December 31, 2004

ムスリマ歌人との出会い

外は雪。
昨日の晩、母の病院から電話があり、吸引用の使い捨て手袋がなくなったと連絡。たしか買い置きを置いておいたはずだと思いながら、あっという間にそれがなくなったらしい。病院というところは不思議な世界で、歯ブラシがない、ティッシュがない、と欠品については案外神経質に連絡が来る。
おかげで、中越地震の余波で、わが家のほうも震度4くらいの地震が何度も続いていたにもかかわらず、渋滞の信号待ちをしている間に流れたカーラジオのニュースで地震の話をしていても、自分が揺れているということにまったく気づかなかった。その時はたしかティッシュを届けに病院へ向かっている最中だったと思う。

世の中が地震の恐怖に怯えている中、わたしは地震を単なるクルマのアイドリングだと思っていたわけである。地震よりもティッシュの欠品のほうが重大問題だった。

9月1日の朝、イタリアから帰国。言っておいただろうと思いながらも、学校を休んだので、娘の担任から電話。

「・・・・まほちゃん、台風のせいでお休みかと思って・・・」

はあ?外はよく晴れていたし、どこに台風が・・・・
それに、台風なんてめずらしくもないし、先生が言う意味がわからなかった。

正直、イタリアで雨らしきものに遭遇したのは1日だけで、それもパラパラ落ちる程度で、大抵はペットボトルを持ち歩きながら暑さに喘いでいた。隣の国でオリンピックを開催しているというのに、結局、部屋でテレビを観るだけ。しかもイタリア人選手の活躍ばかりで日本人選手が出場していることすら不明。そうなるとフィレンツェで交通事故があったことは知っているけど、日本が台風被害に苦しんでいるなどという話はまったく知らない。

というわけで、帰国したばかりで、いきなり台風のことを言われてもわからなかった。

だから、スマトラ沖で地震が発生して、いきなり感染症を心配して世の中が大騒ぎしているというニュースを眺め、複雑な心境に陥っている。たしかにコレラやマラリアが蔓延したら大変なことになるだろうな・・・と思う一方で、子犬のマリアの感染症のことを考えるからである。

子犬の3割が感染症が原因で処分されてしまう。人間で考えれば大変なことである。生まれた子どもの3割が感染症が原因で亡くなるとすれば、それこそ感染したというだけで大変な事態である。犬の場合、その3割が簡単に殺されてしまうということであり、殺されないまでも死んでしまう。
わが家に赤ちゃんがいなかったから、わたしはのんきにしていたのだろうか?もし、パルボだとすれば、人間の赤ちゃんにも感染する。

マリのことではすごく怒っていて、獣医やペットショップの都合でマリが処分されてしまうということは人間のエゴイズムそのものであり、許しがたい行為のような気がした。何となく、自分を含めて、今まで身勝手に生きてきた人間が滅んでしまったとしても、どーでもいいような気分にまで陥る。もう、十分に生きてきたではないか・・と。

でも、その後すぐに本当に巨大地震と津波が発生し、何万人もの犠牲者。なおかつ二次災害としての感染症が心配されているとなると、おそらくはもっとたくさんの人たちがそれで命を落とす可能性がある。

マリがパルボではなく、コレラやマラリアに感染していたとしたどうだろう・・・


*********************

姑さんが、結婚した時から言う。息子のところは国際結婚みたいなものだから、と。

わたしは日本人である。ダンナも日本人である。少なくても国際結婚ではない。でも、今回、まるやむさんの短歌を読んで、その意味が何となくわかった。バングラディッシュの人と結婚し、日本では数少ないムスリマであり、それでいて作歌歴20年、どこまでも和歌っぽい短歌。敷島だな〜とヘンなところで感心してしまう。

あっさり語れば、わたしはクリスチャンなのである。

いつから自分がクリスチャンになったのかも覚えていない。それくらい、潜在的にクリスチャン。いまだに洗礼も受けていないし、礼拝にも行かない。にもかかわらず、おそらくはわたしがキリスト教国に生まれていたら、「仏教徒の日本人と国際結婚をした嫁」という立場にあるんだろうなーと自分を理解した。

近頃、姑さんが元気で、うちがずっとこちらにいるのなら、神戸の墓をつくばに移し、姑さんが仏壇を、と言っている。日頃、信仰心などないにもかかわらず、お墓のこととなるとやたらとうるさい日本人の典型みたいなもので、姑さんが亡くなったら、わたしが仏壇を管理しなければならないらしい。

いや、母が普通の人だったから、彼女がやっていたことをわたしがすればよいだけのこと。禅宗だったらおしきみを取り替えて、毎朝、お水とご飯。うちはあまりご飯を食べないので、そうなるとお米をそのまま供えるとかね。で、線香立てて、チ〜ンチ〜ンとやっていたら、文句は言われない。
こういうのは、文化の一つであり、その通りにしていれば誰も文句を言わない。

でも、わたしはクリスチャンなのである。

祖母のように、熱心な仏教徒だと、それこそ宗派によって教えが違うとばかりにものすごくこだわりがある。祖父の家は禅宗で、祖母の実家は日蓮宗。そうなると、仏事は仏事、宗教は宗教とばかりに、祖母は身延山とか誕生寺や清澄山のように日蓮さんゆかりの地へ毎年巡礼。生き様闘争みたいなもので、例えば浄土真宗みたいに他力本願はダメ、となる。日蓮さんのような改革派が好きらしい。法華経の世界だからね・・・わたしは詳しいことはわからないけれども、自分の人生は半分以上自分で取り替えられるものである、というのが祖母の主張だった。

祖母がクリスチャンだとすれば、カトリックではなくプロテスタントなのだろう。素直にお釈迦さまを拝むより、法華経という世界だから。何となく共通の匂いを感じる。

このような家庭環境にもかかわらず、わたしはクリスチャンなのである。

特に何が不服とか、食わず嫌いというわけでもなく、信仰心というのはいわば理屈を凌駕して存在しているために、逆に日頃はこういうことで諍いになるのはつまらないとばかりに避けて暮らしている。

わたしは、日蓮さんが好きである。祖母の影響もあるのかもしれないけど、人間的に好きなのである。それでいて、それが本当の意味で、信仰心とは思えない。愛も感じ、尊敬の念も感じ、それでいて、神さまというのはもっと大きな存在としてわたしの中では存在している。そこのところの違いがうまく説明できない。

姑さんが、国際結婚みたいなものだと笑う理由がここにあるのかもしれない。

わたしは、和歌も短歌もまるで好きだとは思えない。それでいて、毎日、神父さんのサイトで詠んでいた。

真中朋久さんから『エウラキロン』という歌集をいただいた。どうして、わたしのところになんか送ってくださるのかまるで理解できなかった。一つには、わたしのサイトに来訪して、ということと、「今度の歌集は宗教色が強かったかもしれない」という真中さんの言葉の中にその理由を見つけた。

そうなんだよなぁ・・・というか。わたし的には、『エウラキロン』はまるで宗教色などないような気がしてしまうのである。世の中はもっと濃厚な世界や書物はいくらでもあるのであり、ただ、それが歌集であるというだけの理由で、やたらとそういう負い目に近いものを感じざるをえない。

特に、イラク戦争や自衛隊の派遣の影響を受けて、いくらクリスチャンが反戦を訴えても、イラク戦争での従軍牧師の姿の映像が映し出されれば、わたしでさえ宗教的不信感に喘ぐ。そして、和歌という特殊な世界。

和歌というのは、いわば中越地震時におけるティッシュの欠品、スマトラ沖地震時におけるマリの感染症みたいなものなのかもしれない。世の中にはもっと重大な出来事が蔓延し、忘れ去られていってしまうことに比べれば、自分の悩みなんてほんの一握の砂なんだと思う。

傍若無人、か。

石川啄木になりたい。

神さまとだけお話せよ、か。

まあ、なんと言いますか・・・・わたくしとは宗教も環境も歌人歴も違うけれども、結社も同人も関係ない、それでいて短歌が好きで歌歴20年のつわもののムスリマ歌人が世の中にいるというだけでも救われた気分なのでございます。つおいよなぁ・・・朝日歌壇か。そーいうのあることも知らないわたし・・・

投稿者 Blue Wind : 05:26 PM | コメント (0) | トラックバック

ラブレターの添削?

アメブロにブログをつくって3週間になる。そろそろ慣れてきて、アメブロ内を散歩。いきなりトラックバックが飛んできて驚く人もいるのだなぁ・・などと、たしかに検索にも出難く、ひそやかにやろうと思えばいくらでもひそやかにやれそうなアメブロ内での露出を考える。

一番簡単なのは、トラステへ行き、お題を拾う。それに関連したネタをアップすれば誰も驚かないし、逆にアップするだけでトラバが飛んでくる。こちらからもトラバすれば相互リンクになる。これこそブログの醍醐味のような気がする。これで、YAHOOやGoogleなどの検索に引っかかるようになるとなおさら楽。

ところがあまり理想どおりにはいかないので、アメブロの検索を使う。これでキーワードを打ち込み、関連のありそうな記事を見つける。これがなかなか面倒な作業。

例えば、時事ネタを打てばいくらでも関連ブログが現れる。「スマトラ沖地震」とかね。ところが、「短歌」や「歌人」で検索しても、数が少ないのとあくまでもパーソナルなスタンスでブログをつくっているせいか、いきなりトラックバックを飛ばしても驚かれるということに気が付いた。

これなのよね・・・いつもこれ。

これってインターネットだからこれなのではなく、短歌にはいつも同人とかサークルというニュアンスが伴う。その大型化したものが結社や雑誌。作歌に関しては、歌人は一人の世界だと思っているので、作品発表というニュアンスがピンと来ない。歌をやりとりしていても、基本的にはそれぞれが自分の世界に揺られているだけだと思っているからなおさらかもしれない。

歌人の小林信也さんのサイトに、小説という短歌のコーナーがあり、恋歌などがアップしてある。これって、最初に見たとき衝撃でしたね〜♪ 恋歌が衝撃的だったのではなく、それを「小説」とカテゴライズしているところがなかなか衝撃的だったわけです。

短歌は基本が写実だと知ったのはその後なんですけど、自分の歌は「記憶の砂」だと日頃から思っているわたくしとしては、なおさら迷った。例えば、プーケットの津波被害を見ているうちに歌が浮んでくる。それは架空の世界かもしれないけれどもまったく架空の世界ではなく、かつてその地に立ち、その場で感じた風景などがフラッシュバックして自然と浮んでくる。

今現在の姿ではないかもしれない。でも、南国のスコールや雨季のタイの波の様子や、屋台など、いろいろな風景が浮んで、そこに微かなイマジネーションが混じる。

短歌は語句が少ないために、その一言を表現するためにあらゆる選択を瞬時に行う必要がある。だから、あくまでも写実に徹するか、抽象的な表現を含ませるかはその時々の気分次第のような気がしてしまう。

ネットは恋歌が多いと、よく言われる。若い頃ならせいぜい恋の歌くらいしか浮ばないのではないかと思っていたけど、実はそうでもなさそうなことに気が付いたのは最近。こういうのは好みの問題であって、年齢の問題ではないらしい。

自分的には、なんで女同士で恋の歌をやりとりしてるんだろーと不可思議になりながらも、しょせんネットは一人の世界、短歌は一人の世界と割り切って、恋愛観というか、愛と恋の違いとか、過去の記憶とか、あまり深く考えず詠んでいたこともある。
逆に、仮に相手が異性であったとしても、仲良くなったりすると、ぷぷぷ・・という感じで、とてもじゃないけど互いに恋歌なんてやりとりできないっすよ、ってなる。特に、奥さんがテキストを見張っていると思ったらなおさらかも。
そういう意味では、互いに不毛で非現実的で、生産性はなかったかも。

でも、個人の内面世界という点では、どうなんだろう・・・森瑤子さんでも、「まったく経験したことのないことは書けない」と書いていたから、現実と非現実と、それがどこまでがリアリティなのかまでは誰にもわからない。

ところが、実際には歌人の世界は大真面目。いきなり短歌をメールで送ってきて、「選歌してください」というノリのほうがニュアンスに近い。さすがにわたしのところにはそういうメールは来ないけど、メジャーになるほど多くなるのかも。感想まで書いている暇はないから、○とか△をつけるらしい。
たぶん、恋歌なんかも○や△をつけられるんだろうなーと思うと、ちょっと可笑しい。ラブレターを添削する人はいないと思うんだけど、そういうことを大真面目で皆でやっているというところが歌壇なんだなーという気もする。
まあ、セクハラ短歌を送ってきて、返歌しないと怒り出すというよりましな気がするけど。

大真面目なんだよなぁ・・・

その微かなる匂いをアメブロの読者に感じた。発信する側としても真面目なんだろうけど、読者としても真面目。トップランカーのブログなどを眺めていると、あのおっそろしいほど長い活字を毎日読みに来ている人がいることに驚く。目からうろこ。

あくまでも小説を書きたい、という一言でアメブロでは書評のジャンルでがんばるという切込隊長ブログの言葉を読んだ時、来年からジャンルを変更しようか迷っていたわたしは腹が据わる。小説を書くわけではないけど、短歌のブログだから書評のジャンルでいいのである。
芸能人のブログがないからアメブロにしたという点でも、まったくの同感であり、そうやって何となくノラクラしているうちにこのようにテキストが長文化していってしまう。

でもね・・・・この夥しいほどの活字中毒者のブログを眺めていると、わたしはまだまだ甘いことに気が付く。

文学の人間は、石川啄木のように傍若無人でかまわない。

こうやって、わたしは次第にアメブロに洗脳されていく。


----ハイパーリンク貼れよ〜。>わたし
----やだ。めんどっちー。

投稿者 Blue Wind : 01:00 AM | コメント (0) | トラックバック

December 29, 2004

歌人のフェロモン

アメブロに逃げ出して以来、近頃、作歌をさぼっている。というか、これでも実は多いくらいなのかもしれない。次第に外から冷静に歌人の習性というものを観察できるようになった。

あっさり語れば、彼らは短歌が好きなのである。

当たり前のことなんだろうけど、好きになり方が違う。普通の好きではなく、マニアックな愛し方にも似ている。だから、このように短歌のブログのくせに駄文ばかり書いていて作歌量が減ったとしても、「短歌」というカテゴリーがあれば眺めないではいられない。それが歌人・・・

それで、好きな人になればなるほど、短歌の世界に没頭する。どうしてかといえば、歌人だから・・・

わたしには歌人という意識がなかったのである。それは言い訳ではなく、もともと短歌や和歌が好きではなかったから、どうして歌人がそんなに和歌に執着するのか、が理解できない。
でも、それは実は和歌そのものへの執着ではなく、いわば一つの自己表現手段だからこそ他人の歌も気になるのであり、選歌にもこだわる。


こーねー、これだけランダムに気楽に詠ってくると、そりゃいろいろな歌が雑じります。いくら短歌のことを知らないわたしでも、これは選歌されやすい、これは捨てられやすいということくらいの区別はつくようになってくる。

逆に考えると、わたしのどういう歌を選歌するかによって、その人の好みや人生観が見えてくることがある。


わたしは、歌人としては自由奔放だ。
その結果として、「形よりも心だ」と言われる。
あのー・・・・
それってつまり、わたしの歌は短歌ではないとおっしゃりたいのでしょうか?もう何を言われても、まったく気にならなくなってしまった。

言の葉を並べて短歌と言っている中でも、** Blue Wind ** の歌は好きだ、という表現を初めて読んだ。そこまでになると、褒められているんだかけなされているんだかわからない。

言葉の羅列の美しさという点において、形にこだわる人は多いと思う。でも、歌の好きな人たちにすれば、わたしがしらいしでもしろねこでもりんでもRindoでも、** Blue Wind ** でも、単なるテキストでもかまわないらしい。


この前、ちょろっとネットで検索して、馬場あき子さんの短歌を読んだ。

正直、素晴らしいと思った。雑誌などに掲載されている短歌よりも、歌集の歌のほうが素晴らしいと思った。いや、歌集が素晴らしいと思ったのではないだろう・・・だって歌集を読んだわけではない。
おそらくは、お弟子さんなんだと思う。歌集の中からピックアップして、並べている。おそらくは有名な短歌ばかりなんでしょうけど、わたしにはどれも新鮮だった。

そのサイトの中で、「馬場あき子の歌は食わず嫌いな人が多いけど」というフレーズを発見。

そうやって言われてみると、そうかもしれない。いや、そうではなく、わたしには高尚すぎるのだと思う。でも、その高尚さが美しさでもあり、深々とした和歌の世界を伝えている。

再びそのサイトの中で、「『サラダ記念日』は好きではなかったけど、馬場先生が褒めていたので読んでみた」というフレーズを発見。

本音だな・・・つまりは、歌人としての立場で考えればよくわかる。馬場あき子の短歌が好きな人は馬場あき子の短歌を詠んでみたいのである。馬場さんの短歌と俵さんの短歌では、一般論としてはまったくスタイルが違う。ところが、馬場さんは俵さんの短歌が好きだという・・・


誰が為に鐘が鳴る、ではないけれども、要するに姿形には現れない歌人の魂という鐘を聴く人がいるというだけのことであり、嗅覚や本能のように、秀歌には歌人を惹きつけるフェロモンがある。

そういうフェロモンを嗅ぎ取る程度には、わたしも歌人になったのだと思った。いや、歌人になったのではなく、短歌が好きになってきたのかもしれない。いや・・・そうではない。

神父さんの言葉の中に、「こころの静かな人にしか神さまは見えない」というフレーズがある。

おそらくは和歌も一緒なのだと思う。こころが静かにならないと歌のよさが見えてこない。

読者を信じろ、という内容の短歌の記事を読んだことがある。その時にはよく意味がわからなかったけれども、今ならその意味が少し理解できるようになった。

投稿者 Blue Wind : 12:42 PM | コメント (0) | トラックバック

December 23, 2004

風狂の歌人

娘がわたしのお誕生日にくれた短歌の本は、『声に出して味わう日本の名短歌100選』。檀ふみさんの朗読CD付き。まだ聴いていない。万葉集から近現代の歌人の歌を収録している。短歌の魅力は、一重に詠み人しらずとか、山崎方代さんのような風狂の歌人にある。
詩でも八木重吉さんのように、亡くなってから作品が世に出るということはめずらしくない。つまりは、生きている間の独り言が亡くなってから発見される。生活から来るしみじみとした想い。

そういうことを考えると、休日の昼下がり、リビングのテレビの音を背に、こういう話を書いている自分はアマちゃんだと思う。そういう平凡な自分がいて、それでいてどこか風マニアな自分も存在している。


忘れもしない2001年2月5日、初詠み。(CGIに日時が記録されていたからである。)

時はなおガラスのように崩れゆき轟きを泣き震撼に泣く

これってね、恋の歌なんかじゃないんです。たまたまそういう歌ばかり集めているところに投歌したせいで、そうやって勘違いする人もいるかもしれないけど、実はわたしの人生・生活からくる悔しさ。

ある日突然、ダンナの神戸の実家が震災で焼けて、義父が癌で亡くなり、自分の母親までくも膜下出血で倒れ重度の障害者となり、姑さんは鬱病になるし、子どもはまだ赤ちゃん、ダンナは仕事・仕事・仕事。
そういう悔しさを詠んだ歌。

いざこれからという時にすべてを失ったという愚痴っぽさを短歌でカモフラージュしている。


星一つ見えない夜の暗闇に指先沈め砂文字をかく

2首目。これは、砂漠で暮らすランボーをイメージして・・などと優雅なことを語っているけど、実は、「バーチャルの闇」を詠んだ歌。


どちらもその時の心境が自然と歌になっただけ。


本音を語ると、短歌なんて嫌いだったし、いまだに『百人一首』ですら覚えていない。『サラダ記念日』ですら読んだことないし、要するにまるで興味がなかった。

この手の短歌がどういう部類に分類されるのか、わたしにはわからないし興味もない。

ある日、結社に加入するメリットとして、1200人の固定読者がいるという説明を受けた。・・・・・・・なんと語ってよいのか迷うべきだった。

その時、わたしがあっさり語ったのは、例えばガイアックスのサイトのトップページに歌を貼り付けてログジャンプすれば、一日500人以上の「読者」が確保できることになる、ということ。

桁が違う。

数にこだわるわけではないけれども、すでに作歌が日常生活になっているために、毎月数百首の歌を詠みこむ。


ある日、「孤高の歌人になれ」と言われた。

どうせなら風狂の歌人のほうがいい。


さてさて・・・
マリちゃんを送りにゆかねば。


■関連書籍

著者: 荒木 清, 佐佐木 幸綱, 檀 ふみ
タイトル: 声に出して味わう日本の名短歌100選
著者: 八木 重吉
タイトル: 八木重吉詩集

投稿者 Blue Wind : 07:10 PM | コメント (0) | トラックバック

December 19, 2004

ひとりヨガり?

素樹文生さんの日記を読んでいて、たまにはヨガでも行って、瞑想に耽るのも心地よいのかもしれないと思った。ヨガでなくても、聖書を読みながら歌を詠むというのも一種のヒーリング・・・

このところトラックバック短歌で遊んでいる・・はずが、どうも現実に話を戻されてしまう。

理想と現実。
という意味での現実。

最初、歌を詠み始めたばかりの頃、返歌と連歌の違いもわからない人たちばかり。わたしも知らない。

ただ何となく、その人の短歌を読んで返歌する。もしかすると、この人だったら、わたしのこのつまらない歌をわかってくれるかもしれないと思うからかもしれない。

そうやって、ただ何となく詠んでいるうちに、それが自然と返歌のラリーとなっていっただけ。

投歌と返歌は違うよ。

投歌というのは、皆でそれぞれの歌を持ち寄る。それで、選者がいて、この歌がよいとか冴えないとかいろいろ。

ある意味、どこまでも権威主義的な世界。
インターネットでも変わらない。

返歌というのは、相手がわかってくれればいい。
何となく素直な共感。

◇関連書籍
著者: 素樹 文生
タイトル: クミコハウス
著者: 素樹 文生
タイトル: 旅々オートバイ

投稿者 Blue Wind : 05:21 AM | コメント (0) | トラックバック

December 18, 2004

好きにさせてよ・・・

歌人よ・・・・
あなたたちはたまに何か勘違いしていると思うことがある。

今朝、某サイトへ行った。久しぶりに遊ぼうかなーと思っただけ。しりとり短歌をしていて、去年あたりはたまにお邪魔していた。そこなら、どうしても初出の歌でないとダメだと言われるわけではないし、インターネットだから匿名で遊んでいる人たちも多いし、本格的にやっている人たちもいるし、それでいて初めて短歌を詠んだという人たちもいる。

すると・・・

BBSに、「初めて一句詠んだ」という書き込みがあった。まだ中学生かもしれないし、高校生かもしれないではないか。わたしだって、最初のうちは、一首と言わず、一句と言っていた。俳句と短歌の違いも文字数の違いくらいにしか思っていないから、あまりややこしいことは考えない。

そういうのはわたしだけだろうかと思っていたら、匿名でネットで知り合った人の中にも、短歌を一句と言っている人いて、訂正しようかと思ったけど、意味が通じるからそのままにした記憶がある。

そこの管理人さんも同じ考えのようで安心した。

でも、匿名でそういうことを通りすがりに怒ったように書く人もいる。短歌は一首と数えるものだって。

そのどちらも歌人なんだと思う。

わたしなんて、自分が歌人という自覚が出来たのはそれこそつい最近のような気がする。つまりは、それまでは単にサイトのネタで詠んでいただけだし、現に一緒に遊んでいた人たちは、これはまずいとなったらさっさとサイトを閉鎖して、短歌のたの字も出さずに違うジャンルで遊んでいる。
短歌をやめて、詩だけにするとかね。

それは、その人たちの自由。

わたしも、いわば、そういう人たちの一人に過ぎない。

なのに・・・

あっちは有名な歌人たちなんだから、わたしのような無名の歌人が何を書いていても無視すればよいだけのことではないだろうか?

なんだか憂鬱になるようなことばかりで、結社誌にも投歌しなくなってしまったし、わたしは非常に失敗した思っている。結社誌のほうも上に言われて慌てて出しただけ。

そもそも、歌人の名前なんて知らないのです。短歌が好きで詠み始めたわけでもなく、何となくのらくら詠んでいるだけ。普通は皆そういう感じだと思う。何度も何度もたまたま入門書で有名歌人の歌を見つけて、そこの結社に入ってみようかなと思ったに過ぎない、のらくらと雑誌購読のつもりで結社誌も買っているに過ぎない、と書いてきたはず。

それの何が気に食わないのか理解できない。

今回、でも、何となくわかった。

理想の問題なんだと思う。

わたし・・・はっきり書くけど、まだ来年の2月が来て、やっと歌歴4年。
どんな歌が好きで、どんな歌が詠みたいかは、まだまだこれからの課題だと思っているし、そういう点で、今はフリーな立場にいると思っている。

それに、「弟子という言葉はもう死語だと思っていた」とあっさり語る歌人もいるし、一つの世界しか知らないとそれが当たり前だと勘違いするけれど、同じ歌人の世界でも結社によってカラーが違うことも学んだ。

作風についても、すごくスタンダードな歌が好きな人たちもいれば、もっと違うスタンスで作歌を続けている人たちもいるし、紅白歌合戦だから、演歌が好きな人もいれば、ロックが好きな人たちもいる・・ということで、単に個人の好みなんだと思っている。

いずれにせよ、趣味なんだからさ・・・・短歌は。お仕事しているわけではないのです、わたくしは。

あんな記事読んだら、それこそ逆に引いちゃうんじゃないかな・・・事情を知らない人たちが見たら・・・

そんなことより、マリちゃんが回復したことを喜びたい。

投稿者 Blue Wind : 11:43 AM | コメント (0) | トラックバック

December 17, 2004

お題とテーマ

今、わたしはトラックバックを覚えたので、トラックバック短歌、つまり、投歌をして遊んでいる。本当は、トラバ短にしたかったのだけど、これでは検索に引っかからないので、諦めてトラバ短歌にした。自分で言ってみて、トラバタンのほうが言いやすい。

いや、いっそのこと誰もわからなくてもトラバタンにしてしまおうか・・・

まあ、そんなことはどうでもいい。

わたしは、いまだにお題ってよくわからない。でも、俳句のサイトへ行って、ピンと来た。「ああ、お題、かあ・・・」みたいなシケた気分。トラックバック・センターへ行き、もっと理解した。つまり、お題がないと盛り上がらないから、お題なんだなぁ・・・と。

こういうお題で作文を書けとか、寄席とか、いわゆるお題。「座布団何枚持ってけ」の世界。
題詠マラソンのお題も、単にそういうニュアンスだったのかと何となく理解する。あまり馴染みがないせいで、よくわからなかった。

近頃ならテーマという言葉のほうがお題の意味に近い気がする。

短歌の場合のお題というのは、文字通り、「夢」なら「夢」という漢字が含まれていればよかったりする。夢中、悪夢、その他諸々基本的にその歌の中に文字が含まれていればよい。

例えば、題詠マラソンのお題の中に、「海老」というお題があった。「地中海老人つどう教会は白い柱と真っ暗な闇」という具合に詠む。歌としてはつまらないかもしれない。でも、「海老」ではなく、「地中/人」という具合に2句にまたがっても連続してその文字が含まれていればルール違反にはならない。

ところが、「捨て台詞」を「捨てゼリフ」と詠み、ルール違反を指摘された。サイバー上で詠んでいるために、勝手に変換されてしまい、自分がルール違反をしているという自覚はまったくなかった。

サーフィンしているうちに、「新月と冬の寒さ」というお題を見つけた。これってね、以前のわたしだったら通過していたと思う。つまり、意識の中ではこちらのほうがまさしく「お題」だからだ。

今の時代は、「お題=テーマ」と受け止める人たちのほうが多いから、短歌みたいにその語句そのものにこだわるというのは、本当は変なのかもしれない。これにはれっきしとした理由があるのかもしれないけれど、わたしにはわからない。

「東」という漢字を、東京、東雲、etc.という具合に、あれこれイメージすれば結局は同じことをしているのかもしれないけど、歌人がお題を提示すれば、「新月と冬の寒さ」は、新、月、冬、寒など、あるいは、せいぜい新月くらいに分割されてしまいそうな気がする。

「新月と冬の寒さ」がお題なら、普通は、それっぽくそれをイメージすればよい。まさしくそれが普通のような気がする。

サーフィンしているうちに、おや、とか、あれ、って思うことが多い。BBSなら通過したかもしれないけど、トラックバックというのは相手のサイトに掲載するのが目的ではないから気楽。なんか、遊んでしまう・・・

投稿者 Blue Wind : 02:13 PM | コメント (0) | トラックバック

December 14, 2004

次の風を待つ

短歌って、なにが短歌なんだかわからなくなるから面白いんだと思う。

今、久しぶりに短歌のサイトをサーフィンして、近頃、ブログばかり眺めているせいか、サイトって見にくいなどと思いながらも、--つまり、いちいちクリックして、行ったり来たりするみたいで、一枚ページに慣れてしまうとクリックすら一方通行が気分がよいとすら感じながら--、検索を遡る。
検索上位定番サイトを越えて、次第にマイナーなページへ飛び、今はもうすっかり廃れてしまった「100の質問」の歌人版などを眺めながら、もうこれを書く気力はわたしには残っていないなどと感じる。

そして不意に、枡野浩一さんとか、加藤千恵さんとか、実は名前くらいしか知らないことに気づく。
歌人の名前なんて、正直、国語の教科書に載っている程度の知識しかない頃から詠んでいるために、自分がネット歌人を自称しているくせに、本当はそういうネット短歌自体にも興味がないことにも気づく。
あゝこの辺りから、イメージがつくられてしまっていったのだと気づく。

わたしには何の関係もない。
もう少し早く詠み始めていたら違っていたかもしれない。
その「100の質問」の中の、”リアルでは短歌とはなんの関係もない”というフレーズが印象的。
実際問題、わたしも歌会にも行ったことがないし、今はまだ行こうという気になれない。結社には入っているから、参加しようと思えば機会はあるのだけれど、何となく足が向かない。
それは、リアルとかバーチャルということではなく、単に日常が忙しいとか、歌会の意味と意義を理解していないとか、選歌の奴隷にはなりたくないとか、ある意味とてもわがままさが根底にある。もう7000首以上詠んでいるわけだから、それこそあれにこれにと歌はある。
ある人はそのままでいいと言い、ある人はそこから言葉の配列を考えたりしながら練り直す作業をしなければならないと言い、おそらくはそんなにたくさんいるかどうかは別として、100人の選者がいれば、100人の選者がそれぞれ違うことを言っていたとしても当たり前の話であり、のらくらといろいろな人たちの意見などを聞いてしまうと、ますますわからなくなっていってしまう。

詠み始めたばかりの素直さが懐かしい。
あの頃は、サイトに集まっているのが、それこそ気楽にネットで短歌を詠んでいる人たちばかりだったから、それは短歌ではないと言われればNHK歌壇に投稿して、「ほらほらほら〜、伊藤一彦さんが選歌してくれたよ〜♪」などと言って無邪気に遊んでいた。
伊藤さんだったからよかったのかも。これが、枡野さんだったらネット短歌と言われてしまったかもしれない。
偏見だよなぁ・・・・おそらくはすごい偏見なんだと思う。2,3回結社に投歌してみて、それは感じた。

昨日、書評のブログをサーフィンしているうちに、俵万智さんが与謝野晶子の歌をチョコレート語で翻訳しているという本が紹介されていた。調べないとタイトルはわからない・・・すでに忘れた。でも、あれは源氏物語の和歌を瀬戸内寂聴が口語訳しているよりも、意味不明だと思った。すでに、与謝野晶子の短歌が鑑賞付きで発売されているところをみると、もしかするとチョコレート語ではないと通じないのかもしれないという恐怖はある。

世代の差は歴然としてあるような気もする。
もしもわたしが高校生だったら、与謝野晶子調でなんて詠めんぜよ。それこそ授業中のひまつぶしにノートにちょこちょこ書くような歌が本気っぽくて面白い。でもさ・・・正直、わたしはジョン・レノンが射殺された年齢をすでに超えてしまったのである。ランボーが死んだ年をクリアして作歌を始め、あっという間に坂を下り、それでも今のところ無事に生きているみたいなので、今度の目標は森瑤子である。そこまで長生きすれば、また次のステップを考える勇気が出て来る可能性はある。

が、しかし・・・・匿名でいわゆるネット短歌っぽく遊んでいた人たちが、実は50代とか60代の人たちだったとしたら、どう思う?
気分だけは、10代、20代なのかもしれない。
わたしもそのうちそういう気持ちが理解できるような年頃になる。生きていれば。
ネットだから、できる業なんだと思う。
おじいさんが、枡野っぽく遊んでいる。
それはそれで悪いことではない。でも、きっとリアルではできないんだろうと、思う。いっそのことできる人ならネットなんかで遊んではいなかったりして。それは恋歌ではなくセクハラ短歌とまで言われている。ある意味、怖いものなしなんだろう。なんか、うらやましい。
老人ホーム、か。

選歌の奴隷・・・・・
昔はよかった。って、ついこの間なんだけど。
葉書出して当選したみたいなノリ。てきとーに詠んだ歌を宝くじ感覚で賞に出す。
今、もう、違うもん。
”本気”だからさ、ご意見番も。

などと何でもサイトのネタにしながら、時間は過ぎる。
これが短歌であるという定番もあれば、何が短歌なのかわからないという定番もできつつある。
で、次が・・・・・わからない。
風だからな・・・

投稿者 Blue Wind : 02:53 AM | コメント (0) | トラックバック

December 11, 2004

箱の使い方

インターネットの可能性は、無限大。
良い言葉。


自分という人間は、凝り性で飽きっぽい。実際には凝り性とまではいかないような気もする。要するに飽きっぽいから興味がなくなると自然と忘れてしまう。
機械の使い方も満足に知らないうちに、プロバイダーが1ヶ月無料という言葉に惹かれて、そのままネットにはまり込む。とりあえず、チャット→メール→BBSの管理人→インスタント・サイトの管理人・・・という順番にノラクラやっている。この世界は日進月歩みたいな世界なので、あっという間に流行が変わる。
いろいろやっているうちに、テキストを書くことを覚え、タグを覚え、最初の頃は、「りんはおばかなんです〜♪」というノリが楽しかった。もともと人間が軽いし・・・すぐに遊んでしまう。
そのうちジャンキーに追われて、これではまずいということで、毒舌サイトへ逃げる。これも一種のストレス発散。面と向かっては言えないようなことでも、単なるテキストだと思えば書ける。そのほうがアクセス数も多い。一体自分でも何をやっているんだか・・などと思いながら、歌人にならなかったら、そのまま続けていたかもしれない。
歌壇は、狭い・・・しかも、完璧な上下関係社会。匿名で遊んでいるうちは気楽だけど、どういうわけか、そういうわけにもいかなくなり、ブログへ逃げる。まだ今みたいにインスタント・ブログが少なかった頃で、自分で有料サーバを借りてアップ。少し待てば、もっと楽だったのに・・と思いながらも、自分でアップしたブログの場合、そのままFFFTPで自分のパソコンに落とせるので、よく考えてみたらこちらのほうが楽。

問題は、サイトの性質かもしれない。
BBSなど、コミュニケーションが主体のサイトの場合、レスがあるとかないとか、リンクがどうたらこうたらとか、いろいろややこしすぎる。知り合いにしかURLを知らせないとかね。果たして、そういうサイトをつくってもらったときに気がついたのだけど、自分にはそういうサイトは必要ない。だって、友達だったらメッセンジャーとかメールとか、BBSが必要な理由は何もない。
そこでまた、グチ。
歌壇は狭い。しかも、完璧な上下関係社会。短歌に特化したサイトをつくった場合、誰が読みに来ているかわからない。それでいて匿名でないとなったら、書きたいことも書けなくなる。これでは何のためにサイトをやっているのかわからない。
わたしは書くのが好きなのである。楽しい。面白い。ストレス発散。
だから、書きたいことが書けないくらいなら、何のためにネットをしているのかわからない。
だったら、短歌だけにしろとか?
これもやってみたんだけど、どうしても歌に毒が混じるために、結局は同じことのような気がした。

この前からいろいろ迷っていて、旧いサイトをどうしようとか、いまだに勘違い系のあらしがあるし、あんなサイトは閉鎖したほうがよいような気もする。だけど、4年近くあれで遊んで来たのだから、いざ閉鎖するというのも寂しいし、無責任。かといって、憂鬱だよ〜〜〜(笑)。

それで迷った挙句、新しいブログをつくった。サーバが提供しているブログを眺めると、何となくそこの雰囲気がわかるような気がする。作家のブログが多いところを借りる。プロの作家なら、トラックバックを送信しても逆に気を使う必要性がない。
こう、インターネットは無限大ということで、感性を拾いたいのよね・・・プロの作家でなくても、何となくインスパイアされるテキストを見つけて、そこから作歌のイメージを掴んで行く。
短歌のブログもたくさんあるけど、何となく逆に気を使う。
もっと自由に胸を借りて、そこからコミュニケーションが派生して行くというのが今の目標かもしれない。写真やイラストのサイトへ行って、そこから感性を拾ってもいい。

あれこれ親のこととか、マリちゃんのことなどを考えているより、その瞬間だけでもそれから解放されるから、作歌や駄文を書くエネルギーに繋がるのかも。単なる気分転換のネットなのかな。基本的には同じテキストだったらミラーをつくっても意味がないのかもしれない。でも、あっちに書いたり、こっちに書いたりするほうが気晴らしになるし、逃げやすい。
いくつサイトをつくっても似たような人たちばかり来訪しているというのでは、何となく寂しくないか?わたしの考えすぎなんだろうか。

とりあえず、不意にインスパイアされたので、やってみよう、と思う。そのうちまたネットはすぐに変わって行く世界だから、来年は違うことをしているかもしれない。ちなみに、ドッグイヤーは7年ではなく、4年みたいです、昨今、犬も長生きなので。

投稿者 Blue Wind : 12:37 PM | コメント (0) | トラックバック

December 09, 2004

奥が深いから終わらない

マリを動物病院へ連れて行かないと、と気は堰きながらも思いついたら書かないとすぐに忘れてしまう。

それにしても、歌会というのは、院生時代の研究会に相当するんだな・・と、うすらぼんやり考える。最初の頃は慣れないから、それこそ用語の定義から始まって、一斉に攻撃された記憶がある。そのうち何年も研究会に出席するうちに同じようなテーマのせいか、誰か何か言ってくれよ、みたいな雰囲気になってしまう。
これが、学内進学なら違うのよね。卒論の担当教官がそのまま指導教授になっていたりすると、遠慮があってあまり厳しい質問は飛んでこない。ところが、外様だと大変。
誰も何も言わないときには、義理で一番上?の先生が当たり障りのない質問をして終わる。でも、後になって考えると、厳しく質問された人ほど長くあの世界に埋没して行くようになるから不思議だ。単にやる気の問題なのかも。
まあ、どんなことでも長くやっていると、知識という点で専門性が出て来るから、逆に議論にはなりにくくなるのかもしれないし、それと新しいことに対する貪欲さがあって初めて進展がある世界だから、厳しさにつながるのかもしれないし、慣れると質問される内容も検討がつくためにあらかじめ準備しているから心構えが違うだけなのかもしれないし、単なる伝統や気質の問題に過ぎないのかも。

大体において、「短歌はセカンド・アートでいい」って言ったとたんに猛反撃をくらった。どうしても第二芸術論を連想するのが普通らしく、文字通りの「セカンド・アート」とはなかなか伝わらない。セカンド・アートとして楽しむ余裕かな・・・いわば、文化として普及された世界では、誰でも絵を描いたり、歌を詠んだり、専門性をもって生きていない人でもやり方くらいは知っている。
チャーチルが絵を描き出したきっかけも、最初は昔で言えば使用人というのかな・・・描きたいと言ったら、「先生、こうやって描くんですよ」と深い意味もなくささささ〜っと描き方を教えてくれたのがきっかけだったそう。それが画伯と呼ばれるまでになったのだから、チャーチルがすごいと言うべきか、最初にチャーチルに絵の描き方を教えた人のセンスがよかったのか、いずれにせよ誰でも描ける文化範囲の中から始まったわけで、そういう大衆層の中にいたほうが気楽という意味合いもある。
それと今さらわたしの世代の人間に、第二芸術論と言われて悔しくなったいにしえの人たちの心情なんて理解できるわけないではないか。もうわたしが生まれた頃には和歌は廃れてしまっていて、どこかマニアの世界のような気さえするわけで、それでいてちょっとやってみようかなと思いながら詠んでいるだけでも、季語などを入れて詠めばそれっぽい歌も詠める。
つまりは、詩は民族の歴史というか、古来のメンタリスティックな部分を詠むか、今まさに生きる時代の感性を詠むかだけの違い。そういうことに翻弄されながら詠んでいるわけでもなく、それでいて翻弄されてしまうのは発表という手続きと概念が存在しているからに過ぎない。

この前、石原裕次郎のドラマを観ていて、その中で石原慎太郎が大学のサークルか何かで小説を発表しているシーンがあった。かなりボロカス。それをそのまま賞と映画化へ結びつけてしまった慎太郎が強いのか、それともそういう世界なのかわたしにはよくわからない。
まあ、どんな世界でも議論が活発になるというか、批判があるほうがそれだけインパクトがあるということなのかもしれないし、今さらながら、どうしてそういうものが必要なのか、わたしにはわからない。ただ、それが励みになる人と励みにならない人がいる、ということくらいは理解できる。
自分の場合はどうなんだろう・・・精神的には鍛えられたかもしれない。それとうまく説明できないけど、自分と研究とを別の次元で考えられるようになった。こう、それに懸けていると、自分そのものを否定されたような悲観的な気分になってしまう。でも、慣れると、そういうことでいちいち悲観的に陥るほうがどうかしているとまで思ってしまう。つまりは、言われて悔しかったらそれ相応の勉強をしろということなのだろうか。厳しい・・
でも、そういう身を守るための知識と研究とが別だったように、歌も、知識と歌とは別のような気がする。知識で固めるより、データのほうが重要ということを叩き込まれたからかもしれない。結局、他人にどんなに批判されても、データだけは自分のものという・・・
その都度新しい研究が出てくればすぐにひっくり返ってしまうし、波があるのが当たり前。それに翻弄されるよりもデータを積む。実験するだけなら頭必要ないもんね。たぶん。

そういえば、題詠マラソンでも何やら広辞苑論争やってたな。造語のおもしろさのない世界なのかな。国語の先生をしているわけではないのだから、教養を財源にして歌を詠むより、気分で詠んでいるほうが気分がよい。
古来の和歌を伝えたいのか、国語の教科書に載りたいのか、それともそういう戦後の体質を保持したいのか、わたしにはそれすらもよくわからない。

いずれにせよ、下手な作歌は続く・・・たぶん。
2万首までは詠むって言ったら、タイム・トライアルみたいだからやめろとは言われたけど。自己ベストの向上となると、どこかオリンピックみたいで、ずっとやっているわけにはいかなくなるからかも。
知識を得て、気に入る歌が詠めるようになったらいきなりやめてしまうからかもしれない。でも、なかなかそういう具合にはいかないから続いているのかもしれないし、奥が深いから際限なく続いていくのかも。

一度詠み出したら、みょうにはまってしまう。

投稿者 Blue Wind : 10:56 AM | コメント (0) | トラックバック

December 07, 2004

フリー・ライフ

わたしは日本人なので、ランボーのようにアデンへ逃げる必要性もなければ、バタイユのようにマグダラのマリアの傍で眠る必要性もないことを神に感謝しなければならない。

宗教は嫌いだ。というより、宗教団体に帰属したり活動したりすることを嫌う。もともとが心理学の人間なので、心理学と哲学は相性が悪いし、自分はクリスチャンでもなければ仏教徒でもなく、ごく普通の日本人だと思っている。だから、戦争が起きれば、イスラム教とキリスト教を比較した本を読んだり、西行の和歌は素晴らしいなどと感動している。
大学がカトリックとか、大学院がプロテスタントといっても、大抵の学生も教師も信者ではない。学問は学問であり、それでいて宗教学が必修というところが多いような気がする。でも、さすがに院まで行ってしまうとまるで関係ない。

では、どうして聖書を読んでいるかといえば、これもまた一つの成り行きであり、こういう自分の不可解さを説明するには、シンクロニティとか、インスパイアとか、それこそ宗教という枠組みを越えた中の行動である。つまりは、神さまとだけお話すればよいのではないか・・という・・・
イスラム教もユダヤ教もキリスト教も同じ神さまを信仰している。そういう中で長年の確執がある。だから戦争にもなるのだと思うし、そういう歴史に関係のない日本に生まれるとピンと来ないけど、それは一つ恵まれているとすら感じてしまう。
社会という枠組みや組織や人間という枠の中ではもはや信仰に自由など存在しないとすら思えてしまう、特に戦争などが発生すれば。
そういう中での逃げ場として、聖書があったり、空があったり、それこそ最後には天を仰ぐという感性は人間ならごく自然な出来事だと思う。アフガニスタンで天に祈りを捧げている女性の姿の写真を見たときには感動した。
自然の中で聖霊との対話。ユングのそういう発想も好きだし、それが東洋哲学からの影響と言われても、哲学かどうかは別として、自分の中にもそういう思想の流れがどうも根づいているような気さえする。

おそらくは和歌の歴史は古く、俳句は根底が禅だから、今でも季語を入れるというのはそういう四季折々の移ろいがとても日本人のメンタリスティックな部分に共鳴を引き起こすのだと思う。そういう民族の深層というか、共通無意識というか、詩は民族の歴史とまで語っている詩人がいるように、魂の根源まで行ってしまうと、結局はそういうことにたどり着くような気さえする。

詩や短歌は、自分にとっては解放区である。つまりは生きるに必要のない世界。ある意味、宗教や学問というのも理想はそうあってほしい。だけど、生活がどっぷりそれにはまるとそういうわけには行かなくなる。それこそ組織として宗教が存在すれば、政治から生活から人付き合いからあれにこれにと自由が制約される。社会とはそういうものだ。
フリーで生きていれば、少なくてもそういう制約はない。

これも成り行きだけど、聖書協会は気楽だと思った。カトリックとプロテスタントの共訳であり、中には匿名で献金している人もいるし、1万冊くらい世界中に聖書を頒布した中で、一人くらい救われたら献金するほうも救われる。この際の救われるというのは、深い意味はない。生きていきやすくなるということだろうか。

○○療法とか、いろんなセラピーが考案されるのを読むたびにかつて思ったのは、治れば何でもいいってことかも。もっとも自分は基礎系だったので実際にはあまり興味がなかったから無責任にそうやって思うのかもしれないけど。
いずれにせよ、その人が幸せならば、何でもありいのような気がする。結局、ライフ・スタイルや思想、その他諸々、あれにこれにと社会はややこしい。日本に生まれて日本社会に適応しつつ、その片隅で解放区を詩や歌に求めて歌を詠む。
そこまでおおげさなものでないにしろ、学問やアートは自分にとってはそういう世界なのかもしれない。一般社会というか、既成概念や常識で整列された社会の成員として生きる中での息抜きの場。

主婦の息抜き・・・

学生街の気楽さ。
サイエンス・シティ、か。
気まま。

投稿者 Blue Wind : 06:38 AM | コメント (0) | トラックバック

俳句

学校の宿題で、娘が俳句を詠んでいる。いきなり、「お母さん、季語わかる?」って訊くから、一体何のことかと思ってしまう。どこからどこまでが季語かわからないので、ネットで検索し、そのまま4句詠む。

セーターが回転木馬走る犬
ポインセチア枯れないうちにクリスマス
冬めく日暖炉あること思い出す
北風にたなびく尾花ねむりゆく

俳句って詠んだことがないから、これが初詠みだろうか・・・

毎日短歌を詠んでいるので、その辺のネタから拾う。短歌だと季語が必要ないので、季語という意識がないままに詠んでいることがわかった。いきなり季語から季語を絡めて詠めと言われても、つい句を捻ってしまいたくなる。そうなるとうまく浮ばない。それよりも何となく部屋の中を見回して季語になりそうなものを探したほうが詠みやすい。

俳句や川柳だと何となくいつもは物足りないから、自然と下の句を付けたくなってしまう。でも、最初から、575のリズムで詠うとその後が続かない。
今は、俳句でも季語を使わない句もあるらしいし、そうなると形や数ででしか短歌と区別がつかないのかも。それでいて、自分の中では短歌と俳句はまるで違う。どこが違うのかわからないけど、まるで違うような気がする。

言葉が少なくなればなるほど、理解するまでの時間が必要となる。

でも、良い歌や句は、一瞬にして入ってくる。
言葉が少ないからこそ、季語。共通項が含まれているから言葉が少なくても共鳴共感の世界が広がる。が、しかし、昨今、花の名前を言われてもわからない私としては材料が限られている。でも、ありふれた花だから逆によいような気もする。

オトやマリにしても、ミニピンと言ってもわからないだろうとダンナにまで言われてしまった。せめてミニチュア・ピンシャーとか? でも、そうやって書いても長すぎるし、ミニチュア・ダックスやチワワなら通じるかもしれないけど、ミニピンだと写真を見てもわからないかもしれない。すると、犬とか子犬って詠むほうが万人に通じやすい。それでいて、なるべく具体的な表現のほうがよい、という。

結局、そういうややこしいことを考えないで、自分の好きな歌を自分のサイトにアップしているというほうが気楽だ。すると自己満足と言われてしまう。が、しかし・・・自己満足のどこが悪いのか、そこがいまいちわかっていないのかも。

感性の問題を言葉で表現し、マニュアル化しようというほうが無理な気がするのだけど。

娘の国語のノートの最後のページに4句をさらさら〜っと書く。
「お母さん、どうしてそんなに早く詠めるの?」
「毎日短歌を詠んでいるから・・」
これでいいんだよなぁ・・・母親って。一流のシェフになるわけでもなく、皆揃って家庭料理。
それにしても娘の俳句は下手だ。あれでは俳句ではないような気がしたけど、学校の宿題なので諦める。まあ、親からして、「これは短歌ではない」などと言われながら詠んでいたわけで、娘のことは言えない。そのうちあっちが主流になるかもしれないし・・・なんでもいいんだな・・・時代は変わる。人間が変わらないなら、せめて時代くらい変わらんと。

投稿者 Blue Wind : 01:41 AM | コメント (0) | トラックバック

December 05, 2004

厳しさと朝

この前、病み上がりのダンナがボウリングを始めたと思ったら、一緒に通っているうちに急に娘が上達してしまった。ボウリングなら娘の友達も一緒に連れて行けるくらいの軽いノリで始めて、たま〜に週末に出かける程度だったのに、もう150くらいのスコアを出すようになっている。正直、わたしはすでに娘にはかなわない。
最初のうちは、プロ・ボウラーの人も娘にマイ・ボールはまだ早いと言っていたのに、今回ボウリング場でスタンプを集めるとマイ・ボールをつくってくれるというキャンペーンがあって、勝手にスタンプを押してタダで娘のボールをつくってくれた。小学生なのに11ポンドを投げているし、握力を測ったらかなり強いので、いきなり12ポンドにしたらと言われたらしい。茨城県はジュニアのボウリングが強いので、チームに入って将来はプロ・ボウラーになるなど期待されている・・?

子どもっておもしろい。受験はどうした、お絵かきはどうした、と思っても、父親と二人で両立させればよいと言っている。この前までケーキ屋さんになりたいと言っていたのに、すぐに変わる。大学に通いながらプロ・ボウラーの資格を取ってもいいし、要するになんでもいいんだな、と。
今は大学生も就職難だし、何でも才能だから、やっておいて損はない。やりすぎて腱鞘炎になったり学校に行かなくなるというのでは困るけど。一番やりたいのが絵の勉強、二番目がボウリング、とかね・・・まだまだ出てきそう。一つのことしか出来ないというより、いくつもやりたいことがあるほうがいい。まだ小学生。

短歌は、娘の将来の夢みたいなもので、最初は復学待ちをしている間のひまつぶしネットで詠み始めただけだから、どうもこれに本気を出してという気持ちにはなかなかなれない。でも、気が付いたら、わたしは歌人らしい。
どこにそのラインがあるのかわからなかったけど、実際に僅かのことでも出版物に自分の歌が載るとなると、自分の儲けにはならないにもかかわらず、物が売れるとか売れないとか、そういうリスクを背負っている人たちがいる。そうなると厳しく言われる理由も何となく理解できるようになる。
あくまでも趣味なんだけど、自費出版ではないし、毎日のように夥しい数の出版物が売り出され、その競争を考えるといかに大変かが何となくわかる。出版社や編集者は遊びじゃないもんなぁ・・・
そのうち、自分の歌集を出して、とか?
そういう希望はあるけど、まだ実感が湧かない。娘が美大へ進学する頃になったら、彼女に表紙絵をなどと思ったりもするけど、これではまるで亡くなった都立大の加藤先生のようだ。お嬢さんが美大の受験に失敗して2浪している時、ご自分の出版物の表紙にお嬢さんの絵を使っていた。その際、「娘はこれがすごいことだというありがたみがまったくわかってないからね」と笑いながら言っていた。
家の中にいると、何となくすべてが家の中の出来事にすぎない。

でも、まあ、なんと言いますか、主婦は気楽。ネットでも、趣味で描いた絵だからとぽんぽん気楽に送ってもらう。仕事がどうたらこうたらとか、出版がどうたらこうたらとかまるで金のことを考えない。だから、最後には釘を刺されてしまう。友達はノーギャラ、ほかの人はダメ、って。
ネットって、基本的に無償配布の世界だから、うちのサイトでアップしていたら、ほかの人が使いたいと言い出しても無理はないような気がする。無償と有料の区別が難しい。
それに素晴らしい素材屋さんはたくさんあるし・・・そういうややこしさがあるから、無償の素材を使っているほうが気楽になる。

最初から売れないとわかっていて出版する人たちの意気込みって何なんだろう。ある人に言わせると、僅かでも自分の描いたものが売れるというのは楽しいらしい。実際にはたばこ銭くらいの儲けだろうと思うんだけど。
言われて岡本太郎の本を探しているうちに、ユングの言葉にたどり着く。何となく「これだ!」と思った。それでいて、臨床系にはまるで縁がなかったために、あのややこしい世界観をアートとして眺めるというのは悩ましい。
まあ、岡本太郎にはたどり着けなかったけど、とりあえず自分的には来年の作歌の目標が見つかった。人の縁って不思議。

などと先々のことを考えているうちに、今年ももうすぐ終わろうとしている。インターネット歌人としてやってきて、今年は結社のほうにリンクしてもらったり、題詠マラソンに出場したり、毎日平凡にネットを日課にしているだけなのに、どんどん世の中の流れに巻き込まれる。
来年はそれが単行本になるらしい。少し知り合いに配ったり、老人施設や病院で歌会をしているところに寄贈しようと思っている。ヘンな話、少しヒマになったら、そういうところへお手伝いに行ってもいい。短歌や俳句はリハビリに効果があるということで、かなりメンタリスティックにはきついかもしれないけど、仕事ではないし、ボランティア。自分もいろいろ勉強になるだろうし・・・

最後には自分もパタンと母のように倒れてしまうかもしれない。その時までの時間つぶしかも。それを考えると、自分には時間がない。やりたいことが多すぎる。

吹きすさぶ風の音さえ子守歌ねんねんころりフレンチ・ジャズさ
まどろみに外の音さえ切れ切れに厚き外壁風を防ぎぬ
雨よりも風よりも今聴いているフレンチ・ジャズはいつもの音色
窓うなる悲鳴のような朝の風陽の訪れぬ今日の始まり
もう少し最後の台詞考えて仕舞いに歌のいづる朝かな
蒼い闇今が夜だと言われても気づかないほど朝は遠のき
闇の中閉ざされる朝風の音厳しき冬の訪れだよ、と。

投稿者 Blue Wind : 06:32 AM | コメント (0) | トラックバック