February 05, 2004

昨日の明日は今日

明日で歌を詠み始めてまる3年だな・・・などと思っているうちに、すでに昨日の明日は今日ということになってしまった。つまり、今日で初詠みから3年が経過したことになる。題詠マラソンにも参加表明。去年は、そういうのがあるのも知らなくて、途中から知ったけど、どこか遠くの世界の出来事のようでもあり、ぼーっとしていただけ。参加人数が多ければ抽選になるという話もどこかに書いてあったし、かと思えばテーマを決めて詠んでいこうという人もいるみたいだし、上級者もいれば初心者もいるということで、イベントとして考えたら楽しいのでは・・・ないかと・・・・思う。

加藤治郎さんの言葉を借りれば、結社というのは、「濃くも淡くもなるところ」らしい。最初は意味がわからなくて、影響が濃くなったり薄くなったりするのかしらとシンプルに思ったけど、そうではなく、たまに投稿するだけみたいに距離を置くこともできるし、積極的に批評を投稿したり、イベントに参加したり、師匠と顔合わせしたりみたいに接近することもできるという意味だそう。
そうやって考えると、世の中の人の集まるところはみな同じ。積極的に接近することも可能なら、適度に距離を置くことも可能。ネットも同じ・・・ただ適温というのが人によって違うために、距離感のバランスというのも難しいし、自分の場合は心理屋なので、どうもバカ丁寧かぶっきらぼうかどちらかに傾きやすいという行動パターンを特徴としている。以前もネタにしたけれど、概して、こういうタイプは人付き合いが苦手と思われやすい。これってわざとじゃないと思うのよね・・・単なる環境因子のような気がするけど。それとトレーニング。カウンセラーのトレーニングの影響なんだと思う。(注: 私は臨床は専門ではありませんし、カウンセラーでもありません。) どうにもならないくらいしがみつかれても、次の瞬間あっさり忘れる。切り上げ方が一番難しいらしい。100年の恋も1分後には消えうせるというタイプかもしれない。(ほんとか?)
本当か嘘かはともかく、因縁、怨念、逆恨みの世界だからね・・・そんなのことにいつまでも付き合っていたら、自分のほうが身が持たない。とことん人間不信などを移されたり、鬱々したり、ろくなことがないと思いながらも、ある意味、興味深い。なんでっかなーと思うことは、自分の精神を広げる。そのうち何も感じなくなってきてしまう。そうなると、ごく普通の人間関係というものの距離感が微妙に測りにくくなる。

そもそもが短歌などを詠もうというタイプは鬱々しているような気がする。そうなると、濃いか淡いかどちらか・・・あたしなんて、最初から歌は鬱捨て場と呼んでいたくらいだし・・・鬱々とした気分のほうがよい歌が詠めるような気がする。
結社が人付き合いの世界だとすると、ある意味、かったるいでしょ?
でも、あたたかい。
これってうまく説明できない。
そういう人々の鬱捨て場の中で構築された世界はあたたかい。それでいて、一度何かあると大変なのだろうなとも思ったりする。あくまでも想像だけど。

題詠マラソンのところで、所属結社・・・悩む。書いてもいいし、書かなくてもいいし、自己紹介してもいいし、しなくてもいいし、実名でも匿名でもかまわない。要するに、きちんと連絡のつくメルアドがあればよいらしい。所属を書いたら、帰属になる。つまりは、そこから出ているという感じ?それもちと困る。結社への接近という点では、自分は歌も投稿していないし、あまり人付き合いがあるとも思えないために、淡い。でも、所属した以上はまるきり書かないというのも気が引ける。これって、サイトのプロフ欄をつくる時と同じような感覚かもしれない。自分のことを書いてもいいし書かなくてもいいし、それでもサイトはあるわけで、ネットで知り合った歌人にしても、もしかすると所属結社があるんだろうと思う人でも書いてないことも多いし、書く以上は責任があるような錯覚すら感じる。
このノラクラとした感覚・・・・まさにあたしっぽい。
ネットにもっと上の人が出ないと、下手な歌を出しにくいではないか・・・
でも、大きな結社の気楽なところは、人が多いということかも。それよりも、いろいろな結社からいろいろな歌人が出てくるほうが面白いのだろうし、まさしくイベントっぽい。

「遊星」か・・・・
まさしく、遊星。
あっちふらふらこっちふらふら。
でも、そういう歌人も増えないとつまらないでしょ?
あの歌おもしろいな、この歌もいいな、などと無責任に思いながら、マイペース。
接近しては遠のいて、何となく浮いている。

投稿者 Blue Wind : February 5, 2004 02:23 AM
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