塩まかれ、なお咲きつくす水仙の自惚れが好き、寄り添う光
空白を埋めるように春休み 墓→教会→美術館→墓
かたちだけ観てくれるなとうんちくの楽しい母にしかめつら吾子
数学が大切だよとうんちくの楽しい吾子は学校の顔
すぐそこに希望と夢が服を着て歩いているよな青き人らは
陽光の味わいは葉のいろ淡く透かす春木のまるい葉のひら
(雅歌 8. 14)
一日が終わるのが早い。
日曜日、入門式。
月曜日、朝から職場に呼び出され、午後は娘の入塾テスト。
火曜日、つまり今日からデッサンの春期講習開始。朝から娘を教室に送迎。そんなことをしているうちに、WBCでは日本が優勝。80歳のUさんが来て、喜びのあまり血圧が200まで上昇していたらしい・・・(しょうがないな・・)
すっかり、春。
***
入門式は、6名。韓国人のファミリーが3人、ベトナム人が1名、日本人がわたしを含めて2名。
わたしは代母の隣に座り、「呼ばれたから行きなさい」とか、「ここに」とか、彼女が本当にごく自然に母親のように語り、振舞うので、わたしはまるで子どものようだった。わたしの代父母を務めてくれるYさんの奥さんが急病のため、ピンチヒッターで頼んだのだけれども、初対面とは思えないほど親しみを感じた。そして、わたしはすっかり子どもに戻り、わたしたちが皆子どものように感じられた。皆が子ども。老若男女問わず、皆、神である父の子どもたち。
どうして、わたしたちの父、なのか・・・ わたしたちは、皆、子どもだった。
***
塾・・・
わたしは予備校に通わせようかと思ったのだけど、娘が小学校の頃にお世話になった塾に通いたいというので連れて行った。娘の中学時代は受験もなかったし、わたしも仕事が忙しかったので、そのまま放置したまま終わってしまった。要するに、学校が楽しければいいのではないかと。
が、しかし、Aさんに刺激されたこともあるかもしれないが、いささかわたしの周辺のお子さんたちが皆優秀なので、そろそろ娘のこともまじめに考えないと、という気分になる。それでも、小学校の頃とは違い、娘の成績は親が考えているほど悪くもなかった。少し勉強させたら、どうにかなるだろう。
が、しかし、相変わらず、本人は美大に進学するつもりらしい。この就職難に美大か・・・・? (深く考えるのはやめよう。)
入信して、何が変わったかといえば、踏絵は踏めないだろう、ということかも。からだの復活とか、永遠のいのちとか、正直、わたしはあまり興味がなかったので、踏絵の絵というのはいわば偶像だし、そんなものを気にすることはないのではないかと思っていた。
でも、自分の信仰が試されているとしたらどうか?
そういうことを仕掛けていること自体は悪である。が、しかし、悪は悪として、そういうことはどうでもいい。わたしには関係ない。でも、問題は信仰である。永遠のいのちを信じるならば、というより、神さまが人間を生き返してくれるのなら、この世の死は無意味である。逆に、娘を助けようとして、娘に踏絵を踏ませることはもしかすると娘のためにはならないかもしれない?
常識で考えたら、わたしが踏まないのはわたしの勝手だが、わたしの信仰で娘が死んだらわたしは母としては最悪ではないだろうか? じゃあ、踏ませる? でも、その結果、娘が闇に葬られたらどうしよう・・・ 死んだ後に後悔するのではない?
この矛盾・・・
娘が一緒に受洗してくれないかな・・・と思ったけど、すでに高校生になるし、自分のことは自分で決めるだろう。
ただ、娘にも説明したけど、神さまの考える悪と、人間の考える悪とが必ずしも同じわけではないので、わたしが娘のためによかれと思ってしていることが、必ずしも素晴らしいかどうかわからない。
娘は子どもで、自分のやりたいことがあって、わたしは親だから娘の好きなことをやらせてあげたい。でも、姑さんには生産性のない考え方だと言われる。子どもの将来のことを考えたら、何か資格でも取るとか、職業を持つことを考えたほうがいいと言われる。世論だ。そうやって言われると、わたしは単に子どもを甘やかしているだけなんだろうか・・・・ そうかも。自信がない。
(歴代誌下 4. 19-22、 5. 1)
風ともに雨雲みつむ風のなか光の甍背に照らされつ
代母の手あたたかきしは母の手のぬくもりを想うイエズスのもと
イエズスは微笑まおしき十字架の小船のうちに嵐吹く春
ベトナムと韓国と吾らアメリカの司祭のもとに祝福をうく
風は吹き風つよき日は雨雲も今このときだに揺れて浮かびぬ
(エゼキエル 24. 15-27)
母のお墓参りに、幼馴染と一緒に出かけた。
去年からずっと言われていて、今日になり大雨。午後は晴れたけど・・・
いつもは車で行くが、今回は駅で待ち合わせをした。
実際に会うのも10年ぶりくらいで、わたしは覚えていない。母の手術が終わって、ICUにいるときに会ったと言われたが、あの時は動転していて、わたし自身の記憶が飛んでいる。その後、Aさんがたまたま母が転院した先の病院の近所に住んでいたため、ちょくちょく見舞いには来てくれていたらしいが、出くわしたことはなかった。
つくばにも毎月来ていたらしいけど、それはどちらかと言うと、彼女の親友が土浦にいて、交通の不便なつくばのことだから、その友達に送ってきてもらっていたのだろう。連絡をくれたら迎えに行くのに、迷惑をかけたくないから、とよく言われた。
そして今日も、「一度連れて行ってくれたら、後は大丈夫だから(自分たちで行くから)」と、以前から頼まれていたので一緒に出かけた。
考えてみたら不思議な話。でも、あの姉妹にとって、うちの母親は昔から親の次に大事な人で、自分の親のようなもの、親代わり。父親を幼くして亡くし、長男が父親代わりに兄弟の面倒をみていたが、その長男がある事件をきっかけにおかしくなり、わたしが彼女たちに出会った頃には、姉は結婚していたが、妹はまだ高校生、わたしと一つ違い、にもかかわらず居候で、学費にも困るような生活。お母さんもすでに年寄りで、息子の世話になっていたし・・・
Aさんは、週に1〜2日、わが家から通学していた。当時、家にはわたしと小学生の弟しかいなかったし、父も母も仕事で忙しく、わたしたちの食事も通いのお手伝いさんが用意してくれていた。Aさんが来ると、誰もいないので何か作ってくれる。チーズオムレツとか。わたしと一つしか違わないのにずっと年上のようだったし、それでいて友達のようでもあり、たまに家族のようだったが、やはり家族ではなかった、としか言えない。母が一人暮らしの独身だったらよかったのかもしれないが・・・ わが家に来て、逆に寂しい思いもしたのではないかと、思う。だから、今でも、弟やわたしにはすごく遠慮がちなところがある。
今日、駅の改札で待っていたとき、わたしには彼女がすぐわかったが、あちらはわたしになかなか気がつかなかった。あまりにも気がつかないので、人違いかと思ってしげしげ見ていたら、ようやく気がついた。ICHI先生の服でも着て、颯爽と待っていたらわかったのかもしれないが、ユニクロのジャケットとジーンズで、ぼーっとしていたらわからないのかも。今でも学生と間違われるし・・・
あちらはすっかり口やかましいPTAの母親という雰囲気で、もし間違えたら文句でも言われそうだと、声をかけるのも躊躇ったほど。実際、彼女たちの息子さんたちは皆優秀で、ちょっとわが家は恥ずかしいね・・・そういう意味では。いかに一人娘を甘やかしているか、何となく感じた。
でも、彼女たちを教育したのはわたしの母だし、彼女たちも今日あるのは母のおかげだとずっと言っている。わたしにとっては厄介な親だったが、ああやって苦労して育った彼女たちからすると、頼もしい人だったのかも。彼女たちにとっては、母の言うことはいつも正しくて、わたしにとっては、母の言うことはいつも押し付けがましかった。
でも、3人で姉妹のように昔話や近況に花を咲かせていると、懐かしさで涙ぐむ。母が亡くなる1日前に、彼女たちの問題の兄も亡くなり、わたしにしてみれば、彼が母を一緒に連れて行ってくれたのかもしれないと思った。それとも祖母がまとめて迎えに来てくれたのかもしれないし・・・ そうやって苦しい人生は終わった。
駅に戻ったとき、Kさんの息子さんの家が建築中ということで、今度は3人で反対側に歩き出した。偶然。嫁さんの実家の隣に建築している。わたしはその息子さんには一度も会ったことはないが、帰りにお舅さんに駅まで車に乗せてもらった。なんでわたしまで一緒にいるのか不思議だったが、わさわさわさわさ集団で。
昭和のひとときをすごした。
(ヨハネ 21. 15-19)
勉強会は、すでに教会の中を案内されただけ。今さらながらに小さな教会だし、質素。燭台もなければ、パイプオルガンもない。それでも告解室があるだけ大きなほうなのかも。マリアさまの像も小さく、隅のほうに置いてある。教えられなければ誰も教会だと気がつかないような普通の建物で、何も言われなければプロテスタント教会だと思ってしまいそうだ。
お葬式と結婚式が同じ衣装というのも初めて知った。それから、以前から気になっていた祭壇わきのロッカー。おそるおそる中を拝見すると、ロッカーの中にロッカーがあり、遺骨があった。お墓のない信者さんや、赤ちゃんの遺骨。小さい骨壷。オトと同じ色のカバー・・・・ あまりにも小さいので、動物のものですか?と尋ねてしまった。(ごめんなさい・・・)
ここの教会は小さいので、納骨のための別の部屋はない。
神父さんは、しきりに日本語で、「ここは、”わたしの教会”」を繰り返していたが、つまり、入信すると、あの教会が”わたしの教会”になる。正直、あまりうれしくなかった。築25年の木造建築の”新しい教会”。わたしが死ぬ頃には建替えでもしないかぎり、ボロボロになってそうだ。そうやってよく観ると、エアコンはカバーが外れかかっているし、電気屋さんでも一番安そうな天井吊りライトも汚れている。いつだか信者さんが、ここの教会はトイレだけは3つあって最新式だと言っていた。あーあ・・・
---- ここの教会は、イグナチオみたいに立派じゃないけど、必要なものは揃っている。
・・・・・・・顔に書いてあったのだろう。それとも、皆考えることは一緒か。床もビニールクロスだし・・・
笑うしかない。
---- 何かほかに質問、ありますかー?
訊きにくかったが、好奇心には勝てない。
---- 神父さんって、Beato から Santo になるんですか?
---- 今年は9人。ここの会からも今年一人。ダニエル神父。とても少ないです。僕も10月にはローマに行きます。
---- 聖人?
---- そう。とても少ないです。司祭でなくても、聖人になれる。マザーテレサの両親も列聖されるし、どーですか?
ひたすら笑うしかない。
---- それって、どうやって選ばれるんですか?
---- わからない。
---- じゃ、ある日突然、ローマからひらひらひら〜?
---- そう。
---- じゃ、ある日突然、パパさまから招待状?
---- そう。
ひらひらひら〜っと手のひらで遊んでいたら、手の先にイエスさま。
---- じゃ、神父さんのところにも、ある日突然、バチカンから招待状が届くかもね。
ひらひらひら〜
---- じゃ、わたしは聖人の授業をこうやって脱走してたんだ。(真似をする) でも、聖人の話は退屈だよ?
---- 聖人は故郷では敬われない。
---- 罪深きわたしをゆるしたまえ〜、っていつも祈ってるのよ。
---- それは、だいじょぶ。
---- ジョーク、ジョーク。ぜんぜん気にしてない。
とりあえず、入信式は1分か2分くらいで終わるらしいし、それならまとめて洗礼のときにしてくれたらいいのに、と思ったけど、のんびりやっていったらいいのかも。
そうだ、鐘もない・・・
(ルカ 6. 20-26)
父さんひとりでワールドベースボールクラシック(WBC)を観て盛り上がっている。朝から観てるんだから・・・ 野球はあまり好きではないが、WBCは別物らしい。ワールドカップやWBCは特別というか、興味なさそうにしていると苦情が飛んでくる。だって興味がないんだから仕方がない。
---- キューバはカストロに負けたら生きて帰るな、と言われたんだよ。日本はそうやって(わたしと娘のことか?)醒めたヤツがいるから韓国にも負けるんだ。
---- だったら負けたら大変じゃない? キューバを応援しよう。
---- キューバには勝った。だけど、どうして松坂が韓国戦に登板しないんだ?
---- もちろん勝つつもりだから、優勝戦まで出さないんじゃない?
---- ダメだ。一戦一戦を勝っていかないと。
---- 次に勝っても、決勝戦で負けたら話にならないし・・・ 要するに、勝つつもりなんでしょ?
という話が延々つづく。
あげく、金賢姫が死刑にならなかったのは顔が可愛かったからだ、とか、韓国というのはそういう国なんだよ、とか、韓国論に発展する。わたし的には、彼女は気の毒だと思うし、政治犯で証人だから死刑にならなかったんじゃないの?と切り返すのだが、この点では譲らない。
---- 金賢姫が美人だから、結婚したいという手紙まで着てたんだよ。あれがブスだったらとっくに死刑になっているし、韓国はそういう国だ。
---- だって、彼女がいなかったら、誰が証言するの? 彼女がひとりでやったなんて考えられないし・・・ 政治犯は特別なのよ。
少なくても今の日本には愛国心に燃えて、あんな危険な自爆テロをする20代の女性はいないと思うけど。
もうずっと昔の話なのに、北朝鮮がテポドンを飛ばしてくるとか来ないとか、裁判員制度と死刑の話題のニュースとか、ソマリア沖への自衛隊の派遣とか、このところヘビーなニュースが飛び交うせいで、再び再燃している。北朝鮮への経済制裁は、他国に関係なく、日本ではいっそう厳しくするとニュースで言っていた。
社会不安や政治不信を、どうもそちらのほうでもみ消されているようで、このところ国際問題どころかWBCにも興味が持てないわたしとしては、そういうことに誘導されるほうが奇妙な気がするけど。
民主党党首の汚職問題、自衛隊の派遣、北朝鮮のテポドン・・・ 生活給付金。死刑・・・
経済が悪化するって、こういうことなんだ・・・
(詩篇 119. 9-16)
学校を平日に休んでTDL、最近はこうなのですか?
(発言小町/YOMIURI ONLINE)
「平日、子供に学校を休ませてTDL」で、何が悪いの? ネットで賛否両論の嵐
(アメーバニュース)
このトピック、熱い・・・
いろいろな人の意見を読みながら、たかだか数日、学校を休ませるくらいのことで、こんなに盛り上がるとは信じられない。それでいて、自分のこと、娘のことなどを考えながら、じっくり読んでしまった。
結論から言うと、家庭環境にもよるし、子どもの年齢にもよるし、学校の方針もあるかもしれないし、それでいて、このスレを立てた人は英語教師で、特に学校の先生というわけでもない。
わたし自身は、平日に学校を休ませること、あるいは休んで旅行に行くことが悪いことだと考えたことは一度もなかったので、世の中こんなにも反対派の人たちがいることに驚く。逆に、そうしたい、と思っても子どもが大きくなると彼女なりに予定があるので、なかなかできなくなるからしない、というほうが本音に近い。
娘が幼稚園の頃までは、オフシーズンに旅行に行っていたが、それは組織であるがゆえに、上のほうが子どもの学校の都合などで夏休みを決定するため、下のほうはどうしてもそれ以外にしか休暇が取りにくかったのが原因でもあるし、そのほうが旅費も安いので、わたし的にはありがたかった。
皆勤賞がどうたらこうたら、と書いてあったが、うちの娘は風邪で何日か休んだ学期を除けば、ほとんどの学期は皆勤。考えてみたら、平日に旅行に行かなくなったのも、父親の仕事の都合が大きく、娘も学校行事や試験の日程を考えると、休みが取りにくくなったし・・・ 特に、悪いことをしているから、という理由ではない。
が、しかし、夏休みまで補習授業のある学校だと、夏休みの間はお休みしても欠席扱いにはならないが、それでいて、まるまるは休めない。何となく気を使う。そのため、今年は娘の都合を考えて二人でバリ島に行くことにした。もしかすると飛行機の都合で、一日くらい早く夏休みに突入するかもしれないが、おそらくは日頃がまじめなので、先生から文句言われることもないだろう。
が、しかし、たかだか学校を休むくらいのことで、こんなに反対派がいるというのは・・・
「たかが学校」などと言うのなら、学校を辞めさせて家で家庭教師でもつければいい、という意見まで・・・
それとこれとは意味が違うだろうと思ったけど、子どもの学校の都合よりも親の仕事の都合が優先と信じて育ってきたので、すこぶる違和感がある。親の仕事の都合が優先、というのは親の身勝手なのだろうか?
わからないな・・・中には、子どもの学校の都合を考えて単身赴任になる家庭も多いし、それはそれで仕方がないような気もする。それは子どもが大事だからそうするわけで、旅行に行くというのも、子どものために行くところが多いと思っていた。
が、しかし、親のために子どもの学校を休ませるとしても、世の中は、土日や祝日が忙しい人たちもいるのだし、親が休暇を楽しんで何が悪いのかわからん。まあ、義務教育だから、子どもから権利を奪うというのも一理あるけど、それにしてもたかが数日のことで大げさ。
どうせTDLに行きたいなんていう家族は、子どもも小さいし、あまり深く考えていないに違いない。幼稚園のTDL遠足では仕事を休んで来ている保護者もいたけど、それが問題になったことは一度もない。一応、保護者同伴ということになっているし、そういうのは行事だからよいのだろうか。でも、結構、TDL自体が平日なのに親子連れも多かったけど。
うちの患者さんだって、夏休みに入る前に旅行に行ってしまう家族もいる。そのほうが旅費が安いし、そういう時期に休みが取れるなんてラッキーな家族だ。
平日にTDLに行くような親がいるから、子どもが掃除当番をさぼったり、学校をさぼったりすると書いている人もいたけど、うちの娘にはあてはまらない。逆に、同じ班の子たちがさぼっても、一人で掃除しているし・・・ 本人はさぼっている人たちのことをすごく怒っていたけど。それが原因で学校が面白くなくなったこともあったし・・・
その話を聞いたとき、わたしも怒ったけど、「一緒にさぼれば?」と言ったのもわたしである。つまり、一緒にさぼれば、他人に腹が立たなくなるから。娘がそれはイヤだと言うので、仕方がないから、「試練だと思ってあきらめなさい」と言った。
その話を担任の先生にしたら、酷く驚いていた。だって、どうしようもないし、世の中うまのあう人たちばかりじゃないんだから、試練だと思ってあきらめるしかない。
学校に苦情を言ったほうがよかっただろうか? でも、他人のお子さんのことまで口出ししても仕方がないし・・・
やっぱ、あたしって身勝手な親なんだわ・・・
娘がハッピーだったら、そのほうが平和。
今日の日はしあわせだった。今日の日は同じ時刻に時を刻みし。
水仙は暗がりのなかひっそりと背中まるめてこそこそと咲く
あらくさが春が来たかとまちかまえ、猶予がほしい庭の秒読み
何もせず何かをやつて、気がつけば一日(ひとひ)が終わる春景色かな
うすぺらなページの栞動かせどじっとしたまま先は動かず
(ルカ 5. 27-38)
少しのんびりしたいと思って、御ミサはさぼり。
その代わり、バルバロ聖書はようやく格言の書までたどりついた。聖書全体の4分の3が旧約聖書なので、いつになったら読破できるのだろう・・・謎。
少しのんびりしたい、というより、少し自由になりたい、というほうが本音に近い。
御ミサの間、わたしはほとんど祈っている。しまいには歌うことすら苦痛になり、賛美歌もかったるい。本当は、行きたくないからかもしれない。でも、来週からは入信式が始まり、式次第のコピーを渡されたため、一応は目を通す。
御ミサの間中、わたしは黙祷をささげる人になる。
特に意味があるわけでもなく、わたしという人がごく自然に行う行動であり、その瞬間、億劫になりながらも皆と同じ行動をとろうとするのだが、それが酷く苦痛であり、苦痛を抱えながら御ミサに出席することがさらに苦痛となり、それならさぼったほうがまし・・・
受洗が早すぎたのだろうか。
父さんは受洗しないのだろうかと訊いたら、「まだ早い」と言われた。早い・・・というのは、おそらくは姑さんのことを気にしているからか、あるいは、何か決めるまでにずっとうだうだ考える人なので、ずっとうだうだ考えて、癌でも見つかったら、それがトリガーになるかもしれない。癌家系だし・・・
でもね、一人で教会へ行くって、さびしいよ。
が、しかし、とりあえず自分で決めたことだから仕方がない。わたしは一人暮らしの老婆のように、教会へ行き、ひねた根性でずっとお祈りをしている。
さびしいが、しかたがない。自分で決めたことだから。
まあ、その罪滅ぼしというか、たまには教会をさぼり、娘の塾の手配をしたり、準備をしたり、一日ぼーっとしているのも気分転換になる。お彼岸以降、ずっとスケジュールが入っている。娘が春休みになり、デッサンのほうも春期講習があり、勉強のほうも少しはがんばってもらわないと。姑さんに言わせると、それはあまり生産性のない考え方らしいけど、本人がやりたいのなら仕方がない。その後のことは親の責任ではない。おとなになれば、自分のことは自分で考えて決めるだろう。
もう、春・・・
(ローマ 1. 8-15)
この、ちぐはぐ感・・・
ずっとこれが続いている。
これって、自分の価値観を押し付けているだけだろうか?
先日、問屋さんがボウリング大会を主催してくれることになったのだけど、急すぎて参加者が少ない。わたしも行けなかったし・・・(というより、あまり気乗りしなかったせいもある)
それはどうでもいいんだけど、その後、Yが深夜まで飲んで帰ったと聞いて、わたしはプッツンした。若くして結婚して、敷地内同居だし、お仕事が好きだし、真面目だし、わたし的には一番信頼している部下?である。それが子どもを放ったらかしてヨッパラって帰った?
これだから接待は嫌いだ。皆、一緒にいたのにどうして止めなかった?
・・・・・・一応は止めたらしいが、本人がノリノリで・・・・・・
うちは、ほとんどが普通の家庭の主婦なので、子どもが小さいとなかなか夜は集まれない。普通の業者なら子どもも一緒に参加できるように手配してくれるだろうと思ったけど、そこまでは言えないし、言いたくない。何となくこちらから接待してくれと言っているみたいで・・・
案の定、ボウリングが終わって打ち上げして、となったら夜中だ。一番はりきっていたのは、Yさん。日頃のストレスがたまっているせいか、楽しくてしかたがなかったらしい。そこで怒って朝から説教の電話をかけるわたしもわたしだが・・・
---- あなたね、子どもを放ったらかして、夜中まで何やってるのよ。
---- すみません・・・ でも、言い訳をさせてもらうと、子どものサッカー友達のママ友と飲むような感じで。いつも遅くなってしまうし・・・ それでもダメですか?
---- ダメにきまってるでしょ。下のお子さん、まだ赤ちゃんだし、途中で気にならなかった?
---- なりました。
---- それが普通よ。それでも飲んでたんでしょ?
---- はい。
---- あなたのせいで、しばらくNさんのところは3ヶ月取引停止よ。営業が一緒にいて、何やってるんだか。
---- えっ。
---- うちは、つくばだし、母親が子ども放ったらかしで、深夜まで飲んで帰るなんて考えられません。
---- すみません。
---- なんなら、辞めてもらってもいいのよ。じゃ。(と言って、電話を切った)
一種の姑根性かもしれないと思ったが、わたしは本気で怒っていた。子どもが病気で休みをとって怒ったことは一度もないが、子どもを放ったらかして深夜まで飲んでいる、というのは気に食わないのである。うちの職場って、そういう意味では子どもがいても働きやすい、と言われる。が、しかし、子どもを放ったらかして平気なら、病気でも出て来い、ってならないか?
が、しかし・・・・ 姑さんとは違うのは、わたしは彼女から職を奪えるのである。主婦根性で、怒っているだけならどうということもないが、誰かをそれでクビにしたり、取引をやめたり、仕事が絡んでくると怒っているだけではすまない。
が、しかし・・・自分の価値判断で判断して、誰かをクビにしたり、業者を叱ってよいのだろうか?
まあ今時、深夜まで飲んで帰る母親はめずらしくないのかもしれない。特に働いていたら、職場の付き合いなどもあるかもしれないし・・・ それが楽しくて働いている人たちも多いし・・・ が、しかし、それがいいのなら、いつでも辞めてもらってそういうところへ行ってもらってかまわないのである。
まあ、気持ちはわかるんだけどね。ぷあ〜っと。
とりあえず、Yは反省して働いているし、業者は謝りに来たらしい。
が、しかし、一番困るのは、わたしが本気で怒っていることらしい。
が、しかし、ゆるせねーだろ、そーゆーの。
・・・・・・・・が、しかし、怒っているだけならいいんだけど、それによって誰かが困る。というのが憂鬱。ほんとに憂鬱。あたしの言うことはまともすぎて怖い、とダンナに言われた。
働いたことないし・・・
困った。
(使徒 11. 19-26)
教会は疲れるなぁ・・・
疲れると思いながらも行っている。
どうして疲れるのかといえば、仕事よりもある意味しんどい。まあ、慣れるまでは仕方がないのかも。
それはある意味、とても単調であり、シンプルであり、複雑。人がいるようで人はいず、人がいないようで人がいる。神さまと人と自分との三角関係。ハイダーのバランス理論を思い出す。どこかに一つでも負の関係があれば、バランスを取ろうとしてもう一つ負の関係が成立しやすくなる。三角関係は難しい。
わざわざそういうところへ行く、というのも、考えてみたら変な話だ。神父さんがインドネシアで洗礼を受けたときは、100人くらい受洗者がいたので、予行練習が大変だったらしい。1週間後にクリスマスがあり、皆で盛り上がったとうれしそうにお話していた。
そういうの、いいよね・・・お祭りムード一色で。わたし、今日、式のときにはここに座って、ここに立って、と説明されたが、何の感慨もなく、枝の日曜日は娘の入学式と重なったので出席できないし、わたし的には、自分の洗礼よりも娘の成長のほうがうれしい。
神父さんの転勤先の山形の教会は、幼稚園だけではなく老健施設もあり、今度はギターを持って行けるとうれしそうに語っていらしたが・・・、そのとき、わたしが思ったのは、つくばの施設だとダメなのか?ということ。そこで、一緒に行って文句を言おうとかと思ったけど、神父さんは転勤だし、わたしの場合は信者だから文句を言う、ということではなく、おそらくは今自分が携わっている仕事の範疇で、それを考えていることに気がついた。ボランティアでも何でもなく、要はそれも仕事の一つだから。
そうなんだよね・・・いやいやながら働き始め、ささやかながらも医療関係の仕事に従事し、肩書きを持って行動している以上、それはボランティアではない。教会の仕事でもない。場合によってはわたしの場合、病院にカウンセラーとして就職すれば、それはそれでまたそれが仕事になっていくだけのことなのかも、ということも何となく理解できるようになってきた。要するに、採用されて働き出して、仕事を覚えていく・・・
前回、勉強会の途中で仕事の電話が入り、それ以来、まったく聖書を使わなくなった。アクティフのことも何も言われなくなった。
とりあえず、仕事が与えられている以上、やっぱり教会で何かを学んで、それを生活の中で実践していく。それが、わたしの場合、未熟なんだろうな。本当は、家で聖書を読んでいるほうが好きなのよね・・・ 教会へ行ったり、仕事をしたりするよりも。24時間お祈りしているほうが楽だ、という意味が何となくわかってきた。というわけで、受洗後も木曜日は聖書の勉強会が続く。人それぞれだから・・・深く考えるの、やめよう。
(エゼキエル 5. 7-10)
ああ、おそろしい世の中。
何なんだ・・・あのだるだるな雰囲気は。
退屈だから早く終わらないかな、という雰囲気が充満し、教会へ入ったらいきなり風邪の症状が押し寄せ、下を向いていられない。家へ帰ってきたら治った。途中で席を外そうと思ったけど、我慢しているうちに治まってきたので、そのまま終わるのを待っているような感じだった。わたしだけかな・・と思ったんだけど、隣のほうの席からいきなりあくびをこらえる声が聞こえてきたので、何となくそういう空気が充満していたのかも。気のせいかな。
退屈な授業とか、やたらと長いお経を聞いているときのような感じ。
学生時代だったら、忍者のように脱走するのだが、さすがにババアになるとそういう節操のないことはできない。
それとも花粉症の季節が始まったので、それにやられている人が多いのだろうか・・・
わたしも一度調べてもらおうかな。今までアレルギーなんてなかったんだけど。
それとも、日本語と英語で同じ話が繰り返されていたせいだろうか。
わたしは車が停められず、少し遅刻したから気がつかなかったけど、外国人が多かったのだろうか。車を停めたらまた遅れてくる車が数台あり、そのくせ今日は台数のわりには人が少なかった。新しい教会ができたので、大家族で来ていた人たちを近頃みかけなくなったし・・・
それとも、インドネシア人の神父さんの転勤が決まり、神父さんがチェンジするからだろうか。
わたしたちの受洗は、今月中はインドネシア人の神父さん、来月はアメリカ人の神父さんが担当するらしい。「わたしたちの」とは言っても、わたしはほかの人たちのことは知らないのだけれど・・・
何が言いたいのかというと、何となく暗いんだよね・・・教会の雰囲気が。
気のせいかな。
まあ、いいや。
わたしには関係ない・・・
(エレミヤ 34. 12-17)
雨痕に春は悲しき灰色の空をかぶりてひねもすは往く
祈り空、あくびの声に起こされる。神父の声がBGM
葬式を待っているよな顔つきに春はなき笑み忘れ声響く
明るさを置き去りにして曇り空おとなしく春待つここちする
(ルカ 8. 1-3)
この時期だけはダメだなぁ・・・
昨日、徹夜仕事を終わらせ、申告書を提出し、家に戻って来ていたら、Mさんから電話。電子カルテの調子が悪いというので、電話で話していたら呼び鈴が鳴った。ひとまず電話を切り、玄関に出たらエホバの人たち。犬が飛び出しそうになったのでお断りする。いつもだったら、リーフくらいは受け取るのだけど、今の時期はダメだ。
再びMさんと電話。Mさんに言ったら、「もっと話をきいてあげたらよかったのに」と言われた。
・・・・・・・が、しかし、そんな気分じゃない。それに、しつこかったし・・・・ まあ、いいや。
それに、エホバの人たち、御ミサしないみたいだし・・・ 年に1回、最後の晩餐を祝うだけらしい。それで、集会をやって何をしているのか訊いたら、皆でグループに分かれて聖書の勉強会。聖書の勉強会と御ミサとは違うだろうと思ったんだけど、毎週やらなくても最後の晩餐を祝えばいいらしい。
わたし的には、そういうことは仏教でも宗派が違えば違うのだし、土地の習慣だって違うし、どうでもいい。・・・・・・でも、エホバはそういうことが大切らしい。
---- マリアは?
---- マリアは尊敬していますけど、聖書には出てこないし・・・
---- あなたね、Mくん(息子さん)が殉教したことを考えてみて。
---- 気持ちはわかりますけど・・・
たぶん、その後に「神さまのほうが偉い」とかナントカ言いたかったのだろう。
そうじゃなくて、・・・・そうじゃなくて、・・・・・
そうなんだよね。
どうしてわたしがプロテスタントでなくて、エホバでなくて、カトリックなのか・・・
Mさんは、「私たちは」という表現をする。
わたしは、「わたしは」としか言わない。
わたしたちの罪は、マリアさまを通してしか、少なくても、わたしにはわからないから。
マリアさまが偉いとか尊敬している、というのではなく、「あなた、自分の息子が殉教したときのことを考えてみなさい」、ということ。
信仰とか、希望とか、愛、とか、信仰って何なのか、希望って何なのか、愛って何なのか、「あなた、自分の息子が十字架に掛けられたことを想像してみなさい」としか、語れない。
・・・・・・・・怒っているというわけではなく、要するに、自分を説明するのが酷く面倒なときってあるよね。
雨の中、ふたりでとぼとぼ歩きながら、
---- 聖書、持って帰ったの知ってる? バルバロ聖書の続きを読もうと思って。代わりに新約聖書を置いてきたんだけど。
---- ぜんぜん、知りませんでした。
---- いつも使っているやつは、ぜんぜん注釈のないタイプで・・・
---- 毎日読むんですか?
---- わたしは毎日読んでいますね・・・ 開くというか。
---- カトリックで、そんなに聖書を読んでいる人なんていませんよ。
---- そーなの?
---- はい。私は知りません。
11億人もいるから・・・
原理主義ってどういうことなのかよくわからないけど、神父さんや牧師さんがこうやって言ってるから、ということではなく皆で集まって聖書を読んでいるのかも。気持ちはわかるんだけど、わたし的には今の時期だけはダメ。
精神的貧困。どっぷり自分の世界に浸っている。
(イザヤ 52. 13-15)
久しぶりに、CDを買う。レンタルショップに行ったけど、見当たらなかった。
20年ぶりくらいにアヴェマリアを歌い、歌詞を間違えて、今さら楽譜も残っていないので、ネットで検索しているうちに突き当たったCD。中にアヴェマリアが納まっているわけではない。でも、何となく今の気分にあっている気がして、アマゾンで探した。(こういうとき、ネットは便利だな〜としみじみ・・・)
好きなサウンドを聴きながら、ネットをしているという当たり前の生活が奪われ、わたしが家を留守にしている間に作歌用の聖書は犬たちにボロボロにされ、今使っているのは同じものの2冊目。注釈がないので、ある意味使いやすい。
注釈つきのお気に入りのバルバロ聖書はずっと職場におきっぱなし。一昨日持って帰ってきた。ひまなときに続きを読もうと思っていたけど、なかなかそういう時間がとれず、そのままにしてあった。詩篇で挫折してしまっていたので、続きを読もうかと。
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勉強会のときも、御ミサに行くときも、携帯用に作歌用の聖書を持っていく。実際に使うわけではないが、何となく。
今日、式次第を取るのを忘れてしまっていたら、隣の席の人が入り口のところに全部置いてあるからと教えてくださったのだけど、考えてみたら、マイ聖書を持ち歩くのは変なのだろうか。わたし的には、何となく手になじんだもののほうが落ち着くのだけど。
神さまはお話してくださらないので、聖書を開くことは大切だ。
・・・・・・・そして、今も何となく聖書を開く。そして、それを記録しておくのだけれども、今日はそのまままためくりまた閉じてしまった。特に理由はない。いつのまにか、さっと読んで、さっと閉じてしまうことに慣れてしまったのだろうか。
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読んでいる聖書が違う?
それが何の意味があるのか、わたしにはよくわからなかったし、今でもよくわからない。おそらくは訳そのものの違いより、注釈のほうが問題なのかもしれないし、ネットでカトリック用の聖書を検索しているうちに、リストマニアの推薦文を読んで、そういうところまで細かくチェックしている人がいることに驚く。
細かいことはどうでもいいような気がするし、それでいて、わたしは細かい。注釈などに細かいのではなく、日本語訳について細かい。微妙に意味とニュアンスが違う昔の祈りと今の祈り。英語は簡単だからと言われ、読んでみたらあまりにも簡単だった。だとしたら、わたしが子どもの頃に教えられたお祈りの文句って何だったのだろう?
毎回、聖マリアのお祈りをするのだけど、わたしはいまだに覚えていない。が、しかし、ラテン語ならほとんど覚えていることに気がついた。あれとこれが同じものだと初めて気がついた。
・・・・・その瞬間、いろいろなことが湧き出てきて、わたしは酷く疲れていることに気がついた。教会用に白ベールを買った。このところずっと使っている。洗礼を受けているとか、いないとか、もまるで気にならなくなった。受洗者と間違えられるので、列を変わるように求められても、わたしはとりあえず神父さんでないと祝福を受けられない、といちいち説明しなければならない。
何のために教会へ行くか?
白ベールが教えてくれた。御聖堂の中ではベールを被るけど、出ると取る。つまりは、教会はホーリーな場所だから・・・
つまりはそういうこと。(だと思う)
教会は、神聖な場所。
・・・・・・・・・わたしは急にそのことを思い出し、その瞬間、わたしの逡巡が何であったのかわかった。
・・・・・・違うんだよなぁ・・・・・・
何が違うのかと言えば、わたしにとっての最大のアクティフは何かのボランティアに参加したり、教会の仕事をしたりすることではなく、祈ること。
むしろ、日常にそういう時間が持てないからこそ、足を運ぶ。わたしには暗記するほど聖書を読む時間もなければ、24時間お祈りだけしているなんて不可能だ。やらなければならないことが多すぎる。
そこがホーリーな場所だからこそ、教会へ行く。
その瞬間、わたしはほかのことがどうでもよくなってしまった。
それが素晴らしいかどうか、わからないが・・・
(ローマ1. 8-15)