June 07, 2005

ブラザー・サン シスター・ムーン

ちょうどローマの方角だったと思う。アシジのホテルのレストランに座っていた時、娘が空が光ったというので周囲を見まわすと、夕立を心配してほかの客たちが立ち上がったり空を眺めていた。わたしはちょうどそちらの方角には背を向けて座っており、半信半疑だった。不思議なことに、光ったのだから落雷の音がするはずなのに何も聴こえない。

無意識のうちにそんなことを考えながら空を見ていると、雲に覆われた方向に小さな青い稲妻が見えた。ところがいくら待っても音がしない。周囲のざわめきも一瞬沈黙するくらい静かな時間だった。

3度目の稲妻が光った頃には、安堵が広がり、何事もなかったかのように夕餉のざわめきが続いていた。周囲はイタリア人ばかり。もしかすると彼らにはめずらしいことでもないのかもしれない。アシジのあまりにも広大な空を考えると、遥か遠くの町で轟いているはずの雷鳴も音が届かないだけのことで、筑波山から眺める富士山のようなものなのかも。

とは言うものの筑波山からでもさすがに東京や横浜の落雷が見えるわけもなく、何気なく広がるアシジの空の大きさに参ってしまった。


ビデオ : ブラザー・サン シスター・ムーン
DVD : ブラザー・サン シスター・ムーン


アシジの空の不思議さはそれだけではない。

アシジは中部イタリア、ウンブリア州というところにある。聖フランシスコの町。かつて観た映画のタイトルが、「ブラザー・サン シスター・ムーン」。その意味がアシジに行ってわかった。

映画だけでは、空の広さがわからない。

わたしは、聖フランシスコが聖人だから、太陽が兄弟で月が姉妹なのかと勝手に考えていた。こういうアニミズムのようは発想はキリスト教では好かれないのではないかと思うんだけど、聖フランシスコは太陽を兄弟と呼び、月を姉妹と呼び、生き物すべてを愛していた。

アシジの空を眺めているうちに、日没の時間、空が真っ二つに分かれ、右手には太陽が沈み始め、左手には月が浮んでいた。それはちょうど昼と夜とが同時に存在しているのを眺めているようで不思議な光景だった。

ところが翌日、やはり日没の時間、わたしたち家族は同じレストランのほぼ同じ場所に座って空を眺めていたのだけれど月の位置が昨夜とは違う。とても不思議な気分だった。

その翌日、日没を過ぎ、空がすっかり暗くなり、食事を終えて部屋へ戻ろうとすると、ホテルの犬が玄関の前に寝ていたのでしばらくベンチに座って娘が犬と遊んでいるのをぼ〜っと眺めていた。すると、目の前にいきなり外灯が点った気がして夜の道路の上を見る。夜なので最初気が付かなかったけれども、そちらの方向にあるのは山の陰であり、外灯などあるはずもない。

数秒ほど眺めているうちに、満月がいきなり空へぐんぐん上昇し始めた。外灯だと思ったのは山影から出る月の明かりで、わたしは月の出というのを見たのが初めてだったので、そのスピードに驚いた。落陽もあっけないけど、月の出もあっけない。月の出の時間がその日によって違うことを知る。(本当?)

酷く戸惑ったものの、ややこしいことを考えないのがわたしの特徴であり、とても不思議な月のことを考えて帰国便に乗り、疲労も手伝ってか機内の窓が閉めきられほとんどの乗客が寝ている時間うとうとしていると、娘が不意に窓を開けた。暗い機内の中で、不意に娘が少し開けた窓から見えたのは、飛行機の翼の上に平行して並ぶ巨大な月。青い空に白くてまるい巨大な月が浮んでいる。あんな間近に月を見たのは初めてだった。


(⇒トラステへのTB : 第29回 神秘体験)

投稿者 Blue Wind : 01:11 AM | コメント (0) | トラックバック

March 21, 2005

男の2人旅

近頃、地球が狭くなったせいか、旅先で日本人を判別するのが次第に困難になっているのを感じる。例えば、バリ島でもちょっと大きなホテルへ泊まったりすれば、以前はこのノリは日本人のツアー客だろうと思っていたのが、近頃ではそれが台湾人のツアー客だったり、韓国人カップルだったり、日本人は意外に小さくなっている。

だったら本家本元?の日本人はどうしているのかなぁ・・と思ったら、シンガポールのバーで合席になり、香港人のOLをナンパしていたり・・・日本人の連れだから日本語が通じるかと思ったら通じない。

究めつけは、イタリアの電車の中かも。急行以上の速い電車(インターシティのことだろうか?)はコンパートメントに分かれていることが多いので、娘と2人で優雅に座っていたら、どこからともなくイタリア人の若者のグループがやってきて、しきりに日本語を話せるかと訊くのでうなずいたら、一人のオリエンタルなヤツを連れてきた。

すると、ちょこんと座ってね・・・「プレーゴ、プレーゴ」とリーダーのようなイタリア人に言われてわたしに話しかける。しかも何を勘違いしたのか、英語で話すものだから、わたしはてっきり彼は中国人かもしれないと勘違いし、英語で返してやった。すると、イタリア人は英語が苦手なので、黙って聞いている。

ラ・スペッツァへ行きたいらしい。ミラノからセストリレバンテ行きの電車は途中までしか行かないため、乗り換えなければならない。それで、みんなはジェノアで乗り換えろと説明しているのだけど、どうしてジェノアなのか彼には通じないらしく、仕方がないのでわたしはバッグの中から地球の歩き方と日本語版のトーマス・クックを取り出し、時刻表で説明しようとした。

「日本語、話せるんじゃないですかー」

と、いきなりおバカが言った。先に英語で話しかけてきたのはそっちだろーと思ったんだけど、近頃の日本人は英語が上手な人が多いため、わたしには彼が何人なのかもはや判別できない。もしかすると韓国人かもしれないし・・・中国人の可能性が高い。

その後彼は連れがいるというので、その連れを見たら、男だった。男の2人連れだと分かっていれば最初から日本人だと思ったかもしれないのだけれど、連れのほうがほかのイタリア人たちに紛れて黙って座っていたため、イタリア人もオリエンタルも全部まとめてユースのグループだと勝手にわたしは思いこんでいた。

雰囲気なんだろうな・・・おちびに至っては、「パッパ、イタリアーノ?」と訊かれる。そうやって言われると、イタリア人と日本人は似ているために、ビーチで遊んでいる娘を眺めていると、後姿だけでは何人かわからない。特にビーチはみんな日焼けしているし・・・やたら色白だったら日本人の可能性が高い・・・アジアン・ビーチを思い出す。

それにしてもなんて言ったらいいのだろう・・・ミラノのドゥオーモの前のカフェで男同士で座っている汚い若者はすぐに日本人だと分かるんだけど・・・そういう判別の仕方ってどこかせつない。



著者: Thomas Cook Group Ltd., 地球の歩き方編集室
タイトル: トーマスクック・ヨーロッパ鉄道時刻表 (’05初春号)

投稿者 Blue Wind : 02:57 PM | コメント (0) | トラックバック

September 09, 2004

やたらと広い空、わがままな月

8月26日(木)続き。 なるべく早い時間にピザを発ったので3時前にはアシジに到着。同じような路線だけど、フィレンツェからならヴィアレッジョへ行くより、ピザまで行く方が速くて景色も綺麗。何より、臨時に増発便も出るので便利。座れないということのないイタリアの電車。
フィレンツェやアシジに到着すると、娘が「懐かしい」を連発していた。わかるようなわからないような、短くも長い夏。旅。
宿は、アシジの城壁から1キロくらい離れたところ。景色が素晴らしい。プールもある。夜には父さんが到着する予定。トリプル・ルームをリクエストしておいたら、なんと2間続き。期待していなかった分、うれしかった。夜中に猫と一緒に父さんを待つ。

8月27日(金) イタリア滞在中、雨が降ったのは、セストリ・レバンテにいる一日だけだった。しかも、パラリと降るとすぐに止んでしまう。雨のない夏。それでも風の強い日が続いていたけれども、この日は暑いばかり。
バス停の場所を教えてもらったけど、歩いてポルタ・ヌォーバまで。途中、スーパーで水とサンダルを買う。この頃になると、ハワイで買ったサンダルは底が見事に割れている。それでも歩く。つらい。もう一足は車の運転用にゴムのサンダル。うっかり空港で履き替えるつもりがそのままかばんに詰めて預けてしまったので後日大変な目に。つまり、その靴の入ったかばんが紛失してしまったため、私の足はゴム・サンダルのせいでまるで寝たきりの患者のように腫れ上がってしまった。買えばいいとばかりにフィレンツェで買ったサンダルはスリッパのようで歩きにくい。足が腫れていて、何となくそうなってしまっただけなのかも。結局、かばんが届き、その華奢なサンダルのおかげで歩けた次第。が、しかし、石畳の多いイタリアの道を歩くのなら、皆が履いているようなサンダルでないとつらいということを知る。
3人で、サンタ・キアーラ教会、コムネ広場、Tシャツ屋、石鹸屋、聖フランチェスコ大聖堂。3度目にしてフランチェスコのお墓にたどり着く。ロウソクがライトから本物に変わった。
広場からバスに乗り、サンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会へ。
ホテルのレストランのテラスから落陽を眺める。昨日、娘と二人でカメラを持っていたのにフィルムが切れていたのを悔いる。昨日の空は、右に落陽、左に白い月、空が中央から二つに分かれているかのようだった。この日は、雲が多く、中途半端な空。

8月28日(土) サン・ダミアーノ。思ったよりも近かった。ただし帰りは泣く。入り口付近に、頭巾をかぶった像があり、何となくあれを思い出した。

8月29日(日) この頃になると、私はひたすらダウン。ダンナとおちびだけ城内へ。あれは絶対に人間であると言っていたら、この日はいたらしい。『サン・フランチェスコ像』。案の定、娘がコインを渡そうとしたら、手に持っていた鈴を鳴らし始めたらしい。すると、周囲の人たちが一斉にお財布を取り出したので、要らないと言って逃げ出したそう。やっぱり・・・
もっと書けば、おそらくはサンタ・キアーラのミュージカルがやっていたので、その役者さんだろう。その像がいない時、物乞いをして座っている男の人がいた。思うに、彼がその像である。なんでそう思ったかというと、イタリアには物乞いの人たちがたくさんいる。彼らはいつも決まった場所、決まった時間に出勤している。職がないとか、障害があるとか、すこぶるサバサバしている。道を尋ねている人がチップを渡すようにコインを渡していたのを見て、何となくそう感じた。が、しかし、アシジの物乞いはいたりいなかったりで、本物ではない。
毎晩、眠れない。1キロ以上離れているはずなのに、夜中の2時ごろまでバンドの音が聴こえる。窓を閉めたら暑くて眠れない。窓を開ければバンドの音。窓を開けたり閉めたり、空を見る日が続く。
が、しかし、空がおかしい。
食事を終え、玄関からジンミ(犬)に挨拶して部屋に戻ろうとして空を見上げた時、常夜灯のようなものが見えた。なんと、月の出。山陰から明るい満月が顔を覗かせる。あまりにも明るい月だったので、そのまま昇って行くのを見ていた。でも、おかしい。9時ごろ。いつもだったら、食事をしていると見える。念のため部屋に戻って見てみたけど、部屋からは見えない。ということはいつもより遅い月。
静か。

8月30日(月) 観光の嫌いな父さんは、結局、ローマへもフィレンツェにもほかの町にも行かず、日課としてひまつぶしに城内へ向かい、午後はプールで泳いでいる。プールと言っても、おとなから子どもまで水泳キャップを被って泳いでいる。
この日は最後の日だったので、ヌオーバ教会へ行き、タクシーでカルチェリの庵。ヌオーバ教会は近すぎてどこにあるのか気づかなかった。カルチェリの庵は4キロという。サン・ダミアーノのことがあったのでタクシーでしょう、さすがに。正解。
カルチェリの庵は、聖なる山、と言ったほうがよい。教会の建物を抜けて、山道を歩く。突き当たりで、ドイツの巡礼者の一行がミサ。左側にドイツ人、右側にイタリア人。後ろのほうに座っていたら、途中の十字架のところに登って記念写真を撮っていた親子連れが来たので、ミサを途中で抜ける。これは言葉では説明できない。
ミサは明るく、ギター伴奏の賛美歌。
ゲートに戻る前に、崖のほうへ。もしかすると映画で見た場所だったのかもしれない。神聖な場所なのだろう。穴の横に座っていたら神父さんとシスターの三人連れ。一人のシスターは微笑み、一人のシスターは怪訝な顔。
さらに、下の穴。苔。パワー。山のパワー。手がほてる。額に手を当てる。
予定の時間より早くゲートへ戻り、ほかのファミリーと一緒にタクシー。
夏のアシジは、「サックリフィス、シー」。
サンタ・キアーラの前の舞台が少しずつ仕舞われているのを見て、あのバンドの音源はここだと確信。
夜、食事をしている時、稲妻。音が聴こえない。光だけ。一体どこで光っているのだろう。雨が降り出すかと警戒したけど、音も聴こえない。空が広いことを知る。音のない落雷というものを初めて見た。
満月はわがままで、突然月の出の時間が変わる。アシジ・・・ウンブリア。低い山、広い空。

8月31日(火) 昼間のペルージャ空港は、さらにローカルだった。夜中の道を空港から出るよりも、空港へ向かう道はまるで空き地の中へ向かうかのよう。それでいて、バルセロナ行きの飛行機。国際空港。ヨーロッパ。

9月1日(水) ミラノからはゲームをしているうちに成田。空港で知人に遭遇。寝不足ぼさぼさ。あーつらい。
途中、機内で、何気なく娘が開けた窓から真横に月が見えた。雲の上。
帰りにオトくんを迎えに動物病院。オトくん、興奮。次回は連れて行ってやりたい。
戻る早々学校から電話。サイトは消えていた・・・日常。

ナホム書 3. 19

見事にダウン。
「サックリフィス、シー」。
観光と巡礼の違い?
コムネ広場のTシャツ屋でいきなり子どもが泣いて飛び出して来た。親が怒って、イタリア語で、「xxxxx、フランチェスコ」と捨てゼリフ。まだ3つくらいの子どもだった。いたずらしたのね。
サンタ・キアーラのミュージカルはうるさかったし、タクシーは、ジャッポーネ優先だし、働く人は不機嫌。イタリアの老人の旗持ちツアー。観光バスの先頭に乗る大きい神父さん。修学旅行生のような若者。でね、いっつも誰かがマイクを持って、「サックリフィス、シー」。疲れた。

空は、シスター・ムーン、ブラザー・サン、見事に二つ同時に存在していた。巨大な月の誕生。音のない稲妻。静かな空とうるさい城内。倒された私。

投稿者 Blue Wind : 10:13 AM | コメント (0) | トラックバック

September 06, 2004

ラテーノ

そして、一つわかったのは、ユダヤ人はいまだに嘆きの壁でメシアを待ち望んでいるし、ローマ人はいまだに悪いことをして叱られているときのオトくんみたいにシュンとしているということ。だって、歴史的事実だから。いわば歴史的出来事の証人として、ラテーノは存在している。いきなり磔刑にした人が神の子だとしたら・・・だからこそ大騒ぎになる。ジーザスが神の子であったかどうかが大変なことになる。いまだに怯えているのかどうかは知らない。ただ、中世までのラテーノの描くイエス・キリストは怖い。赤ちゃんの表情はいつも怒っているかのよう。「われらの罪」。それは一つの歴史的事実であり、それを否定したいのは人情だろう。そして、贖い。
気持ちはわかるのだけれど、わたしはユダヤ人でもラテーノでもないために、リアリズムに欠けるのかも。ジーザスのイメージはまるでちがう。あまりにも静かな心しか浮ばない。彼は光の中に存在し、わたしは暗い教会が苦手だ。

ローマの信徒への手紙 2. 6-15

さらに、雑感を書けというのだろうか。つらい。

投稿者 Blue Wind : 11:17 AM | コメント (0) | トラックバック

ちぐはぐとしたいつもの自分

8月18日(水)続き。急ぐ旅ではなかったけれども、ESスターに乗ってみたかったので、フィレンツェからミラノまで乗ってみた。満席。しかもチケットの座席番号が順番ではなくややこしい。ようやく自分の席らしきところにたどり着いたら誰かが座っている。生後6ヶ月の赤ちゃんを連れたご夫婦。幸い一人旅の人がいたので席を移ってくれたけど、こちらも娘が嫌がるので替われない。ご主人が私の席に座っていただけ。
それにしても、あちらはカップルは向かい合って座るらしい。こちらは隣り合って座るものだと思っている。よく考えたんだけど、電車の中で寝る習慣がないからなのだろう。こちらは日本人なので、娘はしっかり寝てしまう。
それにしても、ずっとミラノに着くまで携帯電話が鳴りっ放し。赤ちゃんを連れての初めての帰省だったのだろうか。何となくぎくしゃくとした雰囲気のままミラノに到着した。
ミラノ・チェントラーレ。駅。大きい。地下鉄の乗り放題チケットを買い、ドォーモへ。いきなり地下鉄の階段を上がったとたんにジプシー。鳩おじさんたち。餌をポケットに入れて持ち歩いている。ドォーモは修復中で見えない。入り口には警官。

8月19日(木) ブレラ絵画館。この頃になると娘は美術館には飽きてしまい、十字架のイエス・キリストの絵を見ては、「どうしてあんな怖い絵ばかりあるんだ」とか、聖母子像を見ては、「赤ちゃんの顔が怖い」。不満たらたら。「だって、ラテンだもの」としか答えられない。

8月20日(金) おばあちゃんからプラダの”リュック”を頼まれていたので、とりあえずドォーモ周辺やモンテ・ナポリオーネ通りなどを歩く。本店で買い物するような代物ではない。そこで、アウトレットへ行ってみようと思い、トラムに乗る。なんで、ドォーモに行ってしまうのだろう? 夏のミラノは休みの店ばかりで、チャイナタウンを抜けてようやくたどり着いたら結局休み。くねくねとトラムは曲がる。そのうち面倒になり、来たトラムに適当に乗り込み、好きなところで降りる。迷ったら地下鉄マークの見えるところで降り、地下鉄でチェントラーレに戻る。

8月21日(土) 後一つだけ。ドォーモ近くの美術館に入る。何気なく階段の踊り場にミケランジェロのピエタが置いてあった。というわけで、ローマへ行く理由も無くなった。

8月22日(日) セストリ・レバンテへ。ミラノからお昼にインターシティが出ている。こちらはESスターより快適。宿までは地図によると駅から歩いて行けそうだったけど、道を尋ねたら駅に戻ってタクシーに乗れと言われた。納得。半島の町。私たちが泊まったのは東側の湾。西側は大きなビーチだけど、東側は小さい。砂浜が狭いので、湾をせき止めて、そこにヨットやペダル・ボートが浮んでいる。まるでプールみたい。
陽に誘われて、サンセット。一直線の光。動いても着いてくる。8時を過ぎないと日没にならないために、子どもが兄弟でカステーロを作っていた。つまり、砂の城。二重に城塞があり、お堀があって本格的。本物を知っている。娘が作ると山を作ってから形を取ろうとする。ところがイタリアの子どもたちはまずはスコップで堀を掘り、その砂で城塞を作り始める。

8月23日(月) 朝から娘は海の中。ビーチ・フロントの部屋なので、バルコニー(というよりもベランダ)から呼ぶと、海の中にいる娘が返事をする。ちゃんと会話もできるところがすごい。ずっと遊びっ放しで午後発熱。軽い日射病。アイスクリームを買いに一人で教会へ。うそうそ。
セストリ・レバンテの教会は、白く美しい。それでいて、入り口にカーテンがあるほど中は暗い。地元の人らしきおばさんたちが四人と、旅行者らしい女の人が一人離れて座っている。教会の中で世間話。マリアさまだけが舞台装置のように浮かび上がっていた。
その脇を抜けて坂を上がる。とたんに人通りは途絶え、途中に猫の溜まり場。上りきるともう一つ教会。裏に車が停まっていたので誰かいるのかと思ったけど、閉鎖してある教会なので、誰かが勝手に駐車しているみたい。入り口は閉まり、窓には鉄条網が張られている。よく見ると一箇所破られていた。誰かが手で埃を拭いたようで、そこから中を見たら、何となく明るく整然としており、使われていないような雰囲気ではないのだけれど、それでいて鉄条網は錆びているし、埃で中の様子も見えないほどには使われていない。破れた鉄条網の窓の桟に、下の教会から持ってきたと思うロウソクのアルミカップが置いてあった。枯れ葉やゴミに雑じって。
下へ降り、ジェラートを二つ買って、大急ぎで部屋に戻る。

8月24日(火) すっかり元気になった娘は、ビニール袋とパンを持ち、海へ。黒い小魚がたくさんいる。水は透明。意外。ほかの子たちがやっていたのを真似している。大きな魚を捕まえたのにすぐに逃げられたらしい。悔しがっていた。
セストリ・レバンテは田舎。ビーチの椅子も予約制らしい。同じ席を予約すると同じ人たちが座っている。レストランも一度行くと私たちの席がすでにあるらしい。
隣の部屋の人と洗濯物をベランダに干しながら挨拶しているうちに、世間話をするようになる。ほとんどがミラノ辺りから来ている人たちなので、おそらくはこうやって毎年同じ時期に同じ人たちがやってきては同じ席に座り、夏が過ぎてゆくのだということが何となくわかる。
私たちは、フランチェスコ(レストランのマネージャー)に出くわさないようにそそくさとホテルを脱走し、通りのレストランで食べていたら私服のウエイターが通りかかる。目が合う。そのうち彼は携帯で話しながら再び私たちの前を通り過ぎ、行ったと思ったら再び来た。一体彼は何をしていたのだろう?

8月25日(水) ピザへ。チェックアウトしてタクシーを呼んでもらおうと思ったら、ホテルの車で駅まで。そのまま駅の構内まで荷物を運んでくれた上に、ホームまで連れて来てくれたのはよいけれど、季節運行のために来た電車は反対方向。キアーバリで慌てて降りる。これにより、延々と普通電車でピザまで向かうことになる。車なら1時間だというのに、5時間もかかってしまった。
こういう不運にもかかわらず、ピザが斜塔以外見るべきものがなく、川は臭く、長居したくない街だったのでありがたかったかも。ちなみに、ピザの斜塔は本当に斜塔だった。塀の内側は別世界。ただし、ヴィトンの偽物がたくさん売られている。中には、ヴィトン模様の上に桜がプリントされたものまで売っていた。なんなんだ。

8月26日(木) フィレンツェ経由でアッシジへ。セストリ・レバンテについて書き足すとすれば、窓からサンタ・キアーラ教会。湾を取り囲むように右にも左にも教会がある。なんか、女性に囲まれてしまったようでバツの悪い夏の海。

マタイによる福音書 19. 16-22

たしかに、「金持ちの青年」のような町だった・・・

投稿者 Blue Wind : 04:34 AM | コメント (0) | トラックバック

September 03, 2004

牢獄の天窓

詩編 74. 1

8月14日(土)続き。 午後、フィレンツェに到着。部屋の窓からサンタ・マリア・ノベッラ教会とドォーモの屋根が見える。つまり駅前。朝、鐘の音で目覚める。9時15分前になると馬車が数台窓の下を通過する。フィレンツェは下町のような雰囲気の街。
早速、ドォーモを目指して歩く。ところが、離れていると見えるのに近づくにつれて見えなくなる丸屋根。間違えて、サン・ロレンツォ教会のほうへ進んでしまったらしい。何かの入り口を見つけたので入ってみたら、メディチ家の礼拝堂だった。ロケットのような重圧感。写真で見るより美しかった。それでいて修復中。それでいて、組んである足場まで豪華。
外へ出て、ちょっとしたスペースがあったので一休みする。それがアカデミア美術館の横だと気がついたのは翌日だった。フィレンツェは狭い。ドォーモも暗い街並みに目が慣れているせいか、明るく綺麗だった。でも、中は暗い。

8月15日(日) 地図を見ながらアカデミア美術館へ。隣にサン・マルコ美術館、とある。入り口を間違えて、サン・マルコ教会のほうへ入ってしまった。いぶかしがっているヒマもなく、アカデミアで歩き疲れて、椅子に座ったとたんにミサが始まってしまった。とても外へ出られる雰囲気ではなかったので、そのままミサに参加。アリルヤ、アリルゥゥヤ。XXXXX(わからない)、アーメン。周りはイタリア語。私は日本語。おなじ、おなじ。アーメン。説教はわからないけれども、前の席の女の人がうるうるしながら握手を求めて来たので、何となくわかった。同じように、後ろの席を振り返り、皆と握手して来た。おちびも真似をしている。
サン・マルコ広場は、こじんまりとしていて、鳩がたくさんいるので、娘にどこへ行きたいかと尋ねれば、そこらしい。
翌日が月曜日なので、疲れていたけど、娘を馬車に乗せてご機嫌を取り、むりやりウフィッツィ美術館の列に並ぶ。素晴らしかった。でも、川が汚いことに気づく。手荷物検査があり、バッグの中にカメラが入っていたのをそのままにしたために、フィルムがボツ(になっているはず)。

8月16日(月) ほとんどの美術館がお休み。娘が、サン・マルコ広場へ行きたいというので再び向かう。カフェのアイスクリームでご機嫌を取り、今度こそサン・マルコ美術館へ。なんと、ガイドブックには書いていなかったけど、修道院がそのまま美術館になっていた。小さな部屋がいくつも並び、それぞれの部屋の壁に描かれているアンジェリコの絵を見てまわる。小さな部屋、小さな窓、中には廊下にしか窓のない部屋もあり、ルドビーさんのお部屋の写真とはずいぶん違う。一番最後に入ったコジモ・ディ・メディチの部屋が何となく記憶に残る。修道院の中に、彼の部屋があること自体が不可思議であり、フィレンツェであり、ほかの部屋と唯一違っていたのは、部屋の奥に部屋があり、その牢屋のような部屋には窓のほかにめずらしく天窓らしきものがある。修道院の片隅で、さらに一歩下がり、それでいて窓が二つある。癒しの牢獄。フィレンツェに疲れたら、座っていたい場所かも。
いや、馬車に乗ったのは、この日かもしれない。同じところを何度も通っているために忘れた。

8月17日(火) アリタリア航空からようやく紛失していたバッグが届いたので、ヴィアレッジョへ。海。カラフルなパラソルが並ぶ広いビーチ。海は汚いし、フィレンツェから往復5時間を費やす値打ちがあったとは思えない。でも、関東の夏の海を考えれば・・・

8月18日(水) ミラノへ。イタリアで、全席指定の電車には2度と乗りたくない。

使徒言行録 9. 26-31 サウロ、エルサレムで使徒たちと会う

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September 02, 2004

地球は狭く、空は広かった

サンダル2足、イタリアに捨てて来た。

8月11日(水) 成田空港、第一ターミナル。ローカルなので、時間が余る。ミラノ・マルペンサ空港。さらにローカルなので、ローカルな国内線のロビーで再びひまをもてあます。そして、さらにローカルなペルージャ空港。私たちが最後の客で、追い出されるように空港は閉められた。
アッシージィ。大聖堂の前を通って宿屋へ。あまりにも明るいので、それが大聖堂だと気がついたのは翌日だった。
大通りに面した部屋。真夜中だというのに、子どもや犬の声が通過する。

8月12日(木) 朝の鐘で目が覚める。通りには掃除する人たち。朝食室へ行っても無人。窓から向かいの家の屋根を眺めていると鳩の群れ。壁の中に消えた。よく見ると、壁に小さな穴が開いている。
娘の目が腫れているのに気づき、アシジで一番最初に行ったのが、薬屋。(途中、『聖フランチェスコ像』が通りに立っていた。)ひとまず宿に戻り、大聖堂へ。入り口を入り、階段を下り、作品を観ながら中庭を一周し、さらに階段を下り、順路に従い外へ出る。さらに広場を抜けて下ってしまい、そこから宿へ戻ろうとして迷子になる。壁の石に穴が開いていて、そこにも鳩。
12時にはコムネ広場。(途中、『聖フランチェスコ像』は消えていた。)派手な鐘の音。反対方向へ歩く。サン・ルフィーノ。そこから地図を見て、ロッカ・マジョーレ。近道と書いてあったので階段を上がる。悲しい。さらに坂。やっとたどり着いたら修復中。でも、階段を上がる。真っ暗な、人がようやくすれ違えるくらいの石の中を歩き、さらに階段。360度のパノラマは疲れて座る人たちで埋め尽くされ、しかも狭い階段を下りなければならないために何となく座りっぱなしの人も多い。

8月13日(金) 鉄道の切符を買いに駅へ。マテオーリ広場からバスに乗る。サンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会へ行くつもりでさらにバスに乗ったらアシジに戻ってしまった。仕方がないので、そのままアシジを一周して駅を通過し、次に皆が降りるところで降りた。
しばらく歩くと教会。明るく静かな世界だった。お昼。ポルチウンクラは陽を受けて、闇の中にも光。光の下に座りたかったけど、床の上には数人の人たちと、椅子には寝ているかのようにうつぶせた人たちが座っていた。何やら立ち去りがたいものを感じたので、娘を座らせ、私も反対側の席に座る。気が付けば、皆が祈っていた。しばらくそうしているうちに、私の隣にひざまずいて祈る人が不意に現れたので驚いて眺めると、狭い部屋の中は祈る人たちで埋め尽くされていた。
娘を起こし、(というのはポーズは祈り人であったけれども、彼女が言うにはとても眠たくて寝ていたのだそう。)教会の出口へ向かう。何か後ろ髪を引かれる気がして戻る。強烈な光がポルチウンクラの横。私はその中に入りに戻った。
午後、サンタ・キアーラ。皆の後を着いて、階段を下りた。何気なく小窓を覗いたとたん、静止した世界の中に横たわるシスターが眠っているのが見えた。
夕方、サン・フランチェスコ大聖堂の購買へ向かい、日本語の小冊子と小物を娘のために買う。
ちなみに、サンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会のすぐ横にバス停があることに気がついたのは、帰りのバスに乗ってからだった。

8月14日(土) アシジ駅。ベンチの隣に座ったおばあさんはラテン。言葉は通じないのだけれど、言葉が通じてしまう。3人で、サンタ・マリア・デリ・アンジェリを眺めながら、「ポルツィウンクラ」。急に静かになったと思ったら、一枚のカードを眺めている。「パッパ、マンマ」。おそらくは、聖フランチェスコと聖キアーラの絵。家族の写真を持ち歩くようにいつも持ち歩いているのがわかる。それくらい古い。ミラノから一人で巡礼。

プロローグ。
空は狭く、遠い。

フィリピの信徒への手紙 4. 21-23 結びの言葉

そだそだ・・・パラッツォから行け、だった。

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