February 01, 2004

「やりなさい」(関西弁で・・)

おりしもバーチャルとはいえ、お年寄りの相手は大変だと思っているところに姑さんから電話が入る。大抵は、健康の話と近況と、今後の話などをする。未来の話はいつも同じだ。動けなくなったら、我が家のほうへ来る。そのためには銀行を移さないとダメだとか、下見をしたいとか、元気になって仕事をしたいとか、おなじみの話。説教の内容も同じだし、特別なことがないのが何よりだと思う。
こちらはそれなりにちょっとの間に話題が増える。娘の様子とか、インフルエンザの話とか、ダンナの健康や仕事の話など、それなりに変化がある。自分も短歌を詠み始めて、あれこれ活動が変化してきたことなどを話す。
そうすると、急に、彼女は元気になる。
自分もスペイン語を習ってとか、スイミングに行ってとか、あれこれ習い事をしたいとか、いろいろ思うらしい。自分などからすると、優雅に生活しているのだから、何が不満かわからないのだけれど、結局はあまりすることもなく、同世代でもアクティブに活動している人たちを羨ましく思うらしい。若いうちに何か資格を取っておけばよかったとか、死ぬまで何か仕事をしたいとか、大抵は同じ話。
まあ、こんな時代ですから、資格があったとて、70歳を過ぎた女性にお仕事があるとは思えないし、資格がなくても絵や習字や料理を教えるとか、自宅でできるようなことはたくさんあるのでしょうけど、自分が習っているほうが気楽らしい。つまりは、本気じゃないんだよね・・・でも、何かそうやって言うことに意義があるのかもしれない。
今の彼女の仕事は、自分の健康管理。自分で自分を生かすこと。これが簡単なようでいて、実は簡単ではないのかもしれないし、少し不安になったりすると、不意に電話がかかってきたりするのだろう・・・
要するに、サポートなんだろうな・・・「いつでも倒れていいよ」と言ってある。そうなったら、こちらで何とかすればよいだけだし、いつでも手配できるようになっている。不測の事態は予想するのは無理だ。でも、予定としてなら、具体的にこうしてああしてなどを決めておく。母の時を入れると、自分はすでに2度目だから、さほど驚くこともない。

でもさ、批判的に言うわけではないけど、「どうしてそういう簡単なことができないのだろう?」と、バーチャル老人本舗に対して思ったりする。つまりはね・・・一日中することがないから、ストレス発散で、わざと他人を怒らせるような狼藉ばかりを働いている年寄りがいたとして、基本的にネットは若い人たちが多いから、公平なんだよね・・・扱いが。もし若い人たちがそういうことをすれば大変なことになる。それこそ警察・弁護士、あれにこれにと大変なことになる様子を観察しているうちに、すでにこれは一種の「ぼけ老人をどうするか?」という問題にも近く、それでいてネットができる程度には元気なのだから、それはそれで喜ぶべきか悲しむべきか・・・
で、怒っている人たちが一番怒っている点は、「どうして家族がそれを放置しておくのか?」という点らしい。そりゃそうだよね。自分には自分の親がいるし、まったく知らない年寄りの相手を一日中させられていたらかなわない。むりむり。
本当にぼけたら施設とか、病院とか?
でも、あの程度ではむりだ。しかも、家族はそれどころではない。
それと、相手にしていると、自分のほうが精神的にダウンしてしまう「何か」がある。
「何か」って何かって?
つまりは、夢も希望もない世界・・・・仕事もない、やることもない、人生における孤独と絶望、不景気な社会への不満、その他諸々、プライベートなことまで含めるともっとあるのかもしれないけど、そういう苛立ちをネットに吐き出す。ああなると、ネカマでもいいらしい。要するに、バーチャルの世界でネット人格をつくり、その世界で若い姉ちゃんと遊ぶとか・・・・もう、考えただけで哀れな気がするのだけど、それでいてしつこいといっては嫌われ、この上なく惨めな汚臭をばらまくものだから、ますます嫌われる。
これが日本の経済大国を支えてきた世代の晩年なんだろうか?
なんかね・・・

同世代でも似たようなものかも。もう、同い年なのに、燃え尽き症候群なんだって。やることはたくさんあるのだろうけど、なまじかスポーツ選手だったりすると、現役の引退が早いから尚更か?「オラオラオラ〜〜〜」って、ちょっと前ならあたしも蹴飛ばす元気があったかもしれないけど、今はそれどころではない。逆に自分のほうは短歌を詠み始めてから、これでもかこれでもかと勉強しなければならないことがあり、しかも活動範囲が広くなりつつある。グチに付き合うのは簡単なんだけど、自分がグチを言っている場合じゃないから。
うちのダンナなども、もうすでに上のほうなんだってさ。考えてみたら働き盛り世代だもんね・・・そうなると、なんていったらいいのかしら・・・やる気がないわけじゃないんだけど、テンションが下がるらしい。次第に保身に走る年頃なのかもしれない。娘が成長してしまったら、愕然と年寄りになってしまうだろう。
なんか、こうね・・・自分のやりたいことを犠牲にして、子育てをしてきた妻に対して、その分何か申し訳ない気持ちがあったのだと思うの、彼は。ところが、あたしってそういうやわな人ではないようで・・・今から研究へ戻るという話もちらほらあるのだけれど、実際問題、自分はその点に関してはすでに投げやり。気が乗らない。5年ほど前なら、「いつかは・・」みたいな気持ちで一杯だったこともあるけれど、とりあえず娘がのんびり屋ながらも順調に育ち、今の生活に不満があるわけでもないし、ネットを始めてさえ覚えることが多いし、あれにこれにやっていたらきりがない。しかも、短歌をやり始めてしまったら、これも一生ものだもの。なんせ、自分の年齢ではまだ若手の部類らしい。何十年も歌を詠んできた人たちの多さを考えると、それこそ死ぬまで続けても終わりのない世界。

姑さんとダラダラと張りのない会話しているうちに、突然、大声が耳元でする。なんて言ったのかと思ったら、「やりなさい」と関西弁のイントネーション。要するに、家庭を犠牲にしてでもやりたいことをやりなさいということらしい。
家で子育てしてきて、「子どもに裏切られた」というセリフを何度も聞かされてきた自分としては、気持ちがわからなくもない。裏切りではないと思うのよね・・・今の時代、親と同居しないほうが普通でしょ?特に都会なら・・・親の近所で暮らしていても、仕事や家庭のほうが大事とばかりに、親の世話どころではないのはどこも一緒だし・・・それでいて、姑さんとなるとずっと嫁さんしてきて、先代の姑さんの介護をつききりで5年くらいしてきて、そういうのが悔しくてたまらないらしい。そういう時間をもっと自分のために使いたかったのかもしれないし、生活には困らないけど、人生には不自由しているのかも。
もっと評価するべきなんだろうか?
自分などより遥かに綺麗好きで家事も料理も上手だし、いつもおしゃれにしている。簡単な家事なら今でもお手伝いさんが来てしてくれる。近所に娘夫婦が住んでいるのだから、どうしてもということになれば、飛んできてくれるだろう。しかも、いざ倒れたら、こちらで面倒みますって息子も言ってるし、何の不安もないではないか。絵に描いたような主婦の王道のような気がするけど。
なのに、「やりなさい」という大声。

投稿者 Blue Wind : 02:20 AM | コメント (0)

January 31, 2004

猫のままでいたい

自分では、こういう下品なトーンが気に入っている。何をもってして下品かというと、うまく説明できないけれども、わざとくだけた調子で文章を進めていく。自分を称して、「あたし」と書いたり、男言葉を使ったり、何を言われても知らん顔して続ける。実際には来訪者がどういう風に思うかはわからないし、リアルな来訪者があっても気にしない。
つまりは、書きたいことを書くというのはストレス発散であり、そのためにサイトをつくったような気がするくらいだから。つまりは、自分のサイトくらい自分の書きたいことを自由に書きたいでしょ? 自分や自分の家族や知り合いのことなどを考えてもさほど気にしない。世の中にはそれくらいの自由というものがあってもよいような気がするからだ。

ところが、自分が大学に在学中だったら、まったなしに退学になっている可能性があるくらいきわどい。まあ、退学になることはないかもしれないけど、注意を受けても仕方がない。
というわけで、この調子で神父さんのコミュニティに投稿していたら、来訪者からお叱りを受けたことがある。神父さんは何もおっしゃらないけれども、いささか反省し、なるべく下品なトーンの投稿は控えている。内容の問題ではなく、トーンなのだと思う。自分を「あたし」と呼ぶか、「私」と呼ぶかでは文章の調子も違うし、普通に書こうと思えば書けるし、何も注意されるのがわかっていてまで自分を主張しなければならないような問題とも思えない。もちろんシモネタも避けるべきでしょうし、批判的な内容も避けるべきなのかもしれない。

未来短歌会に入会したら、加藤治郎さんからメールが届いた。驚いたけれども、ネットを通したやりとりというものに力を注いでいるのだろうということで、のらくらお返事を書く。さらに速攻で、「彗星」という加藤グループと呼べばよいのかもしれないけれども、そこに誘われた。
未来へ入ったのは、岡井さんのファンだったからで、以前から塔短歌会のほうへも入っているけれどもいまだに選者が決まらない。今度は岡井さんのところへ素直に送ろうと思ったら加藤さんからお誘いをいただく。加藤さんは岡井さんのお弟子さんなので、そういう意味では矛盾しないのかもしれない。
こういうのは大学と同じで、単に講義に出席するのであればどんな先生でもかまわない。でも、一緒に活動するとなると若干事情が異なる。
自分は極めて好き嫌いがはっきりしており、気難しいところがある。だから、どんな先生でもかまわないというわけにはいかない。大学院を受験した時も、指導教官をあらかじめ決めていずに合格したので、入ってから事情がわからず苦労した。つまり、のらくらと三人くらいの教授のところをさまよい、最終的になぜか社会心理学の先生のところで知覚・認知を研究することになってしまった。専門や研究テーマで指導教官が決まったというより、母校の恩師と一年違いの先輩・後輩ということで決まったらしく、実質二つの大学で指導を受けることになる。
どうしてそういうややこしいことになったかというと、当時はまだ自分の専攻する学科が母校の大学院の研究科になかったからであり、他大学を受験しなければならない。それでいて、合格したものの自分を指導してくれる専門の先生がいなかったので、研究テーマを変えたくなかった自分としてはのらくらとするほかなかったとしか言いようがない。だから、母校の教授の指導を受けながら、大学院でも指導教官の指導を受けなければならない。となるとね・・・最終的にはボスが二人いるわけだから、ボス同士の兼ね合いということだったんだろうな。

なんで急にそういうややこしいことを思い出したかというと、「超結社」、「インターネット」ということなのですよ。結社が違えば雰囲気も違うし、選者が違えば流れが違う。単に雑誌購読という意味合いで複数の結社に入会することを考えるとさほど悩む必要性もないような気がする。でも、この世界は意外とというか、意外ではなく、所属結社というのが大切になるのかもしれないし、歌壇や結社の事情に詳しくない自分としては迷うことしきり。
大袈裟に考えすぎなのかもしれないし、旧弊な社会というものを理解している自分としては、慎重になってしまう。しかも、自分は気難しい。軽いのに気難しい。愛想がよいのに気難しい。猫にも似た気難しさがある。

修道院でも猫ならいいのよね・・・
猫にいちいちうるさく言っても無意味だろう。
ところが人間というのはややこしくて、おミサに参加するくらいなら問題はないかもしれないけど、受洗となると死に際に誰かがやってくれないかなとかそういう風になってしまう。
人間に戻るとなると服も選ばなければならない、言葉遣いも気にしなければならない、あれにこれにと気を使わなければならない。それが人の道のような気もするけど。
娘も急に顔が細長くなってきたりして、そろそろお姉さんだもの。母がこういう調子でよいのだろうか?でも、一気に雰囲気が変わってくる。サルだけど、親が心配するほどサルではないのかもしれない。ちょっと見るとおとなしくて上品そうな顔立ちをしている。いつのまに変わったのだろう?赤ちゃんではないのだから・・・おそらくは年頃になると一気に変わるのだろう。あたしのジャケットを着せたら自分そっくり。

自分。
自分らしさって何なのだろう?
素直に現代短歌を詠みたい。それでいて、古来からのトーンも嫌いではない。派手な歌よりも、本当はささやかなる日常のほうがほんわかしていて好き。それでいてポンと出てくる概念歌。あまりにも大袈裟。大袈裟だけど、それもまた自分だ。

投稿者 Blue Wind : 02:09 AM | コメント (0)

January 24, 2004

解放されてしまった後の女の歌

「短歌とは何か?」と定義しようとするからややこしくなるわけで、「作歌とは何か?」と定義すれば案外簡単かもしれない。つまりは、作歌とは、『さりげない日常にドラマを発見する行為』。
今まで写実がどうたらこうたら、生活臭がどうたらこうたらなど、いろいろな人たちがいろいろなことを語るためにばらばらにされた断片を拾い集めるのに苦労したけれど、結局は、そういうことなのだと思った。短歌とはさりげない日常に発見するドラマのことであり、それを57577の形でつぶやく。それだけ。
これが明治天皇の場合、9万首の御歌のうち、ほとんどが国の繁栄とか国民の安全などを祈願するような御歌がほとんどだし、それを毎日何十首もお詠みになっていたわけだから、それもまたいわば仕事のような生活のような、自分とは生活が違うというだけで歌を定義してはならないのだと気づく。そのような生活がさりげないかどうかはともかく・・・

さりげない日常の中に、花も空も雲も人もある。だから、なんでもありいなんでしょうし、それでいて虚偽を嫌う。つまりは、自分史というものにこだわるのは、それが文学だからなのだそう。文学というより民俗学ではないかと思ったりするけど、生きた証を歌にのこす。時代にこだわる人たちが多いのも、そういうことらしい。

桑原武夫の『第二芸術論』がなかったら、短歌や俳句は逆にすたれてしまったかもしれない。前衛短歌という言葉もニューウェーブも今ではすっかり古臭いらしいし、そうなると万葉集はなんなんだと言いたいのだけれど、要するにセカンドアートと言われてむっかーっとした人たちに支えられて、この古めかしい世界が少しばかり変化したのも事実なのかもしれないし、それでいて未だに旧弊なイメージがあり、事実、どこか旧弊であり、短歌は文学であるという使命感により結束している人たちも多い。
文学をするのに、どうして集団とならなければならないのか、そこがまた不思議なんだけど、自分のようなにわか歌人にとっては、どうもほかの人たちとはたどる道筋の順番が異なり、しかも、自分のたどる道筋は今は決してめずらしい姿ではなく、昨日などは『青空文庫』を紐解いて、与謝野晶子の著作を眺めてみれば、日本という国はちょっと前まではたしかにこういうことを訴えなければならない国であったことを不意に思い出す。
「詩歌って男の世界だったのね〜♪」なーんてね・・・・
インターネットで中学生や高校生の恋の詩などを読んでいたりすると、こういうのはいわば女性趣味であり、女性が詩を書いたり歌を詠んだりすることは違和感もなく、女流作家などは驚くに値しない。
が、しかし・・・・・ちょっと前までこれだもの・・・・・・『「女らしさ」とは何か』
時代は与謝野晶子が予言したとおり進んでいる。女性解放運動というか、そこから始まったウェーブは自分で帰着しているような気がした。つまりは、あたしは参政権もあるし、学歴もある。でも、家でぼっけーっとしているほうが好きだ。自分の母親のように、ガツガツ仕事をしようとは思わない。歌など詠んでいても儲からない。サイトをつくっても儲からない。でも面白い。学歴があっていまだに無資格。就職したことがない。かといってフリーターと呼ばれたこともない。(わるい?)

娘の友達のお母さんなどと話すと面白い。彼女のように頭がよいと、最初から、「役人と結婚するより自分で役人になれ」と教育される。そうでなければ自己実現したことにはならないらしい。つまりは自分で何か職業を持ち、生きる。
自分などからすれば、こういうのはいわばそういう社会の流れがあり、思想や教育の一つの形でしかないと思うのだけれど、一般的に今の社会はこういう風潮が主流だろう。自分のように、最初からしなくてもすむ苦労はしない主義という環境の中で教育されると、まったく逆だから、もしかすると出身学校により人生観すら違うのだと不意に気づく。
それと、発展途上国だと、いまだに女の子は学校へは行かせてもらえないとかね・・・そういうのが普通だったりすると、どうして男の子だけにしか教育を受けさせてもらえないのかと思うと不公平な気がするけど。かといって、自分のように教育だけあっても、単に家で子育てをしているだけでは金をかけた意味はたしかに無いのかもしれない。かといって、無理に働いて、ぼこぼこにいじめられてもつまらないではないか・・・

しかも、歌壇の面白いのは、社会人と歌人とは違うらしい。短歌で食べているのであれば、それこそ職業歌人と呼ぶべきなのだろうか?
ヘンな社会。
まあ、ほとんどの人たちが職業は職業として別にあり、短歌は生活の糧を得る手段ではないために、「プロの歌人」という人たちが存在しているほうが奇異なのかもしれない。

本題だ。つまりは、ここはすごく重要なのだと思った。歌のパターンにも実は2通りある気がした。どういう歌が秀歌かどうかはほかのもっと詳しい人たちにお尋ねするとして、好みの問題として、役割を取り入れた歌とあくまでもそういう社会的な要素を排除した歌とは区分されなければならないような気がする。時事詠などはともかく、それ以外ではすごく自分というものにこだわるでしょ?短歌は。その自分の中に文学性を発見する。つまりはさりげない日常を客観視する。自分というものから離れて自分を眺めるというか、広い世界に重ねおくことにより解放される自己。でも、そういう中で、自分の担う社会的役割を歌にこめるか、それを外すかではまったく違う。ベクトルが違う。つまりは、純粋性を求めるならばあえて自分の役割・・・母、妻、その他諸々職業的バイアスなどを取り払うべきであり、それでいてそういうバイアスのある視点もヤギアイスのようで面白く、どこからどこまでが自己であるのか、その定義すら意識したこともなく、自分をアイデンティファイするものをどこにおき、おかないのかも人それぞれだから、おのずと自分を詠めなどと言われれば、その辺の意識の違いが発生する。

たとえば、女性解放などを詠いたい人からすれば、そのような視点から詠むほうが魅力的なんでしょうし、ジェンダーを訴えたいのであればさりげなくセクハラを盛り込んでしまうとか、ちょっとした日常。わずらわしい雑事から解放されたいのであれば、それこそ自然の美しさなどを詠うほうが楽しいのかもしれないし、日常といえばそれこそ家庭の話しかないというのもこれまた一つの日常だし、今さらながらに考える日常。
あたしとしては、日常などというものにはドラマなどないほうが幸せだと思うんだけど、どうなんだろう。ホーム・ドラマというジャンルもあるくらいだし・・・次第にババアになってゆくあたし・・・そんな歌のどこが面白いのかわからないけど、まあ、歌にもいろいろあるし、ドラマにもいろいろあるし、なんでもありいだから困ると思う今日この頃。果てしなき世界。

投稿者 Blue Wind : 10:56 AM | コメント (0)

January 18, 2004

ヤギアイスをバーボンに入れるべきか、うだうだ悩むという人の歌は・・・

直情型の歌人というのは意外に少ないことに気が付く。それこそ石川啄木ではないけれども、個人の内声をそのまま歌にしてしまうというような歌人は少ない。

この前からあたしが考えているのは、歌はヤギアイスくらいがちょうどよいのではないかということで、いきなり「ヤギアイスをバーボンに入れると美味しいぞ」などと言われて、それを実行しようかどうか迷っている。つまりは、自分はヤギアイスは好きだけれども、ヤギアイスをバーボンに落としたことはないわけで、それを実行しないということは自分が単にうだうだしているということであり、自分がやってみよーと思ったら速攻で実行するだろうけど、果たしてそこまでの好奇心を自分がヤギアイス入りのバーボンに持っているかというと極めて懐疑的。

これがもし我が家の人たちだったらどうだろう?彼らならあっさり実行に移してしまっているだろう。ちょっと前にボーリングを始めたと思ったら、もう会員になってマイボールをつくっている人たちだ。その中で、そこまでの興味はないからと放置しているあたし・・・
ヤギアイスを食べるためには水戸まで行かなければならない。高速道路を使って約1時間くらいのところに怪獣公園と呼ばれる公園がある。怪獣のオブジェが子どもの遊び場となっており、山全体がそのようなオブジェで構成されている。
その中にオブジェとは無関係に山の傾斜を利用した天然の滑り台というか、夏のプールの滑り台のようにひたすら長いスロープを子どもたちがダンボールを下敷きにしながら滑っている場所がある。実は、それがうちの娘のお気に入りで、幼稚園の頃に無理やり親が乗りたいからという理由でディズニーランドでスペースマウンテンのような激しい乗り物に乗せてしまったために、娘はすっかり遊園地が嫌いになってしまった。その代わりというわけではないけれども、地元の子がダンボールで手作りした下敷きで滑るのを見て、家で娘がせっせとダンボールに描いて滑るためだけに行く。幼稚園の頃には毎週のように行っていることもあった。
そこのレストハウスにヤギアイスが売っている。ヤギ小屋があって、そこで絞ったお乳でアイスやチーズをつくって販売している。アイスといってもソフトクリームで、普通のバニラアイスとどこが違うのかと言われれば、微かにクセがあるとしか語れない。何も言われなければ、それがヤギの乳で出来ているとは気が付かないのではないかと思うくらいの軽いクセだ。それが何となく1度食べるとクセになる。普通のソフトクリームも好きだけど、それに独特のクセが加わり面白い。毎日食べたいような代物とは思えないけど、真夏の暑い日などに不意に食べたくなるような味。
その話をしたら、今度はそれをバーボンに入れろという・・・ 確かに合いそうな気がする。普通のアイスではなく、微かにクセのあるアイスを香りのきつい甘めのバーボンに落とす。考えただけで美味しそう。問題は、今、あたしはお酒をまったく飲まなくなってしまったということと、水戸のレストハウスで駐車場に車に停めヤギアイス入りのバーボンをちびりちびりとやっていたら、どう考えてもヘンなやつのような気がしてしまう。うちのダンナなら平気でやりそうな気がするけど、平凡な主婦であるあたしには、どうもそこまでのことをのん兵衛のダンナに説明し、彼にシラフで運転させ、なおかつ一人で飲むというのはいささかかったるさを覚えてしまう。それに娘も大きくなったので、今ではめったに怪獣公園には行かなくなってしまっている。

そういう自分のうだうだしたところを跳ね返すように、直情型の歌はすっきりしていていいなあと思ってしまう。福島久男さんの歌などはそんな感じ。

秀才といはれし友が暗がりの酒場でわれの名刺裂きゆく
我は誰の生まれ変りぞ大陸の荒野さまよふ夢にうなさる
革命も維新も起きぬ世となりて消費税を我も払へり
わが祖父を焼きたる炎ぶすぶすと遠き湾岸で今燃えてゐる
空襲にて死にたる祖父のからつぽの墓にからから骨の音鳴る
(福島久男さんの歌)

直情型であり、かつロマンチストらしい。言い換えれば、直情型はロマンチストなのかもしれないけど。

人生は無いものねだりはいけないと思いつつ、ひねもすをぼっけーっとうだうだつまらないことを考え、それが飽和した瞬間不意に言葉になるには、どうも直情型とは別のベクトルが作用しているような気がしてしまう。

投稿者 Blue Wind : 06:54 AM | コメント (0)

January 17, 2004

巨大なジグソーパズル

魂の入った文章を文字に表すことは難しい。単なる記述であれば規則による言語の羅列があり、例えば、機械語はそれこそ記号が1つ抜けただけですべてが動かなくなるという恐ろしさがある代わりに正確に羅列すればその通りに実行してくれる。画像を貼るにはこれ、ハイパーリンクを貼るにはこれ、という具合に極めて余分な要素はなく、換言することなどほとんど不可能だ。HTMLで書かないでスタイルシートを使うくらいの言い換えだろうか。実際のところ機械と話すには言葉を知らなさすぎるために多くの会話は望めない。

それに比べて、短歌を英訳するとか、ユゴーを和訳するとなるとそれこそ地獄の苦しみだ。それでも、ジグソーパズルを解くようで面白い。言いたいことはわかる。でも、それをどうやって日本語で、というよりも自分の少ないボキャブラリーで表現してよいのかわからない。短歌でも、口語訳ってなると、どうしてあんなにも言葉がたくさん必要になってしまうのだろうと思うくらいだ。つまりは、少ない言葉の中にたくさんの意味や情景や余韻が含まれているために、そのニュアンスを伝えようとすると、あまりにもたくさんの言葉が必要となり、それでいて何かを伝えきれていないもどかしさを感じることが多い。
ユゴーと遊んでいるうちに、あるいは、それを翻訳したハップグッドと遊んでいるのかもしれないし、微妙な言い回しが浮かばない。しかも案外手抜きのところは手抜きのために、誤訳も多い。1つの単語の中にいろいろな意味があるのだもの・・・日本語にすると。それを適切に著者の言いたいことを表現するというのは極めて困難。元々の言語や発想、語源などが共通していれば違うのかもしれないけど、とにかく共通性というものが少ないためにそれにふさわしい文字を探すのが大変。
というわけで、単なる序文なのに3日も費やしてしまった。
しかも・・・・
単なる目次を訳すのに、英和辞典2冊、仏和辞典、広辞苑。20年以上前に買ってお蔵入りしていた英和辞典が今頃少し役に立つとは。英和辞典は、センスだからね・・・言葉選びのセンス。だから、使う辞書によってまったく違った訳文が完成してしまう。自分との相性が大切なんでしょうし、『レ・ミゼラブル』の英訳だと、英語、フランス語、ラテン語を調べなければならなくなる。気のきいた言い回しとしてちょこっとラテン語が入っているだけでもこちらは七転八倒。インスピレーションが大切なのではないかと思ってしまう。

なんで突然こんなことを始めてしまったのかというと、まさにこれも流れの中の1つとしか語れない。短歌を詠み始めて、神父さんのサイトへ行き着いて、さらにあらし騒動にも巻き込まれ、気が付いたら今度は『レ・ミゼラブル』だという・・・
短歌にも機械にも興味がなく、神父さんの授業も忍者のように抜け出していた学生時代を振り返ると、21世紀になって以来どうも自分はヘンだという気がしてしまう。単に自分がババアになったのかもしれないし、それでいて『レ・ミゼラブル』は巨大なジグソーパズルのようで、これがまた面白い。小さなピースがピタっと巨大な絵の一部に納まったときの快感は説明の仕様がない。2,000ピースや4,000ピースではすでに物足りないからすっかりやめてしまっていた。ラッセンの青一面の世界なら楽しめそうだと思ったけど、思っていたほど難しくもなく、2枚くらい仕上げてやめてしまった。カラフルな魚の部分があまりにも簡単すぎたのかもしれない。

短歌もね・・・・なんでもありい、なんだよね。
つまりは、なんでもありいだからこそ大変なのだということに気が付いてしまったとたん、逆になんでもありいの部分を捨てたくなってしまう。かといって、今さら精神世界がどうたらこうたらとか、こころがどうたらこうたらなんて飽き飽きだ。そんなものは数字で並べて切って落としちまえとすら思ってしまう。数字で並べて切って落とせる部分はどんどん落とす。そして、残ったところがきっと魂。みんなが、こころこころと騒ぐこころは単なる物体だ。数値化して、故障したら薬で治す。でも、雰囲気とか気配とか、人格とか知性とか、つまりは数値化できそうでできない部分が魂。知性と知能はまったく違う。そういうすべてをトータルして人は人として存在しているんでしょうけど、精神は幻ではない。

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Les Miserables

『レ・ミゼラブル』

VOLUME I.

FANTINE.

第一巻 ファンティーヌ

PREFACE

序文


So long as there shall exist, by virtue of law and custom, decrees of
damnation pronounced by society, artificially creating hells amid

神さまのお定めになった人の運命を多少加味したとしても、
法や慣習によって、社会が誰かに言い渡す地獄へ落ちろという今畜生判決、
すなわち地球の文明の真っただ中に人工的に創り出される地獄があるかぎり、

the civilization of earth, and adding the element of human fate to
divine destiny; so long as the three great problems of the century--
the degradation of man through pauperism, the corruption of woman

あるいは貧困による男性の品位(品性)の低下、飢餓による女性の汚職(売春)、
希望の光の欠如による子どもの無力化(非行)といった
3つの世紀の大問題があるかぎり、

through hunger, the crippling of children through lack of light--
are unsolved; so long as social asphyxia is possible in any part

さらには世界のどこかで窒息しそうな社会が存在する可能性があるかぎり、

of the world;--in other words, and with a still wider significance,

少し意味を広げて言い換えれば、

so long as ignorance and poverty exist on earth, books of the nature
of Les Miserables cannot fail to be of use.

地球上に無知と貧困があるかぎり、
『レ・ミゼラブル』の著書の本質が役に立たなくなるということは決してないだろう。

HAUTEVILLE HOUSE, 1862.

オート村の家にて、1862年。

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今畜生判決という言葉を捜すのに3日もかかってしまった。
こう・・・・罵るような言い回しを探したんだけど、それに相当する言葉が日本語には見つからない。一語に含まれたニュアンスって意味はわかっても伝えるのが難しい。
それにしても、人によって訳すと全然違った文章に見えるから不思議。オリジナルの文章は同じなのに、訳す人次第でこんなにも違うのかと思ってしまいました。(余談)

投稿者 Blue Wind : 12:43 AM | コメント (0)

January 10, 2004

ぐちぐちぐちぐち・・・・・・・・・

うちの来訪者には何の関係もないと思いつつ、それでもグチを書く。誰も読まなくても書く。どうしてそれがグチなのかというと、もうインターネット・ジャンキーにはうんざりしているからである。

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先日、不意に電脳短歌イエローページに立ち寄り、リンクを頼んだ。これは一つには見知ったサイトが並んでいたからでもあるし、特に深い意味があったとは思えない。・・・・・・・・・・でも、問題が一つあった。そこの管理人さんが、あたしが『時空短歌』の管理人であると勘違いしていたからである。まあ、同人系の場合、複数の管理人がいることはめずらしくないし、あるBBSにはそういう風に(管理人が複数いますと)書いてあるし、ほかの来訪者のカキコにレスを書くこともあるし、そういう意味で誤解されても仕方がないのかもしれない。でも、交流系のウェブの場合、横レスというのは特にめずらしくもないし、それが当たり前というサイトも多い。だから、あまり深く考える必要はないのかもしれない。でも、真の問題はそういうことではなく、『時空短歌』がジャンキーの巣窟であるということ。(ジャンキーがどういうものかについては、別サイトを参照してほしい。心理系のウェブの管理人もしているので・・・)

一般的に短歌のサイトとは、実名、あるいはペンネーム、あるいはハンドル名だけの人もいるけど、基本的に自分の歌をアップしてあるものを指す。意外に、交流系のウェブは少ない。そういう中で、時空では結構たくさんの歌人の歌を集めてページを作製していたので、それなりに話題性があったのかも。ガイアックスのシステムを使っていたので、実際にはレスは同時に複数のサイトに反映されるために、公開メールと言われているし、自分のサイトにレスを書くと、自動的にカキコしてくれた人のサイトにも反映されるためにいちいち来訪してカキコする必要性がない。というわけで、その頃うちのサイトはカキコがたまっていて、一日中というわけではないけれど、それこそヒマさえあればレス書きに追われていたために、その中にたまたま短歌の交流というものがあり、短歌を自分のサイトの日記などに貼っていた。それにより、自分としては短歌のサイトの管理人をしているという自覚はなかったにもかかわらず、自動的に短歌のサイトと勘違いして来訪する人などもいたのかも、と、今では思っている。
でも、時空の真の狙いは、ウェブページを作製すること。つまりは、短歌である必要性がない。でも、交流という点で楽だから短歌だったのかもしれないし、そこのところはよくわからないけど、ガイアでサイトをつくっている人たちはタグのことも知らない人も多いので、そういう意味では高度なテクニックのあるページをつくってくれたら値打ちがあった。少なくても、何もないガイアックスのサイトの中で、それを貼ると立派なコンテンツにはなるし・・・それ以上に希薄なウェブの人間関係をリンクするものとして、存在意義があったのかも。

こうさ・・・・何かどこかが違う。人間関係を求めるならそれこそ習い事やボランティアへ行くとか、歌会へ参加してみるとか何かあるでしょ?近くで歌会が主催されていなければ、ウェブサイトを利用する。それはあまりにも自然なことであり、自分の場合は、まったくのにわか歌人で、最初は誰でもビギなんだから、自分のサイトでちょこちょこっと歌を詠んでいるとか、ハンドル名だけで投稿してみるとか、ごく自然なことだと思うの。で、そのうちにそれでは物足りなくなるから、お勉強のためにはどうしたらいいかな、という。
だから、カミングアウトというわけではないけれど、ウェブで詠んでいて、それが雑誌で入選して、そこから自分が特定される。そんなことを特に気にしたことはない。それよりも、「白石です」って言うと、「Rindoさんですね」というニュアンスのほうが、最初は酷く戸惑いがあったけれど、歌壇というのはそういう世界なのだと知るに連れて、さほど驚かなくなる。
つまりは、サイトに実名が掲載されていなくても歌を見れば誰かわかるし、結社誌などには名前や住所が掲載されているし、特に匿名というわけではない。実際、そういうことはあまり関係ないのかもしれないし、大騒ぎするほどのことでもない。だけど、ネットというのは特殊なところで、自分がどこの誰かを知られたくない、知られたら困るという人たちが案外たくさん存在している。そういう特殊なつながりご縁というものをこれまたネットを知らない人に語るのは難しい。
ネットでは相手がどんな人かわからない、何かを実証するのは困難、ネカマやネナベ、年齢や性別すら不明、親しいような気がするだけで実際にはどんな人なのかもわからないというケースもあるし、それを考えるとたしかに気持ち悪い。ちょっと親しくしているだけで、不倫だとか騒ぐバカもいるし、そういう点でジャンキーというのは始末に終えない。そういうわずらわしさを考えたら、たしかにプロフなどは伏せて、匿名に徹しているほうが簡単コミュニケーション。そういう風潮を否定するわけではないけれど、いざ自分が歌人として活動しようとする時、これが意外な落とし穴だったりして。
つまり、自分は自分であることを知っているために、自分とあの人はまったくの別人だと知っている。ところが、一人で複数のネット人格を構成している人も多いし、サイトの性質上便宜上まったく違うハンドル名などを使ってサイトを使い分けている人たちも多い。だから、後になって、あれは実は自分のサイトでしたというのは簡単なんだけど、あれは自分とはまったく関係のないサイトなんですと語るほうが遥かに大変だということに気が付いてしまった。これは由々しき問題かもしれない。なんせ、なりすましまで出現したわけだし、自分の知らないところで故意か否かは別として同じハンドル名を使っている人などもいる。プロフをアップすれば、それを嘘だという人もいるし、ジャンキーの磁場というのはどうにもならんほど屈折している。

まあ、他人がどのように自分のサイトを管理しようと自分には関係ないけれども、真似はしたくない。できればコミュニケーションもごく常識的なものであってほしいし、それでいてジャンキーの世界はいつもリアルだとかバーチャルだとかうるさい。でも、今まで女性の管理人だと思っていたら実は男性だったとか、その逆とか、パーソナリティも嘘っぱちだとすると、かなり裏切られた気持ちにはなる。だったら最初からサイバー上でコミュニケーションを形成しなければいいでしょ?
でも、まあ、人それぞれですし、あくまでも自分のグチなんでしょうね。ぐちぐちぐちぐち・・・・・・・

投稿者 Blue Wind : 12:13 PM | コメント (0)

きらりと

先日初めて題詠というものにチャレンジしてみたんだけど、これは自分の想像していた以上に難しかった。歌を詠むことはさほど難しいとは思わない。でも、その歌の中に、自分の着想やアイデアなどを試されているような気がして、何か面白い題材はないものかと思ってあれこれ考えたんだけど、「東」という言葉は、中東、東京、広東、東空など、単に地名や方角しか思い浮かばない。そして、その中に1首ですべてを説明しなければならないし、もっと時間をかけて、などと思っても自分の場合は気が短いのでその場で詠んでしまう。
ありふれたお題なら、あるいは自分が好んで使う言葉なら、過去歌を検索すればいくらでも出てくる。でも、歌としてなじみの無い言葉だったりすると、これがなかなか浮かばない。その場で浮かばないことが後になって浮かぶほど自分には時間があるわけでもなく、自分がいるわけでもないような気がするし、人間さばさばと諦めよく、潔く、さっぱりと投歌してしまいました。

きっと、こういうことが大切なのだと思ったけど・・・
同じお題でも、人によって歌がまったく違う。自分が悩んだ分、ほかの人の発想に感心したりして。自由に詠んだ歌を眺めるのも楽しいものだけれど、一つのテーマに統一されていると、さらにその歌人の歌の違いがわかっておもしろい。今まで、歌だけ眺めて、どうしてその歌がよいのかピンと来ない歌もある。でも、題詠だと発想の世界なのだという気がする。だから、何気ない風景を詠んだ歌でも、その人なりの発想や着想というものが自分との対比により浮かび上がる。自分と誰かを対比するという習慣はあまりないために、より自分を客観的に眺めるという点では、題詠は興味深い。

それとは別に歌枕。
どこかの土地について詠む。
というか、地名を入れて詠む。
これにもチャレンジしているのだけれど、これもどうなんだろう。自分の家の小さな庭を詠むことは比較的簡単だけど、地名を入れるとなると自分には平凡なイメージしか思い浮かばないような気がする。例えば、つくばならつくば、筑波山なら筑波山というように、その土地の風光明媚さを詠いたいものだけど、つくばといえば並木やロケット、研究所が真っ先に思い浮かんでしまうし、この無機質な街の体質をどうやって語ったらよいのかわからない。それでいて、古来より山は山だし、昔ながらの山も健在だし、自分は筑波山のことを「ふたこぶらくだ」と呼んでいるのだけど、果たしてふたこぶらくだが筑波山のことだと1首の中で説明するべきかどうかも迷う。もしかすると郷土愛が足りないのかも。

個性、個性と簡単に言うけれど、おそらくは個性というのが簡単ではないから、多くの人たちとの交流が大切なのかも。きらりと自分の詠いたい歌が自分でわかるようになると、後は芋づる式に自分が飛び出してくるかもしれない。鈴木重子でさえ、小野リサを意識したアルバムより、彼女らしさをアピールしたアルバムのほうがずっと素敵。でも、そこにたどり着くまでが大変。

よい歌の定義?
決まった。
より自分らしさのある歌。

投稿者 Blue Wind : 02:26 AM | コメント (0)

January 05, 2004

インターネット恋歌事情

それにしても恋歌が多い。ネットだとどうしてこんなに恋愛の詩や短歌、あるいは日記などが多いのだろう。不思議な気がするくらい連日してそういうのばかり眺めているうちに、まるで感性が麻痺してきてしまう自分が怖い。これではポルノ雑誌の記者がグラビアを眺めても単に人形の写真くらいにしか思わない(ほんと?)のに似ているような気がするくらいだ。一般的に、自分が来訪するようなサイトはアダルトやヘンな類のサイトは禁止しているところが多いし、りんど危うきに近寄らずではないけれども、とりあえず、安全地帯を徘徊している。(つもり) だから、ごく普通のそれこそ『サラダ記念日』系の歌を眺めていても、その数の多さに精神の麻痺を覚えてしまうのかもしれない。

雑誌や結社誌などを読んでいると、たまに、「実際には歌壇には恋歌は少ない」とか、「インターネット歌人は詠みすぎ」とか、「与謝野晶子は終わった」など、かなり辛らつなことを書いている記事も目立つ。恋愛でも不倫でもそういうネタで詠んでいたりすると、「そんなのはあんただけじゃないわよ」と思うらしい。
最初ね・・・それって少しオーバーじゃないかと思ったんだけど、このところあちこちを徘徊するうちに、次から次へと竹の子のように、詩や短歌のサイトというのは恋愛関係の戯言が多いことに気が付く。一つ二つ、あるいは自己イズムに浸って、ひたすら自分の世界へ埋没するためにサイトを構築するというスタンスに徹すれば他人のことなど気にはならないのかもしれないけれども、一般的に”動向”とか”傾向”というスタンスで全体を見渡すと、限りなく恋愛の匂いだけが充満してしまう。
恋歌は嫌いではない。そういうのにゆらゆらしているのは楽しい。
が、しかし・・・・・
ずっとそればかりとなると話は別。
たまに、空だの海だの花だのその他諸々うまく説明できないけど、もっとストレートな形ではなく、ほんわかしたような抽象概念世界へ埋没するような精神世界へたどりつくとホッとする。

もっとも10代や20代、はたまた今なお恋人を求めて徘徊している人たち、恋に悩んでいる人たちにとってはそういうせつない気持ちの共有というのはそれなりに楽しく、自分だってそういうはしかのような年頃を経てこのようなババアになってきたわけだからわからなくもない。でも、なんというか・・・・・飽きる。
そそ。飽きる。

恋愛ゲップ症候群ではないけれども、よく彼氏と付き合っているうちに倦怠期ではないけれども、何となく鮮度が落ちてしまったような感覚ってあるでしょ? それに近いような感覚をウェブに感じてしまっている。
鮮度の落ちない関係もあれば、たちまち色あせてしまう関係もあるし、どこにその違いがあるのだろうと思ったら、この濃厚さにあるような気がするくらいだ。
濃厚なら濃厚で、生きるの死ぬの、愛だの憎しみだの激しくやってほしいものだけど、どうもそこへ行き着く前にエネルギー切れしてしまうのか、それともそういう修羅場が人間の精神をずたぼろにしてしまい、せっかくうまくいっていた関係がすっかりダメになってしまうとか、どうもかったるさを感じてしまう。
他人の恋にかったるさを感じても自分は痛くも痒くもない。従って、ゲップ感が残る。
本人たちにしてみたら大変なことなのかもしれないけど、古今東西、繰り返されてきた縮図がそこに存在するわけで、そういうものを通過し、20年くらい同じ人間と付き合ってきている自分としては、飽きているような気がする。
もっと透き通るような恋愛ができないのかな・・・って。

自分とも長く付き合ってきているために、自分の心の形はそれなりに理解しているつもり。こういうことには怒るし、こういうことはうれしいし、こういうことはいや、とか、すごくカラーがはっきりしている。好きなタイプ、嫌いなタイプ、逃げ出したいシチュエーション、苦手な人、あ、まずい、と思った時の対処法などなど、ある意味、いびつな部分を含めて、自分という人間は存在しているために、案外、あっけらかんと諦めに近いものがある。
人間関係がうまく行かないであろう時の対処法とか、態度とか、判断基準とか、気配、雰囲気諸々自分の行動パターンがある程度決まっているために、深く悩まない。
相手に対しても、特に何を期待しようとしなければトラブルは発生しない。特に、うちのダンナのようなおとなしい人だとなおさらかも。愛情すら疑ったことがないという・・・まさに考えようによっては奇跡に近いかも。
考えてみたら、出会った頃から多くを説明する必要のない人だった。それが愛だとか恋だとか思わないうちから、多くを説明する必要がない。そういう関係だから、考えてみたらノラクラと今まで続いているのかもしれない。一緒にいてもまるで空気のような人で、あまり存在感のない人なんだけど、いないと寂しい。そういう人。一緒にいると安心感がある。
娘が父さんの歌も詠んであげろというのだけれど、それにしても存在感が薄い。ワイルドターキーだけあれば生きていけるのではないかと疑っているけど。七面鳥の絵柄の酒を何年にも渡って眺めてきたから、考えてみたらそれくらいしか思い浮かばないぞ? やれやれ・・・・・困った。
あまりにも素直なんだよね・・・いまだに平気でおちびには「父さんと母さんはらぶらぶ」とか言っている。(ほんまかえ?) こうね・・・・なんかね、シンプルな人だから、勝手に言わせとこ、みたいな気になってしまう。そのようにまるめこまれて気が付いたらずっと一緒にいる。

そういう我が家の事情はともかく、自分の世代の濃厚さはえぐいから・・・・すでに。愛憎に金まで絡み、たまに離婚へ向けて弁護士へ相談しに行った記録などをサイトへアップしていたり、壮絶だもの。濃厚さに加えて、なんといったらよいのだろう・・・すでにきれいごとの存在しないえぐさ。そういうのに比較すれば、ほんわか恋歌でも詠んでいるほうが平和なのかもしれないけれど、それすらゲップ状態にまでなってしまったら、ヒーリングではないけれどもそれこそ山や海や大自然しか待っていないのかも。
良い意味で、おとなの歌が詠みたい。難しい。

投稿者 Blue Wind : 06:28 AM | コメント (0)