July 14, 2015

十字架を背負う

今って、イエスさまの時代と変わらない気がする。
権威主義的で誰も何も言えず、司祭が牛にひかれていて。
ほんで、信徒には十字架を担げと言いながら、司祭は担がない。

人間なんていつの時代も変わらない。(←座右の銘なの。そしたら、ルドさんに旧約を読めと言われた(ような気がした)。まあ、旧約の時代よりも今のほうがましなんでしょうけど)

やっぱ、修道院になんて入らなくて正解だったかも。それに、なんか、言いたくないけど(いや言ってはいけないかもしれないけど)、世俗的だよね。
決まりだけ守っていてもダメってことだと思うけど。
よいこの良子は函館のトラピスト(男子)はすがすがしいけど、女子は世俗的だと言っていた。(友人の姉がお暮らしですけど)
だからといって、なんであたしがいろいろ言われないとあかんのか。
今は、しらいしはおじょーさまだからで終わってるらしい。なんかね・・・そんなものかも。

(詩編73. 7-20)

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ある日の休日にて

せっかくの休日だというのに(暑いからお出かけがつらいのだけど)、教会のためにご奉仕して、あれこれ言われて・・・
H神父様には個人的には何もないような気がするのだけど、やっぱり自分はフィリピーナといちゃいちゃしているくせに、
私がYさんと密談をしているくらいで、何を慌ててるの?
でしょ?
私の強みは、親から甘やかされたせいか(深くは語りたくない)、恋愛感情というものがなかなか持てない。
その素直な目でみると、大いに変なことだらけ。
だいたい、どーやって考えても、W神父様がきてからなのですわ。
信徒の常識からすると、神父様はそういう対象にはならないし、世の中にはいくらでも素敵な方がいるので、
なんでわざわざ?
ってことは、素直に考えて、修道系はドロドロしてるってことなのね・・・
いい加減にしてほしい。
シスターYは笑いのツボが似ていたため、というか、最初は用心深そうな目をしていたけど、ははんと思いましが、無視。
教会ですよ?
教会。
私たちの聖地。
アットホーム・・・
怪しい。
狭いから、そーなのかもしれないが。
そんなところにいたら、頭が変になりそうだ。
変なシスターいたし・・・(気のせいかもしれないけど)
なんかね・・・大いに変だ。
神さま、ありがとう。
そーいう世界から救ってくれて。
あなたはわたしの神。
という気がしました。

(ヨシュア 15. 55)

投稿者 Blue Wind : 02:15 PM | コメント (0) | トラックバック

July 02, 2015

書いてはいけないこと

神父様へ

とにかく書かせてください。書いてはいけないかと思うけど、書かずにはいられない。

私、あいつ、大嫌いです。ヘビみたい。
私たちを不正な富を持つものと勝手に決めつけて、自分は売春婦とべたべたべたべた。
私たちから取り上げたものをあの人たちに渡してよいひとぶってる。
ミサは手抜き。朗読箇所も勝手にはしょる。
その他諸々。
あんな人から名前もらうから変になったのではないかと思うくらい、あいつが嫌い。
私が教会内である人と話をしていたら、たまたま二人きりだったので、あいつが慌てたように飛び込んできた。
でも、私たち、お墓の話をしていただけですよ?
そのご夫婦と同じ場所にお墓を買おうかと思って、相談していたんです。
ばかばかしい。
地震がこわくてみんながたいへんなのをわかっていて司祭館を建てるといいだし、さっさと自分はフィリピンへ。
自分のことしか考えない。
フィリピンへの支援のときにも、こどもたちに神さまへの感謝の手紙を書かせていた。
ものすごい違和感。
お金を出している人たちには感謝せず、神さまに感謝しろってか?
あほらしい。
お金はお金です。
神さまはお金は要りません。
どーでもいいけど、むかっぱらぱら。
私、心の底から、あいつ、軽蔑してるのかも。
さいあく。

罪深い信徒より

(ヨハネ 5. 31-32)

投稿者 Blue Wind : 08:32 AM | コメント (0) | トラックバック

May 28, 2009

高い山

高い山が二つありました

山はとても美しく、わたしはほかの山を見ながら山の麓に佇んでいました

あなたは信仰心があれば、山だって動くと言いました

ならばわたしの登る山を一つにしてください




空が二つありました

一つには月、一つには太陽がありました

夜と昼はともに存在し、空はとても広いのだと思いました

でも、二つの空が一つになると

月はとても大きくみえ、それでいて写真には写らないほど小さな月だと気がつきました

空がとても広いからです




山の上の空はとても広いのです

麓からみる空はとても狭くみえました

でも、山の上の空はとても広いのです

山はわたしを空には連れて行ってくれません

空はとても広いからです

山は狭くなり空は広くなり

山が動いても空は動きません




空は動きません

だから山にも登りたくない

というのは、わたしの我が儘でしょうか





(歴代誌下 26. 16-21)

投稿者 Blue Wind : 03:44 AM | コメント (0) | トラックバック

January 07, 2006

澄みわたる日に

澄みわたる日に

澄みとおる日に

澄みとおった日に


ある晴れた日に

ある晴れきった日に

ある晴れわたる日に


澄みわたった日に

****

ツボヤキさんの『On a Clear Day』 という映画の紹介記事を読みながら。
映画のタイトルって面白いです。
一言で言っちまえ、っていつも思うんです。
その一言が、ある。

投稿者 Blue Wind : 02:42 AM | コメント (0) | トラックバック

January 24, 2005

誰かが何とかしてくれるのではないか。
ありふれた人生。
そういうひねもす。

天使も羽を一枚一枚配っているよ。そして飛べなくなった。

それでもわたしは神を愛す。

投稿者 Blue Wind : 11:55 PM | コメント (0) | トラックバック

April 30, 2004

憐れみ

貪欲に忌まわしい者たちは
まるで子どもが貯めた小遣いすら奪い取るように
それが当然の権利のようにやって来る。
もはやそこには憐れみもない。
わずかな憐れみでもあれば
愛に飢えたる者は
地獄の底からやって来る。
地獄からの来客を微笑んで迎えろというのだろうか?
それがみこころだと彼らは言う。
サタンを微笑んで歓迎し
僅かなる憐れみを差し出すことが愛だと言う。
貪欲に愛に飢えたる者は
わたしがそのような申し出を断ると
神を嘲った。
神が見捨てたと言う。
サタン。
貪欲に愛を求める者たちを拒むことが
すでにみこころに適っていないと
サタンは責める。
ならば言おう。
どうして、ジーザスに言わない?
彼ならいくらで愛をくださるだろう。
なぜわたしのようなちっぽけな憐れみを
後生大事にしている者から
愛を求めようと言う?

詩篇 116. 8-11

投稿者 Blue Wind : 01:58 PM | コメント (0) | トラックバック

April 28, 2004

聖書

嵐の日。おそろしいほど歌を詠む。が、しかし、サイトに歌を上げない。
さくりふぃす、さくりふぃす、いる、・・・・・・でうす。
人と人との対立は人と人との対立であり、嵐の日には沈黙し、来客を迎える。
マホメッドかジーザスかなどというお話は、歌詠みにはまるで関係のない話である。
誰に信仰心があろうとなかろうと、わたしには何の関係もない話なのである。

あっさり語れば、聖人というのは純水にして神さまが選んだ人たちのことであり、信仰心というのはある日突然降ってくる雨のようなもの。

どんな教会もお寺も、海の十字架ほどの感動を与えてはくれない。
どんな俗物でも、赤道に沈む夕陽を眺めたら、感動を覚えずにはいられない。
信仰も、希望も、愛も、天然のままに横たわる。
ミチュアミおばさんも旅行者もサーファーもおとなも子どもも世界中から来た人も地元も人も人種、国籍、宗教、関係ない。
一瞬にして、そういうサンクチュアリーに出会えた人たちは幸せなのかも。

それでいて、あのレーサーのような道路、喧騒、コレラ、退廃。
それでいて、善良で素朴な人たち。信仰。嫉妬、助け合い、美しい田園。レストラン、暴利。
それでも、太陽は怒らない。壮大。
それでいて、星である以上、いつかは終わりの日はやって来る。
宇宙という真白い靄の世界で、どうやって生きろというのだろう?
意は意のままにある沈黙の意。

浜辺の屋台の前で喧嘩しているというのが人間なんだろう。
同じような屋台で同じような材料、同じ浜。それでいて味も値段も人次第。旅行者は迷う。
落陽を見るだけならタダなんだけど、どうもそういう風にはいかないように建物が並んでいる。
足もなくなる、治安も悪い。地元の人たちはどこからともなく集まって来るけど。
このように海の十字架の話から遠ざかり、バリ島にはすべてがあることがわかる。
それでいて年に数回と言われている本当に落陽の美しい日に出会うために足しげく通う人たちもいる。なのに、めぐりあえず、それでいて偶然により出会う人たちもいる。

無理無理。皆、それぞれに生活があり忙しい。毎日ビーチに座っていられるというのは限られた人たちであり、海の十字架が美しいからといってそればかりは眺めてはいられない。興味のない人たちも多いだろうし、どうしても見なければならないというものでもない。見たほうも見たからといってそれにどんな値打ちがあるのかもわからない。

それでいて、海の十字架は無条件に美しい。あれを見て感動しない人はいないだろう。運命なんだな・・・運命。だから、わかりにくくわかりやすい。
もっとあっさり語れば、海の十字架は宗教とは何の関係もない話である。それでいて感動を教えてくれる。

コヘレトの言葉 9. 13-15

投稿者 Blue Wind : 02:38 PM | コメント (0) | トラックバック

February 06, 2004

よく知っている曲なのに

今日はとても歌いたい
小鳥のやうに
自由な歌を
からからとのどを鳴らして歌いたい

吐き出す音は
シガーの煙ではなく
からからと啼く小鳥声

体を伝わるあたしの声
のどを伝わり
耳を伝わり
あたしは
聞こえない
でも聞こえるあたしの声

息は震える
のどにも頭にも耳にも鼻にも
息は伝わる
響き

ポルトガル語
よく知っている曲なのに
意味は知らない
ボサノバ
歌えない

投稿者 Blue Wind : 02:50 AM | コメント (0)

December 31, 2003

幸せなことに

不幸という名の海原へ

さあ 行こう

悲しみという名の海原へ

鳥のように羽ばたく?

それとも黙って眺めているだけ?

流した涙の海原は

果てしないほど広い

闇はその広さを隠す

光溢れた輝く世界

それが不幸の海原

幸せなことに

泣いても泣いても涙は水滴

不幸の海原は広い

自分の涙で満たすことはできない

幸せなことに


________________

2001年に書いた古い詩。
詩だとどうして大袈裟になってしまうのだろう。
というか、この頃は短歌も大袈裟だったかもしれない。

最後の『幸せなことに』というフレーズは要らない気がするのだけれど、なければないで何となく言い足りない。
57577の、575が大半で、77の部分が『幸せなことに』という結語だけになってしまっているような・・・

投稿者 Blue Wind : 02:57 PM | コメント (0)

December 28, 2003

中也と昼夜と宇宙 --- 愛こそすべて ---

愛こそすべてなすがままに
時を自由に刻みしは全知全能の神なれど
そは不可能と知りつつも
誰しも戸惑う夕暮れに虹はそよぎて風となり
風は今日も叫ばん 

誰がための愛なのか
汝多くを語るまじ
汝多くを語るまじ

愛こそすべてなるがままに
我が身燃ゆるぞ苦しみに永久の怒りに身を委ね
遥か通いし遠き道
誰しも嘆く悲しみに戦いは遥かなり
風は今日も忘られん

誰がための愛なのか
風は叫びて木霊する
風は叫びて我を呼ぶ

風の叫びに応えてか聖心なるまま風はなぎ
共にそよぎて虹となり
光で闇を包むため
愛はやがて慰めとなり夕暮れの中
落ち日は輝き夜は暮れ
星は遥か傍にあらん

__________________

これは、『愛はすべてを征服する』というラテン語にインスパイアされて、発作的に書いてしまった詩です。

投稿者 Blue Wind : 03:50 PM | コメント (0)

November 15, 2003

やはりそれは間違つている
邪悪なものは邪悪ないきものであり
それを純粋などと呼んではいけないのである

  世にわざわひをもたらし
   自分が生きることしか考えぬ

そのやうな邪悪ないきものは
魔界の海へ沈めるべきであり
ただかなしむべきは
その毒の息により目を覚ましたるものたちのみ霊である

  やすらかに地の底に 海の底にねむれるものたちを
   どうして呼び戻すのだろう


人形つかいは呼び戻す
魔界の海から呼び戻す
メンフィスはメンフィスのままよこたわり
永遠によこたはる
すっくとよこたはる
それはただの石のかたまりだ
でも邪悪なものたちはおそれるだろう
ふたたびメンフィスの目覚めることを

  やすらかにすやすや眠る石のかたまりを
   呼び戻してはいけないのである
     
      それが魂といふものなのかもしれぬ
        せっかくしづかにねむれるものを・・・

____________

注) メンフィスとは架空の存在です。石をイメージしたら、そうなった。メンフィスの街をつくったイメージなのかもしれないし、メンヒルのイメージなのかもしれない。だから、タイトルは『石』。抽象概念的な石ですね・・・いわば。

投稿者 Blue Wind : 03:14 PM | コメント (0)