July 28, 2004

昼の月追いかけてゆく夏の道アスファルトにもあらくさは生え

6枚のハッシュドポテト焼きたれば誰食べるのと無意識に問う
すいか切り姉さんぶって夏休みおなかすいたと言われない夏
すこしずつ自分のことができてゆくせいいっぱいの夏はすぎゆき
白御影墓石のような階段がポーチに並ぶ不可思議な庭
家の中すこしずつでも模様替え片付けゐればまたものの増え
がむしゃらにせいいっぱいに生きている。わるくはないがつかれもはしる。
花のない庭はさびしき一年草いまこのときをともにすごさぬ
土掘れば汗はしたたり根の渦の紛れ込みたる埃舞い立ち
親のエゴふりまわされて今は夏御影の石は死後の贅沢

嫁さんに嫁なんだからと言われてはあんたの親はさらに他人さ
嫁さんに嫁なんだからと言われてはわたしゃ娘さあんたは他人
嫁さんに嫁なんだからと言われては弟の顔睨んでもみる
寝たきりの親がいること知っていて結婚したと思っていたが
何一つ迷惑かけていないだろ何が不満かわからない夏
新婚は他人なんだと思い出す離婚したとて事後でよろしく
親の世話ひとりでしてるつもりなら蚊帳の外には鬼嫁のあり
マザコンにあれこれ言ってしわよせがこちらに来る迷惑な夏
弟にしがみつきたるわが母は寝たきりのまま姑してる

関係ないよなぁ・・・

棺おけを取り囲まんと叔母はいう。思えば壮絶、連合部隊。
小姑の連合軍を指揮してはそそくさ逃げるわれを思いし

戦場よ、墓の中まで戦場か、御影の石は無料らしいが。
御影石贅沢なんだと知る夏は見知らぬ人がくれた石なり
気まぐれは突然にしてやってくる雷鳴のごと雷雨となりぬ
しがらみのなかりし人は親切に不器用な庭つくってくれる
戦場は誰がみるとかみないとか何もないのにややこしいさま
想念が怨念となる夏の日はあらくさばかり根ののこりたる
ふつふつと根ののこりたる怒りの根日照りのつづくぐったりと夏
昼の月追いかけてゆく夏の道アスファルトにもあらくさは生え

エゼキエル書 17. 1-10

芝の上土より先ににわか雨如雨露のような空を眺めり
めぐみの日育てた花はバックホーン根より捨てられあたらしい庭
夕立は気まぐれなまま石と芝わが庭にして秋を待ちたる
雷鳴の轟く日にはわが庭は石ころだけが残されている
ぼんやりと墓場の石の階段をながめる日々がやって来ている
母の死の報せを待てば夏の日は静かに庭を芝にしている
生存を確認してはわが庭はほんの少しの草木の茂り
秋が来て春が来たればわが庭は新たな夏を迎えるように
芝草に足止めをくう夏の日は紫陽花を待つここちするなり

マタイによる福音書 16. 5-12 ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種

ジグザグを描いたような人模様はずみと渦の日照りの夏よ

せっかく平和に暮らしているのに・・・
あっという間に戦場。
庭仕事してたほうが夏はすぎゆく。
夏は厳しい。

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July 26, 2004

ポリオから検診までも祖母まかせちょっといいなと思ってもみる

山から408号線をわが家へ向けて走った。
わが家はとても遠かった。

過去から今へ走る道。近くて遠い今。全部、今。

すぐそこに住んでいるよと言いたしも猛暑のグチをわたしに語る
犬連れて芝を歩けば都会からやって来たのと思われるのか
ドッグラン、公園デビューの柵の中、わんわんらんど、小犬3匹
ジグザグに並んだ家を眺めては農地がゆえに農家の並ぶ
一列に並んだ家を眺めては宅地がゆえに玄関並ぶ
あれ全部親戚なのかと農地とは農家以外に買うもののなき
並木道延々走る街並みは親を頼らず生きろと告げる
ポリオから検診までも祖母まかせちょっといいなと思ってもみる
頼る人いないからこそ街つくる意気込みの中、子を預かりぬ
オトくんの離れつくろう庭先に、長男なれば親と住まえり。
オトくんはずっと一緒か庭先に吾子うらやみし芝庭にする

マタイによる福音書 25. 1-13 「十人のおとめ」のたとえ

皮肉ではないのだけれど、何となくやってみたくなる。もう一匹ミニピンのメスを飼い、オトくんの離れを庭につくり、老後をオトくん家族と一緒に過ごす。どーだ。犬なら甘やかしても文句言われないし、親が家から餌まで面倒をみる。子犬の世話までか?
娘は人間だから、自分で何でもやってもらわないと。
近頃、娘がオトの真似をする・・・どーしよ。オトはずるいらしい・・・あーやだやだ。

ヘブライ人への手紙 7. 26-28

いけにえ・・・
オトの離れ・・・・

わからん・・・オトにやりたいと思っていることは、実は娘にしたいことだったりして。が、しかし、本当にそれでいいのだろうか?

オトは犬だから、今さらオトの親やオトの元の飼い主がやって来て、オトを取ったとか取らないとか文句言われないからね・・・ましてや、オトの親の面倒をみろとか言われない。親の数が多すぎ。両方の親が平等に子どもにしたとしても、子どもがその両方を平等に面倒みるなんてことは不可能だろう。孫も取り合い。いやな世の中。
が、しかし・・・・自分の子の世話もしたこともない親が多いのだから、なんか勝てそうな気がする。

まあ、いいや。オトがいるから。何を考えているのだか・・・

コリントの信徒への手紙 二 4. 16-18 信仰に生きる

昔みたいに、無事に育ってくれたらいい、というのが嘘みたいに喧嘩になる。

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July 24, 2004

軽やかに街並みになるわたくしは垣根のように人にならえり

みかんの木瞬時に枯れた暑き夏憐れみもないバックホーンよ
梨の木の農家に並ぶ筑波嶺は気楽に植えて気楽にそだつ
分布図を眺めゐるより庭の本イメージの中広がりそだつ
子育てに親の世話さえつまらない人生というたいくつないま
あれこれと忙しいまま働けば金は出る出る子らに家にと
あれこれとひまなわたしはあれこれと動かされては停滞してる
かったるいひねもすはゆき夏は来る。サンダル履いてイタリアへゆく。
冷房車乗って涼しき夏の日を想い出しては荷物的人
与われて生きてみようよ夏の日の暑さもいまは蝉の声する

ローマの信徒への手紙 15. 18-21

資産価値さがりゆけども都会には老いたる親の住みつづくらし
細々と子らの減りゆく都会には昔ながらの年寄りが住み
公園に子らの遊べる街並みはつながりゆかむ人らの暮らし
少しずつバランス狂う敷島はいにしえにして今をむかえり
軽やかに街並みになるわたくしは垣根のように人にならえり
衰弱すよわきこころは浦のよう水はたたえり意味なき風車
たいくつをたいくつとしる人生はいくとせすぎていまをすごせり
くるくるとうつろいゆかばひとかわるいくとせつちはよこたわりたる
生きること必死におもう人の目に広告塔のめまぐるしき日

すりきれたファンベルトのよう。

マタイによる福音書 16. 1-4 人々はしるしを欲しがる

あんたたちのつくった社会が気に入らない、ってことなんだろう。窮屈で窒息しそうな社会。かといって出口もない。逃げるしかなく逃げる道が見つからない。田舎的人付き合いや姻戚関係のややこしさを考えると中央集権。中央集権的荷物的人の集合体を考えると地方。年功序列の少子化社会なんて最悪。年金、託児所、少子化社会。茶髪、金髪でも足りないだろうな。オトは黒。よかった。

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July 23, 2004

夏の陽は平等にして暑かりしクーラー代の入った珈琲

ヤンキーの降り口ながすエレベーター霞ヶ浦をながめる夏よ
土浦は退屈そうに夏休み駅ビルの前あしばやな人
首都圏と言われる地価と駅前を霞ヶ浦は濁川かな
本当の田舎のよさのなかりせば田舎は地価のかろき街かな
高層のマンションの窓数えては日当たりなどを考えてみる
屋上にたどりついたる駐車場急勾配におどろき走る
偏差値と地価のうつろうひねもすをパスポート取り逃げ出し走る
鉄道の通った街はうららかに人を吐き出し遠路へつづく
邪魔そうに停めた車の狭いみちそろりそろりと逃げ出し走る
通勤を考えぬ日はうららかに帽子をかぶる吾子をながむる

コリントの信徒への手紙 二 3. 4-6

のんびりとエスカレーター降り立てばリゾート風のバッグが並ぶ
夏景色感じるビルは夏服の売り場の中にこの夏ありき
値札さえ揺れさえもせぬ空調は夏の暑さを隠してみせる
ひまわりもディスプレイ用ショップ内これでは夏はいずこにあると
照り返す厳しき陽射し屋上に夏はあるよと車は並ぶ
ぎらぎらと夏をのみこむ黒服のヤンキーの耳ゆれる金色
衝動に走れるもののなかりせば赤札だけがきわだちゆれる
買い物をするしかないとエアコンはビルを冷やしていま夏休み

退屈がこころつぶすと街並みはたいくつなままぎらぎらと夏

イザヤ書 30. 26

鉄道はないほうがいい、たまに思う、ぎらぎらとした陽は輝けり。
おしつぶすフロントガラス陽が射せば地獄のみちも風とおしよく
アクセルをのんびり踏んで田舎道カーブの空はひろくあおくと
さるすべり民家の庭に咲きたればまもなくみちはわが家へつづく

しあわせと感じる夏は陽が射せば風吹きながれ花の咲くみち

歴代誌上 21. 11-13

うわのそら右から左うわのそらそぞろあるきぬ石ころの庭
苛立ちも愛想わらいもうわのそら並んで咲いたあらくさもなく
たいくつで死にそうな日は書物かな並んだ文字さえうわのそらかな
あれこれと世間話についやせば不安と不満あの人この人
つながりの白墨として描かれた黒板の文字粉にかわれり
教育費出してやれよと年寄りは数の多さに未来の孤独
子育てを終わってみてから考える人生なんてちょっとさみしい
つながりの保てぬ夏は子らのない公園のよう冷えた部屋かな
それぞれに家があるよと留守がちな通勤客の詰まった電車
それぞれに電話あるよと携帯は直通メールわんぎりの音

エゼキエル書 41. 4

安物のリゾートバッグをながむれば静かにこころ衰弱はてる

夏の陽は平等にして暑かりしクーラー代の入った珈琲

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July 22, 2004

広き土地対角線に並ぶ家孫だけ歩くみちはつづきぬ

芝をはる前に花壇の場所などを決めろと言われて、石灰を買って来ました。せっかくだから庭の隅に野菜などを植えようと思って言ったら、また叱られた。畑にするなら駐車場の横らしい。日当たり。
石が家にあるから持って来てくれると言われて、何の話かと思ったら御影石が庭にごろごろあるので、ウッドデッキの跡にそれで階段をつくれという・・・あまりの気前のよさにクラクラしてお断りしました。
朝起きたら、タイヤの空気が抜けていて、パンクしていたらしい。そしたら、工事の人があっという間にスペアタイヤに取り替えてくださいました。うれしい。
親切なのよね・・・ただし、あちらを畑にして、スイカを植えたら、またつるがマンションのフェンスにからまったりして・・・植物の勢いはすごい。トケイソウでも、根を見たら木のようになっていて、だから、あっという間にフェンスを壊す勢いで成長してしまう。
植木名人というか、昔ながらの伝統で、樹齢の高い松ノ木などを手入れに歩いている年寄りがうちの庭で遊んでいるので、もしかするとひよこの木は忘れた頃には立派な木に成長しているかもしれない。
わたくしも秋になったら、また庭をつくろう。こりない。

オレンジの三日月浮ぶ熱帯夜われより先に吾子みつけ告ぐ
装丁の立派な歌集届きてやわれ知らぬうちわれは歌人か
狭き世の狭き敷島ちりばめる地球も狭きつくばの森よ
筑波嶺に赤穂の稲の実る頃わが庭とても生まれ変はらむ
山百合のいつしか消えゆ筑波山いのししの食むゆりねなるかな
御影石かいだんよりも歌碑にしろうふふとおもう昼寝時かな

ホセア書 6. 1-3

古代のお米をつくって配っているそうです。赤穂。美味しくはないらしいけど。昔は百合がたくさん咲いていたのに、いつの間にか筑波山から百合が消えてしまったそうです。小野小町ゆかりの地でもあるらしいし、万葉と郷土愛を学んで一からやりなおしか?まだまだ地元では自分が歌人とは言えない。なのに、大阪から立派な歌集をいただきました。礼状を書かないと。暑い。

ネット歌人つくばらしきとおもいきや筑波の山は万葉のさと
宇宙へとつづくみちすじのびきったガムのようだといにしえの山
のびゆけばちぢむ時空のよぎる森樹齢のようだ人知れぬ今
地中へとのびる木の根をさぐるよう親と子と森たちはだかりし
肥大する世を支えたる年金はいくえの世代交代させず
広き土地対角線に並ぶ家孫だけ歩くみちはつづきぬ

詩編 119. 57-59

あっちもこっちも不満だらけで、疲れた。

人生、85年として、男性は中高年の自殺者が多いから、統計的には低い。親はお金があってひまでやることがない。子どもは教育費がかかってお金がないから働かねばならない。だから、親の世話どころではない。そこへ、年金、託児所、介護保険、その他諸々福祉の充実。まるきり接点がないのよね。しかも、長生きだから、ひ孫まであっという間。そうなると、接点が薄いところにさらに薄いから、年寄りばかり増えて、子どもの数が少ない。子ども一人に親二人、そのまた親二人。さらに、その親。そして、その倍。どーにもならん。

なんか、疲れる世の中だな。
だんだんわかってきた。そりゃ自分が60歳を過ぎたら、親の危篤よりも孫の運動会だよね・・・あるいは、70歳過ぎてもまだ親が生きているわけだし・・・それでいて、4世代同居なんてありえないし、今時、農家こそ全部別々の家に住んでいるから・・・土地、あるし・・・・しかも、嫁さんがどこも高学歴。ねんじゅう喧嘩。
で、みんな、どこかへ行ってしまう。離れていたほうが気楽だもの。どこも同じか。

マタイによる福音書 9. 18-26 指導者の娘とイエスの服に触れる女 35-38 群集に同情する

子どもは別格か。そりゃそうだ。

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July 18, 2004

菜園のあらくさまみれあるじ留守いつしか葱は見えなくなりし

生きてると言わんばかりに雨戸あく娘の代わり窓辺立つ母
裏庭の明るい日差しオト鳴けば閉したるままの雨戸に気づく
今回はなかなか戻ってこれないとあるじは語り留守がちな昼
春の日はうららなままに放置されあちらこちらで動けない初夏
菜園のあらくさまみれあるじ留守いつしか葱は見えなくなりし

ややこしく開発されたつくばにはふるきしきたりあたらしき人
ふるき人声かけぬれば一族があつまりきたるわがやのにわさき
ふるき人あたらしき人あつまりぬのらくらすごすわがやのにわさき
隣人か地主か業者かくるくるとおなじ人らの話ながるる

わが庭のわが庭ならぬわが庭はふるき隣人あたらしき人
パチパチとにらみおうてるわが庭をカーテン越しにオトとながむる

風よ風くるくるまわる風ぐるま風見鶏なら風まかせかな
関東のからっかぜ吹くビル風のおそろしき庭ものさえおかぬ
ひねもすを世間話についやせばくるくる人のいれかわりたる
壁あれど地面を空をこえゆかむ草木は気まま人あつめたる
わが庭のわが庭ならぬわが庭はみちゆくひとのいれかわりたる

もう何十年もドンパチしてるから、たいへんらしい。うちのねこのひたいのような庭に、北条米の農家のおじいさんやら、筑波山の地主さんやら、この辺のもともとの地主さんが、庭仕事にやってきているらしい。うちは単に庭を隣のマンションの大家さんを通して頼むことになっただけ。木が大きくなりすぎて、わたしではどうにもならん、というだけのことが、なんでこんな大袈裟なことになってしまったのだろう。

うちのウェスタンスタイルの下手な庭を、芝の産地である自慢の赤土の山だったのだから、芝に戻せばすべてが解決するらしい。百合が・・・って言ったら、百合根をのこしてくれて、もってきてくれた。
怒っていいのか、安くこんなに丁寧に工事をしてくれて感謝するべきなのか、わたしにはもはやわからないです。
掘るのもたいへんな粘土質の赤土がようやく腐葉土にかわったと思って喜んでいたら、あちらにしてみたら土をダメにしているのだそう。そんな土にするから植木が育ちすぎて、どうにもならなくなる、と叱られた。そのように言われたらまさしくそのとおり。
交通のこととか、街のこととか、景観とか、そんなことより、「土」のことしか考えない。それでいて、おらが村は美しく発展しないことには子どもたちが都会から戻ってきてくれないと嘆く。こちらはこちらで、都会から親がきてくれないから、悩んでいる。
都会の生活に慣れた人たちでも、どうにかここなら暮らせると思う場所でありつつ、昔ながらの農家の生活も。まっぷたつでありつつ家庭内問題でもありつつ。えっちらおっちら山から人が・・・わかるような・・・わからないような・・・
突然、こんなところに街をつくった国がわるいんだろう。

ちょっと上の世代になると、まっぷたつだもの。みごとにまっぷたつ。話しても無駄だろう。互いに無駄だということに気づかないことには始まらない。

というわけで、うちの庭は芝の庭になるらしい。わたしの苦労は何だったのだろう?
農家のじいさんたちに言わせると、子どもの遊びなんだそう。そーやって言われたらそのとおりなのだけれども、農業で食ってるわけじゃないから、厳しく言われも無意味だから。
たしかに、研究所を並べるにはもったいないほどのよい土。もっと農業には適さないような土地を選べばよかったのに、国はいつもそこまでは考えない。だから、今回は、農家は民主党らしい。なんかね・・・わかりやすい。それでいて、そのおかげで、農家は大金持ちなのだから、よいと思うのだけれど、それなりの鬱憤と不満。
あたしには何の関係もない話だろうに。あみだくじでこっちに来ただけだ。

人間に関係ないとオトくんはドアから庭へ飛び出し走る
芝庭を喜びたるは長男のオトは走るよ、気ままに走る。

ほんと、オトくんはいいよね。
おじさんたちがまびきした梨の実をもごもご。
ほんと、オトはへいわだ。

それが本来なのかもしれん。よーわからん。

ダニエル書 9. 23

まびきした梨をくわえてオトくんは秋の実りを待つのだろうか
ぼんぼりのようにならんだ梨の実は秋を待たずにひとつごになり
片の実の捨てられたるをながむればオトはよろこび目をまるくする
ぼんぼりをぼんぼりのまま眺めたい梨の実なればおとすものかな
スーパーに並んだ梨で育ちたる吾には梨の姿みえざる
百合の花根のため植えるものなると言われて気づくゆりねなるかな
天然の野菜なる木の難ければ人の手知りて人手に渡る
野菜からポルシェにかわるみちのりは黒き布にて覆われている
公務員貧乏人と言われては集団決議口論の街

ダニエル書 11. 6-7

わたしの「ながねんのくろう」は、まけた。きのうきょう。にわかあめ。

落雷にのせて咲かせる火花かな線香花火はむなしくおつる

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July 16, 2004

切られても咲かせる花のあるように球根ねむる初夏の空庭

荒れた庭なつかしむには空庭のうたの気配の空元気かな
強烈な落雷を背に立ちたるは農家の壁のよく似合う人
言い訳は天がするよと落雷は悲鳴のように鳴り響きたり
あっけなく消えうせたのは荒れた庭ウッドデッキも草木も花も
あの花はこの花はなど言いたしも世に咲く花は厳しくもあり
伝統か垣根か花かくだものか芝生か枝か今より春か
わが庭はわが庭ならぬわが庭は金を払って瞬時に消えた
さっぱりと生きるもよしと腐葉土にかわりた土にせめて落雷
考えることもむなしと世の中はあっさりとして花を消しさる
怒る気もなれぬ厳しき大地とは落雷とてもいいわけにせぬ

また、獅子の洞窟に投げ込まれたダニエル。

コツコツと植えたらいいさ草花を理解はむなし農家の庭よ
美意識の違いの中で薔薇の花嫌われ切られさびしき庭よ

親切なんだよね・・・わたしのためにさっぱりしてくれているらしい。あーあ。

薔薇も紫陽花も百合も何もかも、ない。
梨はまびきまでしてくれている。
いつでも畑にはなるな・・・が、しかし、庭、だから、芝、らしい。
こんなんでいいのか?
うちの庭ではないだろうか?
かわいそう、だから、あっちもこっちも、わたしの代わり、に鋏を入れてくれているらしい。
たしかに、わたしが農家の嫁さんで仕事できないというのであれば、かわいそう。せっかく植えて育てた花や木を切られてかわいそうだとは思ってくれないらしい。なんかね・・・わかりやすい。トケイソウより、あの安物のフェンスのほうが大切らしい。わかりにくい。

言い返す元気もない。だって、親切、なんだもの。
価値観の違いなんだろう。

ネヘミヤ記 9. 30-31

考えよう・・・
イタリア、行きます。白血球が下がっても、水がたまって人工呼吸器でも、老衰が原因だから。新しい血液がつくられにくくなっている。だから、免疫力が落ちて、感染症がもともとあったために容態が悪化してしまった。病気ではなく、老衰・・・

切られても咲かせる花のあるように球根ねむる初夏の空庭

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July 15, 2004

職人の手際と目とぞ眺めてはわが意志とてもむなしく吹けり

たまに思うんですけど、どうして事実を書くとドラマっぽくなってしまうんだろうと。もしかすると、どこにでもあることだからかもしれない。今、一番多く話しているのが、姑さんとかも。何となく救われる。そのまた向こうに義理の姉がいて、3人でうつうつしてる。似たもの同士なのかも。

順番に怒ってみたり笑ったり言いたいことも同じだったり
若き日をよめよめ呼ばれ腹を立ていつしか時は「わたしが親よ」
バランスを崩してみれば半分になってしまったウッドデッキか
突然に庭の掃除が始まりぬ悲惨な庭のいつに整う
人の手を借りてつくれば荒れ庭もグリーンベルトにかわれるやもと

やりはじめたらあっけない。

猟師町ずらり並んだポルシェかな型式の数のんびりかぞえ
うお市場午後には半値刺身かな鮮度落ちればわが街に来る
豪快に木を切り鎌で倒したるウッドデッキの残骸をみる
ごみ箱に捨てているよな紙幣かな阿字ヶ浦にぞ海の幸にぞ
駐車場向こうの川は海なのかジェットスキーが進んでいくよ
あのそれは高かった木です、言いたいがあっさり切られぼんやりながむ
ひとつずつ育ってしまった草木より芝にしろやとあっさり切られ
山男海の男は豪快に天の恵みをポルシェに変える
売れ残る魚を飾るトレーなど考えてみてありがたかったり
食うまでの道は険しとおじさんは初梨もいで味見している

イザヤ書 30. 23-24

たしかに、もとをただせばタダだから・・・わかりやすい。

並んでは他人の親を世話したるドミノ倒しに浮世は流れ
よこやりを入れてみてもとドミノなら倒れるままに倒れるままか
放牧に大義名分整えば番狂わせもたまにはありき
改宗を考えている義理の兄喪主つとめれば仏壇の前
海鳥は飛んでいくよと潮風はさかなの匂い漂わせてる
野も山も海の中さえ権利かなじゆうなさかないずこに泳ぐ
朽ちるなら朽ちてしまえと思ってもウッドデッキは片付いてゆく

ルカによる福音書 24. 50-53 天に上げられる

パワーダウンしてるな。

花咲けば実がなるのかと梨の木はツインのままで叱られている
どうなってしまうのだろう梨の木はわからぬままに叱られている

突然昼間隣のマンションの大家さんが来て、あちらへ庭木が行ってしまっているからと言われ、話しているうちに庭の工事が始まってしまった。いきなり大家さんの親戚の業者さんが来て、あっけらかんと見積書はあとまわし。田舎だ。

マタイによる福音書 7. 15-20 実によって木を知る

なるほど。
彼らによると、うちの庭で残したい木は、梨とざくろだけなんだって。
なんかね・・・そういうものなのかも。
要らないとなったら、わたしにもきいてくれない。職人・・・・とは。

酔芙蓉倒れてみれば百合の花群れなし咲くを見て驚きぬ
職人の手際と目とぞ眺めてはわが意志とてもむなしく吹けり

投稿者 Blue Wind : 01:38 AM | コメント (0) | トラックバック

July 12, 2004

母憎く勝ち誇りたる嫁の顔背の高き弟むなし

転院が決まって、そのとたんに老衰が始まってしまった。普通の人より10歳くらい早く。大病(脳の損傷)したのが原因だと言うのだけれど、あまりにも突然で驚く。それと同時にすべてが分かりました。母が私に伝えたかったこと。一生懸命に言おうとするのだけれど、言葉が出ない苦しみ。

この10日間のうちに、母の10年間の月日が。わたしの知らない10年間。何があったのか。病室で意識のないはずの母が何を聞いていたのか。わたしが娘を育てているうちに、母に何があったのか。もう、これでは死んでも死にきれない。もはや、母の葬式に出るのもいやだ。

イザヤ書 30. 27

枯渇したこころの谷にあふるるは炎のごとく魂の立つ
悲しみをつたえるもののこころにはすでに愛など枯渇した文字
死す者の敗者のごとく伏す床は鬼火のごとく炎舞い立ち
鬼女のごと立つ人みれば弟の身の者と知る情けなき死よ

親が死ぬほど反対していた人と親が動けないことをよいことに結婚してしまった。ただそれだけのことなんだけど、次第にその理由が明らかになりつつある。あんなに仲のよかった叔母さえも、わたくしでさえ、悲しみも怒りも嘆きも死に対する悼みすら失せる。なんでだろう。母はまだ生きているとは言うけれど、そういう実感もない。

そう・・・・動けなくなったら終わり。死んだら終わり。何も言えなくなったら勝手につくられる。すべてがむなしい。母が動けないのをよいことに、あの人たちが好き勝手にしてきたことを考えると、そういう気にもなる。動けなくなったら負けなんだろうか? 一人で何もできない母は無力すぎる。あれでは拷問と同じだ。わかったわ。

母が言いたかったのは、わたしのところに来れば母は楽なのよね。恵まれてるよ、普通の患者さんに比べれば。にもかかわらず、弟のところで厄介者扱いされている。なんでだ? 弟が心配だからだ。母の実家で母の悪口言うな、あほ嫁。どーにもならん。みんな怒ってるし・・・あーあ。叔母さんたちが言う意味がわかってきた。彼女たちにしてみたら、わたしのところのほうが気楽。母のことだけだから。家族で送れる。なのに現実はややこしい。死んだら終わりなんだろうか? でもなー、今さら母の気持ちがわかったからといって、わたしに何ができるというのだろう?

詩編 139. 15

魂は死なないのだよ。

弟の手をひき歩く母の背は若き想いぞゆくりめぐれり
母の背をかろく超えたり弟は背を丸くして母に語れり
弟に三つ子のように語る嫁あな現実はわびしくもあり
年月を矢のようにして夢の中あな現実は厳しくもあり
病床の母の想いは病人の戯言なるか苦しみの顔
母憎く勝ち誇りたる嫁の顔背の高き弟むなし
小姑になってむなしきわたくしはつくばの夏をすぎゆくばかり
夏の日は繰り返したる吾子の友姉弟の姿のんびりながむ
今は過去すぎゆく未来子らの背に青々としたみどりひろがり

ヘブライ人への手紙 10. 15-17

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July 05, 2004

一滴とまた一滴と雨が降る雨はひろがる水たまりかな

地上に、そんなたくさん父親がいたら迷惑だから。わたしの父は父、天の父は父。まったく違う。ましてや、あの人がわたしの兄弟と言われた日には、同じ墓には入りたくない。こうやって地上は分化していく。アンチ中央集権。

母の容態が悪化し、転院は延期しました。みんながホッとしているという・・・弟にしてみれば、母を見捨てるのかとなるし、父さんにしてみれば、旅行すらやめようと言い出す始末。つまりは、留守の間に何かあったらどうしようとか、責任と良心の問題なんだと思う。誰も何も言わないと言っているのに、人間は、社会はややこしい。

これはよいことだよなぁ・・と思って何かをしても、その結果、誰かを苦しめる。まとも。

治療の必要性のない人をいつまでも置いておけないと言っていた医者は、治療する口実ができたので、今度はさらに前回同じ症状が出たときと違ったやり方であれこれやってくださるそうです。たしかに経営者(院長)がかわって、儲からない患者は追い出さなければならない。何か口実があれば、そういうことをしなくてもよい。なんかね・・・

容態が悪化して、そちらのほうを心配しなければならないはずなのに、何かどこかが違う。

よくわからないけれども、こうやってすべての人たちが罪によって裁かれないことが大切なのかも。罪のない人なんていない。

なんで、神さまはいつも沈黙しているのか、何となくわかりました。

こうやって批判的な内容を書いていて、罪悪感はないか?
シエナのパリオは、競馬に勝ったら復活できると言っている。本気なんだもの・・・だから今でもそのためのミサをする。そうなると、まるで罪悪感なんてないです。むしろ、純朴な人たちの素朴さに良心の呵責を覚えてしまう。それでいて、ミケランジェロは好きだ。救われる。

こんな話をすると、また誰かが踏み絵の話を持ち出す。踏み絵を踏んで殉死なさった方の純朴さには打たれるけれども、わたしなら、あっさり踏みます。紙を踏むだけだから。そういうことに縛られることのほうがよほど罪だ。それにより裁かれるか?みこころの風は吹く吹く・・・

葬式のことから、何から何まで決めて、もうこちらに来れば、あとはのほほんとしてたらいいのよ、というところまできて、また母にはやられた。

結局、すべての人たちが裁かれないためにジーザスは来た。
だから、わたしのジーザスはもはや十字架の上にはいないです。
わたしの目から見たら、軍人のように並んだ聖人像も静かな聖人のイメージを破壊するという意味で罪だし、わたしのジーザスをローマ兵のように銀の杖にして振り回しているのも罪だ。(なんか文句ある?)博物館の美術品は貧乏な教会に払い下げるとか?(うそうそ・・)見るために、何時間も並んでいるのもかったるいし、どこへ行っても入場料なんだもの。それだけで、そこの地区、国は潤う。(たぶん)金があるからよいってものじゃないでしょうけど、何となく・・・つくばの教会にピエタくれたら、わたしも明日から行って、働く。(何にもできないけど)←これ、撤回。あれこれ文句言うと、そのとおりになっているところが怖い。その恐怖を知らない人たちは幸せだと思う。学食に冷やし中華というのはわたしではないです。

ミケランジェロは、ジーザスを十字架から降ろしたかったんだと思った。

エゼキエル書 26. 15-21

誰でもティルスのようになりたくないと思うほうが普通だろう。ティルスのようになりたくないから、栄誉栄華を求めて神をおそれてきた。
その名残なんだろうな・・・
ボッティチェリは、見事に晩年は狂ってしまった。あんなに彼の作品は愛されているのに。
憐れみのない世界なんだろう。

沈黙の時代の春はせつなくて語らぬ愛に憐れみのあり
誰がために沈黙しせり梅雨の日はドライな風の音は鳴る鳴る
暑き日は夏のようだと思いしも蝉の鳴かない今はまだ梅雨
暑き秋蝉とこおろぎ鳴きたれば忘れた「冬」にこおろぎすわる
暑い日は単に「暑い」と言うだけだ。夏か秋かも梅雨もわからぬ。
虫鳴けば季節はめぐり花は咲く。それさえ今は身勝手な庭。
今は初夏。薔薇のまほろに咲きたれば紅き薔薇なら咲き終わりたる。
紫陽花の予定どおりに咲き終わる。気ままな薔薇はうららかに咲く。

中世の装束を着た男の人が、おしゃぶり咥えて歩いているのが復活なんだろうか。たのむよ・・・

ガラテヤの信徒への手紙 4. 1-7

子、なのね。わかったようなわからないような・・・「あなたがたは相続人なのです」。引き継ごうと意気込みのある人と、そーでない人がいるだけのことなのかも。

こーなぁ・・・相続権争いなんだよね。ジーザスを認めるとか認めないとか。最初から自分には関係ないと思っていたら、関係ないのよね。

「ジーザス・マイ・ラブ彼氏なの」
友だちとか彼氏というのは、そういうわずらわしさはないから。

誰がママでもパパでも関係ないよなぁ・・・

ジーザスが、「僕がキングです」ってやって来るか?
ない、ない。
あんなに静かな人はいないと思う。
底なしの湖よりもまだ静か。底なしの湖があるかどうかは別として。

能無しなんだろうな。沈黙しているほうがすっきり。

教会なら大変なことでも、何もないと何もない。

荘厳にひかりかがやくひかりよりしずしずとしてしずまる夕陽
幻のかたくシュールに漂えばこなごなくだく水面のひかり
一滴とまた一滴と雨が降る雨はひろがる水たまりかな
雨は降る空は遠くと水面にはひろがる紋を不思議にながむ

テトスへの手紙 3. 1-11 善い行いの勧め

聖書と議論してるのよ。あーでもない、こーでもないと、よく続くよなぁ・・・

昨日の分の聖書をカットしようとしたら、サーバが落ちてる。抜かしてはいけないということなんだろうか。なんでも順番。

投稿者 Blue Wind : 10:37 AM | コメント (0) | トラックバック