May 29, 2007

その逆

お昼休みに家に戻ると、足元に表紙の剥がされた本が落ちている。拾ってみると、聖書だった・・・
犯犬はテンだろう。
椅子の上どころか、椅子を使ってテーブルにも上り、それではまだ足りずに横の書棚にまで・・・
あの場所なら安全だ、
と思っていたのに、
それはまったくの思い込みに過ぎなかった。
それでも、中身は無事だったので、またぼろぼろになった表紙をノリで貼りなおした。見たときにはすぐに新しい聖書を買おうかと思ったが、かといって古い聖書をどうやって処分する???

そんなことをしているうちに、ずっと棚の上におきっぱなしだった聖書を久しぶりに手に取った。
表紙が剥がれないように用心深く持つ。
いびつであるがゆえに、わたしの手にあわせて存在しているかのよう。

そうしてわたしはエレミヤ書の麻の帯とぶどう酒のかめのところを読んだ。
久しぶりに神さまとお話したような気がした。
神さまとのお話はいつも楽しいとは限らない。むしろ、その逆。

(詩篇39)

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May 28, 2007

『マルセル・エメ傑作短編集』 マルセル・エメ著 露崎俊和訳


マルセル エメ, Marcel Aym´e, 露崎 俊和
マルセル・エメ傑作短編集

この本はとってもおもしろかった。

読んでいて楽しくなったり、夢や希望が持てたり、そういう類の本ではない。逆に、ぐったりするような内容が多い。

ある日サーカス団のこびとが急に成長し、美しい若者になってしまったとしたら?
花形スターで永遠のこどもだった彼が、今度は自分で生活費を稼いだり、仕事を見つけたりしなければならなくなる。

浮浪者やならずものが主人公だったり、犬の話だったり、ある日年齢が半分になってしまい、年寄りが若く、若者はこどもに・・・

なんか、こう、いびつな小説が多く、シニカルなトーンで描かれている。願望が願望として達成されてしまったら、世の中が大変なことになってしまう・・・という夢も希望もなくなるような語り口で、ドラマチックな世界が展開してゆく。

投稿者 Blue Wind : 12:51 AM | コメント (0) | トラックバック

May 27, 2007

学生は正直・・・

学生は正直だと思う・・・嘘がない、という意味で。
たまに思うのだけど、どうしてカップルで医者に来るのだろう?
それでは集団で群れている子たちには、ステディな関係の人はいないのだろうか?
すごく悩んだのだが、結論としては、いない、と考えてよい。
ゆえに、彼らは正直なのだ。

なんでそんなことを深々と考えてしまうかというと、デリカシーの問題である。
このところの麻しん騒動で、予防接種の若者たちの来院が増えている。中にはクラブで取りまとめてやって来る子たちもいる。が、どうしてもワクチンの数の計算が狂ってしまう。こちらからすると、すべて学生さんで、クラブ関係の人たちなのだが、カップルや友人同伴で来るとこちらとしてはお手あげ。いちいち名簿をもらって確認しているわけではない。

クラブ関係の予防接種の予約を受けて、最初に飛び込んできたのがカップルである。その後がやがや男の子たちが入ってきたため、別々に会計をする。すると、「今、払わないとダメですか?」と訊かれたので、てっきり彼女の分まで負担するのだろうと思っていたら、支払いはブランドものの財布を取り出し、彼女のほうが払って行った。

いや・・・
それはそれでどうでもよい。
そのときにちらっと思ったのは、その彼女は美人でスタイルもよくしかも頭もよい。しかもそこの大学にはめずらしく洗練されている。が、彼女は嫉妬深い・・・

その後、麻しんワクチンが無くなり、麻しん風しん混合ワクチンを使うようになった。風しんは女性には危険。接種時はおろか、接種後2ヶ月は妊娠してはいけない。

若い女の子たちに妊娠の話をするのはデリカシーがないような気がするが、重要なことなので言わなければならない。女性同士で来ていたり、1人だったりすると、別に気を使う必要もないのだが、何となくカップルで来ている女性に言うのは何となく気がひける。

いや・・・別にいいんだけどね、どうだって・・・
だけど、学生は正直すぎる。
男の子が熱を出し、再びカップルで来る。同じ大学なので、女性同士で連れ立って来ている子たちとも知り合いだ。が、しかし、しばらくすると同性同士で来ていた側がそそくさと逃げ出しモードに入る。彼氏のいる女の子といない女の子の間には深い垣根があり、互いに交わることはない。男の子が診察室に呼ばれ、友達同士で連れ立って来た子たちが一緒に帰ってしまうと、あたりに不信感を漂わせながら彼女ひとりが待合に残る。

男の子はいいんだよね・・・彼女がいるからといって遠慮しても孤独感が漂うことはない。だけど、女の子が友達に遠慮される、というのはどこか孤独感が漂ってしまう。

その違いはどこにあるのだろう?

恋人ができたり、結婚すると、女の子はどうしても友達と疎遠になりがち。
どうしてそういうことになるのだろう?

学生は正直なのだ。

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『泳ぐのに安全でも適切でもありません』 江國香織著


江國 香織
泳ぐのに、安全でも適切でもありません

とりあえず書評を書いておこうかというか・・・
わたし的には栄養士のつくった味のない食事を連想してしまうくらい読後の印象の薄い短編集だった。今、エメを読み始めたので、なんとなくそちらに引きずられているのが原因かもしれないけど。

それではなんで買ったのかと言えば、売れ筋だから一冊くらいは読んでおこう、とか、短いお昼休みに軽く読めそうだから、とか、大して深い意味はない。どことなくパステル調のデッサン画を観ているようで、それがものたりなさの原因かもしれないが、さりとて濃厚に書かれたこの手の小説を果たしてランチタイムに読む気になるか疑問。

多くの題材が、中年男と若い女の不倫。おとなになりきれない夫婦。中でも犬小屋で暮らすようになった夫の話は笑ってしまった。恋愛の延長線上に結婚があったとして、その状態の中で生活するとこうなりますよ、という逸話なのだろうか。

若い人にはおもしろいかもしれないが、どこか醒めた眼で眺めてしまう。

投稿者 Blue Wind : 12:58 AM | コメント (0) | トラックバック

May 25, 2007

息子の染髪代の支払いについて

この半年の間で、朝から晩まで激しく雨の降る日は今日だけだったと思う。
毎日患者さんを待つ生活をしていると、お天気と密接に関連しているとしみじみ感じることが多いし、雨が降っているのかやんだのか、風が吹いているのかやんだのか、ずっとビルの中にいると、患者さんに言われて気づくことが多い。

半年というのは、ずいぶん長いと思う。
ベビーカーで来院していた赤ちゃんはしっかり歩くようになっているし、この前制服を着て来た子がいきなり髪を染めて私服で来たりすると誰だかわからなかったりする。高校を卒業する前と後ではずいぶん雰囲気が変わるということを知る。

が、しかし・・・
男の子が髪を染めるのが当たり前な時代、今までそんなことを考えたことはなかったのだが、彼のお母さんが来たときにちょっと訊いてみた。

「お小遣いで染めたんですか?」と。

すると、彼の母親は笑いながら、何でもなさそうに、「重かったので、床屋で染めて・・・」という具合。

いや・・・別にどうでもいいことなんだけど、浪人した息子に散発代のみならず染める金まで出してやる、というのがわたしには不思議で、お小遣いで染料を買って自分で勝手に染めたのかな・・と勝手に想像していたため、かなり心外な出来事だった。

ちなみに看護師たちにも訊いてみたが、その返し方がまたおもしろい。
「うちは髪を染めても別に何も気にしないから」というお返事。

そういう意味で言ったのではなく、わたしは単に染髪代を出してやるかどうかを訊きたかっただけ。

今はまだ中学生と高校生の息子さんなので、現実味は少ないのかもしれないし、結構うるさい人が多いから、あえてそういう具合に返すことが習慣になっているのだろう。公務員系だし・・・

もうひとりの看護師のところは女の子が二人だし、二人とも大学を卒業してしまったので、逆に、「うちの娘たちは髪の毛は染めたことがなかったからわからない」というお返事。

公務員社会というのはおもしろくて、宿題を出しすぎるといって先生に文句を言うのは当たり前だし、おそらくは息子が髪の毛を染めたいと言えば床屋代も全額親が出すのかも。

つまらないことなんだけど、息子の染髪代を親が出す、ということがものめずらしくて考えてしまった。ということは、それが当たり前なんだろうか。

ちなみに息子さんたちのお小遣いの額を訊いたら、すごく安い。うちは娘に出しすぎているのかと思ったが、スクールバスを待っている間にジュースやアイスを友達と一緒に食べると、それくらいはすぐに無くなってしまう。

わたし的感性によると、その手のことをやりたいのなら自分でお小遣いを貯めるとか、ドラッグストアで染料だけを買って工夫するとか、そちらのほうが普通のような気がする。

が、しかし・・・
小遣いはやらないが、髪の毛を染めるお金はあげるんだなぁ・・・母親というのは。
なんか不思議だ。

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May 21, 2007

人間ドック

人間ドックへ行って来た。
家でごろごろしているとこの手のものには縁がないけど、どうせタダだし、仕事上の研修も兼ねて、嫌がるダンナをせっついて健診センターへ。

流れ作業的にいろいろ検査を受けて、早く行ったのにどんどん抜かされていき、それでも食事を入れても2時間で終わってしまった。普通は結果説明などいろいろあるらしいけど、今日のは医者ばかりが来ているし、年配のご夫婦が多いし、問診でも訊かれたのは要らない検査があるかどうかで、嫌いな検査は受けなくてもいいらしいし・・・ご飯を食べたら終わり。

それでもわたしは何年も健診など受けていなかったのでフルコースまわった。
胃透視が一番しんどくて、一番おもしろかった。ブルベリー味のバリウムを飲んだら吐きたくなった。そのくせげっぷは我慢しろと言われ、台の上でころころ回らなければならない。年寄りには無理だという理由がわかった。

どこかの部屋の機械の上に、使い終わった酒精綿がいくつか置かれていて、これって医療廃棄物じゃないかなーと思ったが、まわっているのが医者ばかりなので深く考えるのはやめた。

胃透視が終わると下剤を渡され、一体いつ飲んだらいいのか迷って訊いたら、家に帰ってからでもいいと技師さんが言っていたにもかかわらず、受付へ行ったらすぐに飲めと言う。仕方がなく水をがばがば飲んで下剤を飲み、おなかの中でバリウムが固まる恐怖に怯えながら下へ行くと今度は食事の時間。食事の前にバリウムと下剤を飲まされて、その後すぐ食事なんてデリカシーのかけらもない。

食事はいかにも栄養士がつくったような野菜中心の味のないお弁当。デザートなんて小さないちご2つしかない。父が入院しているとき、こんなものを食べて長生きするなら長生きなてしたくないと怒っていた理由がわかった。

まあ、午前中で終わったからよしとしませう・・・

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May 19, 2007

ナナの誕生と死んだ子犬

一昨日、わたしが寝ようとしていると、いや半分眠っていたのだが、マリが2度目の出産を迎えていた。

テンが生まれるときには難産だったし、あちこちの獣医に電話をかけまくった。いざ生まれるとマリはそれだけでぐったりしていて、テンは半分はわたしが育てたような気がする。

ところが、2度目のお産となるとマリは落ち着いているし、わたしも以前とはまるで生活リズムが違うため、夜中になると起きてはいられない。わたしは生まれるかな・・・と思いながらも、うつらうつらしているうちに、不意に犬の赤ちゃんのかぼそい猫のような鳴き声が聴こえて、ナナが生まれたことを知った。ナナというのは、ななしくん、という意味である。ナナは小さい。

今回はマリを獣医に連れて行くヒマがなかったので何匹生まれるかわからなかった。わたしはナナが生まれたのでダンナを起こし、ダンナは喜んで娘を起こした。

わたしはなんだかいやな予感がして、ダンナを起こしたことを後悔し、ほとんど怒っていた。というのは、漠然と今回は2匹生まれるような気がしていたので、まだもう一匹生まれそうな気がしていたから。それなのに、ダンナがマリのおなかを触って、もういない、と言うので、わたしも触ってみたが動いている気配はない。マリは触られるのをいやがって逃げていたが、ナナを見るとすぐにうれしそうな顔をして世話を始めた。

わたしはなぜかとても不機嫌になり、知らん顔をして下の部屋に降りた。すると、娘がマリとナナを抱いて降りてくる。もう、うんざりして心の中で悲鳴をあげていたが、わたしはとても疲れていた。マリの陣痛も止まっていた。

そして、再び部屋が静かになり寝ていたらマリに陣痛が始まった。今度はダンナが起きていて生まれたのを教えてくれたが、眠くて起きられない。が、しかし、数分後、「死んでる」と大きな声がして眼が覚めた。

亡骸をダンナがどうしようと言いながらマリとナナの籠に一緒に入れていた。わたしはそれを少し観て触ってみて動かないので、再び疲れて朝まで眠った。ダンナは仕方なくタオルに包んで下の部屋に子犬の赤ちゃんの亡骸を置いたらしい。

朝わたしより早く起きて亡骸を見つけた娘が子犬を抱いて「何とかならないかなー」とわたしの寝ている枕元に置く・・・
あのなー・・・
生まれたばかりの子犬の亡骸はまるで眠っているようで、もしかすると生き返るかもしれないという感じがした。マリも寄ってきて舐めていたが、ナナのようには反応しない。その瞬間、生まれたばかりで死んでしまい、かわいそうだなーと胸がしめつけられ、無性に腹が立ってきた。あのとき大騒ぎしないで、マリをそっとしておいたらこの子は死ななかったかもしれない。

生と死が同時に発生すると、どうやって反応してよいのかわからない。その後、喜んだり悲しんだりする間もなく睡眠不足のまま仕事に追われ、昼休みに様子を見に戻ったらマリがうれしそうにナナの世話をしていた。

マリのうれしそうな顔を見ているうちに、犬は死を知らないのかもしれないと思った。反応がないと無関心になり立ち去ってしまう。熊に襲われそうになったら死んだふりをしろという話を思い出した。

投稿者 Blue Wind : 10:25 PM | コメント (0) | トラックバック

May 18, 2007

一瞬にして

職場というのは小さなコミュニティみたいなもので、半年も経つと様子が変わってくる。隣の奥さんが、コープをするなら職場でやると言っていた意味が何となくわかった。患者さんがお豆腐を持ってきてくれて、それをみんなで分け、2丁ではわが家は多すぎると思っていたらたまたま通りかかった隣のクリニックの看護師さんに1丁をおすわけする。そういうことをどうしてあの近代的なオフィスビルでできるのか不思議な気もするが、仕事を通して知り合っていくうちに自然と人の輪が広がっていくのだと思った。

開院して以来ヒマな日などは、家に帰ってきてからうつうつしてしまう。そういうときには、理屈としてはみんなそんなもの、あるいはそんなものだった、ということを理解しているつもりでも、もしかするとずっとそういう状態が続くのかもしれないと考えてしまう。そうなると、がっかり。

わたしは自分の感情を隠すことが下手な性質なので、手に取るようにわかるのだろう・・・患者さんに励まされてしまう。よく言われるのは、3年は我慢しなさい、とか。どんな商売でもそういうものらしい。軌道に乗るまでは、それが当たり前。その瞬間思うのは、サラリーマンの奥さんは楽だった、という自己憐憫。夫の職場は職場だし、家庭は家庭。別の世界。それだけでも気楽だ。

でも、他人に親身になって心配されるのは悪い気分ではない。中には元気ではあるが、体内に爆弾を抱えて生きている人たちも多いし、病気のせいで収入のない生活をしていた人もいる。相手がお金がないと知っているにもかかわらず、法律で決まった額を請求するときは何となく申し訳ない気もするし、それでいてそういうことを役人のように淡々とやってのける自分がいる。

が、しかし・・・
今日は朝から忙しく、親身派の患者さんと新患が多かったせいで、何となくハッピーだった。昨日は姑さんに絵を返したし、妙にすっきりした気分だった。その絵は、いわば繁盛祈願として姑さんがわざわざ贈ってくれた絵だったが、院内の雰囲気には合わず、実際のところもてあましてずっと自宅に置いてあった。すると今度は鏡を贈ってくれると言う・・・

「もう心配しないでほしい」とわたしは姑さんに電話で言った。
すると、どこか無表情・無感情な声で、「もう私を親だと思っていないのね」と言われた。

せっかく親身になって心配してくれているのに、どこかそれが憂鬱の種になってしまう、というのがどこか親っぽいという気がしたが、悲しむわけではなく、どこか無表情な声が本物の欝。「わたしは、もうゲンを担ぐようなことがいやなんです」と言ったのが気に障ったのだろうか。
声を荒げるわけではなく、どこかしらけたムードが漂い、わたしはさっさと電話を切ってしまいたくなった。

自己憐憫で勝手にウツウツしているのと、本物の欝との違いを思い知った。あー暗い・・・
早く眠りたい。

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May 17, 2007

『プラナリア』 山本文緒著


山本 文緒
プラナリア

この本、すごく面白かった。
帯の「働かないって、いけないこと?」という文字に惹かれるものがあったのだろうし、それ以上に他愛もない日常が何となくリアルに書かれていると、他人の心の中や生活を覗き見しているような気分になり、うしろめたい気分を覚えながら、何となく読んでしまった。

小説を読んでいて「うしろめたい」という言い方はすごく変なのだけど、飲み屋に入ってたまたま知らない人たちの会話を聞かないふりをしながら聴いているときのようなうしろめたさ。知りたくはないが、どうしても知りたくなってしまう。

たとえば、乳がんの女の子の話やご主人がリストラになった奥さんの話。収入もない彼氏からプロポーズされた女性の話。どこにでもあるような話でもあり、それでいていつわが身にふりかかってもおかしくないような話。そういう人たちが何を考え、どうやって生活しているのか、興味がなくてもつい知りたくなってしまう。

不幸自慢の羅列のような気がしなくもないが、それぞれの主人公が淡々としているのがやけに印象に残った。

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May 15, 2007

ためいきのでてしまう生活

近頃自分でも思うのだけど、何となくためいきをついたり、眼がしょぼしょぼしたり、愚痴っぽくなったり、ついていないと思ったり、不機嫌とまではいかないまでも、どこか不機嫌さを我慢しながら時間だけが経過していくような気がする。おそらくは仕事がいやだと思ったり、辞めたいと思ったり、それでも仕事をしている間はあまりそういうことを考えている余裕もなく、それでいて、何となくためいきが出たりする。

おそらくはいろいろなことを考えるからためいきが出るのでしょうし、それが自分でもどうしてよいのかわからないからまたためいきになるのでしょうし、そういうことが重なるとストレスになるのかもしれないし、時間に追われているうちに一日が終わってしまう。毎日がその繰り返しで、それでいて、案外みんなそんなものかもしれないと思いつつ、それでも世の中はそうやって回っていて、睡眠時間を削ってまで本を読んだり、ブログを書いたり、そうやって自分の時間を持つことでしかそこから抜け出すことができない。

いざお昼休みの短い時間に本屋でまじめに読みたい本を探すと、これがなかなか苦労の種だということに気づく。そうやって探してみると、まるで読みたい本が見つからない。

並んだ文庫をぱらぱらめくりながら、知らない作家の名前をみつけて手に取るが、どうやってもあまり読みたいとは思えない。そうやって本屋に並ぶ中から選べというのはバーゲンでほしくもない服をあさっているような感覚にも似て、つまらないものを買ってしまったと思ってしまう。単に時間つぶしをするのなら、ネットのほうが遥かに面白い。

時間に余裕のない生活は退屈だ。

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May 14, 2007

『ネジ式ザゼツキー』 島田荘司著


島田 荘司
ネジ式ザゼツキー

ひとこと感想としては、こんな本、読まなければよかったな〜、という感じ。

冒頭、記憶に障害を持つ男が出てきて、その男が書いたファンタジー小説がつづく。ネタとしては面白い。が、しかし、内容があまりにも猟奇的で、島田作品としてはめずらしいものでもなんでもないが、20年以上も昔、初めて島田作品を読んだ頃には単なるフィクションにすぎなかったものが、かつて義理の姉の家の近所に住んでいた少年Aが今度はわが家の近所に住んでいるという噂があり、その噂をわたしに教えてくれた人が心底怯えているため、時代とともにわたしも加齢したせいか、読まなければよかったとしみじみ感じてしまった。

いつの頃からか、島田作品の中には実話がたくさん収められるようになり、史実に基づく生々しい写真や話が多く登場するようになった。でもそれはわたしにとっては心霊写真を眺めるときのような気分であり、実態をともなわない、リアリティが欠如した世界、時代の出来事にすぎなかった。だから小説なんでしょうし、だからフィクションなんでしょうし、それが何となく推理小説の魅力でもあった。

本格ミステリーというのがどういうものなのかわからないけれども、パトリシア・コーンウェルといい、島田荘司といい、史実のミステリーを題材にしたものを脚色した小説を書いており、視点という点では興味深いが、今のわたしの気分としてはどこかこころがすさんでしまいそうで、気分転換に買った推理小説がもう一冊どこかにあるはずだけど、何となく読む気力が欠如してしまった。

それと同時に、納骨の際、お坊さんの説法があり、念仏のサンスクリット語の講釈を長々と始めたのにはまいった。それは一つにはわたしがお数珠の代わりにロザリオを持っていたのが原因で、念仏の書かれたお墓の前で、娘がロザリオを持っていたのが気に入らなかったのだろう。すなわちわたしは坊さんにまで信仰心が足りないと説教されたわけで、もうわたしのことは放っておいてほしい、というか、生命保険会社の社員に企業健診を紹介する代わりに生命保険に入れと言われ、やんわり断ったときに文句を言われたときのしょぼい気分にも似ている。

宗教と保険会社を一緒にするのはどうかと思うが、なんかよく似ているな〜、と思った。

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May 13, 2007

五月病

今日はすごくうつうつしていて、うつうつしているときにネットはすごく相性がよい気がする。
どうしてうつうつしているのか、特に理由はない。
ただなんとなく・・・

おそらくは疲れているからだろうし、仕事を始めて半年くらい経つと疲れが出る頃だと誰かに言われ、花粉症のように風邪は治らず、治らないでいたら4、5年もすれば風邪も引かなくなると姑さんに言われ、麻しんの予防接種を集団で受けにきた学生さんのカルテをつくったらいきなり23人分の新患のカルテをつくったことに気づき、それを1人でやったのだから疲れている、という気もするし、毎日新患が来るわりには来院患者数がのびず、開院当初来ていた患者さんが来なくなったりするとひどく気になったりもするし、単に元気になったからだという気もするし、そんなことをいちいち考えていても仕方がないと思ったり・・・、今日は妙に疲れている。

五月病か?

そういえば、今年は桜の季節は妙に元気だった。
桜の満開の頃、母が他界し、逆にうつうつしていられないほど気が張っていたのかもしれないし、そういう緊張が一気にほどけてきたせいで、こんなに疲れているのだろうか。

娘が突然、「お母さん、なにか欲しいものある?」と訊くので、「孫」と答えてやった。
「無理。ほかには?」
「ひまな時間、昼寝する時間」
「ほかには?」
「100点のテスト」
「う〜ん・・・・不可能に近い。ほかには?」
と、しつこく訊くので、ようやく明日が母の日だということを思い出す。
で、さらに、「孫とお金以外で何か欲しいものはない?」と訊くので、「本」と答えてやった。

そのくせ、明日が母の納骨だということを突然思い出し、娘に友達との約束を断らせたときには、ひどく怒っていた。
そういうとき、娘の育て方を間違ったかな・・・と思ってしまう。友達と遊びに行くのはほかの日でもできるけど、納骨は1度しかない。娘がものごころがついたときには、すでに母はあのような状態で、それが長引くほどにあまり見舞いにも連れて行かなかった。実際、娘は娘でやることがたくさんあり、子どもの面会は原則的に禁止されていたため、わたしにとってはあっという間の時間でも、娘にとっては大事な成長期のその時間、ほとんど関わりなく過ごしてしまったのかもしれない。

なんか、こう、毎日、生活に追われているうちに、何か大切なことを忘れているような気がしてならない。

母が亡くなり、叔母が父のお墓の掃除に出かけてくれたとき、お花が活けてあり綺麗になっていたそう。わたしでも弟でもなく、伯母のお墓と同じ花が活けてあったので従姉かと思ったけど、癌の検査でそれどころではなかったらしく、誰がきたのかわからない。親戚の誰かだろうと思ったけど、それもそのままになってしまい、誰が来てくださったのかいまだにわからない。

いや・・・、ほんとうはこころあたりがある。父の兄弟はその子どものいない叔父をのぞいてすべて他界してしまったがゆえに、その叔父さんが毎月のようにすべてのお墓にお参りしているのかもしれない。それでいて、その気難しい叔父とは父が亡くなって以来ほとんど会うこともなく、母とも仲が悪かったために、あっさり語れば疎遠。

もしかすると、すごく年をとっているのかな・・・という気がしたが、母が倒れても見舞い一つ来てくれず、わたしとしてはすでに存在すら忘れていた。母の見舞いには来ないが、父の墓には行く、という人だから、気詰まりなのだ・・・要するに。

以前、姑さんが病院まで見舞いに来てくれたのに、母に会う直前になってパニック発作が出て、そのまま神戸に帰ってしまったことがある。それは仲が悪いということではなくて、母の変わり果てた姿を見るのが怖かったのだろう。叔母に言わせると、会わずに帰ってくれてよかった、という。「他人には見られたくない」という叔母のセリフがすごすぎた。

姑さんに、「ひ孫って可愛い?」と訊いたら、あっさり、「かわいないよ」と言われた。実際にはいないのだが・・・
姑さんに言わせると、孫も子どももいらないのだそう。ひたすらわが道、という感じ。
若い頃、あれだけ仲が悪かった小姑と、今はすごく意気投合しているらしい。あちらは息子に先立たれ、孫も娘が離婚して疎遠。

なんか、こう、ひとりぐらしの年寄りが増えて、寂しさを通り過ぎると、何がどこかが変だ。
なんか、こうね・・・
すごく疲れている。

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May 09, 2007

『冷たい密室と博士たち 』 森 博嗣著


森 博嗣
冷たい密室と博士たち

人間は自分にはとうていわからないであろうことを考えているときが一番楽である。というのは、ひたすら解を待てばいいから・・・

という大昔の退屈な数学の授業を連想してしまうような読みっぷり。
だったら最初に問題があり、その解き方だけを解説してもらって覚えたほうが遥かに時間の無駄を省ける。にもかかわらず、いつも順序だてて延々と説明されたあげく、「はあ?これだけのことだったの??」とイライラしてしまい、しまいにはどうでもよくなってしまうような感覚にしばし浸りながら、何となく読んでしまった。

犯人と被害者の人間関係と動機がわかっていれば、ものすごく簡単なトリックなのだけど、それが最後までわからない。しかも、動機がわかったとしても、そういう動機によってどうやったらこんなに綿密な命がけともいえる計画を立てて実行しなければならないのか、そのさらなる動機というか気持ちがわからない。ナットクがいかない。理解ができない。だから、答えがわかっても、「だからなんなのさ?」的なすっきりとしない後味のわるさが残る。

何が真のミステリかといえば、それを何の疑いも持たずに受け入れてしまう人たちがいる、ということがわたしにとっての最大のミステリかもしれない。わからない小説なんだよね・・・何がわからないかといえば、そこに出てくる人たちがわからない。

で、わからないから、わたしにはわからない、一生懸命に考えてもわからない、わからないから解を待つだけ。
というわけで、何も考えないでよい、という理由だけで、何となく読んでしまう気楽な小説。

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May 06, 2007

『転がる香港に苔は生えない』 星野博美著


星野 博美
転がる香港に苔は生えない

ゴールデンウィークを過ごすのに、分厚い本を選んだ。
時間を気にせず本を読んだりネットをしたり、そういう主婦ライフをずっと剥奪されているため、この数日はずっと活字を読んでいる。

どうして活字を求めるのか?

感想としては、まずはちょっとした気分転換のため。それから、自分の日常を見つめなおすため。誰かのことを考えるため。自分について考えるため。
休息や息抜き。

当たり前のことだけど、外に出れば自分と違った価値観や生活をしている人たちと一緒に何かをしなければならないわけで、これが仕事以上にストレスとなる。自分がストレスを感じているということはほかの人たちもストレスを感じているのだと思うし、数の論理が働かない職場のため、どうしても異分子としてはどこかでガス抜きが必要な気分に陥る。

それがどうしてこの本なのかよくわからないけれども、わたしが感じている息苦しさはおそらくはアジア的息苦しさなんだと思うし、年上の世代の人たちと一緒にいるといつも感じてしまう息苦しさ。

どちらが正しいかということではなくて、いつも上へ上へと進もうとする香港的な息苦しさは20世紀後半の日本の息苦しさでもあり、もしかするとそういう息苦しさが当たり前なのかもしれないし、他愛もなく好きな時間に起きて寝て本を読んでいられる気ままさとは相容れないからかもしれない。

中国人のノンフィクションは面白い。何となく日本と似ているからかもしれないし、他人の人生や生活を眺めることにより、自分の生活を考えてしまうからかもしれないし、自分が何を不満に思っているかがわかるからかもしれない。

別にわたしにとって香港が中国に返還されようがされまいがどうでもいいことで、むしろこの何年かの間にリゾートへ行けば大抵は中国人の団体や韓国人がやけに目に付くようになったことが逆に不思議でもあるし、当然のことのような気もするし、ただ、つい最近まで台湾人かと思っていた中国人のツアー客が本当に中国人だということを知らなかったので、あのかつての農協を思わせる人たちとビュッフェでは一緒になりたくないとか、その程度の興味でしかない。

ある若者が言うには、「中国人や韓国人は昔の日本人みたいだから嫌い」だそう。
その親が言うには、「昔の日本なんて知らないくせに。」

その話を聞いて、わたしはそのお嬢さんが何を言いたいのかがすぐにぴんときたが、いざそれを母親のほうに伝えようとしてもうまく伝わらない。そこでわたしは何となく国籍の見分け方みたいなことを大雑把に話す。たとえば、空港でずっと列をなして大家族で移動しているのが中国人で、韓国人はカップルや核家族で来ている人たちが多いし、日本人に似ているとか。違いと言えば、日本人は髪の毛を染めているし、出入国カードをなくして微笑んでいられる若者も日本人、とか。
すると、韓国人が日本人に似ているのは、かつて日本の植民地だったからだと言われ、韓国人が聞いたら怒るだろうなぁ・・と思いながら話を打ち切る。なんか、こう、もともとの日本という国がいかに大陸と似ているか?ということを知ったらよくもわるくもショックを受ける世代の人たちに何を言っても無駄なのは今までの経験上理解している。

あっさり語れば、ある若者が言う昔の日本人というのは、親の世代以前の人たちのことを暗喩しているわけで、親からすればもっと昔の日本人が身近にいるためにまさか自分がその中に含まれているとは想像もしていない。

長寿社会ってすごいと思う。
姑さんが、年中、「長生きなんてしたないわ」とこぼす。そのたびに、「いや、充分長生きしていると思いますけど」と言うわたしもわたしだけど、視点が違うのだから仕方がない。わたしからすると、そのうちひ孫まで生まれるだろうに、と思ってしまうし、姑さんにしてみれば、高層マンションでひとり暮らしをしているため、どうもぴんとこないらしい。というか、もはやひ孫までいくと、自分の支配からまるで外れてしまうために興味がないのかもしれない。

なんか、こう、常に新しいものを求め続けるエネルギー。古いものを破壊して新しいものを建ててしまうエネルギー。それが発展なのかどうかは知らないが、そういう時代に生まれ育ったがゆえに、前にも後ろにも進めない。そういう気がする今日この頃。

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May 04, 2007

『六番目の小夜子』 恩田 陸著


恩田 陸
六番目の小夜子


久しぶりに小説を読む。娘の本。

ストーリー的には、前半と後半とが微妙にタッチが違い、後半のほうがどこかスリリングで面白かった。ホラーを期待して読めば期待はずれだろうし、謎の転校生が次第にごく普通のキャラへ変貌していき、結局、真相がよくわからないままに終わっていた気がする。

ただ、学校というところが器が一緒で中身だけが変わっていく、つまりは川の流れのようなものでいつも同じ水が流れているわけではないのに川が川として存在しているだけに見えてしまう、ということを、うまく伝えているような気がして、それは学校に限ったことではなく、おそらくは社会という存在がそのようなもので、あるいは生態系というものがそのようなもので、どこかそういった器を客観的に眺めてしまえるようになったとき、作者の言わんとするところがうすらぼんやり見えてくるような気がする。

つまり、実際にはストーリーテラー的な要素としては平凡で凡庸な気さえするけれども、それが平凡であるほどにどこか淡々とした面白さと共感を感じてしまう。一度は絶版となった小説がひっそり息を吹き返していったのは、最初に読んだ人たちがおとなになったからかもしれない。

ちなみに娘がこの小説を読んでいるのは、演劇サークルの練習で一部を使っているから。同じ制服を着て、同じ学校へ通っているという安堵感と連帯感は、互いにまるで知らない者たちですら既知の関係のような気がしてしまうほど。懐かしいような気もするし、今はそれがどこか重荷のような気もするし、一つわかっているのは、同じ小説を読んでいても、娘とわたしとではまるで違うことを考えながら読んでいるのかもしれない、ということ。

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