May 18, 2007

一瞬にして

職場というのは小さなコミュニティみたいなもので、半年も経つと様子が変わってくる。隣の奥さんが、コープをするなら職場でやると言っていた意味が何となくわかった。患者さんがお豆腐を持ってきてくれて、それをみんなで分け、2丁ではわが家は多すぎると思っていたらたまたま通りかかった隣のクリニックの看護師さんに1丁をおすわけする。そういうことをどうしてあの近代的なオフィスビルでできるのか不思議な気もするが、仕事を通して知り合っていくうちに自然と人の輪が広がっていくのだと思った。

開院して以来ヒマな日などは、家に帰ってきてからうつうつしてしまう。そういうときには、理屈としてはみんなそんなもの、あるいはそんなものだった、ということを理解しているつもりでも、もしかするとずっとそういう状態が続くのかもしれないと考えてしまう。そうなると、がっかり。

わたしは自分の感情を隠すことが下手な性質なので、手に取るようにわかるのだろう・・・患者さんに励まされてしまう。よく言われるのは、3年は我慢しなさい、とか。どんな商売でもそういうものらしい。軌道に乗るまでは、それが当たり前。その瞬間思うのは、サラリーマンの奥さんは楽だった、という自己憐憫。夫の職場は職場だし、家庭は家庭。別の世界。それだけでも気楽だ。

でも、他人に親身になって心配されるのは悪い気分ではない。中には元気ではあるが、体内に爆弾を抱えて生きている人たちも多いし、病気のせいで収入のない生活をしていた人もいる。相手がお金がないと知っているにもかかわらず、法律で決まった額を請求するときは何となく申し訳ない気もするし、それでいてそういうことを役人のように淡々とやってのける自分がいる。

が、しかし・・・
今日は朝から忙しく、親身派の患者さんと新患が多かったせいで、何となくハッピーだった。昨日は姑さんに絵を返したし、妙にすっきりした気分だった。その絵は、いわば繁盛祈願として姑さんがわざわざ贈ってくれた絵だったが、院内の雰囲気には合わず、実際のところもてあましてずっと自宅に置いてあった。すると今度は鏡を贈ってくれると言う・・・

「もう心配しないでほしい」とわたしは姑さんに電話で言った。
すると、どこか無表情・無感情な声で、「もう私を親だと思っていないのね」と言われた。

せっかく親身になって心配してくれているのに、どこかそれが憂鬱の種になってしまう、というのがどこか親っぽいという気がしたが、悲しむわけではなく、どこか無表情な声が本物の欝。「わたしは、もうゲンを担ぐようなことがいやなんです」と言ったのが気に障ったのだろうか。
声を荒げるわけではなく、どこかしらけたムードが漂い、わたしはさっさと電話を切ってしまいたくなった。

自己憐憫で勝手にウツウツしているのと、本物の欝との違いを思い知った。あー暗い・・・
早く眠りたい。

投稿者 Blue Wind : May 18, 2007 12:25 AM | トラックバック
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