February 11, 2004

イタリアの太陽、そして月

そろそろ自分が本気で何かをしようとしているのだとしたら、登場人物を実名で書かなければならないのだと思う。でも、世の中とはかったるいところで、例えば聖心の学内では世間話のようなことでも、外の世界へ出てしまうとそこは異次元空間であり、貝のように押し黙ってしまう。そういう世界を蝶のように気ままに飛び回っていたわが青春時代を振り返ると、やはり、気楽に娘と一緒に遊んでいられることを喜ばなければならないのかも。つくばという田舎町においてはすべてがうららかで、すべてはどこかどうでもよいような出来事であるかのように感じる何かがあって、ショッピング・センターの隣に本物のロケットがちょこんと聳え立っている姿を眺めていると、自分の鬱々とした気分がとても小さいことに感じられ、修道院とはまた違うけれども別の意味で自由がある。
自分は田舎町の普通の主婦だ。もうかつての偶像崇拝的な自分は死んだ。「自分のことを客観的に見るな」というセリフは若い頃のダンナが言っていたセリフだ。それはある意味彼自身を救うおまじないのような言葉なのかもしれないし、あまりにも何もかもが自然体な人なので一緒にいると安心感がある。でも、この魔法にかかっていると、たまに他人に苦痛を与えてしまうことがあることに、後になってから気がつく。そういう時には、心の中で申し訳ないと思って去る。それにより、自分の友人関係は、おそらくはこの魔法の言葉の中で安穏としていられる人たちが多いような気がする。
だから、自分は固有名詞を嫌う。それよりもまるでサイトでハンドル名を使うように、ニックネームで呼ぶことにしている。中には、そうやって呼ばれていることにまったく気がつかない人もいるでしょうけど。これは、学生時代、隠れてはすべての先生にニックネームを付けて呼んでいた習慣の名残かも。
面と向かっては呼ばないけど、そうやって学生間で呼ぶのはある意味先生に対する親しみのようなものなので、案外、ニコニコしながら自分のニックネームを喜んでいる先生もいた。当然、自分も学生時代はニックネームでしか呼ばれたことがない。先輩からも後輩からも一緒で、ある日、新入生に「先輩」と呼ばれてたしなめたことがある。以後、この習慣はずっと続き、そうやって呼ぶのが当たり前の人たちと、ものめずらしい人たちとがいることに気づく。

世の中の人たちは勝手だ。神さまの権威をお話しても素通りする。信仰心がないというのはそういうことだ。それよりもどうして神さまが自分に何もしてくれないのかと怒り出す人も多い。信じていないということはそういうことだ。彼らが畏れるのは神の権威ではなく、聖心の卒業生名簿だろう。ずらっと並んだ卒業生とその保護者名。
学内は安全地帯だ。教会には神さまがいる。使徒職の人たちは学長さまをはじめとしてご奉仕。そういう中で精神の自由を学ぶ。それはいわばクリスチャンの反骨精神なのかもしれないし、決して権威にこびない人たちにより秩序が保たれている。ところが、この秩序は、一歩外へ出てしまうとたちまち闇に閉ざされる。そうならないように、自分で自分を守らなければならない。だから、いつも軽やかに微笑み、常に貝にならなければならない。
そういう中でも、自分は自由奔放だ。それでもそれは勝手に自分がそうやって思っているだけで、実は違うのかもしれない。自分は弱い。例えば、自分は普通の主婦だ。働いたこともない。世間の人たちは馬鹿にする。それが悔しいと思い、一生懸命にがんばっている頃もあった。でも、その道はある日突然閉ざされた。何もかもが順調だった。「ほらほら、あたしだってやればできるのよ」みたいな気分だったかもしれない。そして自分を守っていてくれた人たちは次々に亡くなる。そして自分はただの自分になる。

そして、自分は思った。
潰すなら潰せ、と。
あまりにも大袈裟だけど、弱い自分になったとき、そうやって思った。
でも、世の中は逆だった。

自分はとても不幸な人になってしまったがゆえに、自分の幸せの数の多さに気がついた。
それでいて、自分は不幸な人ではないらしいことも初めて知る。
「まあ、りんちゃんもネットをやってうんぬん」という話をされた。

頼む・・・・うまく説明できないけど、自分はネットが好きだ。そして、自分は草の根歌人だ。しろねこだ。りん・ほととぎすだ。短歌なんてつまらないでしょ?こんなの誰でも詠めるし・・・いつまで経ってもヘンな歌ばかり詠んでいるし・・・加藤よ、あたしの歌に権威を与えるな! こう、迫害されながら鬱々と詠んでいるほうが好きだ。誰か正直にあたしに言ってくれ、お前の歌はつまらない、と。そうすれば、あたしは次々と歌を詠うだろう。これでもか、これでもか、と、くだらない歌を詠む。

この夏、イタリアへ行こうと思っている。イタリアの太陽の下で歌を詠いたい。そして、いつか映画の中で見た巨大な月を眺めてみたい。ヴァチカンとアシジの違いを実感したい。そして、サン・ダミアーノと大聖堂の違いを実感したい。そして、アシジの丘に座る。

投稿者 Blue Wind : February 11, 2004 02:35 AM
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