歌でもないらしい。でも、語意を伝えるだけでは詩や歌にならないという気持ちは、誰でも根底にあるのではないだろうか。
自分としては、もはや詩と歌を特に分けようという気持ちはない。
万葉集の写真集を買った。英訳がついている。
英訳を読むと、なるほどたしかに万葉集というのは日本最古の詩集であり、いかに詩情にあふれた世界なのか今さらながらに目からウロコ。歌は、どうしても語数律だから、リズムや語調が大切になる。だから、そのリズムに乗って詠っている分にはとりあえずはどんなふうに詠おうとも短歌らしい。逆に、万葉の詩情をこめて詩を詠っても歌にはならない。つまりは、語数律ではないからだ。ただそれだけのことなんだけど、日本語のもつリズムというのがそもそもが8分の5拍子なのだから仕方がない。

一つ気がついたんだけどね、もしかすると間違っているかもしれないけれども、今の歌壇を引っ張っていっている高齢の人たちの時代は、どこか破壊の世代であり、常に新しい形を模索しながら今の形態をつくってきたのではないかという・・・気のせいかな。自分にはもはやそういうこともよくわからない。逆に、「ネット短歌」と表現されると残念でたまらない。そういうつもりはまったくないからだ。もしかすると、ほかの人たちは、ネットにありがちな歌の世界が非常にめずらしいだけなのかも。なんか、いつも視点がずれてしまう。つまりは、自分は古い歌をあまりにも知らなさすぎなのかもしれないし、それでいて何も困らない。
ただ、歌くらい好きに詠っていたってよいのではないかと思っただけ。
今から半世紀くらい前に、学生がアパートで静かに歌っていたのがボサノバ。つまりは、そうやってブルーノートは広がっていったわけであり、自分はどこかその流れの中にいたいと思っている。静かな反戦というか・・・反戦デモにも興味ないし、いわば暴力そのものを否定するべきではないかと思う。声を大にして語ることも諦めて、静かなつまびらやかな世界。明るくもあり暗くもあり、自然があり愛や恋がある。好きなものだけを詠う。どこかそういう世界の流れの中にいたいという気持ちはある。R&Bは好きではない。でも、軽いノリであれこれ社会派のサウンドも面白いような気もする。
あっさり語るけど、あたしは21世紀の歌人だ。だって、初詠みが2001年2月5日だ。サイトのコンテンツにしていたから記録も残っている。2001年のお正月に初めてサイトをつくり、単なる流れだったんだけど、今にして思うと21世紀になったとたんにいきなり歌人になってしまった。それがまさか今日まで続いてしまうなんて当時は思っていない。ついこの間のことのような気がするし、ずいぶん前のことのような気がするし、自分のことに没頭しながら歌を詠む。
誰が厳しいと言って、自分が一番厳しいだろう。歌は正直だから。調子のよいときもわるいときもある。こーね、一人あつまり二人あつまり、という感覚は嫌いではない。来るもの拒まず去るもの追わず、みたいな。ゆるやかな関係性。実際にはどうだったのかはわからないけど、自分的にはそういう感覚のほうが好きだ。気を遣いながら歌を詠んでいて何が楽しいのかよくわからない。いささか競争心をむき出しにして歌を詠むのも趣味ではない。あっさり語れば、自分はもともとバトル系だ。もしかすると論客かもしれない。でも、なんで歌を詠むくらいで大騒ぎしないといけないのかよくわからない。
ジョアン・ジルベルトが最初にボサノバを歌い始めた頃の流行歌の主流は、もっと大袈裟で感情をこめて歌うとか?つまりは、劇場歌手の世界だったのだろう。あんな小声でぼそぼそ歌っていたら声が後ろの席まで届かないではないか。たぶん。でも、時代はどんどん変化する。
今の自分の心境としては、あれはダメこれはダメと言われていることをどんどんためしてみたい。破壊するのが目的ではなく、歌は写実が基本と言われれば、写実でない世界を詠んでみたいし、概念歌が古いと言われればそれも詠んでみたい。ニューウェーブが終わったと言われれば、ちょっと真似して詠ってみたい。万葉集が死んだと言われれば、英訳の万葉集でその時代を眺めてみる。だから、あれもダメこれもダメ、こうするべきああするべきという話にはなるべくたくさん目を通したい。それが自分の肥やしだからだ。一事が万事この調子だから歌の数は多い。だから、おそらくは自分で気に入るような歌が詠めるようになるためには2万首くらいが今の目安。最初の頃のピッチだとそこまで到達するまでに何年かかるのだろうと思っていたけど、毎日ポツリポツリ詠んでいるだけで、今月は一気に倍になっている。歌だけ詠んでいるわけではないんだけど、ペースの問題なんだろうな。
誰かがサイトにアップするのは発表だと騒いでいたけれども、あたしの歌はまだまだどこかに発表できるような歌ではない。それでいて、もう昔のように、軽いノリで詠いたいとも思わない。なんか、かったるい。今、すごく面白い。自分がどこへ向かっているのかわからないけど、要するに自分の世界へ向かって進んでいるような感覚はある。これが自分の世界というものをつくりだしたい。今はまだ霧の中。完成したら終わるのだろうか。そんな先のことまで考えても意味ないか・・・

投稿者 Blue Wind : 05:16 AM | コメント (0)

March 20, 2004

視点

何がよくて、何がダメということはないでしょうけど、視点だ・・・
どうして視点なのかといえば、閉ざしてはいけないということなのかもしれない。
歌詠みの世界は、いつも歌詠みのことだけを考えて詠んでいる人たちが多い気がする。そういう瞬間、自分は窒息しそうになり、歌が出なくなった。自分がもともと歌詠みではないせいかもしれないし、そこにはもはや自由はない。なのに、どうして神父さんのサイトだと歌が出るのだろう?おそらくは、信者さんやほかの神父さまやシスターが来訪するのかもしれないし、そうなると歌よりも神さまとの対話を読みにいらっしゃる。中には、日本語のわからない人たちも多いかもしれない。だけど、一生懸命に、なにかをキャッチしようとなさる。自分はもはや赤裸々だ。毎日のうだうだ鬱々・・・まずいなーと思いながらも詠む。何がまずいかといえば、非常にまずい。でも、それはそれで叱られながらも詠む。

村松恒平さんのメルマガを詠む。最初に黙読の実験。つまりは、黙読するだけで何を読んでいるのかほかの人たちにイメージが伝わるというもの。変わっているけど、そういうこともありえる。娘が教科書を読んでいるのか、マンガを読んでいるのか、顔を見たら何となくわかるではないか。でも、言葉なき世界で言葉を伝えるということは、案外、ごくありふれたことなのかもしれない。ということは、黙読した瞬間、もうすでにそれを読んでいる人の中にはイメージが広がるわけであり、おそらくはそういうことを語りたかったのだろう。
目があって何も見ず、耳があって何も聞かず、そのようにインプットされた情報は自動的に処理される。無意識の中に蓄積されていくもの、選択的注意の中で知識として蓄積されていくもの、おそらくは自分が気がついている以上の情報が文字により与えられているはずだ。
もしかすると、何も与えられないテキストもあるかもしれないし、与えようとして何も与えず、通り過ぎようとしてこころに引っかかるテキストもあるかもしれない。

編集者というのはおもしろい。自分でも当然記事を書いたり、編集するわけだから、常に文字に埋もれている生活だ。そこからどうやって自分を救っているのかわからない。つまりは、夥しくも与えられてしまうものから常に自分を救わなければならない。それと同時に、常に書くという作業を見つめている。そこがすごいような気がした。ある意味、作家以上に書くことを熟知している。自分が書くためではなく、自分を救うためにだ。
村松さんクラスになると、あれだけ世に送り出しヒットした出版物は数限りないのにもかかわらず、自分自身の著作物も結構たくさんあるにもかかわらず、自分で書いたものは案外ヒットしない。それでいて、作家に対しては絶対的な権限を持つ。つまりは、誰かが文章を書いて持って行く。その時に編集者の意見が聞き入れられなければ出版されない。ということは、編集者は自分の目に絶対的な自信を持っているということになる。
文章が上手になりたければ、森鴎外を読めとかね・・・まさしくそういうことなのだろう。つまりは、そうやって無意識に何かを蓄積しなければならないのかもしれない。それを考えると自分は怠け者だ。夥しい歌集を読むよりも、詩集や入門書、聖書を読みながら詠んでいる。
だから、自分の歌はいつまでも下手なのかもしれないと思う。それでいて人生は短い。

魂というものがどこに存在するのかわからないけれども、おそらくは、言の葉の中にもその片鱗があったとしても不思議はない。つまりは、つたえあうもの、だからだ。それでいて、それはどこか無意識の中に響かなければならないらしい。自分には何があるのだろう。夥しくも舞い散る言の葉の中で、いつも原風景がある。自分が表現したい世界が一体どこから来たものか、自分ではすでに忘れてしまっている。
でも、一つ発見したのは、おちゆく感覚というのは雪の上に寝ている感覚なのだろう。
あまりにもあたたかく気持ちがよい。空を見ながら雪の上に寝る。あまりにも気持ちがよいので、そのまま眠くなる。そして、母に叱られる。
雪の上で眠ったら死んでしまうらしい。だから、雪の中に閉じ込められた時には、眠らないことが生存の秘訣なのだそう。だから、逆に語れば、雪の中で静かに眠れば、そのまま気持ちよく死んでいくのかもしれないと子どもの頃に思った。まだ、死が遠いところにあるために実感はない。でも、まずいと思って、ひょっこり立ち上がる。家の中に入ったとたん、自分が冷え切っていたということを知る。いきなり血が回り出した時の手のかじかむような感覚から、自分が冷えていたことを知る。

空を眺めながら、地球の中に落ちていくような感覚は、おそらくはその時のものなのだろう。

どうして旅へ出るかというと、目を補給するためなのだろう。自分の潜在意識の中に何かを埋め込む。だから、うすらぼんやり歩いているだけでおもしろい。何気ない生活の中に驚きがある。だから、旅は面白い。知らない街を歩いているとおもしろいのは、そういう何気ない驚きがあるからだろう。
アインシュタインが来日した時に彼が写した写真。赤ちゃんをおんぶした若いお母さんが、近所のおばさんと赤ちゃんをあやしながら立ち話をしている。ただそれだけの写真。昔はめずらしくも何ともない光景だったような気がする。土浦が好きだったのは、ベビーカーを押していると、それだけで知らないお婆さんが赤ちゃんを見て話しかけてくるところかも。都会だったら考えられない。赤ちゃんを抱っこしていても、目の前で座っている人たちは寝ている。それが電車の中であり、混んでいると、子どもを乗せて乗るなんて不可能だ。押しつぶされてしまいそうな恐怖がある。でも、それが当たり前の社会では、どうして子どもがそんなところにいるのだ思ってしまう。どちらが当たり前なのか悩む。そして、何となくアインシュタインの写真を思い出す。ああ、彼が日本に見たのはそういうことだったのかと。
だから、何気ない日常を当たり前に詠むと、おそらくは未知なる世界の人たちはそれを好奇心に満ちて眺めるのだろう。赤裸々だ。ごく当たり前の日常だ。少なくても、日本人なら驚かないだろう。お母さんがパートしてどうして受験塾や私立中学なのか、おそらくは誰が彼らに説明するのだろう。ビートたけしのお母さんは偉かったと思う。でも、形だけ真似しても意味がないような気がする。
それでいて、クルマの接触事故。どこか他人事であり、彼は敵として出没してくれたからまだ救われる。つまりは、いきなり、「殴ってやろうか」とクルマから降りてきた人だから悪くも書ける。だけど、もっと近所の人で、子どもが同じ学校に通っている人だったらどうだろう。たまたま隣の小学校だったから知らん顔もできる。
あっさり語るけど、口もききたくない。
でも、言えないよなあ・・・・言えない。おそらくは、知り合いなら、道で会えば挨拶をし、世間話をし、子どもの受験の話をし、「大変だけど、がんばってくださいね」としか言えないではないか。少なくても、母親がパートをして、という部分と、受験塾ということは、まったく別個の話題として語られるだけだ。あたしなどは調子がよいから、「偉いですねー」って言ってしまいそうだ。実際に偉いと思うよ。そうやって苦労して子育てしているのだから。家でぼーっとしているあたしは少しも偉くない。
でも、いきなり敵として現れた。交通事故の当事者同士。そうなると赤裸々だ。
現実はさ、わずか1万、2万を損したくないから、「殴ってやろうか」と血相を変えて脅迫してくる。人身の扱いにするぞ、とか、いろいろ。考えていることがあまりにもわかりやすい。ほんで、そういう人とは話したくないし、携帯も貸してくれそうにないので、ディーラーへ行き、そこから家と警察に電話する。警察が来た頃には少し落ち着き、そこにうちのダンナとディーラーの人がやってきたとたん敵はへいこらしている。あたし一人の時には、いきなり脅迫めいたことを言っていたというのに。
つまりは、あまりにも小心者で、わずかの出費のことや子どもの塾のことや勤め先のことしか頭に浮かばない。そういう人が、つまりはそういうガラのわるい人がいないようにと、私立の中学にでも入れようかと思っていた。でも、現実は厳しいな。かすかすぎりぎりの生活の中でのステータスだから。
そういう人をあっさりバカにしているうちの近所の人のほうが清々しい気がすることもある。子どもの出来がよいとそういうものなのかもしれない。私立へ行かなくても土浦一高に当たり前のように通り、自転車で通学している。息子がそういうふうだと、あくせく塾へと血相変えて送っている人たちをバカにしている。そうやってバカにしてみたいものだけど、うちの娘は癒し系だし・・・
すっかり話がずれてしまった。狭い受験の話でもね、もともとの地元の人たちは高校に学閥があり、公立の中学から県立の名門校へ進学するほうが、新設の私立へ通わせるよりも値打ちがある、という家庭もあれば、何がなんでも私立中学へ受験させてという家庭もあるし、あたしはいつもノラクラしている。視点が違うからさ・・・学校一つ取っても。フラフラしない母親になりたいけど、どうもノラクラしてしまう。誰を気にしているわけでもなく、それでいて何かを気にしているのかもしれないし、自分なんかは普通だもの・・・

目を補給し、かつ、自分のうだうだを詠む。知り合いなら、「大変ですね」って言う。見て見ないふりをする。でも、敵だから赤裸々にも詠んでしまえるのかも。いや、敵でなくても、なんというか・・・事象だから詠めるのかも。村松さんは自分のことをライターとは言わない。

投稿者 Blue Wind : 06:02 PM | コメント (0)

March 18, 2004

あまのじゃく

オトがまた本を襲撃している。カバーが剥がされ、床の上。一体、なんの本かと思ったら、黒田三郎さんの『詩の作り方』。いつの間にこんな本を買ったのだろうと思うのだけれど、おそらくは詩関係の本を買ったときになんとなく選んでいたのだろう。すでにあることも忘れていた。
ネットを始めて以来、あまり本屋にも行かなくなっていたのだけれど、今年に入ってから行く回数が増えている。このため、未読本の上にさらに未読本が積まれるためにはやくこれをなんとかせねばとは思うのだけれど、毎日違った本を選んでいる。だって、パラパラとめくるだけでも一冊のページ数が多い。
それにしてもよい本だなーと感心してしまった。あたしは実は入門書が好きだ。心理学関係の入門書ならそれこそあらゆる種類の入門書を買ったような記憶がある。どうして好きかというと、実に個性的だからだ。大体が、入門書を書くのはその道の御大と言われるような人たちであり、かつその人たちがビギナーに対して書いているわけで、そのセンスの違いによって同じ内容でもこれだけインパクトが違うのだと比較するのが好きだったりする。しかも、長い間、閉じられた世界にいると、すでにビギがどういうものかを忘れてしまうのが世の常であり、ま〜ったくちんぷんかんぷんな人たちに何かを説明することほど、根気とセンスの要ることはないと思えるほどだ。中途半端だと、逆にツウぶってわざとビギが知らないであろうことを語りたがる。そういったものをすべて排除して自分の言葉で書かれていると、センスがいいなーって感心してしまう。
黒田氏のご本の中で、いささか戸惑ったのはまえがきだ。なるほどなーって感じた。日本だと詩の歴史が浅いから、それこそ金子光晴さんではないけれど、日本語で詩が書けるのかどうか悩んでいた時代というのがさほど昔の話ではないことを思い出した。そういう中で、昭和40年頃から詩がブームになっていったとある。つまりはそれ以前は短歌や俳句、漢詩などが当たり前で、現代詩というものにまるで興味のない人たちにどうやってそれを語ったらよいのか、極めて慎重で謙虚な姿勢で書き始められている。自分などは逆に詩が当たり前で、どこで最初にそういう詩心を学んだのかといえば、少女マンガではないかと思ってしまう。小学生のときに、初めて週刊マーガレットを見たときに、西谷祥子の美しいイラストとすでにテキストの内容は覚えていないけれども、詩や散文詩を思わせるような世界。ニンフやオリンポスの神々の話、どこか空想的で幻想的な世界があったような記憶がある。今は、娘が毎月買っている『ちゃお』を眺めてもどこが面白いのかわからないけど、すでに・・・
おそらくは、『スヌーピー』の訳者が谷川俊太郎さんだったり、少女マンガのほんわかした世界の中に、実は自分のイメージする詩の世界があったりして、そういう世界はどこか教科書などで習うような詩や短歌の世界とは隔絶して存在を認識していたのだろう。ほんわかした詩の世界は、そういう隔絶した子どもの世界に存在し、詩的感性やイマジネーションはそちらの世界に属していたような気さえする。そういう世界から札幌のポプラ並木や巨大蒲公英畑を眺めていたわけで、それはとても幻想的で、今ではすっかりそういう世界も消失してしまったけれども、自分の記憶の中では懐かしい思い出としていつまでも残っている。

何気ない日常を眺める目。新鮮な驚き。それが詩となる・・・
???

ヘンだ。何かヘン。もしかするとヘンではないのかもしれない。黒田さんのご本を読んでいると、これはもしかすると短歌の入門書ではないかという気がしてくるから不思議だ。つまりは、写実とはどういうことか、短歌とはどういうものか、という説明を読んでいるような気がしてくるから不思議。そして、詩の作法のあるまじきとして、まさしく彼が語っているのは短歌や俳句の弱点ではないかと思ってしまう。そうなんだよね・・・つまりは、すぐに習い事というとお手本どおりとかね・・・すぐに手本を求める傾向がある。そうやって形式を真似したり定番の美辞麗句を並べても詩にはならない。どうして詩にならないのかということを読んでいくうちに、まさにこれこそが短歌をつまらなくしている弱点を暗に示唆しているような気がしてきてしまう。つまりは、すでにまえがきの段階から万葉からの伝統を否定するものではないと書きながら、それでいて暗黙のうちにそれらと対比させることにより、現代詩のよさを説明しているのではないかとすら疑ってしまう。
逆に語れば、もっともなことしか書かれていないために、そういう弱点があるにもかかわらず、どうして自分が短歌という定型詩を詠んでいるのかといえば、単に自分のあまのじゃく的性質から来ているのかもしれないと思っていたら、実は自由詩が難しいから定型詩を書いているだけなのかもしれないとすら思ってしまう。それでいて、戦後の現代詩より実は戦前の詩人のほうがいまだに人気がある詩人が多いという・・・だったら素直に明治の頃のように七五調でも日本語の詩はかまわないのではないかとすら、あまのじゃく的に斜めに考えてみる。
つまりは、形を破壊しても根底の姿勢が変わらなければ意味がないし、形を踏襲しても詩の本質を見失えば短歌も俳句も本来の旨味を失ってしまうのではないかと、ぼっけーっと思ったりして。
あっさり語ると、日本の現代詩は、文語定型詩が嫌いな人が、口語自由詩を求めているだけなのかもしれないし、定型詩が主流の中で、コソコソと自由詩を書いていた人たち・・・それでいてヨーロッパの詩人などは定型詩から書く人が多いということと日本の詩事情というものを対比させているのかもしれないし、自分などは詩はあまりにも自由すぎるような気がして、かえって難しく感じる。だから、短歌と比較するとあまりにも遅筆。つまりは、自由詩が主流の中で、コソコソと定型詩を書いている・・・

投稿者 Blue Wind : 11:37 AM | コメント (0)

March 17, 2004

トラ歌人

十代の頃から親の葬式を心配しながら生きてくると、30歳を超えたら自然と自分の葬式のことを考えるようになる。年寄りっ子でもあり、短命の家系だとそれが普通だ。それでも、自分の場合は父に比べればまだマシではないかと思う。彼の場合は、長男が40代で代々亡くなってきたために、戦争という暗い時代背景もあっただろうけど、自分もまた40代で亡くなるかもしれないという破瓜的なところがあり、その後も鬱々と弱い心臓を抱えていたせいか、あたしも子どもの頃は学校を休まされて突然旅行に連れ出されたり、ちょっと変わったところのある親だったかもしれない。母も祖母も65歳の手前で脳出血だから、いずれにせよ、元気なうちに精一杯やりたいことをしておこうというか、母もかなり身勝手な人だった。そういう親たちに振り回されながら、子ども時代を過ごしてきたんだなーと、娘を育てながら感じたりする。
ダンナもあたしも共に年寄りっ子だけど、まだうちのダンナのほうが生産的に育てられている。将来的には誰が親の世話をしてとか、たしかに姑さんのところは長生きの家系だから、いっつもボケや寝たきりを心配しながら健康管理には人一倍という性格だし、よく考えればそれが普通なのかもしれないとワイドショーを眺めたりすると思ったりする。あたしの場合は、個人年金でもすでに自分が受け取れないような気がするから、損しないように娘が受け取れるような形にしてあるし、万が一生きていたとしても介護や医療費にあてるくらいの考えしか持てない。

よく考えたら、これは鬱なのかもしれない。でも、病気ではないらしい。というのは、子どもの頃からそういう親に育てられると、そういうのが当たり前なのですでに終わっている。病気になったりとか、災難に遭遇したらとか、明日がどうなるのかわからないとか、すでに終わっている。ダンナにも検診に行けなどと言われるけれど、いささかそういうことにもうんざりなのです。明日死ぬなら死ぬでそれまではやりたいことをさせてくれというのほうが当たり前のメンタリティなので、うちの娘などはそういう理屈を凌駕した部分をうすうすは感じとってはいるだろうけど、幼稚園の頃には、一日早くダンナが香港へ行くのを見送っただけで、「お父さんが心配」と空港で泣いていたし、母が脳出血で倒れた姿をみて、あたしがあんなふうになったらどうしようかといきなり泣き出したり、そういう意味では感受性のつよい子かもしれない。
まだ小さいのに気の毒なやっちゃと思うけど、オトくんが来た日に、「お父さんもお母さんもいなくなるかもしれないけど、そのときにはオトくんと生きろ」と言ってある。『フランダースの犬』ではないけれども、いつそうなるかもわからない。そうならないように、とは思っているけれども、こればかりはわからない。ふつうだったら、子どもにそういうことを言っても説得力がないのかもしれないけど、そういうのがみょうに説得力のある家庭環境というところがなんともはや。
でも、何の免疫もなく不幸に遭遇するよりも、ある程度、そういうストレッサーに対する免疫はあったほうがいいような気がする。諦めがよくなるからかな。泣いても怒ってもどうにもならないことのほうが多いと思っていると諦めがよくなる。諦めがよいほうが自分を救いやすい。いつまでもあーだこーだと怒っているヒマがあれば、もっと違うことをしようとか、切り替えが早い。あまりにも早すぎて、他人には冷たい人間だと思われてしまうのだろう。たまに、うちのダンナに対してもそのように思ったりするから、おそらくは他人からみれば、自分もまたそのように映るのだろうとはたまに思ったりすることもある。が、しかし・・・・そうなると、すでに他人のことはどうでもいいような気がしてしまう。
一番の悩みの種は、他人に癒しを求められたくないということかも。

鬱々している部分というのは、弱点なのだそう。弱点なら弱点でそれはそれでかまわない。それでどこか弱く見えてしまうのは仕方がない。でも、実際には全然弱くないと思う。鬱々とぶっつぶれているくらいがちょうどいい。なぜかというと、そういうときには少なくても癒しは求められないからだと思う。鬱の人を励ますと、猛烈に怒ったりするでしょ?つまりはそういうことなのよ。だから、本当は猛烈に怒る権利があるのだと思ったりする。それでいて、いちいち怒るほどには鬱々していないらしくて、逆に他人が猛烈に怒ったりする。どうして怒るのかというと、弱点だかららしい。
そういう鬱同士のあほらしい中にいるより、あっけらかんとマンガを読んだり、ゲームをしているほうが生産的なのかも。それでいて、そういうのにも飽きる。
オトくんはうれしそうに寝ているし、ダンナは夕飯のことしか考えないし、おちびはマイペースだし、あたしはのんきに歌でも詠む。静かに詠んでいるのではなく、なんと言うか、いわば鬱捨て場だ。なんか、鬱々と鬱を捨てるとすっきりしてしまう。もともとあってないような幻の鬱だから尚更かも。内心はぎゃーぎゃー喚きながら詠んでいる。「ばかやろ、歌くらい好きに詠ませろ」とか。いわば、タイガース・ファンの心境に近いのかも。あのように、大虎をかましながら詠んでいる。それが行き過ぎないように、自制の意味で、神父さんのサイトや聖書を読んでいるのかもしれない。それが外れると、どんどん毒々しくなっていってしまう。自分ではネコ歌人だと思っていたけど、もしかするとトラ歌人かもしれない。やば。

投稿者 Blue Wind : 11:07 AM | コメント (0)

March 16, 2004

ホームメイドかオリエンタルか

短歌系のメルマガを読む。「いまどき短歌」・・・・・
きゃーーーーーー、やめてぇーーーーーーーーー!!
っと思ってしまった。
かっこわるくてかっこわるくて。
「ネット短歌」という表現もやめてほしい。
あたしは、ネット歌人であるけれども、ネット短歌をアップしているわけではない。(つもり)
どうしてネット歌人かというと、CGI歌人だからだ。どうもいまだにペンやメモではなかなかスラ〜っと歌が出ない。それよりも大真面目にBBSなどで歌をやりとりしていたのが事始だから、パソコンの画面を眺めながらそれを初めて手書きに置き換えたときの不思議な感覚は言いようがない。今は、知り合いのサイトか、神父さんのサイトでくらいでしか、めったに歌を詠まなくなってしまったけれども、そもそもが歌人は一人の世界と言ってきたし、傍若無人な歌のほうが好きなために本当は酒でも飲みながらぶつくさ言っているのを歌にするくらいがちょうどいいのかもしれないと思うくらいだ。そういうわけで、八木重吉のように、神さまとだけお話せよ?つまりは、歌を詠んで、あーでもないこーでもないとうつうつうつうつしたとともに聖書を開く。気がつけばこれが日課になってしまった。駄文のほうは、以前からサイトのネタのつもりでアップしてきたし、何か書かないことにはテキストサイトにはならないではないか。
「いまどき」ってことはさ、つまりはいまどきではないうたを念頭に置いているから、そういう発想が浮かぶわけで、いまどきではないうたを知らないあたしにはそういう発想自体がイカメシすぎる。ひ孫のいる年寄りが子ども子どもと話しているのと似たような気分というか、あなたのお子さまはもうおじいさまなのですと言っても無駄なことにも似ている。
あっさり言うけど、歌はつぶやきだ。詩とはそこが違うような気がする。少なくても、単なるつぶやきを定型で落書きしているようなものであり、うちの娘があたしが学生時代から使っているカントリー調のおはりばこ・・・つまりは、ソーイング・ボックスと言ったほうがイメージしやすい代物の中から勝手につくりそこねたクリスマス用パッチワークの切れ端を見つけてちくちくやり方も知らずに縫っているのと変わらない。何を始めたかと思ったらオトくんのおもちゃをつくっているらしい。これはオトくんのバッグだとか、首輪だとか、パンヤを詰めて噛み噛み用に細長いやつ、小さいやつなど、あれこれつくって遊んでいる。要するに、紙を切って遊んでいたり、ダンボールでオトくんの犬小屋をつくってみたり、工作ごっこをして遊んでいる延長線上にある。ちゃんとそれらしく完成しているので感心してしまうけど、売り物にはならないだろう。だって、材料費タダだし、遊びだし、てきとーだし・・・
でも、自家製ならそれでもかまわない。
「ホームメイド短歌」のほうが、まだ「いまどき短歌」より、雰囲気がいい。第一、あたしはいまどきのひとじゃないわよ、すでに。いまどきのひとたちを理解できないし、それでいて、リブ・ゴーシュやミュグレやいちの服を着ていて遊んでいた時代の自分とは違う。当時はそれが普通だったと言っても、もうすでに同年代の人たちじゃないと理解してくれないだろうけど。今は、平気で20年前のセーターでも着たきりすずめでも平気だもんね、なんたる違い!クルマしか乗らない生活だからかもしれないけど。サンダルひっかけてリゾートへ直行という時代。
が、しかし・・・・3年の間でバリ島があまりにも変化していたために、それも考え直したほうがいいかもしれない。アジアン・ビーチに未来はあるのか?落陽の美しさだけは変わらないだろうけど、人間次第なような気がするし、旅とは。それよりもドンとしたふるきなかへ今年はすすみたい。いまどきのひとの考え方よりいにしえのひとの考え方へ旅してみたい。めんめんとみゃくみゃくと変わらずに、在る。そういう存在感に圧倒されたい気分でもある。もっと突きつめると、それこそ文化ではなく、文明を感じてみたい。
詩は少なくても短歌ができる前からあったわけだし、日本が消えても詩は消えない。
ところで、短歌って、日本が消えたら消えちゃうわけ?
魂は永遠・・・のはず・・・・・なんだけど。

投稿者 Blue Wind : 10:21 AM | コメント (0)

March 15, 2004

舞い散るほうが美しい?

それにしても父系社会というのは他人の集合体のような気がしてしまう。叔母さんたちが集まっても全部他人だし・・・つまりは、長男の嫁、次男の嫁、妹という関係はとりあえず義理の姉妹であってもすべてが他人だ。年寄りが長生きする時代ゆえ、母親一人が残ったりするとどう考えても他人となるらしい。完全に他人ならまだしも、それまでの生きてきた確執などがあったりすると、本当に他人同士のほうがマシであるということを学ぶ。そういう中で、うちのダンナなどは末っ子だし、年も離れているために従兄とは言っても一回り違う。それでも50代で亡くなったのだからまだお若いとしか言えない。お子さんもいらっしゃらないし・・・
姑さんが、子ども子どもと騒いでも皆おじさんおばさんであり、末っ子に近い姑さんの場合、姉と言っても一回りくらい上だったりする。そうなると、ひ孫がいる。それでも、いまだに子ども子どもと子どもの話をする。もうそうなると子どもとは言ってもおじいさんだろうってあたしなどは思うんだけど、そこで比較されても非常に感性が違うために困る。
このように、年上の人たちとお付き合いすることが非常に苦痛であるために、特に子どもの話をされて、そのお子さまが自分などより遥かに年上だった日には、どうやって話を逸らそうかと思ってしまう。それでもなかなか逸れないのは、共通の話題が子育てのことだったりするからであり、それ以外に何を話せと言うのだろう?
世紀末とか、世の終わりなどと言っても、なんかどうでもいい気になってしまうのは、ひ孫までいる人たちがいつまでも子ども子どもと老いた子どもの話をリアルタイムのように語っているからかもしれないし、年を取るとどういうわけかその日の出来事は忘れてしまうけれども、過去の出来事などは鮮明にお話をされるという奇妙な事実があるからかもしれないし、そうなると、仮に短命の家系のあたしが長生きしてしまったとしても、あたしはおそらくは今の日の出来事をせっせと語る年寄りになっている確率が高い。
今でさえ、過去の出来事などを語ると燃えカスと言われてしまうというのに、これ以上ババアになったらせめて腐葉土と呼ばれていたいなどと勝手に考えている。
昨日の夕方、サイトを更新した。でも、ボツにした。
うたことばのことについて書いたような記憶がある。つまりは、『NHK歌壇』の3月号を何となく読んでいたら、俗語についての話が書かれており、なるほどなるほどと思う反面、あまりにもおおげさだったからだ。それと夕飯前だったので、あれにこれにと途中で邪魔されて、何が書きたいのかわからないようなテキストになってしまったせいでもある。
なんと言ったらよいのだろう・・・・短歌というのは、元来俗語は使わず、うたことばや雅な言葉だけで詠わなければならないものであり、だからこそ俗語の入った歌などを眺めるとひたすらこういう言葉を使ってもよいものかと思ったという記述を発見し、俗語を知らない人であればそういう言葉を使えと言われてもどうせ使えないに決まっているし、知っているならどんどん使ってもよいのではないかと勝手に思ったりして・・・かつ、俗語を知っているのにわざわざ使わないようにしたい人はそのようにすればよいし、そういう人たちがいるから下手な歌を詠む張り合いがあるのではないかという・・・
世の中には、本当に俗語というものを知らない人たちが存在しているわけであり、自分でもずいぶんネットをするようになってから覚えた単語もあるような気がする。だから、インターネットに発信するとどうしても毒々しくなってしまう。なんで、あほなジャンキーに襲撃されるんだろうと言えば、”あほなジャンキー”って書くからだと言われてしまう。・・・・・・おっしゃるとおり。
それでもそうやって書きたいのだからあたしのことは放っておいてほしいと思う。

----りんさん、もう少し上品なうたが詠めませんか?
----う〜ん・・・・・そういううたを詠みたいのならうたなど詠んでいないと思います。

それでいて、これが自分の歌集であると名刺代わりに配るためには少々勇気が必要かもしれないなどと思いながらそれでも詠んでいる。少しは世間体などというものを考えたら、うたらしいうたを詠まないとというプレッシャーもあるんだけど、娘の担任の先生が、あたしが短歌を詠んでいると娘が言っても本気にしてくれなかったそうなのでやめた。大体がアメリカ製の家に住んで、ボサノバやロックなどを聴いている。詩を書いているというのであればまだしも、”短歌”だから本気にしないような担任なのである。つまりは、あたしのことを表面的にしか知らないわけであり、それが世間なんだなーとチラッと考える。ちなみにうちの姑さんのほうがマシだ。少なくても驚かないもの。
本当は、雅な言葉などを使いながら、みことばなどをうたにしていくことが理想なのかもしれないけど、どうしてもそれでは物足りなくなってしまう。それこそエミリー・ブロンテではないけれども毒々しくなってしまうのは仕方がないような気さえする。たまに必要以上の猛毒を発していることに気がつくこともあるけれど、それが癒しなんだから諦めてほしい。(誰に向かって言っているのかわからん・・)
それと、歌評などを読んでいると、いやになってきてしまう。つまりは、この人はこういう身の上で、こういう事情があってこの歌を詠んだなどと書いてあると、しみじみつくづくいやになってきてしまう。まあ、死んだ後なら何を言われてもかまわないのかもしれないけど、こう、他人に仮に自分のことを書かれたとしてね、その時にこの人は自分のことをこういうふうに考えていたのだと思ったりすると、それが仮に素晴らしい内容だったとしてもかたはらいたくなってしまうし、言い返せない苛立ちが残る。それが文学だと言われてしまうとそういう世界なのかもしれないし、何か書くなら実験したり実証したりする世界のほうがまだ救われる。
もともとが自分のことは客観的には見ない。それでいて勝手にあれこれイメージされているのだと思うとつらい。ならば自分のことをせっせと書く?そこまではちょっと。
いずれにせよ、なんと言うか、舞い散る言の葉。
派手に詠もうと思ったら、言葉の大盤振る舞いというか・・・
でも、そうならないように詠む。
でも、わからんのよ。
これは、本気でわからないのだと思う。
本気の本気でわからない。

投稿者 Blue Wind : 03:21 AM | コメント (0)

March 13, 2004

愛がないんだよね・・・

まとめて歌集を買ってみた。どれもおもしろくない。おそらくは有名な歌人の歌ばかりなんでしょうけど、自分から見て魅力がない。簡単に言うと、愛がないから。宗左近さんの歌集というか、詩集のほうが魅力がある。
なんでなんだろう?
短歌だけではなく詩を書いている人は歌人というよりも詩人というジャンルに含まれるせいか、歌集というのは何となく人気がなく書店の書棚に並んでいる。歌集よりも句集のほうが数が多いのも特徴。短歌と俳句は同じ書棚にあり、詩はまったく別の書棚に並んでいる。
うちの近所の本屋がたまたまそうなのだろうか?
でも、雑誌の類の配置を考えても、詩と短歌はまったく区分が違うらしい。
カエルおやじに、世の中の人が皆、川崎さんだったら、日本の現状もあっという間に解決すると思うんですけど、などと言っても無意味なことにも似ている。親のために家を売って臓器移植をするのが愛だと勘違いしている時代だ。どうにもならん。実際にはボツになったその話も裏を返せば、相続でもめるのがいやだからそれならば母親のために、といういささか屈折した事情があるらしい。まあ、なんていうか、嫁いびりではないけれども、核家族で共稼ぎの家庭が多くなった裏側には一人でも生きていけるような強さが要求されるような背景文脈があるのかもしれないと、チラッと思うこともある。そういうつまらない事情も、自分の家庭の中だけならあほらしくて話にもならない。姑さんと話していると、話しても無駄なことがあまりにも多いことにも似ている。
長子相続という発想があるから、いつまでも本家とか分家とか古臭い世界などではややこしい。まあ、困れば兄を頼るとかそういう伝統なのだろう。うちのダンナみたいに無責任だと、相続を放棄して知らん顔している。めんどーなことは母親に押し付けようという発想なのかもしれないし、自分の家庭のことだけ考えている分には何も困らない。要するに、皆のことを考えるからややこしくなるわけで、責任が発生する。そのツケがあたしにまわってくる。それがあまりにもかったるいから、嫁さん辞めると宣言した。嫁さん辞めても妻だからね、何も困らなかった。そうなると何もしてやらないとかあれこれ思うんでしょうけど、あたしにはあたしの家族がいる。だから、ダンナの家族は要らない。なんでそこまで自分が強いのか不思議だったけど、要するに、あたしの家族は仲が良い。従妹たちでも姉妹のように育ってきた。だから、本当に困れば、金はくれないかもしれないけど愛はくれるだろう。今の日本の社会は、寡婦や母子家庭になったとしても遺族年金とかね・・・とりあえず、家があって、ささやかなる生命保険と遺族年金で、あたしが食べるだけ働けば娘くらいは育てていけるのではないかという甘えもあるかもしれない。そうなると、金よりも愛がほしい。大変だろうなーって思ってくれるだけで救われる。
簡単に言うと、こころのつながりがあるらしい。
ある程度、親などを見送ってきたり、災難などに遭遇したり、過酷な状況を経験すると、最終的には人柄ということが見えてくる。特に何をしてもらおうとも思わない。実際にはもっと大変な人たちもいるわけだし、それを考えると恵まれているよね。でも、叔母さんなどが、まあちゃんのところも大変なことになってとおろおろおろおろしてくれると、何となく救われる。
友達でも、女同士のほうが気楽だ。困っても何もしてくれないことはわかっている。それぞれに自分の家庭や都合というものがあるし、それはこちらも一緒。だから、つまらないグチでも話せるような気がするし・・・ネットの友達が気楽なのも、生きるに必要なつながりではないせいかもしれない。
まあ、たしかにお金があれば生きていけるのかもしれないけど、ダンナのお姉さんに結核の話をしたら、いきなり、「貯金ないの?」と言われた。「は?」 いや、そうではなく、弟が結核になったんだからいくらか心配したりおろおろしてくれてもよいのではないかと内心思ったけど、話すのをやめた。もしかすると、愛に飢えているから、癒しを求められるのがいやなのかもしれないと思ったし、金のことしか考えないから。よく考えたらそれが普通なのかもしれないし、まだうちの弟のほうがやさしい気がしたけど、比較しても意味ない。悪い人ではないのだけれど、愛がないのよね。
かく言う自分も、もはや他人に癒しを求められるのがいやだ。それなら、娘やオトと遊んでいるほうがマシ。可愛い。家で聖書読んで、下手な歌を詠っているほうがマシ。いや、本気になればこんな自分でももっとはマシな人間になれるような気がすることもあるけれど、そうなるとまたあーだこーだうるさい。あーだこーだとうるさい人たちと付き合うより、のんきに歌を詠む。平和。しかも、カエルに言っても無駄だとわかっていることをちまちま詠む。癒し。おらおらおら、カエルの代わりにやったうちのダンナの講義、めちゃくちゃ評判がよかったらしいではないか。今年もリクエスト。無視。なんで医者が必要なのかとかね、そういうささやかなるつまらない話のほうがカエルの講義より学生には受ける。素直なんだろうな、学生は。だったら、自分でがんばる?やだ。もう話しても無駄だもの。愛のない世界には戻りたくない。ガツガツ生きるより、たまには哲学やら詩やら。そういうほうがいいような気がする。それでいて、なんか、本屋で買ってきた歌集には愛がないような気がする。時代なのかな。

列王記上 20. 1-21 イスラエルとアラムの戦い

投稿者 Blue Wind : 04:16 PM | コメント (0)

March 11, 2004

ミモザとの会話

とりあえず、目標の歌人とか好きな歌人と問われた場合、小野小町と答えることにした。これは愛読書と問われて聖書と答えるようなものかもしれない。これだけ乱読していると、すでに何を読んだかも忘れていることが多いし、ましてや小説の類となるとタイトルすら忘れているから、間違えて読んだ本を買ってしまうこともある。かといって、今は昔ほどその手の類の本は読まなくなった。
好きなアーティストと訊かれれば、それこそおそろしいほどCDを聴いているわけだから、あれもこれもとなってしまうわりにはいちいちライナーノーツを眺める習慣がないために、毎日聴いている曲の名前すら知らない。要するに気分屋というのはそういうものであり、そのときの気分次第でジャケットを選ぶだけだから、いちいち曲名なども眺めない。たまにライナーノーツを覗いて、初めてそれがそういう意味だったのかと知る。その瞬間に、なんと、あの意味不明な言語がアフリカ語だったのかということに気がついたりして・・・言葉がわからないほうが音楽はすっきりしていていいなーという気もする。
それにしても、エブリシング・バット・ザ・ガールは好きだ。トレイシー・ソーンのアルトボイスが好きなのかも。憧れに近い。メゾソプラノのあたしは完璧なアルトボイスや完璧なソプラノというものにはどこか憧憬に近いものがあるのかも。なかなかそういう完璧なまでにアルトやソプラノという声はめずらしい。
だったら素直にトレイシー・ソーンが好きだと答えればよいのに、その瞬間ほかにもあれにこれにと浮かんでしまうからつい億劫になる。EBTGの雰囲気が好きでもあるし、個々の曲が好きというわけでもないのかもしれないし、どこが好きと問われれば、声。だからもしかすると、ほかの人がEBTGの歌を歌ったとしても好きにはならないかもしれない。だったら、曲が好きというわけではないのだから、相手の問いの要求の矛先の判断が難しいためになかなか素直に答えることができなくなる。ためしに誰かがEBTGの歌を歌っていて、それを聴いたあたしがどう思うかを知りたいのだけれど、いまだにそういう機会には恵まれていない。

大体ねー、短歌。歌くらい好きに詠っていたって罰は当たらないのではないだろうか?うちの庭のアカシアが実はアカシアではなく銀葉アカシア、つまりはミモザだったからといってそれがどうだというのだろう?苗で買ってきた。あっという間に育つ。ガーデンセンターにはアカシアと書いてあった。つまりはそれだけのことだ。ただし、黄色い花が咲く。葉の色が違う。でも、アカシアと書いてあったから、あたしはこれがアカシアだと信じていた。それだけのことだ。
短歌も元はと言えば、こんなものは誰でも詠めるという独自の判断によりサイトのネタの1つとして詠んできた。これは短歌ではないなどと言いがかりをつけられれば、雑誌に投稿。入選すれば誰も文句は言えない。自分の歌をアップしてサイトをつくる。結社でもリンクしてくれるし、短歌系のウェブリングでも短歌でないなどとは言われたことはない。なのに、どうしてそういうつまらないいちゃもんを言いたがる人がいるのだろう?

結社。
「どんな歌を送ったらいいのでしょう?」
「いや、そのままでいいです」
「・・・・・・・・」

これにはさすがに悩んだ。
何を悩んだかというと、”そのまま”と言われる意味がわからなかったからだ。とりあえずいろいろな種類の歌を詠んでいるために、その中から送るわけでしょ?自分は自分なりにいくつものパターンで詠んでいるつもり。漢語調もあるかもしれないし、概念歌もあるかもしれないし、それこそ花の歌から日常の歌。とにかくなんでもありいで下手は下手なりに歌にしている。全部自己流。あまりにも自己流なので、逆に結社に歌を送ってみようという気になった。そこを逆にそのままでよいと言われると逆に悩んでしまう。
大きく考えれば、ニューウェーブがどうたらこうたらとか、うたがどうたらこうたらとか、あれこれそれはそれなりにあるのかもしれないけれど、ささやかな日常的楽しみで詠んでいる分にはそういうことが逆にどうでもよいことのような気さえする。つまりは、好きに詠んでいるだけのどこが悪いのかよくわからない。
よく、ネットだと自己満足だとか、ニューウェーブは終わったとか言う人たちがいる。あっさり言えば、自分には何のことかよくわからない。その時々で、気まぐれに詠んでいるだけの歌に学名は要らないような気がする。梨園の超めずらしい花も結局名前がわからなかった。詳しく調べればわかるのかもしれないけど、実際のところ単に咲いているだけなら名前は要らないらしい。
最初の頃、庭の蒲公英が小さくて、北海道の蒲公英とは違う蒲公英なのかもしれないと諦めた。ところが根が残っているのだろう・・・そうすると毎年蒲公英の花が巨大化する。まずは茎の長さが違う。かくして、うちの庭の蒲公英はどこか北海道に咲いていたような蒲公英となった。ということは、同じ蒲公英なんだろうと勝手に決めている。

というわけで、好き勝手に詠むということは破壊活動なのだろうか?
いや、違う。
というわけで、目標とする歌人を小野小町にした。
問題は、「小野小町のどこが好きか?」ということの違いにあるから。古語で詠むとかそれを現代語で詠むとか、そういうことではなく、平明な言葉しか使わないのに実に奥深い歌人だからとしか語れない。あの独特の鬱々した雰囲気も好きだし、飾らない言葉の中に歌がある。技法は遊びだ。だからといって、十二単を着てしまおうという悪趣味さはない。恋歌もあれば、普通の歌もある。数は少ないけれどもエッセンスがある。
キーボードで歌を詠っていても手書きでも何でもいいでしょ?歌は歌にすぎない。
誰に師事していたかと問われれば小野小町?
さすがにそれはないだろうけど、ある意味、すごい師匠でもある。
ベクトルの違いなんだろうな・・・古来の歌を伝えることが狙いではない。新しい形をつくることが狙いなのでもない。むしろ、混沌とした時代の中へ突き進む。つまりは、古ければ古いほど混沌としているのが当たり前だから。そういう混沌とした時代には整然とは語れない世界がある。
考えすぎなんだろうか?
そうかもしれない。それに、あたしが機関銃のように小野小町に質問したとしても、果たして彼女が理路整然とあたしの問いに答えてくれるとは思えない。そこがわからないし伝えられないから歌を詠む。だから、とても奥深い。

そういえば、近頃、歌も自問自答の世界に入ってきてしまった。そういうことなんだろう。よくわからないけど。鬱々しながらわからないから歌を詠む。そして聖書を開く。すると、それがまるで神さまからの手紙のような気がしてしまう。よくわからないけど、おそらくはそれが歌なのかもしれない。なんかね・・・なんなのだろう・・・・なんだかよくわからない。1つわかったのは、うちのアカシアがミモザだということかも。東のミモザ。

投稿者 Blue Wind : 05:37 PM | コメント (0)

March 09, 2004

ノーマルモードと歌モードの違い

どういう歌が好きかというと、ひたすら傍若無人な歌。石川啄木も好きだし、小野小町の辞世の歌などは惚れ惚れしてしまう。

いつとなくかへさはやなんかりの身のいつつのいろもかはりゆくなり

もしかすると、歌に詳しい人ならば解説してくださるのかもしれないけど、自分にはできそうにない。いつとなくかへさはやなんかりの身、いつのまにかすぎゆく日々といつかは土に帰るかりの身、そして、いつつのいろもかわりゆくなりとあるけれど、いつつのいろってなんのことだろう?そこがまたご本人に尋ねてみたいところだけど、誰かが代わって解説してくれるのだろうか。自分的には、傍若無人な歌だと解釈しているけどどうなんだろう。はなのいろ、いつつのいろ、そういう分類があったのかもしれないし、それこそ色彩などは色相環で眺めたり、色の番号などで色を呼んだりしているとそういう大雑把さというものがすでに理解できない。理解できないからこそ惚れ惚れしてしまうのかも。現代語に置き換えても理解できない。つまりは、すでに他人に何かを理解してもらおうという部分が欠如した歌が好きなのかも。そこのところに、当時はいつつのいろを使っていたと解説されると、何となくつまらなさを感じてしまう。そんなことはどうでもいいような・・・つまりは、いろのなかになにかをたとえているわけで、その部分がすでに本人にしかわからない世界。しかも、かはりゆくなり。なにに変わるのかそこのところがまた謎めいていてわからない。わからないところをわからないままにあの世に旅立つというところが好きだ。

村松恒平さんのメルマガを読んでいて、作家になりたいと思って小説を書いている人の小説が一番つまらないとあった。要するに、文章を書くには2つのベクトルしかないらしい。1つは他人のために書く。つまりすでに実用書を含めてわかりやすく簡潔にということなんだろう。他人のために書くってそういうこと。もう1つは自分のため。ひたすら自分のために書く。要するに書くことにより、自分を救う。そのどちらにもあてはまらない中途半端な文章が実は一番多いらしい。
歌もあまりにも説明的でわかりやすい歌だと歌になってないなーとはよく思う。他人にはわからない要素で曖昧模糊としたまま詠んだ歌のほうが印象に残るらしい。そういう歌は最初から理解を求めていないからかもしれない。理解を求めて詠んでいるわけではないと思いながらもこころのどこかで他人に理解されたいと思うからこそ今日も誰かがせっせと歌を詠んでいる気がするし、詩を書いているのかもしれない。もちろん、その他諸々いかに他人に自分を理解してもらおうかという努力は人間ならごく当たり前の行為。それがいきすぎるとうざいだけだ。それがどこまでうざいものかは、他人のグチの相手をしたことがある人ならわかるかもしれない。しかもね、あれな人たちを相手にしていたら、理解されないというだけで怒りまくって暴力とかね、言葉も含めて。そういう理解されないのが当たり前の人たちの一方通行にも慣れてしまったりすると、理解されないのが当たり前であると達観している人の文章などは清々しい。

理解しあえないほうが当たり前。
逆に語ると、何を言っても無意味な人たちに対して書く。無意味だと思っているから書けるのかもしれないと思う。話せばわかるというのも大嘘だし、辞書的な定義を読んだだけで何かを知ったと誤解する人たち。メタ認知というわけではないけれども、自分が何を知らないかに気がついた瞬間ようやく何かを理解する。それが普通だ。
にもかかわらず、傍若無人。
言葉ってね、そもそもがコミュニケーション・ツールなんだと思う。が、しかし、傍若無人。思考や感情の発露。自己満足などというなまやさしい世界ではない。傍若無人。なんか、そういう傍若無人さが好きだ。通常のコミュニケーション世界では無理。無理だからこそ、書く。無理だからこそ歌を詠む。なんでそういう発露が必要なのか、そこのところはあまり深く考えたくない。つまりは、一切合財の説明的要素を排除し、傍若無人に詠うことで自分を救う。
やはり、日常が通常のコミュニケーション世界だからこそ、傍若無人な世界が必要になるという・・・

文学・・・
アート・・・・
あーあ。

投稿者 Blue Wind : 12:50 AM | コメント (0)

March 06, 2004

風邪

すっかり風邪を引いてしまった。毎度おなじみ、「風邪という病気はありません」というセリフの中、平穏な生活は続いている。逆に、「世の中は風邪が流行っただけで学級閉鎖になるのが普通なんだから」というセリフを言っても無駄なのもわかっているために、また鬱々しながらサイトを更新している。要するに、ダンナが外来をやり始めたために、風邪が移り、それがまたあたしに移る。だから、外来は嫌いだ。
いずれにせよ、結核に感染していない呼吸器の医者はいないと、呼吸器の先生にも説明受けたし、世の中の当たり前がまるで通用しない世界もあるのだというか。したがって、うちのダンナも39度の熱を出しながら平然とした顔をして働いている。もう、めちゃくちゃ。
ある女医さんは怒った。「あたしは風邪の患者を診るために、ここに来たんではありません」と。たしかに、腕もあるし、キャリアもある。それでいて外来などで風邪の患者を診ていると、それだけで虚しい気持ちになるらしい。逆に語ると、それはあんただけではないと思っている人の多い中、彼女はほかの病院へ移っていったらしい。たしかに最先端の医療現場を見せられたら、開業なんてバカらしくてやっていられないという気持ちもわからなくない。が、しかし・・・・風邪の季節、開業医は儲かる。

可哀想なのは娘だ。風邪を引く。でも、この程度なら大丈夫と思って学校へ行かせる。すると、学校からお迎えに来てくださいという連絡がある。自分としても、とりあえず熱があるわけではないし、逆に、保健の先生にどの程度だったら休ませたらよいのか訊く。担任の先生の判断だと、顔色が悪いとか、元気がないとか、もうその程度だったら休ませてほしいらしい。あまりにも大袈裟なため、なぜか娘のクラスだけはいつも欠席が多い。それがわかっていて、何も言わない保健の先生。まあ、いろいろあらーなということでそのまま連れて戻る。学校というところは、そういう専制君主社会。医者が言っても、親が言っても無駄だということは知っている。田舎ほどそういう傾向が強い。

あっこちゃんくらいタフだと、登校拒否、保健室へ直行、何を言われても担任の先生が気に食わないと知らん顔している。そのくせ、今度は絵が入選、童話が入選、という具合に実績が違う。ああなるとね・・・どうなんだろう。今は、普通に通学しているみたいだけど、家庭の中ではあっこちゃんが正しいということになっているために、何も困らないみたい。
うちの娘はおとなしいので、せいぜい逃げる程度か?あ、来るな、と思ったら逃げるらしい。それが困ると担任の先生に言われてもこちらも困るという・・・専制君主に何か言っても無駄でしょ?そういうことを娘に言ったことは一度もないのだけど、どうもそういう風潮があるらしく、それが担任を鬱地獄へと陥れるような・・・母さん同士が集まれば、学校の先生の話題は共通タームだから、そういう話題も多いかもしれないけど、このところ自分はまったくそういうものには興味がない。
あたしってね、喧嘩しないから。いきなり扉をピシャリと閉めるタイプなんだと思う。たとえば、風邪で子どもが熱を出しておろおろしている母親がいるとするでしょ?もちろん、あたしなどもそうだったし、子どもの飲めないような薬を出すなと医者に文句を言ったこともある。だからといって、ほかの人に言われても迷惑という・・・そうやって思うんだったら、そうやって自分で言えばいい。文句ついでに、単なる風邪ならば近所の医者へ行って、飲みやすい薬を買う。だから、文句は言うけど、単なる風邪の子を大学病院へ連れて行った自分がおバカだったと反省する。でも、その前に気管支炎で入院したことがあるから、風邪でも心配になったというだけのことだ。つまりは、行動にわかりやすい整合性があるために、喧嘩にはならない。

短歌も、競技会が始まったと神父さんのサイトに書いたら、いきなりパリの写真。18年前に一度行ったきりの街だけど、その瞬間にいろいろなことがフラッシュバックされる。そこから派生して、また歌が出る。そうなると、題詠マラソンのことは忘れてしまう。忘れているわけではないんだけど、10月までに詠めばいいわけでしょ?つまりは、何となく今日は歌のネタが見つからないと思ったときにでものんびり詠んでいても充分間に合う。(たぶん)
神父さんに、「題詠マラソンがプレッシャーでリタイアしてしまう人などもいるんですよ」などと書いても無駄だと知っている。つまりは、医者に、風邪で学級閉鎖になるのが普通だと語るようなものだからかも。
パリはおもしろい街だ。それこそあの人もこの人も、という街だ。パリのアーティストは歴史を相手に戦わなければならない。そして、その向こうにラテン。部屋の中は暗い。そして、窓の外を眺めると、あらゆる角度でそこはアートの世界だ。空も建物も、窓は1枚の絵となる。歩いていても、あらゆるものが美しい。そして、美味しい。自分もまたその中の一部であり、空と風と街と歴史に埋もれながら、人がうつろいゆくことを感じたりする。それでも変わらず伝えゆくものかぁ・・・などとうすらぼんやり。
ランボーが生きていればまた違ったかもしれないけど、彼はアデンへ逃げてしまった。そして、37歳で病気になり38歳で亡くなったんだっけ?つまりは、ランボーが元気であれば、それでよかった。でも、その後、彼はいない。いないから、今度は一人で鬱々と歌を詠むようになってしまっただけなのかも。小学生の頃、初めて彼の詩を読んだとき、彼がいるから自分は救われたと思った。彼がいるから自分が救われたということをあえて説明する必要があるのだろうか?誰に?
こうさあ・・・科学者の街がどういうことなのかというと、娘の一番最初の友達がなさとくん。つまりは、NASAに研修に行っていたときに生まれたからなんだそう。それをほかの地域の人に言うと驚くから、結局は研究者は研究者のブロックに住むしかない。

つまり・・・・風邪で学級閉鎖になるとういう事情を理解するのと、風邪という病気はないという事情を理解するのとどちらが説明しやすいだろう?両方の事情を理解した上で、学校へ行かなければならないのはあたしなんですよー、いつも。
めんどーだから、歌を詠んでいるのかも。
誰でも自分を救う権利はあると思う。

投稿者 Blue Wind : 01:00 PM | コメント (0)

March 04, 2004

うやむやな今は昔

あっさり書くと、実生活上で主婦をしていてバカにされたことはないです。とりあえず、今のところ。それよりもいつもやる気がないとか思われてしまうので困ります。いや、もしかするとやる気がないのかもしれません。
おちびが幼稚園の頃が一番やる気があったかもしれない。ようやく手が離れて、少しは自分のことができるのではないかという・・・それで、地元紙を眺めて、近所の研究所でアルバイトの募集があったので、応募した。その結果、斉藤先生とあれこれ研究の話をして、実験装置を見せてもらって帰ってきただけ。あっさり言われたもん。「お嬢さん、5歳でしょ?子どもが風邪引いて、今日は休みますというのが一番困るんだよ」と。その後、市内でも管轄省庁の違う3つの研究所で同じような研究をしてノルマを競い合っていること、これに負けると来年の保障(予算のことさ)はない、とか、本気でやるなら総合プロジェクトとして学際的にあちこちから人を集めているから、とか、いろいろ。その時はそれで採用にはならなかったけれど、それこそ大学院に復活して、一つのタダ働き、あるいは安月給でもかまわないということであれば、いくらでも仕事はありそうだった。
大学時代の先生に相談したら、いきなり本を送ってきて、この中からテーマを拾えと言われてしまった。その瞬間、これは主婦のパートの世界ではないことを思い出し、弱気になる。そこへ母がくも膜下出血でオペ。何かやろうとすると、このように災難に見舞われるために、その後すっかりネットに潜伏している状況が続いている。
大体、富家先生、野澤先生、瀬谷先生について研究していたというだけで、”お代官さま”だもの。(お、おちびがお花を摘んで帰ってきた。母のためにですよー(笑)。)工学部の人たちみたいにとんてんかんと装置を組み立てたりするような真似はできないけど、それこそ感情やらパーソナリティやら高次の精神機能の話になるとまるでちんぷんかんぷんらしいので、それなりにお仕事はあるらしい。つまり、人工知能の研究は飽和しているために、今度はそちらであれこれやっていかなければならないというお話でした。
ババアなんだけど、今でも学生に間違えられてしまうという・・・要するに、どうやっても軽く見られるのは運命のように避けられないのかもしれない。でも、そのおかげで、ダンナの友達が集まっても、”奥さん”じゃないんだよね。今でもラフにあーでもないこーでもないと盛り上がる。いわば気楽な仲間うちの世界。奥さん同士が集まって、子どもの教育のことやら家庭のことやら定番の話題でも大丈夫だし、研究の話題でもその他の話題でも大丈夫だし、とにかく話題は多いと思う。
ほんで今、何をやっているのかと問われれば、ネットと短歌。またテリトリーが増えた。なんでも自分でやってみて苦労してからではないと話題にはならない。テレビやワイドショーのネタなどは詳しくないけど、それで何か困るということもない。

でも、ネットで、普通の主婦です、と語ると、とにかく扱いが酷い。リアルとバーチャルを分けすぎと言われたこともある。単に、バーチャルだと割り切っているから、BBSに順番にレスを書いていられたのかもしれないし、話をするのもうんざりな人にでもとりあえずレスは書く。そういう世界から逃げるために、短歌オンリーのサイトをつくったのかもしれない。「心理学の専門家ならどうたらこうたら」と書かれてね、いささかうんざり。相手にするのも嫌になるのが普通だと思うよ。いきなり首根っこ掴んで学会へ放り込んでやろうと思ったけど、無視することにした。
つまりは、あっちが言いたいのもそういうことだと知っているから。歌壇ってどこか学会に近いからね。だから、歌評を書いたり、評論を書いて投稿するとか、やりようによってはそういう道もあるということで、ただ違うのは、そういう中での短歌ってどういう意味合いがあるのかなーとちらっと思った。通常なら、データに相当するのだろうか・・・などと。つまりは、研究テーマがあって、そのテーマの一つとして、短歌の形が存在しているのかな・・・というか。う〜ん・・・・・研究するために詠んでいるのかと問われれば、それはまったく違うわけで、歌が最初だから、この辺がね・・・・・・ニュアンスとして戸惑うことしきりなのかも。
一つテーマとして眺めている人たちにすれば、インターネットの活用とか、古来からの歌のやりとりとか、そういう原初的な世界の流れの中で、自分は歌を詠んでいるから、ものめずらしいと言われればそうかもしれない。いかん、いかん、あたしが普通だ。つまりは、詠うだけなら先生も要らないし、知識も要らない。平明な言葉で、素直に詠む。なぜそういうことをやっているのかというと、そちらのほうが理屈で語るより伝わりやすいからとしか語れなかった。
一つの視点から眺めると、どうしてうちのサイトのBBSに嫌がらせが入るのかというと、ほかのネット歌人に対する嫌がらせだ。自分に対する嫌がらせもあるでしょうけど、”偉い先生”に見てもらいたいわけさ・・・そうやって結社などに長い人たちは。だから、うちのサイトの場合、結社や短歌専門のサイトにリンクされているために、僅かながらでもそういうところからの来訪者があるから、そういう人たちからほかのネット歌人の歌の発表の場を奪いたいという・・・いささか情けないような気がするけど。かといって、自分で自分のサイトを実名できちんとつくって、そこを結社などのサイトにリンクしてもらって、ということは考えていないらしい。そこがいまいち理解に苦しむんだけど、結社への発表と、遊びの歌を分けているのかもしれないし、それ以上に、「自分が誰なのか知られたくない」らしい。自分だとバレて何が困るのかよくわからないけど、要するにあれよ、あれ。リアルとバーチャルをわけて遊んでいるから、そういうジャンキー系のどこのだれかわからない世界を破壊されたくないのかも。
ネットもいい加減に4年以上やっているからね。そうなると、友達と幽霊の違いは厳然としてあるわけで、気の合う人たちとだけお付き合いしております。どこが違うかというと、サイトがあってもなくても関係ない人と、サイトが消えたらどこのだれかわからない人との違いとだけ言っておきましょう。
とにかく、ネットの世界では蝶でも妖精でも男でも女でもなんでもありいでネット人格をつくっているような人たちを相手にしているから悪いのだそうですけど。自分的には、すでにそういうややこしい世界からはおさらばいたしました。ジャンキー・ネタはしばらく書けないかな。(というだけのことかもしれん。)ジャンキー・ネタもご奉仕ですから。(言っても無駄だろう。)
医者の奥さんがどうたらこうたらとか、そーいうくだらないお話しか思いつかない人はなおさらにうんざりなのでございます。リアルでもバーチャルでも一緒さ。

えっとー・・・何を書きたかったのかな・・・
そだそだ、視点ね、視点。要するに、自分は毎日歌を詠んでそれをサイトにアップしている。そして、新作にこだわるところのためにはサイト以外の作業場としてパスワード付BBSなどを活用中。慣れないと雰囲気が違うと思いながらもそのようにしています。検索にも引っかからないよ。自分のハンドル名やキーワードになりそうな言葉は使わないから。かつ、パスワードをつけて、自分のサイトにはリンクしない。それとは別に、これまで通りの歌ライフを続ける。どうしてそういうことをしているのかというと、視点の問題なんだと思う。
単に、サイトを発表の場として考えているか、文化の一つの形態として活用していくかの違いかな。自分としても、ある意味、実験的試みなのです。(にしても邪魔が多い・・)

投稿者 Blue Wind : 04:18 PM | コメント (0)

March 03, 2004

脱ドグマ

題詠には、言葉の借り着をしているような違和感がある。たとえば、「空」などは自分の好きなタームだから、それを過去ログの検索をすればおそろしいほどの数の歌が出てくるようにも思う。ところが、いきなりぽんと出されると、どこかごつごつとした異物のようで、それがなかなか自分のものにはならない。でも、異物により押し出されてくる歌というのもあるのかもしれないし、手探りながらもぽつりぽつり詠んでいる。慣れるとこれがおもしろいと語っていた人もいるくらいだから、そういうものなのかもしれない。
自分の場合は、毎日気楽に詠んでいるだけだから、言葉の異物感というものが欠如しているような気がする。3000首を超えたあたりから、少しは気のきいた言葉を捜そうという気持ちにもなったけど、題詠をこころみることにより、逆にそういうものがす〜っと消えていく。それより逆に小野小町の偉大さを知った。
つまりは、何もむずかしい言葉などを使っていないのに、実に奥深い。少しは自分も歌のおもしろさがわかってきたのかもしれない。どうしてパリサイ人なのかということも、どうしてジーザスなのかということも、どうして子どもにお話するように詠わなければならないのかということも、なんとなく見えてきた気がする。ジーザスが現れる以前の人たちは、いわばあたしの題詠の歌みたいなもので、言葉の借り着だ。言わんとしている意味が通じない。だから、書かれている通りをいかにきちんと実行しているかどうかを競っているような雰囲気。つまりは、戦争に負けたのは誰かが安息日を守らなかったからではないかとか、そういう教条主義的な世界。
ジーザスはメタファー・オンリー。歌も。ストレートに詠むと怒る人がいる。そこを何となくメタファーで詠む。概念などは特にそうかもしれない。子どもに大切な話をしようとすればするほど、そこはメタファーのオンパレードになってしまう。だって、最初からなかなか理解してくれないのがわかっているから、なるべくわかりやすいようにたとえ話で語る。話の内容がむずかしくなればなるほどたとえ話が多くなる。
たったこれだけのことを悟るまでに、どれほどの言の葉が必要だったのかと思うと情けなくなる。ネットだと誰か教えてくれる。いや、もしかするとそれが普通なのかもしれない。仕事だったら、とりあえず先輩にあれこれ教えてもらいながら自分の仕事をやるのかもしれないし、そのほうが効率的なのかも。ところが研究室みたいなところだったら、まずは誰も教えてくれないと思ったほうがよい。パソコンの使い方がわからなければ、最小限度のことは近くに座っている誰かが教えてくれたりするけど、めんどーだとマニュアルのある場所を教えてくれるだけとか。つまりは、自分でやるのが当たり前という暗黙のルールがあり、自分は私学だからこれでもまだマシなのだそう。東大から来た先生だと、いきなり面食らうらしい。つまりは、学生が何かを教えてもらえると勘違いしているからだそう。
自分は、もう、極端に親切な人たちか、極端に冷淡な人たちしか知らないのかも。たまにそうやって思う。どちらも性格から来るものというより、環境因子のほうが大きい気がする。つまり、それぞれの当たり前が違うから。
それにしても、どうなのだろう・・・
逆に語れば、ネットだと、「りんちゅあん、わっかんな〜い」という世界なので、なるべくわかりやすく書こうという努力を重ねている。それこそ、本当はうちの娘でもわかるように書かなければならないのかもしれない。でも、幼稚に語ったからといって伝わるわけでもないらしい。それこそ絵でも描ければまた違うのかもしれないけど、自分の場合、そちらの才能はない。だいいち、自分でさえ、わっかんな〜いんだから、それをどやって他人に語ったらよいのかだってわかるはずもない。やっぱ、聖書を読まないとダメなのかも。メタファーの世界をふわふわと浮遊する。あまりにも深すぎて、自分のキャパを超えてしまっているような気がする。
言葉って、かなりこむずかしい道具だ。発信する側と受信する側がいて、なおかつそれぞれのレセプターにバイアスがあるために、何かがそのまま伝わるなどということはありえない。もっともあらゆるものがそういうものなのかもしれないけど。
それにしても、お題が完璧に自分のものになっている歌はすごいと思ってしまう。詠いたい世界があるんだろうな。ただし、DIDIのベクトルだけど。マライア・キャリーへ進むか、DIDIへ進むか迷う。

投稿者 Blue Wind : 12:34 AM | コメント (0)

March 02, 2004

レトロの形象

短歌の弱点は、あまりにもストラテジーがはっきりしすぎていることかもしれない。つまりは、方略というものが明確に存在し、しかも定型詩。しかも、詩と言ってもよいのかたまに酷く迷ったりする。思考を柔軟にあろうと努力をすると、常にそれとは別のベクトルにより押し留められてしまう。つまり、何となくでしょうけど、短歌とはこうあるべき、みたいな型があるのだと思う。それを破壊するためには、あまりにも壁が大きすぎかな。だから、一般的に人気のある歌人だと詩のほうが有名だったりする。寺山修司や北原白秋が歌を詠んでいたということも知らなかったくらいだから・・・中原中也の短歌をこの前発見して、驚いた。彼が中学を落第したのは、短歌ばかり詠んでいたかららしい。
これだけ文学について無知な自分がどうしてアート云々について語れるかというと、おそらくは大学から”アートの親方”という証書をもらっているからだろうし、文系は博士号が極めて取得が困難な状況にあるために、とりあえず、どうしてこういう分類になるのか知らんけど、とりあえずはM.A.がある以上、あれこれ能書きを言っても今まで文句を言われたことはない。ところが、短歌のこととなるといささか事情が異なる。それくらい特殊化された世界。近頃、ようやくそれが少し見えてきた。
つまりは、支えすぎているんだろうな・・・あまりにも支えようとするベクトルが強すぎて、過保護な文学とも言える。やけに過保護。詩ならあれこれ言われないようなことでも短歌となると、「これは短歌ではない」などと平気で言う人たちがいる。ならば、「短歌とはなに?」と訊いても、これまで納得するような回答を発見できたようにも思えない。(河野裕子さんの説明が何となく一番好きだったけど・・・)
もしかすると、いわゆる”格上”の人たちなら、まったく逆のことを考えているようにも思えるんだけど、末端になると型から出るにはあまりにも重石が重すぎ。これを跳ね除けるには詩を書けと言われる。ヘンだ・・・なんで短歌ではダメなんだろう?
自分は短歌はセカンドアートでよいと思っている。何気ない日常や歌のやりとり。たくさんの言葉で語るよりも少ない言葉のほうが気持ちが伝わることもある。携帯にさりげなく57577を放り込む人たちもオシャレな気がするし、そういうさりげなさが短歌のよさだと思っていたんだけど、それではいかんらしい。どのようにいかんかというと、短歌はアートでなければならないらしい。アニメも文化なのだから、短歌がアートでもかまわないと言うと、また叱られそうだ。このように叱られながらも歌を詠む。叱られるところが短歌のおもしろさなのかもしれないし、そこをまた観察すると、さらにおもしろい。
現代短歌とか、ニューウェーブとか、あれこれ古めかしい言葉もある。現代と言われて眺めれば、著作権切れしている歌も多い・・・それでも近代短歌ではないらしい。短歌にはレトロなよさがある。古めかしいよさというか、古今東西人間なんて変わらないから文学などと思ってきたけれど、そういう中で現代を詠めという・・・現代を詠めと言われること自体が古めかしい・・・どこまでもレトロな世界。詩の定義を借りることにより短歌をアートと定めるならば、結局、詩を書いたほうが早い。

はなのいろはうつりにけりないたずらにわがみよにふるながめせしまに

小野小町は偉大だ。なぜかと言えば、自分が暗記している和歌はこれだけだからだ。暗記しようと思ってしたわけではなく、何となく覚えていただけ。あとは、もしかすると覚えているのかもしれないけど、辞書から暗記のために暗記した英単語のようで必要にならないと浮かばないらしい。この前、サイトで聖書ストーリーを眺めていたけど、聖書を読んだこともないのに知っている話ばかり。ジーザスのセリフすら残らず知っている。いつのまに・・・
株も雑誌を眺めてから売買したのでは損するばかりらしいし、ふわふわと飛んでいるのはむずかしい。

投稿者 Blue Wind : 12:42 AM | コメント (0)

March 01, 2004

ちぐはぐ感

この題詠マラソンのちぐはぐとした雰囲気・・・
そのように感じているのはあたしだけかもしれないけど、所属を書こうかなーっとか書くのやめよかなーっとかそういうささやかなネットの聖域が破壊されつつある。いきなり猛ダッシュをかける人、それにストップをかける人、あたしのようなどーでもいいと思っている人。イベントだから、それなりにそういう人も出没する。短歌を始めたばかりのビギから、なんとか先生が見たとか見ないとか、そういうことしか思いつかない人まで、それこそいろいろな人たちが集まっているのだろう。要するに、気合が違う。
というわけで、あっちには悪魔の歌を放り込んでしまっている。これって無意識なのよね・・・一種の使い分けかもしれない。オトくんでもおとなしいときもあれば、ぺたぺた歩き回って吠えているときもあるし、次第に精神が乾燥していってしまう。

こう、少しずつ何かを思い出しつつある。もう、すべてを忘れてしまっていた。なぜかといえば、家で子育てをしているだけであり、生活の糧はダンナがてきとーに運んでくる。子煩悩なよい父親でしょう。あたしにも特にこうるさいことも言わないし、お昼に時間があけば、家に戻ってきて、オトくんを抱っこして昼寝している。まだ、体調が本調子ではないのかもしれないし、そういうことは何も言わないからわからない。

神父さんのお母さんの写真を見て、なにを癒されているのだろう・・・あたし。亡くなってまだ誰かにご奉仕している。その誰かのうちの一人があたしだろうな。アングラ汚染というわけではないけれど、次第に精神がドライになっていってしまう。それをかろうじて小指一本引っ掛けて留まる。結社誌へ投稿するより、婦人雑誌へ、か。その気持ちはわかるのだけど、今は短歌は流行っていないらしくって、一部の人たちが読むようなものしかない。ヴァン・サン・カンあたりで、短歌のコーナーをつくってくれないかしら・・・ELLEとか。

ネットは今、眼に見えない垣根のようなものがあって、アングラを極端に嫌う人たちと、完璧にアングラ志向の人たちと、中途半端で迷っている人たちとが入り乱れている。それにしても中途半端になってしまったよなぁ・・・一生懸命に歌壇向けの歌を詠むのも退屈だし、それでいておバカなスタンスで詠んでいるとそれはそれで何か言われるらしい。直接言われているわけではないけれど。
どこかにあたし向きの歌の世界がないかしらん?

投稿者 Blue Wind : 01:07 PM | コメント (0)