February 29, 2004

平和な日曜日

世の中の人たちは怖いもの知らずというか、なんというか・・・
でも、一番なんにも考えていないのはあたしかもしれないと思う。とりあえずネットだったら暴力を振るわれたりということはなさそうだし、地理的に離れている分気楽かもしれない。でも、家族だったら大変だ。それこそあれだけ荒れたら押し黙るしかない。つまりはなにをするか実際のところわからないからだと思う。
世の中には、癌を宣告されただけで、包丁を振り回して暴れたり、中には日本刀を振り回して犬を殺してしまったという残忍なケースもある。家に戻ると不安になったりするのかもしれないし、そうなると、家族がどうしても病院のほうに預かってほしいと言うけれど、通院による治療になったらベッドに余裕がないとかね・・・でも、事情が事情なので、ほかの精神病院のほうで一時的に入院する人とか、書いていたらキリがない。いきなり病院から電話が掛かってきてなんだと思ったら、もしかすると脅迫電話があるかもしれないから気をつけてくださいとか。どんなことにも慣れってあるらしく、なにを聞いてもすでに驚かないには驚かないなりの生活がある。
うっかりカウンセラーにでもなったら、それこそパラノイアの逆恨みで、いきなり後ろからグサッとか?充分にありえる話だから怖い。ネットだとわからないでしょ?つまりはその人がどの程度なのかは、面談してみないとわからないらしい。
いずれにせよ、普通だったらパソコンを使えないようにしてしまうとか、プロバイダを解約してしまうとか、それなりに手っ取り早い方法はいくらでもあるし、うちの家族があんな状態だったら、パソコンのコードを鋏でチョンと切ってしまえば終わる。かなり怒る可能性があったとしても、暴力振るったり、脅迫したり、そういうことがないからかもしれない。でも、いささかそういう暴力的な傾向のある人だったら、にっちもさっちも・・・愛とか仲間はずれにしないとか、そういう生易しい言葉の通じる世界は夢なのかも。
というわけで、常識的判断として、もしネットでにっちもさっちもいかない状況に巻き込まれてしまったら、BBSを捨てて自然と消えるのを待つしかない。そういう事情がなんとなくわかっていて匿名でなだめているのかもしれないし、それはそれで勝手なんだけど、こちらはとりあえず画面を通してそういう状態を観察しているわけですよ。結社がどうたらこうたらとかね・・・なんかね、うまく説明できないけど、なんというか・・・すべてを説明するのは困難なような・・・
今のところ、短歌がどうたらこうたらと言われても、命には別状はないようだし、生活する上でなにか困るということもない。それよりも、娘のほうが遥かに大切でしょう。大事な一人娘なんだから。この前だって6年生の女の子が白い乗用車に乗った男にナンパされそうになったらしいし、学校の中でさえ安心できない時代に、親が家を空けてなにかをするなんてとんでもないというか。アメリカを基準にするわけではないけれども、最低限度12歳を過ぎるまでは保護者の責任は大きいと思う。だから、オトくんでもとりあえずは番犬でもあるし、コンビニ強盗や空き巣狙い、車上荒らしも横行している土地柄ゆえ、経済的に余裕があるのなら家で子育てしている人のほうが多いと思う。家にいてなにもしないのはもったいないなーって思ったりするけど、つくば市だと母親でも高学歴が当たり前みたいなところがあるし、お仕事しないで子育てしている人も多いし、普通のお母さんをしている。一番やりにくいのは学校の先生かもしれない。

それにしても、平穏な生活だ・・・これが普通なんだろうな。あまりにも壮絶な出来事にも慣れてしまっているから平穏な生活に喜びを見出せるのかもしれないとも思うけど。オトくんは抱っこ抱っことうるさいし、午後には娘の友達が遊びに来る。ヒマだけど退屈しているわけではないという意味がね・・・
さてさて、未読本は山のようだし、今日は題詠マラソンのお題が発表されるらしいし、パスワード付のBBSもアップし終わったし、短歌が本当に好きかどうかはわからないけど、これが本当に楽しみなんですよ・・・ささやかなる日常の楽しみ。

(こころのウェブのほうは、しばらくお休みします。)

投稿者 Blue Wind : 10:13 AM | コメント (0)

February 27, 2004

風は野に山に

いやはや、まいった、まいった。だから、この手の話は書かないにかぎる。信仰を通して、日常を眺めるということと、いわゆる修行して霊能者になるとかそういうこととはまったく別問題だし、自分は後者にはまったく興味がない。
どこがどう違うかというと、例えば超能力。自分はこういうものをまったく否定しているわけではない。でもね・・・いつも思うのよ・・・手を使わないで中の錠剤を取り出す実験をしているとするでしょ?あたしだったら蓋を回して錠剤を取るわって。つまりは、「蓋を回して錠剤を取れる」ということがすごいことなのよ。オトちゃんには出来ないし・・・つまりは、手が使えるということがすでに人間のすごさであり、そういう意味での能力が仮に人間にあったとしても、それがごく自然に退化していったのは当然だと感じる。
祈りや念力で病気を治すよりも、医者へ行くことを勧める。そちらのほうが手っ取り早いと思えるほど日本の医療は進んでいる。昔だったら不治の病と言われていた結核ですら、いともあっさり治ってしまう。そういうことを考えると、人間というのはすごいなあって思う。
青い薔薇はないと言われていたのに、あっさりバイオテクノロジーにより市場に切花が出るようになる。そうすると、青い薔薇がほしいなあ、ってなんとなく思っていたから、逆にそれ自体が神さまからの贈り物のような気がしてしまう。
世の中がテロでひっくりかえっている時に、なんとなく娘と二人で巨大な虹を眺めてぼーっとしていた。自分ですら生まれて初めて見るほど巨大で美しい虹だった。娘が、「お父さんにも見せてあげたい」と言ったほどすごい虹だった。みんな、信号待ちしているクルマの窓を開けてぼーっと眺めていた。ただそれだけのことなんだけど、後になってから9.11テロのニュースを知り、同じ摩天楼なら、地面から立ち上るような巨大な虹を眺めているほうがハッピーということをまざまざと知る。世の中がひっくりかえっている時にいささか不謹慎な気がしたけれど、虹を見た話を神父さまのところにしに行く。あの事件の中、奇跡的に助かった人たちの話。
信仰心をもって生きるということと、特殊な能力をゲットして生きていくということとはまったく違う。こう、なんというか、自分のこういうとんちんかんなところをすでに誰かに説明することは諦めている。でも、世界にはクリスチャンは10億人いるらしい。だから、もしかすると、そういう人たちなら自分のとんちんかんな発想を少しは理解してくれるのかもしれないけど、まるで信仰心のない人たちには何を語っても意味がないらしい。
教義というのかなあ・・・そういうものと自分のものさしが合わないと、あっちの宗教、こっちの宗教ってなるらしい。天を通してお話をする、静かな対話。そういう世界には、地上の秩序ではなく、天の秩序がある。そういう世界を感じると、すべてのことがどうでもよくなってしまう。すべてがどうでもよくなってしまうような感覚を言葉で表現するのはとても困難かもしれない。それを自分というレセプターを通して語るしかないからだ。自分という人がそれを語るにはあまりにも脳が狭いために、もっといろいろなことを知りたいと思うけれども、人生は短すぎる。
もしかすると、自分の人生そのものが何かのレセプターなのかもしれない。そうなると、もう自分のこともなるようになれとしか思えなくなる。

あらし騒動・・・・もうね、あたしはどちらの味方でも敵でもない。単に自分のものさしで行動しているだけ。BBSに誹謗・中傷、これは悪だ。それを放置していればそれも悪だ。自分がやっても悪だ。だから、あたしは悪いヤツだ。そういうヤツのサイトに来るな。(とだけ言いたい)
そうなると、今度はそれを加藤さんが見ていたとなったら、BBSを捨てるとは何事だとなるらしい。(絶句)
自分的ものさしから言うと、神父さまや聖書の悪口を書かれたり、神父さまのハンドル名のなりすまし、あたかも自分が教祖のようにふるまう、などなどそっちのほうが遥かに悪だ。犯罪以上の悪というの?
ひきこもりの子にネットのよさを伝えたいはずが、それが原因で逆に警察沙汰になったとしたら、ますますその子は不幸になるのではないだろうか?つまりは、道具を使うのは人間であり、警察沙汰になった人間を庇うという行為は『レ・ミゼラブル』とはまったく関係ない。なぜなら、犯罪以上の悪を犯す人間をどうして神さまが赦す?しかも、真の発端は、「息子さんが父親を警察に訴えてほしい」ということらしい。そういう家庭内の悲劇が多くのネットユーザを巻き込む。こうなると、他人がいくら怒ってもなだめても無意味ではないだろうか?

だから、もう、いささかすべてがうんざりなのでございます。神さまとだけお話せよ、ということですから、そのようにするだけ。あとは野となれ山となれ、あたしは風だ。気ままにやらせていただきます。

気ままに歌を詠んでいたいだけだから、放っておいてくれ・・・
信仰を通して、日常を見る。そんだけ。あとはすべて流れの中にある。

投稿者 Blue Wind : 06:18 AM | コメント (0)

February 25, 2004

気まま

ああ、そだそだ、今回はすっかり学んでしまった。サイトに歌をアップしたら、それが発表扱いになるとかならないとか、末梢的つまらない部分でささやかなるトラブルがあり、それだけで急に歌がいやになってしまったという・・・いやだと思いながらも、いやだという気持ちを歌にする。つまりは、自分という存在があり、そこからヘンな歌を含めて勝手に手が動くだけのことだ。いやになったら好きなことをやる。本当に好きなこと。つまりは、歌が後。まずはうだうだとした自分がいて、それが勝手に歌になるだけのことであり、スカッとした歌もあれば、こむずかしい歌もある。ほっぷすてっぷの歌もあるし、気まま。気まま。

投稿者 Blue Wind : 09:08 AM | コメント (0)

遺伝なのかも・・・

サンクチュアルな感性というものは、もしかすると遺伝なのかもしれないと思う。母から子へ、子から孫へという具合に。なぜ急にそのように思ったかというと、自分の家庭環境というのは、特に神社やお寺というわけではなかったけれども、まるでそういう家庭で生まれ育ったのと同じくらい、ごく日常的にそういうものを教えられて育ったからだ。つまりは、聖なる領域というものは厳然として存在し、それを当たり前だと思って育つ。祖母に言わせると、6人いる娘たちの中で、そういう感じ取るパワーが一番強いのがあたしの母であり、孫の中でもあたしが一番そういう感性が強いらしい。そういうわけのわからぬ信念のもとに、祖母や母に連れられてあちこちの神社や仏閣をお参りしたり、それこそ近所に教会ができたといえばそこへ通わされる。つまりは、特定宗教というわけではなく、そういう霊感というか、修行というか、そういうものを子どもの頃から仕込まれる。自分としては、そういうのはどこかババクサく、それでいてそういうものから逃れられない自分というものがあり、それはある時不意にひょっこり現れる。すでにうちの人たちの場合は慣れているために、知り合ったばかりの頃は、自分のわけのわからない部分を怪訝そうに思っていたような気がするけれど、今では当たり前のように思っているみたい。
祖母はそれこそ本ばかり読んでいる人だった。ほとんどが宗教関連。そして、ふら〜っと旅へ行く。不思議な人だった。年寄りだからと思っていたけれど、若い頃からそうだったらしい。母は、どちらかというと派手な美人で、そういうものがあるようには見えない。ところが、いざとなると強烈。これは説明できない。ごく日常的にそういう人たちに接していると、どこか感性が違ってくるらしい。だから、大学でカトリックの大学へ入った時、まるで違和感がなかった。そこには日常的に神さまがいて、聖なる領域が厳然として存在している。そして、学生はそこへは入れない。眼に見えない壁がある。自分はただそういうものを雰囲気として察知するという生活。それは狂信的ということとはまるで違う。つまりは、聖なる世界を察知する能力なのかもしれない。いわば、動物的本能かもしれない。動物には人間にはわからない能力があり、行動する。これは、知覚できる可視範囲や嗅覚が違うからなんでしょうし、サンクチュアルな部分を察知する能力に個人差があるのも、実はそういうことなのかもしれないとすら思ってしまう。男の人にもそういう部分はあるんでしょうけど、自分の場合は、そういう能力は母系のようで、だからたまに冗談で巫女体質などと言われるような気がする。
そういうわけで、自分の場合は、それこそそういう家庭環境で育ち、それは金を稼ぐという世界とは別に存在し、特に自分の場合は働いたこともなく、「空はどうして青く見えるのだろう」などということから始まり、人間の知覚や認知に興味を覚え、研究生活へ入る。いっそのこと出家したほうがわかりやすいような気もするけれども、それも自分の道とは違うらしいし、世界というものがいかに謎だらけなものかを子どもの頃から教えられて育ったために、そのごく僅かな部分でも知りたいと思うのは当たり前なのです。そして、うすらぼんやりしながら子育てをし、科学者の街に住み、子どもと月や星の話をし、歌を詠む。昼寝用の哲学書。ダンナは医者。誰かの死が日常的に落ちている。ポケベルが鳴ると、またか、って思ってしまう。旅行の時期すら、誰かの死を計算していたりして・・・
そういう中で、それこそ今度は狂気から上位概念。ネットをやってもこころのウェブ。まさしく”本物”の皆さまがやって来る。あまりにも強烈。朝からヒマがあれば、BBSにおけるカウンセリング・サービス。そういう中で短歌。一日中、サウンドを聴いている。未読本や未開封CDの山。なんて人生は短いのだろうと感じてしまう。

ある意味、アートな感性というのは、こういうサンクチュアルな能力に左右されている気がすることがある。つまりは、努力で補える部分と努力では補えない部分があり、そういう壮絶なメンタリティに耐えられない人たちも、アートな世界の人たちには多いのは当たり前のことだ。それだけ聖なるパワーというのは大きい。
詩ですら、魂の深いところから・・というでしょ?だから、魂の汚い人たちには美しいサウンドは響かない。信仰心のない人のクラシックなんて何のために演奏しているのか、ちと理解に苦しむ。それはクラシックだけではなく、ポップスだろうと、アフリカのサウンドだろうと同じ。どこか、音楽に限らず、アートは宗教とは切り離しては存在しないらしい。音の中に魂を聴く。文字の中に魂を聴く。そういうものは、知識では補えない。感性というものはそういうものであり、知能と知性の違いにも似ている。

要するに、わからないことだらけだから、学問やアートがあり、すでにそれは自分にとってはごく日常的な出来事であり、それがどのような発露につながるのかはわからない。それこそ才能というのも人それぞれなんでしょうし、そういう言の葉を凌駕した部分がもどかしいから、何かで表現しようとするのかもしれない。単なる石の庭にも、深い人生観がある。それと一緒で、自分の人生そのものが石の庭だ。残念ながら自分には下手な歌を詠むくらいしか能がないらしい。それでも、娘の中に何かが伝えられていくのかもしれないと、この頃感じる。赤ちゃんの頃から絵を描く。誰に似たのかと思ってしまう。おそらくは姑さんのほうの血なんでしょうけど、手先の器用さや絵の感性はすごい。上手とか下手という部分をすでに超えた何かがある。

あたしって、ヘンだよなあ・・・
あまりにもヘンだと思うのに、あまりにも普通だ。
ごく普通にサンクチュアルな世界を行き来できる人たちには、特にめずらしい感性でもないらしい。それでいて、ごく普通の生活をしている人たちからすると、ちょっと変わっているらしい。変わっていたとしても、人には運命というものがあり、あの親から生まれ、こういう自分の変わった人生があり、さらにそのあたしから生まれた娘。初めて会ったのに懐かしい人たち。何度言葉を重ねても理解しあえるものが何もない人たち。誰にも理解されないまま、ごく普通の日常というスパイラルは続く。

投稿者 Blue Wind : 02:31 AM | コメント (4)

February 21, 2004

アングラの下にアングラ

こりゃ、アングラな人たちに何を語っても無意味だと思って飛び出せば、もっとすごいアングラ。一番困るのは、自分たちがアングラな社会に棲息しているという事実に気が付かない人。つまりは、光を知らない。つまりは、信仰心が欠如しているために、何を語っても無意味。つまりは、権力構造化された社会の中でしか価値判断のできない人たちのことかもしれない。だから、そういう社会では権力には権力というわけではないでしょうけど、とにかく潰しあいか馴れないしか存在しない。

あらし騒動。発端は忘れた。実は、自分でも知らないうちにアングラの下にまだアングラ闘争が存在し、だからこそ、ネットでは匿名とかね・・・男か女かもわからない。なんでそんなくだらないことをしているのだろうと不思議に思ったけど、あの、壮絶さを眺めたら少しだけ理解できたような気がした。

あたしのつおいところは、歌をけなされても死なないということだろう。もともと短歌の人ではないから、歌が下手でも気にしない。いまだに『サラダ記念日』も読んだことがない。つまりは、それくらい興味がない。今でも、他人の歌には興味がないのかもしれない。

偉そうなことを言うのなら、賞の一つを取ってからにしろとかさ・・・あほだと思ってしまう。誰が詠んだ歌でもよいものはよいし、単なるテキストとして眺めれば作品がすべてだ。自分のサイトに何を書こうと勝手だ。いやなら読まなければいい。要するに、いちゃもんつけに来るだけなら来なかったらいいでしょ?でも、いちゃもんつけたいから来訪するらしい。よく知らないけど。

あたしに言わせてもらうと、永遠のベストセラーは聖書だ。これをしのぐような作品を書いてからならゆるす。でも、大抵は無理な気がするけど。信仰を謳った作品も多いけれども、信仰心のまるでない人がアリアを歌ってどうするのだろう?意味なし。退屈なだけだと思う。つまりは、努力で補えるところと補えないところがあって、その部分を感性と呼ぶのかもしれない。つまりは、価値なんてものは後からつくものであり、それもニーズの問題だし、一応、定価というものがある社会に生きているから、その都度、時代に応じて価格変動があるということを忘れている人たちが多いのかもしれない。それこそ貨幣価値も変わるだろうし、価値観なんて人それぞれだし、競りというかオークションというか、値があって値のない売買もある。つまりは、それがほしいかほしくないか、というだけ。ある人にとっては単なるゴミでも、ほかの人にしてみれば得がたいものなのかもしれないし、本当に世の中なんていい加減なもののような気がする。

それくらい貨幣価値について鷹揚になってしまうと、ますますすべてがどうでもよくなってしまう。ネットで歌をアップしていて、常に胡散臭いものを感じる。こう、いつも仲間とかさ・・・なんでそんなことしか思いつかないのか不思議なのでございまする。
つまりは、権力がほしいのでしょう。たくさん人を集めるのも、自分がある種の権力がほしいからであり、そういう人間は気に入らなかったら誰かを追い出す。それでいて力のあるものにしがみついていたい。それを自分は汚染と感じます。

ネットでだけ歌をアップしていたら、まるきり結社などには関係ないから気楽でしょ?つまりは、生きるに必要のないお付き合いだから。これが、現実にお弟子さんを取ったり、金にしていこうと思ったら、それこそ縄張りではないけれど、たくさんの知識も必要かもしれないし、教えるということは大変なことだもの・・・だから、あれもこれもと知っていなければ、となってしまう。
自分だって、自分の歌をいざ出版するとして、知り合いに配ったとしてもどれくらいの人がそれに値打ちを感じてくれるだろう?それなりに読んでくれそうなところにしか配らないけどね。自分の場合はまだマシかも。本が好きな友達が多いから。一冊くらいひまつぶしができると思って読んでくれるかもしれないし、放置されるかもしれない。でも、売ろうという意識がなかったら、まるで発想が違う。好きな人たちにだけ贈るとか、パブリックなところに送るとか、売るなら大学の購買会とか。聖心の中だと外から入るということが考えられないから安全地帯だ。そこに置かせていただいています、といえば、興味があれば読んでくれるかもしれないし、忘れてしまうかもしれないし、それこそ何かにゆだねる気持ちしかない。つまりは、そういう歌を読まないとダメなんでしょうし、それでいて、そんなことをクソマジメに考えていたら人生はあっという間に終わってしまう。つまりは、わからないことだらけなのだから、今を思いつくままに気ままに詠うしかないではないか・・・

が、しかし・・・・・歌が命とかさ・・・・・結構、大袈裟な人たちも多いような気がする。そうすると、ちょっとけなされただけで死にたくなるとかさ・・・・・・あたしのような平凡な人間には理解できそうにありませぬ。何年やっても下積みとか、才能はあっても芽をつまれた人とか、かなり汚臭が漂う。詠んでいるだけなら関係ないと思うけど、そういうアングラ意識というか、ちょっとでも誰かに評価されたいとか、そちらが勝つとそうなってしまうのだろう。それこそ自分に酔いしれているだけのような気がする。それでも、それが楽しいから苦しんでいるのだろうし、プライドに思うことは人によっても違う。

これだけ書くからまたけちょんけちょんに言う人も出る。当たり前。それが面白い。そこを軽やかにほっぷすてっぷじゃんぷして毎日詠む。そういう重圧があるから、ぜいぜい言いながら詠んだりして。少しくらい大袈裟なプレッシャーがないとつまらない。だからといって、他人の歌についてどうこう書こうという意志もない。「データは自分のもの」。誰が何を言おうと、歌は自分のもの。

アングラの下にまたアングラが・・・・だから、あんなにややこしいのだと気づく。歌壇から消えろと言われたとたんに、未来のほうにもサイトがリンクしてある・・・・うぅ。もう、上のほうになると大変なんだろうね。オトちゃんを抱っこしているほうがやすらか・・・・それでいて、悪魔の歌を未来には贈りたい。商業出版でのし上がろうという人たちへのエールか?そういう場所も必要なんでしょう。すでに6月号分まで送ってしまってあるので、のんびり書かせていただきます。隠れ家で。検索にも引っかからないようにしないと。つまらない知識が役に立ったりして。それでも、面倒だからパスワードをつけようかな。自分でBBSをアップできるメリットは、ハッカークラスにならないともはや自分のBBSを発見できないということかも。毎月、URLを変更してもいいし・・・
そこまでやる意義を感じたことはないんだけど、そこまでやらないとダメなんだろうか?

投稿者 Blue Wind : 02:16 AM | コメント (0)

February 18, 2004

母校の方針なのです・・おそらくは

もう・・・ネットのヘビー・ユーザばかりを相手にしていると、まるで話が食い違ってしまうことに気が付いた。今の自分の状況をかいつまんで説明すると、彗星集へ声をかけてくださったのは加藤先生なんだけど、草の根歌人を応援してくださっているのはルドビーさん(小平神父さま)で、自分がネットをやめるか、一部のコンテンツのみのアップにすれば彗星集へ上げることに何も問題はないわけ。ところが、小平先生に、BBSに、「今年もりんさんの短歌を楽しみにしています」って書かれたら、やめるわけにはいかないでしょうに。つまりは、関係性という点で、自分の場合は母校との関わりのほうが深いので、そういう意味ではどうやってもサイトをやめるわけにはいかないのです。

そこに、歌壇というのは、岡井先生はいまだにメールはお使いにならないらしいし、ネットは宇宙だと思っていらしゃる人とか、中には題詠マラソンに参加するためにネットを始めたという人もいるし、そこへいきなりネット歌人のことやインターネットについて話してもまるきり通じないというのが実情なのです。ややこしい。
それで、どうするか、という話し合いでもとにかく用語も通じないし、ネットの効力(アクセス数)などを話したら、やはりもっと積極的にネットを利用するべきだと思う人もいるかもしれないし、それでいて、個人サイトへの発表は加藤先生はかまわないという話なんだけど、仲間うちとしてはすでに見てしまっていたらそれは選者よりも先に弟子が見ることになってしまうから困るとか、いささか事情がややこしくて。説明するだけでも大変だし、自分の立場もあるし、選者としての加藤先生のお立場もあるし、とにかくややこしい。

すべては、これからの活動らしく、それすらごく一部の人たちだけが進めようとしているわけで、混迷中。その中で、自分はサイトが作歌の場でもあり、コミュニケーションの場所なので、そういう意味では、原稿用紙に向かって書くタイプの歌人ではないから、とてもとても困るわけです。

それで、カトリック系で歌を詠んだり、詩や賛美歌の歌詞を書こうとすると、母校が命。それで、自分も本気で今年の夏にはアシジへ行こうと思っているし、それでいて、加藤先生はお忙しいけれども、歌集を出す、あるいは、歌人として自立する厳しい道を歩むのならお手伝いします、というのは親切心からなのです。ですが、自分はまだ子どもに手がかかるので、まだそういう本格的な活動は無理だと思います、と語ると、甘えていると思われてしまうのかな・・・それもまた説明できず、母校の方針としては、子育てを優先させなさいというか・・・

もうややこしくて。おそらくは自分の立場を理解してくださる人は簡単に理解してくださると思うんですけど、そもそもこう体質というか、信仰というか、いろいろな部分で語るのも大変なような気がしています。
というわけで、言葉の悪いサイトだけど、アングラな人たちの思うようなことは何もないのです。おおまじに。ただ、どうしても旧い体質というのが残っているのは、どこでも一緒なんじゃないかな・・とは思うんですけど、母校の指導を無視はできないあたし。

(白石優子)

* テキストはテキストとして楽しんでくださることを期待します。(希望・・)

投稿者 Blue Wind : 11:37 AM | コメント (0)

タダで宣伝してくれる来訪者

だんだんわかってきた。良くも悪くも。どうして、最初、加藤先生が、「『彗星集』でやっています」と言えば大丈夫とおっしゃっていたのか、あんなにガツガツ賞を取ることに熱心なのか・・・そして、もう10年くらいそうやって励んでいても報われない人のグチとか・・・つまりは、あれ、なのね。いわゆる、誹謗・中傷、難癖。
そうやって言われるのがいやだから、あたしは歌評などは書かない。
などと言われれば、「歌評書け」って言われること自体が羨ましいんだって。やれやれ・・・
それで、『彗星集』の人たちが、どうしてあのように初出にこだわるのかも。
つまり、歌壇とはいちゃもん、なんくせの社会なのだろうか?

自分はまだ作歌歴も浅いし、数ヶ月前までは岡井とか加藤と言われても名前も知らない。単に、佐々木さんの短歌の入門書を読んで、「こういう歌もあるんだなあ・・」という感覚で結社も入った。で、自分の歌を選者に送り、選歌してもらう。後で知ったのだけど、岡井さんの場合は、10首送ったら5首を選んでくれるんだって。だから、ふるくさいタイプとか口語タイプとかあれにこれにとてきとーに選んで、この選者だったらどちらを選んでくるだろうか、という素直な好奇心しかない。
伊藤さんでもどこかに書いてあったけど、有名な歌人でも生涯に2,3首、「これ!」という歌が詠めればよいらしい。とすれば、まだあたしは作歌歴も浅く、ずっと気ままに詠んでいただけなので、まだこれからの人だと思っている。だから、そういう自分の歌の指針を考える上で、ちょっと歌を送ってみようかな・・というか・・・
そういう意味で、いくつか結社へ入り、選者さんとの歌コミュニケーションというか、要するにテキスト系のやりとりを望んでいるわけで、特に一緒にお酒を飲んでほしいとは思わない。だって、ちびがいるし、あちこち出歩く気はない。
そうやって語ると、「カルチャーセンターと一緒にするな」と言われる。

あたしも自分が研究長いから、結局は自分でやるしかないことくらいは知っている。加藤氏だって、各人が歌人として自立するまでのお手伝いができるのは最初の2,3年と言っている。自立ということがどういうことなのかわからないけど、とりあえず賞を取ったり、歌集を出版したり、そういう方面でのことを言っているのだろう。まあ、そういう意味で、世に出るというか、それで食べていけるようになりたいから弟子を長くやっている人たちもいるのだろうし、そうやってやっていても世の中は来れども来れども後輩ばかり。芸能界でもパッと出のアイドルのほうが世に知られる。つまりは、そういうアナウンス効果がなかったら商売にならないからであり、高く売るために宣伝費も使うのだろうし、そうやって考えると、結社というのは一つの芸能界なのだろうか?

マザー・テレサは有名人だけど、大金持ちではないと思うけど。それよか、他人の葬式で名刺交換しているような人たちを見ると鬱々してしまう。一体、あんたたちは何しに来たのよ、ってか?
つまりは、何かそういうメリットがなかったら、忙しい中、葬式にも出る時間がないという人たちが、案外、世の中には多いのかもしれない。大衆を相手にする仕事ってそうなのかも。同じように音大を出ても、単なる嫁入り道具にしている人たちもいれば、その先を目指して活動する人たちもいる。でも、メジャーじゃなかったら、結局、コンサート行っても身内とお弟子さんとかね・・・せいぜいそういう感じ。あれではチケットを売るほうが大変ではないかと思ってしまう。
こんなふうに書いたらあれだけど、歌集も親類縁者、図書館、友達に配るだけでもそれなりに値打ちがある。売ろうと思うからややこしいわけで、売るのは大学の購買部や地元の本屋さんとかね・・・後は結社の関係になるのだろうか? 第一、近所の大学の購買部へ行ったけど、短歌関係の本はなかった。何でだろう・・・大学でしょ?一応・・・って思ったけど、つまりは、歌葉の歌集でも加藤先生に買えって言われたから買ったけど、そうじゃなかったら買わなかったと思う。まだ、短歌関係の未読本がおっそろしいほどあるし・・・論文も含めて。論文を詠むのは歌評を書くためではなく、単なる参考書。つまり、レトロな短歌についても詠んでみたいから。

有名税って言うけれど、世の中はタレントや有名人は大体がボロカスに言われるために存在しているような気がするけど。もちろん面と向かって言う勇気のある人たちがどれくらいいるかわからないけど、人気が下火になってくると、とんでもないことをしでかす芸能人もいる。つまりは、そうやって常に誰かの話題になっていないと金にならないから。
だから、誹謗・中傷がたくさんあるほうが売れる。人気稼業ってそうもの。

以前、もうまるでめちゃくちゃに誹謗・中傷、怒鳴り込みではないけれども、あらしが発生していた時にもそうやって言われた。つまり、そうやって反応があることがすごいらしい。どんなに書いても、まるでインパクトがないケースも多いし・・・特にネットなんてそうだ。匿名の世界だから、おっそろしいサイトもたくさん見てきたけど、なんかインパクトがないのよね。にもかかわらず、なんでうちのサイトだけがこんなにインパクトがあるのか不思議だ。
ジャズさんに言わせると、面と向かって言う勇気がないかららしい。そういう人がいるから、このように駄文を書く張り合いがある。だから、出版物でも売れるんだろうと思うけど。そのように考えたら、誹謗・中傷をいっぱい言ってくれた人には感謝しないとダメなのかもしれない。「タダで宣伝してくれて、ありがとう」って。

ってことは、ボロカスに言われるような歌ではないと金にはならないのだろう。そういうのを詠んでみたいけど、あかんねん。神父さんに叱られない程度にしないと・・・

投稿者 Blue Wind : 12:16 AM | コメント (0)

February 17, 2004

受難

歌壇や結社が白い巨塔だと言ったら、うちのダンナがせせら笑っていた。たしかに・・・本家本元は違う。昼間、加藤先生から電話がかかってきて、あまりにも元気のない声なので、何となく本当に心の底から元気がないのだということを知る。逆にこちらは快活であり、ますます元気。
「春樹さんにお会いしたら、へまさこは歌壇で暴れてるよ〜。」って伝えてくださいね。ってこと。売れると墓場の住人になってしまうことは熟知している。
このように白猫の周りには不思議な人たちがたくさんいる。

うちのダンナが真面目に訊く。「なんで短歌を詠みはじめたの?」と。今まで興味もなかったらしくそんな話はしたことがなかった。こちらも真面目に答える。「サイトでイラストが使いたくて、そういうサイトがあったから歌を投稿していたら、神父さんのサイトにお母さまの短歌がアップしてあって・・」と。それならよろしいということで納得していた。

うちは、真実の人じゃないとあかんねん。つまりは、宮本武蔵。つまりは、実力しか考慮しない。そういう冷たい世界。つまりは、そうでなければ、あっさり斬られることを知っているからかも。最初から結社に入って偉い先生について、ということでは相手にされない。それよりも草の根歌人を続ける。そういう中で本物を見つけろということなのかもしれないし、それこそ真実を見る。つまりは、歌なら歌だけ。名前など要らない。そういう真剣勝負の醍醐味。

白い巨塔で、研修医を終わったばかりで助手になる。腕だけだ。一度も大学病院を出たことがないというと皆驚く。大抵は、教授の言いなりで、あちこちへ飛ばされる。が、しかし、そういう経歴の裏側には過酷な現実がある。学会でシンポジストまでやって、国際学会へ行って、なおかつ学位がないのはうちのダンナくらいのものではないだろうか? わざと学位を出さない。逃げないように、だ。つまりは、うちのダンナくらいのクラスの医者に学位をつけて売れば高値で売れる。それがあまりにも悔しくて逃げようとすれば、どこまでも嫌がらせだ。奴隷以下。結核になっても使われ、ストレスのために突発性難聴になる。あんなところにいたら殺される。本当に殺されるところだった。発見がもう少し遅かったら、おそらくは本当に大変なことになっていただろう。偶然に救われた。
そういううんざりするような現実を救ってくれるのが、また患者さんとかね・・・皮肉だ。後1時間遅かったら亡くなっていたのに、あっさり止血する。ファイバー系の技術。うちのダンナのような平凡な医者が大学病院でこき使われるのは、それだけのことらしい。あんなヤツのためには働けないそう。でも、死んでいたはずの人が翌日ひょこひょこ歩いているでしょ? そうするとね、また働こうという意欲につながるらしい。放っておく。
そんなことより平凡に開業でもして、のんびり暮らす。そういうほうがいい。が、しかし・・・結局、かえるおやじと喧嘩したために、どういうわけか、いとこ弟子くらいになるんだろうか・・・かえるよりもずっと偉い先生に拾われて、学位がなくても好きなだけ金をやるということで、ほかの先生の倍の値段で買われた。かえるのところには金はいかない。かえるはげこげこ嫌がらせ。そうやって拾ってくれるのは、今はどこの病院でも経営難であり、金になる医者はほしい。それだったら、素直に開業したほうが・・と思うんだけど、また恩が出来て、しばらくはまたお礼奉公が続くのだろう。それは仕方が無い。だって、結核の時から世話になっている。普通だったら雇ってくれないと思う。が、しかし、治療しながら軽い仕事。命を救われたに等しい。

白猫はいつも優雅に微笑んでいなければならない。軽やかに微笑みながら、かえると喧嘩する。世間知らずと罵られ、それでも知らん顔。心の底から、あんたの世話にはなりたくないから。それを言っちゃーおしめえよ、と言われながらも言う。あんたがいなかったら、あたしはもっと優雅に裕福に気楽に天国なのよ、と言いたげに。だって本当のことなんだもの。あんたがいなければ、あたしは幸せなの、と言いたげに。だって本当のことなんだもの。本当のことを言うと怒る。そして、また疑心暗鬼と被害妄想で若い先生に嫌がらせが始まる。
まあ、かえるもかえるなりに大変なのがわかってるから、しらんかお。
どこまでも白い巨塔はえげつない。
かえるはかえるで、またつぶされている。
踏まないようにしないと。

が、しかし・・・・
加藤先生に声をかけられたら、喜ぶのが普通なのか?
たしかにうれしいけど、白い巨塔は間に合ってるから。それよりももっと気楽なほうがいいよね。歌人は素直に歌を詠む。
ネット歌人仲間も好きだし、最初にNHK歌壇で選歌してくれた心の花の伊藤さんも好きだし、こんなつまらないサイトをいきなりあちこちにリンクしてくださった塔の小林さんも好き。新人賞に応募した歌を見て、何となく覚えてくれていたらしい未来の殿さまバッタも好きだ。
なんかね・・・・本当の歌人という気がする。心の底から歌を愛しているというか・・・つまりは、歌しか読まないんだろう。そういう人たちは。

というわけで、いろいろあったけど、とりあえず、加藤研究室には室内のルールと秩序があり、あっさりクビになった。とりあえず、歌だけ送る。先日送った歌は、サイトにアップしていた歌なので、別に飯田有子さんの歌を読んで、その勢いで10首書いて送った。

ほんじゃ、加藤研究室は、そうやって新人イジメする体質なのか?ってことになるでしょ?
それを言われるとかなり精神的苦痛になるらしい。それで直接電話がかかってきた。そういう体質があることも事実だけど、そもそもが結社とはそういう世界らしい。同じ結社の中でも、岡井さんと近藤さんはライバル同士で、昔から仲が悪いのだろう。ってことで、あたしがいきなり近藤さんのところへ歌を送ったら、逆に歓迎されるかもしれない。

もう、うんざりなの。そういうのは・・・
そういうのがいやで歌を詠んでいる。

だから、うちのダンナが訊くわけですよ。どうして歌を詠みはじめたのか?って・・・・
草の根歌人、りん・ほととぎす。受難はつづく。

あ、心配しないでくださいね。加藤さんはジローさんになって白猫をバックアップしていってくださるそうです。だから、どういうわけかメル友になってしまったようです、はい。

ついでに告白すると、ドラマの白い巨塔は一度も見たことがないのです・・・おそらくは一生見ないと思います。

投稿者 Blue Wind : 03:55 AM | コメント (0)

February 15, 2004

ちょっとした反撃

やることが多くてかなわん・・・とは言いながら、自分はまだマシかもしれない。自分が家にいて子育てをし、ネットをやっているのは社会に対する反撃でもある。あまりにもかぼそい反撃かもしれないけど。世の中があまりにも育児や家事などを軽んじているからかもしれないし、自分の生育環境の中における親に対する意地なのかもしれないし、いや、おそらくはこの後半の部分が主な理由なのかもしれない。
自分が子どもの頃、一番友達がうらやましかったのは、「ふつうのおかあさん」がいること。自分の母は、どちらかというと仕事が命みたいな人だったから、今となってはあのような状態になり、老いた母に対して、「あんたの人生は」などと言う気力も残ってはいないけど、気力を振り絞ってでも言いたいことって誰でもあるでしょ?つまりは、そういうことなのだと思う。
それでいて、今の社会風潮ではとてもじゃないけど自分を理解してもらうなんて不可能だ。女性でも自分で働き、もっと保育所を増やして、というのが普通なんじゃないかな。自分の意見はまったく逆だから。子どもといられる時間というのは、一生のうちでごく僅かな時間だ。しかも、幼児期ともなれば今となってはあっという間に過ぎてしまった。そのうち親のことが煙たい年頃になり、あたしもいやでも子離れしなければならない時期が来る。そうなってから後悔したくない。だから、子どもといられる時間を大切にする。第一、自分を考えればわかるではないか・・・普通だったらもっと親に対する愛着というのがあるのが普通なんだけど、自分の場合には母に対する愛着がない。愛情がないわけではない。そりゃ親子なんだから。でも、愛着が欠如してしまっている。だから、いつまでたっても実家へ入り浸りの正反対の生活であり、逆に母が来ると疲れる。もう来ないけど。そうやって育てられた人はみな同じということにも気が付いたし、一つの人生観なんだろうな。

自分の場合には復学の権利というものがあり、かつオーバードクターでもあと2年間いられるために、いつでも研究に復帰することは可能だ。でも、しない。もしかすると80歳まで長生きしていたら研究に復帰するかもしれないけど、今のところ64歳くらいの寿命だと諦めているためにもう無理かも。
世の中はね・・・子どもが小さくて家にいなければならない、体が悪い、介護のため、などなどいろいろな理由で外へ出られない人たちはいるわけで、そういう中で社会とのつながりという意味ではネットは値打ちがある。つまらないチャット一つにしても、中には子育てのグチを赤ちゃん抱きながらチャットでぼやいていたり、そういうことがすごくストレスの軽減になる。だから、サイトをつくっても、BBSにりん・スクリプトとしてレスを書いているだけでも一種のカウンセリング・サービスというか、これも一つのご奉仕かもしれない。
獄中の聖バレンタインではないけれども、そうやって制約されて何もできない中でも彼はせっせと愛のメッセを書いていたわけで、それが今日にも続いている。短歌一つにしてもね、毎日せっせとつまらない歌を詠むことも立派な社会貢献と言われた。かなりバカにされたこともあるけど。家でネットやって、つまらない歌を詠んでいるより、教授の小間使いをしているほうが偉いと思われるらしい。は?なにそれ??
声を大にして言いたい。
ばっかみた〜い!!(うそうそ・・単なるふつーの主婦のひがみです。)

短歌にしたって、あれこれ勉強し出したらきりがない。自分としては、軽やかに微笑んで、セカンドアートを楽しんでいるというほうがオシャレな気がするんだけど、どうもそれでは今の結社などの風潮には合わないらしい。詩歌の世界というのがいかに親父社会なのかということもわかってきたけど。セカンドアートとバカにされるところが自分にとっての短歌の値打ちなんだけど、一生懸命そういうことを言っても無駄だろう。
歌は風であり、社会であり、生活だから、自分のライフスタイルというものを詠むしかない。生き様での反撃だ。

---- どうしてマリアさまなんですか〜?
---- 救世主の母だからです。

あー、なつかしい。
小平房子さんは強かった。結社に入って、初めて理解できる。結局、戦争に負けたからセカンドアートと言われると悔しいだけのことであり、日本の文化の否定がタブーの時代での出来事。海外に行っちゃうととたんに日本びいきになってしまうことにも似ている。日本にいる時には不満タラタラなくせに、海の外へ行くとやたらと日本人ということを強調したがる人たちも多い。
クリスチャンでも歌を詠む。今は当たり前のことなんでしょうけど、年代がね・・・違うから。今でこそ海外へ行くと日本人だと思われたほうが扱いがよろしいけど、バリニーズと思われたらバリの免税店の姉ちゃんの扱いの冷たいこと冷たいこと・・・それが現実なのね。
というわけで、短歌なんてものはセカンドアートでいいのさ。(たぶん)

投稿者 Blue Wind : 02:27 AM | コメント (0)

February 14, 2004

アングラへ逆戻り?

いやはや、塔短歌会に入った時とはえらく形相が違う。ほかの選者欄については知らないけど、『彗星集』というのはどこかの研究室みたいな雰囲気。面倒だったら岡井さんのところならフリーパスで歌を載せてくれるらしいという情報をキャッチ。(誤報か?) もっと面倒だったら、毎月選者を変えて気ままに投稿するとかね・・・確かに、結社というのは濃くも淡くもなるという意味が何となく理解できたのでした。
塔は常識的かもしれない。親子競詠などを見ていると、一番のライバルがお母さんという雰囲気は楽しい。10年に一度は歌集は出すものみたいな見出しを見ると和む。未来?こっちは徒弟制だから、出版する時には先生に原稿を見てもらわないとダメらしい。歌を詠むだけなら先生なんて要らないでしょ?お母さんが詠んでいてそれにつられて詠むとか。
最初に加藤研究室に入るメリットは、ここに1年もいたらほかが天国に感じられるということかも。でも、結社も人付き合いを始めたら、どこも似たようなものなのかも。だから、投稿するだけとか、購読するだけという人がいるのかも。
歌会を知らない自分としては、なんで初出というものにこんなにこだわるのか理解できなかった。つまりは、舞い散る言の葉の世界だから、歌は使い捨てなのね。だから、歌会は自分の歌の力量を試す舞台であり、だから実力を出し切らなければならないらしい。たまにはそういうテンションが高いほうが楽しいのかもしれないけど、常にテンションが高かったら精神がズタボロになってしまいそう。だから、他人の歌を読まない。かったるいから。話題性のある人の歌だったら読むこともあるんでしょうけど、あたしもヘンだと思っていたのよ・・・来る日も来る日も他人の歌を読み続ける。考えただけで面倒になりそうだけど、本当に歌の好きな人なら続くのでしょうし、歌を伝えていこうという気概がないと続かない。

そういう裏側を見てしまうと、こんなんなら研究室に戻ったほうが生産的なような気がするけど、そういうのが面倒だから家にいる。本末転倒だ。それでいて、あまりにも自分がこういう社会に慣れすぎていることも知っている。矛盾。これなら神父さんのところでのんびり詠んで、それを自分で出版したほうが生産的なような気がする。気持ちの上で。

そのうち悪魔の歌を詠んでしまいそうな気がする。毒の世界。元々が毒々しいから、この毒をバネに天使の歌が生まれるのかもしれないし、地獄を眺めるから自分が幸せということを感じるのかもしれないし、それでいて研究室なんてものに顔を出すのは最初の1年くらいだ。後は先生に用事がある時か、研究会がある時しか行かなくなる。来れども来れども後輩ばかり・・・という退廃的な気分に陥るよりも、上を眺めていたほうがマシなんだろう。アングラ。

楽園は遠い。

投稿者 Blue Wind : 07:20 AM | コメント (0)

February 13, 2004

退廃

何となくつまらない。この退廃的な気分をどうやって説明したらよいのかわからない。最初に歌稿をポストに投函した日以来、どうも自分の短歌熱は下がってしまったような気がする。これは、恋愛から結婚へ移行した時期のような退廃的な気分にも似ている。なんだか、こう、のんべんだらりと何かがずっと続いていくような・・・それでいて人生は山あり谷ありだから、一人で生きる苦労を考えると、二人のほうが生きていきやすい。う〜ん・・・・それとも違うな。要するに、世間ということなのだと思う。独身時代だったら、実際には一緒にいて特に誰も何も言わなかったけど、それでも夫婦ではないから、なんて言うのかしら・・・やはり帰属が違うのだと思うの。別々の家庭の一員というか・・・それが結婚したとたんに何から何まで一緒の扱いとなる。それが不幸かと言われれば決してそんなことはなく、今の生活に何か不満があるわけではない。

例えば、歌人としての意識一つにしてもきっと人それぞれなのだと思う。でも、一人で詠んでいても歌人とはなかなか扱われないような気がする。ネットだけでやっていても似たようなものかな。それが結社へ入り、そこに帰属が発生したとたんに、世間の扱いはとりあえずは歌を詠む人たちの集団の一員ということになる。
とりあえず、新入りということで、もっとがんがん言われるかと思ったけど、予測を下回るものであった。もちろんこういうのは、ボスの人柄にもよるのかもしれないし、構成員の性質にもよるのかもしれない。ネットみたいにがんがんに食いついてくるような手ごたえはないな。雑誌に投稿したり、評論書いたり、タダ働きの仕事は多い。やろうと思ったらいくらでも仕事はある。それでもそのネタに対してのリアクションとなると実際にはどうなんだろう。

サイトに歌をアップする。それは発表扱いになるか?
とりあえず、歌葉系は発表扱いにはしないらしい。ただし、それ以外のところは知らんということで決着。ネットでも、公の場所であれば発表扱いになるし、実際のところ、彼らにとっては純粋にサイトとは発表の場らしい。よく考えればそれはそれで当たり前なんでしょうし、もっと突っ込んで言ってしまえば、結社など要らないということになってしまう。アクセス数の高いサイトをつくり、そこに歌を貼っておけば、おそろしいほどの人の目には触れる。CGIを利用しているので、FFFTPの使い方さえおちびに教えておけば、というか、教えるほどのことでもないような・・・だって、起動してクリックすればよいだけにしてあるから、あたしが仮に今死んだとしても、ローカルからおちびがサーバにアップすれば、自分のサイトはずっと存在するわけで、自分の歌は常にそこにある。しかもアーカイブに保存される。来訪者があるかどうかまではわからないけど、数百冊の歌集を売るよりも確かなものがある。
結社誌の発行部数が1200冊程度として、しかも会員と歌壇にしか配布されないために、専門家や会員外の人の目には触れない。サイトのほうが遥かにアクセス数で考えたらマシかもしれない。つまりは、歌人以外の人たちのランダムな来訪が期待できるということにネットの強みがある。歌集でさえ、興味のある人しか読まないだろうし、それを考えると歌壇というのがいかに狭い世界であるかわかると思う。
こういうのんべんだらりとした世界で友好関係を築き、そこであれこれ歌を発表していく。結社でもいろいろ気風が違うということもわかったし、基本的には選者というのはリーダーだから、それぞれに考え方も違うし、一度その下に入ってしまったら徒弟社会だから、ほかの先生たちのことは関係ないのかも。とりあえず、参考文献をいくつか提示されて、それを参考にしながら研究テーマを探すことにも似ている。自分に与えられたテーマは、おそらくは結社とインターネットとの融合およびニューウェーブ的歌の支持ということなんだろう。自由はないけれども、そこはそこはかとなく安全地帯であり、一人で模索するより先生に習うほうが道筋がある。

同門というのかなぁ・・・・そういう中ではいくら意見が対立してもいいわけさ。そういう意見もあれば、こういう意見もあるというほうが自然だ。あたしはあの人とは仲が悪いのよといっても無駄だ。だって、同門なのだから。叔母さんといくら喧嘩しても無駄なことにも似ている。
歌を詠むより、オトちゃんと遊んでいるほうが楽しいかも。

投稿者 Blue Wind : 04:08 AM | コメント (0)

February 11, 2004

イタリアの太陽、そして月

そろそろ自分が本気で何かをしようとしているのだとしたら、登場人物を実名で書かなければならないのだと思う。でも、世の中とはかったるいところで、例えば聖心の学内では世間話のようなことでも、外の世界へ出てしまうとそこは異次元空間であり、貝のように押し黙ってしまう。そういう世界を蝶のように気ままに飛び回っていたわが青春時代を振り返ると、やはり、気楽に娘と一緒に遊んでいられることを喜ばなければならないのかも。つくばという田舎町においてはすべてがうららかで、すべてはどこかどうでもよいような出来事であるかのように感じる何かがあって、ショッピング・センターの隣に本物のロケットがちょこんと聳え立っている姿を眺めていると、自分の鬱々とした気分がとても小さいことに感じられ、修道院とはまた違うけれども別の意味で自由がある。
自分は田舎町の普通の主婦だ。もうかつての偶像崇拝的な自分は死んだ。「自分のことを客観的に見るな」というセリフは若い頃のダンナが言っていたセリフだ。それはある意味彼自身を救うおまじないのような言葉なのかもしれないし、あまりにも何もかもが自然体な人なので一緒にいると安心感がある。でも、この魔法にかかっていると、たまに他人に苦痛を与えてしまうことがあることに、後になってから気がつく。そういう時には、心の中で申し訳ないと思って去る。それにより、自分の友人関係は、おそらくはこの魔法の言葉の中で安穏としていられる人たちが多いような気がする。
だから、自分は固有名詞を嫌う。それよりもまるでサイトでハンドル名を使うように、ニックネームで呼ぶことにしている。中には、そうやって呼ばれていることにまったく気がつかない人もいるでしょうけど。これは、学生時代、隠れてはすべての先生にニックネームを付けて呼んでいた習慣の名残かも。
面と向かっては呼ばないけど、そうやって学生間で呼ぶのはある意味先生に対する親しみのようなものなので、案外、ニコニコしながら自分のニックネームを喜んでいる先生もいた。当然、自分も学生時代はニックネームでしか呼ばれたことがない。先輩からも後輩からも一緒で、ある日、新入生に「先輩」と呼ばれてたしなめたことがある。以後、この習慣はずっと続き、そうやって呼ぶのが当たり前の人たちと、ものめずらしい人たちとがいることに気づく。

世の中の人たちは勝手だ。神さまの権威をお話しても素通りする。信仰心がないというのはそういうことだ。それよりもどうして神さまが自分に何もしてくれないのかと怒り出す人も多い。信じていないということはそういうことだ。彼らが畏れるのは神の権威ではなく、聖心の卒業生名簿だろう。ずらっと並んだ卒業生とその保護者名。
学内は安全地帯だ。教会には神さまがいる。使徒職の人たちは学長さまをはじめとしてご奉仕。そういう中で精神の自由を学ぶ。それはいわばクリスチャンの反骨精神なのかもしれないし、決して権威にこびない人たちにより秩序が保たれている。ところが、この秩序は、一歩外へ出てしまうとたちまち闇に閉ざされる。そうならないように、自分で自分を守らなければならない。だから、いつも軽やかに微笑み、常に貝にならなければならない。
そういう中でも、自分は自由奔放だ。それでもそれは勝手に自分がそうやって思っているだけで、実は違うのかもしれない。自分は弱い。例えば、自分は普通の主婦だ。働いたこともない。世間の人たちは馬鹿にする。それが悔しいと思い、一生懸命にがんばっている頃もあった。でも、その道はある日突然閉ざされた。何もかもが順調だった。「ほらほら、あたしだってやればできるのよ」みたいな気分だったかもしれない。そして自分を守っていてくれた人たちは次々に亡くなる。そして自分はただの自分になる。

そして、自分は思った。
潰すなら潰せ、と。
あまりにも大袈裟だけど、弱い自分になったとき、そうやって思った。
でも、世の中は逆だった。

自分はとても不幸な人になってしまったがゆえに、自分の幸せの数の多さに気がついた。
それでいて、自分は不幸な人ではないらしいことも初めて知る。
「まあ、りんちゃんもネットをやってうんぬん」という話をされた。

頼む・・・・うまく説明できないけど、自分はネットが好きだ。そして、自分は草の根歌人だ。しろねこだ。りん・ほととぎすだ。短歌なんてつまらないでしょ?こんなの誰でも詠めるし・・・いつまで経ってもヘンな歌ばかり詠んでいるし・・・加藤よ、あたしの歌に権威を与えるな! こう、迫害されながら鬱々と詠んでいるほうが好きだ。誰か正直にあたしに言ってくれ、お前の歌はつまらない、と。そうすれば、あたしは次々と歌を詠うだろう。これでもか、これでもか、と、くだらない歌を詠む。

この夏、イタリアへ行こうと思っている。イタリアの太陽の下で歌を詠いたい。そして、いつか映画の中で見た巨大な月を眺めてみたい。ヴァチカンとアシジの違いを実感したい。そして、サン・ダミアーノと大聖堂の違いを実感したい。そして、アシジの丘に座る。

投稿者 Blue Wind : 02:35 AM | コメント (0)

February 09, 2004

白い巨塔主婦班

口語で詠むほうが短歌は難しいかもしれない。ストレートだから嘘がつけない。意味が伝わるってそういうことなのかも。どうして文語を使うかというと、伝わりにくいからかも。要するに、ストレートに言いたい時とやんわりとわかりにくく言いたい時とでは言い方が違うように、一種の使い分けのような気がする。なんて自分って正直なんだろう。

とりあえず、レポートを提出するように、歌をポストに投函した。まさしくレポートよね。何を送っていいのかまるきりわからない。結局、先に参考文献を提示してくれたほうが選びやすい。後になってから、これ、と言われも困る。でも、自分の迷った基準と、提示された基準とを比較すると、何となく目からウロコ。でも、迷っているほうが歌が出るような気がするけど、なんという矛盾なんだろう。あまりにも簡単明瞭、明々白々だったために、サウンドを変えてもどうにもならない。

結社?
白い巨塔。
でもね、大学病院に勤めていても、科によっては主婦班というのがあって、そこはあまり仕事をしない。仕事はしないといっても家庭という中からみると極めて激しい労働に束縛されている気がするけど、あちらから眺めると仕事をしない部類に入ってしまうらしい。
というわけで、白い巨塔でもいいわけさ。こう、自分が将来教授になろうとか、あくせく考えなければ逃げ場というものはありまして、結社を2つ入っているのも逃げ場。がんじがらめにはなりたくない。それでいていくらでも仕事はあるとばかりに、やはりねこの手か?
家庭は地雷のない安全地帯。好き勝手、おやまの大将、別名かかあ天下。いわば、自分のサイトというのは家庭のようなものであり、この世界では自分が管理人なのだから、好き勝手に書いている。

つまりね・・・
「メディアって何?」という質問に対しては、このように考えなければならないらしい。結社誌や歌壇、その他の総合誌など短歌を扱っているところはオタクの坩堝なわけ。そうすると逃げ場がない。だから、同じ歌をあちこちに投稿してはいけない。だって、「こっちのせんせーは取ってくれたのに、こっちのせんせーはダメって言ってたよ」ということになると、何となくややこしいでしょ?歌は好みがあるから、すべての人の選歌が一致するなんてことは稀だもの。そうなると、一生懸命に歌を投歌してもそこの先生の好みに合わなかったら取ってもらえないということもありえる。だから、選者のいる世界はややこしい。選者のほうだって、すごく律儀で真面目だから、自分の感性や見る目というのが大切なのかも。
逆に考えると、こっちではダメだけど、あっちでは評価してくれるということも充分にある。
問題は・・・・・自分がそこまで歌壇を知らないということであり、結社誌を比較してみたってぜんぜん雰囲気が違うのだもの。でも、知らなくても困らない。無責任というのは気楽であり、主婦を一度やってしまったらやめられないのに似ている。だから、要するに彼らがはちあわせしないようにすれば、8割以上の問題は解決してしまう。つまり、自分のサイトの場合は、オタクがやって来ない。来たとしても何も言わないと思う。だから、いわばプライベート空間。プライベートな空間は従って安全地帯となる。

はー、気楽。
未来へは投稿し終わったので、月末までには塔にも送る予定。何を送って、何が選歌されてされなかったのか、それもついでにサイトのネタにしてしまおう。おそらくは、そういうことがすごく今後の参考になるような気がするから。うちのサイトの使命は、自分の混迷とマヌケさを提示していくことにある。

投稿者 Blue Wind : 03:30 AM | コメント (0)

February 08, 2004

ネットではどこまでが既発表作品?

CGI歌人としては、自分のサイトにアップした歌まで既発表の歌になってしまってはかなわないと思いながらガイドラインを模索する。
加藤治郎氏に言わせると、『彗星集』に投稿する歌は自分が一番最初に見るものであってほしいという。過去歌を整理しながらのんびり投稿しようかなーというのでは甘いのだろう。投稿用の歌をバンバン書いてほしいというか・・・でも、自分の場合は、典型的なネット歌人であるためにそれは不可能だ。つまりは、すでにペンの代わりにキーボードを打つ。しかも、ワードが嫌いなのでローカルに置いておくという習慣もない。それよりも直接BBSなどのCGIに打ち込んだほうが遥かに速い。しかも、日記代わりに歌をアップしているために、いわばサイトのメインコンテンツでもある。また、他人のBBSで詠んだ歌も多い。それをコピペにより自分のデータベースに記録する。つまりは、サイトがノート代わりであり、メモであり、ペンであり、作歌の場であり、なおかつ鬱捨て場であり、コミュニケーション・スペースでもある。つまりは、とてもじゃないけど、メディアの一つであるという認識には及ばない。
というわけで、自分のサイトにアップした歌は未発表の扱いでもかまわないということになる。ただし、題詠マラソン、フォーラム、歌会、イベントなど公の性質の高いサイトへの投稿は既発表という扱い。同人サイトや同盟などに関しても、今のところ未発表という扱い?少なくても、個人サイトの場合には未発表の扱いというのがおおまかな分類かもしれない。

完全に雑誌一本でやっている人などにしてみたら、ネットはまだメディアの部類としては認識されていないような気がする。どうして加藤さんが自分の歌のことをご存知なのかと思ったら、去年、歌葉新人賞に応募したかららしい。あれだけの応募数の作品を真面目に選歌していたのだと思ったら驚く。ひらったく考えると、雑誌等でも話題になるほどのネットのイベントであればそこは発表の場なのであり、それ以外の個人サイトまではいちいち来訪していられないというのが本音なのかも。
このようにして考えると、『サラダ記念日』がいかに特殊かわかる。短歌というのはある意味今でも閉鎖的な世界の代物であり、総合誌とはいえ、本当の意味での総合誌となるとごく一部だし、新聞などに掲載された歌が結社では選歌されないこともあるなど酷くややこしい。結社誌はいわば会員制の大掛かりな同人誌のようなものだし、それとは別に同人誌は同人誌として別にある。
インターネットと既存歌壇との融合というのは本当にありえるのだろうか?

投稿者 Blue Wind : 07:35 AM | コメント (0)

February 05, 2004

野に山に咲く傍らにアスファルト道うねりて続く

眠っても眠りたりない夢の中「行って来るねー」吾子の大声
締め切りに追われる日々の遠かりし主婦暈けなおすことから始め
平凡な家族でいられるつくばかな外の風などしばし忘れり
針箱に旧き神社の鈴のあり吾子みし鳴らす記憶の木霊
宍道湖の霧に沈める夕焼けの淡きピンクの滲む湖水よ
現実はいつも誰かがイネガリテ妖精になる年寄りありき
風という流れの中には空気というわけのわからぬ代物のあり
野に山に咲く傍らにアスファルト道うねりて続く
強烈なウネリの中で微笑んでふゆうのなかは自由あふるる

投稿者 Blue Wind : 05:34 PM | コメント (0)

昨日の明日は今日

明日で歌を詠み始めてまる3年だな・・・などと思っているうちに、すでに昨日の明日は今日ということになってしまった。つまり、今日で初詠みから3年が経過したことになる。題詠マラソンにも参加表明。去年は、そういうのがあるのも知らなくて、途中から知ったけど、どこか遠くの世界の出来事のようでもあり、ぼーっとしていただけ。参加人数が多ければ抽選になるという話もどこかに書いてあったし、かと思えばテーマを決めて詠んでいこうという人もいるみたいだし、上級者もいれば初心者もいるということで、イベントとして考えたら楽しいのでは・・・ないかと・・・・思う。

加藤治郎さんの言葉を借りれば、結社というのは、「濃くも淡くもなるところ」らしい。最初は意味がわからなくて、影響が濃くなったり薄くなったりするのかしらとシンプルに思ったけど、そうではなく、たまに投稿するだけみたいに距離を置くこともできるし、積極的に批評を投稿したり、イベントに参加したり、師匠と顔合わせしたりみたいに接近することもできるという意味だそう。
そうやって考えると、世の中の人の集まるところはみな同じ。積極的に接近することも可能なら、適度に距離を置くことも可能。ネットも同じ・・・ただ適温というのが人によって違うために、距離感のバランスというのも難しいし、自分の場合は心理屋なので、どうもバカ丁寧かぶっきらぼうかどちらかに傾きやすいという行動パターンを特徴としている。以前もネタにしたけれど、概して、こういうタイプは人付き合いが苦手と思われやすい。これってわざとじゃないと思うのよね・・・単なる環境因子のような気がするけど。それとトレーニング。カウンセラーのトレーニングの影響なんだと思う。(注: 私は臨床は専門ではありませんし、カウンセラーでもありません。) どうにもならないくらいしがみつかれても、次の瞬間あっさり忘れる。切り上げ方が一番難しいらしい。100年の恋も1分後には消えうせるというタイプかもしれない。(ほんとか?)
本当か嘘かはともかく、因縁、怨念、逆恨みの世界だからね・・・そんなのことにいつまでも付き合っていたら、自分のほうが身が持たない。とことん人間不信などを移されたり、鬱々したり、ろくなことがないと思いながらも、ある意味、興味深い。なんでっかなーと思うことは、自分の精神を広げる。そのうち何も感じなくなってきてしまう。そうなると、ごく普通の人間関係というものの距離感が微妙に測りにくくなる。

そもそもが短歌などを詠もうというタイプは鬱々しているような気がする。そうなると、濃いか淡いかどちらか・・・あたしなんて、最初から歌は鬱捨て場と呼んでいたくらいだし・・・鬱々とした気分のほうがよい歌が詠めるような気がする。
結社が人付き合いの世界だとすると、ある意味、かったるいでしょ?
でも、あたたかい。
これってうまく説明できない。
そういう人々の鬱捨て場の中で構築された世界はあたたかい。それでいて、一度何かあると大変なのだろうなとも思ったりする。あくまでも想像だけど。

題詠マラソンのところで、所属結社・・・悩む。書いてもいいし、書かなくてもいいし、自己紹介してもいいし、しなくてもいいし、実名でも匿名でもかまわない。要するに、きちんと連絡のつくメルアドがあればよいらしい。所属を書いたら、帰属になる。つまりは、そこから出ているという感じ?それもちと困る。結社への接近という点では、自分は歌も投稿していないし、あまり人付き合いがあるとも思えないために、淡い。でも、所属した以上はまるきり書かないというのも気が引ける。これって、サイトのプロフ欄をつくる時と同じような感覚かもしれない。自分のことを書いてもいいし書かなくてもいいし、それでもサイトはあるわけで、ネットで知り合った歌人にしても、もしかすると所属結社があるんだろうと思う人でも書いてないことも多いし、書く以上は責任があるような錯覚すら感じる。
このノラクラとした感覚・・・・まさにあたしっぽい。
ネットにもっと上の人が出ないと、下手な歌を出しにくいではないか・・・
でも、大きな結社の気楽なところは、人が多いということかも。それよりも、いろいろな結社からいろいろな歌人が出てくるほうが面白いのだろうし、まさしくイベントっぽい。

「遊星」か・・・・
まさしく、遊星。
あっちふらふらこっちふらふら。
でも、そういう歌人も増えないとつまらないでしょ?
あの歌おもしろいな、この歌もいいな、などと無責任に思いながら、マイペース。
接近しては遠のいて、何となく浮いている。

投稿者 Blue Wind : 02:23 AM | コメント (0)

February 03, 2004

饗のわらじ

人生というのは、ひょんなことから流れが変わったりするものだ。
先日、結社の会費を払っていないことを思い出し、郵便局へ行った。半年間、単なる”購読会員”を続けてしまい、投歌しないのなら、最初の半年は本当に購読だけの会員だったほうが1500円浮いたのになどとせこいことを考えながら、ついでにほかの結社なども検索する。なんでもインターネット。
どうして投歌しなかったかといえば、何となく自分の歌の作風と違うと感じたからでもあるし、選者とあるけれど、一体どこの選者欄に投歌してよいのかちんぷんかんぷん。それくらい歌壇については無知であり、逆に、「結社とは読みを覚えるところである」と塔短歌会のサイトに書いてあったのを読んで、しごくごもっともなような気がして入会した。歌を詠むのは案外簡単なのよね。何でも57577の形にしてしまえばいい。ところが、どんな歌がよい歌なのかとか、いまいち自分はほかの歌人の歌を知らない。だから、今度はひたすらほかの人の歌を読むことに時間を使う。そのおかげで、テストというわけではないけれど、この前初めて歌会で選歌したけれど、そんなに的外れな選び方はしていなかったと思う。自分の歌についても、これはボツだなと思って出した歌と、これは案外いけると思って出した歌とではまったく反応が違い、それがあながち自分の考えと違っていなかったという点でほっとした。
そうやって歌を読み、それから短歌の入門書などを読む。なんかいつも順番が違うような気がする。自分の場合は、何となく発作で詠み始めてしまったので、詠むだけなら知識など要らないもの。見たままをそのまま、感じたままをそのまま、考えたことをそのまま歌にする。だから、せっかく快調に飛ばしているのに、余分な知識があったほうが歌が出なくなりそうな気がして、2年間くらいはそのように呆けていた。
歌を詠む時には、瞬間の集中力。気分というのかな・・・それこそ1首1秒というわけではないけれども、瞬間にはもう歌になっている。飛び出す前から歌になっているというか・・・あまり細かいことを考えないせいかも。
本当は、そういう荒削りなところを、少し洗練されたものしたほうがよい気がするけど、感性だけで突っ走ってきた。それでいて、読みを続けると、自然と歌が変わってくる。単に影響を受けやすいタイプなのかも。
そういう中で、初めて岡井さんの歌を読んだとき、こういう歌もあるのだなというか、彫刻のような歌というか、鬼才という表現がぴったりだと思った。影響を受けやすい自分としては、塔短歌会の会費を払い込むついでに、未来短歌会のほうにも申し込む。こちらは購読会員制度はないために、入会はあくまでも入会なのだろう。それで、今度は素直に岡井さんの選者欄に歌を送ろうと思っていたら、結社誌が届く前に、加藤さんからメールをいただき、流れで『彗星集』のほうに投歌することになった。
それでも、のらくらと結社誌を見てからと思い、実際に結社誌を見てみたら、結社が違うとこんなにも歌の雰囲気が違うのかと驚く。そうかもしれないとは以前から漠然と思っていたけれど、実際に比較して眺めてみると、その違いがよくわかる。こう、個別に歌人のサイトや雑誌などを見ているだけでは、そんなに大きな違いがあるとは思えない。あくまでも歌は、57577なのだから。
ところが、まとめて眺めるとま〜ったく違う。全然違う。
素直に考えて、自分の歌は未来短歌会のほうへ出すべきだと思った。そのほうが違和感がない。一つの形へ向かって学びを続けていくのと違い、うまく説明できないけど、あるがままの姿でぽんと置いて違和感がないような気がするということを知る。
その中でも、『彗星集』は自由空間。
ある意味、異質な歌の中でも、さらにぽっかり浮いている。
それがよいとかわるいとか、自分にはよくわからないし、この前読んだ雑誌の中に、加藤さんが選者になったという話題が書いてあった。それがどういう意味があることなのかよくわからないけれども、その瞬間、自分は精神の自由を感じた。その瞬間というのは、『未来』の空間の中に浮かぶ『彗星』を見た瞬間。
こう、雰囲気なのだと思う。

それで、自分が何となく思ったのは、逆に、その空間に、もっとしんみりとしたやはらかい歌を放り込みたいということかも。
とりあえず、締め切りまで時間がないので、自分の歌を選歌しないとダメなんだけど、数が多すぎ。でも、一瞬浮かんだイメージというのがあり、そこに向かって集中力を・・・
と思っていたら、娘の小学校から電話。
「顔色が悪いから迎えに来てください。」
「顔色が悪いのは、単にあたしに似ているせいだと思うんですけど。」と言いたかったけど、言っても無駄だから迎えに行く。どこも具合が悪くなくても、自分という人はちょっと浮かない顔をしただけで、仮病が通ってしまう。めったにそういう手は使わないけど、具合が悪くなくても悪いと思われることもあるという点で、娘が風邪の病み上がりで元気がなかったのも事実なのかも。
食欲がないと言いながら、戻ってくるなり、チョコレートの箱を開けている。
あの元気なおちびを連れて外出したら、世論は・・・う〜ん・・・・
「違いますよ〜、ちゃんと親は学校へ行かせたんですけど、先生が・・」
こらこら、うるさいからピアノ弾くな・・

というわけで、これもわかる人しかわかってくれないかもしれないけど、しばらくは塔短歌会と未来短歌会と饗のわらじ状態の気分でがんばりたいと思います。

投稿者 Blue Wind : 01:47 PM | コメント (0)

February 02, 2004

パロディ悪魔の極悪非道ぶり

人間ってあそこまでやれるものなんだと思った。
などと書くと、世の中にはもっと悪いやつがいるとか、自分はもっと酷い目にあったとか、あれこれ無関係な話が出てきてしまうので、なるべくこのセリフは使わないにかぎる。暗黒の世界を眺めてしまうと、通常の世界がとても平穏で幸せに感じる。もう想像を絶する苦しみを心の中に隠している人たちは、普段はそういうことは絶対に語らない。だって、弱点だからだそう。
そりゃそうだよね、と思いながら、ある程度は自分の弱点を晒していかないと自分が疲れる。だから、自分でこの程度ならと思うことは光に晒すにかぎる。そうすると、逆にそれが自分の強さとなる。もしかすると、単なるひらきなおりなのかもしれないけど、一人の人に言ったことはもうみんなに言ったのと変わらない。だから、つまらないグチならサイトのネタにして発信してしまう。まあ、あれにこれにと書いてきたことがつまらないグチかどうかはわからないけれども、結局、それを読んだ人がそれをどのように感じるかまではわからないし、受難の30代を通過したことにより、ほっとしているのかもしれない。
まあ、次から次だもの・・・いちいち書いていたらきりがないくらい・・・でも、その一つ一つがもしかすると自分の財産なのかも。何かあると、「りんどさん、自慢しないでください」に対して、「あたしは不幸自慢もできるのよ」というひらきなおり・・・そういうひらきなおりがよいことかどうかはわからないけど、闇雲な攻撃からは身を守ることくらいはできるのかもしれない。

『時空短歌』が解散したらしい。「らしい」という表現は、自分が決めたことではないからであり、これは去年の秋くらいの話であり、どうしてそういうことになったのか今ひとつ事情がよくわからなかった。サイトは相変わらずあるのだけれど、サイトの性質を転換させるということなのかも。
トラブルが発生したのは、一昨年の秋からだった。くりせんが強烈な状態で、誹謗・中傷を繰り返し、それを毎日毎日削除する。ガイアックスのBBSだと削除するだけでも大変だし、隠せないし、書き込み制限できない。ちょっと放置すると、実名やサイトのIDで中傷されたほうはイライラしてメールを書いてくる。そこに警察・サーバ・プロバイダなどなどとにかく大変なことになっているし、誰がそういうことをしているとかしていないとか、結局、「自分は関係ない」、「知らない」と言っても、かげではメールが飛び交うし、真相を究明するのも難しい。
それが『時空短歌』へ派生し、被害者の代表ともいえる立場のあたしと、加害者を擁護する立場の時空の管理人とでは、特に個人的には何もなくても自然と敵対する立場になる。そこへ一気に苦情が流れ込み、今では思い出すのもうんざりする。
こーね・・・見る人が見たら、ピンと来るわけ。だから、傍で誰かが思っているほど、あたしはまったく気にしていない。怒っているときには怒っているけど、案外、淡白だし、どーでもいいと思ってしまったら終わりよね。すでに知らん顔していたら、自分のサイトには来ないし・・・
それを、どういうわけか、誰かが自分の代弁者として勝手にメールを飛ばしていたらしい。その中には、自分のまったく知らない人などもいて、なんで自分の知らない人までが自分の気持ちの代弁をしてくださるのか理解に苦しむけど、大勢の人たちを巻き込むってそういうことなのだと思った。

『時空』の責任者(建前上は管理者とは別人)が亡くなったという話を風の便りに知ったけど、その前日まで本人と普通にメールのやりとりをしていた自分としてはまったく信じていない。この時点では、責任者と管理者が実は同一人物であるということすら知らない。だって、片方は男性で、片方は女性なのだもの・・・まさか同一人物だとは思っていない。でも、同一人物だとわかってもまるで驚かなかった。そうかもしれないし、そうではないかもしれないし、その辺の事情は実際のところあまり興味がなかったような気がするし・・・
『時空短歌』は、ロールプレイングの世界だと誰かが言っていたので、ネットでは蝶でも花でもゲームの主人公でもかまわないと思っている人たちだから、通常の感覚で相手にしていたら疲れるだけ。でも、もしかすると、実際に自分でゲームのプログラムを書いているのかもしれないし、サイトを管理しながらアイデアでも考えているのかもしれないし、プロフィールすらいい加減なのだから、これまたあくまでも単なる推測にすぎず、”あれ”をやらなければ自分も知らん顔していたかもしれない。
”あれ”というのは、ジャンキー葬であり、それもまたゲームの中で誰かが亡くなったような感覚だったのかもしれない。

が、しかし・・・・・一つだけ、あたしが強烈に怒ったことがあった。
軽く怒ったのは、神父さんを「ちゃんづけ」で呼んだり、いつまでもわるふざけがすぎるというところであり、これに対してメールを書いた。だから、そういうものはパスワードつきBBSにするとか、わるふざけの部分はカットしてほしいとか、それだけのことなんだけど、まさかその翌日にジャンキー葬をするか?
自分のほうには知らせはなかったから、しばらくは気が付きもしなかった。
でも、普通の弔問のカキコがあったりすると、本当に亡くなったのかという気がするから不思議。そして、神父さんのところにまで報告に行っている。
最初は、まさかそこまでするか・・と思ってはいたけれど、そのまさかが本当にまさかであったため、次第に自分の逆鱗がうずうずしはじめる。
まじめに弔問した人たちを騙す。単に仕事が忙しくなっただけで、また3ヵ月後には復活するつもりだったのかもしれないし、別のハンドル名で、別人になってしまったために、キャラを替えただけのつもりなのかも。
もーね・・・いいよ、別に、誰が何をしようと。
ところが、その周辺では弁護士を頼む人まで出てくるし、こちらとしては、カトリック関係はゲームでは済まされない。とても狭い世界なので、聖心で心理学科を卒業し、なおかつしつこく研究までしていた人間なんてそうはたくさんいないのよね・・・なんせ、うちの頃は1学年430人程度しかいない小さな大学なのだから。同学年だったら、ほとんどが顔見知りだ。ほんとのほんとに狭い世界。だから、自分は匿名であって匿名であったことはない。つまり、知らない来訪者からすると単なるジャンキーなんでしょうけど、自分の知り合い、あるいは自分のことを「あ、あの人だ」とピンと来る人たちにとってはすぐにわかる程度にはサイトを構成してある。それは短歌には関係なく、狭い世界のできごと。

そして、一番の逆鱗は、信仰心がないって恐ろしい。
自分は信者ではないし、心理学科の人間だったので、いささか軽いトーンで書きすぎているきらいがある。でも、これはまずいと思ったらやめる。何がまずいかというと、宗教上のタブーかもしれない。軽くはともかく、自分があたかも教祖のようにふるまったり、聖職者を侮辱したり、教義をゆがめて解釈したり、つまりはカルトのごとくふるまうことかもしれない。
それを神父さんのサイトをリンクした上で実行すれば、犯罪以上の罪ではないだろうか?
自分の立場は複雑で、カトリックの大学を卒業したものだから、信者ではないけれども信者の扱いになるのだろうか?つまりは、卒業生ではないと御聖堂でお式を挙げられないとか、聖心会なら聖心会の決まりがあり、その辺のところを在学中にみっちりしこまれる。ほかの大学の学生なら普通にしていることでも、聖心では退学になってしまう。それくらい厳しい。それが当たり前だと思っていたし、それによりかなり窮屈な学生時代を過ごした記憶もあるし、「自分は信者ではないのよ〜」などとぱっぱらぱーにふるまいつつも、どこかキャパを超えると爆発してしまうらしい。

まあ、考えてみたら、神父さまに関係なくても、自分は爆発しただろう。
そして、その爆発の理由を、どうやって説明したらよいのか困る。簡単に理解してくれる人と、いくら説明しても理解してくれない人がいて、その違いは大きい。つまり、神さまなど存在しない、あるいはまったく信仰心のない人にとっては、教会だの神さまだの言ってもきっと何の意味もないできごとなのかも。
それはそれでいいんだけどね・・・・
あれは、わざとあたしを怒らせるようにふるまっているとしか思えない。
その前には、別の人がその手でやられた。
誹謗・中傷を責めていた人は、自らが誹謗・中傷サイトをつくるように仕向けられた。しかも、本人はそういう自覚がまったくない。あまりにも作為的な行為だ。それだけでも十分に卑怯な人間ではないだろうか?
しかも、それを批判すれば、自分のパロディだ。そして、わざと他人を怒らせる。
悪魔的発想をさせたら、天才かもしれない。

いささかそういう人を相手にしているのも疲れる。理屈で語るのは簡単だ。でも、最早語るのもいやだ。
あまりにも姑息な手段を使うために、驚く。なんでそういうことをするのか理解できないけれども、おそらくはそれくらいの悪知恵でもなかったら生きていけない世界の住人なのかもしれないし、『レ・ミゼラブル』らしいので、あまり深く追求したくない。

が、しかし・・・・
このような理由で、まったく理由になっていないかもしれないけど、『時空短歌』は解散することになった。悪魔は悪魔の道を歩むらしい。

投稿者 Blue Wind : 02:15 AM | コメント (0)