May 28, 2009

高い山

高い山が二つありました

山はとても美しく、わたしはほかの山を見ながら山の麓に佇んでいました

あなたは信仰心があれば、山だって動くと言いました

ならばわたしの登る山を一つにしてください




空が二つありました

一つには月、一つには太陽がありました

夜と昼はともに存在し、空はとても広いのだと思いました

でも、二つの空が一つになると

月はとても大きくみえ、それでいて写真には写らないほど小さな月だと気がつきました

空がとても広いからです




山の上の空はとても広いのです

麓からみる空はとても狭くみえました

でも、山の上の空はとても広いのです

山はわたしを空には連れて行ってくれません

空はとても広いからです

山は狭くなり空は広くなり

山が動いても空は動きません




空は動きません

だから山にも登りたくない

というのは、わたしの我が儘でしょうか





(歴代誌下 26. 16-21)

投稿者 Blue Wind : 03:44 AM | コメント (0) | トラックバック

悪いパターン

バルバロ聖書を読み終え、新共同訳聖書を最初から読み始めた。それと並行して、最近発刊されたキリスト教関係の本を数冊並行しながら読んでいる。

ホソピーが、わたしが洗礼を受けたのかどうか訊くので驚いた。あちらも、わたしがすでに受けたと答えたら驚いていた。たしかにあれにこれにと忙しい時期だったので、下馬評としては無理だろうと思われていたのだろうか。好奇心で、もみの木と比較しながら訊いてくるので困る・・・

---- 毎週日曜日には教会へ行ってるの?

---- なるべく行くようにしている・・・(汗

---- Mさんは、週に2回は行っているらしいよ。

---- 熱心なのよね・・・ わたしは戸別訪問もしないし、勧誘もしないし・・・それよりも自分の修養のほうでめいっぱい。

---- 生きるうえで、そういうのも大事だよね。

---- いや、死ぬうえでじゃない?

---- いや〜、長生きするよ。

---- いや〜、そーいえば、洗礼を受けるというのは死んだということらしいよ。で、新しい命を受けて・・・ 仏教で戒名を受けるとか出家するとか、というのに当たるのではない?

---- へー。

---- だから、わたしは一度死んだらしいよ。そうやって聖書に書いてあった。

---- ひとりで行ってるんでしょ?

---- そう。

---- ふーん・・・ 大事だよね、そういうことも。

その後、ホソピーが昔行っていたプロテスタント系の婦人の会の話が続く。彼女は信者ではないし、カトリックもプロテスタントも同じだと思っているので、わたしも深く考えない。神父さんが以前勉強会のときに、ここの教会は入り口に献金箱があってプロテスタントみたいだとぼやいていた献金箱に信徒会の会費などの納入袋を入れ、ほかの信徒さんに、「神父さんが年にまとめて納入すればいいとおっしゃってたんですが」と言ったら困ったような顔をしていたので、素直に信徒会の方針に従うことにした。

今読んでいる本の中に、「教会外のキリスト者」という言葉があって、礼拝には参加しない信者とか、所属教会を持たないキリスト者がさほどめずらしくないと書かれていた。全信者の中で、毎週日曜日に教会へ行っているのは15%という数値まであり、その原因を教会の分裂により教会が信者の信頼を失ったからだとも書かれていた。

そのほかにも、わたしみたいにずっと洗礼を受けないでいる人まで含めると、毎週欠かさず教会へ行っている人がいかに少数派かわかる。というか、教会の入り口に置いてあった月謝袋のようなものを考えると、気のせいかもしれないけど、数が少ない。ということは、外国人や学生も多いし、御ミサにだけ来ている信者さんも多いのかもしれない。

うちの患者さんの中にも何人か信者さんがいるのは知っているけど、外から来て、教会へは行っていないし、場所を教えてあげても行かないと言う。どうして行かないかは人それぞれなので、深く考えるのはやめた。

ホソピーが、「お葬式とかどうするの?」と訊く。わたしとしては、「わからない」としか答えられない。わからないし、知らない・・・ もみの木だと親の葬式にも出ないそうで、そうなると無宗教でやるしかないのだろうか。とは言うものの、お坊さん抜きのお葬式とか、牧師さん抜きの結婚式も近頃では多いというし、それでも何も困らないことをわたしは2度体験した。

もしかすると、洗礼を受けたら、わたしがどこか何か変わると思われていたのだろうか?

宣伝するとか?

・・・・・・それはないな。洗礼を受ける前から信者だと思われていたせいか、あるいは信者と間違えられることを苦痛としていた時期までも含めると、今さら何が変わるのかよくわからない。洗礼を受ける受けないは別として、わたしみたいなのは、いわゆる教会外のキリスト者というやつで、それが受洗して信徒会の会費を払うようになったからといって何が変わるのかよくわからない。それでもなるべく日曜日の御ミサには行くようにしている。

信徒会の会費を払うようになっても、日曜日の御ミサに行くようになっても、精神は自由だ。とりあえず、本の続きを読もう。

(マタイ 25. 41-43、 26. 31)

一番悪い信者のパターンかも・・・

回心どころか改悪化している可能性が・・・

何のために受洗したのかわからん。

投稿者 Blue Wind : 03:07 AM | コメント (0) | トラックバック

May 21, 2009

確信

やっとパウロの書簡。コリント1に入ったところだけど、ローマは難解だった。

理解しようとするから難しいわけで、理解しようとしなければ難しいことは何もない。ただ、ユダヤ教からの改宗者にとっては、今まで食べてはいけないとされていたものを食べたり、律法で禁止されていることをゆるされるとなると、かなり困惑があったことが心情的にわかるような気がする。

なんせ受洗したとなると、今までだったら気にならなかったことでも気になるようになるし、あれも罪、これも罪、という具合に最初の1ヶ月はぐったりするような気分だった。それに、アクティフといっても何をしてよいのかもわからないし、わからないままに聖書の続きを1人で読んでいるわけで、何をしてよいのかわからないからこそ、根気強く聖書を読んでいられるのかもしれないと、ここまできて思うようになった。

一つ拾ったのは、確信の持てないことは仮に善いことであっても罪であり、善い行いでも良心に従って確信を持ってやらなければ罪になるということ。逆に語れば、確信を持って善いと思えることなら罪にはならないと書いてあった。

ちょうどその辺を読んでいるとき、ダンナがまたウダウダうるさいので、その部分を読んでやった。

このところ新型インフルエンザのことでタミフルやリレンザが有効と盛んにニュースで言っているが、去年は副作用のことがあり、タミフルを投与しない医療機関が多かった。それにタミフル耐性があってタミフルが効かない人も多かったし、うちではあまりタミフルを処方しない。何故、処方しないかを患者さんに説明しなければならないが、医者が確信を持ってそうやって説明しているので、大抵の患者さんは納得していた。にもかかわらず、1年もすると去年のことはすっかり忘れ去られてしまうがごとく、今年は抗ウイルス薬を投与しているところが多い。

それとか、子どもの患者さんが来て、耳鼻科でステロイドを出されたがよくならず、某小児科に行ったら先生が驚いておくすり手帳にその薬を服用してはいけないと×を付けられ、ほかの出された薬を飲んだがよくならず、誰の言うことが正しいのかわからなくなりうちに来たそう。結論としては、耳鼻科の先生はステロイドはよく使うし、小児科の先生はステロイドは使わないし、どちらもそれぞれの先生が正しいと思う治療をしているだけ。

「困るんだよなー」とわたしに言われても困る。

パウロ曰く、というか、パウロ風に解釈すると、「それが正しいかどうかは別として、医者が確信を持って患者さんにとってよかれと思って診療したのなら少なくても罪にはならないんじゃないの?」と、「罪」という言葉を強調しながらわたしは答えた。それが正しいかどうかは別として・・・ いろんな医者がいろんなことを言うのはめずらしいことではないし・・・ それが正しいことだとしても医者が確信を持たずに診療にあたれば、患者さんは何となく不安になるだろうし、不信感を持つのではないかと。

どうしてそういう話を居間でしているかというと、娘が今試験中で、娘の学校は居間での勉強を推奨しているから。何もしないよりはまし、ということだろうか・・・ で、娘は化学の勉強をしているかたわらで邪魔しないようにわたしは聖書を読み(なかなか読み終わらないし・・・)、それを邪魔するかのように父さんがウダウダ話しかけてくる。

いいんだけどね・・・

ただ、信者になったからといって、急に善いことをしようとしても迷うだけ。特に近頃あれこれ迷うことが多いし・・・

日常生活に信仰を持ち込むというのは矛盾の宝庫だから仕方がない。でも、これからはそれが素晴らしいとか、確信を持って善いことだと思えること以外はやらないことにした。だって、仮に善い行いだと聖書に書いてあったとしても、確信をもってやらなければ罪になると書いてあったし、自分にとっても負担なだけだ。

迷って、罪を意識して、聖書を読む。逆に語れば、何も思わなければ読まないのかもしれないし、読んでも何も残らない。

一つ思ったのは、ユダヤ人って大変だな・・・ということ。律法どおりに生活するって、想像を絶するほど不便で大変。聖別されるって大変そう・・・ そこのところがわからないとパウロの書簡は単なる歴史の一部に過ぎなくなる。

聖書って読むたびに、まるで違うことを言っているような気がしてしまう。何冊も違う本を読んでいるような気分だろうか・・・

(マタイ 11. 17-18)

投稿者 Blue Wind : 03:08 AM | コメント (0) | トラックバック

May 18, 2009

God bless ・・・

ようやくステファノの殉教のところまで読み、雨の中教会へ。

雨だから空いているかな・・・と思っていたら、空いてはいたが駐車場は逆にびっしりだった。つまり、通常に駐車しているだけでは足りず、敷地内にびっしり。普通の感覚だったら停める場所もないとひるんでしまうところだが、一台でも入るのならば停めてしまう。入り口付近に停めた車が一台ずつ出るまで、先に停めた人たちの車は出せない。

自転車にチャレンジするべきだろうか・・・ その前に、自分用の自転車を買わねば。

***

オバマ演説集が流行っているというので、CDを聴いてみたけど、わたし的には、"Yes, we can."より、"・・・may God bless the United States of America."のほうが耳に残る。高らかに、"God bless Japan."と演説するような政治家がこの国に出てくるとは思えない、少なくても今のところ。いても右翼の餌食になるだけだろう。

旧約聖書からずっと読んできて、今はメシアの時代なんだと知る。悪魔の支配する時代は終わった・・・

今日、御ミサのとき、韓国人のシスターがいらしていて、妹さんが留学中なのでこちらに遊びに来たそう。ケニアの医療機関で8年もご奉仕している。家族に会うのも4年ぶり。ケニアはとても貧しい国で、という話をしていたけど、近頃そういう話を聞くと複雑な気分に陥る。日本は、今、病んでいるから・・・

特定健診の説明会に参加し、2004年をピークとして年々人口は減るが、65歳以上の人の占める割合が3割になり、循環器系の疾患が国の医療費を圧迫するのでそれを予防するために特定健診をする、と説明された。

が、しかし、わたしがそのグラフで見たのは、確かに65歳以上になると循環器の入院患者さんがぐわっと増えるが、それ以前に、もっと若い世代の精神科の入院費の占める割合が循環器と並んでめちゃくちゃ多く、そっちを何とかするべきだと思ったが、おそらくは循環器なら何とか予防できるが、精神科の予防となると具体的な良案もなく放置するしかないから、メタボ・・・なのかも、と思った。

目に見える形で、戦争とか飢餓とか、それを撲滅しようとするほうが、目に見えない病気と闘うよりわかりやすいと言ったら言いすぎだろうか。

モーゼの時代には空からマンナが降ってきて、イエズスの時代にはパンと魚があるあまるほど与えられた。命のパン、つまりみことば、のかたどりらしい。形のあるものから形のないものへ。

日本語ミサですら外国人のほうが多いかもしれない。

パラダイスめざして、・・・・・がんばろう。

(使徒 8. 32-33)

投稿者 Blue Wind : 02:33 AM | コメント (0) | トラックバック

May 11, 2009

満月とウェハース

ちょうど読書に夢中になっているときのように、聖書を読んでいる。ようやく新約へ入り、マタイを読み終わったあたりで娘を迎えに外へ出たら、綺麗な満月だった。

黄色い満月を眺めながらドライブをしていると、何となく月が御聖体に見えてくる。御ミサでいただく御聖体は、どうやっても味のないウェハース。物質はどうやっても物質にすぎず、いまだにわたしには聖体拝領の意味がわからない。月を見ながら、そんなことを考えていた。

イタリアで月の出を見て以来、わたしは月を見ると神さまを思い出す。飛行機で窓を開けたときに見えた大きな白い満月。普通は空の上にあるのに、すぐ窓の外に見えたのが不思議だった。同じ空に浮かぶ太陽と月。右手に日没、左手には夜の月。言葉のない会話。

他愛もないことだけれども、神秘、という言葉があるのなら、神秘的な想い、というのはそういうときに感じるのではないかと思う。よくわからないけれども、神さまがとても近くにいるような感覚。空の月を食べたとき、実際には何も食べていないのに、何かを食べたような気がした。ウェハースが喉を通る感覚を思い出す。

***

預言書の解説を丹念に読みながら、新約聖書へ入ると、終わりの日というのはかのエルサレムの滅亡の日のことだったのか、という疑問が湧いてくる。わたしはこれから来るのだとずっと思っていたので、あんなに恐ろしいことが実際に遭ったのかと思うと、御聖体を飲み込んだときのような複雑な気分に襲われる。過去と現在が重複しているような感覚。まさしくドライなウェハースを飲み込むような感覚。

イエズスはエルサレムを見て泣いていたというけれども、そのときを見ていたのだろうか。過去は沈み、聖ことばは残り、沈殿物をかきまわさないように静かに水をすくう?

わたしは深く考えるのはやめた。

実際のところ、律法でいけにえを捧げるように書かれてあったとしても、わたしには無理だ。仮にわたしが当時の人だったとして、ユダヤ教に改宗したとする、でも、無理なものは無理。ということは改宗はありえない。

敷地いっぱいに車を詰め込んで、日曜日の御ミサのときは大変だ。早く行けばほかの人が帰るまで車を出せないし、遅れれば停める場所もないかもしれない。それでもテレビで観た電車の光景よりもましかも。電車の中だけではなく、上にも脇にも人がいっぱい。落ちたらどうするのだろう。それともお祭りだから、そういうものなのか。どこの国の光景だろう。忘れた。

人が集うって疲れる。

***

聖書を読んでいるうちに、イエズスの厳しいことばが少しも厳しく感じられなくなってくるから不思議。弟子たちも、イエズスのことばを聞いて、奇跡を見て、・・・・・一番不思議だったのは、最後の晩餐で裏切ることを告げられながらまるで何事もなかったかのような晩餐。その空気が不思議だ。ユダでなくても誰かがやらなければならなかったのだとすると、一番の貧乏くじはユダだ。預言書というシナリオはとても漠然としていて、誰もが理解していなかった。ミッション。

ミッション。

・・・・・眠くなる前に、つづきを読もう。

(ヨハネ 20. 7-10)

投稿者 Blue Wind : 12:50 AM | コメント (0) | トラックバック

May 10, 2009

わからずやとおからずして月のいろ移ろわば吾みこころを食む

ぽっかりと浮かんだ月を眺めつつ御ミサへゆかむ、とぞ思う土曜日

満月はくっきりとしたパンの色浮かべつ空のみつめるままに

わからずやとおからずして月のいろ移ろわば吾みこころを食む

(ローマ 2. 9-16)

投稿者 Blue Wind : 02:13 AM | コメント (0) | トラックバック

May 05, 2009

苛苛と混沌

なんかイヤなんだよね・・・ このところフツフツ腹の立つことばかりで。

一番うんざりしているのがやはりMさんのことで、今まで彼女が口にしてきた悪口が彼女の身に降りかかりつつあり、それとわたしとは何の関係もないと思うのだけど、どうも逆恨みされているようで気持ち悪い。

”貧しい人”の定義って何だろう?

一般論としては貧乏な人のことなんでしょうけど、本当に困っている人とそうでもない人がいて、よくわからない。

例えば、ワクチン1本のことでも不足していると文句言われてしまう。本当に困っている人というのは、もし髄膜炎になったら抗生剤も効かず死んでしまうかもしれないお子さんで、そちらを優先にして何が悪いのかわからない。でも、自分の子が心配な親は、怒る。「あなたのお子さんはもう大きいし、健康だし、順番を待っていても大丈夫ではないですか?」と言っても文句を言われる。理屈じゃないから仕方がない。

どうでもいいや・・・

文句言われるのも仕事のうちだ。

テレビのインタビューで、香港のホテルに缶詰にされている外国人が、「ロビーに2分座っていただけで隔離されている」と文句を言っていたけど、わたし的には運が悪かったとしか言えない。新型インフルエンザの恐怖は香港が一番よく知っているかもしれない。

そうやって考えると、腹が立っているのは本当はわたしではなく、他人であり、その怒りが向けられるから自分が怒っているような気がしているだけなのかも。あっちもこっちもアンラッキーな人たちがいて、文句ばかり。そういうのは神さまに文句を言ったらいいと思う。でも、神さまには感謝して、わたしには文句を言う、というのはどうなんだろう?

あほらしくて、やってらんない。

そーゆーことか。

あほらしくてやってらんない人たちに、カトリックがどうたらこうたら言われて、フツフツしているのかもしれない。

「あなたたちの神さまに言いなさいよ」と言いたいのだけど、同じ神さまなのか?

本当に?

一つ気がついたのは、やっぱり宗教が違うと、同じ神さまでも違う神さまのようで、わたし的にはこのところせっせと聖書を読んでいる。やっとエゼキエル。偶像崇拝とかエルサレムの滅亡とかメシアのこととか。

ネットでイスラエル旅行記を検索して読んでいるのだけど、ガリラヤ湖の魚はまずそうだし、遊覧船はアラブの曲ががんがんに流され、金色のドームや嘆きの壁やさまざまな教会が密集しているのを見ると、何となく今のわたしの混沌とした精神状態そのもののような気がしてくる。

苛苛する。

人それぞれなんでしょうけど、なんでガリラヤ湖でアラブ民謡ががんがんに流れているのかわからん。わたしはあの手のサウンドは好きなんだけど、どうも無神経な気がして苛苛してくる。

受洗の前まではまるで気にならなかったのに、近頃、苛苛する。逆に、宗教というのを醒めた目線で眺めるようになってしまった気がする。受洗の前に神父さんが、宗教というのは服を着替えるようなものだと言っていたのを思い出す。

台湾人の先生が日本国籍を取り、日本人になった。Mさんは盛んにフィリピン人のことをバカにするのだが、日本語も話せないようなあのご主人が日本人になることはないだろうと思う。でも、日本がアメリカの植民地になっていたら、日本人はアメリカ国籍になっていたのだろうか。

エゼキエルを読みながら、母国を失ったユダヤ人たちが再びイスラエルを建国し、そして今の状態。

今の状況ってどういうことなのかと、”沈黙する神”の意味が少し理解できる反面、どういうことなのかしらんと、再び考えるのであった。

(エレミヤ 1. 14-15)

投稿者 Blue Wind : 03:31 AM | コメント (0) | トラックバック