June 30, 2004

泡のよう生まれはじけるいのちなら虹をとじこめ気ままにながむ

というわけで、また日程を変更します。どうせローマへ行っても、ミケランジェロのあかんべを見て帰ってくるだけだと思うので、それなら素直にフィレンツェで遊んでいるほうがよいと思うのです。それから、リビエラ経由でコートダジュールへ向かい、シャガールやピカソを見てきます。どうしてコートダジュールの明るい太陽なのか、自分にも少しずつわかってきました。気分と気風の問題なんでしょうね。誰でも自分を救わなければならない。あっけらかんとルネッサンスからコートダジュール。そのほうが自分っぽいし、シモーヌ・ヴェイユがどうしてアッシジに行ったのかわからないけれども、あのラインというのは精神の自由を求める人たちには薬なのだと思います。自分が求めているのは、信仰の自由と精神の自由。信仰の自由というよりも、精神の自由。スピリチュアル・フリーダム。魂の解放。

使徒言行録 27. 13-26

とどまればやすき道筋風吹けば嵐の日さえ窓を開けたり
夜が来て風が過ぎると朝が来て昨日は嵐とわれに告げゆく
一度しかない命なら思うまで気のすむまでとひねもすはすぎ
あの世まで合理的にぞめぐらせば対立仮説つねにはだかる
泡のよう生まれはじけるいのちなら虹をとじこめ気ままにながむ

詩編 51. 12-15

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June 28, 2004

正直

ルドビーさん、やはり嘘は書けないと思うのです。正直、わたしは共和党も嫌いだし、教皇という存在に愛を感じることはできない。だからこそ、イタリアでも教皇派と皇帝派がいて争ってきた。実際のところそれがどれほどのことなのかは、敷島生まれのわたしには想像できないけれども。多くのキリスト教国により、いくたの争いが生まれた。実際、そのようにも考えているし、ネイティブをバカにして滅ぼし、そしてまたそれを保護しようとしているオージーみたいなもの。
だから、この点に関しては考えれば常に怒りを伴います。
ならば、どうして自分が信仰に立ち戻れるか?
それは、一切そういうつまらないことを考えない時間があるからだと思うのです。ジョン・レノンではないけれども、国も宗教も関係ない。神と自分との関係が存続している限り、教会やその他諸々の社会制度が消えても信仰は残るからです。
つながっているのなら、ジーザスにつながっているべきです。それは社会や制度、教育により与えられたものではなく、夕立のようなもので、ある日突然神の愛は与えられる。こういう書き方をするとあまりにも書きふるされた内容だから、今さら自分が書く必要性は何もないような気さえします。

いささか残念なのは、自分が与えられた愛をあらわすことができないことかもしれません。すべての思考と感情が停止し、ましろき世界。あまりにも静かな愛なので、わたしのように元来の気性が激しい人間にはあらわすことができません。
一瞬にして、すべてがどうでもよくなってしまう。それがどういうことなのかうまく語ることができないです。いささか宗教系の活動や説教にも政治にもうんざりしているし、世の中すべてイネガリテ。あれにこれにとうんざりすることだらけ。世の中から、こういううざいものが消えたらさっぱりするだろうなーとは常々感じたりします。つまり、要らないストレッサーなら要らないし、あの世の幸福でもこの世の幸福でも、それぞれの人たちがそれぞれに幸せならどうでもいい。世の中がどうなろうと関係ない。
ぽいって捨てたら神さまだけいた。そんなものなのだから、ややこしいことがめんどーならばすべて放り投げてもいいのよ、としか語れないです。お仕着せによる宗教は情けないものがあります。何がお仕着せなのかとまでは語れないけど。

ひとつ言いたいのは、露出の多いこれみよがしに真実はないような気がするということかも。

自分は未だに聖書を通読していないし、教会にもほとんど行ったこともない。信者でもないし、未だに敷島の人間。法王の写真見てはむっかむっかしているし、実に反抗的な羊なんでしょう。それくらい世の中は欺瞞に満ちあふれているし、それでいてそれを否定するつもりもない。
つまりは、どうでもいいことだらけにすぎず、それに過分に執着しているような人たちがいるから戦争にもなるような気もする。だったら、最初から何もないほうがすっきりしている。

何もないから救われている。たまに心の底からそうやって思うことがある。ジーザスとだけつながっているのがわかるからかもしれない。なんかね・・・ほかのものは単なる飾りなんだろう。狭き門。もしかすると、狭き門というのは何もないところなのかも。露出的に神さま神さまと言っている人たちは嫌いだ。すべてが上の空に聞こえる。

すぎゆかば風となりたし消えゆかばみそらだにまつかたき世は鳴る

ヨハネの黙示録 2. 1-7 エフェソにある教会にあてた手紙

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やっぱ、やめた

バチカンの政見放送を聞いているくらいなら、シエナで草競馬を見ているほうがいいと思ったけど、なんで貴重な夏休みをそういうことに費やすのかわからない。だったら、日本の夏、盆踊りを昔ながらにやっているところを観光しているほうが夏っぽい。

ダニエル書 9. 25-26

すぎゆかば日本の夏は短くて今は夏かと梅雨を迎えり
あらくさの割れた道路に咲きゆかば野のみち天のめぐみをうくし
敷島は辺鄙な場所にあるけれど水ゆたかなれ花咲きやまぬ
腐りゆく木の家住めば千年の月日は流れ今もかわらぬ
一瞬に破壊されたる街なれど新し家の並びかわれり
深々と山はつづきぬ今もなお人はかわれり街もかわれり
とこしえにうつりかわれる我らなり敷島なればみどりかわらず
塵なればつちにかえりし我らなりいにしえにしてみどりかわらず
とこしえの愛なればこそ静かなれ野に咲く花のめぐみ薫れり
踏みにじりあらたな花をもちゆかばさらに保護するかなしみの野よ
慈しみわれらの島を守りたまえささやかなれば水はさやけき

エレミヤ書 18. 19-23

あたしはいつから右翼になったのだろう・・・などと思いつつもエレミヤ書。みんなおなじなのよね・・・いっしょ。

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June 26, 2004

ねえ、あのね、空の高嶺に咲く花のとんぼは部屋にとまっておりし。

うんざりと祈りよすみちかたければ逃げよすみちはさざなみの音
夜もすがらこごえで話す人よりもからすの声はたからかわらう
ぴーちかと小鳥となけばからすさえたからか飛ぶか都会の空よ

ゼカリヤ書 10. 1-3

つあらつあらうつらうつらかくありき。めんどうになる日もたかければ。
神聖に神聖にして神聖をもとめて暗き明るき死とす
うつうつと壁にしたるか草原は隔てる雲は流るるばかり
人という形を知るか葬式はうつうつとして値段がありき
めんどーだ。めんどーにしてネアンデルタールになって花をたむけり。
ねえ、あのね、空の高嶺に咲く花のとんぼは部屋にとまっておりし。

箴言 17. 12

なんで、家の中にとんぼがいるのさ。

てんぴおと調べてみれば神殿は寺のことかと囲われている
時刻表しらべてみれば路線バスおらりと書かるる言の葉をみゆ
概念はたからかにしてからす鳴く夜明けの声にまぎれこみたる
十字架が羽をひろげてとまってるキッチンの棚うごかぬとんぼ

寝ているのかな・・・もう何時間あのままとまっているんだろう。
朝になったら飛ぶかな・・・・

明日朝に飛び出したれば軽やかに肩の荷おろすきっちんとんぼ

いてもいいんだけどね、こころがおもいの。

コリントの信徒への手紙 二 1. 23-24 2. 1-4

話すのもいやになる話ってあるから。
あーやだやだ。
いてもいいんだけどね・・・
家の中のとんぼ。
何をするわけでもなく、静かにとまっているのです。羽をひろげて寝ている。こまった。
だからね・・・・みんな、しゅうきょうがきらいなのーーー!!!
ほんとやなんだ。やなものはやだ。それがふつうじゃないか?

群集よ、飛び出す空は茜雲、さえぎる雲は月さえ隠す。

使徒言行録 15. 34

なんか、めんどーなんだけど、このくりかえし。かわらん。
しゅうきょうとはこころのせんそうなのかもしれん。ほおっておく。かんけいないから。へいわ。
ぱらっつぉ。
ちじょうにぱらっつぉをつくろうとするからけんかになる。
てんぴおよりぱらっつぉのほうがひびきがいいな。ましだ。

あたしにはかんけいのないはなしなのである。なんにもかんけいないほうがさっぱりとしている。うるわし。

いふうどうどうさっぱりとかんけいないといえるほうがましなきがする。

歴代誌下 10. 13-19

ほんで、ぶんれつしていった、と。
てんぴお。

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June 25, 2004

オラリ

キーワード「パラッツォ」から始まる。理由は不明。アッシジのど真ん中からスタート。というわけで、13日の金曜日にはアッシジ。15日の昇天祭にはヴァチカン。ショートカットでフィレンツェを中継し、大衆海岸。ビーチはタダではないことを知る。もうどしゃぶりかもしれない。気にしない。チンクエテッレを通りセストリ・レヴァンテ。海岸線を放浪した後、ガリレオに挨拶して、アッシジへ戻る。ただし、外。

アモス書 9. 14

荒れ野にはぶどうの畑つづきゆき壊さるる野のひろがりゆかめ
平和への祭典なのかオリンピア予約ひとつもとれぬ隣国
つかのまの休息もとむオリンピア戦乱の世に生まれたるかな
遠のけばメダルの数もものがなしいつ世いつ国わこうどの旅
うきうきと旅する吾子の予定には海岸・プール並んでおりし
しまいにはどうでもいいと美術館かっとばしたる夏休みかな
パーチェとは平和のことかと語感みゆそぞろあるきに台風よぎる
うらがえす真実もまた水面にはうつるまもなき光は踊る

何なんだろう・・・・脳の中がぐにゃっとなるような感覚。

エレミヤ書 4. 1-31

ガリレオ・・・だ。
ガリレオが産みの苦しみ・・・・なのかも。天幕。壮大。ガリレオから昇るとね・・・・スケールが違う。カテゴライズされた宗教意識から昇るより、大きさが違う。しかもほんの一滴。その一滴が、脳を変える。

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June 20, 2004

パラッツォをおいかけゆけとドゥオーモは目立ちた街のチェントロにあり。

バジリカ、チェントロ、ドゥオーモ、だけ覚えておけば迷子にならないことに気が付く。教会の場所だけ覚えておけば、地図が読める。なんてわかりやすいのだろう。ペルージャ空港を降りたら、そこからフィレンツェ、チンクエテッレ方面。そしてまたペルージャへ。ローマの遺跡ツアー。
それにしても、古代、霊性、ルネッサンス。ルネッサンスの先には軍港があるのです。やれやれ・・・
今話題のチンクエテッレ。何にもない。宿を検索しても山の上や周辺の軍港からのほうが入りやすいし、土地が狭いからプールもない。第一、無いのよ、そういう受け皿が。これだけ話題になっているのに。ひなびた漁村から軍艦や豪華客船を眺めるのが癒しなのかも・・・
普通だったらこの辺からならミラノから帰ったらよいのに、ペルージャに迎えに戻らなければならない。そこからまたローマへ行ってペルージャへ戻る。ペルージャ往復というのは、すんごくややこしい。
キーワード、パラッツォ。ドゥオーモのあるところにはパラッツォがある。でも何もないところもある。どーしよ・・・

マルコによる福音書 15. 6-15 死刑の判決を受ける

ああ、これ、昔からすごく不思議だった話だ。わたしはね、ピラトが悪人だと思っていた。が、しかし・・・考えてみたら、ピラトにとってはジーザスが何者であっても値打ちないから・・・
ユダヤ人にとっては大問題。彼がメシアかどうかは彼らにとっては大問題。怒り・・か。

十字架の栄光をみて悲しみは桜ちりゆくイースター思う
はらはらと桜前線のぼりゆく北の季節はすぎゆくばかり
パラッツォをおいかけゆけとドゥオーモは目立ちた街のチェントロにあり。

ユダヤ人の王が誰になろうとピラトに何の関係があるというのだろう。いくら説明してもわかるわけないだろうに。そこなんだな・・・決まりどうりにやっただけ。

たしかに軍港とチンクエテッレみたいなものかも。村長が誰になろうと関係ないよなぁ・・・土地がないから開発もできない世界文化遺産。しかも夏場だけ。ちょっと行けばポルトフィーノ、モンテカルロ、ニース。

なんてローカルな話なんだろう。毎日決まりどうりに犯罪者が連れて来られて話を聞く。いわば日課のうちの一つ。しかも、ローカルな話。

ローマがあったから世界宗教なのかも。よーわからんわ。やること派手だから・・・いや、あれもギリシャの影響。これみよがしに聖人の彫刻が並んでいる。あれではまるで軍人ではないだろうか。発想が軍人なんだな。ジーザスが隊長で、使徒は武勲をたてた勇者。なんか素直というか、わかりやすいというか・・・遺跡とバチカン。見たまんま。あるものしかない。ないものはない。なんてわかりやすいのだろう。もともとは地味な国だったのかも。アートなんて興味ないだろう、世界戦略に忙しいし、軍人は壊すのが仕事だからね。つくっても壊れると思ったら質素なものさ。表現力。形のないものを形にしないと気がすまない。そこまでの執着心が自分にあるとは思えない。まったく逆。中から外ではなく、外から中。

列王記下 8. 7-15 ダマスコでのエリシャの預言

パラッツォとドゥオーモのペアでババ抜きしたら、軍港とチンクエテッレがのこる。

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June 17, 2004

人生のつけたしとなるわたくしは旅行業者の真似しておわる

中途半端にアパートを借りて、出る時に掃除の心配しなければならないというのも気が重いし、それを考えるとホテルのほうが気楽だけど、ホテル的に借りられるアパートもある、でも、高い。航空会社と提携しているようなホテルはもともとが高い。割引してくれても高い。それでいて、物騒なホテルは困る。車がないと生活できないようなところは安いけど、レンタカーは高い。都会は移動が簡単だけど、美術館に入るのに2時間待ちではあまりにも疲れる。しかも、夏。暑い。一体何しに行くのだろう。ペルージャ往復だからね・・・下手に移動すると戻るのが大変。語学学校を申し込めば、学校が勝手に手配してくれるから楽は楽なんだけど、基本的に高校生以上だもの。困った。行ってから考えていたら考えているうちに帰国になってしまいそうだ。一人ならあちこちとなるけど、子連れ。う〜ん・・・

こういうのを忘れるためにヴァカンスがあるのではないだろうか?

なんかね・・・

一日中何かするよなしないよな今の暮らしのヴァカンスのよう
ヴァカンスを求めるつもりの仮住まいわさわさとした旅行者となる

車飛ばしてカフェへ行ったり、ラーメン食べに行っているほうがヴァカンスっぽい。バックパッカー用のケースを買ってこようかな。学生、ビジネス、家族連れ、シニア。大抵はこのカテゴリーしかないからね。車がないというのがつらい。子連れ留学というのがなんで流行るのかわかるな・・・英語圏なら結構あるんだけどね。イタリア・・・美術・建築・語学・料理。

娘はスケッチブック。親は情けない。本でも読んでようかな。

人生のつけたしとなるわたくしは旅行業者の真似しておわる

ルカによる福音書 17. 1-10 赦し、信仰、奉仕

子どもへのサービスが一番大変かも・・・

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June 15, 2004

過去はまだ終わっていないと遺跡にはギリシャ・ローマとバチカンありき

3週間の予定なので、せっかくだからイタリア語のレッスンを受けて、宿泊費を節約しようかと思ったのですけど、娘が一緒だとセミ・プライベート・レッスンになってしまい、学費が高い。というわけで、”もっともらしい言い訳”をつくって旅行をするのをやめました。素直にヴァカンスを楽しむ。でも、その代わりにイタリア語のテキストと携帯用の辞書を買ってきました。

それは、さておき・・・
詩編 41

朝から、詩編 41。

過ぎ去りし未来のことは世紀末、レーガン、中曽根、どちらも忘れ
わたしには新たな風が吹いている。希望の風は光の中へ。
過去はまだ終わっていないと遺跡にはギリシャ・ローマとバチカンありき

ローマの観光マップを眺めているうちに、どうして独立国なのかだんだんわかってきました。もういいだろう・・・アッシジでさえずっとだもの。ええかげんにせーよ、というか。それが歴史なんでしょうね。われらの遺伝子。

一つわかったのは、ジーザスは神の子。これなんだろうな・・・つまりは、これ。聖書に書いてあるのはこれだけ。(抜けているところから引用したのかもしれないけど、わたしの責任ではない。)

間違えて二者択一を迫られた時には、どちらも選んではいけない。別の道を行く。

一度も戦争を知らない街、ルッカ。
聖フランチェスコ。
中世の知恵がある。
アメリカにくっついているから、平和なのかも。

(ちなみに、茨城県民は長生きですよ〜、90歳以上のおばあさんがカート押しながらしゃかしゃか歩いている街。ただし、言葉が・・・もう100年くらい昔の言葉なのでよくわからないです。)

列王記下 25. 1-6

戦争、知らんのよ・・・あたし。あー、うざい。
これか・・・・・・ほんとにどーするんでしょうね。20世紀の遺物。

なんで、軽やかにほっぷすてっぷじゃんぷして、旧約から新約へ入れないのだろう。過去が好きなのかも。

ジーザスが罪を贖ってくれたって言っているんだから、「ありがと〜」ってなって終わる。なんでいつまでもうだうだごちゃごちゃうるさいのか理解できない。

アッシジも上だの下だの街の地図を見ているだけではわからなかったけど、アッシジというのが城壁の中だけではないことを知る。それにしても、どこにいても迷子になることはなさそうな町かも・・外からなら。中に入ると迷路と書いてある。謎。侵略を阻止するための街だから仕方がないのかも。

エレミヤ書 22. 10-11

エルサレムと一緒か・・・
ヴァカンス。
死海も制覇していないし・・・
なんでもいいや。

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June 13, 2004

陽はのぼる闇路の中へ消えゆかむ消えゆく光陽はのぼり出づ

どうしてもパリ行きの飛行機がうまく取れなくて、つまり、インターネット予約に使うマイレージのアクセス番号を忘れてしまったとか、座席が並ばないとか、クレジットカードが本人名義でないと予約できないとか、どうしてもうまく行かない。
仕方なく休みをずらし、父さんを迎えに行くとなると大空港は危険だから、ローカル空港を選ぶ。するとなぜかフィレンツェがその日うまく飛ぶ便がない。すったもんだしているうちに、試しにやってみたペルージャ往復があっさり取れてしまいました。
もう運命なんだな・・・あれだけ飛んでいるパリ行きがうまく取れないで、ペルージャがあっさり取れるというのはヘンだ。なんかそういうものなのかもしれない。
アクセス番号を待っているだけでも1週間以上がぼーっと過ぎ、あちこちの航空会社を検索し、料金を調べ、あげくやっとアクセスしたら、今回は別々の旅程になるからあたしのカードだけでは予約できないとか、ローカルなエリアだと自社便の乗り継ぎでないと旅程や予算がうまくパネルに現れないとか。こんなにややこしいのは初めて。迷路を回っているうちに、あっさり最初の予定に戻ってしまう。

くるくると空回りして過ぎゆかば突然の雨降り出しやまぬ
夏までの当番の水今やりぬ梅雨の日なれば意味なく忘れ
雨の日に吾子を迎えに忘れたりスーパーの中置いてきぼりに
のんびりとゲータレードを手に持ちぬ吾子を眺めるスーパーの中
レジ袋車の中に置きたれば代わりにながむランドセルかな
小学生ローカルな店歩きたるゲータレードを憂鬱にながむ
都会では万引き犯だと教えては幼稚園から変わらない吾子
鉄道を使った旅の難ければホームに吾子を残す恐怖よ
迷子クセ遺伝なるかと悩みつつがんじがらめのルールを恐れ
オトくんの迷子の札を眺めては吾子にも要ると憂鬱に思う
放課後にひとりのこされ迎えゆく理由はトイレ訊くもむなしき
トロピカル南の島はローカルで舟さえ人をのんびり待ちぬ
エンジンをかける前にはベルトなど締めてすすめる駐車場かな
ひとりよりふたりが不安ふたり旅吾子とならんでぼおっと不安

使徒言行録 8. 37

歌壇はもっとローカル・・・いやになってしまう。
アッシジの名物、フランシスカン人形の一番人気はパソコン人形らしい。
世の中どーなっているんだろう。
ミケランジェロ風あかんべの精神も捨てがたい。
気風なんだろうな・・・
ルネッサンス。おもしろー。
ルネッサンスは古典か?
う〜ん・・・・なやむ。

学内の放送みたいNHK。歌稿さぼりにせんせいふたり。
レトロ風がんじがらめに吹き抜けてモーセの角をながめてうれし
暗殺者考えてみてくそまじめ息吹の抜ける道なき風よ
律法が悪の種蒔き罪の花枯れる頃には小鳥の餌か
やまみちをみちなりに飛ぶ小鳥にはアップダウンの低空飛行
落とせない角ならモーセ彫りこめば選歌のやうに落とされもせず
その一首詠みこむための添え歌の難く並んで一首を落とす
ルネサンス、ミケランジェロのわざぬすむ。くわえてへらす知恵比べかな。
あまのじゃく、どこまでいってもあまのじゃく。ながめて知るはいにしえのちえ。

ジーザスが罪を贖ったと言っているのに、しつこい。

安息日神の来る日が来る前に彼を降ろして十字架の下
水さえもぶどう酒さえも口にせず運命の日をしづかに過ごす
十字架の下で過ごせりカードなど自由にやれる人らのむなし

不思議だよね・・・

世の光期待してはと裏切られ裏切られては裏切りを思う
退廃の静かな闇に消えゆかば陽はのぼりゆく地球の裏へ
陽はのぼる闇路の中へ消えゆかむ消えゆく光陽はのぼり出づ
くらやみに出づる光の姿絵はむこうの島の影絵となりぬ
風立ちぬ光の舞は出づる陽を闇へと閉ざす静止する時

パッと沈んだからよいのかも。

陽はあると思えば闇へ沈みゆく彼方の空は下にのびゆく
空間は果てしなき空広がりし見あげて空は闇へつづきぬ
沈むから光果つなくおとづるる季節もかわる気候もかわる

パッと沈んだんだな・・・
みんなが一斉にパッと沈んだ。
一斉に闇に沈んだ。

詩編 34. 12-15

何が偽りではないのか、わからないから平和がわからないのかも。まるでわからない。

投稿者 Blue Wind : 04:22 AM | コメント (0) | トラックバック

June 09, 2004

透きとおる海のなかみはうるわしき海より空は光だに満つ

ヨブよりつらく、だってヨブはまだ自分でお話できたではないですか、神の愛を知らない寝たきりの年寄りでも、人間としての尊厳に満ちあふれることもある。それが本当の奇跡なのかもしれない。母に対してはぶーぶー言いたいことがたくさんあったけれども、実際、たくさん言ってきたし、それでいて今はそういう母の尊厳を自分が受け止める度量がないような気がしてしまうのです。あのような姿になって、果たして、そういう自分を自分であると自分は受け入れられるのか、と。
できれば、みじめな姿、弱くなった自分をさらしものにしたくない。だから、祖母のように最期まできちんと身繕いをしてす〜っと眠るように亡くなるほうが幸せ。そのために、重度のリュウマチの叔母は今でも元気で歩いて家事をしています。それに比べると、母は弱い。強くて弱い母が弱くて強い人になった。

尊厳をよわき人らにもとむれば咲く花のごとあたわれて生く
世話がちにかよわき花の枯れぬれば朽ちた花にぞいぶきのもどり
生きる意味問われてむなし話すらできぬ母には尊厳のあり
果てしなきみちはつづきぬそらまでも文句言えるは元気な証拠

ヨハネによる福音書 9. 1-12 生まれつきの盲人をいやす

結局はそこなんだろうな。母は今の医療の中でこれ以上は望めないだろうという医療を受け、私ももう少し母が元気だったら今より何かできることがあるかもしれない。何もしないだろうけど、たぶん。一番困るのは、どうして何もしないのか、と言われることかも。
ああなったら、知識は不毛。そんだけ。だから何もしない。ホスピスですら無駄だろう。だって、本人はほとんど意識もないし、耳すら聞こえないかもしれない、言いたいことも言えない、無反応に近い。
結局、私が知りたいのは、母に何が起こったのか?ということ。

実験実証主義においては、こんなに明確な事例はほかにないだろう、たぶん。
問題は、だったら何もしなくてもいいの?ということ。
いつもそう。そこ。

ヨハネの手紙 一 1. 1-4 命の言

かえすがえす蝶よ花よと生きぬればよきこともありあしきことあり
おなじ日をやがてはわれもむかえれば親の苦労はいやしとなりぬ
くりかえしうしろすがたをふりかえり見ることのないじぶんのせなか

そこか。世の中には屍をさらしている人もいる。彼女がどうして腐らないのか。

まみずにはまみずのなかの光あれみずよりえがく世界は光
透きとおる海のなかみはうるわしき海より空は光だに満つ
すいすいとおよぐさかなをおもわなばみちすじとなるみらいのことは

エゼキエル書 44. 1-3

こちらからは見えない。

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June 07, 2004

夕立の音闇のする昼間には雨の季節のもの悲しさよ

夕立の音闇のする昼間には雨の季節のもの悲しさよ
三層の動き出したる寝たきりは人や役所や事務仕事だに
生きるとは書類の中で決まるのか不思議に思う雨降りの音

コロサイの信徒への手紙 2. 20-23 日々新たにされて

戒律と法律の違いがわからん・・・

紙切れを一枚取り出す雨の日は旅程を書いて下調べする
母の旅のんびり立ててわたくしは自分の旅をのんびり立てる
日本には梅雨の季節があるようにガイドブックは読みながしたる
今日のこと明日のことなど梅雨時の空模様など気まぐれな雲
降りだした雨には傘を差すように草刈る人ら午前に終える
十字架をガイドブックで眺めては空気の絵の具チケット売り場

ヨハネによる福音書 4. 27-30

ベトザタの池を観に行っても意味ないでしょ?
そこなのよね。

厚化粧的中世を旅するもよし。

アスファルト舗道の道を歩くよう殻のパワーは街をつくれる
標識は迷子人を救いたる文字さえ読めぬ異国のことば
何もない空間たるやさっぱりと大きな月をながめるためか
干潟には砂はあつまりビーチには石ころならぶフランスの海
自然にも許可証いるか問いたしもみかげの山は埋立地へと

コリントの信徒への手紙 一 5. 8

古いパン種・・・
古いパン種集=ガイドブックかもしれない。わかりやすい。

もう晴れている。

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June 04, 2004

陽よ雨よ枯らしもすればめぐみたる気まぐれな空花は咲きたる

こんにちは、ご無沙汰しています。
忙しかった。どういうわけかひたすら忙しかった。
母のことだけではなくあれにこれにと忙しかった。
というわけで、久しぶりにのんびりネットを繋いでいます。
おかげさまで、母はパリ祭の頃にはつくばにやって来れそうです。
翌日が東京のお盆。
パリ祭はいつも母に付き合わされてシャンソンを聞きに出かけました。
以心伝心、すべてが順調です。

イザヤ書 65. 24

神さまはさきまわりして道ひらく明日ひらく花知るかのやうに
今日のこと明日のこともわからない空の雲さえうつろいながら

電動のバリカン買って刈り込めば花咲く庭に小道のもどり
名も知らぬ小鳥のような鳩のよう太った鳥がブランコに乗る
照りつける太陽のしたあらくさは腐葉土となり勢いとなる
ちっぽけな庭さえ空は気ままかな生きるがままに手を添える吾
生きるまま育ちゆくままめぐりゆく季節はかわるひとつ学んで
薔薇の花絶えることなく咲きゆかば休みの季節バカンスとなる
花々はかわるがわるに咲きつづけ初夏の風には小さな木の実
子みかんや子なし子ざくろミニチュアのおもちゃのように実をつけており

ヨブ記 31. 29-30

何のため生きる苦しみ背負いたる母の苦しみ生きる喜び
ヨブよりも苦しき母の姿かな陽はのぼりゆき輝きを増す
生きていることさえ奇跡と言われしも生きる姿の苦しげに泣く
枯れかけた花さえ息のもどりせば陽よ雨よと咲きたるがごと
陽よ雨よ枯らしもすればめぐみたる気まぐれな空花は咲きたる
雨と水。まったく違う空の色。空の咲かせた花はうるわし。

コリントの信徒への手紙 二 8. 16-24 諸教会からの使者

母は祖母のように死ぬつもりだったから発見が遅れて(つまり隠していた)、それから無理やりオペして奇跡的に助かって、その後何度心臓が停止したことだろう。それでも死なない。死ねない、という表現のほうが正しい気がすることがある。
こちらへ来たら、再び脳外科で検査するところから始めるそうです。普通だったら考えられない。それ自体が奇跡に近い。するするとまるで何かが決まっていたかのように道が拓く。

自分だったらどうするだろう。母もずっとそうなったら何もしないで死なせてほしいというのが口癖だった。そうなんだよね・・・大抵の人は、もちろん自分も含めて母と同じように考えると思う。「できればこのまま・・」みたいに。
が、しかし、僅かでも助かる見込みがあるならオペするでしょ?
が、しかし、普通は頼んでもオペしてくれないようなケース。勢いだけでオペ。いわば延命治療のひとつのようなものだと誰しも思っていたし、自分ですら3年生きたときにはすでに諦めがあった。普通だったら助からないし、生きても半年とか?しかも、寝たきりで半年後に自発呼吸が戻っただけでもすごいと言われた。

どんよりとした朦朧とした目は死んでいる証拠かもしれない。目の焦点があっていて、澄んでいるということは生きている証拠かもしれない。全然違う。

祖母はね、こころがけのよい人だったから、60歳過ぎたら着物にすべてしつけ糸をかけて、いつ発作がきてもよいように身支度していたのよね。だから、いざ発作がきて、眠るように亡くなったときに皆が驚いたんだから。「そんなバカなことをしていないで、生きているうちに」などといくら言われても知らん顔をして、自分のことだけしていた。
母はこころがけが悪かったから、いざ発作がきて、あれにこれにと私がどれほど苦労したか。整理までやらなければならない。しかも不要なものがありすぎて未だに困っている。それでいて、何もしなければ祖母のように死ねると考えていること自体がこころえ違いしていたのかも。たしかに物理的な死に方はできるのかもしれないけど、現実は違う。現実というか、真実が違う。死ねば終わるのかもしれないけど、死ねないではないか。

天の受け入れ態勢が整うのに病院より時間がかかるのかもしれない。(ほんとか?)
道をまっすぐに。

祖母はごく普通に生活していて、発作で倒れて3日のうちにすべての人が会いに来たとたんに息を引き取った。しかもいざという時のために着物にはしつけ、一筆書いたものまで出てきた。大袈裟なものではないけれども、万が一生きてしまった時のことも考えて。理想の死に方。
母はどうなんだろう・・・こうなったら少しは母にあやかりたいと皆が思ってくれるようになるまでは生きていてもらいませう。いや・・・、諦めよう。まったく逆だもの・・・昨日まで元気で過ごしていたかと思ったら、突然、あれ以上ひどい状態はないという状態で生きている。祖母のときとはまったく逆だ。

何のために生きたり死んだりしなければならないのだろう。よーわからん。

ルカによる福音書 16. 12-13

そそ、ママが欲しかったのは金だ。
死んでから、というか、倒れてからのほうが人間的かもしれん。
無力で倒れて一人では何もできないほうが人間的というのはなぁ・・・困った。

復活、か。

死ねば終わるというのは嘘だね。やはり、生きて贖わなければ死ねない。ママが大切にしていたものは何の役にもたたない。「ただ生きている」、ことへの感謝なのかもしれない。

目がしっかりして、不思議なほど静かな人になってしまったのです。
病床にいて、何もできないけど、不思議に目がしっかりして澄んでいて、それだけ。それだけなんだよなぁ・・・それだけ。生きている。
ママもジーザスに会ったのだろうか。ずるい。
どうやったら神さまに会えるのか?
さあ・・・・・

こころのなかがぐっちゃぐちゃでも寝たきりでもわるいひとにもよいひとにも、あなたにもわたしにも。

ヘブライ人への手紙 1. 1-4 神は御子によって語られた

母は彼に会った。
母がいきなり歩き出したら、誰でも信じるだろう。
聖書の時代はよかった。

「永遠の命」。

ややこしい。ややこしいーよーー。

眠りより目覚めたような瞳には見つむる先の見えているやも
苦しみをとおりすぎたる目覚めにはしずけさだけが漂っている

ローマの信徒への手紙 15. 21

わかった。話しかけ方が違ってる。神さまとお話するように、母とも話さないと通じない。

投稿者 Blue Wind : 02:55 PM | コメント (0) | トラックバック