April 30, 2004

ご機嫌な日

コンポが新しくなる。ご機嫌。
いっそのことBOSEの一番良いやつにしてやろうかと思ったけど、オトくんにオシッコをかけられた場合のことを考えて諦める。おちびが小さい頃にはあれにこれにといくつ破壊されただろう。やっと被害が消えたと思ったら、オトくん・・・
今まで、SONYのラジカセタイプを床の上に置いて使っていたので、まったく置き場を考えていなかったという・・・だって、また同じタイプにしようと思って買いに行ったから。テレビ用に接続してあるKENWOODのコンポもあるけど、いつの間にかCDが使えなくなってしまっているためそのままになっている。これはあまり音は良くない。結婚した時に出窓の棚にも置けるようにと買ったもの。小さい。
それとは別に自分専用のCDプレイヤーが生活必需品。今のままでも不自由はないんだけど、床置きにしておくとオトくんが何をするかわからない。困った。今度のONKYOのコンポは、少々スピーカーが大きいことをのぞけば、この音でこの値段。キッチンのカラーと同じコーディネート。前回買ったCDラジカセとほとんど同じ値段という・・・あれにこれにと店員さんに説明を聴きながら、生活スタイルが微妙に変化したんだなという気がした。
わがままなのよね・・・・ラジカセタイプでしかも音をよくしろというのは。どうしても重くなるし、MD付きだともはや外では使わない。おそらくはせっせとコンピューターに接続しながらそれをせいぜいポータブルにする時には本当にポータブル。ウォークマンタイプが主流なんだろう。それかパソコン相手に音でも聴くか。
だから、ラジカセタイプは自然とすたれてしまい、動かさないならコンポが今の主流らしい。それでいて、あまりにもコンパクトでデザインが凝ったものは音が悪い。しかも値段が高い。あまり小さくしないほうがコストが安い。毎日使っているとどうしても消耗品。このところずっと調子の悪いCDプレイヤーに我慢していたのだということに気づく。音が途切れ途切れになったり、音が出なかったり、仕方がないからCDプレイヤーのご機嫌に合わせて選曲していた。はー、それを考えるとこちらの意思どおりに機械が動いてくれるというだけですこぶるご機嫌。よく考えたら当たり前のような気がするんだけど、どうもこのところ無意識のうちに我慢しながら機械とお付き合いしていたらしい。

音もなしに歌を詠んでいると何となく詠んでいるという気がしない。にしても、「歌人」っていったい何なんでしょう。とりあえずは肩書きになるんだということに気がつく。下手な歌でもとりあえず結社誌に掲載されていくとなると、「へえー」くらいにはなるらしい。自分の場合は遊びで詠みはじめただけなので、気楽な世間話のつもりで話していたら、それがしばらくたたないうちにどんどん状況が変わる。
娘の担任の先生と『サラリーマン川柳』の話をしながら、あーこっちのほうがおもしろいなーなどと勝手なことを思いながら、おもしろおかしく悩んでみたりして。あっさり語れば、癒し系。歌人をやっているのがどうして癒し系かといえば、おそらくはこの辺の土地柄とも関係しているのかも。100点が当たり前の土地柄で、逆に農家の子のほうがいやがって越境しているという・・・それでいて、さらにこの辺でも隣の小学校へ越境している子もいるし、年中アメリカとイラクの対立みたいに新住民とか旧住民とかでドンパチやっている土地柄だから、父さんが医者で母さんが研究ガツガツやっているとなると何となくね。父さんが医者で母さんが歌人なら両方にノラクラしていられる。一番楽なのは娘かもしれない。

そういうわが家の事情は別として、本人はすでに歌人をやめて散文詩にしようかとも思っていたりする。それでいて、すでに手は勝手に歌を詠む。その時々の気分というものがあるから、その歌がよいとかわるいとか、はすでにどうでもいい。
「癒しがほしいのはわたしのほうなんです。」
あっさり語れば、古いプレイヤーで好きな曲が出ないで我慢しているというストレスに気がつくのは、新しいコンポを買ったからであり、古いものを使っている分には案外気がつかないものなのかもしれない。というわけで、今日のあたしはすこぶるご機嫌。歌でも駄文でも言いたいことがスキッと言えたらそれだけでご機嫌。自分的には他人がどう言おうともご機嫌。日々日日をどうやって幸せに過ごそうかと思えば、つまらないストレスは貯めないに限る。
それでいて、一番困る質問は昔から、「愛って何?」という質問。精神系のウェブなどを管理していると、どうしても愛に飢えたる者の世界。大真面目に悩んでいたりする。だから、日常を書けと言われてしまう。
聖書のサイトなどを眺めると、こういう時にはどこのページなどと書いてあったりするけど、それよりも短歌に限らず、毎日のうだうだなどを考えながら、何となく気が向いた聖書のページを開く。毎日一分でもいい。おそらくは、そうやって一人になることにより、自分が静かになるのかもしれない。要するに、自分で自分を救えないから誰かにしがみつこうとする。そして、他人のエゴに振り回されたり。そういうおばかな時間を削除し、自分のために使う。
それは何も特別なことではなく、ごく日常の一ページに過ぎない。楽しいよ。

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April 26, 2004

暗中模索

イラクの人質解放の世論などを眺めていると、まるきり職員室での話題みたいでつまらない。要するに、学校に迷惑をかけて、先生やほかのお友達に迷惑をかけたのだから、それに対して家族が謝り、本人にも反省を促す。学校と違うのは、金で落とし前をつけさせようとしているところだろう。
あーこれが日本社会なんだなーっと思った。当たり前のようでいて当たり前でないのは、国際世論というものがあるからであり、純粋にイラクのことを考えて、復興援助のボランティア活動に行った人たちのことを賞賛する声もある一方で、日本政府の姿勢というのは、「皆さんにご迷惑をかけた」ということを批判するものであり、それに対して金という形での謝罪を要求している。従って、「今後何かがあれば自己責任ですよ」ってことになるのは、学校の責任逃れにもよく似た態度であり、そういう風潮があるからいじめにつながるんだなーなどと思ったりもする。
それでいて、アジア型の紛争解決においては、長老同士が話し合い、紛争を解決する姿勢というのはごくありふれたものであり、日本においても村落共同体の中ではそれが当たり前のことである。
自分の場合は、案外、常識的な人であるために、やはり自己責任だろうと思う一方で、自衛隊の復興支援というのは真っ赤な嘘であることにも気づく。つまりは、アメリカ支援のために付き合いで派兵しているだけであり、多くの日本国民はそういう紛争には巻き込まれたくないというのが本音。だからこその反戦ということになる。
だから、政府に同調しない姿勢で、イラクの復興のために活動する人たちは非難される。しかしながら、心情的には、こういう純粋な人たちがいるから人質解放にもつながり、だからこそ、少しは日本人の活動というものも見直されつつある。にもかかわらず、日本の世論、政府の姿勢。
あまりにもわかりやすいと同時に、米・英が迷惑なのは、そういう長老社会への批判であり、紛争を解決するどころかますますややこしいことになってしまうから。それでいて、民主主義というものをアジアに浸透させるという目的は、案外、これまた純粋にイデオロギー的対立まで生み、それにより安定した長老社会というものが破壊されようとしているのも事実。

こーねー、自分などは過渡期の世代だから、どちらが正しいのかなんてことはもはやわからないです。昨日、塔短歌会の結社誌が届き、やけに分厚い今月号を眺めながら、50年の間にはいろいろなことがあったのだと他人事のように読んだ。結社は長老社会だから、紛争が発生すれば長老同士が話し合うのでしょうし、超結社がどうたらこうたらというのは、要するにそういう風に長老同士の話し合いに頼らず個人間のつながりを持とうという姿勢なのかもしれないし、何となく村落社会における青年部のような・・・

その話は置いておいて、さらに興味深かったのは、消えた歌人の話。当時の塔短歌会としてはめずらしい部類の歌を歌会に持ち込んだのだろう。アララギではめずらしくなかった?その辺の事情は短歌のことにはまるで素人の自分としてはよくわからないけれども、日常的な歌ではなく、もっとアートな部類の歌を詠もうとしていただけなのかもしれないし、それでいてその幻の歌人は、その結社以外の歌人の影響を受けていただけであり、塔短歌会でもてあました歌人は、どこに住んでいるのかもよくわからず、歌会にも来なくなり結社誌にも投稿がなくなり行方不明になったらしい。
行方不明というのは大袈裟じゃないか?

インターネット歌人をしていると、自分のサイトがあるから特に一生懸命に結社誌へ投稿しようとは思わない。結社に不満があるとかないとかよりも、いまだに歌会にも行ったことがないし、それだってつくばの田舎に住んでいて、どうしても子どものことが中心の生活をしているせいであり、結婚するとどうしても自分の家庭の都合が優先されて友達付き合いをないがしろにしてしまいやすいということにも似ている。それでいて子どもの成長と共に少しは自分のことをやれる時間が持てたのでネットをやり、いつの間にかサイトのネタとして歌を詠むようになっていただけ。

しか〜も、「カルチャーセンターと一緒にするな」と言ったヤツがいる!!
悪いけど、あたしはカルチャーセンターというものには行ったことがない。だから、言われてもピンと来なかった。知り合いにカルチャーセンターの講師をしていたという人がいるけど、あまりピンと来なかった。この前、ネットで検索したら、朝日のカルチャーセンターにもなると講師陣というのもすごい(経歴が)。あーなるほど、そこで教えていたということは自慢になるのだということに気が付く。フランス語の先生らしいけど。

というわけで、こういう場合にはどーするかというとひたすら詠みまくる。あっちからもこっちからも何か言われたときには、そうやって淡々と自分のことに専念する。これは長い間の経験から来ているのかもしれない。なんせ、一つ言うためには十のことをこなさなければならない。
歌壇の事情に詳しくない自分としては、なんで声をかけてくれたのが『彗星集』(未来短歌会)なのかわからなかったのよね。つまりは、ネット短歌というか若い世代の歌を集める。果たして自分が若いかどうかはわからないけど、気ままな歌人であるには違いない。だからといって、それは歌が浅いだけであり、昔ながらの歌を詠んでいるとそれはそれでその中では浮いてしまうのかも。
ということは、両方のことができなければならないということになる。長老社会の中で長老の話にも耳を傾け、なおかつ自分のことは自分で続ける。しかも、素直に結社誌のほうに投稿していれば何の問題もないのでしょうけど、相変わらずネット歌人を続けろという試練は続く。
でも、こうやって苦労をしているから、その苦労を新たなる苦労として理解してくれる友達もいるわけで、かといってそれを発表してどうなるのかもわからないし、そこまでの責任が自分にあるとも思えない。だって、歌、浅いから。

閉鎖的な世界にいる甘美というものもあるし、それでいてそれだけではその世界は死に絶えてしまう。かといって古臭い世界に新しいものを持ち込もうとすればイラクの紛争のようになってしまう。あーなんてややこしいのだろう。
そんなこんなを思いながら、自由だ。
いずれにせよ、サイバー上に自分のサイトがある限り、自分が存在しているということくらいはわかるだろうし、少なくても結社誌のほうに歌を出さなくても消えたと騒がれることもない。まあ、サイトを移転させたり、消してしまえば所在はわからなくなるのかもしれないけど、今のところ無事に結社誌は届いているわけであり、あたくしは幽霊じゃございませぬ。(幽霊会員かもしれないけど)

それよりも、少しビシッとこれが自分の歌であると言えるような歌を詠んでみたいものだけど。まだまだあれにこれにと暗中模索は続く。

投稿者 Blue Wind : 05:29 PM | コメント (0) | トラックバック

April 25, 2004

青とんぼ

この前から神父さんのサイトに、biglobeのホームページが貼ってある。biglobeでなくてもいわゆるコミュニティというか、ガイアックスでひどい目にあってしまったがゆえに、日記だけの交流というのはそれなりに気楽であるということは以前から気が付いていたのだけれど、一人で気ままにサイトをつくっているというのはそれなりに気楽。検索で来訪してくれる人がほとんどだし、それでいてちらほら常連さんやリンク先からの来訪があり、無料サーバと違って好きにしていても文句言われるわけでもないし、容量も大きい。更新すれば、ping先のblogリストから来訪がある。
coolのサイトは、結構、リンクしてくださったところもあるし、ロボット検索にも登録してあったので、それはそれなりに置いておくこともできたけど、自分としては自分が更新していないサイトはすでに死んでいるような気がしてしまう。とりあえず、サーバに置いておけばそれなりに勝手に来訪者があるのがネットであり、そういうことを考えると放置しておいてもそれはそれでかまわない。でも、有料であるがゆえにバカバカしくなってしまう。だったら、最初から無料サーバを使うほうが気楽かもしれない。まったく更新しなくてもトップページがあるとどういうわけかずっと保存されているわけで、自分で閉鎖しないかぎりずっと存在している。

以前、閉鎖された世界の甘美というものを書いたけど、よく考えてみれば、インターネットにもどこかそういう閉鎖された世界の甘美というものが存在しており、おそらくはそれを再び打破しなければならないのかも。メディアとしてどこか未熟なのは、そういう閉鎖された世界の甘美さがあるためであり、ネットだと常連さんとかそういうことになるのかしら・・・それでいて、挨拶カキコに忙殺されるということにもいささか疲れ果てているし、今のようにコミュニケーションの薄いサイトを構築しているほうが管理する側としては気楽。
歌のネタも書きたいんだけどね・・・気が重い。うっかり書いて、誰が見ているかわからないし、あまりにも人間関係が狭いとなると、なかなか本音は書けない。完全に結社などには無関係に自分のことだけやっている分には単なる読者だから気楽だもの。まあ、この話は置いておこう。いずれにせよ、雑誌や歌集となると売ることが目的だから、宣伝になるならいくらでも引用でも転載でもかまわない。それはインターネットにおいても同じ。
にしても、聖書にまで著作権があり、なおかつボランティアとしての活動があり、いささか世の中は複雑だと思いながら、出版業界からすればあたしのささやかなる楽しみも自己表現としての媒体ということなのだろう。短歌とかネットも自己表現のための媒体であり手段。そうやって言われるとそうかもしれないと思いながらも、自己を表現するということも一つのエゴの発露であるからにして、それを考えるとどこか矛盾に満ち溢れ、その延長として考えると、聖書を売るということも献金するということもすべてがエゴの発露であり、子どもを産んで育てるということすらエゴの発露ということであり、どこかでエゴ連鎖を捨てないと永遠にエゴイズムの中に留まることになる。これでは実際のところ何をやっても癒しなど存在しない。ってことは、自分が救えなくなる。

歌の大盤振る舞いをするか、例の如く時事ネタについて屁理屈並べるか、それとも日常ネタをダラダラ書いていくか迷う。いや・・・何か違う。
自分の歌集に何となく『白い花』と付けた。これって偶然。歌人になる前にBBSに付けたタイトルが『新しい風の部屋』。すべてが偶然。ってことは、やっぱ歌人として日記をつくって行かなければならないのかも。反戦運動するよりボサノバ、というノリだから・・・つまりは、No War! と書くより Love & Peace と書くほうがやんわりしているでしょ?あたしの場合は両方書いておきたいほうだから。
はー、でも、せこいね。書かないつもりだったのに、やはり書いてしまう。気持ちはわかるから・・・結社誌などを優先させて、ウェブには既発表の作品を上げる。自分の場合は、結社のほうへ何を送ったのか、その場で書いたりしているからすでに忘れてしまっている。それでも今のところ困らない。だっておっそろしいほど詠んでいるから。
それより、今度はそういう中から自分の気に入った歌をページにまとめていくべきなのかも。ランボーも自分で出版しようとしたのは『地獄の季節』だったかな・・・忘れた。とんでもない詩集。それだけ。単なるやんちゃ坊主だったのかもしれないし、考えようによっては自由人。それでいて今となっては世界中であれにこれにと引っ張り出しては出版されている。
結局、癒しなんだろうな。流行作家の作品より、純文学。延々と読者がいること自体がすごい。つまりは、作家の死後に出版された作品もそういう中には多いし、若くして亡くなった人たちなどはまさしくそういう作品が多い。りんさんは、そこまでの歌人になれるか?
いやはや・・・笑っちゃうけど、そこまでの責任ない。でも、どうせやるならそういうほうがいいな。青とんぼだから。

投稿者 Blue Wind : 02:48 PM | コメント (0) | トラックバック

April 23, 2004

あくせく遊ぶ

昨日は疲れた。歌をアップする気にもなれない。とりあえず、日本聖書協会と村松恒平さんと友達から朗報が届き、それはそれでどことなく象徴的な気分。つまりは、プロの人たちだから。
聖書を出版するのも仕事だし、編集者も仕事だし、友達のほうはアート系の人たちが集まって、文化芸術振興基本法の制定に伴い、その署名と来月タレント議員がやって来て懇親会があるらしくそれへのお誘い。将来的に歌集を出版して、それを売るとなると、そういうお付き合いが大切になって来る。これではまるで仕事だ。まあ、うちの娘が美術方面に進みたいと言っている以上、彼女がそれで生計を立てていけるように礎を敷いておくのも親の仕事かもしれないと思いながらも、めんどーでめんどーで。そういうややこしいことはほかの誰かにやってほしい。

そんな気持ちのままそれはそれで歌にする。そして、パッと開いたら、ダニエル書。四頭の幻の獣の話。めっちゃくちゃ面白い。たまたま昨日届いた朗報が、聖書、文学、文化芸術振興基本法、だからかもしれない。それと同時にウイルス感染を装った偽装メールが届いており、世の中にはそういうことをわざとするためにサーバごと感染させたり、パソコンを感染させたままにしておいたり、まめな人もいるために、放っておく。つまりは、恐ろしい4番目の獣の正体は自然科学なのかもしれないなどと不意に思いながら、それに生えた新しい角とは人工知能や遺伝子なのかもしれないと思いながら、それら4つの王国---- 宗教、文学、法律、科学 ----が揃ったときに初めて旧約聖書へ立ち戻り、新約聖書へ進むのかもしれないと何となく考えているほうが楽しい。
アダムの罪・・・・つまりは知恵の木の実を食べたこと。それがどうしてこんなに恐ろしいほどの罪なのか、人間のやることを観察しているとわかるでしょ?宗教による迫害の時代、文学・学問、法律や政治、そして遺伝子の組み換えやらクローンやら原爆落としてみたり、サルのやることはすごい。それでいて、結局は聖書に書かれていることをそのまま実証しているような気さえしてしまう。
聖書も翻訳する人や書き手の問題があるのかもしれないと思った。
ダニエルの時代に、今の時代を想像するなんてことは不可能だ。そして、夢の中で幻を見る。そして、それを誰かが解釈しようとする。そして、それを記録に残し、誰かがイメージして翻訳する。情報が正しく伝達するなんてことは、どんなに忠実に誠実に行おうとしても、人間である限り無理だ。しかも、それを読んだ側の問題もある。同じことを読んでも見ても感じ方がまるで違うのだから。
アダムの罪を贖ったのが、イエス。
これってすごく重要なのだと思った。つまりは、復活を信じるか?ということでしょ?
自分に限って言えば、まるきり信じてる。それは、今のサイエンスの状況を観察すると、もしかするとそんなに肉体が復活するということは驚くことではないのかもしれないと思いながらも、まるで似ていないクローン猫の話や、性格も違うというし、要するに何が言いたいかというと、同じ肉体が復活しても、同じ人間にはならないということかもしれない。
一人一人記憶も違えば、お付き合いしている人も違うでしょうし、おそらくは考えていることも違うかもしれないし、まるきり同じ人間ということはありえない。
あっさり語れば、同じ人間であるためには肉体以上の何かが要求されるわけで、そこまでいってしまうと、サイエンスだけではにっちもさっちも。
聖書はやさしい言葉で書かれているけれども、それがいちいち根拠のあることだと思いながら眺めてみると、だったら最初から神さまの言葉だけあったらいいということに帰着してしまう。2000年前に聖書を読んだ人たちと今のあたしとが同じことをイメージしているかどうかは不明。それでいて、結局は、何となく、「お父さんの言うことをきいていたら、こんなに苦労しなくてもよかったのに」みたいな気分に陥ってしまう。あっさり語ると、これは自分の本音だから。親の反対を押し切って研究やって、結局、今は普通の主婦をしている。楽しいよ。プロということで考えると、あたしは働いたことはないけれども、自分のやりたいことをやりながら生きているわけで、慌しくペーパー読んでいるより、今は自由に読める時間もある。あれこれ考えているのは楽しいけれども、いざ仕事や課題となるとそちらを優先しなければならないのが社会であり、プロであり、つまりはプロではないからこその気楽さもある。仕事だとなかなかこういう風にはいかないもの。
誰だってそうかもしれない。特にアートの世界の人たちならなおさらかな。自分のニーズより取引先のニーズのほうが優先される。そういうジレンマを抱えながらやっているのかもしれないし、そこであえて自分を押すと仕事が回って来ないとかね。そりゃ、団体に所属して、チケットの販売から宣伝まで組織がやってくれるのと、個人で活動を続けているのとでは全然違う。昨日たまたまそういう話をしながら、ぼんやり。
一生懸命に売る苦労するより、自由に遊んでいるほうがいいよね。普通はそういう風になりたいから金が欲しいと思ったりするのではないの?遊んでいるわけではないけれども、あくせく売るより遊んでいたい。

投稿者 Blue Wind : 11:16 AM | コメント (0) | トラックバック

April 18, 2004

先々

暑い。なんでこんなに暑いのかと思うくらい暑い。まだ4月だというのに。
プランターにサフィニアの苗を植えた。むすめの自転車がパンクしたために、修理へ行ったダンナに苗を頼む。花の名前を忘れて2回も電話が掛かってきた。苗で見てもわからないと言われればそれまでかと思いながらも、植え終わる。
今年はタンポポが小さい。こじんまりと群れて咲いている。咲く時期も遅いような気がするんだけど、気のせいだろうか。アザレアがやけに大きくなり、ツツジと一緒に咲いている。去年は桜と水仙が一緒に咲き、今年は桜とアザレアとツツジが一緒に咲いていることになる。アザレアは花の時期が長いのでそんなには不思議でもないかもしれないけど、ツツジまで咲いているとは。
今年の夏は暑いかもしれない。
ヨーロッパは寒いので、今年の夏はどうなるんだろう。
単に、自分の都合を考えているんだったりして。

週末、むすめの友達は電車で塾へ通っている。月謝がタダだかららしい。さすが。うちのむすめの成績では推薦はもらえないなーなどと思いながら、かといって、今から勉強するだろうか?悩む。久しぶりにその手の会話をしながら、あっこちゃんくらい出来るとどこでも受かるだろう。それでいて、本人は親に反抗してうちのおちびにひっついてアートの世界へ行きたいらしい。もったいない。
うちのむすめの場合は、100点が当たり前の学校で、一度入院を含めて1ヶ月くらいお休みしたことがあり、まだ九九をやっている程度だからと甘くみていたら、その後、いきなり九九が出来ないということでまるで計算についていけないという恐ろしい世界を体験しているから、すでに諦めている。本当に出来ないのかと思ったらそんなことはなく、単に自信がないだけ。怖い。答えに自信がなくなってしまい、失敗を恐れるあまり計算自体が出来なくなってしまっている。算数の成績が1がついたことより、そういう追い込まれたむすめのほうがきつかった。なんせ、先生が電話で謝っている。最初その理由がよくのみこめなかった。学校自体は楽しいらしいけど、算数の計算となると急にまるきり空っぽになってしまったらしい。その後、3になり、喜んだのは束の間、また2に落ちた。今は、3段階評定なので、なんか、そのアップダウンがどの程度のものなのかよくわからないし、それでいて、100点が当たり前ということは当たり前ではないらしいことをあっこちゃんのお母さんから聞いた。あちらの小学校では学校のレベルが低いからそれはそれで心配だから、あれこれ考えているらしい。こちらはこちらで、学校のレベルが高いから、そういう恐ろしいことになるわけで、それでいて公立だからにっちもさっちもぼーっとしているだけ。
なんかね・・・ついでに言われたことには、そういう小学校だからアートに目覚めるらしい。100点が当たり前のところで躓くと、ほかの何かで自分を救わないとダメでしょ?そういうときにも絵や工作などに関してはどういうわけか絶対的な自信を持っているために、逆にそういう過酷な目に遭遇したがゆえに、本人にとってはすでに美術方面へ進むという強い意志につながったようで、こうなると親が悩む余地はない。
というわけで、親にとっても子どもにとっても、今年のヨーロッパは記念の年になるかもしれない。こちらももう少しマシな歌を詠えるように何かを拾って来たいと思っているし、むすめにとっても塾やら受験勉強よりものんびり美術館を回ったりショッピングしたり、そちらのほうがいいかも。単なる図工の時間もアートにもなれば単なる色塗りにもなるわけで、旅へ行けばよい歌が詠めるというわけではないけれども、学校なんか吹っ飛ばしてのらくら遊んで来たい。とはいうものの、それが素晴らしいことだとも思えないけど、長い人生、そういうことが大切なような気がする。なにも皆と同じことをやらなければならないということはないわけで、それでいて、美術方面に進学させるためにはどうしたらよいかなどと実際的なことも考えていたりする。ちなみに美術科の募集要項を眺めているだけで、親のほうは憂鬱になる。だって、絵が苦手だから。本当にこんなところにわが子が進学するのかまるで懐疑的だ。でも、美術のことならむすめが専門だから、というのでいいのよね。親は親だし、子は子。すでに、それぞれに専門が違うために口出しは出来ない。
それにしても、あっこちゃん。あの塾の学費がタダになるんだから、普通に進学しろよ、って言いたくなる。まあ、まだ小学生だし、先は長い。大抵はどこかでドロップアウト?して、普通の生活をするようになる。自分の場合は、親にやりたいことをさせてもらったから、今、こうやって好き勝手でありながら、実に平凡で常識的?な生活を送っていられるような気がすることもある。それを考えたら、むすめにも自由にさせてやりたい。
あれこれ考えたら、やることが多くてかなわん。聖書の勉強?も始めたばかりだし、歌も詠み始めたばかりだし、夏の計画、子どもの進学、まるで外は夏のような陽気だし、若い頃から続けていることではないだけに、これからまだ学ばなければならないことは山のよう。小学生かー。いいな、まだ先は長い。
ちなみに、母の今の課題は、翻訳しても美しい詩であるような歌を詠むこと。やだなー、まだ先は長い。

投稿者 Blue Wind : 05:05 PM | コメント (0) | トラックバック

April 10, 2004

夜明け前

おそらくは結社などへ行けば、自分はまだ若い方の部類に分類され、作歌歴も浅いことからして、ボロカスに言われる可能性が高い。つまりは、軽いノリで詠った歌を結社などに持っていけば、そこの趣旨から離れれば離れるほどに叩かれる。それをあえて実行するほどに自分は歌に対してのこだわりはない。

村松恒平さんのメルマガ、「村松恒平が語る文章の書き方 プロ編集者による 文章上達<秘伝>スクール」を読む。 第135号「直感的思考法」、第134号「語彙を豊富にしたい」には、若い歌人の投稿がある。作歌歴4年、歌会でボロカスに言われ、1年くらい作歌を離れていたらしい。先生の気に入る歌を詠めば評価が上がるし、それでいて自分の詠みたい歌を詠いたい。それでいて閉鎖された社会における甘美と苦しさ。
あーこれが結社なんだなーって思った。好きな歌人を挙げろと村松さんに言われて挙げている。あーきつい。プロの編集者でも知らんなら、あたしが知らなくても当たり前だろう。自分の入会している結社の主宰の名前くらいは知っているけど。
以下、秘伝135号より若い歌人の質問に対する村松恒平さんのコメントをそのまま引用。

____________________

コメント◇村松

せっかく歌人の名前を挙げてもらったけれども、不勉強にして知りません。
ごめんなさい。機会があれば、チェックしてみましょう。

しかし。
んー、なんか不完全燃焼な感じだなあ。
ここからは、ひょっとしたら、あなたにとっては、いらぬお節介かもしれません
が、もう少し書きたくなりました。

この件に関して、何か伏せられたままのカードが1,2枚あると思うのですよ。

「歌人は、歌と歌に対する姿勢は違うのです」

この言葉、意味がわからない。あるいは脱字とかではないのとか思うけれども、
なんかエネルギーが淀んでいる。
つまり、短歌の結社の特殊性とか、狭い人間関係や、閉鎖的な美意識を言いたい
(あるいは言いたくない)のだと思うのね。

「そして、主宰者の思惑に沿った歌を詠えば、ランクはあがりますが、私の
こころは満たされません。私の感性で詠った歌であれば、ランクは下がります」

これは、ありがち、というか、あって当たり前のことだけれども、こちらのほう
がよほどまずい、というか、考えなければいけないことのように思えるのですね。
こういう二重基準を容認してしまうことに比べたら、語彙力がどうの、という
ことはあまり問題にならないことのように思えます。

つまり、狭い人間関係や、閉鎖的な美意識によって、自分の感性が評価されない
としたら、普通、そこからは逃げだすよね。
「短歌に自分の表現意思を賭けてい」るのだったら、なおさらそうしないと。

ところが辞められない。辞めると、たぶん、歌の読者も歌の評価をできる人間も
周囲にいなくなってしまう。
その途端にあなたが作り上げた歌の世界が崩壊してしまう。
しかし、そういうことであるなら、結社を変わるなんてことも許されないんで
しょうね。

僕は、結社とは距離をおいて、少数でもいいから自分の読者を持ったほうがいい、
と思いますね。メルマガやサイトをやってもいいし、葉書で個人誌を作ってとき
どき知人に送ってもいい。あるいは、気の合う同好の士と、気楽なグループを
作ってもいい。
自分で自分の作品を評価できるようになれば、先生はいらない。
仲間や読者がいればいいのです。
極端にいえば、自分の手帳に書き留めるだけだって、歌はできます。

ひょっとしたら、そういう自由な空気よりも、閉鎖的で濃密な空気のほうが
もはやあなたには甘美なのなもしれません。そういうことであれば、もはや、
僕の口を出す領域ではありません。

___________________(以上)


結社ナルシズムというのはある気がする。狭い世界で、共通の美意識に向かって酔いしれる。で、その狭い中で、あれこれこういう歌がよいとか、師匠を乗り越えろとか、あれこれ。一歩外へ出てしまうとどうでもよいことのような気がするし、もしかすると結社に帰属せず自由にネットをメディアとして活動している歌人たちと結社型の歌人たちとの違いをあえて挙げろと言われれば、そこだけのような。つまり、好みの問題なような気がするけど、どうなんだろう。
自分のようにもともと短歌が嫌いで歌を詠み始めると、どうして短歌が嫌いかというと狭い美意識が苦手なだけなような気がする。誰だって他人の感性を押し付けられれば窒息してしまう。自己表現の一つの手段として歌を詠んでいる人たちなら尚更だろう。それでいて閉鎖された世界は甘美だ。何故かというと、苦しみが見えやすいから。つまりは、背景が固定されているために、そこから発生する苦悩はその中にいる人たちなら共通の悩みであり、苦労や悩みを共有することにより、こころのつながりが保てる。だから、そういう意味で、苦悩の中へ飛び込んでしまえば仲間であり、そういう苦悩を共有しないで自由に活動する人たちが異物に感じられたとしても仕方がないのである。

が、しかし、結社に入っても一生懸命に徒弟制の中でがんばる人たちもいれば、気が向いたときに歌を送るだけの人たちもいるし、つまりは一生懸命であればあるほど苦悩は大きいわけで、ふわふわとのらくらと当たり障りなく存在することも可能だ。
悩む。
何を悩んでいるかというと、たとえば1つの結社に送る歌はせいぜい10首までなわけ。だから、半分はボツ歌だとしても15くらいの結社に入っても大丈夫なくらいな程度には毎日詠んでいる。雑誌投稿などを考慮しても、10くらいは大丈夫かも。この歌はこっちにはダメだけど、あっちなら大丈夫だろうと思いながらてきとーに詠んでいる。なんせ気分屋だから、その日の気分で詠む。写実だったら塔へ送ろうとか、概念歌やニューウェーブだったら未来とかね・・・特に何を喧嘩する必要性もないのであります。
どこにも送れないような歌は自分のサイトに置いておくとか?サイトなら短歌でも詩でも駄文でもなんでもありいだし、誰にも何も言われない。
それでいて、一番の問題は、上述の若い歌人のように、そういう苦悩の中へどうして飛び込まないとダメなのかわからないということなのかも。つまりは、自らの意志で戦地へ行くようなものであり、どうもその辺が自分の美意識からは外れてしまう。
ネットだけでも大変。ちょっと結社へ行くと言っただけで大騒ぎするような輩もいる。そこまでの帰属意識や忠誠心はあいにく持ち合わせていない。それよりも精神系の来訪者をどうしようかと思ってしまう。

つまりは、どうせなら自分を救いたい。短歌が苦しいなら詩を詠む、組織が苦しいなら神さまとだけお話する、仲間がうざいならパッと飛び出す。つまりは言いたいことが言えないなら何のために生きているのかわからないし、詠いたい歌を詠えないのなら何のために詠うのかわからない。つまりは、精神の自由というのはそれくらいきつい代物であり、どちらが一層の苦悩があるだろう?他人の顔色を見ながら他人を気にする苦悩と、自分に忠実であろうとすることの苦悩とどちらがきついか?

村松氏に言わせると、星を目指せという・・・つまりは、ああ詠め、こう詠めと言ってくれる存在はすでに星ではないらしい。何故ならいつも近くにいてアドバイスしてくれるから。小学生が松井秀喜に憧れる。彼は星だ。バッティング・コーチなどしてくれないだろう。あれこれ身近にいてアドバイスしてくれるコーチは星ではない。
つまりは、目指すなら小野小町でなければならない。星は手が届かないから存在価値があるらしい。師匠は星ではない。先生だ。弟子は師匠に勝るものではないと聖書にも書いてある。だから、師匠を星と思って崇めてはいけないのである。
例外は、ジーザスの弟子になることだろう。どうやっても乗り越えることはできない。でも、みことばを行う者は友であり、愛を行う者は友なのだそう。などと書いても、自分はジーザスの弟子ではない。聖人になろうと思って生きているわけではない。
ただ、ハートというのかな・・・「ジーザス・マイ・ラブ彼氏なの」という表現が気に入っている。それくらいやんわりした雰囲気のほうが好きだ。あっけらかんとそういうやんわりした雰囲気で気楽に詠っていたはずが、このところやけに暗い。わかっているけど暗い。苦悩は嫌いだ。自分を救いたい。

ヨハネの福音書 15. 1-17 イエスはまことのぶどうの木

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April 06, 2004

そのうちなんとかなるだろう・・・たぶん

喜びも悲しみも、うれしいという気持ちも誰かを好きになったりする気持ちも、実は純粋に精神と呼んでよいものか迷う。つまりは、情動反応なども含めて、思考や感情は脳に制御されている。そうやって考えると、実は精神などというものは存在しないのではないかとすら思ってしまう。暑さも寒さも、痛みも傷も肉体を通して知覚する。この知覚というものも実は脳に制御されており、外界というものはこのように肉体を通して存在しているらしい。
宗教を通して人を考えると、人は死んでも魂は永遠らしい。知性や人格は残る。高次精神機能というか、品性や知性といった意味での人格は前頭葉の働きとも言われている。それが実証されたのかどうかは知らない。それでいて、魂というものを否定する気にはなれない。それは、自分が一瞬だけ思考と感情が停止したという経験を持つからであり、その瞬間というのは、あまりにも静かな愛に包まれていた。思考と感情が停止したとは言ったけれども、その静かな愛がどこから来たものか、どのように自分がそれを感知し、感じていたのかは覚えていない。それでいて、再び元の自分に戻った瞬間というものは存在し、思考と感情の中に情報として何かがインプットされていたからだろう。少なくても、記憶の中には残っているわけで、それが自分の生涯において生まれて初めてでもあり、かつ今日までも経験することのない感覚だからなおさらなのかもしれない。
脳の働きから人間の精神を眺めることは面白い。その瞬間、こころって一体何なのかと思ってしまう。詩を詠んでいる人たちは、魂の深いところからの言葉。少なくても魂の存在は感じているわけだ。必ずしも魂とは精神ではなく、それでいてどこか肉体ではないという意味で精神と混濁して考える人たちが多い気がする。でも、魂は魂だ。肉の塊としての生命もあるだろう。それでいて、肉の塊ではない生命もある。つまりは、それが魂であり、それがどうして言の葉の世界に浮かぶのか不思議だ。つまりは、一つのスキルなのかもしれないし、目で見ながら書く、つまりは脳に制御されているだけなのかもしれない。
そんなこんなを考えながら、自分はすっかり歌人である。
歌人の世界は元々は世俗的な世界を嫌う。つまりは、生業とは切り離された世界。どうしてそのような伝統があり、どうしてそういう世界なのかは、おそらくは仏教の影響なのかもしれないし、雅な遊びだったからかもしれないし、俳句となるとまるきり禅の世界だから、そういう影響もあるのだろう。俳句と比較するとまだ短歌は情動的な世界であり、俗っぽさもあるだろう。それでいて、芸術ということにこだわりたい人たちがたくさんいる。それでいて、短歌や俳句の静寂さを好まない風潮もある。
ネットから歌を始めたと語ると、軽いという印象があるのだろう。たしかに、軽い。そういう静かな精神世界を求めて歌を詠み始めたわけではない。文学として歌を詠んでいるわけでもない。それでいて、自分は歌人だという自覚がある。そして、何度も繰り返してきた、歌人は一人の世界であると。
ほんの少しだけ日常から切り離されたところに歌がある。それは日常の中で詠われ、そして、日常からは離れている。つまりは、視点だ。物理的には日常の中に歌はあり、それでいて、精神的にはどこか日常から隔絶している。つまりは、日常を少し離れた精神で見つめなおす。
毎日、歌を詠む。そして、聖書を開く。それもまた日課だ。
家族が寝て、一人になった静かな時間に歌を詠む。あるいは、今のように静かに好きなサウンドを聴きながら駄文を書く。これは、日課である。そして、こういう静かな時間が自分には必要であり、このように静かな時間を過ごすことにより、人生が豊かになる。わさわさと人付き合いに翻弄されて虚無な時間を過ごすことも減り、その代わりのんびりとした時間が過ぎる。どんなにたくさんの友達に囲まれていても、そこに神さまがいなければ虚無だけが残る。そして孤独だ。それでいて、神さまと過ごす時間は物理的には一人であっても孤独ではない。こういう満ち足りた気分というものは、うまく伝えることができない。
貪欲でこころの満たされない人たちといると疲れる。そういう人たちとお付き合いしていると、不毛な気分に陥ってしまう。物質に恵まれていようといまいと満たされることがない。常に、渇望しているからだ。
それでもまだ裕福な人たちはマシだ。自分のこころが満たされないのは生活に追われているからではないことくらいは知っているから。そして、一生懸命に何かを探そうとしているだけ。趣味を見つけたり、勉強したり、ペットを飼ったり忙しい。お金に困っていてなおかつこころも満たされてなかったら、他人を妬む。貧乏でもこころが満たされている人たちはそういうことはしない。逆に、癒しを与えてくれる。そして、何よりの癒しは、そういうつまらないことを考えたりしなくなるということだろう。家にいて、安らぎのある家族と過ごす。そして、一人で歌を詠む。
考えてみてくれ・・・・歌を詠むだけなら金は要らない。一人で家にいるだけなら毎日ジーンズで充分だ。余暇にネットをしたり、パズルをしたり。習い事をしても退屈しのぎに買い物してもつい無駄な出費が出る。それに比較すると、自分は何もしていない。
一番つまらないのは、もったいないと言われることだ。こうやってヒマな時間を賃金に変えろと言われても困る。稼いでも税金。外出すれば金がかかる。付き合いが増えれば再び出費。あまりにも悪循環だ。付き合いたくない人とも付き合わなければならないかもしれない。そのようにつまらない時間を費やすために仕事をするのはまさしくつまらない。どうしても生活に困るというのであれば別だけど。慌しく人生を過ごすのも人生なら、ぼーっとしたまま過ごすのも人生だ。カシューナッツをおつまみにして、アイスコーヒーを飲んでいるほうがマシ。
特に何を望んでいるわけではないけれど、子どもの頃から何となくぼーっとしたまま過ごしてきたのだから、出来ればこのままぼーっとしたまま死んでいきたい。とりあえず、与謝野晶子の2万首が目標だから、それを達成するまではなんとかがんばりたいけど。それと、3度くらい読むと意味のわかるような歌を詠みたい。小説でも映画でも、子どもの頃に読むのと大人になってから読むのとでは感じ方が違う。歌が文学というのであれば、そういう歌を詠みたい。詠い捨てのような歌が多い。自分にもその意味が何となくわかってきた。どうして、未発表とか既発表などにこだわるのか。つまりは、2度目には最初の感動が消えてしまうから。それではあまりにも文学と語るにはお粗末だ。同じマンガや小説を2回読んでもつまらないことにも似ている。でも、名作がどうして名作なのかといえば、何度見ても感動があるからなのかも。
悩む。

投稿者 Blue Wind : 10:49 AM | コメント (0)

April 05, 2004

混濁しない自分へ

サルがヒトになったのなら、ライオンが猫になり、狼が犬になったとしても不思議はない。恐竜は絶滅したのではなく、今の生物の原型として姿を変えただけなのかもしれない。世の中は、教科書に書かれていることが必ずしも真実ばかりではないということが多々あるわけで、いつなにがあって、常識が覆されるかわからない。単に、今の時代に生きて、今の時代の常識を与えられているにすぎないからだ。今の飛行機の原型が出来たのはヒットラーの時代だというし、戦争中に開発され、平和利用されている科学技術も多い。薬も毒だし、毒をもって毒を制すというか、結核の薬を飲むことにより影は消えるけど、副作用で肝機能障害を起こしたりする。エジプトの建造物も推定されるよりもずっと古いものだという説があるくらいだし、そうなると、記録の残っていない時代に実際にどういうことが行われ、どういう世界だったのかなんてことは単なるミステリーだ。過去が謎なら未来も謎だし、それでいて今の時代は今の時代として記録が残されて行くのだろう。

昨日、英語の俳句のサイトで、短歌と俳句の違いについて読んだ。そういう中学生か高校生の教科書に書いてあるような知識ってすでに大昔に習ったのかもしれないけどとっくの昔に忘れてしまっている。俳句より短歌のほうが季語などを入れなくてもかまわないから気楽といえば気楽くらいの感覚しかない。古今和歌集などを読めば、とりあえず和歌の発祥くらいは書かれているし、その真偽のほどは今となっては確かめようもないけれど、俳句が禅を基本としていることを考えると、短歌よりもずっと新しい。禅というだけで、こころがペパーミントのようになってしまう。そういう世界を求めて、俳句を詠むのかもしれないということを何となく思い出した。
万葉集の英訳といい、英語の俳句のサイトといい、一生懸命に知らない人たちにその良さを伝えようとしている。日本語のサイトだと、すでに大多数の人たちが少なくても何らかの形で学習しているものだという先入観があるし、そういう意味ではすでに終わっている。短歌や俳句というとババアがやるものというイメージすらある。若い俳人が嘆いていた。アートとして本人はがんばっている。だけど、実際にはどこか倦んだ世界というものがあり、そういうイメージを払拭するために協会が力のない芸能人をどうたらこうたらと書いてあったような・・・俳句には興味がないので、出来事自体は理解できなかったけど、何となく気持ちはわかった。
若い歌人たちが一生懸命に若い人たちに何かをアピールしようとする。おそらくは、それもまたそういうことなのだろう。つまりは、ババくさいイメージがあり、いつまで経ってもマイナーイメージが払拭できない。マイナーならマイナーでもかまわないと思うけど、どうなんだろう。善を行うために理由はいらない。だったら、淡々と誰も理解してくれなくても自分のことだけやっていたほうがマシなような気がする。人間は誰でも年を取るものだから、一時的に若い世代に流行ったからといっても、また次に世代には忘れられてしまう。流行というのはそういうものだし、すでに和歌というものが日本の文化の一つなのだとすれば放っておけばよい。そういうふうに他人を気にしないところが和歌のよさだ。

アートって一人の世界だからな・・・
シュルレアルな世界が流行れば、それに影響を受けてということは多々あるだろうけど、基本が一人の世界だ。そうやって一人の世界に埋没している時間がアートの時間でもある。仮に集団の中の一人であったとしても次第に自我が薄れゆくような感覚・・・・
宗教もそうなのかもしれない。集団でいても一人の世界へ埋没してゆく。個が次第に失われつつあるような感覚。一人にならなければ神さまは見えないという・・・それは物理的に一人ということではなく、精神的に一人という意味なのかもしれないし、精神的に一人であっても孤独ではない。物理的に孤独であっても精神的には孤独ではなく、逆に物理的に孤独ではないにもかかわらず、精神的な孤独、つまりは心理的過疎を感じることもあることを考えれば、おそらくは、意識の違いなのかもしれない。
歌を詠み始めて以来、自分はまったく心理的過疎というものを感じることはなくなったと思う。それはネットをしているからとか、歌仲間がいるからとか、そういう物理的なことではなく、おそらくはネットをやめても、今のように淡々と一人で詠んでいてもまったく過疎というものを感じない。つまりは、物理的に孤独な時間であったとしても精神的には孤独ではなく、逆に楽しい。癒しを求められたくないというのは、そういうことなのかも。寂しいと誰かに自分を理解してもらいたいとか、友達がほしいとか、人に頼ろうとするでしょ?そういう人たちにしがみつかれた瞬間、強烈な孤独が走る。つらい。
以前は、そうやって移された鬱を捨てるために詠んでいたこともある。ネットだと特にそういうことが多々ある。このため、電源をオフしたときのホッとする感覚は何とも言えない。
誰かに何かを理解してもらおうともがいている人たちは寂しい。だから、寂しい人たちが集まる。でも、また一人になったら寂しい。そして、この人なら自分を理解してくれると勘違いしたら、しがみついてしまう。そして、しがみつかれたほうは苦しいから逃げる。そして、取り残されたような感覚だけが残る。酷いと裏切られたような気持ちにもなるかもしれない。
あっさり言うけど、あたしは一人でもまったく寂しくない。そうやって考えると、一人というのがどういうことなのかわからなくなるけど。家族のいない時間は一人だし、BBSもなく一方通行的なサイトをつくっていても一人なのかもしれない。でも、ぜんぜん寂しくない。逆に、一人でいる時間が癒しだ。それだけ、生きていくということはしがらみが多い。そういうしがらみから解放された瞬間に歌が出る。自由への讃歌というか、精神の自由を感じた瞬間が至福の時間。日常により忘れてしまった自分を取り戻すこと。混濁しない自分。

投稿者 Blue Wind : 11:54 AM | コメント (0)

April 04, 2004

癒しのある歌なかま

今日は、駄文を書くのも精神的に疲れているのだけれど、気の重い仕事を一つ片付けた後くらいの気分ではいる。
数ヶ月前から荒らしがあり、連続して発生するものではないので放置していたら、ガイアックス系のサイトのほうにカキコがある。あまりにも幼稚な内容だったし、今回はさすがに理解不可能だったために、例のごとく荒らし対策を始める。自分でアップしているBBSならば自己管理ができるけど、ガイアックス系のサイトの場合、サーバに依頼しないとIPアドレスも調べられないし、調べるのに弁護士に頼まないといけないらしい。(通常は考えられません・・自分で調べられますから)
というわけで、さらしものにする。すると、今回は反応がない。
つまりは、さらしものにすると、何度か反応があるのが普通なんだけど、今回は、ハンドル名を勝手に使われた方から直接メールをいただき、これにより「なりすまし」だと判明する。つまり、ほかの誰かが勝手に他人のハンドル名を使い投稿する。つまりは、荒らしの真犯人はネットでは犯人が特定できないとたかをくくっているわけで、この季節はますますそういうことが発生しやすくなる。精神系のウェブを管理しているといろいろな来訪者がいらっしゃるわけです。
Tさんからのメールを読んだ瞬間、IPアドレスを調べるまでもなく、荒らしが「なりすまし」の仕業だとすぐにわかりました。だって、カキコの雰囲気とメールの雰囲気がまるで違うし、明らかに別人。当惑していらっしゃるのがありありわかるし、自分でもその立場ならそうするであろうという内容だからだ。それに、こちらとしても直接的なやりとりというものがなかったし、どうしてそういうカキコをするのか、今回に限っては内容もヘンだし、皆目理由が思い浮かばない。
そこで、ははん、と思うわけです。また、例のごとくなりすましかーと。濡れ衣を着せてしまったTさんには申し訳なく思っています。荒らしの内容が時空短歌の騒動に詳しい人でないと書けないものであったために、いろいろ誤解してしまいました。
今回のなりすましの前にも、2,3回短歌のサイトのBBSに同じハンドル名の荒らしがあり、そうすると、こちらの犯人もなりすましの可能性が高い。おそらくはそうなのでしょう。どうしてそういうことをするのか? 本人に言い訳してほしいのですが、うるさいだけなので今後一切この手の話題は無視することにしました。

もう、この手の出来事が3年以上ですからね・・・4年くらいかな。ネット妄想、被害妄想、疑心暗鬼、その他諸々パラノイアの逆恨みなどなど、とにかくネタには困らないくらいいろいろあったから、慣れてしまっています。短歌より、インターネット・ジャンキーのネタのほうがアクセス数が遥かに多い。悲しい。
でもね・・・・ジャンキーたちにとっては、短歌よりもネットの仲間とか友達などのほうが遥かに気になるんだろうな。リアルとバーチャルを分けて、友達をつくる。対面形式だと言えないことでも、機械形式だと言えるとか、こころのつながりを感じるとか、本音で話せるとか、ネットにはネットのよさもわるさもある。一方通行社会だからなんだろう。あたしは、もうすでにそういうのは終わっている。実名で活動していると、自然とそういう関係ばかりになるし、匿名でのやりとりというものがいかに気持ち悪いかわかる。

でも、互いの世界に揺られているという意味での一方通行には一方通行なりのよさもあって、例えば、ずっと返歌のラリーが続けられるというのもネットだからかもしれないと思う。つまりは、勝手に自分の世界に揺られているだけなので、勝手に返歌する。相手の歌からイメージして、詠んでいる。

__________

■繰り返し熱い言葉を耳元で
    ささやかれても心は寒い

ぬくもりも愛の言葉も響かない
    それでも別れることさえできず

■そばにいるよ 何度も耳元でささやかれ
    嘘と知りつつ眠りに落ちる

陽だまりの子猫のようにおひさまにまもられ眠る涼やかな風

■言葉の波に飲み込まれていく遠い朝
   ほしいのはそんな言葉じゃないのに

言葉とは何のためにあるのかと傷つけあうならおひさまでいて

■誰にもないパーソナリティ 映し出す
   鏡を割って歩き出す明日

鏡なら割れてしまえば消える夢 幻の中冷たい笑みよ

■透き通るエンヤの声に目を閉じて
   心の翼を広げて飛ぼう

ボサノバのささやく声の調べかな甘いラッパとお話しながら

■I have a dream 
Someday I will be with you
Why don't you wait for me?

死を見つめ生きて生かされ愛されて永久に刻みし記憶の砂よ

■ぬくもりも愛もすべては幻想で
    それでも求めずにいられない私

恋人よ欲しかったのは君じゃなく愛だと気づき流離うままに

■優しく響く君が話したLanguage
   辞書の中を 漂い日暮れ

伝えたい愛の言葉をさがす日々分厚い辞書も役には立たず

■宇宙(そら)星に人は夢を紡ぎつづけ
   神話をなぞり今日もながめる

宇宙(そら)の星届かないから描きたる壮大なるさま未知なる夢路

■暑い夏 人は原因を知っている
   二酸化炭素を減らさなくちゃね

原因を知りて知らぬや経済の都合で減りし森の数さえ

■海の水は神様が流した悲しみの涙
   イオンバランス 同じでしょ?

岩塩の溶け出す量の違いかな 塩の濃度のある不思議さよ

■バカンスは海ならどこでもいいじゃない
   死海じゃなくても浮き輪でぽっかり〜

生き物のいない海など意味はない?
   泳ぐ魚を眺める人ぞ

(■Angelique)
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Angeliqueさんというのは、ハワイのお友達です。お名前も住所もわかっているし、物品のやりとりなどはしたことはあってもまだお会いしたことはありません。でも、彼女がご主人を亡くされたばかりの頃に、鬱々と何となくこういう歌をやりとりしていました。■がAngeliqueさんで、無印があたくしの歌です。
でも、実際に互いに顔を見合わせながらこういう歌のやりとりはできないかも。
年が近いし、現実は過酷で、いろいろ実際的な手続きもあるでしょうし、なんとなくそういう日々の中で、歌をやりとり。あれこれ話しても疲れるだけだし、なんとなくネットは一人の世界だから。それに、歌には癒しがある。なんだか強烈に鬱を移されて鬱々していたことを思い出す。でも、そういう鬱々した時間というのもそれなりに癒しなのかもしれないと思った。(癒しを求めると怒るけど)

ネット短歌というのを定義しろと言われたら、こういう感じだろうか・・・

投稿者 Blue Wind : 01:40 AM | コメント (0)

April 03, 2004

世の中いろいろ、ネットもいろいろ

『短歌人』の皆さま、結社誌の寄贈、ありがとうございました。斉藤斎藤氏の『短歌もサブカルである』という記事を読んで、すごく励みになったような気がします。自分は複数の結社に所属しているネット歌人でありまして、結社では幽霊に近い存在かもしれません。どうして自分がネット歌人と称しているかについては、何度も繰り返してきたのでここでは省略しますが、一部記事を紹介させていただきたいと思います。(ちなみにわたくしはまだ『短歌人』には入会していませぬ。)

「まずはっきりさせておくが、「インターネット短歌」なるものは存在しない。結社等に所属せずインターネットを主な発表媒体とする歌人の作品は実際には多種多様であり、結社誌に掲載されている短歌との区別などつけようがないのが実情である。また、彼らの間で枡野浩一の短歌や歌論の支持者は多数派ではなく、インターネット短歌=枡野浩一という橘の批判はとってもお門違いだ。」(『短歌人』2004/4号 斉藤斉藤より引用)

インターネット歌人という存在は多いと思う。つまり、ネットに歌をあげている人は基本的にはネット歌人でもある。結社に所属していようがいまいが、サイバー上の歌人である。ただ、自分の知る範囲、結社などに帰属するのがめんどーだという人たちもネットには多い。それよりも、気楽に短歌を楽しみたいというか。堅苦しさが苦手なのかもしれないし、一人でやっていくほうが気楽なのかもしれない。中には、お祖父さんが北原白秋のお弟子さんだったという人もいた。でも、いささかそういうことがめんどーでもあるので、ネットで匿名で詠っているほうが気楽なのかも。たしかに、比較されたらいやだよね・・・なんとなく。それと、あっさり短歌は儲からないからと言われた。まあ、そのように考えると、そうなのかもしれない。基本が無償提供の世界だからかな。
が、しかし、インターネット短歌というのが実際にどういうイメージなのか、実はあたしにはよくわかっていないのかもしれない。枡野さんのファンは多いような気がするけど、枡野さんの名前を知ったのは、『短歌ヴァーサス』の創刊号を書店で買ったのがきっかけであり、それ以前はまったく知らなかった。というか、かなり有名な歌人でも名前を知らないくらいだから、今でもせいぜいたまに買う『NHK歌壇』にある名前くらいしか知らないような気がする。それか、大昔、学校の教科書に出て来た名前とか?
ネットだと圧倒的に恋の歌が多いし、あっさり語れば、そういうのも飽きる。でも、実際にはそういう歌は少ないような気もするし、そういうのをバーチャルで相聞している人たちもいるけど、そういうのも抵抗あるよね。でも、世の中は寂しい人たちが多いから、それはそれでかまわないという人たちも存在するし、それでいて、そういう人たちと一緒にされても困るなーとは以前から思っていた。
『時空短歌』というと、恋の短歌というイメージがあるのかもしれない。だから、そこを突くと怒る人がいるのかもしれないとふと思う。「りんちゃんもそういう低俗なことをいちいち相手にしていないで・・・云々」というメールをもらったことがある。つまりは、低俗だと知っているんだな。まあ、こちらとしては他人さまがどのような活動をなさっていようが勝手だけど、その手のノリの人たちがいつまでもやってくることが我慢ができない。そういうことを考えると、結社のほうがマシかもしれないよ。
それでも、逆に結社の人たちがネットで歌を発表するようになり、かなり変わってきた。歌の質がよくなったもの。それを考えると、どんどん歌をウェブにあげてほしい。これは大真面目に思うのです。「ネット短歌」とか、そういう狭い区分はもう通用しなくなる。インターネットを活用して歌人としての活動を続けることは意義がある。それを、電子書籍で無償配布したり、それを印刷して紙で出版することも簡単。オンデマンド出版だと、5万円くらいで本が作れる。それを自分のサイトで宣伝し、出版社から発送してもらう。そうすると、高い費用をかけて出版するのと違い、以前の予算で10冊くらい出版できるようになる。ただし、自分で編集しないとダメみたいだけど・・・単なるコピーをまとめて製本してくれるところもあるし、それを考えると、書籍の原点というのはそういうことなのだと知る。
でも、考えたんだけどね・・・何もわざわざ紙に印刷しなくても、サイトにアップしてあれば特に一生懸命に売る必要性はないわけで、プロの歌人になるとか、何がなんでも短歌で儲けようと思うのでないかぎり、自分のサイトに自分の歌をアップしておけば充分のような。最初に、こう、結社の人たちが言うみたいな”発表”という意識がなかったものだから、あまり深く考えたことはなかったけど、そういう意味では、結社誌へ投稿して一覧表の中に歌を放り込むよりも、自分のサイトで気楽にアップしているほうが気楽かもしれない。もともとが歌の世界なんて狭いから、歌に興味がある人しか読まないよね。それを考えると、ネットのほうがランダムな来訪者が多いし、波及効果は高いかもしれない。つまりは、勝手にアップしておくと、勝手に知らない人がやってきて、勝手に読む。「読み手が書き、書き手が読む」、これがネットの特徴。だから、出版というのがもはや一部の人たちの仕事ではなく、誰でも簡単に自分の本を作れるし、売れる。単に、サイトのコンテンツにしておいてもかまわないし・・・自分のサイトでやりとりされた歌をアップしておくとか、その程度の代物なのかも。
昔読んだ記事に、インターネットは匿名だからというのがあった。基本が匿名だから、自分の場合、発表という意識が欠如していたのかも。BBSでやりとりしていた歌を『NHK歌壇』に送っても文句言われたことないし、逆にその歌から自分が白石であるということがネット関係者やサイトの来訪者にばれる。あたしの場合はばれて困るようなことはなかったから気にしたことはなかったけど、ジャンキーの世界は完璧に匿名に徹してコミュニケートしている人も多いから、それを考えるとどうなんだろう。こーね、親しい人にだけ個人情報を提供するという風潮があるから、個人情報がばれるのがいやな人たちも多いし、それこそストーカーとか?だったら、そういう人たちとはコミュニケートしなかったいいのに、ついBBSだとカキコがあればレスを書くし、BBSでやりとりしているうちに、親しいという錯覚が生じたり、困った世界なのよね。レスを書かないと怒る人もいるし・・・というわけで、BBSがないということは気楽だ。
やっぱ、発表という感覚のほうがまともなのかもしれない。それでいて、某教会のサイトでは、「個人名や個人情報を書かないでください」ということわり書きまである。個人情報がばれるからである。ちなみに、サイバー上で他人の個人情報を書くと警察沙汰になります。サイトはまったく知らない人の来訪があるから、教会の関係者だけが来訪するわけではない。だから、投稿するときにもハンドル名を使うというのが一応のルールなんだけど、それもなんか知り合いしか来ないようなサイトで、「えっとぉ、このハンドル名は誰だっけ?」などと悩むのも情けない。つまりは、身内だけの会話ならBBSなど使うなということなんだろう。学校のBBSだと先生の悪口を書く人がいるから、BBSを置かないとかね。書きたい気持ちもわかるけど、知らない人たちからすれば単なる誹謗・中傷だから、関係性が見えない世界においては、常に第三者のことを考え、知り合いに対しても第三者として書くつもりじゃないと、知らない人が読んだら誤解が発生する。そもそもがそれが電子文字の弱点でもあり、長所でもあり、それでいて発展性がある。
いずれにせよ、歌を発表するだけなら何も問題ないけど、歌人同士のコミュニケーションとなるといささかネットはややこしいかもしれない。それと、サイバー上の問題点を理解していないととんでもない落とし穴がある可能性も高い。まあ、クルマを運転すれば事故が増え、テレビや本は目を悪くするし、ネットも便利なツールだけど危険性も高い、というのが常識なのかもしれない。
ネットがメディアとして注目されるというのは、それだけ質の高いサイトが増えたからでもあるし、ネット短歌=低俗?というイメージを払拭するためには、質の高い歌を詠んでいくしかない。カラオケ歌壇とか、大衆化とか、サブカルとか、たしかにお手頃なイメージはあるだろうけど、要するに出版物にもいろいろあるようにサイトにもいろいろあるということであり、世の中にはいろいろな人がいるようにネットにもいろいろな人がいる。パソコンは単なる道具である。道具を使うのは人間。

投稿者 Blue Wind : 02:12 AM | コメント (0)