肉として灰にくべられ生きるやも魂だにが光に変わり
ディズニーの風船飛ばし泣きじゃくる片手ひらきし紐ぬけしまま
新しいエアコンの風チキン肌温度上げても秋は来ており
秋空にのびゆく子等の姿追いあの子この子と顔を確かめ
タンポポの可憐に一つ秋の庭アザレアの横小声の春か
悲しくも色のわかれり酔芙蓉朝の白花夕昏の紅
一つずつまた一人ずつ迷路へと一歩すすんで世はめぐりゆく
安らかに眠れる人の幸せを祝福しせる天国のドア
人の死に悲しみ覚ゆ涙いろ祝福の風天に昇りつ
吾子を抱くその一時が母という一人の人に吾を戻しぬ
ヤシ陰でバタイユ読めるひとときをバカンスと呼ぶプールと海と
うつそみの世を漂いつ名無しとも思えた吾にも名こそあるらし
幾千の舞い散る言の葉とらえども降るよ降るよと舞い散らせしか
秋とんぼ器用にとまれる枝先のしだるを眺め船酔い覚ゆ
こおろぎの羽音の色の変われるやラッパ奏者の掠れるが如
窓辺より不意に聴こえる知らぬ声隣家の子等のボーイソプラノ
はなうたで自転車に乗りかえるひと癌とりしこと家族も知らず
肝硬変次には癌に変われるも検査さぼりて癌を育てず
ウイルスをいだき生まれしひとなれば今ひとときもともに過ごしぬ
秋鳴きのともしぐれたる虫の音に今ひとたびの涼を求めぬ
来る春のおそければ花咲ける丘今が夏だと吾に伝えり
花遅き虫の音早き北の嶺にふたこぶらくだも地にふすもがな
せみの如く鈴虫の鳴く真夏日におぼろなピアノなぜに聴こえり
「台風が来ているから」と夫の言ひし夏もなこそと秋せきとめぬ
吹く風にけだるく揺れる萩の花サウナの庭の窓開けやらぬ
虫の音の秋を告げるや十五夜の過ぎたる庭の熱帯の如く
ふわふわと流るる雲の形かな見るものにぞとゆだねしみたま
おさなき日ふと目にしたる厨子王の絵本の挿絵ものめずらしき
「アンデルセン」「グリム」「ディズニー」カタカナの並びし絵本おとなしく読む
ふりがなの漢字にふられお姉さん ませた気分で衣眺めり
一秋の早く響くや虫の声むし暑き夜をわれと過ごせり
汗まみれ虫の音だにが秋というクーラーなき部屋風吹かぬ夜
秋の夜の月の光に集まれり戯れなるか白き雲闇
咲く花の息の緒刻むしずごころ咲くことでしか己を語れず
吾子の絵をほんのり見やる親ごころ笑みこぼれたりまるい世界に
プツプツと冷ピタシートの青い粒ニキビ潰しの手触りにも似て
アザレアの狂い咲きたる秋の庭今が春かと夏かといぶかる
水滴のきらきら光る前庭で娘待ちたり黄バスの時間
雑草を刈り込み刈り込み娘待つ陽の傾きつ蚊に刺されつつ
クレーターうさぎと見ゆる月影を十五夜と呼ぶススキなき原
何のためテロを撲滅するのかと戦争起こす人に訊きたし
何もない愛という名の尊厳の舞い立つ風の揺れる葦原
アザレアの狂い咲きたる秋の庭春の御園の待ち遠しやと
◇題詠 「ハッピーカップル&ハッピーウェディング」
愛の誓い終えたばかりの花嫁の涙すべなく落つるを眺む
新郎のマイク片手に司会せしたしかにわれは来客とぞ知る
おおらかに喜びかくさぬ君の背にイベント好きとレッテルを貼り
(他3首、過去ログより)
祭の日むすめに浴衣着せれどもおやの浴衣は箪笥のこやし
帯紐の足りぬにあわて取り出だす母の小箱にわが名を見つけ
薄明かり大真面目なる詩心の真面目に読めぬ黄昏時よ
天空に気ままなるまま翔けゆく日大真面目なる人の死に絶へ
麗しきかごとの渦のいかにせん過ぎたる日々の戻らざりけり
生きること悦びというその人の地の根しずもるタイムカプセル
ひっそりと目立たぬように息づく日森の木霊のわれを呼びたり
りんさんはなにを詠みたい詠いたいと問われいぶかむ空は黄昏る
何もかも忘れぬるため底の根の青き夜の夢水面に浮かぶ
めばたまの黒き影女の召された日名のありしこと不意に知りける
数センチ離るる世界異次元の隔たる壁を原子つくりぬ
近々とすれ違ふ道遠かりし離れゆく川海で出逢はむ
潮かほる磯辺の河の流れゆく向かひあふ町隔てるために
濁流の海を汚すと疎みしも山の水には罪はあらざむ
最初はね短歌なんかとバカにしてのめりこむのは恋にも似てる
ナス・スパの避けて通れぬ秋の味四季をりをりのランチタイムに
街角にたたずむ吾子のランドセル車の中よりおどろき眺む
薄埃かぶれる書庫の未読本さらに積まれるタグと和歌の本
読むほどに脳の構築変われるや樹状気まぐる歌人の回路
さあこれで終わりと言へるその日には指がうごくと確かめばやと
鈴木英人さんのイラスト。
憧れる人が多い。
見慣れた絵だ。
ポルシェのスピードスターがさらりと停まったアメリカ。
おそらくは、日本人がアメリカに求めたのはこの雰囲気なような気がする。
開放感と俗っぽさとそれをアートにしてしまう感性。
旧き良き時代なのかもしれないけど・・すでに。
どこが違うかというと、金じゃないんだよね・・・
カラッとしているところなんだと思う。
実際のアメリカ人ときたら、それこそ健康のためにダイエットが必要だと思うような人が多いし、やたらと警戒心が強かったり、カラッと陰湿さと怠惰さとを同時に感じてしまう気がすることが多いけど、実際のところわからない。
それくらいいろんな人たちが存在しているのかもしれないし、それでいて英人さんのイラストの世界はアメリカという雰囲気なんだよね・・・
なんで突然そんなことを思ったかというと、和歌のせいかもしれない。
自分は少なくても短歌向きの性格ではないもの。
大体、短歌なんてものは、私のようにズケズケと言いたいことを言える人間には必要ない。
それこそ器用だし、どんな風にも詠めるし、数だけは多い。
やまとことばは嫌いではないけれど、どうも古典のウェットな雰囲気は自分には馴染めないような気がするし・・・
『サラダ記念日』が売れたのは、現代的な短歌だったからだ。
少なくても精神が違う。
カラッとしているもの。
短歌からウェットな部分を消し去っている。
そこが違うような気がする。
それがよかったのよね・・・
つまりは、こころが違う。
それでいて、とても現代の日本人的だ。
もう、「こーあるべき」という時代ではないな。
そんなことはわかっていて、どーしても「こーあるべき」だと思ってしまうのは精神だからだ。
理解するより理解されたい人たちが多いからかも。
そこに起爆剤のように何かを落とすのが現代アートの世界なのかもしれないし、それでいて、タフなんだな・・・
「自分はこーである」というところがはっきりしているもの。
生活すべてが自己主張というか・・・自分の世界に満ち溢れてしまっている。
ピラミッドてんでささえる地球かなそら落ちやまぬ太古の夢よ
ピカピカの背高のっぽの看板の木より背伸びし通りに並ぶ
北に向け流れる店の途切れたる森の彼方に青山浮かぶ
空室の札の並ぶアパートの管理人室洗濯機あり
古本屋棚に挟まれ通せんぼ一方通行出口を探す
シャワー室カーテン揺れる駐車場同好会の張り紙の横
筑波嶺のあおやま飛びしあおとんぼ常陸の風の吹かるるままに
くろかげのひらり飛ぶ蝶水面こゆなだらに並ぶ夏穂のほとり
みおろすぞ木木の切れ間の街並みを風はゆくゆく平野の果てへ
ヨーヨーの音に誘わる土曜日の子等と戯れ歌集取らるる
同じ曲歌手変え聴くやボサノバの半世紀の声にひたれり
さあゆくぞ文学という芝の上寝転びながら夢覚めやらぬ
焼きたての吾子のクッキーつまみぐいアイシングする子等に叱られ
ぬかるみとおもえたみちのカタコトと手押し車ののんびりすすむ
こんな日に脳の萎縮を感じては射す日の光に衝撃感ず
曇り空君はどうして天気予報パラソル持たず学校へ行き
晴れた日のそのまた晴れた筑波嶺にロケット眺む異空の時
やまとうた言の葉の根を思はざり地中に埋もる冬篭りかな
ひとつ知る われは歌には向かないと それでも溢る子守歌かな
コンビニのましろき姿に変わり果て縄はる店に2本の電柱
筑波大どこかと訊かれ指差すは森のことかとさらに問はれり
青春のぽっかり浮かんだ真ん中に葉のない花のグラスに揺れる
夏色の腕に描かる夏模様まだらな皮膚の秋遠かりし
黒髪の伸びることさえ忘れてもつめきり探すペン立ての中
贖罪を求むるのなら空の中消えゆくひかり燃えゆくいのり
◇pekeyonさん家で詠んだ歌
エアポートせかせかヒマな待ち時間バーゲンの札のわれを呼びたる
黒雲の過ぎ去る空の甦る海桶の中船は揺れたり
気まぐれな秋風吹けば曇り雨たゆたう雲を地に降らせたり
ぼけぼけの年寄りなりてシミだらけ南の島でごまかそうかな
バイク乗り次なる道はバンジーかマシン留める紐さえあれば
ガーベラの葉さえ持たずに並びたる春の花屋のセロファンの束
鈴虫や重ねて聴くや秋の音に高いベースの音を捉えり
窓の外聴くや聴かぬか鈴虫よ居間の音さえ共に響かせ
虫の音の奏でる秋の明るさに虚ろな曲の鳴り響く夜
鈴虫の立ち去る晩にこおろぎのなぜに鳴くのか羽震わせて