December 31, 2003

大相撲取り組みあまたあることをK1に知る明日は正月

年越しをそば食みながら格闘技あっけなくも曙倒れ
ながながと準備したため当日のみじかきゴングあつまりし人
大相撲取り組みあまたあることをK1に知る明日は正月

投稿者 Blue Wind : 11:11 PM | コメント (0)

赤い花には毒がある?ないない・・・

内在化した自分の発露として、歌があるのかもしれない。
それを誰かに見せるという行為がすでに赤い花であるらしい。
大きなお世話だ。
つまりは、寂しいからたくさんの人に見てもらいたいらしい。
だったらいっそのことロートレアモン的毒素を含んだ歌のほうがマシかもしれないとも思う。

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人間、自分のことに精一杯だと気が付かないことが多いけれども、微笑みながら、「そんなことはあなただけじゃないわよ」と言われたとたん「なるほど」と思ってしまったことがある。

誰でもいいから自分のグチを聞いてほしい。
それだけ。
それだけのことに必死。
でも、考えてみたら、たしかに自分だけが大変なわけではなかった。

同情してほしいはずが、同情しなければならない立場になるほどやりきれないことはないかもしれない。すっきりしないという意味で。世の中は、どうして不幸な人だらけなのだろうと思いながらも、案外、世の中は平和であり、考えてみたら不思議な気がする。

軽やかに、「そんなのはあなただけじゃないわよ」と言い放った人は何も語らなかった。
今にして思うと、それがよかったのかもしれない。何となくそれで吹っ切れたという気もするし、自分が大変だと思うのは単に気分の問題なのかもしれない。

でも、いささか、飽きた。
何に飽きたかというと、不幸自慢に飽きてしまった。
他人の不幸自慢に付き合っているうちに、何となくすべてがどうでもいいような気になってしまう。
ゆきおんなと言われたこともある。理解してくれないとばかりに、自分のことに必死な人を相手にしているうちに、自然とそうなってしまった。他人をうんざりさせたいのであれば、一生懸命に不幸自慢をすればよいということも学んだ。

どうして自分が短歌を詠み始めたのかは何度も書いてきたけれども、どうして短歌なのかと問われると悩む。
詩でもいい。
どちらかというと、詩のほうが好きだ。
にもかかわらず、短歌を詠んでいる。

不思議。

言いすぎないというところが好きなのかもしれない。
舞い散る言の葉の世界で、来る日も来る日も誰かの不幸自慢に付き合っているうちに、会話というものが非常に面倒になってきてしまったのかもしれない。

それと、もともとが理屈っぽい。
理屈が飽和したとたんに、ポロッと何かがこぼれてくる。
何かボソッと言いたいだけ。
それが重なって、いつの間にか歌になっていっただけのような気がする。

慌しくも自分のことに必死な人の会話に付き合うよりも、何となく空でも眺めていたほうが幸せな気分になるというのと似ているかもしれない。喧嘩した後、ヘンに冷静になり、陽の光のせいで部屋の中が黄色っぽいとか、ヘンなことに気が付いたりする。

赤い花だと言われてしまった。
大きなお世話。

寂しいから歌を詠むらしい。
つまりは、寂しくなければ、ローカルにでもおいておけばよいし、一生懸命に自分の歌を他人に見せる必要はないらしい。
そうやって言われるとそうかもしれない。
でも、短歌って詩とはそこが違うような気がする。
一生懸命に自分を説明しようとするには、あまりにも言葉が少なすぎる。
それならば、自由詩のほうが書きやすいかもしれない。

結局、歌というのは、身近な人たちで交わされる文(ふみ)だったということがわかる。
要するに、たくさんを語る必要がない。見知らぬ人に対してはたくさんの言葉が必要となることでも、知っている人なら多くを語る必要がない。単に独り言なのかもしれないし、身近な人への独り言なのかもしれないし、たくさんを語りたくない時に存在している内在化した声。

内在化した自分の発露として、歌があるのかもしれない。
それを誰かに見せるという行為がすでに赤い花であるらしい。
大きなお世話だ。
つまりは、寂しいからたくさんの人に見てもらいたいらしい。
だったらいっそのことロートレアモン的毒素を含んだ歌のほうがマシかもしれないとも思う。
つまりは、そういう傾向が近頃の歌にはあるような気がする。
毒の歌を詠んだほうがリアクションがあるからかもしれない。
それでいて、何となくそういうものにも飽きた。
ニューウェーブや前衛短歌という毒素にもパワーが欠如してきてしまったのかもしれないし、世の中全体が毒にまみれてきてしまうと、そういったものがものめずらしさを失い、いささかうんざりしてくるものなのかもしれない。

一つ二つの毒ならば大したことはないかもしれないけれども、このところ読みを続けているために、あまりにも毒があるものを読み続けると、なんか何も感じなくなってきてしまう自分がおそろしい。それよりもたしかに何気ない日常の歌に、自分とは違った世界を発見すると、何となくホッとする。
ああこういう生活もあるのだな・・と。

でも、それもゆきすぎると川柳になってしまいそうだ。

ほんとに、どうして短歌なんでしょうね・・・
わからない。
自分でも。

投稿者 Blue Wind : 03:28 AM | コメント (0)

December 30, 2003

かすれゆく鈴木重子の声をきく月夜はひとりボリュームをあげ

留守番をだれかに頼んで出かけたい冬の晴れ間の透きとほる日は
白猫のあしばや過ぎる窓のそと薄紫の雪の光れり
プランター置き去りされた雪帽子冬の夜の月冴えわたるかな
極月のあわただしきも休息にしづもるつくば帰省の季節
年末のCDショップの混み具合水曜日かと間違えにけり
店先のまばゆき光うつすらと空を覆へり月だけの夜
かすれゆく鈴木重子の声をきく月夜はひとりボリュームをあげ

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ボツにしろよ・・・

そんなこと忘れちゃつたと言い放つわたしたち今とても仲よし

投稿者 Blue Wind : 01:44 AM | コメント (2)

December 29, 2003

風の中の白猫

それは首に鈴をつけられてしまった猫状態というか、修道院の猫を自称する私だけれど、特にクリスチャンというわけではないと思う、つまり洗礼を受けていないという意味で。クリスチャンという自覚の欠如したままに、自分という潜在意識の中、つまりは行動体系や価値観というものの中にはそれとなくカトリシズムのようなリズムがあるような気がすることがある。どうしてそう思うかというと、逃げても逃げてもそこへたどりついてしまうからであり、自分の魂というものの逃げ場なのかもしれない。

それとは別に、我が家の庭へやって来る気まぐれな猫がたまたま真っ白な猫であるために、近頃、「しろねこ」というハンドル名を使うようになっている。どうして「しろねこ」かというと、もともと自分は猫など好きではないにもかかわらず、何となく彼女?の姿を見ていると自分に似ているような気がするからだ。

裏の奥さんが飼っているというのだけれど、彼女は非常に気まぐれであり、不意に現れたかと思うとしばらく姿が見えない。すでに死んだかもしれないと思ったら突然現れる。残り物を出しておいても食べない。「キャットフードしか食べない」と裏の奥さんが語っていたために、実際、そうやってどこかで飼われていたのかもしれないし、今でもほかの家でも飼われているのかもしれない。わざわざその猫のために、鯵を出したりしても一切食べないらしい。
なんて贅沢な猫だろう。

たまに、庭のドアをカリカリしながら家の中に入りたがる猫がいる中で、彼女は決して家の中には入ろうとはしない。人の気配がすれば逃げる。どこかで飼われているはずなのに、いつまで経っても野良猫。
ちなみに裏の家でも、家の中では飼わない。
それでいて、彼女は自由だ。
裏の奥さんがたまにグチをこぼす。うちの庭のほうが日当たりがよいから、うちの庭で寝ているらしい。飼い主のところにもあまりいない。
それでいて、彼女が汚れている姿を見たことがない。

いずれにせよ、ウッドデッキで寝ているだけだし、追い出しても勝手にやって来るし、野良なのにいつの間にか裏の家で飼われていることになっているし、家の中にまで入って来るわけでもないし、餌を出しておいても食べないし、「勝手にしろ」と思ってしまうところが何となく自分に似ている気がする。

考えてみたら、それこそ最初の頃は犬だの猫だのあれこれやって来たけど、今では彼女がたまにやって来るだけ。それもまた不思議かもしれない。猫の世界のことはわからないけど、何かそういうテリトリーでもあるのではないかとすら思ったりもする。でも、姿が見えない時のほうがずっと多いのだから、考えてみたら不思議な猫。すでに、6年くらい我が家の庭へやって来ているわけだから、それなりに長生きもしているのだろう。もしかするとオスかもしれないけど、それすらもよくわからない。でも、メスという気がする。

ネット歌人を自称する自分だけれど、とうとう「塔」のサイトにもリンクされてしまった。
(小林信也さん、ありがとうございます。)
おもむろに、本当によいのかと思ってしまう。まだ、結社誌にも投稿したことがないし、帰属意識も乏しい。歌もまだまだ下手。なんか、申し訳ないような・・・
まあ、しもじもはあまり深く考えなくてもよいから、気楽といえば気楽。
でも、末端なりに看板ってあるからな。

九里さん騒動というのがあって、知らないうちに時空短歌が解散し、気が付いたら誰もいなくなってしまっていた。
自分は時空に対して、メンバーシップをもって活動していたことは一度もない。
逆に、それがかったるいから一人にしてくれとは何度も繰り返してきた。
だから、未だにそういう個人主義的な印象があるらしい。

そのようにして考えると、自分はいつから歌人になってしまったのか不明だ。
おそらくは初詠みの歌が存在するわけだから、もしかするとその時点で歌人になったのかもしれないし、当時はネット歌人ではなく「にわか詩人」とか「にわか歌人」と自分のことを称していたために、そのうちやめるだろうと思っていた。
サイトにイラストを使いたいというだけで詠み始め、気が付いたら「それは短歌ではない」などと言われて、「短歌なんて誰でも詠める」と言いたいだけで続けてきた気がする。「偉い先生に選ばれるより云々」と言われれば、天邪鬼だから雑誌に投稿してみたり。あっさり入選。気まぐれで天邪鬼。
「ちょっとやってみよっかなー」という発作。

挑発に乗るからさ・・・ややこしいのさ。
誰かと誰かが喧嘩して、「あの人がいるから私はイヤだわ」ってなる。
それも道理。
そこで相手を追い出そうとするか、自分が逃げ出すかはまさしく性格の問題なんだと思う。
自分は、あっさり語れば逃げるタイプ。
相手を追い出すということは、自分がそこに繋がれてしまうことを意味する。
こんな愚かなことはない。
つまりは、自由がない。
となれば、逃げたほうがマシだ。
逃げた側は戻れるけど、追い出した側はどこにも行けない。
そして誰もいなくなる。

そんなこんなを考えながら、すべては流れとしか語れない。

結社の場合は、とりあえず入会申し込みをして会費を納入しているということは、つまりは帰属の意志というものがあるからであり、それでいて、何もしなければずっとそのまま。行動すればリアクションがある。それに対する自分の責任というものも生ずる。ネットとはそこが違う。

こう・・・逃げるのは簡単なのよね。
やっぱり、ネットでぴーちかぱーちかりんほととぎすをしているほうが気楽だし・・・
それでいて、つまらない九里さん騒動もピタッと治まってしまった。
なんせ去年の10月から1年以上だもの・・・
その間自分の知らないところで勝手にあれこれ疑心暗鬼で言われていたみたいだし、そういうものも払拭したい。
つまりは、自分の言葉というものを実証するために行動している。

それでも詩や短歌に明け暮れる毎日だ。
あれにこれにと勉強しようと思うだけで日が暮れる。
今の課題は、読みに慣れることかもしれない。
今の二倍のスピードで読めなければ追いつかない。
瞬読というか、一瞬にして読めなければ間に合わない。
自分の歌を詠むスピードで歌が読めないと。

風だから・・・

投稿者 Blue Wind : 04:31 AM | コメント (0)

December 21, 2003

お地球見

心の苦しみというのは、誰にも言えないから苦しみであって、誰かに言ってしまえたらそれは最早苦しみとしての価値を持たない。
このところ文学系のテキストを拝読しているせいか、果たしてこんなにも主観でバッサリと言ってしまってよいのだろうかと、評論を眺めながらしみじみと感じてしまう。
とてもアートであり、文学であり、幻想であり主観であり、「この作者」はとか「この詩人は」などと今は亡き作者個人の体験などから類推し、テキストに出没する作者の気持ちや心というものをバッサリ語ってしまっているのを読むと、「本当にそれでいいの?」とおそるおそる訊きたくなる。

自分は文学部の学生ではあったけれども専攻が心理学だったためにあまりにも主観で心や精神に語ったりすると叱られた。
つまりは、文学や哲学ではダメなのだそう。
常に実験実証主義というものの中で、つまらないことでも実験のネタにする。
そういうことの積み重ねがデータとなり、速くもあり遅くもあるスピードで研究は進められていくものらしい。

常に、風があり、その風に翻弄されているような気がすることもある。
残念ながら自分が最先端というわけではないのであれば、黙って追実験を繰り返すしかないのかもしれないし、それでいてそれが如何に退屈な代物であるかはうまく言えない。
あの世界で自分が学んだことと言えば、まさに「データは自分のもの」ということくらいなのかもしれない。
学部の学生がやろうと、教授がやろうと、きちんとした手続きを経て得られた客観的なデータというものは個人のものらしい。
それ以外は、きっと他人のものなのかもしれない。

テキストに表現された眼に見えぬ何かというものを、そんなに簡単に他人が語ってしまってもよいのだろうか?
逆に短歌などは、余韻の多く含まれた歌を秀歌とするらしい。
つまりは、読む人が深読みするような歌がよい歌であり、それを引き出すような歌となるとたしかにアートなのかもしれないと思う。

結局、「自分を語れ」というのはそういうことなのかもしれず、自分を語れないから小説などを書く人を純文学の人と呼ぶのかもしれないし、書き手と読み手のそういう行間を読むようなやりとりが繰り返されるからこそ文学というものは文学として存在するのかもしれない。

自分には断言するという習慣がない。
というのは、常に反論を予測しているせいかもしれないし、客観的に証明することのできないことに対しては、なるべく断言しないほうがよいというのは、ある意味自分を救う。
一生懸命に理解不可能なことを理解するより、あるいは伝える努力をするより、それこそデータは正直だ。
数字にしちまえば簡単。
精神というものを数字で語る。
つまりは、データとして並べてしまえば、比較も可能であり、類推も簡単であり、一生懸命に説明する必要がない。
つまりは、一生懸命に説明するという不毛な諍いを避けるためにデータが存在するのではないかと思うほどに、すっきりしたものはすっきりしたままそこに存在する。

ところが、臨床・・・・
ま〜ったく逆だ。
一生懸命に誰かが理解を求めて大袈裟にもがく。
大声であっけらかんと話してしまえば、誰もなんとも思わないようなことでも、一生懸命に隠す。
隠しているから本人は苦しい。
それでいて誰かにわかってほしいから、一生懸命に行動する。
その行動が本意か不本意かもわからない。
本人じゃないから。
声なき声を声にするような世界なのかもしれないし、それでいてちょっとしたことで傷つく。
そして、傷つけられたことを大袈裟に訴える。
せっかくできた瘡蓋を自分で一生懸命に剥がして傷を深くするような行為にも似ている。

ある意味、そういう陰湿な行為なのかもしれないな・・・書くということは。
つまりは、誰にも言えないから書くのだろうし、言いたいから書くのだろうし、それでいて自分を隠しておきたいのだろうし、それでいて書けないらしい。
だから、常に裏表のある哀しい世界。
表から裏を眺めるというのはヘンだ。
月の裏側を知らない。
知らなくても何も困らない。
でも、丸いのだから裏も存在しているということはわかるし、地球から見るからそれは裏側として認識されているだけであり、あちらから見れば地球もまたそういうものなのかもしれないという関係性を考えると、月のうさぎがのんびりお地球見をしていたとしてもかまわないような気さえしてしまう。
地球から月を眺めるより、月から地球を眺めたほうが遥かに美しい気がするけれども、地球に住んでいたら地球は見られない。
まるで鏡のよう。
自分の顔や背中は自分では見れない。
自分のものであって自分では見ることができないということは、酷く矛盾しているようでいて、自分の背中は何を語っているのか自分ではもっとわかるはずもない。

そんなこんなを考えると、月から見た地球とか、他人から見た自分というものも厳然とした事実として存在しているわけで、そういう意味ではあっさり他人のことを語っても罪ではないのかもしれないな。
自分のデータがあり、それを誰かがお地球見する。
それが評論なのかもしれない。

まあ、地球が月うさぎから見ても青だったらいいかな、ということを書き添えておこう。
月には行ったことがないのだから、それくらいは許されるだろう。

投稿者 Blue Wind : 04:08 PM | コメント (0)

December 18, 2003

外界

『若い人に』

 総合誌や結社誌などを見ても現代短歌は実に多様であるが、いろいろなものが混ざり合って一つの時代を象徴する、考えてみればそれは当然のことで自然な流れかと思う。
 大きく変化しつつあるのは短歌の口語化であろう。また五七五七七の韻律に思いを深く託すというような姿勢がだんだん薄れ、まるで機関銃のように産み出される短歌に、その感性にしばし驚かされつつ、これもまたいいと思うのである。誰でもが自分の言葉で表現でき、短歌というものを身近に置くことができれば素晴らしい。若い人にも言いたいことはいっぱいあるに違いない。体の中にある短歌のリズムを目覚めさせてやりたい。いい作品は残っていくであろう。しかしそれは実は容易ではない。やはり修練は必要なのである。破調はあってもいいが、文学性、品格は最後まで守りたい。毅然とありたい。
 心を澄ませ、詠う。しっかりと考えを言い行動することが、現代において重要である。

(中村節子 『歌壇』2004年1月号、現代短歌の宿題 『若い人に』より)

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「機関銃のように」という表現がすごすぎる。
1首を完成させるのに1週間から1ヶ月をかけて何度も黙読や音読を繰り返すという記述を、この前サーフィン中に発見し、そういう苦労をしたことのない自分はたしかにそういう意味では機関銃と言われてしまっても無理はないかもしれない。
これではネット歌人というより、CGI歌人ではないかと自分のことを思うくらいだ。
つまりは、レスを書いたりBBSに投稿するのと同じ要領で短歌も投稿する。
それが当たり前だと思っていたので、それこそ1首1秒ではないけれども、フラッシュのように詠む。
逆に、メモ帳を片手に歩いていても、なかなか歌が浮かばない。
佐々木幸綱さんの本の中にも、題材を狩りに出かけよと書いてあった気がするけれど、そうやって題材を探すよりも、不意にインスパイアされるように過去の記憶が短歌になることもある。
きっかけだ。
何かのきっかけにより、自分の中に貯えられた記憶がフラッシュバックする。
その場その場の気持ちを文字にすることもあるけれども、それよりももっと深く自分の中へ潜り込むような刺激が与えられ、ごく自然に反応している。
自分では忘れていた光景とか、出来事とか、感情さえもフラッシュバックする。
それを言語化しないだけで、自分の中にはそういう意味では無数の記憶が眠っているだろう。

かつて、30首を自選した際につけたタイトルは『記憶の砂』。
つまりは、砂を詠んだわけではないけれども、短歌というものがすでに自分にとっては記憶の砂のようなものであり、熱帯の白い浜辺の砂の冷たさとか、さらさらとした不思議な出来事が自分の中に仕舞われているような気がするからだ。
日本の砂浜は熱い。
歩くだけで火傷しそうな気がするくらい熱いこともあるのに、旅先でそういう熱さを感じた記憶がない。
これって今不意に思いついたわけだけど、そういう具合にいろいろなことがフラッシュバックされ、歌になる。
その時には忘れているというか、不思議にも思わない出来事でも、不意に思い出すことがある。
つまりは、短歌というのは自分にとってはそういうものであり、若い頃の記憶や、場面一つにしても懐古趣味ようで、それでいてその時には何も思わなかったことが不意に記憶の奥底から甦り、自分を刺激する。
過去は静止したままであり、過去の自分と今の自分とはもしかすると感じ方も考え方も違うのかもしれないけれども、そういう懐古というものが新たに認識された瞬間、何となく自分でもその歌に愛着を感じたりする。
今を詠み、将来の自分がなつかしむこともあるし、そういう預貯金のような歌ではなく、すでにストックされた中から不意に湧き出てくる歌もある。
バーチャルという世界においては、一方通行社会、しょせん箱に向かってパチパチ打っているにすぎないわけだから、なおさらそういう過去のフラッシュバックが生じやすいのかもしれない。

基本は写実だ。
でも、写生や記述じゃない。
つまりは心象風景なのかもしれないし、こころの情景なのかもしれないし、それをどうやって表現するかということなのかもしれないし、そういう意味で多様な歌が出没していても不思議はない。
それこそ現代詩の影響もあるでしょうし、伝統にこだわらない人たちも存在するでしょうし、私というレベルにしてもそれが自我であるのか自己であるのか、レセプターとしての私なのか、生き様であるのか、人間であるのか、それこそ網膜上に生じた文字通りのフラッシュバックを表現しようとすればそれも可能なするほどに、内観というものは複雑に入り乱れて存在している。
つまりは、外界からの刺激が存在しなければ、自分という存在も意識されることはなく、単に他者を排除するから自己というのは間違っている。
世の中には他者から見た自己というものが存在し、自分が自己とか自我意識と感じるものの正体は実は他者から見た自分を自分が意識したというだけのこともある。
純粋に自分が自分として存在していることなどありえるだろうか?
常に外界が存在し、それを知覚している。
自分が立っているか座っているのかにしても、外的因子があって初めて判断が可能な場合があるほどだ。
それだけ当たり前だと思っていることが実は当たり前なことではなく、重力ですらレセプターとして存在してしまえば、垂直というものも単に感知されて存在しているにすぎない。
きっと自分がいなくても世界はある。
でも、自分は世界がなければ存在しないかもしれない。
だからこそ、肉体を持たない精神・・・つまりは、魂という概念が存在するのではないかと思うくらいだ。

短歌における修練って何だろう?
文学性や品性となるとかなり激論となりそうな気がするけれども、答えのない答えを模索するかのようでもあり、ますます混迷してしまう。
心を澄ませて、詠う。
あらゆることに混濁していない自分。

投稿者 Blue Wind : 05:10 PM | コメント (0)

December 17, 2003

スキャングラスな歌人

『現代詩としての詩歌 ---- 詩は魂の美食』

 現代詩と短歌。そのどちらも好きな僕は短歌の嫌いな詩人に会うと困ってしまう。現代詩を知らない歌人に会うと、またまた困ってしまい「残念だなあ」と思う。テロリズム以後の短歌の話など話題にしながら、ぼくの〈困惑〉について、話したいのだが、好き嫌いの話だから、難しいだろうね結論は。(岡井 隆)

http://www.longtail.co.jp/~shoshi-y/j0204.html

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”宮中歌会始の選者”と、肩書きにある。
岡井さんが選者をすることになって、すったもんだしたことは書いていない。
スキャングラスな事件とまで書いてある記事を発見。

http://www.mitene.or.jp/~nishio/okairon.html

天皇制を踏み絵にして、右翼とか左翼とかかったるいイデオロギー的対立は誰かほかの人に譲るとして、どうしても短歌というとそういうニュアンスから逃れられない運命なのかもしれない。
それでいて、詩って元来そういうものなのかもしれないと思う。

聖書の中の詩篇。
間違えて世界の天気予報を検索したら、どこか中東の国のサイトへ突き当たったことがある。
詩のページまであった・・・君主を讃える・・・

まあ、純然たるアートは文化財というコトバがあるように、国の財産なのかもしれない。
個人のものであって、みんなの財産という概念がね・・・アートにはつきまとうのだろう。

そういうわずらわしさを嫌う人たちも多いし、1300年の歴史、100年の歴史。
短歌は1300年、結社は100年、よく続いてきたものだと思ってしまう。

精神の迎合というのはあるかもしれない。
綺麗に語れば、精神の融合というか、古来の言の葉の世界へ惹かれることもあるだろうし、素直に現代詩を楽しむ。
好きな詩人や歌人。
そういうものは、つまりはごく自然なことであり、人間同士の組織化したつながりではなく、つまりはごく自然な私<わたくし>という個の中に発生してしまうことであり、それらがいかなる思想に位置づけられるのかは社会が決めることなのかもしれない。

組織を嫌い、個を優先させるという風潮だって、そのような人たちが増えれば、つまりは一つの社会現象として括られてしまうだけのことだ。
個を重んじるという姿勢までがそのような始末だから、詩歌の扱いと社会や社会思想や宗教やその他諸々とが互いにどういう具合に組み込まれるものなのかは知らない。

果たして、自分は自由なのだろうか?

生きている以上は何らかの制約の中におり、それは自分が決めたことではない。
それでもそれに特に不満があるというわけでもなく、互いに理解できなければ知らん顔して行き過ぎるというのが世の習いではないだろうか?
激しく対立するよりも、自分のことだけしているほうがマシだ。
一生懸命に自分を説明するよりも、一人のことをしているほうが遥かに気楽に思える。

つまりは、組織だって誰かに理解してもらおうなどとつまらぬことを考えなければ世の中は平和であり、自由主義という発想すら誰かに押し付けようとすれば戦争になるわけで、まったくもってして個人の自由などどこにあるのだろうと思ってしまう。

それで、短歌の雑誌などをめくりながら、歌人の交流の場としての結社とか、インターネットとか、つまりはメディアとしてのネット論が書かれていることが多い。
つまりは、選者がいるような世界ではなく、他人の歌を読まない風潮が歌人同士にあるために、従来のような形で結社や雑誌投稿というものが要らなくなるのではないかという危惧があるのだろう。

なのに、どうしてネットから結社へ入ろうとする人たちが多いのか、これまた不思議らしい。
実際のところ、結社へ入っている人たちは高齢者が多い。
つまりは、作品発表の場としてそういう一時代の流れがあり、それに同調した人たちに支えられてきた世界だからなのかもしれないし、廃刊になる雑誌もあれば、結社も多いかもしれない。

伝統の世界の哀しさで、常に後継者のことが気になるだけなのかも・・・
つまりは、結社誌や雑誌に投稿しなくても、自分で勝手に自分の歌をサイトにアップしてあれば誰かが見に来てくれるし、歌人同士の交流を求めようと思えば交流系のサイトへ投稿するとか、ウェブリングとか、さまざまな活用の仕方もある。

ネットの問題はさ・・・メディアの問題であって、それだけの問題ではなく、どうして「セクハラ短歌」なのか?ということなのよね・・・
雑誌に恋歌が掲載されていても、単なる”作品”。
だから、いちいち、「これはアンタのことを詠んだわけじゃないわよ」と断る必要性はない。
ところが、ネット・・・
相聞歌じゃないけど、BBSでやりとりしたり、そこの管理人さんへそういうのを平気で投稿する人がいる。
本当にそういう関係ならかまわないのかもしれないけれど、そこの管理人さんがネカマだったり、架空の存在だったりしたらどうなんだろう?

本当に恋人などに贈った歌とか、そういう気持ちを詠んだ歌を”掲載”という意味でアップしてあるなら誰もなんとも思わないんだろうけど、あれが自分のサイトのCGIに陳列してあったらそれこそセクハラではないだろうか?としか思えない自分としては、なんともはや・・・

ジャンキー事件は、ある意味、スキャングラス(スキャンダラスという意味だろう)な事件なんだろうし、それはいわば単なる妄想に基づく世界観の違いでもあり、それでいて箱を通じた世界は常に一方通行であり、相手のことなどわからないケースが多い。

酷いと、あるBBSでは、「リアルでちゃんと恋人がいます」などと書かれてあった。
・・・・・・・・絶句。
自分などは最初からふつーの主婦だと語っている以上、夫がいる。
まさか、BBSに、「リアルでちゃんと夫がいます」などとは書かない。
ヘンだ。
バーチャルだからバカにされているのだろうか?
いい加減なプロフも多いし、既婚か独身か、はたまたそういうプライベートなことは一切書いていないサイトもあるし、年齢も性別も、ネットでは実証できないなどと信じているような人たちまでいる世界においては、サイバー上に現れる世界は単なる幻想なのだろうか?

つまりは、自分のサイトは自分の作品を掲載しておく場であり、交流系のサイトはさまざまな人たちの作品を掲載しておく場であることに徹していれば何も問題は発生しないのだろう。
でも、仲間としての関係性の構築とか、こころのつながりとか、そういうことになるといささかネットはややこしくもあり、きちんと自分をアイデンティファイできるものとして、結社を利用しようと考えただけなのだろうか?自分の場合は・・・

まあ、どうでもいいや。
なんにせよ、どんなことにもきっかけがあるというだけのことなのだろう。

投稿者 Blue Wind : 01:09 AM | コメント (0)

December 13, 2003

土曜日の自分に贈る今日の歌

代名詞の迷宮を抜け右耳にひとつ増やせるピアス・ホール
勝野かおり

コメント「あなたは「君」でも「あなた」でも名前で呼ばれる存在でもない。あなたはあなたなんだよ。」

★歌葉より
http://www.bookpark.ne.jp/utanoha/


______________

代名詞にしろ、固有名詞にしろ、あの人の呼ぶあたしって一体誰のことだろうと思ってしまう。
とりあえず、呼びかけというものがあり、それが自分だと思えば応答はするけれども、呼びかけではなく、イメージというか、他人のイメージするあたしって一体どういう人であるのかわからなくなる。

短歌を詠み始めたばかりの頃、どうして短歌なのか不思議になるらしくよく質問された。
一つには自分のイメージとは合わなかったからだろうし、どうして合わないと思われたかというと、短歌というものに固有のイメージが存在するせいではないかと逆に疑っている。
たくさんのことを言いたい時に、定型詩というのは意外と気楽だったりする。
つまりは字数制限があるから、ダラダラと駄文を書いているよりもすっきりする気がしたせいでもあるし、どうして自由詩ではないかと言われれば、自由詩というのは長いのよね・・・長いから一気に書き上げるというのはそれなりにすごい集中力の持続が必要なことに気がついてしまったのかもしれない。

それがどこから始まりどこで終わるのかは気分次第だ。
何となく浮かんできたままに詩を詠む。
それが途絶えれば終わり。
それでいて締めがなければ終わらない。
そういうもどかしさが詩にはあり、その点、定型詩というのは短歌を含めてその中に収めなければならないのだから迷っている余裕がない。
浮かんだらそれがすべて。
たまに、最後の句がどうしても浮かばないことがある。
すっきりしない。
途中まではさらさらと。
それでいて、最後の句が浮かばない。
そのもどかしさ・・・

めったにそういうことはないのだけれど、きっと自分の言いたいことが決まっている場合ほどそういう風に言葉が自然に浮かんで来なくなるようで、それなら瞬時に詠みきるほうが遥かにすっきりしている。

とても不思議なことを書かれてしまった。
「結社へ入るのを阻止するような拘束力はない」というフレーズ。
当たり前だろう。
そもそもネットで気まぐれに詠み始めただけであり、しかもほとんどが素人というか、短歌がたまたま流行っているから何となく恋の歌などを自分のサイトにアップしているとか、そういう軽いノリの人のほうが多いもの。
まじめに歌を勉強して、というノリではない。
何となく詠んでいるというそういう人たちのほうが多いような気がする。
それがどうして短歌なのかと問えば、おそらくは明確な理由など持たない人たちのほうが多いような気がする。

一行詩のラブレター。
携帯でさらりとメールを送る。
定型を楽しんでいるだけ?
そういうさらりとした世界。

いわば、自分が特殊だ。
さらりとした世界から、どうして歌壇へと行こうとするのか不思議。
それはいわば、流れ、だ。

これは短歌ではないとか、ああでもない、こうでもない、とつまらないことを言われることにいささかうんざりしてしまったからでもあるし、本当に歌のことを熟知している人たちの場合、常に新しい風を求めて徘徊している気がするくらいだ。
自分の場合は、単に無知だから逆に今から古典でもちょっと勉強しようかな、などとは思うものの、自分で詠んでいるほうが遥かに面白い。
歌とはこういうものであるという決めがあるほうが不思議なのかもしれない。
とりあえず、定型である以上基本は57577だ。
それ以上でもそれ以下でもない。
写実であるとかないとかも、歌の流れの中で誰かが始めたことであり、それもまた流れの一つに過ぎない。
多くの人たちがそれを好むのであれば、それはそれで歌の醍醐味の一つなのだろうし、そういう意味ではすっきりしている。

短い言葉で、ポンと相手に訴えるには、きっと極めて効率のよい方法なのだろう。
たくさんのことを言えないから。
つまりは、ワザだ。
テクニックなのかもしれない。

・・・・・・・・・娘のピアノがうるさいから、ここで終わろう。

投稿者 Blue Wind : 04:37 PM | コメント (0)

December 10, 2003

記述の描写

久しぶりにタトゥーのCDを聴きながら、この前のコンサートは開演が遅れた上に50分で終了、しかもお客は半分くらいの入りというニュースを思い出す。
コンサートの前日には、「80%オフとか90%オフでタトゥーの講演チケットを買いませんか」というメルマガまで届いていた。
テレビ番組の出演をすっぽかして以来、すっかり評判が悪くなったのが原因なのかもしれないけれど、彼女たちは要するに”ロシア人”なんだなという気がしただけ。
共産圏には旅行したことはないけれど、その評判の悪さには驚くもの。
客のことを考える習慣など、あの国には存在しないのではないかと思ってしまう。

これと対照的なのが、石原プロかも。
公開撮影中に事故があり、そうなると社長や社員が総出でお見舞い、賠償、記者会見、常にファンを大切にするという姿勢。
ファンがあってのタレントということがひしひし画面から伝わってくる。
それが本音か嘘かはわからない。
彼らは役者だ。
だけど、どうすればよいのか熟知している。

孤独なマイケル・ジャクソン。
おっそろしいほど借金を噂されながらも、遊園地をつくり、そこで恵まれない子どもたちと遊んで、結局、訴えられる。
疑惑は疑惑だけど、児童虐待の基準がすでに感性として日本とは違うために、一方的に報道を鵜呑みにはできないけれども、彼の考えていることはあたしのような凡人には理解できない。

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最初にガイアにサイトをつくった頃、自分は「人間なんていつの時代も変わらない」ということが言いたかっただけのような気がする。
古今東西、人間なんていつの時代も変わらない。
常に同じことで苦しみ、悩み、そして生きる。
文学が永遠と言われるのは、誰かの気持ちがそれを読んだ人の中で生き続けるから。

だから、駄文を書いたり、短歌を詠んだりしていても、あまり深く考えたことはなかった。
要するに、誰かの言いたいことはほかの誰かの言いたいことだったりするわけだから素直に書けばよい。
それだけのはずだった。

ところが、あらし騒動。
これは、すごい。
一人の言いたいことはその人だけが言いたいことだったりするわけで、水と油が混じらないことを思い出してしまった。
一方の立場に立てば他方を敵にし、もう一方の立場に立つと逆転する。
大抵のことは日本人的にノラクラしているうちに過ぎ行くはずなのに、いつまで経っても終わらない。

結局は、完全に分離するしかない。

共鳴・共感というものがまるで存在しない精神というものがこの世の中に存在するとは・・・

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《不必要部分》

タトゥーはロシア人だ。
そうなると、あの愛想の悪さや、若くして大金と自由を手に入れてしまったゆえの自由奔放さと、そんなこんなと背景などを考えると、考えてみれば彼女たちは一生働かなくても生きていけるのかもしれないし、しょせん他人事だ。

石原軍団は、日本人の心情なんだろうな・・・
あれくらいやるのが当然だと思ってしまいながらも、それがどこでも通用するとは限らない。
つまりは、相手に期待してはいけないという意味で。
でも、何となく見ていて息苦しさを感じた。

マイケルの場合は、彼なりの生き方があるのだろうし、最初から到底彼の気持ちなど理解できないような気がしてしまう。
おそらくは、差別や偏見という社会の申し子なのかもしれないし、彼がどうして白い肌をあそこまで憧れるのか理解しろと言われても無理だ。
悲壮感すら漂うけれど、その悲壮感が彼の人気を支えてきたような気がするくらいだ。
黒い肌で白人フェース・・・
白人と黒人のよいところを合わせたような不思議なマイケルを初めて見たときには、すごくインパクトがあった。

黒人のエリート。
すごさってあるもの・・・とても真似できないような感性が。
音楽が彼らをエリートにした。

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何となく理解しているようで、実は理解しろと言われても無理なことが世の中には多すぎる。
個々に理解するのが無理だから、そこに共鳴・共感が必要になるような気がするくらいだ。

短歌はすっきりしている。
主観に徹することにより、それが客観へ変わる。
つまり、誰かが言いたいことはほかの誰かの言いたいことだったりするから。
作者の感想すら必要ないらしい。
つまりは、見たままを詠むことにこだわるのはそういうことなのだろう。
主観を突き詰めていくと、自然と客観へ行き着いてしまう。

タトゥーも石原プロもマイケル・ジャクソンも存在や行動だけ。
彼らにどうしてそういう行動をするのか尋ねても無理だろう。
見た人が勝手にどう思うかというだけのことなんだろうし、それを見たあたしはこう思ったというだけのことであり、そうするとこれは単なる感想文なのだろうか?
いや・・・
ごく普通に客観的に書こうとすれば、それこそニュースの世界だ。
自分の駄文は記述ではない。
つまりは、自分の目から眺めた世界を自分なりに描写しているだけ。

この瞬間、どうして自分が短歌なのか、少しだけ理解できたような気がした。
要するに、誰がどういう風に思おうが関係ないってことなんだろうな・・・
つまりは、少なくても短歌には、この駄文の「タトゥーはロシア人だ。・・・・・・音楽が彼らをエリートにした。」という部分は要らない。

投稿者 Blue Wind : 03:57 AM | コメント (0)

December 06, 2003

空白の中の自分

ちょっとしたひらめきとか思いつき。
インスパイアとかインスピレーション。

今年も12月。
あっという間に1年は過ぎてゆく。
何か特別なことがあった年のような気がしないことが奇跡に感じられるくらいだ。

気が付けば、不幸は通過している。
通過してしまったとたんに、それはすでに過去のことだ。
月日は流れ、いろいろなことがあったような気がするけれど、それはそんなに特別なことではないような気がするのは、今年もまた終わろうとしているのを感じているからかもしれない。

それにしても、今年もまた終わろうとしている。

結局は、いくつの年を重ねていくかということだけのような気がする。
年表のように自分の人生は重ねられてゆく。
何年に生まれて、この年には何があったとか、自分史というものが刻まれていく。

最初は、ささやかな流れだ。
いつも最初はちょっとした思いつきから始まる。
何かが始まり、何かが終わる。
それは1年が繰り返されていくのと変わらない。

近頃、詩のレトリックを勉強している。
勉強というほどおおげさなことではないような気がした。
単に読書というやつをしているだけだからだ。
でも、よく思い出してみると、テキストとしてそれを眺めたならば、それはまさに1年分以上の講義を含んでおり、試験の前になるとあんちょこと呼ばれる類の代物に変化する。

今は学生ではないので試験はない。
テキストとして眺めた場合、これを短期間で習得しようとしているわけだから疲れるのだということに不意に気が付いてしまった。
自分の弱点は飽きっぽいことだ。
興味の持てないことには近寄らない。

それにしても自分はどこへ向かっているのだろう?
どこへも向かってはいないのかもしれないし、何かの知識を得たという感触があるうちは、自分はまだ学んでいる最中ということだ。

短歌なんてまるで興味がなかった。
そうなると、歌の種類も知らないし、連歌と返歌の違いすら知らない。
興味がないってすごいことだと思ってしまう。
それでも誰でも詠めると言い切った以上は、すでに3000首を超える歌を詠んでしまっている。

つまりは、迷っているんだと思う。
あまりにも簡単に詠めることに気が付いてしまったがゆえに、自分は今、知識に頼ろうとしている。
詩のレトリックや、うたことばや文法や用語などを学んでいる。
それ自体はむずかしくはない。
でも、深くは自分が詠みたいこととか、表現したいことを模索しようとしたとたんに、すべてが極めて困難なみちすじに思えてしまう。

知識に頼ろうとした瞬間、自分は自由を失う。
いや・・・たくさんの知識があるからこその自由というものもある。
つまりは一つのことにこだわらなくなるからかもしれない。
360度の方向性と柔軟性を知識は与えてくれる。

ところが知識が形成されてしまうと、また新しい形というものでがんじがらめにされてしまう。
人間というものがいかに知識に左右されながら生きていることを思えば、迷いながらも知識を得るということは、すでに守りに入っているということなのだろう。
知識は身を守る。
つまりは、どこから突かれても跳ね返す武器ともなる。
それと同時に、武器でプロテクトしてしまうことにより、自らの行動範囲を狭めてしまう。

あまりにもおおげさなんだけど、自分には感動というものが欠如したままひらめきだけが続行されているために、いつも霧の中にいるような感覚がつきまとう。
これが自らの問いや要求に対して供給されたものであれば、そういう霧中感はないのかもしれない。
でも、ちょっとしたひらめきだけで始めてしまったことに対しては、目的というものが初めから存在していないがゆえの不安定さがある。
不安定さ・・・
つまりは、自分がどこへ向かっているのかわからないから、目的も目標もない。
ゴールを定めて、そこへ駆け込めば終わるわけではない。
常にゴールなどは存在せず、ひたすら走り続けなければならない。
しかも無目的に・・・
何らかの報酬が与えられるわけでもない。
満足してしまえば、満足してしまったことに対しての不満が生じる。
これでは際限がない。

いつからそのようになってしまったのかはすでに思い出せない。
つまりは、人生というものに明確な区分が存在しないためかもしれない。
明確な区分が存在しないままに、自分は歌人であると宣言してしまっている。
つまりは、自分でそのように決めたのだからあとはその空白部分を埋めるだけだ。
知識や歌で?
埋め尽くせば埋め尽くすほど何かが消えてゆく。
つまりは、空白は空白として存在しているから詩なのかもしれないというレトリックを垣間見たとたんおそらくは自分はその空白の部分に自分を埋め込まなければならないのかもしれないとふと思う。
もしも誰の目にも触れない自分というものが存在するとすれば、自分の中の無意識に埋め尽くされた自分という人間をその空間に埋め尽くさなければならない。

文字は文字にすぎない。
文字に現れているのは、ほんの一部だ。
本当の自分は空白の中に存在している。
つまりはそのことの意味を知ったとたん、自分のいる世界をもう一度潜って探さなければならないのかもしれない。

あっさり語れば、もはや過去歌としか語れないものの中に自分を見つけ出さなければならないのかもしれない。
写実がどうたらこうたらとか、レトリックがどうたらこうたらではなく、つまりはその歌の空白の中に自分が見つけられるかどうかということが今の自分の課題なのかもしれないと不意に思った。

つまりは、これがインスパイア・・・

投稿者 Blue Wind : 09:40 AM | コメント (0)

December 05, 2003

ささやかなる違反

自分の日常は、ささやかなる違反の上に立脚している。
ささやかなる違反というのがどういうことなのかはよくわからないけれども、たとえば、この文章を入力している途中で自分はいったん席を外し、フロアモップで部屋を一周し、廊下と1階部分を大雑把に掃除してきた。
椅子に座ると、この時間(この文章の入力時における時間)にはまだダンナがのんびり前に座って朝のワイドショーなどを眺めている。
娘は1時間も前に家を出ているし、ゴミなどを出しに行った帰りに雑草の掃除やら、落ち葉の掃除などをしなければならないかと思いながらも、自分はきっと今日も何もしないだろう。
やろうと思えば、今、こうしている時間にもできるはずなのだけれども、外は雨交じりでもあるし、刈り込み鋏が壊れてしまっているのでこの前からどうしようか迷っている。
迷っているなら、さっさと新しい鋏を買いに行けばいいのに、まだ小さな鎌があるからそれで間に合わそうとか、適当なことを考えながら何もしないでいる。
つまりは、日常というものは、忙しくしようと思えばいくらでもやることはあるのであり、ヒマにしていようと思えばこのようにヒマなまま時間は勝手に過ぎて行く。

こうしているうちにダンナの出勤時間となり、「いってらっしゃい」、「いってきますね」という言葉とともに玄関の鍵が閉められる音を聴く。
何もしていなければ玄関の鍵くらいは自分が掛けるのだけれど、ちらっとこちらの様子を眺めたダンナが気を利かせて、自分で閉めて行ってくれた。
自分にとってはどうしても書かなければならない日記ではない。
でも、あちらからみると、駄文を打っているのだからと気を利かせてくれる。
この瞬間、考える。
こういう自分のわがままがどうして通るのだろう?
そして、もしも今日何かがあってダンナが怪我や事故ということになった場合、自分は後悔するのではないか?
が、しかし、そういう淡い不安は昼寝の時間を想像することによりすぐに消えてしまう。
考えてみれば、この昼寝という習慣ももしかすると違反ではないだろうか?
夜更かしする習慣があまりにも長いために、というのは、受験勉強の頃からを含めて、学生結婚の時代を含めるとあまりにも長い間夜更かしする習慣が当たり前だったがゆえに、結婚してからも何も言われない。

夜中にサウンドを聴いていても何も言われない。
台風の時に窓を少し開けておいたくらいでは家の中はびくともしない。
学生街の特権かもしれないし、夜中の買い物もめずらしくない。
思いつきで何か違うサウンドが聴きたいと思えば、レンタルCD屋は24時間、あたしを待っていてくれる。
本屋も10時まで、スーパーも12時まで、レストランは2時まで、そのほかに24時間営業の店もある。
それでいて、うちの周辺は静かだ。
CDを聴きながら、小鳥のさえずりが聴こえる。

考えてもみてくれ。
今から夕刻までは自分のフリータイム。
特別に何かに拘束されているわけではない。
ぼっけーっとおそろしいほどの本を眺めながら、詩について考えているのももしかするとささやかなる違反なのかもしれないと思う。

詩を詠むということも実は日常的な言語に対するささやかなる違反の試みだ。
このトーンのまま短歌を詠んでいたら、これは短歌ではないと言われてしまったけれども、逆に前衛短歌という言葉にウキウキしてしまう。
すでに旧い言葉なのかもしれないけれど、定型という音韻律の中にささやかなる違反を見つける。
これこそわが日常という気がするくらいだ。

外から見ると、決まった時間に食事し、決まった時間に外出する家族がいて、そういう中でありきたりの日常というものが過ぎて行くだけだ。
そういうありきたりの中に、自分という勝手気ままな人間が存在している。
勝手気ままでありながら、そこには日常のルールという定型が存在し、それでいてその枠の中の自分は気ままだ。
家族のニーズがあり、娘のノートのページが足りなくなりそうだとなれば、夜中でも買いに行ってあげるし、今日は何とかが食べたいと言われればそれをつくるだけのことだし、さらりと時間は流れる。
つまりはささやかなる日常の補助という形に徹してしまえば、それ以外の時間は自由。

以前、一日中ネットをしていたら、普通のダンナだったら大変だとという話をされて、「ほえ?」と思ったのはあたし。
いっつも思うんだけど、なんであたしはいつも何も言われないのだろう?
ネットだけではなく、こんなに怠惰な生活をしていても誰も何も言わない。
それがいつも不思議だ。

投稿者 Blue Wind : 09:13 AM | コメント (0)