アクティフがどんなことかと考えて雨の音さえ憂鬱に響く
弟子の足洗うイエスの脳裏には死を待つここち別れをぞ思(も)う
語らずはそのときがきてそのときがガルバリのみちゆくがみちなり
祈りの書、簡単にして朗読はまる暗記するここち、忘却。
信仰は死の谷の淵ゆるゆるとすぎゆく風のほむらのごとく
アクティフは死の淵をまつ葬式の飾り花薫る祭壇のよう
花添えて祝うがごとく十字架は朽ち果てた色またず花咲く
受洗まで苛苛とする吾がこころ赤い岩にぞ閉す谷のごと
(エゼキエル4、4)
気のせいかもしれないけど、近頃わたしは元気がない。
雨が降っているだけで外出が憂鬱になる。
でも、そういうときに限って外出しなければならない用事がたまっている。
気分転換に夏の旅行の計画をたてる。
・・・・・・これがまた憂鬱の種になる。
ベトナム・・・
行ってはみたいと思っているが、これがなかなかの犯罪多発地域。大抵はお金がらみの犯罪。
どこへ行ってもそういう話はあるけど、あれではうっかりタクシーにも乗れないし、ホテルや旅行社まで信用できないし、いつも気を張っていなければならないような話ばかり。
まあ、そんなことを言っていたら何もできないし、どこへも行けない。
***
勉強会は、久しぶりに聖書の話。
種のたとえの話。
----この話を最初に読んだのはいつですか?
----???(考えても思い出せない)
----思い出せない? 何年前とか?
----ぜんぜん思い出せません・・・
おそらくは小学校の頃なのかもしれないけど、まるで記憶にない。
そうやって考えると不思議なことを思い出した。ポプラ並木の奥の空き地。小学校1年の頃。途中で学校が変わったので、はっきりそうやって言える。
学校の通学路にポプラ並木があり、その奥が広い空き地で、学校の帰り道、不意にそこに入ってみた。
しばらく背の高い雑草をかきわけながら進んだが、途中で誰かの影を見たような気がして、怖くなって戻ってきた。その影というのは、本当に人だったのかもしれないし、なんとなくシスターのような気がした。近くまで行って確かめたわけではない。
でも・・・・・そんな人がいるわけがない。(たぶん)
でも・・・・自分が親になってみると、子どもがそんな空き地に一人で入って行くなんてとんでもない、と思う。でも、学校帰りにどこかの空き地で遊んでいたり、違う道を行ってみたり、それはわくわくするような冒険だった。
でも、そういう記憶が残っていること自体、よく考えてみれば不思議だ。
家の近くに修道院があったわけでもないし、親がクリスチャンだったわけでもないし、そういう心象が残っていること自体が不思議だということに今気がついてしまった。
それと同時に、いつ聖書を読んだのかなんて、まるで記憶にない。
やっぱり小学校のときかなぁ・・・でも、文字が小さくて挫折した記憶のほうが鮮明。
子どもの頃の記憶なんて曖昧。
そうやっていつ種がまかれたかの記憶もないままに、何年も何十年も経ってから芽が出ることもある?
・・・・・・・そうかもしれない。
もしかすると、何年も何十年もこうやって鬱々しながら、考えてきただけなのかもしれないし、大学よりも長く通っていた大学院はプロテスタントだった。その話をしたことがなかったので、怪訝な顔をされたが、特に宗教を考えて大学や院を選んだわけではない。わたしにしてみれば、どうでもいいようなことだ。
もしかすると知らないうちにプロテスタントの影響を受けているのかもしれないけれど、少なくてもそのときに感じるのは、わたしはあまりにも聖書を読んでいないなぁ・・ということで、カトリックとプロテスタントとどこがどう違うと説明されてもそれは理屈ではなく、わたしの中には匂いとして違うとしか言えない。
神父さんの話によると、テオドリンは古い聖人だから、渡された出版物には載っていなかったし、アナスタシアもweaversの聖人というだけで、新しい聖人カレンダーには載っていなかった。神父さんの話によると、テオドリンは古くは賛美歌を整えた人だったし、アナスタシアはおそらくは大アナスタシアのことだと教えられた。
わたしの場合、考えて決めるのではなく、いつもてきとーに直感だけで決めてしまう。
でも、それでいいと思う。言葉で説明するのは難しい。
神父さんは、スキーにチャレンジしているらしい。理屈でわかってもなかなかうまく滑れない。
ということを説明するためにチャレンジしているのかもしれない。
でも・・・・・スキーといえば、わたしは大学時代、それが原因で怪我をしてまるまる春休みを棒に振ってしまったことがあり、それ以来、やらないことにしている。
これじゃ、話にならんよなぁ・・・
なんか、また考えているみたいだったけど、わたしにスキーのたとえ話をしても、そうなんだから仕方がない。
それより、編物は頭の中ではまるで違うことを考えていても、勝手に手が動いて、ぼーっとしていてもうだうだしていても勝手に編みあがる。しかもたまに間違えたりすると、ぱあ〜っとほどいてまたやり直し。これだって親がしていたわけではないし、気がついたら自然と覚えていた。娘に教えようとしてもうまく教えられない。
頭の中ではまるで違うことを考えている。つまり、いまだに「祈りの友」はろくすぽ読んでいないし、御ミサにも行かないし、洗礼を受けていないから、自分のことは信者ではないと思っている。全然行動が伴わない。
が、しかし、わたしは信者なのだそう・・・
どういうふうなら信者なのか、わたしにはよくわからないけど。
まあ、いいや。
なんか、あれこれ考えると元気がなくなりそうだ。
仕事がたまりすぎている。
いやな季節。
洗礼名、か。
自分で考えなければならないところがみそで、2つの名前で迷っている。
テオドリンか、アナスタシアか。
わたしのお誕生日だと、ペトラ・・・・(一瞬、笑いが止まらなくなってしまった)。
だいたい、友人の洗礼名は、マリア・○○○、という具合で、マリア・ソフィアが2人いたような気がする。そのうち一人はすでに天に帰ってしまった。それと、エリザベト。
日本だと、アグネスやセシリアが人気らしい。あとは、マルタとかモニカとかテレサとか・・・
あまりよくない?名前だったら、最初にマリア・ヨハンナ・○○○とか?
日本だと、マグダレナと付ける人はいないと神父さんが言っていた。
でも、マグダレナといえば、マグダレナ・ソフィア・バラでしょう・・・最初に教えられるのは。
聖人カレンダーの名前を順番に読まれてもよくわからないよね・・・
神父さんが次々言う・・・
ぼーっと、わたしはりんさんだからりんの付く名前はないかと考えていたら、「テオドリン」と聴こえたので、それだ!と思った。なんでテオドラが嫌で、テオドリンならよいのか説明するのは困難だったので、考えていたとおりを説明した。それよりもテオドリンが女性の名前かどうかすらわたしにはわからない。
でも、そのときに、カトリンと言われたら、それだ!と思ったのかもしれないし、案外、いい加減。
わたしのお誕生日に近いのは、フランチェスカとか、アナスタシアとか。
・・・・・洗礼名を考える前に、自分の日頃の行いを反省しろ、ってなものじゃないか?
***
まあ、それはおいておいて、12月の聖人カレンダーを眺めていたら、盲人の守護聖人ならルーシーとか、編物や織物の守護聖人がアナスタシアと書いてあった。実際、眼病があるからルーシーにしようかと思ったし、検索していたら、カリブのセントルシア島にテオドリンという地名があり、それも悪くないとは思ったけど、行ったこともないし・・・
アナスタシアは、weaverの守護と書いてあったので、わたしは最初何のことかわからなかったので、娘の辞書を借りて調べた。
すると、織物や編物をする人のことらしい。
なんか、懐かしい。
昔、御聖堂に座って、よく編物をしていたのを不意に思い出した。モームの「人間の絆」や、おまけでもらったレールジュタンの白い鳩のついたミニボトルの香水や、その他諸々当時の思い出がよみがえる。
全然意味を持たなかった当時の記憶が、アナスタシア、で一つに結ばれる。
「人間の絆」はすでに内容は忘れてしまったけど、主人公がたしか「人生とはペルシャ絨毯のようなもの」と言ったセリフだけが好きだった。(実際に言ったかどうかは覚えていないけど)
l'air du tempsを和訳するのは難しい。 the air of time とか?
でも、空気の中に時間があるみたいで、好きな言葉だった。
・・・・・・こうやって考えると、わたしの守護聖人はアナスタシア、ではないか?
(今までにはない発想で考えると)
***
それって、神父さんが一番最初に言った名前じゃない?
あー、近頃、鈍い。
テオドリン・アナスタシア、とか?
最初に、アナスタシアだったら、迷わないでそれにするとか?
(マタイ 10、1−4)
シモンだけが、ペトロなのか。
だったら、テオドリン・ペトラとか?
・・・・・・それだけはかんべんしてほしいけど。
マグダレナ・ソフィア・バラは、マグダレナ・ソフィア・バラだし、ユダという名前もたくさんいるし、マリアという名前もたくさん登場する。
(箴言、29、4)
考えるほどに、崩れていきそう・・・
じゃあ、テオドリン?(まったく変わり者だよね・・・)
(ルカ、1、67−80)
幸先よさそう。堅信まで、これでいこうか・・・
という気になる。
テオドリン・アナスタシアは?
(コリント 1、3−7)
苦難と感謝。
過去を引き摺ってるな・・・
アナスタシアだけではダメなんだろうか。
(マルコ 6、1−6)
故郷では受け入れられない。
つまり、過去へは戻れない。
(サムエル 18,1)
守護がありますように。アーメン。
ぱさっとな悪さする鳥やってきて洗車のゲート初めてくぐる
ぱさっとな悪ふざけして飛び立てば気づかぬうちに驚きの闇
糞まみれさわりたくもないクルマ、コイン洗車の列に従う
それにしても、バチでもあたったかな・・・
ケイが鳥の糞だらけ。しかも、いつもと違う鳥。色が違う。
この手の感覚は、おそらくは20年くらい前に感じた感覚と似ている気がする。箱根から東京に戻る電車の中で、知らない人の手が頭に当たった。謝るわけでもなく、もしかするとわざとかもしれないと思ったけど、まあ、いいや・・・というか、言われなき鬱憤の時代だったから、そういう人もいるのだと思った。ちょうどバブル景気の時代で、バブルに乗れないと、それこそ一生働いても家も買えない、という時代だった。
それが終わって、不景気になり、物価が下がって、案外生活しやすいような気がしたが、ぼーっとしているうちに銀行の支店がどんどんなくなり、今でもつくば市には都市銀行の支店はないような気がする。もしかするとあるのかもしれないけど、なくても困らない。
それにしてもアメリカはお祭りみたい。ブッシュが最悪だったので、逆にオバマに対する期待がものすごい。なんかコメンテーターもぼーっとしながら羨ましそうに眺めているだけだったが、わたしも同じ気持ちだった。日本も早く総選挙をしてほしいと思うけど、実は政権交代してもそれほどには期待していないような気もするし、それでいて、政府と世論がしらけるほど違う世相もめずらしいのではないかというくらい、しらけムードが漂っている。
地方ボケか?
院生Fとテレビを観ながら話していたとき、学生の内定率が85%と報道していた。テレビでは大変なことになったというニュアンスだったけど、Fに言わせると、「85%は就職できるんですよね」とかなり明るかった。まあ、彼女の場合は教師になりたいからと内定を蹴って大学院へ進学したくちだし、どこでも勤め先はあるだろう。
とすると、残りの15%はどうなるのか?
進学したり、アルバイトしたり、いろいろ・・・・?
どうでもいいや。就職したとしても、入ってから工場閉鎖の話やリストラの話は続くし、それこそ倒産とか?
エンドレス。
***
普通だよね・・・
わたし的には、今のほうが普通のような気がする。将来のことを心配したり、企業だって倒産することはあるし、病気になったり、事故に遭ったり、いろいろあるほうが普通。
なんか、ヘン。
何が変なんだろう?
厨房の狭き扉を潜りぬけレンジローバー助手席に乗る
飛びぬけの初老の笑顔少年のおもちゃの自慢手にとってみる
ケイ10年、迷い迷いつ悩みつつ、迷いはつづく楽しき時間
ケイ10年、不景気だよと世の中は迷い迷いつエコは悲しき
タイタニック沈んでいくよな世の中に放り出されて四駆は走る
わが城は山林をぬけ街をぬけ風吹きぬけて空闇のケイ
カフェの前、ずらり並んだ高級車、なんとなくケイわがもの顔で
レクサスの四駆の値段問い合わせマスターだけが日本の元気
未来って老後のことか、若者のやるせなき日々仕事なき様
60代、元気なんだよアンタより、やりくり上手は30歳以下
仕事を始めて唯一よかったと思うことは、近頃どこに行っても気軽にお話できるようになったことかも。別にわたしが人見知りをするとか引っ込み思案だとかいう意味ではなく、相手が気楽に声をかけてくれるようになったというか・・・
このところずっと裏方の仕事をしているので、たまに姿をみせると、「もう辞めたのかと思っていました」などと会う人ごとに言われる。案外、あたしって人気があるんだ・・・などと悦に浸りながら、店番は若い人のほうがよいのではないかと、近頃さぼり気味。
久しぶりに娘を絵画教室に送って暇つぶしにカフェに行ったら、マスターと話が弾んで、なぜかレンジローバーに乗せてもらった。たまたまマスターがCGを観ながらレクサスに四駆の問い合わせの電話をかけている隣の席に座ったからでもあるが、あれくらいカーマニアだと、車の話なら1日中でも退屈しないに違いない。
わたしも楽しかったし・・・
このところ不景気の話ばかりで、何年も前から車を買い替えようとは思っているうちに、とうとうケイちゃんも10年目になってしまったわたしとしては、気に入った車があればすぐにも買うつもり。が、しかし、実際にはなかなか気に入った車に出会えない。どうせ買っても1年くらいで飽きるかな・・・と思うし・・・
今の60代はめちゃくちゃ元気。隣の師長も可愛いニット帽をかぶって通勤しているし、マスターもますますパワーアップ。あの世代がドロップアウトしたら、この国は終わりだと、近頃まじめに考えるようになった。
***
娘と一緒にクリスマス・ミサに行って以来、勉強会はお休みか短いかのどちらかになった。たぶん、日曜日の御ミサにまじめに出席していれば、去年のクリスマスに受洗していたのかも、と思うのだけど、あまりにも忙しかったので日曜日はダウンしていた。
先週の勉強会では、洗礼を受けたら、日曜日は御ミサに行って、それ以外の日にも御ミサに行って、四旬節には断食して・・・という具合に説明を受けた。
が、しかし、ミサに行かないってどうよ?
---- でも、わたし、信者でないですから・・・(汗
---- 信者だよ
えっ・・・
信者だよね・・・
まあ、たしかに。
でも、洗礼受けてないし・・・
深く考えるのやめよう。
こらっ、正直に言え。
わかってるんだよね・・・
洗礼受けるでしょ?
そしたら、今度はご奉仕活動があって、清掃当番、御ミサの手伝い、いのちの電話、マリア会、その他諸々やろうと思ったらいくらでも仕事があるし、行きたくなくても教会へ行かねばならない、という感覚はおそらくは学生時代の名残かも。
---- 一度、Fさんと一緒にお話して・・・
Fさんって誰だろ?
おそらくは熱心な信者さんのことだと思う。
わかってるんだよね・・・
エホバのMさんにまでバカにされたし・・・
---- わたし、年に2回くらいしか、御ミサに行かないし・・・
---- えっ、年に2回しか行かないんですか?
---- だって、信者じゃないし・・・ でも、信者だって神父さんに説教されるのよ。
---- 説教されるんですか〜?
---- 受洗までに4回行かなければならないし、母の3回忌はあるし、娘の卒業式と入学式があるし、確定申告はあるし、大丈夫かな?
---- 次にしたらどうですか?
---- 次だとまたクリスマスになるし・・・
あーでもない、こーでもない、と、受洗の話をなんでエホバのMさんにしているのか不思議な気がしたけど、エホバはクリスマスもイースターもないので、大会のときに洗礼を受けるらしい。最初、クリスマスを逃したら次はクリスマスと言ったら、そんなに少ないんですか?とMさんも驚いていたけど、エホバも結局年3回くらいだから、似たようなものではないか。
でも、偉いよね・・・家事に育児に仕事までやって、エホバでも「外人担当」という係をやって、薄給からフィリピンに仕送りして、コツコツJALカードのマイレージを貯めて・・・
いますけどね、そういうお友達・・・カトリックの信者さん。
でも、あたしは怠惰な人だし・・・
---- そういう生活ができたらいいですね。
と、神父さんに答えるのが精一杯だった。
アーメン。
明日から仕事が始まるし、あまりおめでたい気分でもなく、しかもいつもの年と違って、今年はスーパーが賑やか。
新聞の記事か何かに、アメ横が忙しい年は不景気だと書いてあった。最初はその意味がわからなかったけれども、要するにお正月を自宅で過ごす人たちが多いから、年末の買出しに出かける人たちで賑わうのだろう。
例年、クリスマスを過ぎると、何となく閑散としてしまうのに、今年は人が多い気がする。スーパーが無休で営業しているため、お正月でも普通に買い物に行ってしまう。
レジに並んでいたら、ご主人がフェンディのお財布を出し、奥さんが子どもを抱っこしながら、「有料なの?」と文句を言っているカップルがいた。つくば市では9月からレジ袋が有料化され、エコバッグを持参していない場合、袋を買わなければならない。今頃何を言っているのかと思ったのだけど、隣のレジに並んでいた年配のご婦人が、「袋あるわよ」と叫んでいたので、帰省客なのだと気付いた。しかも、レジ越しに「お財布貸して」と大声。
あのフェンディのお財布は、お母さんのものだったのか・・・
何だかなぁ・・・
子どもを抱いた奥さんは不機嫌に立ったままだし、隣のレジでは母親が別々に買い物。でも、子ども夫婦の分まで親の財布から・・・息子が出す。
***
それよりも今年はお正月でもお仕事なんだなぁ・・・と、文句も言わずに働いている見慣れたスタッフがやけに新鮮に映った。
わたしも若かったら、お正月に働いて、代休でグアムでも行きたいよね・・・
さて、気分転換しないと。