September 30, 2004

曖昧なラジオ放送流れては待っても空はうるわしく晴れ

高天原だから
わからないのだと思う、よくもわるくも。シオニズムも中東戦争もイスラエルもユダヤ教もユダヤ人も。なんで喧嘩しているのかまるでピンと来ない。どうしてイスラム教徒とキリスト教徒が戦争するのかも。歴史の教科書に出て来るくらいの認識しかない。

その昔高天原に神住まう深々とした霧立つ山々
天の鳥高天原に降り立てば深山の原に雲海の森
われの祖は神の国から来たものと探せど天は見守るばかり
神々の住まえる国は伝説とかわりし今もみおやをさがす

なんせ建国も新しいし、文字もないし、すべてが伝説。少なくてもユダヤ人とはまったく逆の生きかたをしてきた国だから、メシアと言われてもそれすらよくわからないのだと思う。使徒たちの苦労と言われてもわからない。律法というのがそもそも嫌いなんだろうし・・・敷島は。なんでこんなに理屈っぽい国になっちゃったんでしょうね・・・

窓の外台風なのかとワイパーをゆるめて雨をながめて走る
気まぐれにぱらりぱらり打ちつける雨のもように窓を開けたり
風の息風の音さえクルマには木陰を走る雨の小道か

曇り空びっしり埋める電線のうえにとまった小鳥の抗議
山や森夕暮れ時は飛び去れと小鳥の抗議つづく風の日
帰る山失いたれば電線が宿木だよと文句はつづく
一斉に飛び立つ鳥はいずこへと群れなしゆくか騒音となり

言の葉の舞い散るみちはかなしけれ現実というメシアのありき
言の葉をもたない国はこころなかこころこころとそうぞうしけれ
虫の音の聞こえぬ庭は雨の音くりかえしつつ風の音待つ

歌詠みのこころのひとつ歌心魂のきくいにしえのうた
今ひとつ添いてうたえばみそらにはきくもののあり雨の降る音

エゼキエル書 46. 4-10

君主は、おそらくは今も昔もこんな感じなのかも。決まっていることは変えられない。神事ってそういうものなのよね・・・ささげものから参拝の仕方や位置まで決まっている。ってことは、ユダヤ人のことを言えない。神の座る場所まで決まっている。どこから入ってどこから・・・、だって見えないから。見えないから言われたとおりにするしかない。

落雷が怒ってみても夜は更けぬ畏れる人のなかりし秋は
荘厳な儀式をながむテレビかなみおやの神も一緒にながむ
落雷の怒っているか笑ってか風は敷島歩いてわたる

ヨハネによる福音書 20. 1-10 復活する

本当に台風だ。

福島は夜から朝へとつづく距離激しき雨は今現れり
落雷はおまけじゃないかと雨音はいつものような夕立のごと
ラジオから流れるニュースぼんやりと受け流しては気まぐれな雨

やっぱ、聖書なのかも。聖書に書かれてあることは真実。
読んでもわからんほうが多いような気がする今日この頃・・・
聖書と敷島ねぇ・・・・・遠いよ。

しづしづと鳴き出す声に雨の音消え去りしこと信じるもがな
虫の音に雨は去ったと家の中雨にも濡れず音だけを知る
曖昧なラジオ放送流れては待っても空はうるわしく晴れ
虫の音に耳を澄ませば今の空知らせてくれる敷島の秋

列王記上 1. 22-40

深い・・・・
ラジオ放送と虫の音か。
ダビデ、ソロモン、イエス・キリスト。

投稿者 Blue Wind : 04:49 AM | コメント (0) | トラックバック

September 29, 2004

虫の音のいつまで続く秋の夜は車の音の走り出すまで

聖書の中の神という言葉は、おそらくは正確には天。少なくても、敷島(日本)にとっては、天というほうが分かりやすい。天だから・・・

日本語の神という言葉は、いろいろなものや人をすぐに神という言葉にしてしまうくらい多様な使い方をする言葉の一つなのだと思う。いろいろな宗教が入って来て、大抵の人たちはそれを一つの教えとして受け入れる。そして、混乱すると、天。

最後には天にゆだねるという感覚は、うまく説明できない。神々の上に天があって、天を仰ぐ。

ポルチウンクラに入った瞬間の感覚は、言葉にはできない。それを自分の言葉で説明しようとすれば、座禅とか、無我とか、すとんと落ちる感覚に近いのだと思う。それがどうしてたやすく訓練もなくそういうふうになれるのか分からない。でも、それを自分の言葉で表現しようとしたら、瞑想とか、禅、とか、無我とか、そういう言葉になってしまう。

日本人の宗教観を海外の人たちに説明するのは極めて困難。誰かが日本教と呼んでいるらしい。それくらい説明するのが難しい。が、しかし、ラテーノには、こう言えばよい。天を指差し、「フランチェースコ」。足りなければ、十字を切る。大抵の人たちは深く興味を持つわけではないから、これで十分なのかもしれない。

というわけで、いたって平均的な日本人としての私は、カルチェリの庵へ行った印象は、まるで出雲大社みたい、というとんちんかんな印象なのである。一つには森林がそのような雰囲気をかもし出していたのかもしれないし、苔のむした岩を見てそのように感じたのかもしれないし、実は、あれは山なのである・・・どちらも。聖なる山。何もない時代から、聖地だったらしい。そこに後から社がつくられた。

結局、建物などは後からつくられたもの。それぞれの文化や様式があり、一つの表現にすぎない。

私には私という媒体があり、言語がある。だから、その自分を通して語ろうとすれば、私の枠組みとして語るしかない。民俗学の人たちが語れば、もっと違うように語れるのかもしれないし、大抵は社がつくられる前から聖地というものは存在し、今でもそれはあちこちにあるらしい。私には分からない。

どうやら、私たちは互いに理解しあえないように分かれているらしい。それがひとつになるためには、混沌とした世界が必要なのかもしれない。何もかもが曖昧になり、何も分からなくなる。

一つ分かっているのは、キリスト教が伝わった時点で、誰かが神という言葉を使ったということかも。この言葉は、位で言えば、天より低い感じがある。そこが敷島なのであり、極めて慎重で受容的。神という言葉で語れば、素直に受け入れてしまう。何とか教の神さまとか、そういう言い方をする。が、しかし・・・天となるともっと神聖な雰囲気がある。

あんなに宗教熱心なユダヤ人に無神論者が多くて、こんなに宗教が嫌いな人たちが多い日本人が天という言葉には反応する。う〜ん・・・・こんなに立派な聖書があり、人類の発生の歴史まで克明に記されているし、事細かな律法。何もない敷島・・・何もないから黙契というものの中で動く。和と呼ぶらしいけど。すべてを超越した神のことを天と呼ぶらしい、私たちは。

エゼキエル書 27. 1-36

ティルス・・・うぅ・・・・・
たしかにティルス状態なんだろう・・・・・・なんかね。日本といえば、スズキやホンダらしい。敷島よ〜、さらば〜って感じ。秋刀魚にまで逃げられて、ロシアから戻ってこないというし・・・日本の秋も変わった。

身の丈のみじかきすすき枯れ野原あらくさ刈りの秋を待たずに
しょぼくれたすすきの野にも秋の月煌々として空に輝き
花の歌詠めないなどと言われても花屋の花を花と呼ぶかな
敷島よさらば敷島意味不明歌有らばこそ少し使えり
敷島よ人工衛星浮かべては天は死んだと遊んでいるか
わが眼には月の虹色美しく輪となり映るレンズの不思議
世にもまだめずらしきかな月の虹ながめてうれし雨あがる秋
虫の音のいつまで続く秋の夜は車の音の走り出すまで
松茸の産地を見れば彼方より送られたまま秋を迎えし
秋刀魚さえロシアか岩手悩んでは泳ぐ魚の気まぐれなるか
嘆き歌開口一番秋刀魚とはすすきの穂さえお気持ちていど
夏休みもすこし長くしてほしい秋はなかなか来ることもなく
秋の月うさぎの季節迎えても過ぎゆく夏はなごりをとどめ

たしかに月も見えない、花は花屋となったら、花の歌なんて詠めないよね・・・台風も来ない秋。喜ぶべきか、悩むべきか。

和の心求めて秋は新幹線模倣の都われらが京都
京都すら異国情緒に溢れてはわが敷島はいずこに消えゆ

マタイによる福音書 10. 40-42 受け入れる人の報い

もう敷島は死んだんだろうか?

敷島よわれらの天は死んだのか天を仰げど寂しくもあり
滅びゆく天にも似たりわが町はロケットを見て天を語れり

もう無理なのかもしれないな・・・・諦めるか。もう無理なのかもしれない。太古に戻って考えても、ティルス。

アフガンの長老会議みるような神有月にこたえをたくす

たしかにユダヤ人と比較されても負けないね・・・敷島は。

投稿者 Blue Wind : 01:51 AM | コメント (0) | トラックバック

September 28, 2004

敷島は天を仰ぐと人の言うみそらの色に浮ぶ月虹

「もういいだろ?」
もういいよね・・・
甘えているわけではない。

月の虹秋の夜空の雨上がりまんまるい輪で顔を覗かせ
ユダヤ人、検索してはシナゴーグ、賛美の世界なにが不足か
エジプトの栄光もまたおなじ神くらくらくらり喧嘩は尽きぬ
のらくらと天を仰ぎてゆく空は青青として月輝けり
ジーザスの何を語るかユダヤ人未知なる世界知るよしもなく
神の愛ひとりひとりの愛し方いくえにながむ天はまるがお
海の中覗いてごらんとりどりに泳ぐ魚はだれに似ている?
敷島は天を仰ぐと人の言うみそらの色に浮ぶ月虹
敷島は天と話すというのなら宇宙センターある地に住めり
レーダーは観測してる空のうえ空から月は虹を描きぬ
あの月をあなたは何と呼ぶのかとラテーノは問う巻き舌英語
おなじ星おなじ地球に住んでいてあなたの神はなんていうのか
おなじ星おなじ地球に住んでいてあなたの天はなんていうのか
ほととぎす言葉を持たぬあなたならわたしの代わり答えておくれ
砂浜にひとり座った物売りはこころがあると敷島をいう
愛のない国だとマザー何をみて語っていたのか知りたくもあり
わがこころ無にしてくれる無の世界ポルチウンクラ釈迦の愛かな
聖霊に満たされてゆく無の世界小さな庵のイタリアにあり
滑稽に滑稽にしてシンクロは山河を越えて時代を超えて
隆盛は文化とともに興り来るわすれがたみの衣とともに

民族の律法壊してまた律法宗教会議のむなしきさまよ
ただよえば敷島の人暮らしたる住みなれた町住みなれた時
戦いでもたらされゆく宗教は戦いの日に神をもとめぬ
敷島よさまよいゆかば天仰ぐ向かいて空は青青とあり

伝え合うものがないんだよなぁ・・・

ルカによる福音書 19. 45-48 神殿から商人を追い出す

必要なものは売っている、今も昔も。
買えるものは要らないってことなのかも。よーわからん。聖書も買ったんだけど。よーわからん。
フランチェスコは、本当に聖書全部読んでいたんだろうか?驚くほど遺品のない人だから、これもわからない。

フランチェスコ方式だと、世の中から教会は要らないってことになる。

世の中がすすきいっぽんなりてやも月の光の白く照らせり
もうすべて風遠くあり吹きゆかば月の虹さえ雲のまにまに

ダニエル書 2. 47

真実は悲しい空の名月のうさぎの季節待つここちかな
今日もまた贖いのうた詠みつづく月夜の晩は雨も降りやみ
広き空一つつづきぬ空の果て空を隔てし月と落陽
一日の終わりと初め日の出さえ地の裏側は落ち日を待つか
殺生を禁じるまでのみちのりにささげるひつじ幾年かさね
この国はあの国はなど遠巻きに過ぎさる日日の地球をまわる
文明は地球をまわり地の果てのすすきの穂さえ売り物にする
ヨン様を追いかけている同世代いつもなんにも考えてない
ジョン・レノン撃たれて死んだ真実は衝撃となりイマジンとなる
イエスさま愛してひさしパパさまはガラス箱入りドールとなりき
宗教はまっぴらだよとわたしたち声高にして叫んでみても
海風はいつか一つにあの雲を吹き飛ばしてはかたちをかえる
知識より愛をくれよと叫んでも悲しき空は美しく燃え
魂は生きて死んでは生きつづく消えればこころどこにさまよい
骨一つすすきの穂だに揺れている野原に立てばうたよみの里
敷島よわれを育てた土ならば土はいつから島となりにき

ルカによる福音書 6. 27-36 敵を愛しなさい

テポドン、近頃、飛んでこないみたい・・・

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September 27, 2004

くさむらの風に打たれてゆれる葉のおしえてくれる静止した今

勲章は、おじいさんがたくさんもらってくれたから、もういいです。うちは一人娘だから、それすら娘のところに行くのだと思います。遺された家族にとってはそれすら負担なのかもしれないです。

そんなことより、ゼルダの伝説とか、アンジェリコの受胎告知のほうがたのしい。イタリアで一番好きになった絵は、アンジェリコの受胎告知なのだそうです。どうして、それが一番好きなのか、わたしにはわからないけれども、娘がそうやって言っているのを聞いているのがたのしい。いつか彼女なりの受胎告知を描いてくれる日が来るかもしれない。たのしい。わたしは絵が描けないからなおさらうれしい。

まじめに考えると憂鬱になることだらけ。ぼぉ。

金でなければ名誉なのかなってうがった自分が言う。

どこまでも歪んだあたしいつまでも過去の人たち今の人たち
憂鬱は忘れた頃にやってくる静かな秋のさびしい庭に
うた詠みはうすらぼんやりひねもすを時間つぶしに今を詠みぬく
祈ること願うことすらむなしけれ怒ることすら笑うことすら
退廃に暮れゆく空は茜色いまもむかしも黄金の稲穂
くさむらの風に打たれてゆれる葉のおしえてくれる静止した今
こおろぎのしつこく鳴くよな秋の夜は明るい月をいずこに隠す
プラモデル遊んでいるよな鳩ポッポ静寂などと君は呼ぶのか

使徒言行録 7. 17-22

エジプトで我慢しながら2万首を詠めと言われりゃ詠み人知らず
バカバカしある日突然バカバカし愚かなわれはいいわけもせず
ひとごころ考えるからバカバカし文句を言うなら神さまに言う
よくもまあこれだけ文句言えるわね文句のほうがわかりやすいさ
美しく典雅の舞は尽くされてのこされたるはミケランジェロか

ペトロの手紙 一 1. 3-9

関係ないよなぁ・・・・・

フランチェスコは詠みにくい。映画のイメージが強すぎて。

紺碧の空に浮んだ聖人。

ポルチウンクラも詠めない。無、になるから。

紺碧の空に浮んだ聖人。無。

使徒言行録 10. 44-46

異言って何さ・・・

投稿者 Blue Wind : 02:54 AM | コメント (0) | トラックバック

September 26, 2004

遠かりし日日過ぎゆかば秋の日は時間の消えた曇り空かな

日本人なら一日一首。しゃきっ。

うつらうつら退屈な雨降りやまぬ蒸しさむき日は秋というなり
温泉をプールにしても曇り空つくばの山の青青とあり
レトロだなぁレトロな歌を詠んでいる退屈な日も今日という日か
六年生隣家に住んで受験生同じクラスで会話もひさし
曇り空のどかな子らの向こうには飽和したよな未来が待つよ
甲子園飽きてしまったドラフトはリストラかけて選手働く
運動会のんびりながむあの人はオリンピックのメダリストかな
遠かりし日日過ぎゆかば秋の日は時間の消えた曇り空かな

マルコによる福音書 9. 20-24

子の未来夢があるよなないような描き模様のかすれるままに
めざすものゆくゆく春はめぐりくる花咲くまではそしてゆく春
淡々と子らの減りゆく世界にはめぐる季節もめまぐるしけれ
2万首を詠み込むまではなんとなく時間つぶしといいわけしつつ
CGIうすらぼんやり眺めてはタイムラップを気にするように
老いゆかば褒められるよなひねもすを何故にめざすかかすみたる日日

エレミヤ書 5. 4-6

そうなんだよなぁ・・・・あれは嘘だ。おとなになればおとなになるというのは。加齢したからといって何も変わらない。なお悪い。

エゴイズム眺めてひさしババイズム加齢はすすみ近くなる年
じわじわと世代交代近づけばわがまま言うもお互いさまか
子どもならなだめすかして叱っても明日はけろりと忘れてるのに
子は素直明日咲く花のあるように今は蕾のここちするかな

なんで年寄りってあんなにわがままなんざんしょ。昔はそれほどでもなかった人までわがままになる。わからん・・・ふたりにひとりが年寄りの世の中になりますからね・・・ゆるされないのです。あきらめよう。

死んだってお互いさまと葬式は失礼するも儀礼となりし
病なりわたしもなのよと年寄りはひとり通いぬバス乗りてゆく
またひとり来なくなったとコーラスは死んだとおもいつどいあう場所
子の無事を確認しては孫の服競い合っては買いもとめたり

ハバクク書 3. 17-18

年寄りの値打ちか。

投稿者 Blue Wind : 05:47 PM | コメント (0) | トラックバック

September 25, 2004

眠りゆけ、目覚めよ、空よ、釈放だ。いのち羽ばたけ、旋回する鳩。

眠りゆけ、目覚めよ、空よ、釈放だ。いのち羽ばたけ、旋回する鳩。
そこの鳩、ジプシーの手に集まれば、見えない糸が張り巡らされ。
教会と飛んでる鳩を見てごらん。あらゆる景色おしえてくれる。
アコルディオン鳴りだす車内演奏は次の駅まで続いてゆくよ。
シノワーズ?仕事探しと親切にドリンク売りはおしえてくれる。
アリルヤを歌えるだけでお仲間さ。ほんとの信者、シノワーズかもよ?
物売りをするかしないか買う人か、サムソナイトを持って歩けば。
ニューヨーカー、おどけてみせて列の順、同盟国に頼みたいだけ。
婿さんに声かけられて馬車停まる。窓から馬車へ家内連絡。
運転手、道ゆく人と窓話。いつになったら馬車から車。
えんえんとおまわり呼ぶぞと店の前アイス袋の喧嘩はつづく
喧騒に慣れてしまえば他人事いつものことさと透明人間
ちゃーおちゃーお、ちゃーお、ダニエラ。ボンジョルノ。ブナセーラだよ、おひるすぎだよ。
アイス買い隣に座ったおじいさん、(わたしのジーパンいつものことで・・)

エゼキエル書 37. 4-5

デブ鳩とすずめの餌の争奪戦を見ているだけで飽きない・・・ほんと、どんくさいやついるし・・・わざわざ取りやすいところに蒔いても、ほかの鳩に取られる。どこに目をつけているんざんしょ、あの鳩は。そのくせ、餌を蒔き始めるとどこからともなく集まるってことはおっそろしいほど目がいいのかも。

死にたくないよなぁ・・・・死にたくないって生きているほうが普通だ。ペーパーテストの紙の愛にもうんざりだし、かたちばかりの礼拝にもうんざりだし、校歌歌うとくすくす笑い出すやつ。そのくせ、とても感じのよい人たち。最悪。なかみないから。

パターンがあって、そのなかにおさまるようにつくられてしまったわたし。わたしは死んでいる。おおげさに神さま、神さまとさわぐ人間が嫌いになってしまった。あまりにもおおげさすぎる。静かに祈れよ・・・・・誰もいないところで。礼拝なんて行くな。教会なんて行くな。ええっと、あちらの教会のほうがアクティブになさってますよ、信者じゃないなら倫理もあるし・・・どーでもええねん。

キリスト教のなんたらかんたらについて知りたいだけなら本屋に行け。図書館に行け。大学へ行け。なんたらかんたらなんてあたしが知るわけないじゃないですか、いまだに聖書もろくすぽ読んでいないのに。エホバよ、うざいから来るな。それがまた、近頃は上品なおばさんなのですよ・・・近所の人とか。でも、来るな。自転車に乗ったモルモン教の兄ちゃんたちのほうがましだ。

あなたは神を信じますか?はいはい、勝手に信じてくださいませ。信じたらどーなるのさ?おせーてくれ。
悔い改めよ。はいはい、ざんげざんげ、あたしゃどーせわるものだ。ほっといてくれ。きえろ。
いやしを求めないでくれ。

フィリピの信徒への手紙 2. 1-11 キリストを模範とせよ

キリスト教からキリスト教へ改宗するのも改宗するというのですから、イタリア人が中国人と日本人を間違えるのも無理はないと思うのです。わたしには区別つきますけどね、相手が日本語話してりゃ。が、しかし、日本語を話す中国人となると無理です。海外ではなおさら無理だ。

なんか、おおいなる勘違いがあるような・・・・

餌、なんだよな・・・・ぱらぱらっと餌を蒔くと鳩がどこからともなく集まる。

もーね、うざいから一つにしてほしいわけ。次から次へとあれにこれにとめんどくさい。となって、人類滅亡論が復活するのかも。

ネヘミヤ記 2. 16-20

エルサレム、か。
あれが、象徴なのか・・・
冗談であの街があんなふうになっているわけでないのか。あれがわたしたちの住む地球。

って、行ったことない。

神の国遠くにありて思うもの平和の便り島国で待つ

投稿者 Blue Wind : 02:06 PM | コメント (0) | トラックバック

September 24, 2004

単調な日常のなか落雷は庭のもようを描きかえてゆく

回心前のフランシスコ・・・・・・・・
大学ってところは新入生が入ると、相変わらず神の愛がどーたらこーたらから始まっているんだろうな。飽きずに懲りずに神の愛。墓に入る頃になってからあれこれ心配するよかいいか。

しょぼくれたわれの未来をおもうより吾子の未来の楽しい秋よ
彼方より呼び声ひさし秋風は空を真白に落雷の音
歌詠みは楽しいものかと吾子は訊く。「別に」と答え淡々と詠む。
ラジオから横浜球場夕立と流れる声と真白き空と
落雷に向かって走る窓の外並木まじりの外灯怖し
稲光白き空には雲さえもくっきり浮ぶ夜空を走る
夕暮れの空にも似たり落雷に浮んだ夜の雲を見つめる
魂の死なないうちに歌詠みは沈んだ歌を空に浮かべり

めんどーだと思っても詠んでいる。雨が降っても雷鳴ってもネタにする。同じ庭、同じ景色、単調な日常。

フィリピの信徒への手紙 2. 12-18 共に喜ぶ

慣れた庭慣れた夜空の雷鳴は蒼き世界を白夜に変える
これでもかこれでもかって青空は違った雲を空に浮かべる
闇夜には見えぬ雲さえくっきりと生きているよと稲光みる
くりかえしくりかえしつつ空の雲笑っているのか泣いているのか
単調な庭先の花くりかえし生きているよと微かに笑い
単調な日常のなか落雷は庭のもようを描きかえてゆく

似たような学生がまた教室に退屈そうに座っているかな
まじめな子眠っている子逃げ出す子枝毛を切るのかノート取るのか
直前にノート回して神の愛紙の愛かとありがたがって

使徒言行録 14. 8-20 リストラで

同じ人間なんだよなぁ・・・・
もう、自分たちとは違うと思うだけでうれしい。安心する。

フランチェスコにはフランチェスコの愛し方があるし、マザーテレサにはマザーテレサの愛し方がある。

愛し方が違うんだよなぁ・・・

むずかしい。

凡人は、神の愛ではなくて、神への愛を観察している。神の愛がどういうものかより、神への愛を観察しているほうが興味深い。愛の深さ。通りすがりにも、ん?って思うほどの愛の深さ。すとんって落とされてしまう。

箴言 17. 9-10

もう、これでもか、これでもか、と神さまを愛しているんだけど、かたちなき愛の世界だから、こころしかない。
なのに、みんな、神、を描こうとする。
神を知ろうと努力する人たちは多いけど、むりなんだな・・・

紺碧の空に浮んだ聖人。

投稿者 Blue Wind : 11:50 AM | コメント (0) | トラックバック

September 22, 2004

どしゃぶりの雨は降る降る秋の空地面の色の変わりゆく昼

どんぐりを拾って歩く森のみち歩いてゆけよと子らにさしだし
あれこれとめんどうなんだと人の道たどりてゆかばストレスの渦
飛行機でゼルダの伝説やってたよ。それはあのこの描いた絵なのさ
楽しいな。小さな夢をありがとう。森の中にはどんぐりありき。

マタイによる福音書 27. 62-66 番兵、墓を見張る

一生懸命に美術館連れて行って・・・つかれた。何しに行ったんだろう。くま先生のお弟子さん、就職なくて、子どものぬりえの図を描いていて・・・それを持って任天堂に行って、2年後の作品がゼルダの伝説。
ああいうの、いいな。すくわれた。
本人はすごく苦労したんだと思うんだけど、なんかいやされるな。

こちらは何も知らないから、親子でせっせとゲームしてました・・・アリタリア航空の飛行機の中で。
くま先生は体が悪くて飛行機乗れないから、そのお話をうれしそうに聞いてくださいました。

夢もとめ飛び立つ空の高ければ手元にありき小さな夢が

エゼキエル書 37. 1-6

もう、ババアはいいよなぁ・・・ひらめかないもん。

雨は降る。わたしのために大粒の雨は降る降る、ますますひまじん。

ヨハネの福音書の後半を読む。実は、新約聖書通読のそれが正しい続き。つまりは、毎日ランダムに開いているけど、実際には飛ばし読みをしているのと変わりない。ピラトって、イエスの磔刑には反対していたのね、知らなかった。
事実だけを書こうとしても、これだけ違う。

落雷に驚きながら花たちはやむのを待つか降るのを待つか
どしゃぶりの雨は降る降る秋の空地面の色の変わりゆく昼
雨は降る。見慣れた景色変えながら塗り替えられてしずくの光る。
通り雨陽はさしもどり水の中遠のく音の消えゆくままに
おなじ庭さっきと違う水もよう光もようを与えられては

ペトロの手紙 一 4. 7-11

同じところばかり読んでいる気がするんですけど・・・
聖書に文句言ってるあたし・・・
かといって読めない。こんなにたくさん、最初から終わりまでなんて。

投稿者 Blue Wind : 01:10 PM | コメント (0) | トラックバック

September 21, 2004

わが海をすべての海とおもわなば海はひとつの水のかたまり

_______________

『私の感覚では、
神こそすべてのすべてであり、その他になにもない。
「われ」もないので、「わがすべて」というレトリックもない。

これは仏教的感覚に近いかもしれません。』(庄内さん)

_______________

こんなにむずかしいコメントまでいただいてしまって、これはレトリックの問題なのかもしれないとは思いつつ、気になって気になって仕方がない。(以下、つまらないつぶやきは上述のコメントとは何の関係もございません。)

ダニエル書 11. 9-10

戦いに明け暮れたるや神もとむ味方と敵と空の下には
わが神はすべての神と思わなばわれらの神とかわりゆけども
吾からか空からかゆえ広がるは果てしなき空無にかわりても
白地図を塗りこむように世界地図他人のように鉛筆を持つ
うんざりだ。あらしのようにしつこくもあらしのような黒雲の来る。
終わらない憎しみの果ていつまでも追われるまでは逃げ出すまでは
あの人の苛立ちはまたわたくしを苛立つ波の前に立たせり

はよ、終わってくれよ・・・・しつこい。はあ、しつこい。のっちがしつこいんだか・・・・しつこい。

詩編 22. 17-19

関係ないや・・・・あほくさ。くそったれ。おもいだすのもいやだ、みんな、きらい。

あのひともこのひともみなきえされとすがすがしき風こおろぎの鳴く
地中海制覇したなら大西洋こえれば波はいづこへつづく
わが海をすべての海とおもわなば海はひとつの水のかたまり
わが空をすべての空とおもわなば無限の空はわれをこえゆく

マルコによる福音書 5. 1-10

成仏してくれるのなら、なんでもええわ・・・
レトリックなんだよね・・・・My Lord, My All. は、無。無我。なんて矛盾に満ちた言葉・・・・

われ無くしてぞ君はありける。

のらくらと逃げ出しゆかば晴れ晴れと満ち欠ける月ながむるような
ゆるやかにいのちの坂はくだりゆく地球のうえへまたのぼりゆけ

が、しかし・・・・あたくしが時空へ顔出し?すると、クリさんがまたいじめられるのよ。いたちごっこだね。どーにもならん。解散したんだから、いいだろ?よーわからん。嫌気さしてうんざりするまで続けるつもりなのかも。十分うんざりしているのだけど。

詩編 79. 8-11

アングラ・・・・光は遠い。
復活しても悪魔の集団じゃあね・・・それもまた事実かもしれん。

そらぞらし言葉の海はセロハンで覆われている大学ノート
うんざりだ。あいつもこいつもおばかだとねむりこけてる昼間のカラス
いじめられ仲間なかまと喜んで囃したてるかそこのおばはん
権力にしがみついては捨てられてしっぽふりふり吠えまくる犬
悪魔には悪魔の歌がよく似合う子守歌など歌って聴かせ

詠めと言われりゃ、そりゃいくらでも。

ゼカリヤ書 11. 4-17 悪い羊飼い

こういうつまらん歌を詠むから真似するのかも。あーやだやだ。
真似しないでよ、ボツ歌なんだから・・・
歌くらい好きに詠みたい。嫌な世の中。

まともに詠むと高尚すぎるって、おやじ、成仏してくれ・・・

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September 18, 2004

マイク持ち観光バスの先頭は両手を広げわが前過ぎる

>「わが神、わがすべてよ!!」と言って祈っていました。 ルドビーより

道ゆかばフランシスカン闊歩する布の色さえいろいろあると
夕暮れをアシジの兵の通過する大通りには人波まばら
マイク持ち観光バスの先頭は両手を広げわが前過ぎる
中学生無骨なままに育ちゆけカルチェリの庵放課後の庭

そこのけそこのけ神父がとおる。・・・・・・・・

あの無骨な雰囲気・・・

夏のアシジなんてものは、授業が終わったばかりの教室や駅前広場にたむろする学生を想像するほうがわかりやすいかも。

めずらしくレスが入りました・・・

投稿者 Blue Wind : 04:58 AM | コメント (0) | トラックバック

September 17, 2004

光射すオリーブの道下りゆかば光の丘の木陰に休み

My Lord, My All.

良い言葉。
訳せない。主こそわがすべて。
完璧なる精神の自由。信仰の自由。ウンブリア、アシジの山。

完璧なる信仰の自由。
空と星と、天だけがどこまでもつづく。真理は空さえも自由にする。遮るもののない空。

象徴として自分が見たものは、屋根の上の鳩、むせかえるような人の多いアシジ、コジモのささやかな自由空間、愛するフィレンツェ、広場の鳩、ドォーモの入り口のボディ・チェックをする警官、教会で世間話に明け暮れる女性、閉鎖されたベネディクト派の教会、臭いピザの別世界、アシジの空。

人間と教会。そして、最後には空だけが残った。

私は、精神の自由としてアシジを語るとき、空と星とポルチウンクラ、と結論付けようとした。そのとたん、サン・ダミアーノが浮んだ。狭い窓から見た、狼と戯れるサン・フランチェスコ。

あっけにとられるくらいの自由がある。自由という言葉でしか表現できない自分が悲しい。

象徴は、原風景として私の記憶の中にある。

ダニエル書 5. 16-17

光射すオリーブの道下りゆかば光の丘の木陰に休み
ぐらぐらと積まれた石の揺れる道乾いて一つ足もとにあり
屈強にお城の道は大男歩いて揺れぬ坂の多かり
部屋の奥ローマ時代の洞穴がひっそりありきアシジの宿屋
壁の向こう岩が続きぬ石の家閉したる窓に風は吹き込み
暗がりに道ゆく人を眺むれば朝な夕なと影細き道

イザヤ書 30. 18-33 救いのとき、アッシリアに対する審判

イザヤの見たもの、見た景色。

なんで、呪縛がポルチウンクラだと外れるのだろう。

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September 15, 2004

傷だらけ小さな梨の姿には生きた証しのいびつさを見し

みことばのあいだに歌のありけると言われて気づくつづいている今
すこしずつ倦んでくさってきえさってみことばだけがつづきぬ砂よ
さらさらと風に吹かれて飛んでゆけ波に流されいづこへとゆけ
われというちっぽけなわれ風吹けば遠くの雲は流されてゆく
柵の中走りまわれるオトくんは笑みを浮かべてくるりんといる
駆け出せば隣の庭を見つめては猛スピードで芝駆けるオト
ちっぽけな自由の庭でオトくんは猛スピードで駆け抜け走る
収穫の季節を知らぬ梨の実は朽ちかけながら生きる証しか
スーパーの梨と比べてわびしけれ実のなる季節小ぶりな実つけ

マタイによる福音書 20. 20-28 ヤコブとヨハネの母の願い

古今東西、母親ってそういうものなのかも。

初梨の花の咲けるをよろこべば実の小さきに収穫わすれ
今は秋それとも夏か初梨は青空の中腐りかけてる
たくさんの実をつけ梨は五つかなあじわいもせずテーブルに乗る
小さき実無事を祝って座ってる梨の小枝にぶらさがりつつ

梨って自然に育つものじゃないんですね・・・売り物は。

傷だらけ小さな梨の姿には生きた証しのいびつさを見し

ホセア書 7. 8-12

人間にへりくだれば神さまは高慢と云う片面焼きか
みことばを尋ねてゆかば高慢と指さされしを若き日に思う
台風も来ない秋には秋刀魚さえロシアの海を泳ぎ戻らぬ
秋刀魚さえ冬の魚になりそうな市場の箱を眺めて歩く

マーケットなんて、いいかげん。

テロのこと知っていたのか大統領値の張るほうへ石油と武器か
テロリスト撲滅という戦争をあなたは知るかしかける猿か
子らの前すわり語るぞ惨劇を真実はまた闇へと消える
葬式を浮世の義理と気がついて法衣むなしく人を送りぬ
天国はいずこにあると尋ねても風はむなしく空はつくりぬ

悪魔のお葬式でもパパさまはやるんだろうか?
悪魔と並んで記念撮影・・・・なんかね・・・・世の中というのはそういうものらしい。

イザヤ書 48. 12-16

イスラエルへの親書。バチカンとの友好。悪いことじゃないんだろうけど、なんか釈然としない。楽園と平和とは違うのかも。

夕景色アシジの空の広ければいろいろあるさと夕餉はつづく
今日の空明日の空かと眺めれば雨のない夏雨のない秋
蝉の声夜長につづく秋の日は朽ちた梨の実あつめて数え
秋刀魚さえ戻らぬ秋は温かい海の中かと水仙のよう
売られたら買うしかないさとマーケット日本の海の狭さを感ず

コリントの信徒への手紙 一 2. 6-8

十字架のイエス。未来永劫、十字架のイエス。

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September 13, 2004

風はゆくつむぎゆく日の蒲公英の根のはる秋にひっそりと咲く

「まほちゃんは、神さまに愛されているからね。いいこいいこ。」
これだけ。
私も母に言われて育ってきた。
娘に言わせると、神さまの中でマリアさまが一番好きなんだそう。
ちらっとややこしいことが頭の中を過ぎったけど、そういうややこしいことは子どもには関係ない。私にも関係ない。子どもは素直でいいなとおもう。

娘に言わせると、みんな神さまらしい。マリアさまもフランチェスコも。そうやって言われてしまうと、なんて便利な言葉なんだろうと思ってしまう。神さまに愛されていると言われて、神さまの中ではマリアさまが一番好きと娘が答える。

ほんじゃ、あたしのときの神さまって誰だったのだろう?
わからない。
マリアさまに愛されているからね、と言われたわけではない。私も娘にそうやって言ったわけでもない。教会に祭壇があれば、私はジーザスに、娘はマリアさまに。よくわからないけど、そういうものらしい。
本当はダメなのかもしれないけど、こころのちかさというものがあって、そこを好きか嫌いかで言われると否定しようがない。

アバウトなんだよなぁ・・・
それこそババアになると、ぐるんぐるんとややこしいことが頭を過ぎる。そこに実際的な冠婚葬祭が追加されるともーダメ。ぽいっと捨てる。

マタイによる福音書 10. 1-4 十二人を選ぶ

こちらに選ぶ権利はない・・・

母は、疎開前に通っていた幼稚園の神父さんがルーツだろう。ながい。イタリアの神父さん。戦争が終わったら帰国なさったそう。すごい昔の話。母が、初めて大学の御聖堂に入ったとき、あまりにも懐かしくて泣きながらお礼のお祈りをした後に話してくれた、当時のことを。母もすっかりおとなになって忘れていたのだと思う。
あのときの、母の驚愕した顔を覚えている。

すぎゆかば記憶の人になってゆく母からわれかわれから人か
風はゆくつむぎゆく日の蒲公英の根のはる秋にひっそりと咲く
蒲公英の宿根草だと知らされる秋の庭にはブルーサルビア
刈られても芝の中から新芽かな春を待たずに花を咲かせり
台風よわれのいぬまにありがとう枯れることなく花は広がり
雨のない土のない道花は咲くそぞろ歩きぬ手には水持ち

エレミヤ書 17. 9-12 人間の心を知り尽くす神

水・・か。
母は、何にあんなに驚いたのだろう・・・撃たれたように驚いていた。アシジのおばあさん風に言うと、まりーあ。

投稿者 Blue Wind : 04:36 AM | コメント (0) | トラックバック

September 12, 2004

捨てられた教会を見し崖の上理の勝つような野良猫の道

ルドビーさん、いったいどうしたらよいのでしょう? 義理の兄(義姉の婿)はキリスト教の学校にお勤めしていて、もう何十年も受洗したいと言っているらしいのですが、一族で反対してすったもんだしているそうです。こちらの話は私には直接関係のない話なのですけど、主人の姉たちは皆カトリックの教育を受けているので家庭の中は平和です。ところが、親の墓を捨てるのかとか、親はともかくそのまた先祖の墓とか。自分には関係のない話だと思っていたんですけど(だって他人だもの)、その余波で姑さんが本気で心配しているのです。最初から永代供養にして、とか。たまたま神戸市のお墓の移転の話があるので、一人で悩んでいるという。主人は素直な性格なので、そのままつくば市のほうへ移すつもりでいます。父親が生きていたらよいのですけど、すでに亡くなっているし、私の母は戒名まで一緒に受けているので父と同じお墓に入る。弟がいるからいいんですけど、今回、イタリアへ行くだけでも母のことがあったので、世間体がわるいとばかりに弟の嫁さんと喧嘩です。お葬式の時に親族がいないというのは大変なことなんですね。ぼぉ。
ヘンなファミリーなんですよ。結婚式は教会。平和。でも、お葬式となると仏事。平均的日本人家庭なのかもしれないんですけど、お墓や法事が絡むとややこしくて。誰も受洗していないのに、主人の従姉は国際結婚してしまったし、ほかの従兄たちは亡くなったりで、誰も墓を引き継ぐ人がいない。うちは一人娘。義父のお葬式は、毎日礼拝に出ている人がお数珠持って、子どもたちはお坊さん見て吹き出すし、困った。

毎日、歌詠んで、聖書開いているだけなら、一人のことなんですけど、さあ、いざ、ということになるともう何十年もすったもんだしています。

ルカによる福音書 18. 24-30

神父さんに尋ねるほうが愚かな質問だった・・・
親、墓、相続、親戚、世間体、付き合い。しがらみ、しきたり、浮世の義理。

鈴虫の気長に鳴く夜はこおろぎの伴奏となる蒸し暑き庭
台風の上陸せしも知らぬ夏夜半はふけゆく秋を迎えり
ゆくゆくは・・・くりかえすだにゆくゆくは。忘れて遠き記憶の過ぎる。
今はまだ荷物の持てるわがみだと吾子を頼らぬわれを思いし
墓の中入ってしまえば極楽かみかげいしさえ捨てられおりし
世間体なじられたとていまさらにおばかな姉はあきらめ候
少しずつうつろいゆかば吾手にはうすまりゆくか過ぎた月日よ
圧力も軋轢もまた握力もスポンジのごと命に変わる

捨てられた教会を見し崖の上理の勝つような野良猫の道

コロサイの信徒への手紙 3. 1-4

あれはあれでいいのかも。捨てられたのではなく、閉めただけなのかも。

学校、就職、チャリティ、ボランティア、結婚式、くらいまでは平気なのに、改宗、お墓のこととなると猛烈に反発。どこが違うんだろう。

詩編 76. 5-7

死後の世界が違う。

投稿者 Blue Wind : 02:13 AM | コメント (0) | トラックバック

September 10, 2004

石畳いくつの足をささえたかかぞえもむなし歩く歩けと

一律に定められし定めなど一律にしてとほく消え去る
天高くそびえゆくものかたければ天蓋にして星と証する
ユダヤ人だれそ敵だとさだめたか人にして思ふ謎多き時
おおすぎるねがいむなしきみことばは無尽の空にかたりかけ飛ぶ
石畳いくつの足をささえたかかぞえもむなし歩く歩けと

ヨナ書 3. 7-9

もう、いいだろう。ホテルにポープの絵皿、飾ってあった。議会になれば、パパさま。悪いことしないようにいつもいる。先の者が後になり、後の者が先になる。だから、本来ならユダヤ人が一番最初に喜びを迎えるのが筋なのに、後になっただけだ。そして、ロマーノ。直接的暴行。迫害。
なんか、もう終わった気がする。聖書に書かれていることの歴史的証人なんだと思う。
決して民族主義に走って言うわけではないけれど、いきなりクリスチャンになったからといってユダヤ人やイスラム教徒が敵に思えるわけでもないし、実際のところ日本人の敵であったこともなく、実感ない。

大きな虹や大きな月の出を信じたい。青とんぼやななしの花。だから何なのさと言われてしまえばそれまでだけど、そちらのほうが自分にとっては神の奇跡に近い。近い、というのは、信じていないせいなのかも。メッセを信じよう。

自分がお願いするより、素直にメッセを聞く。レセプター。そうしないと空はみんなの願いで充満してしまう。フィルター。

飛べなくても、神さまのほうから来てくれるなら、黙って天を見つめていればいい。天は山より高いから、行けないよ。

エフェソの信徒への手紙 4. 25-32 新しい生き方

投稿者 Blue Wind : 11:36 AM | コメント (0) | トラックバック

September 08, 2004

サンダルの二つに割れた底を見るゆきかふ人を石はささえり

追悼のガラスの中にしたためるうた詠みゐてはつきひははやく

・ ご返歌
校庭の赤く燃えいづサルビアはつよきものかとますぐに立てり
まぶしげに広がる光ひねもすの広がりゆくを朝陽にぞ思う
黒黒と抜け毛の季節迎えたか無尽にまつげつけているかと
あらくさに根の残りたる蒲公英をためらいながら眺めてる秋
酒という古き香りのたつものとアルノ河とを比べてかなし
車なき生活はまた冷蔵庫なき生活か テレビは映る
サンダルの二つに割れた底を見るゆきかふ人を石はささえり
わるさする本音の中に飼い主の理性の欠片うちくずれたる
トップレス胸の脂肪の広がるを黙ってみつめ風呂屋をおもう
レストランそろりそろりと白猫はお散歩みちだと言わんばかりに
貯金箱缶切り持って開けたくも缶代を思うせこき吾かな

投稿者 Blue Wind : 10:46 AM | コメント (0) | トラックバック

September 06, 2004

草を食む味の広がる不可思議さ爪の味かと素手とあらくさ

ゆっくりと過ごしてみたいひねもすは寝ているうちに鈴虫の声
草を食む味の広がる不可思議さ爪の味かと素手とあらくさ
時差ぼけと呼んでくれるか日常は時差ぼけたままいつものわたし
あれもこれも欲張っている短き日呑みこまれるか鈴虫は鳴く
台風の被害も知らぬ夏の日が過ぎてしまった秋の声かな
イタリアのビーチバレーの強さだけ記憶にのこるオリンピックか

イザヤ書 30. 27

やはり、続きを書かないと始まらないらしい。

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